あやかし養生所は眠らない
中園真彩
第1話 たぬきの交通事故
「お願い薬師寺さん、契約延長して~!」
とある総合病院の呼吸器内科病棟で、派遣看護師である私は看護師長に泣きつかれていた。
看護師長は四十代半ばの女性。二十五歳の私は、「いやいやいや~」と曖昧に笑って逃げようとしている。
冗談じゃない。働いてみてわかったけど、こんなに嫌な職場は初めてだった。これ以上契約を伸ばすなど、絶対に考えられない。
「すいません、私、結婚して遠くに行くんですっ。ではっ」
しつこい師長を振り切り、病棟を出ていく。背後では、まだ働いている看護師がたくさんいた。
「あっ、実久瑠さん行っちゃう!」
「また来てね~!」
「お世話になりましたぁ」
看護師は自分の仕事をしながら、口々にこっちに別れの言葉を投げかけてくれた。
「こちらこそ、お世話になりました!」
私はみんなに手を振り、病棟を後にした。
みんな、いい人だったなあ。
エレベーターホールで病棟のナースコールの音を遠くに聞きながら振り返る。
そう、人はよかった。たまに気難しい人とか、人としておかしな人もいたけれど、基本的にイジメもなく、みんなで協力し合って仕事ができていた。
じゃあどうして辞めるって? ずばり、人が少ないのと、パワハラがあったから。
まずひとり頭の仕事量が半端なかった。四十五床ある病棟で、日勤の看護師ひとり頭六人も七人も受け持ち患者をつけられる。
他の病院や病棟では、ひとり三~四人程度が普通だ。あんまり受け持ち患者が多いと、回り切れないどころか、忙しすぎて事故が起きる可能性もある。
だけど、病院側はいざ事故が起きるまで、人員体制を見直そうとはしない。忙しい病棟もそうでない病棟も、平等に看護師を配属する。
どこでもそうなのかもしれないが、上は現場の状況をわかっていない。
看護師が心身共にすり減らして頑張っているのに、上……つまり看護局は「もっと能率を上げて残業減らせ」としか言わない。
それに合わせるかのように、師長も「定時で帰るという気持ちを持って、頑張りましょう」と、休憩室に看護師別の残業時間表を貼り出す始末。
なんだよ気持ちを持つって。重複表現じゃないのか。
しかも師長のパワハラは止まらない。看護師から見たら「そこ気にするより、他にやることあるだろ」と思う、重箱の隅をつつくような嫌味で看護師の足を止め、長々と説教する。
夜勤明けだろうが関係なく、自分が気になったことを解消できるまで、延々と長話をするのだ。
派遣の私はほぼ被害に遭ったことはないが、インシデントを起こしてしまった新人などは、首がぽっきり折れるのではないかと思うほどうなだれて師長の暴言シャワーを浴びていた。しかも同じような光景を何度も見た。
まあそういうわけで、ここは師長が変わらない限り地獄だなーと思った私は、早々に足を洗うことに決めた。
更衣室で病院のユニフォームを脱ぎ捨て、下着姿になる。上からぱっぱと服を着て、誰にでもなく言った。
「お疲れ様でしたー」
脱ぎ捨てたユニフォームは院内で洗濯し、次の派遣に回される。私はランドリーボックスにユニフォームを投げ入れ、大股でその場から去った。
「さーて、これからどうするかな」
辞めたはいいものの、次の派遣先は決まっていない。
正看護師の資格を持っているので、引く手は数多あるのだけど、しばらく休みたいとも思う。
それくらい、人手不足の病棟はしんどかった。看護師の仕事が好きな私でも、しんどかった。
「どうせなら、やったことのない仕事がしたいな」
バスに乗り、自宅の最寄り停車場で降り、てくてくとコンビニに向かう。
夕食は作らない。というか、自炊、一切しない。そんな暇があるなら看護の勉強をしたい。
私、薬師寺実久瑠は、今二十五歳。五年制の高等専門学校卒業時に看護師の国家試験に合格した。
その後三年、市立の総合病院に勤めた。消化器内科病棟から救急外来に異動になったりしたけど、仕事は楽しかった。
ただ、病院の古臭く堅苦しい体質にはついていけなかった。
今思えばどこの病院だってそうなのだけど、まあとにかくバカバカしい決まり事とか、上下関係とか、そういうのが急に嫌になって辞めてしまった。
それからは派遣として自由気ままにあちこちの病院を渡り歩いた。
経験したことのない科に配属されるのが楽しかった。私は新しいことを学ぶのが、どうも好きらしい。
三か月働いて、ちょっと一人旅して、また働いて……を繰り返して今に至る。
派遣先で毎回「正職員になってよ」と詰めよられるのだけど、やっぱり組織に縛られるのが苦手なので、断り続けている。
「正職員になった方がいいのはわかってるんだけど……ねぇ」
コンビニでトマトパスタときのこスープを買った。エコバッグに入れ、家までの道を急ぐ。
ひとり暮らしのアパートは、歩いてあと十分くらいだ。
病院を出ると話し相手がいないので、自然と独り言が多くなってしまう。って、私はおばあちゃんか。
数メートル先の横断歩道の信号が点滅していた。走って渡り切るのも面倒なので、ゆっくり歩いていると。
「ぬうっ!?」
エコバッグを持っていた右手が、突然強い力で引っ張られた。ビックリして見ると、小学校低学年くらいの少年が、エコバッグをひったくろうとしている。
「なにすんの!」
少年だろうと、ひったくりは悪いことだ。そしてこれを奪われたら、私はコンビニに戻らねばならない。そしてもう一度お弁当とレジバッグを買わねばならない。もったいないし、面倒臭い。
大きな声を出して威嚇すると、少年はビクッと痩せた体を震わせ、こちらを見上げた。
黒く短い髪、浅黒い肌。まつ毛や眉毛が濃いせいか、目の周りがより黒っぽく見える。
「チッ」
諦めたのか、少年はエコバッグから手を離した。そして、風のような速さで横断歩道の方へ走っていく。
「ちょっと、ま……」
点滅信号が、赤く変わった。勢いがついた少年は止まらない。
青信号を横切る車が、少年の脇腹に衝突した。少年は宙に跳ね上がり、歩道まで転がった。すべてがスローモーションで見えた気がした。
「うわああああっ!」
我に帰り、少年に駆け寄る。はねた車はそのまま行ってしまった。なんということだ。
とにかく、助けなければ。
倒れた少年に駆け寄り、私は目を疑った。
「え……っ?」
歩道に転がっていたのは、少年ではなかった。茶色い、毛だらけの生き物。
「い、ぬ……?」
そっと寄り添い、しゃがみこむ。よく見ると、生き物の耳は丸っこく、手足は短い。そして目の周りには黒い模様があった。
「たぬき? キミ、たぬきだったの?」
びっくりだ。たぬきは様々なものに化けるというけど、よもや人間に化けるとは。
きょろきょろと周りを確認するが、少年らしき姿はどこにもない。
こんなこと、現実にありえる?
じっと転がっているたぬきを見つめると、目の上……人間で言うと眉毛の位置あたりが、赤く染まっていた。
「切れたの? ちょっと見せて」
たぬきは抵抗する力も出ないらしく、ぐったりしている。
体毛に隠れて傷口がよく見えないけど、多分裂傷ができているのだろう。横に五センチくらいで、たぬきの顔面に対しては大きな傷だ。
傷口から、新たな血液がじわりと溢れてくるのが見えた。このままではいけない。
「止血するよ」
たぬきに人間の言葉が通じるかはわからない。けど、職業柄、患者には常に話しかける癖がついている。
私はたぬきの傷口を、人間にするのと同じようにして指で圧迫した。通行人がこちらをちらちらと見ていくけど、声をかける人はいない。
人間がひかれていたら救急車にを呼ぶ。でも動物は放置するのが当たり前なのだろう。私自身、動物の救命作業は初めてだ。
「うーん……。動物病院に連れて行こう!」
迷ったけど、そう決めた。今目の前にいるのはたぬきなのだから、動物病院が妥当だろう。
見たところ、まだ息がある。お腹が呼吸で上下している。
傷口を抑えたまま、たぬきを抱きかかえようとしたとき、誰かが言った。
「お願い……狐守さんのところに連れて行って……」
こもりさん? 誰それ?
顔を上げる。振り返る。しかし近くには誰もいない。
首を傾げた私に、誰かはもう一度言った。
「狐守さんは……神社の裏……森の……中……」
たぬきの口がパクパク動いているのが、視界の端っこに見えた。
「まさか」
子供みたいな幼い響きの、小さな声だった。しかし近くに人はいない。だとしたら。
「キミが話したの?」
たぬきはぐったりしている。ハアハアと荒い息をし、鳴き声も発さない。
信じられない思いでたぬきを見つめた結果、私は立ち上がった。
腕の中には、傷ついたたぬき。右手は止血のため、たぬきの血液で汚れていた。
「こもりさんね。森の中にいるのね」
たしかにここはもともと山や森だったところを削って作った住宅地。
しかし神社とは?
看護師になってから仕事と勉強に明け暮れ、近所を散歩したこともない。バス停とコンビニを知っていれば十分生活できたからだ。
「動物病院より、そこがいいのね?」
確認すると、たぬきは渾身の力を振り絞ったようにうなずき、動かなくなった。
「わかった」
とはいえ、目的地の場所もわからない。スマホで近くの神社を検索しようと考えた瞬間、目の前に木の葉がひらりひらりと舞い落ちた。
木の葉を視線でとらえた刹那、それは緑色の矢印に変わった。
「は!?」
唐突すぎて驚いた。ゲーム画面のように、大きな矢印が宙に浮いている。
「もしかして、これが案内してくれるのかな」
矢印が指す方向を向いて歩き出すと、浮いていた矢印が高速で動き出した。早く来いと言っているように。
「……ええい、ままよ!」
不思議な出来事が重なり、脳の許容量が限界を超えた。
不思議なたぬきを助けるためには、不思議な現象を受け入れ、ついていくしかなさそうだ。
私はたぬきを抱きかかえ、矢印が指す方向に走り出した。
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