第16話 再開

 生活費が底をつき、またIT企業での仕事を再開して少し経ったある日、突然、彼女、佐野さのさんから連絡があった。

 会って話がしたいと言う。俺は二つ返事でOKをした。ただ、何の話だろうという不安はあった。

 彼女に最後に会ったのはいつだっただろう。もう、3年近く経過しているはずだ。

 それは、非常に風の強い冬の嵐のような日だった。俺の不安を煽るように風が吹きつける。空は曇天どんてん。分厚い雲が、今にも落ちてきそうなほど低く頭上を覆っていた。

 小説家にでもなっていれば、少しは自信を持って彼女に会うことができただろう。しかし、今の俺は以前と何も変わっていない。年をとった分、以前よりもマイナスかもしれない。それでも彼女に会えるというだけで嬉しいのも事実だった。

 俺は彼女の仕事場の最寄り駅まで出かけて行った。彼女は待ち合わせの時間通りにやってきた。俺を見つけて、駆け寄ってくる。

「久しぶり」

「お久しぶりです」

 彼女はそう答えてくれたが、明らかに浮かない顔をしていた。俺の胸が締め付けられる。一体、どんな話なのだろうか。

 俺たちは少し歩き、手頃なベンチを見つけると、腰を掛けた。

「それで、話って?」

「……」

 彼女は答える代わりに、大きなため息を吐いた。うなだれて、地面を見つめている。

 言う気がないのか、まだ話す勇気がないのか、それとも、どう話していいのか考えているのか。彼女は話出さず、ため息を繰り返すばかりだった。

 俺は何も言わずに、彼女が話し出すタイミングを待った。

 彼女のため息が10回を超えると、やっと彼女は話を切り出した。

「私、病気なんです」

「……病気?」

 思いもしない内容に俺の声は思わず裏返った。そして、これからどんな話が待っているのだろうと、不安が増大した。

「初めは、コミケでした。年末にコミケをやっているのは以前お話ししましたよね?」

「うん。そこでコスプレをするんだよね」

 彼女はゆっくりと頷く。

「今回も3日間あるうちの2日間参加したんです」

 俺は頷いて話の先をうながす。

「何ヶ月も前から準備して、当日、私とんでもない忘れ物をしちゃったんです」

「忘れ物?」

「はい、当日するコスプレのキャラのウィッグを家に忘れて会場に行っちゃったんです。何度も確認したはずなんですけど……」

 ウィッグというのは、いわゆるカツラのことだ。アニメキャラに黒髪は少ない。ピンクや青、緑と色とりどりの髪の毛をしていることが多い。コスプレをするのにいちいち染めるわけにもいかないし、イメージ通りの色にならないこともあるだろう。それで、ウィッグを被る。ある意味、コスプレで一番大事なパーツと言えるかもしれない。

 それに、コスプレには併せというものがある。年末のコミケと言えば、ニュースで取り上げられるほど大きなイベントだ。当然、併せもあるだろう。そこに当日、急に参加できないと言う人物が現れたら、相当のひんしゅくを買いそうだ。まあ、わざとではないだけ、納得してくれる人もいそうではあるが。

「そうなんだ……。それじゃ、当日、コスプレできなかったんだ」

 彼女は無言で頷く。

「3日目も、家に当日のキャラの衣装のパーツを忘れちゃって……」

「2回とも?」

「はい……。3日目は完全じゃないですけど、それでもなんとかコスプレできましたけど。それで、家に帰ってから彼氏に言われたんです。最近、おかしいって……」

「おかしい?」

「自分では気付いていなかったんですが、コミケの前にも家の鍵を閉め忘れたり、お風呂を出しっ放しにしたりが続いていたみたいで……」

 風呂の出しっ放しぐらいは俺の家でもちょこちょこある。家の鍵を閉め忘れたかも?ってことだってたまにはあることだ。

「彼氏が最近あまりに多いから、病院に行こうって連れて行かれたんです。そうしたら、若年性アルツハイマーの前段階のMCI、軽度認知障害だって……」

「軽度認知障害……」

 俺は頭をハンマーでぶん殴られたような衝撃が走った。心臓の音が耳元で鳴っているかのように聞こえる。

 MCIは、何かで聞いたことはあった。それ以上、症状が進まないことだってあるはずだ。

「あんまり深刻に考えない方がいいよ。俺だって、うつ病だし。持病がある人間なんて普通なんだから」

 俺は思いつく限り、精一杯の励ましを言った。正直、本人ではないので、それがどれほど辛いのか分からない。でも、何かしら協力できることはしたかった。

「でも、彼氏が……」

「そうだよ。彼氏がフォローしてくれるでしょ?」

 彼女はゆっくりと首を振った。

「そんな病気の人間とは一緒にいれないって……」

 彼女はそう言って、声を殺して泣き出した。

 俺は無性に腹が立った。そういう辛い時に一緒にいてこその彼氏ではないのか。いくら籍を入れてないとはいえ、数年間は一緒にいた彼女に対して、幾ら何でもそれは冷たすぎやしないか。

 俺は彼女にタオルを差し出すと、彼女を抱きしめた。他人に泣いているところを見られないよう、隠すように。頭を優しく撫で、彼女が泣き止むのを黙って待った。

 全てを吐き出した彼女は、しばらくすると落ち着いた。泣いたせいで瞳は真っ赤だったが。

 俺に何ができるだろう。励ますことしかできないのだろうか。自分の無力さが身に浸みた。

「大丈夫だよ。俺はずっと佐野さんの味方だから。ずっとずっと味方だから」

 俺にはそれだけしか言うことができなかった。

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あなたに読む恋文〜小さな恋のうた〜 柿沼進一 @hisagi001

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