第63話 宝亀五年四月 平城帰京
任期はまだ二年以上残っている。しかし、春の
着任当時は在郷の者らとの衝突が頻繁だった。国府側から見れば、国司など数年後には出て行く余所者だ。幾ばくかの旨い汁を吸わせてさっさと追い出す。露骨な態度は言葉にも態度にも表れる。必要以上の富や人を与え、何か見たところで知らぬ振りで過ごせ。これまでの着任者もこの懐柔策を受け入れたと見える。
同じ筑紫でも北の端と南の端、責任を負わずに過ごした
そして初年とは格段に違う二年目に入った。その半ば、次の着任者の名を告げられる。都合よく考えれば、都に戻って来いと要求されている。
今の国府内の人事は決して悪くない。
こうして一年半ぶりに
家族は私の帰京に一瞬だけ喜んだ。親しい者らは駆けつけで祝いを言いに来てくれた。そして、その客人が帰ったと見ると、
「兼ねてより近衛少将様が、兵部卿様か右大弁様に、
近衛少将とは
「分かった。いずれも面識のない方々ではない故、早々に話をしに行く。だが、種継はさっき帰ったばかりだろうに」
さすがの室でも、大勢の祝い客の前では、私事を頼む機会を逸したらしい。
「しかし俺としては、右大弁や兵部卿の前に、挨拶に行かねばならぬ御方がいる。これより、
「北一条第では御座いませぬでしょう。今は内裏におられますわよ」やはり勝手知ったる室は平然と言う。
内裏の事となれば、一番、話が通しやすいのは姉だ。今や
「おまけに、更なる
喜んでいる訳ではない、本気で嫌がっている。長年の付き合いで、その程度の表情は分かる。
私たちが今いるのは、かつて他戸親王を度々尋ねた殿だ。暑い盛りなので戸を開け払い、風通しの良い縁に出て、舎人たちを適度に遠ざけて話をする。
「北一条第には、
「
「
「
やはり喜んではいない。むしろ不満そうだ。子供の頃から叔父上様の妃になると言い続けた女王に袖にされたとあって、今更に矜持が許さないのだろうか。相変わらず、変なところに素直でない。
互いの近況報告に一段落し、
その報告を聞く山部親王の顔つきは、先程とは打って変る。立太子して一年余、官界時代とはまた違った気力が充実している。噂では、未だに太政官に出入りしては、参議らを叱咤している。
内裏から戻ると、藤原式家の近衛少将から使いが来たと
おかげで室や女たちが喜んでいる。種継は我が家の女たちに随分と人気がある。以前からなじみの二人が来るだけだというのに、
そして今宵も勝手に宴会が始まる。見越していたのか仕組んだのか、種継からの差し入れは、家族のみならず
夜が更ける頃には女子供は奥に引き上げ、資人らもそれぞれの持ち場で宴の続きを楽しむ。この様子では、明日の朝は大方の者が仕事になるまい。室が出資を休むか否かは分からないが、私は有難い事にまだ休暇中だ。それを踏まえ、
「
「益人というは、
「もう
「都に戻って来たのか」
「ああ。昨年の夏頃からか、紀寺に頻繁に出入りしていた。今は都の外に放逐され、
嫁とは紀寺にいた
「益人だけではない。あれと共に良民になった者らは、全て元の奴婢に返されて紀寺の持ち物に戻った」打って変わり、どこか複雑そうな面持ちと声音で言う。
「そうだったのか……」
益人らの訴えの言葉尻に乗って、自分たちも良民だと主張した者もいたと、益女は言っていた。これも先代の政策を糺す一環として行われたものか。
「益人だけは良民のままで氏を与えられた。故に、宇智に行く事も適った訳だ」
「何故、宇智になど」
「そうか、
「他戸親王が宇智におられるのか」
「ああ、そうだ。他戸様は紀寺の僧侶らから、様々な事を学ばれていた。熱心で優秀だった。教え甲斐もあると、学僧らも認めていたそうだ。いずれは
しみじみ言う種継の膝の上に、起き上がった猫がよじ登る。この猫は私を忘れているようで、顔を見るたびに逃げ回る。これはこれで寂しいものだ。
「紀寺としても他戸親王を手放しとうは無かった。いずれ罪を許されたなら、正式に得度して頂き、住持として迎え入れたいとすら思うていた」船守が額を抑え、篝火を眺めながら言う。
「宇智に身柄を移されたのは、やはり、益人のような良からぬ輩が近付くためか」
益人には、皇家や皇嗣をどうしようという考えもないだろう。
「そうだ。親王は学侶見習いとして、寺の内におられる事が多かった。寺への訪問者や
「言いとうはないが、藤氏でも北家の一部や京家が、つまらぬ動きを臭わせる。そうした輩のために、別の派閥から命を狙われる羽目にすらなる」種継は膝の上の猫を撫でつつも言う。
大炊親王は淡路にいても、そのような者から命を狙われ、逃亡を図った末に殺された。同じ事が宇智でも起こらないとは言えまい。種継にしてみれば、決して他人事ではない。藤氏の内での勢力争いでもある。
「宇智郡で没官となった屋敷を南家が手に入れ、
「今は
「実を言うと、他戸様は既に宇智にはおられない。
種継にとっては、皇太子になっても山部親王は若翁のようだ。
「ところが開成様の行方がはっきりせぬ。
「糸の切れた何とやらだと、若翁が羨んでおられたよ」
「若翁も皇太子になって以来、自由になる時間がないと不満全開だな」
船守も珍しく、山部親王を若翁と呼ぶ。近衛府での上官時代が懐かしいと見えるのは、私も同様だ。
「井上内親王様は御一緒なのか」
「いいや、宇智の屋敷に残っておられる。他戸様の出奔以来、御加減が優れぬと聞く。益人が宇智にいるのも、井上様のためなのだろう」
種継の溜息で、この話題は自然と立ち消えになる。そして何の風の吹き回しか、猫が立ち上がって私の膝の上に来る。ようやく主を思い出したかと、船守に揶揄され、話題は私の豊前国での任務となる。国府の事、宇佐八幡社の事、大宰府の事、そして
龍の眷属 吉田なた @shima_nata_tamu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。龍の眷属の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます