第63話 宝亀五年四月 平城帰京

 任期はまだ二年以上残っている。しかし、春の県召あがためしで後任の豊前守ぶぜんのかみが決まった。

 着任当時は在郷の者らとの衝突が頻繁だった。国府側から見れば、国司など数年後には出て行く余所者だ。幾ばくかの旨い汁を吸わせてさっさと追い出す。露骨な態度は言葉にも態度にも表れる。必要以上の富や人を与え、何か見たところで知らぬ振りで過ごせ。これまでの着任者もこの懐柔策を受け入れたと見える。遠国おんごくとはいえ上国じょうこく、田畑も豊かで、海上交通の要となる津も有し、ふところを潤すには持って来いだ。

 同じ筑紫でも北の端と南の端、責任を負わずに過ごした大隅国おおすみのくにとは違う。この度は客人まろうどではない、国司として期待された身だ。最初の頃は、いささか肩に力を入れ過ぎた。高圧的に命令ばかりしていた。その内に頭を下げる事を思い出した。都ではいとも容易く出来ていた行為だ。少しばかり下手に出れば、態度が緩む者も多少はいる。半年も経つ頃にはこちらの要求が、わずかながらも通るようになった。これまでがおかしいと気付く者が増えれば、少しずつでも改革は始まる。一年経つ頃には、隣国や大宰府だざいふの顔色を窺わぬ、独立した豊前国としての意識が戻って来た。身の内を無視し、離れて威張り散らす者らに迎合するなど愚かしい。相手が都でも大宰府でも同様だ。在地の者ほど、これを思い出すのが早い。地方出身者の私自身も、長らく忘れていた意識だった。

 そして初年とは格段に違う二年目に入った。その半ば、次の着任者の名を告げられる。都合よく考えれば、都に戻って来いと要求されている。

 今の国府内の人事は決して悪くない。すけはやや頼りないが、寡黙だが人望のある辣腕らつわんじょうと、勝手を良く知る在地任用のさかんに後を託せば、今までの苦労が済し崩しになる事もないだろう。

 こうして一年半ぶりに草野津かやのつで船に乗る。到着した時には残暑で蒸し暑かったが、後にする今は初夏に向かう日が眩しい。


 家族は私の帰京に一瞬だけ喜んだ。親しい者らは駆けつけで祝いを言いに来てくれた。そして、その客人が帰ったと見ると、しつは態度を一変させ、息子の加冠を早くして欲しいと要求する。

「兼ねてより近衛少将様が、兵部卿様か右大弁様に、加冠こうぶりの御役を御頼み下さると言われておりましてよ」何やら誇らしげに言う。

 近衛少将とは藤原種継ふじわらのたねつぐで、叔父御の藤原蔵下麻呂くらじまろか藤原百川ももかわに、加冠役を頼んでやると安請け合いをしているという訳か。ちなみに、蔵下麻呂は先に兵部卿に就任した。真っ先にやって来た紀船守きのふなもりが、近衛大将が藤原北家の魚名うおなになってやり難いと零していた。

「分かった。いずれも面識のない方々ではない故、早々に話をしに行く。だが、種継はさっき帰ったばかりだろうに」

 さすがの室でも、大勢の祝い客の前では、私事を頼む機会を逸したらしい。

「しかし俺としては、右大弁や兵部卿の前に、挨拶に行かねばならぬ御方がいる。これより、北一条第きたいちじょうだいに使いを遣って、都合を窺わねばならぬよ」

「北一条第では御座いませぬでしょう。今は内裏におられますわよ」やはり勝手知ったる室は平然と言う。


 内裏の事となれば、一番、話が通しやすいのは姉だ。今や内侍司ないしのつかさに君臨する古手の一人として名を馳せている。夕刻前に人をやって伝手を頼めば、暗くなる前に春宮舎人とうぐうとねりが返事を持って来た。

 皇太子ひつぎのみこは明日、明後日の内に顔を出せと命じている。使いの舎人に、明日の午後に伺うと言付け、とりあえず支度をする。


 他戸親王おさべのみこの廃太子の後、天皇は一旦、内裏に戻った。東宮院を新たな皇太子に渡すためかと思いきや、楊梅宮やまもものみやの更なる改修を命じた。この辺りまでは私も知っている。そして、私が任国に発った後、山部親王やまべのみこの立太子が正式に決まった。

 天皇すめらみこと春宮殿とうぐうでんを引き続き内裏に置けと命じる。内裏は皇太子が好きなように使えば良いと言う。そして楊梅宮の改修が済むと、意気揚々とそちらに帰って行った。恨みがましく、それを教えてくれるのが山部皇太子だ。

「おまけに、更なる親王みこ内親王ひめみこが必要というなら、それは皇太子に頼めば良いなどと、平然と宣うてくれる。おかげで、娘と年の変わらぬ妃候補が、日に夜を継いで押し掛ける始末だ」

 喜んでいる訳ではない、本気で嫌がっている。長年の付き合いで、その程度の表情は分かる。

 私たちが今いるのは、かつて他戸親王を度々尋ねた殿だ。暑い盛りなので戸を開け払い、風通しの良い縁に出て、舎人たちを適度に遠ざけて話をする。

「北一条第には、何方どなたかおられるのですか」

能登のとと子供たちがそちらに移った。まあ、五百井いおいは内侍になって、内裏に出仕しておるが」

五百井女王いおいのひめみこ様は、御妃になられたのでは」意外と思い、つい聞き返す。

大臣宮おとどのみやの妃なら希望するが、皇太子妃など真っ平だと」

 やはり喜んではいない。むしろ不満そうだ。子供の頃から叔父上様の妃になると言い続けた女王に袖にされたとあって、今更に矜持が許さないのだろうか。相変わらず、変なところに素直でない。

 互いの近況報告に一段落し、豊前国ぶぜんのくにでの話になる。国府や郡衙ぐんがにはびこる宇佐社への目こぼしや過剰な上納、神人じにんらの勝手な出入りを禁じた事、宇佐社から太宰府所属の者を追放した事など、よくぞ一年そこらで果たしたものか、我ながら大したものだと思う。

 その報告を聞く山部親王の顔つきは、先程とは打って変る。立太子して一年余、官界時代とはまた違った気力が充実している。噂では、未だに太政官に出入りしては、参議らを叱咤している。


 内裏から戻ると、藤原式家の近衛少将から使いが来たと宅司いえつかさが言う。それによると、良い酒が秦氏はたうじから届いた故、今宵、紀船守と共に再び表敬訪問する。

 おかげで室や女たちが喜んでいる。種継は我が家の女たちに随分と人気がある。以前からなじみの二人が来るだけだというのに、炊屋かしきやでは既に夕餉ゆうげの準備に忙しい。

 そして今宵も勝手に宴会が始まる。見越していたのか仕組んだのか、種継からの差し入れは、家族のみならず資人とねりらに行き渡るほどある。更には皇太子の元からも祝いの菓子が、室を始めとした女たちに届いた。これに舞い上がらない訳がない。かくして誰が主役か、ほぼ忘れられた宴となる。

 夜が更ける頃には女子供は奥に引き上げ、資人らもそれぞれの持ち場で宴の続きを楽しむ。この様子では、明日の朝は大方の者が仕事になるまい。室が出資を休むか否かは分からないが、私は有難い事にまだ休暇中だ。それを踏まえ、かがりの灯りが届く縁に脇息を持参して座り込む。ひさしの柱には、種継と船守がそれぞれにもたれ掛かる。二人の間には、我が家の赤い猫が丸くなって眠っている。篝番の者は、薪だけを置いてどこかに消えている。呼びつけるのも面倒なので、火が消えたらこちらも退散するとしよう。幸いにして火籠の内の薪は充分に残っている。

益人ますひとの消息は聞いておるか、御身おみ」大して酔ってもいそうにない様子で船守が話しかける。

「益人というは、紀益麻呂きのますまろの事か」

「もう紀氏きうじではないよ。呪詛ずそへの関与を問われて、官位も氏性も剝奪された」何の感慨もなさそうな口調だ。

「都に戻って来たのか」

「ああ。昨年の夏頃からか、紀寺に頻繁に出入りしていた。今は都の外に放逐され、田後部たしりべ益人を名乗っておる。嫁らしき女と、どうやら宇智うち辺りにいるようだ」

 嫁とは紀寺にいたはしためだろうか。聞いたところで知らぬと言うだろう。そういえば、益女も豊前国にいる間、一度も出て来なかった。おかげでこの兄妹の存在を忘れていた。

「益人だけではない。あれと共に良民になった者らは、全て元の奴婢に返されて紀寺の持ち物に戻った」打って変わり、どこか複雑そうな面持ちと声音で言う。

「そうだったのか……」

 益人らの訴えの言葉尻に乗って、自分たちも良民だと主張した者もいたと、益女は言っていた。これも先代の政策を糺す一環として行われたものか。

「益人だけは良民のままで氏を与えられた。故に、宇智に行く事も適った訳だ」

「何故、宇智になど」

「そうか、他戸親王おさべのみこの事も、御身は聞いておらぬようだな」種継が横から言う。こちらは相変わらず、全く酔っていない顔つきに見える。

「他戸親王が宇智におられるのか」

「ああ、そうだ。他戸様は紀寺の僧侶らから、様々な事を学ばれていた。熱心で優秀だった。教え甲斐もあると、学僧らも認めていたそうだ。いずれは開成かいじょう様に倣って出家するおつもりだった」

 しみじみ言う種継の膝の上に、起き上がった猫がよじ登る。この猫は私を忘れているようで、顔を見るたびに逃げ回る。これはこれで寂しいものだ。

「紀寺としても他戸親王を手放しとうは無かった。いずれ罪を許されたなら、正式に得度して頂き、住持として迎え入れたいとすら思うていた」船守が額を抑え、篝火を眺めながら言う。

「宇智に身柄を移されたのは、やはり、益人のような良からぬ輩が近付くためか」

 益人には、皇家や皇嗣をどうしようという考えもないだろう。

「そうだ。親王は学侶見習いとして、寺の内におられる事が多かった。寺への訪問者や寺奴てらやっこの振りをして近づく者が度々いたらしい。あの大炊親王おおいのみこと同じだ。本人は皇位にも皇族である事にも未練はない。旧態依然の下心を持って近づく者には、本人の意思などかえって邪魔だ」

「言いとうはないが、藤氏でも北家の一部や京家が、つまらぬ動きを臭わせる。そうした輩のために、別の派閥から命を狙われる羽目にすらなる」種継は膝の上の猫を撫でつつも言う。

 大炊親王は淡路にいても、そのような者から命を狙われ、逃亡を図った末に殺された。同じ事が宇智でも起こらないとは言えまい。種継にしてみれば、決して他人事ではない。藤氏の内での勢力争いでもある。

「宇智郡で没官となった屋敷を南家が手に入れ、井上内親王いのえのひめみこと共に御移り頂いたという訳だが」種継は語尾を濁す。

「今は如何いかがしておられる。皇太子も人を遣わせて、様子伺いくらいはしておられるのだろう」

「実を言うと、他戸様は既に宇智にはおられない。若翁わかぎみも詳しい事を教えてくれぬが、開成かいじょう様とおられる事は確かだ」

 種継にとっては、皇太子になっても山部親王は若翁のようだ。

「ところが開成様の行方がはっきりせぬ。唐律招提とうりつしょうだいですら、何処にいるのか分からないと言う有様だ」船守がようやく笑う。

「糸の切れた何とやらだと、若翁が羨んでおられたよ」

「若翁も皇太子になって以来、自由になる時間がないと不満全開だな」

 船守も珍しく、山部親王を若翁と呼ぶ。近衛府での上官時代が懐かしいと見えるのは、私も同様だ。

「井上内親王様は御一緒なのか」

「いいや、宇智の屋敷に残っておられる。他戸様の出奔以来、御加減が優れぬと聞く。益人が宇智にいるのも、井上様のためなのだろう」

 種継の溜息で、この話題は自然と立ち消えになる。そして何の風の吹き回しか、猫が立ち上がって私の膝の上に来る。ようやく主を思い出したかと、船守に揶揄され、話題は私の豊前国での任務となる。国府の事、宇佐八幡社の事、大宰府の事、そして楉田勝しもとだのすぐりの事、報告すべき話題は山ほどある。

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龍の眷属 吉田なた @shima_nata_tamu

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