第62話 宝亀三年六月 救われた人々
ここは何処なのか、疑問に思うのも何度目か。宇佐の大神の御前で見た夢にも似ている気がする。八幡神とこの女を同列に扱うのも不敬だが、どちらも夢の中だ。そして見ているのが私なのだから、この様に曖昧なのかもしれない。
「それで、何が意外なのだ」
「
「どちらかと言われれば、仲良うはないな。それが意外なのか」
「いいや、
「ああ、その事か」
「妹が枕辺に立って知らせてくれた。
「この度も追い払われかけたから、皇后の危機だと言うたまでだ。
この女に掴み掛る事が出来るのか。そちらが疑問だ。何せ生身は既に、何処ぞで葬られて朽ちている。まあ、互いに夢の中なら可能か。確か異国の話で、好いた女の形見の枕で眠り、夢の中で契り合った云々とあったか。私としては、この女相手にそのような色事は真っ平だが、殴り倒したいと思った事は何度かある。
「惚れた弱みというやつだ、兄者人にしても」胡散臭げな眼を向けて、益女は言う。
私は気を取り直して、とりあえずうなずく。よしんば考えなど読まれたとしても、まあ、今更何という事もない。
「
「ああ、そうだ」
世情をどこで聞くのだろう。人の夢にでも入り込み、情報収集をしているのか。案外、昼日中からその辺りをうろついているのか。色々と疑問は沸く。
「
「皇后のおられる
私がさりげなく頼むと、益女は少しばかり驚いた表情を見せる。
「
「そうだったか」こちらも気の抜けた呟きで返す。
「ああ。そもそも私は、身内以外の者から名前で呼ばれた記憶が殆ど無い。汝なら、かなりましな方だ。おいとか、そこのとか、
「女同士でもか」
「そうだな。ねえとか、なあとか、名前を知らぬ訳でもないのに」
「汝の元の主は何と呼んでいた」
「同じようなものだよ。大方、名を呼ぶだけの存在とも、思うておらなんだのだな。
「まあ、俺も肩書で呼ばれるばかりだが」
宮仕えの身には普通の事なので、ほぼ気にした事はない。
「しかし、皇后や親王のためとはいえ、あの寺に行くのは気が進まぬな。あそこの坊主どもは好かぬ」と、突然話を戻す。
「坊主は苦手か、やはり」
「苦手と言うのか……紀寺の坊主らは何という程ではない。思うにこの後、他戸親王には庇護してくれる御方が現れる。いや、既におられる」
「それは予言か。以前、俺に言うたような」
「その御方には、私などではおいそれと近付けぬ。近づこうものなら、迷うておらぬで次に進めとでも諭される。従わざるを得のうなる」
「いや……汝、何やら嬉しそうだな」
「一層の事、私も他戸親王を守る側になろうか、出来るものか分からぬが。あの御方は、私などでも導いてくれるのだろうか」
意外だが益女の表情は、何かに憧れる少女のように見える。浮世に留まり悪態をつくのに飽きて、人並みの成仏を望んででもいるのだろうか。私は下を向いて、密かに溜息をつく。
「つまり、その御方というのは」言いながら顔を上げる。
私の目の前には誰もいない。
「おい、
こちらも悪態をついて見回すが、
「汝、
今度はあからさまな溜息をもらす。
他戸親王を皇太子から退けるという
そして同日の夕刻、私は
「他戸は父上の子で私の弟だ、間違いない。
言葉にする事で陰の気を吐き出したいのか。山部親王にしてはいつもより饒舌だ。
「
お決まりの様に一人称が私から俺になる。珍しく酒に飲まれていると見える。
「御身様は弟御をその運命から救われた、そのように自負されるべきでしょう」右大弁は涼しい顔で言う。
酒が飲めないと言うこの人は、
「俺は自らをもう少し非情になれると思うていた。傍から見れば、俺が他戸や皇后を追いやった。しかし実のところは、詰まらぬ
「それは買い被りというものです」またも右大弁は静かに応える。
「何が買い被りか」疎まし気に聞く。
「陰口を言われるのも、手を汚すのも我々の役目です。実際がどうであれ、御身様のために我々が非情な手段に出た。後にそのように言われれば、こちらとしても買いかぶられたと笑えます」
「捻くれた考えだ、御身にしても俺にしても」
親王は小さく笑い、右大弁はうなずく。笑う機会も答える言葉も逃して、私は相槌の振りで坏を口に運ぶ。
施行日は七月一日、今月中には筑紫に入りたい。
出立日が迫れば、壮行会の声が自ずと上がる。右京の
過ごした故に酔い覚ましだと山部親王は言い、私を誘って庭に降りる。しかし、先日の飲み方に比べれば、殆ど飲んでいないように見える。池の
「いつぞに御身が上げた陳情を受けて、大宰府管内の人事も徐々に変わりつつある」猫の傍らに腰を下ろして親王は言う。
私はうなずき、猫を挟んで横に座る。木陰の大半は猫に占領されているので、私は半ば日に晒される。
「この後は、御身が自らに断行して行け。期待しておる」
「御期待に副えるよう、尽力致します」
「御身には公私に渡り、様々な苦労を掛けた。しかし、これより先の都の内は更にややこしい事態になるだろう」猫の黒い背を撫でながら言葉を続ける。「豊前国が平穏とは世辞にも言わぬ。だが、こことは違う風を受けるのも良かろう。私としては羨ましくもある。いずれ、御身の様に都の内も外も知る人材が必要となろう。その時に備え、新たな英気を養え。今以上に大きく柔軟になって戻って来い」
水面に目をやったまま、どこか独り言のように言う。時々思うが、この人は公務ででもない限り、相手に面と向かって命令をするのが苦手なのかもしれない。
「過分の御言葉を賜り、感謝致します。ただ心残りは、御見様の新たなる御姿を拝する日を逃す事です。来年の正月
親王の横顔を眺めながら、奇妙な満足感を覚える。
「さて、如何なるものか。その時にまだ、中務卿であったなら許せ」
猫の首筋を掻きながら笑う。この照れ隠しの表情を見るのも暫くはかなうまい。
「それは許せませぬ。私が許すと言うても、右大弁や近衛大将、種継や船守も許しますまい。それどころか天皇が一番に御怒りになりましょう」
「いいや、一番は他戸だ」親王が呟けば、猫が顔を上げて一声鳴く。
「然様に。では他戸親王様のためにも、御見様は誰に臆する事も遠慮する事もなく、皇太子の位に御就き下さい。私が任国から戻った日には、真っ先に皇太子にあいさつに参りますゆえに」
他戸親王から最後に受けた命令は、種継らに託さねばならない。これも心残りの一つだ。しかし、豊前国にも託されている仕事がある。
様々な思惑や名目の元でねじれた権利に、宇佐社という信仰集団が関与し、表裏すら分からない状況だ。ここに大宰府までが癒着し、中央までに影響を及ぼそうとする。今までの国司には、こうした所在の分からない権力が立ちはだかり、問題を有耶無耶にして立ち入る事すら拒んできたに違いない。都からの絶対的な地位を得て、本来あるべき権力としての介入をし、然るべき形に治めるのは一筋縄では行くまい。国司の任期四年が長く思えるか短く思えるか。楽観はしないが、決して悲観もしない。
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