第61話 宝亀三年五月 異母兄と異母弟
そして私は、またも皇太子に呼び出しを受け、
「皇太子の事で御出でになられたのですね」
親王のおもむろな問いかけに私はうなずく。先の訪問で親王と皇太子が、どのような話をしたのか、具体的に聞いていない。様子を窺うに、開成親王、中務宮、皇太子の兄弟間では、おおよそ納得しているのではないかと思える。
開け放された食堂には涼しい風が通る。既に日は高く上がって、影は短くなりつつある。木々の枝では夏の盛りを謳歌して、騒がしいくらいに蝉が鳴いている。
「
「噂はこちらまで聞こえてくるのですか」私も務めて平静に問いかける。
「外に出た耳聡い者らが、市井から話題を持ち込むのですよ」
平然と開成親王は言うが、勘繰ればどこか不自然だ。右大臣の命令でいち早く緘口令が敷かれたが、
「
「私もその場に居合わせた一人です。益麻呂に命じた言葉も聞いていました。もう一人、皇太子付きの
蝉時雨に交じって鳥の鳴く声が聞こえる。開成親王は思案顔で、にわかに本尊に目を向ける。
「太政官としては、事故ないし自殺で片を付けたい」再びこちらに顔を向けて言う。
「そうなりましょう。いずれにしても、姉女に同情を寄せる者は殆どおりませぬ」
「その
出家の身とはいえ
「そう、あの女は深い考えもないまま、敵を作りすぎたのです。始末したいと思う者は、あちこちにいたのでしょう」私は御座なりに応える。
「その様子では、公には事故死とされても、大方が殺されたと思うているのでしょうな」相変わらず穏やかな表情と口調で物騒な事を言う。
「確かに状況からは、殺人とは断定できないようです。溺死で目立った外傷もない。半狂乱で宮から飛び出して来た姿を、何人かの
「手を下さずとも、殺す事はできる。その様な類ですか」
「大同小異、そう言う声も聞こえます。果たして本当にできるものやら」
「肝心の噂の主は、またもや消息知れず。既に都を出ているのでしょう」
親王は小さく喉の奥で笑う。この一家に共通する笑い方だ。
「そうでしょうな。いずれは戻って来るやもしれませぬが」
「
「実のところ、誰もがこの件に関して、皇太子の関りを否定したいと思うているようです」
「他戸の要求は、天皇を説得して欲しいという事ですね。あの御方は本当に、人の言う事を聞かない。その辺りは山部や他戸も同様ですが。似た者同士がとやかく言うたところで、平行線をたどるばかりですか」
「御身様は何でもお見通しなのですね」
「誰もが坊主の前では口が軽うなる。以前にも言うた通りです。人に言えぬ愚痴をこぼしに来る者は、一人や二人ではない。それどころか、三日と空けずにやって来る者もいます。おかげで、割の悪い事を預かるのは、いつも私の役目です」妙に楽しそうに親王は言う。
開成親王の情報源の一つは中務宮か。寺に籠る親王にとっても、身内からの相談はうれしい事と見える。再び穏やかにほほ笑む顔を見て、何故なのか私も安堵する。
その翌日、馬も輿も使わずに開成親王は遣って来た。若い僧侶を二人ばかり連れ、玉手門に立つ
衛士が目の前の僧侶と中務宮の関係を知る訳もない。それでも僧侶に
門内の衛士の詰め所で待機を願われ、暫くして七位程度の役付きの者が話を聞きに来た。そこで初めて、四品親王と分かる。衛士の一人が中務省に走り、七位が自ら親王らを中務省に案内する。こうなれば話は早いと思いきや、今度は中務宮が捕まらない。太政官やら東宮院やらを
このような顛末を話好きの同僚から聞いた。書面も使いも通さずに、直々に出向いて名指しをする。この兄弟ならではの人騒がせだ。
それから数日後、またも皇太子より呼び出しを受ける。
昨日に一日降り続いた雨の名残か、時折、黒い雲が上空を行く。幸いにして雨は落ちて来ない。湿気は高いが気温はそれ程上がらず、時折吹く風がありがたい。
春宮殿の
「近い内に、私の廃太子の
このような言葉を待っていたのか、私自身は未だ疑問を抱く。いつまでもこじれたままで時が経ち、人々の意識から波風が収まり、気が付けば幼い皇太子も成人する。山部親王の姫宮を正妃に迎えて子供も生まれ、天皇も譲位を匂わせるようになる。このような未来があっても、良かったのではないのか。そんな甘い考えを持っているのは、私くらいの者か。
「言うたであろう、私は
否定も肯定も求めてはいない。私に望まれる役目は、黙って話を聞く事だ。これを信頼と取っても良いものなのか。いずれにせよ、私のような凡人には返す言葉が思いつかない。
「私はまだ十二歳だ。そんな年で死にとうはない。もしも私が
涼しいせいなのか、いつもの昼日中ならば鳴かない鳥の声が聞こえる。
「以前に兄上に問うた。そしてこの度は、父上にも問いかけた。我ながら酷い問いだと思う。二人ともに明確な答えをしてはくれない、悲しい顔をしていただけだ」
悲しい顔で安堵したのか。井上内親王の廃后には踏み切ったが、他戸親王を廃太子し、断罪するには躊躇していた。親王を皇后の実子でない事を知りながら立太子させた、自らの判断の甘さを今更ながらに後悔しているのか。
こうも官僚らの勢力や姻戚関係が複雑化した今、皇嗣問題は皇家の内だけでは解決しない。権門の後継者争いなどの比ではない。天皇がどの親王を皇嗣と主張したところで、誰もが黙って受け入れるとは思えない。
「ただ兄上は、二人きりの時に言うた、生きるのは私の権利だとね。手本にしたい者がいるのなら、それに倣うのも良かろうと。開成師の事を言うているのだろうね。今までも何度も、唐律招提に行っていた様子だし」
いずれは、この親王までが仏門に入る事になるのか。しかし、僧侶として過ごす二人の異母兄の生き方は違う。長兄は官寺を出て私寺の経営に携わり、更に別の方向も探ろうとする。もう一方の兄は、最大の官寺で修業を積み、いずれは寺を背負う事を期待されている。
「詔は出しても、父上は私をどうするべきか、決めかねておられる。山部兄上や側近らが動いてくれると思う。父上は常々、兄上の事を評価している。迷う事は人一倍だが、最後には自らの判断で動いて来た。それが山部だと。私は兄上の真似をしたかったのかもしれないな。兄上のように、あちこちに支えられながら、人前では弱みを見せないような」
父親は言う、迷う事は人一倍。異母兄は言う、三日と空けずに愚痴をこぼしに来る。右腕とされる臣下は言う、家族に恵まれているために非情になり切れない。いずれ為政者になる人は、いささか情けない姿を近親者に見せる。その様な相手がいなければ、自ら折れてしまうだろう。
「悪いのは誰なのだろう」皇太子は、何処を見るともない視線を投げて問う。
「誰も悪うはありませぬ、もしくは、誰もが悪いのやもしれませぬ」私は思わず、感傷的な答えをする。
「あまり、褒められた答えではないな」案の定、皇太子は笑う。
そして私は、間の悪い思いで低頭する。
「ある者は、父上や兄上を悪者扱いするだろうな。別の者は、母上を誹謗するやも知れない。母の所業が子を追い、兄の欲が弟を追う。父は二人の子を見て兄を選ぶ。親子兄弟の相克など、皇家では珍しゅうもない」
「身内を切り捨てて平気な者など、滅多に居りませぬ」
私が顔を上げて答えると、皇太子は困ったような顔で笑う。
「況してや、そのような者では、他者の信頼を勝ち得る事はできませぬ。天皇と同様、御身様も山部親王を信頼され、新たな日嗣にと望まれた。私達臣下は、このように思えば良いのです」
「なるほど。いずれにせよ、暫くは新たな日嗣選定に揉めるだろう。だが、来年の今頃は山部親王が日嗣の位についている。そうならねば、私が身を引く意味がない。御身らは何があろうと、山部親王を位に即けろ。これが私の最後の命令だ」年若い龍は穏やかに言い放つ。
正午も近い時刻、涼しい風の内に鳥の声だけが少し遠くに聞こえる。
「位を退かれ、御身様は如何なされる御つもりですか」そして私は、気の重い問いを口にする。
「母上の居られる紀寺に入る。その辺りも開成師が、口利きをしてくれるはずだ。益麻呂もあの寺で学んだ。私も願えば学ぶ事はできるだろう」今までに見た事もない程、真摯な表情で親王は言う。
「では私からも、紀船守に打診してみましょう。船守ならば、紀氏の長者以上に寺からの信頼を得ています」
「そうか、御身も良い友人に恵まれているのだな。寺に入れば、交わる者も変わる。そうなれば私にも、御身らのように気の置けぬ友人もできるのだろうか」
「御身様が望まれるのなら、そのような者も現れましょう。人の世は捨てたものではありませぬ」
「そうか、御身と知り合えて良かった。望めばきっと、また御身のような者に出会い、友として付き合う事も出来るはずだな。今更だが、幾重にも礼を言いたい」
低頭する皇太子に対し、三度、頭を床にこすり付ける。まったくだが、弟も弟なら兄も兄で父親も父親だ。この家の方々は、同じような事を言っては私を感無量の思いにさせてくれる。
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