第61話 宝亀三年五月 異母兄と異母弟

 皇太子ひつぎのみこは自らの関与を主張するが、太政官も刑部省も事故死を疑う。そして、皇家に直接関与すると思われる事件に、太政官は相変わらずの緘口令かんこうれいを敷く。

 そして私は、またも皇太子に呼び出しを受け、唐律招提とうりつしょうだいへの使いを命じられる。先には皇太子自ら、中務宮なかつかさのみやと共に寺を訪問したが、今の騒ぎの最中では自由が利かないようだ。


 食堂じきどうの本尊は少し遠くを見てほほえむ。本尊を乗せた獅子の目は何処を見ているのか。笑うように開いた口が更に胡乱うろんな表情を助長する。

 開成親王かいじょうのみこに倣って本尊に手を合わせて低頭する。食堂内にいるのは親王と私だけだ。

「皇太子の事で御出でになられたのですね」

 親王のおもむろな問いかけに私はうなずく。先の訪問で親王と皇太子が、どのような話をしたのか、具体的に聞いていない。様子を窺うに、開成親王、中務宮、皇太子の兄弟間では、おおよそ納得しているのではないかと思える。 

 開け放された食堂には涼しい風が通る。既に日は高く上がって、影は短くなりつつある。木々の枝では夏の盛りを謳歌して、騒がしいくらいに蝉が鳴いている。

県犬養姉女あがたのいぬかいのあねめ殺害を皇太子が命じた、その件でしょうか」ひどく静かに親王は聞く。

「噂はこちらまで聞こえてくるのですか」私も務めて平静に問いかける。

「外に出た耳聡い者らが、市井から話題を持ち込むのですよ」

 平然と開成親王は言うが、勘繰ればどこか不自然だ。右大臣の命令でいち早く緘口令が敷かれたが、春宮舎人とうぐうとねり内舎人うどねりの間では噂として囁かれている。私寺のやっこごときが、宮内の限られた範囲での話を耳にするとは思えない。

紀益麻呂きのますまろに本気で命じた。その様に皇太子は言われているそうですね」

「私もその場に居合わせた一人です。益麻呂に命じた言葉も聞いていました。もう一人、皇太子付きの内侍ないしも聞いています。その内侍も私も、本気の命令だとは思わなかった、いえ、思いとうなかった。私たちから、この事を聞いた人たちもです」

 蝉時雨に交じって鳥の鳴く声が聞こえる。開成親王は思案顔で、にわかに本尊に目を向ける。

「太政官としては、事故ないし自殺で片を付けたい」再びこちらに顔を向けて言う。

「そうなりましょう。いずれにしても、姉女に同情を寄せる者は殆どおりませぬ」

「その命婦みょうぶの噂も聞いております。相当に周囲から恨みを買っていたようですね。先の女帝みかどに近づき、虚言を用いて成り上がった。権力を得た後は、自らに逆らう者を容赦のう追い落として来た。噂のどれ程が真実かは分かりませぬが」

 出家の身とはいえ四品しほん親王のこの人には、かなり厳選された情報源があると見える。

「そう、あの女は深い考えもないまま、敵を作りすぎたのです。始末したいと思う者は、あちこちにいたのでしょう」私は御座なりに応える。

「その様子では、公には事故死とされても、大方が殺されたと思うているのでしょうな」相変わらず穏やかな表情と口調で物騒な事を言う。

「確かに状況からは、殺人とは断定できないようです。溺死で目立った外傷もない。半狂乱で宮から飛び出して来た姿を、何人かの衛士えじや舎人も見ています。そして翌日の夕刻、北の御陵みささぎほりに浮いていた。もちろん、殺害現場を見た者も見つからない。殺害犯とされる紀益麻呂の行方も知れませぬ。事故死や自死だとしても、この男の名が挙がっているだけに、殺されたという噂が面白半分で広まっているのでしょう」

「手を下さずとも、殺す事はできる。その様な類ですか」

「大同小異、そう言う声も聞こえます。果たして本当にできるものやら」

「肝心の噂の主は、またもや消息知れず。既に都を出ているのでしょう」

 親王は小さく喉の奥で笑う。この一家に共通する笑い方だ。

「そうでしょうな。いずれは戻って来るやもしれませぬが」

他戸おさべは他戸なりに、その者らを利用した。次は天皇すめらみこと山部やまべに伝えた事を実行したい」親王は言いながら本尊に向き直る。

「実のところ、誰もがこの件に関して、皇太子の関りを否定したいと思うているようです」

「他戸の要求は、天皇を説得して欲しいという事ですね。あの御方は本当に、人の言う事を聞かない。その辺りは山部や他戸も同様ですが。似た者同士がとやかく言うたところで、平行線をたどるばかりですか」

「御身様は何でもお見通しなのですね」

「誰もが坊主の前では口が軽うなる。以前にも言うた通りです。人に言えぬ愚痴をこぼしに来る者は、一人や二人ではない。それどころか、三日と空けずにやって来る者もいます。おかげで、割の悪い事を預かるのは、いつも私の役目です」妙に楽しそうに親王は言う。

 開成親王の情報源の一つは中務宮か。寺に籠る親王にとっても、身内からの相談はうれしい事と見える。再び穏やかにほほ笑む顔を見て、何故なのか私も安堵する。


 その翌日、馬も輿も使わずに開成親王は遣って来た。若い僧侶を二人ばかり連れ、玉手門に立つ衛士えじに、唐律招提の僧開成と名乗り、中務宮山部親王に面会を求めたいと言った。

 衛士が目の前の僧侶と中務宮の関係を知る訳もない。それでも僧侶に無碍むげな態度をとる訳にも行かないと、上の者に話をつないだ。

 門内の衛士の詰め所で待機を願われ、暫くして七位程度の役付きの者が話を聞きに来た。そこで初めて、四品親王と分かる。衛士の一人が中務省に走り、七位が自ら親王らを中務省に案内する。こうなれば話は早いと思いきや、今度は中務宮が捕まらない。太政官やら東宮院やらを内舎人うどねりらが走り回り、ようやく半時も経った頃、中務宮は現れた。

 このような顛末を話好きの同僚から聞いた。書面も使いも通さずに、直々に出向いて名指しをする。この兄弟ならではの人騒がせだ。


 それから数日後、またも皇太子より呼び出しを受ける。

 昨日に一日降り続いた雨の名残か、時折、黒い雲が上空を行く。幸いにして雨は落ちて来ない。湿気は高いが気温はそれ程上がらず、時折吹く風がありがたい。

 春宮殿の母屋もやには他戸皇太子、ひさしには私一人が座る。えんには誰もいない。声の届く範囲の庭にも、それこそ床下にも人影はない。秘事ならば開け放した場所で話せ、この一家の家訓のようなものだ。

「近い内に、私の廃太子のみことのりが出される。これで良いと私は思うている」

 このような言葉を待っていたのか、私自身は未だ疑問を抱く。いつまでもこじれたままで時が経ち、人々の意識から波風が収まり、気が付けば幼い皇太子も成人する。山部親王の姫宮を正妃に迎えて子供も生まれ、天皇も譲位を匂わせるようになる。このような未来があっても、良かったのではないのか。そんな甘い考えを持っているのは、私くらいの者か。

「言うたであろう、私は大炊親王おおいのみこと同じだ」答えない私に皇太子は、更に言葉を続ける。「引き摺り下ろされずとも、いずれは命を狙われる。相手も馬鹿ではない、即位するまで待ってくれる訳もない」

 否定も肯定も求めてはいない。私に望まれる役目は、黙って話を聞く事だ。これを信頼と取っても良いものなのか。いずれにせよ、私のような凡人には返す言葉が思いつかない。

「私はまだ十二歳だ。そんな年で死にとうはない。もしも私が日嗣ひつぎの位を降りたなら、親王である事を放棄したならば、私の存在をいとう者は見逃してくれるのか。生きていても良いのだろうか」

 涼しいせいなのか、いつもの昼日中ならば鳴かない鳥の声が聞こえる。

「以前に兄上に問うた。そしてこの度は、父上にも問いかけた。我ながら酷い問いだと思う。二人ともに明確な答えをしてはくれない、悲しい顔をしていただけだ」

 悲しい顔で安堵したのか。井上内親王の廃后には踏み切ったが、他戸親王を廃太子し、断罪するには躊躇していた。親王を皇后の実子でない事を知りながら立太子させた、自らの判断の甘さを今更ながらに後悔しているのか。

 こうも官僚らの勢力や姻戚関係が複雑化した今、皇嗣問題は皇家の内だけでは解決しない。権門の後継者争いなどの比ではない。天皇がどの親王を皇嗣と主張したところで、誰もが黙って受け入れるとは思えない。

「ただ兄上は、二人きりの時に言うた、生きるのは私の権利だとね。手本にしたい者がいるのなら、それに倣うのも良かろうと。開成師の事を言うているのだろうね。今までも何度も、唐律招提に行っていた様子だし」

 いずれは、この親王までが仏門に入る事になるのか。しかし、僧侶として過ごす二人の異母兄の生き方は違う。長兄は官寺を出て私寺の経営に携わり、更に別の方向も探ろうとする。もう一方の兄は、最大の官寺で修業を積み、いずれは寺を背負う事を期待されている。

「詔は出しても、父上は私をどうするべきか、決めかねておられる。山部兄上や側近らが動いてくれると思う。父上は常々、兄上の事を評価している。迷う事は人一倍だが、最後には自らの判断で動いて来た。それが山部だと。私は兄上の真似をしたかったのかもしれないな。兄上のように、あちこちに支えられながら、人前では弱みを見せないような」

 父親は言う、迷う事は人一倍。異母兄は言う、三日と空けずに愚痴をこぼしに来る。右腕とされる臣下は言う、家族に恵まれているために非情になり切れない。いずれ為政者になる人は、いささか情けない姿を近親者に見せる。その様な相手がいなければ、自ら折れてしまうだろう。

「悪いのは誰なのだろう」皇太子は、何処を見るともない視線を投げて問う。

「誰も悪うはありませぬ、もしくは、誰もが悪いのやもしれませぬ」私は思わず、感傷的な答えをする。

「あまり、褒められた答えではないな」案の定、皇太子は笑う。

 そして私は、間の悪い思いで低頭する。

「ある者は、父上や兄上を悪者扱いするだろうな。別の者は、母上を誹謗するやも知れない。母の所業が子を追い、兄の欲が弟を追う。父は二人の子を見て兄を選ぶ。親子兄弟の相克など、皇家では珍しゅうもない」

「身内を切り捨てて平気な者など、滅多に居りませぬ」

 私が顔を上げて答えると、皇太子は困ったような顔で笑う。

「況してや、そのような者では、他者の信頼を勝ち得る事はできませぬ。天皇と同様、御身様も山部親王を信頼され、新たな日嗣にと望まれた。私達臣下は、このように思えば良いのです」

「なるほど。いずれにせよ、暫くは新たな日嗣選定に揉めるだろう。だが、来年の今頃は山部親王が日嗣の位についている。そうならねば、私が身を引く意味がない。御身らは何があろうと、山部親王を位に即けろ。これが私の最後の命令だ」年若い龍は穏やかに言い放つ。

 正午も近い時刻、涼しい風の内に鳥の声だけが少し遠くに聞こえる。

「位を退かれ、御身様は如何なされる御つもりですか」そして私は、気の重い問いを口にする。

「母上の居られる紀寺に入る。その辺りも開成師が、口利きをしてくれるはずだ。益麻呂もあの寺で学んだ。私も願えば学ぶ事はできるだろう」今までに見た事もない程、真摯な表情で親王は言う。

「では私からも、紀船守に打診してみましょう。船守ならば、紀氏の長者以上に寺からの信頼を得ています」

「そうか、御身も良い友人に恵まれているのだな。寺に入れば、交わる者も変わる。そうなれば私にも、御身らのように気の置けぬ友人もできるのだろうか」

「御身様が望まれるのなら、そのような者も現れましょう。人の世は捨てたものではありませぬ」

「そうか、御身と知り合えて良かった。望めばきっと、また御身のような者に出会い、友として付き合う事も出来るはずだな。今更だが、幾重にも礼を言いたい」

 低頭する皇太子に対し、三度、頭を床にこすり付ける。まったくだが、弟も弟なら兄も兄で父親も父親だ。この家の方々は、同じような事を言っては私を感無量の思いにさせてくれる。

 

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