第60話 宝亀三年五月 春宮殿での出来事
「皇太子に呼ばれて参上いたしました」
以前にはなかった顎の薄い髭のためか、やつれて年をとったように見える。
「御身様もですか、実は私もです」私は社交辞令に笑う。
内侍について殿に上がり、並んで
しばらくすると、舎人と
「坂上内侍以外は皆、下がれ」背後の
石敷きの上を遠ざかる足音が幾つか聞こえる。そして皇太子は廂を横切り、母屋の内の席に着く。
「今少ししたなら、ある者がここに来よう。その者が何をしたのか、
皇太子の言葉を聞きながら、横に座る益麻呂を横目に見る。私の視線に気づいているはずだ。しかし、伏し目がちに床の一点を見たまま、表情も変えずにいる。背後の縁に控えている坂上命婦は、どのような表情をしているのか。この人も中務宮や右大弁と、猿の首を見つけた当事者のはずだ。そして、中庭に控える舎人らは、そのような事件があったのも知らない。
更に待っていると、
「縁まで上がって、そこで控えよ」皇太子は命じる。
軽いとは正反対の足音が階を上がる。
「
「
階を挟んで坂上内侍と並んで座る姿が、取ってつけたように対照的に見える。
「典縫ならば、私も存じております」益麻呂は答え、おもむろに縁を振り返る。
短く高い声が上がる。県犬養命婦には、背を向けて座る四位と五位が誰なのか知らされてはいるまい。
再び振り向けば
「良い、捨てておけ」動きかけた舎人らに皇太子は命じる。
坂上内侍は逡巡ぎみに腰を浮かせ、高欄越しに下を見る。
「春宮坊も近衛府も、あの猿の首は
問いかけに私たちは前を向く。皇太子が私に向けて顎をしゃくる。
「首は中務宮の荷の内に潜ませてありました。行幸の後まで、滅多に開ける事のない荷です。状況からして、中務宮を狙うたのだと思われます」
「恐れながら、私はそのようには思いませぬ」益麻呂が口を開く。
階の下では三度、女の悲鳴が上がる。誰もが目を向ける先で、見苦しい程に太った命婦がようやくに立ち上がる。益麻呂の視線に気づいたのか、泣き声とも怒声ともつかぬ声を上げ、門に向かって走り出す。再び動こうとした舎人に、追う必要はないと皇太子が言い放つ。門に立つ衛士は、命婦の只ならぬ様子に驚くだろう。しかし、門の内から追いかけて来る者もいなければ、不審に思いつつも見送るだけかもしれない。
「では、汝の意見を聞きたい、紀朝臣」何もなかったように皇太子が言う。
「呪詛の相手は中務宮様ではなく、先の
「
「実を申せば、我が妹の
私はややも耳を疑い益麻呂を見る。皇太子はむしろ面白そうにうなずき先を促す。何にしても、益麻呂を激怒させた理由はこれなのか。何があったかは知らないが、姉女は極端なほど益麻呂に怯えていた。相当な脅しをかけたと見える。
「本来ならば行幸の
「なるほど。しかし、荷を改めてあれを見つけたのは中務宮本人だ。おまけに居合わせた者には緘口令もしいた」
「騒ぎが立たぬ事で、宮様に脅しをかける事が出来たとでも思うたやも知れませぬ」
「あれなりに知恵を絞った訳か。確かに兄上の方が母上よりも遥かに手強かろう。いずれにせよ、兄上には逆効果やも知れぬな。
皇太子は喉の奥で笑う。
「大浦とは
「直接には関わっておらぬ。恐らく呪具が出るまで、あれも知らなかったのだろう。だが、
「しかし大浦は、その事をあえて報告しなかった。それだけでも共犯の罪に値しましょう」どこか面白そうに益麻呂が言う。
「汝や兄上に言うたら怒られそうだが、犬女と大浦の話を立ち聞きさせてもらうた」今度は皇太子が楽しそうに言う。
例によって、どこかの床下にでも忍び込んだのだろうか。私としては怒る気にもならない。
「大浦が犬女に聞いていた、あれは汝の仕業かと。犬は違うと
大浦も呪詛の相手を井上内親王だと気づいていた。益麻呂の言うように、その事を報告せずに部外者の振りをしていたという事になる。
「腹立たしい事だが、犬にしてみれば、兄上よりも母上を亡き者にする方が得策だ」
その理由は誰も口にしないが承知している。姉女の目的は、
「返す返すも腹立たしい事だ」
皇太子の言葉に益麻呂がうなずく。
「そこでだ、汝に頼みたい事がある」
立ち上がって益麻呂のすぐ前まで来る。
「御命令を」
益麻呂は低頭し、皇太子はその頭上に屈みこむ。
「あの女、
この言葉を聞いたのは、益麻呂と私、坂上内侍くらいだろう。益麻呂は肯定するように、更に深く頭を下げた。
衛門府から知らせがあったのは、翌日の夕方だった。北の
そして中務宮を始め、
「先の山背行幸のおり、あの者は我が母、井上内親王の呪詛を謀ろうとした」
この言葉に動揺した者も少なからずいた。しかし、大多数の者は続く内容に言葉を失う。
「それ故に除けと先の陰陽頭、紀益麻呂に命じた。四位であろうと奴婢であろうと、皇太子の命令に逆らえる者があろうか。 故に罪を問うのなら私に問え。
高官らの様子を窺うに、この言葉に驚いていないのは中務宮だけだろう。少しうつむき、眉間にしわを寄せて瞑目したまま沈黙を保つ。中務宮と皇太子の兄弟の間では、既に話し合いで了承しているのだろうか。
この後、太政官は紀益麻呂の出頭を要請したが、この度も行方が知れぬと報告が届く。以前より呪詛騒ぎの参考人の一人として、監視の対象になっている状況下、どこへ姿をくらませたものか。皇太子に問いかけてもみたが、昨日来、会ってはいないと言う。紀寺にも捜索の手が入り、僧侶から奴婢までが執拗な聞き込みを受ける。陰陽寮や春宮坊も同様に調べられ、あの時に春宮殿にいた者ら、私や坂上内侍も例外なく事情聴取をされた。
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