第60話 宝亀三年五月 春宮殿での出来事

 皇太子ひつぎのみこと話をした翌日、神祇官ではようやくに酒人内親王さかひとのひめみこ伊勢斎宮いせのさいくう卜定ぼくじょうした。そして内親王が初斎院しょさいいんに入った翌日、皇太子は中務宮なかつかさのみやと共に唐律招提とうりつしょうだい開成親王かいじょうのみこを訪ねた。更に二日後、再び皇太子は私を呼ぶ。会って欲しい者がいるという。


 春宮殿とうぐうでんの中庭で坂上内侍さかのうえのないしが、四位しい深緋ふかあけ色を着た者と話をしている。こちらに背を向けた、この四位が会って欲しいという人物か。背格好からすると、春宮亮とうぐうのすけではなさそうだ。私や舎人とねりの足音に気付いたのか、おもむろに振り向く。

「皇太子に呼ばれて参上いたしました」紀益麻呂きのますまろが軽く頭を下げて言う。

 以前にはなかった顎の薄い髭のためか、やつれて年をとったように見える。

「御身様もですか、実は私もです」私は社交辞令に笑う。

 内侍について殿に上がり、並んでひさしに控える。益麻呂も私も、地下じげの頃から皇族や公卿の前に何度も参上している。きざはしの下の土間で待っていた頃に比べれば、随分と良い身分になったものかと今更に思う。

 しばらくすると、舎人と女嬬めのわらわを伴い皇太子が現れる。私たちは廂の上で低頭し、皇太子が母屋もやの内の席に着くのを待つ。

「坂上内侍以外は皆、下がれ」背後のえんの上で皇太子が命じる。

 石敷きの上を遠ざかる足音が幾つか聞こえる。そして皇太子は廂を横切り、母屋の内の席に着く。おもてを上げろと命じる声が前方から投げかけられる。

「今少ししたなら、ある者がここに来よう。その者が何をしたのか、いましらの知っている事を教えて欲しい。先の山背やましろ行幸の時、その者はやっこに命じて猿を捕らえさせた。その後、猿の首が中務宮なかつかさのみやの荷の内より見つかった。私の知るのはこの程度だ」

 皇太子の言葉を聞きながら、横に座る益麻呂を横目に見る。私の視線に気づいているはずだ。しかし、伏し目がちに床の一点を見たまま、表情も変えずにいる。背後の縁に控えている坂上命婦は、どのような表情をしているのか。この人も中務宮や右大弁と、猿の首を見つけた当事者のはずだ。そして、中庭に控える舎人らは、そのような事件があったのも知らない。

 更に待っていると、県犬養命婦あがたのいぬかいのみょうぶが来たと、背後から舎人の声が告げる。皇太子は視線を上げて見るが、益麻呂も私も振り返らずに待つ。

「縁まで上がって、そこで控えよ」皇太子は命じる。

 軽いとは正反対の足音が階を上がる。

紀朝臣きのあそみ和気大進わけのたいじょう、この者の事は知っておろう」顎で前方を示しながら聞く。

典縫ぬいのすけにございますか、存じ上げております」振り向いた後、顔を戻しつつ私は答える。

 階を挟んで坂上内侍と並んで座る姿が、取ってつけたように対照的に見える。

「典縫ならば、私も存じております」益麻呂は答え、おもむろに縁を振り返る。

 短く高い声が上がる。県犬養命婦には、背を向けて座る四位と五位が誰なのか知らされてはいるまい。

 再び振り向けば県犬養姉女あがたのいぬかいのあねめが、上体をのけ反り腰を浮かせている。立ち上がろうとしても足に力が入らないのか、そのまま腰でいざり背後に手を伸ばす。高欄こうらんの端に何とか手をかけ立ち上がろうする。しかし、裳裾もすそにでもつまずいたのか、そのまま体制を崩して階へと倒れこむ。そして文字通り転がる様に姿が消える。鈍く重い音と、うめくような声が聞こえる。

「良い、捨てておけ」動きかけた舎人らに皇太子は命じる。

 坂上内侍は逡巡ぎみに腰を浮かせ、高欄越しに下を見る。

「春宮坊も近衛府も、あの猿の首は呪詛ずそだと判断した。では、呪詛されたのは誰なのか」

 問いかけに私たちは前を向く。皇太子が私に向けて顎をしゃくる。

「首は中務宮の荷の内に潜ませてありました。行幸の後まで、滅多に開ける事のない荷です。状況からして、中務宮を狙うたのだと思われます」

「恐れながら、私はそのようには思いませぬ」益麻呂が口を開く。

 階の下では三度、女の悲鳴が上がる。誰もが目を向ける先で、見苦しい程に太った命婦がようやくに立ち上がる。益麻呂の視線に気づいたのか、泣き声とも怒声ともつかぬ声を上げ、門に向かって走り出す。再び動こうとした舎人に、追う必要はないと皇太子が言い放つ。門に立つ衛士は、命婦の只ならぬ様子に驚くだろう。しかし、門の内から追いかけて来る者もいなければ、不審に思いつつも見送るだけかもしれない。

「では、汝の意見を聞きたい、紀朝臣」何もなかったように皇太子が言う。

「呪詛の相手は中務宮様ではなく、先の皇后おおきさき井上内親王いのえのひめみこ様にありましょう」

何故なにゆえにそのように思うのか」

「実を申せば、我が妹の益女ますめが夢枕に再三立ち、そのような事を告げておりました」

 私はややも耳を疑い益麻呂を見る。皇太子はむしろ面白そうにうなずき先を促す。何にしても、益麻呂を激怒させた理由はこれなのか。何があったかは知らないが、姉女は極端なほど益麻呂に怯えていた。相当な脅しをかけたと見える。

「本来ならば行幸の最中さなかに改められる荷ではなかったと聞きます。都に戻った後に呪具が見つかったのならば、誰かが宮様を狙うたと思う者が大多数、反面、宮様が何かを企んだと疑う者も出て来るやもしれませぬ」

「なるほど。しかし、荷を改めてあれを見つけたのは中務宮本人だ。おまけに居合わせた者には緘口令もしいた」

「騒ぎが立たぬ事で、宮様に脅しをかける事が出来たとでも思うたやも知れませぬ」

「あれなりに知恵を絞った訳か。確かに兄上の方が母上よりも遥かに手強かろう。いずれにせよ、兄上には逆効果やも知れぬな。大浦おおうらにしても、緘口令を良い事に口をつぐみ、自らは無関係の振りをしておる」

 皇太子は喉の奥で笑う。天皇すめらみことや中務宮そっくりの笑い方だ。

「大浦とは陰陽頭おんようのかみ大津大浦おおつのおおうらの事でしょうか。あの者もあの事件に関わっているのですか」話の流れが良く分からない私は、二人を交互に見ながら問う。

「直接には関わっておらぬ。恐らく呪具が出るまで、あれも知らなかったのだろう。だが、犬女いぬめと益麻呂の妹が既知の仲という事は知っていた。ゆえに呪具を見て何か気付いたに違いない」

「しかし大浦は、その事をあえて報告しなかった。それだけでも共犯の罪に値しましょう」どこか面白そうに益麻呂が言う。

「汝や兄上に言うたら怒られそうだが、犬女と大浦の話を立ち聞きさせてもらうた」今度は皇太子が楽しそうに言う。

 例によって、どこかの床下にでも忍び込んだのだろうか。私としては怒る気にもならない。

「大浦が犬女に聞いていた、あれは汝の仕業かと。犬は違うとわめいていたが、大浦は確信していたようだ、猿の首に巻かれた髪の毛は皇后の物だと。それを聞いた時、犬は否定しなかった」

 大浦も呪詛の相手を井上内親王だと気づいていた。益麻呂の言うように、その事を報告せずに部外者の振りをしていたという事になる。

「腹立たしい事だが、犬にしてみれば、兄上よりも母上を亡き者にする方が得策だ」

 その理由は誰も口にしないが承知している。姉女の目的は、県犬養勇耳あがたのいぬかいのいさみを皇太子の実母として担ぎ上げる事だろう。その勇耳との関りが誰よりも深いのは井上内親王か。もしも勇耳の存在を天皇や井上内親王が否定をしたなら、姉女ごときが何を言っても通じない。だが内親王が亡くなった後となれば、状況は変わってくる可能性がある。勇耳に温情をかける天皇が、皇太子の実母だと認めるかもしれない。

「返す返すも腹立たしい事だ」

 皇太子の言葉に益麻呂がうなずく。

「そこでだ、汝に頼みたい事がある」

 立ち上がって益麻呂のすぐ前まで来る。

「御命令を」

 益麻呂は低頭し、皇太子はその頭上に屈みこむ。

「あの女、県犬養宿禰姉女あがたのいぬかいのすくねあねめを始末して欲しい」

 この言葉を聞いたのは、益麻呂と私、坂上内侍くらいだろう。益麻呂は肯定するように、更に深く頭を下げた。


 衛門府から知らせがあったのは、翌日の夕方だった。北の御陵みささぎほりに女の死体が浮いている。着衣の乱れも外傷もほとんど見られない。溺死と思われる。死んでからそれ程の時間は経っていない。やたらに膨らんで見えるのは生前からの肥満だと、人を食ったような事まで報告に挙げて来る。

 員外いんがい典縫ぬいのすけ県犬養宿禰姉女あがたのいぬかいのすくねあねめに間違いはないかと、何人かの内侍ないしや舎人が確認を求められる。誰もが間違いないと肯定し、正式な報告は皇太子の元にも届く。

 そして中務宮を始め、東宮傅とうぐうふ衛門督えもんのかみ、春宮坊の四等官らの招集が命じられる。

「先の山背行幸のおり、あの者は我が母、井上内親王の呪詛を謀ろうとした」

 この言葉に動揺した者も少なからずいた。しかし、大多数の者は続く内容に言葉を失う。

「それ故に除けと先の陰陽頭、紀益麻呂に命じた。四位であろうと奴婢であろうと、皇太子の命令に逆らえる者があろうか。 故に罪を問うのなら私に問え。大臣おとどら、いや、天皇すめらみことに問われても申し開きなどせぬ」

 高官らの様子を窺うに、この言葉に驚いていないのは中務宮だけだろう。少しうつむき、眉間にしわを寄せて瞑目したまま沈黙を保つ。中務宮と皇太子の兄弟の間では、既に話し合いで了承しているのだろうか。

 この後、太政官は紀益麻呂の出頭を要請したが、この度も行方が知れぬと報告が届く。以前より呪詛騒ぎの参考人の一人として、監視の対象になっている状況下、どこへ姿をくらませたものか。皇太子に問いかけてもみたが、昨日来、会ってはいないと言う。紀寺にも捜索の手が入り、僧侶から奴婢までが執拗な聞き込みを受ける。陰陽寮や春宮坊も同様に調べられ、あの時に春宮殿にいた者ら、私や坂上内侍も例外なく事情聴取をされた。                                                                                                                                                                                                    

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