第59話 宝亀三年五月 急変と皇太子の決意
明け方には晴れていたが、雲の多い日だ。日が高くなり始めると風が出て来る。勤務時間が終わる頃には、西の空が次第に黒い雲に覆われる。降られたら敵わないと、
案の定、春宮殿でも近づく雨に懸念する。それでも皇太子は
「
私のしかつめらしい挨拶が済んだところで始まったのがこの話題だ。
「詳しい事は存じませぬが、
「本当か」
「
「そうか。
皇太子は母屋の内で立ち上がると、廂に座る私の横に来る。
「そればかりは、
小さく頭を振る皇太子は、そのまま縁まで出て空を仰ぐ。
振り向いた視線の先で、黒い雲は上空にまで達する。見る間に大粒の雨が石敷きの上に染みを作る。
「酒人でのうては困る」
南の空に稲妻が光る。怯えた様子もなく皇太子は、そちらに目を向ける。途端に雷鳴が鳴り響く。
「あのように強気に振舞っていても、あの姉上には誰かの庇護が必要だ。それがのうては何もできぬ人だ。私に何かある前に、
「何かあるとは……」私がつい漏らした言葉に、次の雷鳴が重なる。
縁を叩く雨は、皇太子の衣の裾を濡らす。風を伴う強い雨に、あきらめた様子で廂に戻る。雨はその廂にまで吹き込もうとしている。
「今更、そのような事を聞くか。
言いながら私の正面に座ると、心なしか挑むような眼差しを向ける。この人が訴えたいのは、間違っても、母親の罪を負って廃太子される事への恐れではない。
「親王としての立場は、私も
私は答える言葉を探すが、まるで思いつかない。中務宮らが懸念したように、やはりこの人は自分の出自に気付いている。
滝のような雨が大きな音を立てて降る。夏の終わりに付きものの夕立だが、まるで
「実母は
目の端に見える空が光り、黒い雲の内で龍が咆哮する。
「当たり前だ。兄上はいつも期待に応えてくれる、自慢の息子なのだから。それに比べれば、私など何もできていない」
皇后からの
「母上……
「しかし、そのようなお考えが
こうして眷属であるべき私の言葉は、いつにも増して潔くない。廃太子という言葉が、喉の奥に留まって出て来ない。
「私は、そう……
風は強い。縁を洗う雨が飛沫となって廂の端を濡らしている。
「もしも即位したならば、更に欲が出る。大人たちの言いなりになどならぬ。利用されるなど言語道断。そうして自ら歩き出そうとした途端、足元をすくわれる。すくうのは父上やもしれぬ、兄上やもしれぬ。故に私は百の
上空がにわかに光り、雷鳴はまだ頭上に響く。
「それならば、祭り上げられる立場から降りれば良い。親王の地位など捨ててしまえば良い、違うか」
風と雷鳴を聞きながら皇太子は笑う。この人は私の息子よりも幼い。それなのに皇太子に選ばれ、早くに一人前となる事を要求されている。いつぞに種継が言った言葉だ。年端も行かない少年が、自ら残酷な言葉を選ぶ。これが一人前になれという事ではない。
「私ごときが申し上げられる事ではありませぬ」決まりの逃げ口上に自己嫌悪が湧く。
「それもそうだな。私とて汝に答えを求めはせぬ。求める相手は父上、そして兄上だ。私は百の皇子を喰らうのであろう。真っ先に食らうのは兄上ではない、母上と姉上だ」
母親を罪人と認め、姉は都の外に送る。そのような覚悟をした後、何がこの少年に待っているのだろうか。
「御身様はあまりに御若い。助けを求めても良いのではありませぬのか」風と雨の隙間で、私の声は頼りなく流される。
「助けを……誰に」呟く声も豪雨の下に籠る。
「信頼できる御方はおられましょう」
「そのような者……おるとしたら父上か、いや、兄上か」
「
「ああ、そうだな。そして、
答えを求めたい相手なら、救いを求める事とて出来るのではあるまいか。宇佐の大神が選べと問いかけたのは、皇家に連なる大人たちだろう。大人の都合で選ばれた年若い者ではあるまい。
「兄上方をお召しになられますか」
「ああ、早急にと言いたいが、雨が止むまで待とう。まずは山部親王と話をしたい。
ようやく落ち着いたのか、年相応に邪気のない笑みを見せる。
雨はまだ容赦なく縁を叩く。時折、強くなる風が廂にまで雨を吹き入れる。それでも雷鳴は心なしか遠ざかろうとしている。
「汝にはいつも、詰まらぬ感傷や愚痴ばかりを聞かせておるな。申し訳なく思う」雨の音に紛れるように皇太子が呟く。
私は返す言葉もなく、ただ低頭する。
既に日が傾いていた事もあり、雷雨の過ぎ去った後は涼しくなった。中務宮が皇太子と話し始めてから、かなりの時間がたつ。私はと言えば舎人らと並んで、殿上で話をする二人を眺める。上空は雲が切れて西日も差しているが、微風の冷たさがありがたい。
やがて中務宮は立ち上がり、皇太子が立つのを見守る。共に縁に出て来たのを見計らい、私は
中務省には、まだかなりの者が残っている。しばらくは誰も来るなと中務宮は命じ、私を従えて執務室に入る。熱気の籠る室内で宮は自らの席に着き、頬杖をついて思案気に、私が窓を開けるのを眺めている。南北を明け払うと、ようやく涼しい風が通る。
「皇后の文は何度か届いていたそうだ」
私が机の向かいに置かれた椅子に座ると、ようやく話を始める。
「紀寺から衛士に、衛士から
全子とは、
「内容は話してはくれぬ。読んだ後はすぐに処分したと言うていた。だが、あれがおかしな態度をとるようになったのは、文を受け取った後からだ」
そして、私に話した本音を兄親王にも語った。私には返す言葉もなかったが、異母兄にも同様だったらしい。
「まったく、出家を決めた時の
私などよりも更に深く衝撃を受けているに違いない。
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