第58話 宝亀三年五月 紀寺であった事
「
こちらの見る目が変わったからか、ここ最近は気味悪さはすっかり影を潜めた。むしろ、
「要するに、皇后とも皇太子とも話はできないという訳か」
「考えてもみろ、いきなり見ず知らずの者が夢枕に立つなど」
「不気味としか言いようがないな」
「私としても、高貴な方々に怖がられるのは遺憾だ。
なるほど、
「いや、俺も最初は不気味に思うたぞ」
「そうか、それは幸いだ」
ニンマリと笑う。こんな表情が、本来の益女なのだろうか。
「何が幸いなのだ」
「御身ら
「もしかして、俺以外の尋問官の夢にも立った事があるのか」
「面白かったぞ、蒼白になって震える者もおれば、頭から
「良い趣向とは言えぬな」私が言えば、悪戯をした子供のように笑う。
やはり今更に思う。この女は皇家になど関わるべきではなかった。寺の
そもそも
「それはそうと、
「いいや、そちらは更に関わっておらぬ。
「同じ一族ではないのか、旧知の者も少なくはないのだろう」
「同族などとは思うておらぬ。実のところ、私たちが本当に良民なのか、奴婢なのかも知らぬ。間違いで奴婢に落とされたとしても、何代も前の話だ。誰かが元は良民だったと言い出せば、自らもだと口を合わせる。そんな輩も多かろう。兄者人も父祖らが言うのを聞いて育った。それ故に思い込んで居るに過ぎぬやも知れぬ」まさに他人事のように言う。
「そのようなものなのか」むしろ、こちらが戸惑う。
「御身にしても同じであろう。先祖が
「確かに汝の言う通りだ。それでは、汝に解放された者らの事を問うても、分らぬやも知れぬな」
私がため息をつくと、益女は少しばかり眉根を寄せた不機嫌な表情を見せる。
「皇太子と皇后の間に連絡係が居るのか、兄者人が関わっているのか、そのような事を聞きたいのであろう」
「まあ、そうだ」
「前者はおらぬと思う。だが、皇后と兄者人の間を取り持つ者はおる。寺の婢だ。井上皇后の身の回りの世話を命じられている一人だ」
「良民になった者には関わらぬのに、婢には関わっているのか、汝の兄は」
「昔から女の方が、兄者人に好意を寄せているのだよ。兄者人はそれに答える気もない、利用するだけだ。女も分っておるくせに言いなりだ」
本当に忌々しいと言いたげな口調と表情だ。この兄妹は、案外、仲が悪いのかもしれない。
「まあ、世間にはよくある話ではあるが」
「ああ、貴賤を問わず、嫌になるほど聞く」
そのような男女関係のもつれで、益女の元に相談に来た者も、少なからずいたのだろう。もしかしたら、その婢も相談者の一人だったのかもしれない。婢とは仲が良かったのか、聞こうと思ったがやめておく。
「それで、益麻呂はその者に何かを頼うだのか」
「最初は何とかして、皇后に会わせて欲しいと頼うだ。だが、見張りが厳重で、奴婢ごときにはどうにもならぬ。せいぜい、文の受け渡しができた程度だ」
「皇后が益麻呂への文をよこしたのか」
「いいや、皇太子への文を託された」そう言って、意味深な笑みを目元に浮かべる。
適当な理由をつけ
井上内親王の様子を聞くが、当然ながら面会は叶わない。面会には、
一人の婢が、何やら思惑ありげにこちらを窺っているのに気づく。僧侶にいとまを告げた後、寺の門の外でしばらく待っていると、案の定、女が現れる。名乗るよりも先に、紀益麻呂様を御存じかと聞かれる。
益麻呂とは知己だが、最近は互いに忙しく暫く会っていない。などと、口からの出まかせを言う。
女の話では、この
それならば、誰か知り合いにも消息を訪ねてみようと言うと、ある男の名前を教えてくれた。関係はよく知らないが、以前に何度か益麻呂の使いと称してやって来たという。益麻呂に何か
今日も仕事の合間に、息抜きと無駄話をする管理職のふりで、適当な場所で立ち話をする。
「いいや、紀寺との関りはない。地方出身の衛士だ」
「では、益麻呂が官人になった後の知り合いなのか」
場所は
「ああ。陰陽寮に出仕し始めた頃に知り合うたらしい。都合の良い事に、その男は紀寺の近くに住まいを構えていた。益麻呂にしてみれば、頼み易い相手だったのだろう」
「皇后との文を取り次いでいた事は、知らなかったのだろうな」
「まあ、益麻呂が件の
少し離れた場所では、馬の排泄物の入った桶を荷車に積む者らが、大声で奇妙な訛りの歌を歌う。
「その者は今、どこにいる」
「都にはおらぬ。少し前に地方官の欠員補充で、国元に戻ったらしい。まあ、出世の類だろう」
あそこで歌っているのも、地方から出て来た者たちか。
「要はその者が都にいる内は、益麻呂も紀寺に行く必要がなかった訳か」
「だが、
「婢が取り次いでいた皇后の文だが、宛先は益麻呂などではなく、皇太子の可能性はあるまいか」
益女が意味深に言った言葉を思い出す。益麻呂は皇太子への文を託されたと。
「そうだな。今までに何度の遣り取りがあったかは分からぬが、何通かはそうやも知れぬ」
「すると、益麻呂と皇太子との仲介をする者もいるやも知れぬ」
「それこそ、春宮坊の者か東宮舎人辺りではないか」
それを探すのはこちらの仕事か。さて、誰か協力を仰げる者でもいれば良いのだが。下手な事を言って怪しまれるのは避けたい。どうしたものだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます