第58話 宝亀三年五月 紀寺であった事

御身おみも知っておるだろうが、安倍女帝あべのみかど井上皇后いのへのおおきさきは、どちらかといえば不仲だ。その下の不破内親王ふわのひめみこは、どちらの姉とも没交渉だった。あの方々が若い頃に、まじないの類を教えた事はある。女帝みかど以外の二人に会うたのは、その時だけだ。ましてや、皇太子ひつぎのみこには全く面識がない」何やら考え込むような表情を見せて紀益女きのますめは言う。

 こちらの見る目が変わったからか、ここ最近は気味悪さはすっかり影を潜めた。むしろ、何処どこにでもいそうな若い女に見える。私の対応も、その辺りの女孺めのわらわにきく軽口に近い。ちなみに便宜上、井上内親王いのへのひめみこ皇后おおきさきと呼ぶが、正しくは元皇后だ。

「要するに、皇后とも皇太子とも話はできないという訳か」

「考えてもみろ、いきなり見ず知らずの者が夢枕に立つなど」

「不気味としか言いようがないな」

「私としても、高貴な方々に怖がられるのは遺憾だ。親王みこや御身のように、全く恐れぬ者もいるが、大抵の者は不安に思う」

 なるほど、山部親王やまべのみこは恐れなかった側か。

「いや、俺も最初は不気味に思うたぞ」

「そうか、それは幸いだ」

 ニンマリと笑う。こんな表情が、本来の益女なのだろうか。

「何が幸いなのだ」

「御身ら衛府えいふの輩には、怖がらせる目的もあった故な」

「もしかして、俺以外の尋問官の夢にも立った事があるのか」

「面白かったぞ、蒼白になって震える者もおれば、頭からふすまを被って喚き散らす者もおったし」

「良い趣向とは言えぬな」私が言えば、悪戯をした子供のように笑う。

 やはり今更に思う。この女は皇家になど関わるべきではなかった。寺のはしためのままでいても、愛嬌と美貌で良い伴侶を得る事が出来たのではないのか。教養があるのならば、寺の者の口利きで、どこぞの良家の下働にでもなり、重宝されたかもしれない。

 そもそも呪詛ずその方法など、誰が教えたのか。寺の内で片鱗を知り、貴人の屋敷に上がって深みにはまったのか。いずれにしても、私がとやかく関わる事ではない。

「それはそうと、いましらと共に賜姓された者が幾人かおっただろう。その者らと関わる事はあるのか」

「いいや、そちらは更に関わっておらぬ。兄者人あにじゃひとにしても、任官した者らとは多少の関りを持つが、戸籍をもらって田畑を耕す輩には興味もないようだ。戸主になれと命じられたのも、迷惑だと思うているようだし」

「同じ一族ではないのか、旧知の者も少なくはないのだろう」

「同族などとは思うておらぬ。実のところ、私たちが本当に良民なのか、奴婢なのかも知らぬ。間違いで奴婢に落とされたとしても、何代も前の話だ。誰かが元は良民だったと言い出せば、自らもだと口を合わせる。そんな輩も多かろう。兄者人も父祖らが言うのを聞いて育った。それ故に思い込んで居るに過ぎぬやも知れぬ」まさに他人事のように言う。

「そのようなものなのか」むしろ、こちらが戸惑う。

「御身にしても同じであろう。先祖が皇子みこ将軍だというよりも、父親がこおり大領たいりょうだという方が、遥かに現実的だ。実際にその姿を見て来たのだし」

「確かに汝の言う通りだ。それでは、汝に解放された者らの事を問うても、分らぬやも知れぬな」

 私がため息をつくと、益女は少しばかり眉根を寄せた不機嫌な表情を見せる。

「皇太子と皇后の間に連絡係が居るのか、兄者人が関わっているのか、そのような事を聞きたいのであろう」

「まあ、そうだ」

「前者はおらぬと思う。だが、皇后と兄者人の間を取り持つ者はおる。寺の婢だ。井上皇后の身の回りの世話を命じられている一人だ」

「良民になった者には関わらぬのに、婢には関わっているのか、汝の兄は」

「昔から女の方が、兄者人に好意を寄せているのだよ。兄者人はそれに答える気もない、利用するだけだ。女も分っておるくせに言いなりだ」

 本当に忌々しいと言いたげな口調と表情だ。この兄妹は、案外、仲が悪いのかもしれない。

「まあ、世間にはよくある話ではあるが」

「ああ、貴賤を問わず、嫌になるほど聞く」

 そのような男女関係のもつれで、益女の元に相談に来た者も、少なからずいたのだろう。もしかしたら、その婢も相談者の一人だったのかもしれない。婢とは仲が良かったのか、聞こうと思ったがやめておく。

「それで、益麻呂はその者に何かを頼うだのか」

「最初は何とかして、皇后に会わせて欲しいと頼うだ。だが、見張りが厳重で、奴婢ごときにはどうにもならぬ。せいぜい、文の受け渡しができた程度だ」

「皇后が益麻呂への文をよこしたのか」

「いいや、皇太子への文を託された」そう言って、意味深な笑みを目元に浮かべる。


 適当な理由をつけ紀寺きでらを訪問する。応対に出た僧侶に春宮坊の役職付きと名乗れば、まず粗略には扱われない。紀船守きのふなもりの名を出せば、更に愛想が良くなる。やはり船守は、紀氏きうじの内でも出世頭で知られ、氏寺うじでらへの喜捨も多いようだ。

 井上内親王の様子を聞くが、当然ながら面会は叶わない。面会には、大夫だいぶ(坊の長官)以上の許可が必要になるだろう。そして、私的な文の遣り取りも遠慮してほしいと言われる。寺側も益麻呂の動きに気付き、訝しんでいるのかもしれない。

 一人の婢が、何やら思惑ありげにこちらを窺っているのに気づく。僧侶にいとまを告げた後、寺の門の外でしばらく待っていると、案の定、女が現れる。名乗るよりも先に、紀益麻呂様を御存じかと聞かれる。

 益麻呂とは知己だが、最近は互いに忙しく暫く会っていない。などと、口からの出まかせを言う。

 女の話では、この二月三月ふたつきみつき、無沙汰が続いていたが、先日に突然やって来た。少し話をした後、また来ると言い残したきりで音沙汰がないと嘆く。

 それならば、誰か知り合いにも消息を訪ねてみようと言うと、ある男の名前を教えてくれた。関係はよく知らないが、以前に何度か益麻呂の使いと称してやって来たという。益麻呂に何か言伝ことづてや渡す物はないかと問えば、今はない、早くに会いに来て欲しいとだけ言う。


 槻本老つきのもとのおゆにその話をすると、益麻呂の周囲を調べている時に聞いた名前だと言う。そして一日と置かずに、男の素性を探り当てて来た。

 今日も仕事の合間に、息抜きと無駄話をする管理職のふりで、適当な場所で立ち話をする。

「いいや、紀寺との関りはない。地方出身の衛士だ」

「では、益麻呂が官人になった後の知り合いなのか」

 場所は馬寮めりょうの近く、道を挟んだ厩舎きゅうしゃでは、飼丁しちょうらが上官指示で飼料やら水の桶やらを運び込む。

「ああ。陰陽寮に出仕し始めた頃に知り合うたらしい。都合の良い事に、その男は紀寺の近くに住まいを構えていた。益麻呂にしてみれば、頼み易い相手だったのだろう」

「皇后との文を取り次いでいた事は、知らなかったのだろうな」

「まあ、益麻呂が件のはしためと恋仲で、恋文を取り次いでやっている、その程度に思っていた可能性が大きかろう」

 少し離れた場所では、馬の排泄物の入った桶を荷車に積む者らが、大声で奇妙な訛りの歌を歌う。

「その者は今、どこにいる」

「都にはおらぬ。少し前に地方官の欠員補充で、国元に戻ったらしい。まあ、出世の類だろう」

 あそこで歌っているのも、地方から出て来た者たちか。

「要はその者が都にいる内は、益麻呂も紀寺に行く必要がなかった訳か」

「だが、県召あがためしで国に帰ってしまった。仕方なく、益麻呂本人が婢に会いに行ったという訳だ」

「婢が取り次いでいた皇后の文だが、宛先は益麻呂などではなく、皇太子の可能性はあるまいか」

 益女が意味深に言った言葉を思い出す。益麻呂は皇太子への文を託されたと。

「そうだな。今までに何度の遣り取りがあったかは分からぬが、何通かはそうやも知れぬ」

「すると、益麻呂と皇太子との仲介をする者もいるやも知れぬ」

「それこそ、春宮坊の者か東宮舎人辺りではないか」

 それを探すのはこちらの仕事か。さて、誰か協力を仰げる者でもいれば良いのだが。下手な事を言って怪しまれるのは避けたい。どうしたものだろうか。

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