第57話 宝亀三年五月 皇太子の豹変

 雨季が明けたようで、猛暑の日が続く。こうも暑いと衛府では訓練も身が入らない。春宮坊では更に勤務怠惰の様相が諸所に生じる。戸も窓も明け払ったところで、微風が外をかすめて行く。こういう日は川にでも飛び込みたいと、史生ししょう舎人とねりたちが伸び切って愚痴を言う。

「どちらにお出掛けですか、大進だいじょう」この間延びした声は小進しょうじょうだ。

 さっきまで居眠りをしていたのに、私がほう(上着)を着る物音で目を覚ましたと見える。

「ああ、皇太子ひつぎのみこからの御呼出しだ、春宮殿に来いと」

「それは大変な用事ですね」緊張感皆無の返事だ。

 昼も近くなり影は短い。微かに吹く風は、かえって暑苦しい。いくらも歩かない内に汗が吹き出る。最初こそ共に従う舎人と言葉を交わしていたが、じきに無言になる。

 皇太子は今日も中庭にいた。多少の日当たりなど物ともせず、衛士えじを相手に飛礫つぶて打ちの練習に励む。一方、その傍らで見守る舎人や女孺めのわらわは、風の通る日陰に控える。教える衛士は当然ながら、皇太子と共に日差しに晒される。

 見守る間も、並べた土器かわらけに矢継ぎ早の飛礫が打たれる。五度打って、全てが真ん中とは言えないが命中する。誰もが世辞抜きに感嘆の声を上げる。

「上達したであろう」こちらに向いた皇太子が上機嫌に言う。

「見事なものです。恐れ入りました」今日も私は、どこか間の抜けた返事をする。

「動かぬ的など打っていてもつまらぬ」手の上で石飛礫を転がしながら皇太子がつぶやく。

「弓などを習うていて、腕が上がってくると誰しもが思うことです」

「外に出て獲物を仕留めてみたいものだよ。ところが、それはならぬと騒ぐやからがいる。うるそうてならぬわ」

「姉君様ですか」小声で聞く。

酒人さかひとは大人しいよ、最近は。今、目障りなのはあの犬だ」

 言うが早いか振り向きざまに、石飛礫を躑躅つつじの茂みに向けて投げつける。

 予定していたように悲鳴が上がる。丸い人影が茂みの陰から転がり出る。頬骨の辺りを抑えた指の間から、夥しい血が滴り落ち、衣から地面から赤く染める。それを見た女孺らが鳴き声交じりに声を上げる。舎人らは駆け寄る者もなく、ただ遠巻きに狼狽する。

「登殿を禁じたはずだ。何故、そのような所に居るか」これまでに聞いた事のない、傲岸な口調で皇太子が言う。

 そして舎人らに向けて顎をしゃくる。

「目障りだ、退けよ」

 二人の舎人が及び腰のまま、泣きわめく県犬養姉女あがたのいぬかいのあねめを半ば引きずりながら連れて行く。泣くのも忘れた女孺たちが呆然と見送る。皇太子はと見れば、衛士に手を出して次の石を催促し、再び土器の的に向き直る。


 この出来事はすぐさま、東宮傅とうぐうふや学士、更には中務宮なかつかさのみやに報告が行く。顔をそろえた御偉方は、春宮大進とうぐうだいじょうが着いていながら、などという小言は露も零さない。ありがたい事だ。ただ私に同様、皇太子の豹変ぶりに驚く。

 そして中務宮はといえば、単身で春宮坊にやって来て、応接室で私と向かい合う。

「あの女の悪評など、あげつらうも面倒だ。噂では、あちらこちらで聞き耳を立てているそうだ。この度の事も、いわば自業自得だろう。皇太子から出入りを禁じられているのに、勝手に忍び込んだ。命令に逆らって喚起に触れたのだから仕方がなかろう」そうは言うが、納得している表情でもない。

「出入り禁止とは言われていましたが、いつ、そのように言い渡したのか。あれを嫌うておられる様子は、以前より見られましたが」

「いつかは分からぬが、腹に据えかねたのであろうよ。四六時中、陰から覗き見られていれば、皇太子でのうても腹を立てる」我が事のように言う。

 覗き見や聞き耳には、この人も覚えがあるのだろう。犬女の悪評はあちこちで聞く。先の御代の事とは申せ、五位になど叙せられ、役職付きにもなっている。そのために大抵の所には入り込める。その特権を悪い方に利用しているのだから、大いに迷惑だ。

「それで、犬女の怪我はどうなのか」同情など微塵も見せずに聞く。

「命には別条ありませぬ。目からは逸れていたようで、そちらにも支障はないそうです。ただ、頬の骨にひびが入って、ひどく腫れ上がっているとか。おそらく、傷も残るのではないかと医師が言うていました」

「腫れは元々であろう。今更何を言うか」冗談でもなさそうな口調だ。

「正直な話、舎人や内侍ないしらはいい気味だと思うているようです」一応、私は声を潜める。

「そうであろうな。これに懲りて、当分は動くまい。御身らには引き続き、皇太子の様子に注意をしてくれ。犬以外にも、何か詰まらぬ手出しをしてくる輩がおるやも知れぬ」

「かしこまりました」

 中務宮にしても私たちにしても、事を起こすのは外の者だと思っていた。


 それから十日もしない日、私は左京北一条第で、中務宮と種継たねつぐと顔を突き合わせていた。

 水の湧く池には蓮の葉が生い茂り、午後の日に開きすぎた花が二つ三つ顔を覗かせる。朝方には彼方此方あちこちの木でうるさい程に蝉が鳴いていた。しかし、暑さの盛りの今は鳴きやんでいる。風の通る広廂では、背の黒い猫が我が物顔に伸びて眠っている。

 そして私たちは、池の畔の木陰に小さな円卓を置き、椅子を三脚運ばせて話し込む。

「東宮傅や年寄どもは、騒ぎを外に知らせる気はない。保守もほどほどにしておかぬと、更に事が起きた時が面倒だ」不敵に笑うのは種継だ。

「まったくだ。中務省の管轄故に、俺に一任したのではないのか。それを今更、省内に留めておけと威圧的に言う」円卓に頬杖を突く中務宮の、一人称は今日も俺だ。

 ここで言う騒ぎは、二日前に中務省が管轄する陰陽寮おんようりょうで起きた。舎人を二人連れ、宮内を散策すると言って皇太子は春宮殿を出た。舎人らの証言によると、陰陽寮に皇太子が尋ねた相手は、四等官や専門職の者ではなかった。使部に話を聞きたいと言い、舎人らには下がっていろと命じた。

「しかし、何故、他戸おさべは使部と揉める羽目になったのだ」

「使部は普段の仕事の事を聞かれただけだと言うています。皇太子はその者らの態度が気に食わなかったと、言い張っておられる」私は答える。

「様子を見ていた者の証言もあります。使部は皇太子と少し言葉を交わしたようです。そこで何かを聞かれたのか、急に戸惑う様子を見せたとか。そして、にわかに立ち去ろうとした。むしろ、逃げ出したようにも見えたと」種継が補足する。

「その何かを互いに黙秘している訳です、皇太子も使部も」

「だからと言うて、逃げ出した相手に飛礫つぶてを投げつけるのも、有るまじき行為だ」

「ただ気になるのは、使部が陰陽頭おんようのかみの子飼いの類といわれている輩だという事です。寮内の雑用以外に、頭の個人的な仕事もしている類でしょう」私なりに調べた事も付け加える。

「なるほど。もしも大津大浦おおつのおおうらが対応に出ていたなら、痛い目に合うたのはそちらやも知れぬな。犬女にせよ大浦にせよ、他戸に何の恨みを買っておるのやら」

皇后おおきさきの事と、御思いですか、やはり」

「否定はせぬ。まあ、何と言うか、他戸にとっての母親は、あくまでも井上皇后いのえのおおきさきだ。母親に仇をなす輩を放って置く訳には行かぬか」

 中務宮は、皇太子が生母の存在を知っているのではと疑っている。よしんば、それを知っていたところで、殆ど会った事もない女を母親と慕いもしないだろう。母親と思ってきた皇后にこそ情も湧くというものだ。

「しかし、皇后と大浦に何の確執があるのか」

「以前に皇后宮への出入りを禁じられた事が、関係しているのでしょう。あの時、大浦は紀益女きのますめと関わった者を皇后宮で探していた。その一人が皇后であるとも知らずに」

「一度、大浦を問い質す必要があるやも知れぬな」

「大津大浦もですが、紀益麻呂きのますまろ裳咋足嶋もくいのたるしまの事は、どう思われているのでしょう」種継は小さく首を振る。「益麻呂は皇后に協力したとはいえ、呪詛ずそをそそのかしたようなもの。足嶋は密告という形で裏切った。それぞれの事情を理解していたとも思えませぬし」

「恨むのなら、その二人か」

「とは申せ、二人とも行方は知れませぬが」

「ゆえに、手近にいた者に怒りをぶつけた、というのも納得がゆきませぬが」私は自分の言葉に苦笑する。

「案外、他戸は理解しているのやも知れぬ、それぞれの事情とやらを。もしかしたら、我々の気づいていないような事も知っているのか」

 山部親王やまべのみこは腑に落ちない様子の表情で、考え込むように腕を組む。


 周囲の者らは皇太子の変わり様に戸惑う。そうして、更に三度目の騒ぎが起きる。報告によれば、この度は飛礫ではない。様子に注意するように命じられた、舎人や女孺に切り付けたという。切り付けたと言っても、皇太子が持っていたのは小ぶりの刀子とうすらしい。相手の舎人も手の甲にかすり傷を負ったに過ぎない。逃げようとした女孺に至っては、転んで肩を打ち付けた程度だという。

 それでも先の二例のように、他者より嫌われたり怪しまれたりする者相手ではない。頻繁に顔を合わせている者たちだ。何やかやで、春宮大夫、東宮傅、中務宮が再三に集まって頭を抱える羽目になる。

 奇しくも同じ日、紀寺きでらから報告が届く。紀益麻呂が姿を現した。益麻呂にしてみれば生まれ育った寺で、知己も大勢いる。しかし、誰かを訪ねて来たという訳でもない。数日前より何人かが姿を見ているが、挨拶を交わした以上の者もいない。

「益麻呂はしばらく泳がせておけ。今の問題は皇太子だ」

 中務省の執務室で、山部親王は苦々し気な表情で窓の外を見る。雨が近いようで、何羽かの燕が低く飛んで行く。曹司を覗きに来るような不届き者はいない。それでも親王の声は低く潜められる。

「舎人らの話では、皇太子が話題にしていたのは、伊勢斎宮いせのさいくうの事だそうです」私はその横顔に向けて言う。

「つまり、酒人さかひと卜定ぼくじょうの事か」

 おもむろに視線がこちらを向く。この人の内では、斎宮は既に酒人内親王で決定しているようだ。

「今の状況では、卜定以前に不適切と神祇官じんぎかんが判断しかねない、そのような事を言っていたようです」

「それに他戸が激怒したのか。あれにも思うところがあるのだろう。酒人が斎宮になれぬなら、自らにも何かあると怯えているのか」

「御身様の前では、そのように振舞われるのですか。私の見る限りでは、迷いはあれども恐れる様子は見受けられませぬ」

「そうか。私の前でも同じだよ。それ故に分らぬ、他戸の豹変ぶりが」

 腕を組む親王は、答えを探す訳でもなく再び外を眺める。

「益麻呂が紀寺に現れた事と、何か関係でもあるのでしょうか」

「紀寺か。何か探っておるのか」問いかけるでもなく、こちらに目を向けつつ言う。

「紀寺で探れる事とは、さて……」

「とは言え、益麻呂は宮内で人目につきとうはない。では、あれの目的は皇后に会う事か」

「なるほど。もしかしたら、皇后と皇太子の間を取り持つような者が、あの寺にいるとも考えられましょう」

「寺におるか、寺に関わる者がこちらの周辺におるのか」

「元が寺奴てらやっこで、内原直うちはらのあたい賜姓しせいされた者ですか。春宮坊の下級役人として入り込む事は可能です」

「探してみる価値はあるやも知れぬな」

「早速に、調べてみます」

 この類は私よりも、槻本老つきのもとのおゆが適任だ。中務宮の命令だと伝えれば、すぐにでも動いてくれるだろう。私にできるのは、そう、この度も生きていない者に話を聞く事か。

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