第56話 宝亀三年五月 今更に決意す
「私と犬が親しいなどとは、論外も甚だしい。
「飽きたのではのうて、
腐れ縁同士としては、今更、歯に衣を着せる気もない。
「私などを恐れるとは
言葉の内容に反し、殊勝さなど伺わせない口調と笑顔を見せる。何やら機嫌が良さそうだ。
「汝、知己の夢に立つ事があると言うていたな」
私が聞くと、やや胡散臭げに視線を向ける。それが本当ならば、私以外にもこの女に悩まされている者もいるはずだ。
「一層の事、
「下世話な提案だ。あれを喜ばせて、私に何の利がある」
「汝の利など俺が知るか」
「御身、私に犬を呪わせでもしたいのか」
珍しく怒ったらしい。今まではこちらを小馬鹿にしたような態度をとっていたが、互いに慣れ合ってきたか、些細な感情を表すようになっている。
「いいや、犬女などはどうでも良い。汝に聞きたい事がある。汝の兄と
「もちろんある。
まさに、それがどうしたと言いたげな表情を見せる。
「
「思うておるやも知れぬ。だが、犬が邪魔だ。それ以上に、皇太子の御心が分からぬ。そう思うているのであろうな」
「兄とは話をせぬのか、このように」
「したいと思うても、初っ端に追い払われた。故に兄の夢には立ち難い。様子を漠然と知る事は出来ても、直に話は出来ぬ」
「汝、誰の夢にも立てるのであろう」
「私を知っている者の夢ならばな」
何を今更に聞くかと言いたげな顔つきだ。
「それならば執着する相手の許に行く事もできよう。俺の所で愚痴などこぼしておらぬで、さっさと
「とうにしておるよ。だが無視されている」
細く溜息を漏らす。私としては、この女の溜息など初めて見た。
「姿が見えぬとか、声も聞こえぬとかではないのか」
「いいや。時々、表情を変えたりこちらに目を向けたりする故、気付いている事は確かだ。それなのに、素知らぬ振りをする」
「なるほど、要するに嫌われているのか」
「うるさい。だが、
今度は、どこか誇らしげな口調になる。紀寺にいた頃は感情豊かな女だったのかもしれない。貴人に交わり、理不尽を押し付けられ、感情を殺す事をおぼえてしまったのか。
「ああ、そうだな。汝の言葉を必要と思われているのやも知れぬな。汝はあの御方の役に立ちたい、その事は理解されておられよう」
「そう思うか」
まさに花が開くような笑みを見せる。そして私は密かに
いい加減、
勤務時間が終えた後、近衛府を訪ねる。
それぞれに
「患って三日四日と聞くが、犬女か呪女の兄にでも、
「むしろ、毒でも盛られたのではないか」真面目な顔で船守が返す。
「特に訝しんで騒ぎ立てする者もおらぬようだ。病死で片付くだろう」私は言いながらも、耳元に飛んで来た蚊を追い払う。
中庭の
「雑色が一人死したところで、たいして話題にも上らぬ。そう踏んでの犯行やも知れぬ、手を下した者がおるとしたら」胡散臭げに応える船守が首筋を平手でたたき、翳に手を伸ばす。そして、種継と私にも差し出す。
「まあ、雑色の事はともかく、先の猿の首だが、
「あれが一人で謀ったと思うのか」種継が聞く。
「呪女が
「まあ、そうだな。叔父御や
「そうなると、益麻呂は何のために行方をくらませたのか。犬女の裏でもかくつもりか」船守が独り言の口調で言う。
「そうであって欲しいところだ」私は答える。
「何故に」胡散臭げに目を向ける。
「今までの経緯を見るに、益麻呂は
「なるほど。益麻呂にしてみれば、犬女の稚拙な仕業を自らの犯行などと思われとうもない。矜持もあろうな。故に、犬女の裏をかきたいと」
「そうして欲しい、俺としての願望だがな」
船守の言った事は、先の夢で益女がこぼした愚痴そのものだ。益女の言うには、兄が何かをすれば横から犬が出て来る。そして、自らが行った事と言わんばかりに、業績やら話題をかっさらって行く。おかげで世間は、益麻呂と犬女が協力関係にあると思っている。それが続くと犬のお粗末な行為が、こちらの仕業と噂されかねない。今は一旦、身を隠して、しかるべき後に何らかの処置をとるつもりでいるに違ない。
「まあ、分からぬでもない。だが、あれは行幸の場に気配も見せておらぬ。今は離れた場所で様子を伺うておるのか」
「
「その代表が
「そういう事だ。あれとしては呪詛というよりも、脅しのつもりやも知れぬ。そうでなければ、よほどの間抜けな所業だ」
「確かに。やっている事が
「おおよそ、策士になどなれまいな」種継もうなずく。
三人して嘲笑する傍らで、篝が音を立てて崩れる。船守はにわかに腰を上げ、律儀にも篝の籠に薪を補充しに行く。人払いをすると、このような手間が掛かってくるのも難儀だ。
「御身らは犬女を小物と侮うていよう」
戻ってきた船守が腰を下ろしながら言う。
「御身もだろうが」私は肩をすくめる。
「そうだな。だが、小物とて地位を与えて、少なからずの権力をくれてやれば、要らぬ害をいくらでも撒き散らす」
「確かに。要らぬ手出しをさせて、詰まらぬ方向に事をややこしゅうする。そうなる前に除かねばならぬ」種継が片方の口角を上げて笑う。相変わらず、物騒な事を平然と言う。
除くと一言で言っても、我々同様に五位の役人だ。
「犬の排除は叔父御らも思うておる。だが、我が
「決意とまで言うのならば、あえて聞く。御身らは皇太子をどうしたいと思うておるのか。御身自身ではない、御身の家がという意味だが」船守が翳を取りながら、どこか、さり気無さを装って聞く。
「式家の総意は若翁の擁立だ。御身らの前だから言える。有体に言えば、
常々思うが、この男がこういう話し方をする時は妙に空恐ろしい。船守にしても、種継ら藤原式家の願望など、とっくに知っている。
「親王は御身らの思いも、天皇の御意志も承知しておられる。それなのに迷うておられるのだな」私も今更のように口にする。
しかし、正直に言えば私も迷っている。春宮房に配属され、皇太子と直に接して言葉を交わし人となりを見て来た。今更に言えば、皇太子が皇后の子として即位し、山部親王の姫を妃に迎える。山部親王は外戚として政界を牛耳り、権門らにも一目置かれる。そのような未来があっても良いのではないのか。
「叔父御の言葉を借りれば、若翁は家族に恵まれている。それ故に肉親の情に弱いのだよ。それは俺も認めている」
「まあ、俺もそれは分かる。だが、他戸親王の即位を許せば、あの方も喰らわれる百の
やはり私も親王たちに同様、宇佐大神の託宣に縛られる。
「ああ、真っ先に喰らわれても不思議はない。そのような立場なのだな」
「他戸親王自身はどうなのだ。今までは皇后の言いなりだったが、ようやく自らの意思を確認し始めておられよう」船守が私に向いて聞く。
「あの方も迷うておられる。それぞれに立場はあろうが、四人の兄を差し置いての立太子だ。神意に逆らう、望まれていない日嗣なのではないのか、そこまで思い詰められていた」
「
「そうだな。だが、いつの世も覇権争いは、配下につく豪族どもの殺し合いでもある。政争に巻き込まれる者は、常に喰らわれる万の民の一人に成り得る。我々とて同じ穴の
囁くほどの声でそう言って、種継は珍しく溜息をつく。
「覚悟をしておけ、そういう事か」私は問うともなく口にする。
「降りると言うのなら、それこそ……都から出て行け。そのようなところか」船守は何故か小さく笑う。
「今更、誰も降りはせぬよ。俺が都から出て行くのは、事を終えてからだ。あの御方が立太子する姿を見てから、どこかの国司にでも任命してもらう」私も不敵な振りで笑って見せる。
今、何気に思う。私たちは三人三様に、この先に起こるかもしれない、不確定な出来事におびえている。
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