第55話 宝亀三年五月 山背行幸 御狩りの後
東の空が明るい。夜を徘徊する獣は去り、草を食む獣らが目を覚ます。そして、それを待っていた
最初の得物を追い込み矢を放つ頃には、日が山の端から顔を出す。今朝は雲がやや多い。雲の処々は赤く染まっている。昇って行く日の両脇に虹色の光が短くも鮮やかに見える。これを吉と見るか不吉と見るか。ともあれ、このような空模様の日は天気が崩れやすい。
仕留めた獲物を運ぶ頃には、高く昇った日を取り巻く虹が現れ、日の下、南の中天にも緩く下向きの弧を描く虹が見える。
「瑞祥……なのか、あれは」
多くの者らが同様に、吉兆と凶兆の入り混じるような空を見上げる。しかし、下人らは忙し気に獲物を運ぶ。裏では
雨季直前の空には雲が多い。日差しは多少遮られても、風がないので蒸し暑い。宴の前の余興として行う
籠から放たれた鳥に向け、数人ずつが次々と石を放つ。仕留めたのは三人ばかり、皇太子が直々に言葉をかけ褒美の品を賜る。その際に
「何のために猿など狩っていたのだ」
舎人に替わって私が直々に尋ねると、五位の朝服に臆したか言葉を切って低頭する。構わぬから答えよと促すと、少しばかり開き直った表情で顔を上げる。
「知り合いに頼まれたのですよ。確か、
やや気遅れ気味の口調で、首を傾げながら答える。
「飛礫を打っていたな。生け捕りにする必要はなかったのか」
「毛皮が欲しいと言うておりました。それならば、こちらで処理をすると申し出たのですが、その必要はないと言われました」
そう答えて再び首を傾げる。頼んだ雑色の名を聞くと、悪びれた様子もなく
その後、寺奴を返して内原直を呼びつける。予感はしていたが、果たして見覚えのある男だった。いつぞに
「
舎人が問えば、かなり不服そうに答える。
「もしかして、猪のように肥え太った
男は私の方をたいして見もしないで、怒った顔でうなずく。重ねて、先の騒ぎで流罪になった、陰陽寮で使部をしていた者を知っているかと尋ねる。ここでようやく男は私の顔をはっきりと見る。
「その者も皇后宮の内侍に頼まれ、届け物をしていた。安登堅石女という内侍だ。確か
怪訝そうな男の表情が、更に強張り気味になる。皇后宮職にいた私の事は憶えているようだ。
「さて、名前はよう憶えておりませぬが、御顔を見れば分かるやもしれませぬ」ややも、しどろもどろに言う。
次はどう切り出そうかと考えていると、にわかに男の背後の扉が開く。
「顔を確かめようにも、その女は既に都にはおらぬがな」
言いながら平然と入って来た姿に、思わずため息をつきかける。内原直は恐る恐る振り向き、更に身を縮める。このような場所に親王の紫の朝服がやって来たのでは、普通の者が驚き緊張しない訳もない。大体この人は、顔は出さずに話を聞かせてもらうと、隣の部屋で様子を窺っていたはずだ。今頃、一緒に話を聞いていた右大弁が、隣の部屋で頭でも搔いているところだろう。
「使部が内侍に届けたのは
案の定、山部親王の言葉には誰も返事をしない。
「それでだ、汝、先の陰陽頭の行方を知らぬか」
そのように聞かれて、無位の雑色が直答できるはずもない。恐れ多いとの意思表示なのか、両手を膝の上に置き下を向いて固まっている。
「知っておるようだな。汝に命令した内侍と、先の陰陽頭の関りを知っておるのなら教えて欲しい」
下手に出ているつもりで親王は問いかけるが、もちろん反応はない。
「どうだ、知っているのか」私は重ねて問う。
「存じ上げませぬ。先の頭の行方も、あの内侍との関係も」下を向いたまま内原直が小声で答える。
「では、頭の妹は存じておるか、既に故人だが。その者と件の内侍には関りがあった。その事は知っていような」私は更に聞く。
「先の頭の妹御は、かなり以前に亡うなられていましょう。あの内侍と共に先の女帝の側近うに仕えていたくらいしか、私は知りませぬ」
結局、この程度の事を聞き出しただけで雑色らを帰した。猿を捕らえる命令を出した
行幸から戻っていくらもしない内に、雨が降り出し、幾日か続く。どうやら雨期に入ったようだ。さらに何日か後、雨は中休みとなる。日はほとんど射さないが、風は弱く蒸し暑い。外を少し歩いただけで、汗がにじんでくる。そして私は、久々に訪れた春宮殿の中庭で、珍しい場面に遭遇する。
更に大きくうなずいた衛士は、身を屈めて庭に敷かれた小石を選ぶように拾い、皇太子に見せる。そして立ち上がると階に向く。
皇太子が再び階を指差し、何事か命じる。衛士はやおら右手を肩の後ろに軽く振りかぶり、間髪を入れぬ素早さで小石を投げる。石の軌道を確かめるよりも先に、中央に置かれた土器の碗が弾け飛ぶ。続いて右上で別の碗が砕け、更には左下の小皿もあらぬ方向に飛ばされる。
「皇太子様」私は近づきながら声をかける。
「ああ。
一礼してこちらを見る衛士を見れば、行幸の時に飛礫打ちに参加した者の一人だった。飛ぶ鳥を仕留める程の、見事な腕前の持ち主だ。皇太子が興味を示してもおかしくはない。
それにしても、ここ最近の皇太子の変わり様は、いささか奇妙にも見える。母親の元
床下に潜り込んだり、衛士に遊びを習うのも好奇心旺盛ゆえだろう。こちらが暢気に笑っているその内に、兄宮同様、人を驚かすような事をしてくれはしないか、少しばかり心配になる。
「御狩に同行させたのは、間違いではなかった。最近では弓馬にも親しんでおるし、良い傾向だ。衛士や舎人と気軽に言葉を交わせるのも今の内だ。様々な物事に興味を覚え、身に付けて行くには良い時期であろう」
皇太子の様子を報告すれば、山部親王は鷹揚かつ楽しそうに言う。
「皇太子が見分を広める事については、私も異存はありませぬ。しかし、あの御方も年相応の好奇心を持っておられます」
「年相応と言うよりも、人並外れたとでも言うか。中途半端に隠し事などしようものなら、次は何をしでかしてくれるやら。血は争えぬな」
溜息交じりに親王は笑う。
「この度の呪詛の事も、興味を示しておられるのは間違いありませぬ。あの呪具の事、どれだけの者が知っているのでしょう」
「我々と、内侍や舎人の二人か三人程度、そして陰陽頭の
「面識くらいはあるでしょう。犬女は紀益麻呂の妹と関りが深かったと、何人もの証言を得ています。益麻呂本人とも関わっていた可能性もありましょう。大浦と益麻呂の不仲を考えれば、大浦と犬女には大した関係もないと思われます」
「そうやもしれぬな。
「内原の
「そうであろうな。詰まらぬ鎌はかけてみたが、私も雑色ごときが関わっているとも思わぬ」
親王は鼻先で笑いながらも、何度目かの溜息をつく。
「思うのですが、益麻呂の失踪は、犬女との関りを避けたいゆえではありますまいか」
「つまり、この度の事、益麻呂は無関係か。何故、そう思う」
「先の内裏での事件、益麻呂は極めて個人的な動機で動いていたのでは。そのように思えてくるのです」
「個人的か。誰ぞに頼まれ、いや、むしろ役に立ちたいと思い、自発的に協力をしたか」
「しかし、この度の相手、あの内侍には関りとうない」
「まあ、心情的には分かる」
親王は笑うが、いつものような精彩はなく、どこか疲れているように見える。人前では毅然とした態度を見せるが、一連の騒ぎの標的にされている可能性は大きい。心持は決して穏やかではいられまい。
「それで、件の犬女は何食わぬ顔で出仕しておるのか」
「以前よりは大人しゅうしています。猿の首が騒ぎになっていない事や、御狩りの余興の飛礫打ち疲労など、あれなりに勘繰る事はありましょうが」
「喉元過ぎれば何とやら、じきにのさばり出すであろう。引き続き、監視を怠らぬよう頼む」
「承知致しました」
少しばかり遠くで鳥の鳴きかわす声が聞こえる。雨は既に上がっている。これで少しは涼しくなるか、またも強いてどうでも良い事に気を紛れさせる。心が疲れているのは、私も同様だ。
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