第54話 宝亀三年五月 山背行幸 不機嫌な兄と無邪気な弟
その
「早速だが、見て欲しい物がある。縁まで上がって参れ」
私が参上の挨拶をするが早いか、親王は慇懃な声で言う。
我々が広縁に上がると、親王は不機嫌そうな表情で座り込む。それを見る右大弁も、小さくうなずいて横に腰を下ろす。板の間には
「
親王が顎で示す膝の前には、黒い巾着状の袋が乗った盆がある。
「何にございましょう」
老と共に二人の前に座り、私は控えめに問いかける。
「とにかく開けて見よ」
心なしか怒ったように親王は言い、
「拝見致します」
指名された事に戸惑う老が、盆ごと巾着を引き寄せる。巾着の大きさは大人の掌に乗る程度で、黒い
「これは……」再び眉をしかめた老が呟くように問う。
汚れた紐で執拗に結わえられた上に、何やらすえた異臭を放っている。
「開いて見よ」親王は依然、不機嫌な様子で言う。
老にしては思い切り悪く塊に手をかけ、紐の端を捜すため、躊躇を露わにひっくり返す。端はすぐに見つかったが、手の動きはおぼつかない。眉間のしわは更に深くなったが、今度は口を引き結び歪めたままで言葉もない。そして、その手元からは鉄錆と獣脂の入り混じる異臭が漂ってくる。
私は子供の頃から、大人たちに交じって狩猟には何度も行った。任官してからは、武官として戦場にも行った経験がある。決してこの臭いを知らない訳ではない。だが皇族の別業で、二人の高官を前にする状況では、あまりに似つかわしくない。
「猿……でしょうか」老が籠った声で呟く。
「これは
汚れた布の上には、銀色の混じる茶色い毛の生えた丸い塊が乗る。先程、家麻呂の屋敷で猿を
「
「ここで見つかったという事は、
「いいや、私の物にだ」半ば笑っているとも見える表情で親王が答える。
「舎人らの手違いで、
「そう、
今更、驚きも
「御身の見つけた
布の端をつまんで少し引き寄せ、老と共に覗き込む。半ば猿の口に
「私の髪の毛だとすれば、何とも、厄介だな」親王は溜息をつく。
「厄介とは」右大弁が問う。
「我が家の
右大弁は困ったような笑いを浮かべてうなずく。二人して若い頃に憶えのある事らしい。
「猿といえば、春宮大夫から報告が上がっておりませぬか、皇太子の視察中の事での事が」私は遠慮がちに二人を見回して聞く。
「ああ、地元の者らしい輩が、猿に
「可能性だけです。行幸の列が来るやもしれぬような場所で、わざわざ猿を捕らえるのも不自然ですし」
「しかし、否めぬ。その者らは誰ぞに、猿を捕らえて来いと命じられた、特に理由も知らされずに。命じられた者も、猿の毛皮で
靭(やづつ)に毛皮を張るのは、上位者の間ではやっているらしい。猿の毛皮を使う事も、この辺りでは珍しくないのかもしれない。
「つまりは、皇后宮に髑髏を持ち込んだ時と同じか」右大弁も言う。
「確かに、持ち込んだ
「知っているのは命じた者のみか。この度も、これを櫃に入れた者は、どこまで真相を理解していたものやら」右大弁も溜息をつく。
「使い走りは小者で、実行役は後宮の内侍か。いずれにしても、このような呪具が出てくるのだから、
親王は考え込むように語りながらも、わずかに視線を動かす。
私は顔だけ向け、無言で問いかける。すると、立てた指を口の前にかざし、誰もしゃべるなと振りで示す。そして私たちは顔を見合わせ、耳をそばだてる。親王は座った膝の先を見たまま、殆ど音を立てずに立ち上がる。着いて来るなと言うように、小さく首を横に振ると、足音を忍ばせて素早く
広縁の下で何かが動く音と気配がする。犬でも入り込んだのか、それにしては音が大きいようだ。
「何をしている、出て来ぬか」
裸足のまま庭に降りた親王が、縁の下に声をかける。
縁の下の物音が止む。
「何をしているのかと聞いている、
座ったままの私たちは、またも顔を見合わせる。そして次の瞬間には、揃って腰を浮かせ階を下りる。
他戸皇太子が縁の下から這い出す方が、右大弁が庭に降りるよりも少し早かった。
「やはり、私などでは、すぐに気付かれてしまうな」
照れ隠しなのか、いささか怒ったような口調で皇太子が言う。その表情も口調も兄親王にそっくりで、私は思わず笑いをこらえる。
「何を探るつもりだ、まったく。誰からこのような事を教わった」
山部親王にしてみれば、怒り切れない複雑な様子だ。公の場所ならば、兄でも皇太子には敬語を使う。しかし、このような私的な会話では、立場が逆転する。
「要らぬ事に自ら首を突っ込みに行くのは、山部の悪い癖だ」皇太子は顔を上げて言う。
「何だと」
「兄上が、そのように言うておられました」
弟にはまるで悪びれた様子がない。
「兄上とは……
兄は益々、困ったような表情になる。そしてにわかに階に向くと、さっさと広縁の上に戻る。
「それで、
右大弁は呆れ顔になりながらも、山部親王に続く。
「あの女が何を隠そうとしているのか、そいつを知りたかった」
二人の後に続いて縁に上がった皇太子が答える。
「あの女とは、
私は皇太子の背後から、思わず口を出す。
「そうだ。
既に縁に座る兄親王と右大弁を見て、老と私を振り返る。
「
坂上命婦とは近衛中将の息女で、皇太子付きの内侍として出仕している。
「
「何が良いのだ、まったく」
山部親王が代わりに溜息をつく。この会話から察するに、坂上命婦の名前は全子で、山部親王とはそれなりの関係らしい。
「兄上の荷物から猿が出て来たのですか、そのように聞こえましたが」
再び私たちを見回しながら皇太子が問いかける。本当に、まったく悪びれた様子がない。
「猿と言うても頭だけだ」山部親王がぞんざいに答え、縁に置かれた盆を顎で示す。
「
「確証はありませぬが、違うとも言い切れませぬ」私の答えは相変わらず歯切れが悪い。
「では、舎人が見たという者を見つけるに限るな」
皇太子は言いながら、二人の大人の向かいに座り、盆の上に置いたままの猿の頭を軽く眺める。
「見つけると言いましても、闇雲に探して見つかる者でもありませぬ」右大弁が慇懃に言う。
「そうだな。では、
「成る程、良い案かと思います」
私は答えつつ、老と並んで皇太子の後ろに座る。
「近隣の者、衛府の舎人、寺社の奴からも手練れを集めるよう、速やかに命じてくれ」
皇太子がすかさず命令すると、右大弁が承知したと応じ、老と私にうなずきかける。
こうして、御狩の後の宴の席、余興として飛礫打ちの披露が行われる事となった。
例によって
そして私は、皇太子を今日の寝所まで送り届けるように、仰せつかった。
「
二人だけになった道すがら、皇太子はふと立ち止まり聞く。
「御存知でしたか」
私も立ち止まり問い返す。今更だが、我ながらどこか間の抜けた受け答えだ。
体ごと振り返る皇太子は、少し話をしたいと言う。
「寝所まで行くと、舎人や内侍に聞かれて煩わしい。この辺りで立ち話をするか」
「畏まりました」
やはり私の応答は、どこか的外れな気がする。
「あれを持ち込んだのは、流罪になった
「神護景雲三年の事だと聞いておりますが」
問いの真意が分からないまま答える。
「信じておるのか、汝は」
いささか鼻白む表情でこちらを見る。
「信じるとは」
「汝があれを見つけるよりも以前から、私は何度もあの床下に潜り込んだ事がある。何度かは舎人に見つかって怒られた。だが、私も追いかけて来た舎人も、髑髏どころか鼠の死骸すら見ておらぬ」
床下に潜り込んだ経験が無くても、当然に思う疑問だろう。埋められていたならばまだしも、階近くの柱の裏に置かれた物に、誰一人、三年以上も気付かないはずがない。
「あれが呪具として置かれたのは、汝の見つけた直前、呪詛自体は未然だったのであろう」
唸りたい気分で、皇太子の顔を見下ろす。相変わらず怖じない視線が見返して来る。
「公式の発表では、様々に疑問や矛盾があって納得が出来ぬ。官人らの噂では、呪詛の対象は
「内侍司では、どの様に言うておられたのですか」僭越と思いながらも聞く。
「
「さて、私には分かりかねます」
「そうだな、傍で聞いている分には意味が分からぬ。そもそも、足嶋の縁者とは誰の事か」
向けられる黒目勝ちの目は、天皇や中務宮にそっくりで、私はただ気後れする。
「母上にかつて仕えていた、
容赦ない問いに、思わず無言でうなずく。
「その者は何をしたのか。何故、母上が、
知っていても答えられる訳もない。皇太子も答えは求めていないようだ。私が無言でいる事で、自らの情報の正否を確かめているのかもしれない。
ふと、目の端に舎人が二人ばかり、歩いて来る姿が映る。それを助け船とばかりに、私はそちらに顔を向ける。気付いた皇太子も同様に、背後を見る。そして何もなかったような表情に戻ると、きびすを返して舎人の方に静かに歩み寄る。
年嵩らしき舎人が、迎えに参りましたと笑顔で頭を下げれば、皇太子も大儀だと労いの言葉をかける。
「では
後に従う私にも、無邪気な笑みを見せる。
姿形は年若い。しかし既に、人を喰らう龍だ。内心で呟きながら後姿を見送る。
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