第54話 宝亀三年五月 山背行幸 不機嫌な兄と無邪気な弟

 加茂野第かもののだいは白壁王家の別業べつごう(別宅)だっただけあり、全体の造りが北一条第きたいちじょうだいに良く似ている。違うのは、池の水が遣水やりみずで外の泉川から引かれているところだろう。北一条第では、池の底から湧いていると聞いた。中庭に面した寝殿には広い縁があり、一部は池にも面している。

 その広縁ひろえんに、山部親王やまべのみこが右大弁の藤原百川ふじわらのももかわと並んで立っている。決して楽しげには見えない表情で、内舎人うどねりに労いの言葉をかけ、早々に退出するように命じる。

「早速だが、見て欲しい物がある。縁まで上がって参れ」

 私が参上の挨拶をするが早いか、親王は慇懃な声で言う。

 我々が広縁に上がると、親王は不機嫌そうな表情で座り込む。それを見る右大弁も、小さくうなずいて横に腰を下ろす。板の間には円座わらうだも何も敷かれていないが、二人ともそれを気にする様子もない。

御身おみらも座れ。これを見て欲しい」

 親王が顎で示す膝の前には、黒い巾着状の袋が乗った盆がある。

「何にございましょう」

 老と共に二人の前に座り、私は控えめに問いかける。

「とにかく開けて見よ」

 心なしか怒ったように親王は言い、おゆに顎をしゃくって促す。

「拝見致します」

 指名された事に戸惑う老が、盆ごと巾着を引き寄せる。巾着の大きさは大人の掌に乗る程度で、黒い反古ほご布で作られ、同じ布を裂いたひもで口を閉じてある。上体を乗り出す老は、少し不器用に紐を解き、口を押し広げて覗き込む。少し眉をしかめた後、顔を上げて前の二人を見る。親王はぞんざいにうなずく。そして老は袋の口を更に押し広げ、一掴み程度の汚れた布の塊を引きずり出して盆の上に置く。

「これは……」再び眉をしかめた老が呟くように問う。

 汚れた紐で執拗に結わえられた上に、何やらすえた異臭を放っている。

「開いて見よ」親王は依然、不機嫌な様子で言う。

 老にしては思い切り悪く塊に手をかけ、紐の端を捜すため、躊躇を露わにひっくり返す。端はすぐに見つかったが、手の動きはおぼつかない。眉間のしわは更に深くなったが、今度は口を引き結び歪めたままで言葉もない。そして、その手元からは鉄錆と獣脂の入り混じる異臭が漂ってくる。

 私は子供の頃から、大人たちに交じって狩猟には何度も行った。任官してからは、武官として戦場にも行った経験がある。決してこの臭いを知らない訳ではない。だが皇族の別業で、二人の高官を前にする状況では、あまりに似つかわしくない。

「猿……でしょうか」老が籠った声で呟く。

「これは何処どこに」思わず私は声に出す。

 汚れた布の上には、銀色の混じる茶色い毛の生えた丸い塊が乗る。先程、家麻呂の屋敷で猿を飛礫つぶてで狙った者の話をした。そしてここで、切断された猿の頭に出くわす。何やら話が出来過ぎている。

ひつの内に入れられていた。着替えて片付けられた衣と共にだ。余程の事がない限り、都に戻るまで中を検める者もおるまい」右大弁が静かに言うが、表情は穏やかとは裏腹だ。

「ここで見つかったという事は、天皇すめらみことの衣の櫃に入れられていたのですか」私はおもむろに問いかける。

「いいや、私の物にだ」半ば笑っているとも見える表情で親王が答える。

「舎人らの手違いで、皇太子ひつぎのみこ中務宮なかつかさのみやの荷も、こちらに運ばれてきたようだ。内侍ないしらが荷が多すぎると言うていたので、宮の立会いの下、中を検めた」右大弁はなおも平静を装って語る。

「そう、他戸おさべの荷も私の荷も、大半がこちらに来ていた。昨日の着替えで、刀子とうすを帯と共に片付けられてしまった故、ちょうど良かったと中を探らせた訳だが、その挙句にこいつが見つかった」この度も面白そうに親王が言う。

 今更、驚きもいぶかしみもしない。この表情の下で、この御仁は怒っている。

「御身の見つけた髑髏されこうべと同じだ、髪の毛が巻かれていよう」

 布の端をつまんで少し引き寄せ、老と共に覗き込む。半ば猿の口にくわえさせるようにして、長い髪の毛が何本か無造作に巻き付けられているようだ。

「私の髪の毛だとすれば、何とも、厄介だな」親王は溜息をつく。

「厄介とは」右大弁が問う。

「我が家の帳内とねりや家人の関与を疑わねばならぬ。若い頃ならいざ知らず、今更に遊行女婦あそびめ宿でもとどりを解いたような憶えはない故」

 右大弁は困ったような笑いを浮かべてうなずく。二人して若い頃に憶えのある事らしい。

「猿といえば、春宮大夫から報告が上がっておりませぬか、皇太子の視察中の事での事が」私は遠慮がちに二人を見回して聞く。

「ああ、地元の者らしい輩が、猿に飛礫つぶてを打ったという騒ぎか。大事はなかったと聞くが。御身は、これがその時の猿だと疑うているのか」右大弁が胡散臭げに聞き返す。

「可能性だけです。行幸の列が来るやもしれぬような場所で、わざわざ猿を捕らえるのも不自然ですし」

「しかし、否めぬ。その者らは誰ぞに、猿を捕らえて来いと命じられた、特に理由も知らされずに。命じられた者も、猿の毛皮でうつぼでも作ると、勝手に思ったのやも知れぬ」親王は小さくうなずいて言う。

 靭(やづつ)に毛皮を張るのは、上位者の間ではやっているらしい。猿の毛皮を使う事も、この辺りでは珍しくないのかもしれない。

「つまりは、皇后宮に髑髏を持ち込んだ時と同じか」右大弁も言う。

「確かに、持ち込んだ使部しぶは、中身も目的も知らされずに届け物をしています。目的の場所に呪具ずぐを忍ばせた者も、呪詛ずそとは疑うたが、目的は知らなかったと証言しています」私は答える。

「知っているのは命じた者のみか。この度も、これを櫃に入れた者は、どこまで真相を理解していたものやら」右大弁も溜息をつく。

「使い走りは小者で、実行役は後宮の内侍か。いずれにしても、このような呪具が出てくるのだから、呪師ずしが裏にいてもおかしゅうはない」

 親王は考え込むように語りながらも、わずかに視線を動かす。

 私は顔だけ向け、無言で問いかける。すると、立てた指を口の前にかざし、誰もしゃべるなと振りで示す。そして私たちは顔を見合わせ、耳をそばだてる。親王は座った膝の先を見たまま、殆ど音を立てずに立ち上がる。着いて来るなと言うように、小さく首を横に振ると、足音を忍ばせて素早くきざはしに足を置く。

 広縁の下で何かが動く音と気配がする。犬でも入り込んだのか、それにしては音が大きいようだ。

「何をしている、出て来ぬか」

 裸足のまま庭に降りた親王が、縁の下に声をかける。

 縁の下の物音が止む。

「何をしているのかと聞いている、他戸おさべ

 座ったままの私たちは、またも顔を見合わせる。そして次の瞬間には、揃って腰を浮かせ階を下りる。

 他戸皇太子が縁の下から這い出す方が、右大弁が庭に降りるよりも少し早かった。

「やはり、私などでは、すぐに気付かれてしまうな」

 照れ隠しなのか、いささか怒ったような口調で皇太子が言う。その表情も口調も兄親王にそっくりで、私は思わず笑いをこらえる。

「何を探るつもりだ、まったく。誰からこのような事を教わった」

 山部親王にしてみれば、怒り切れない複雑な様子だ。公の場所ならば、兄でも皇太子には敬語を使う。しかし、このような私的な会話では、立場が逆転する。

「要らぬ事に自ら首を突っ込みに行くのは、山部の悪い癖だ」皇太子は顔を上げて言う。

「何だと」

「兄上が、そのように言うておられました」

 弟にはまるで悪びれた様子がない。

「兄上とは……開成かいじょうか」

 兄は益々、困ったような表情になる。そしてにわかに階に向くと、さっさと広縁の上に戻る。

「それで、皇太子ひつぎのみこは何を探ろうとされていたのです」

 右大弁は呆れ顔になりながらも、山部親王に続く。中務宮なかつかさのみやの突飛な行動に慣れているこの人でも、皇太子の破天荒な行動には驚いているらしい。

「あの女が何を隠そうとしているのか、そいつを知りたかった」

 二人の後に続いて縁に上がった皇太子が答える。

「あの女とは、県犬養姉女あがたのいぬかいのあねめでしょうか」

 私は皇太子の背後から、思わず口を出す。

「そうだ。内侍ないしらが、荷が多すぎる、確かめるべきだと言うているのに、一人で要らぬ手間だの、後で自らが確かめるのと言い張る。私でのうても思うだろう、絶対に何か隠していると」

 既に縁に座る兄親王と右大弁を見て、老と私を振り返る。

坂上命婦さかのうえのみょうぶが私に相談してきたのは、皇太子に言われたからですか」右大弁は溜息をつきたそうな表情で言う。

 坂上命婦とは近衛中将の息女で、皇太子付きの内侍として出仕している。

全子またこならば兄上に相談すると思うたのだが、まあ、兄上も来られたのだから、良しとしましょうか」

「何が良いのだ、まったく」

 山部親王が代わりに溜息をつく。この会話から察するに、坂上命婦の名前は全子で、山部親王とはそれなりの関係らしい。

「兄上の荷物から猿が出て来たのですか、そのように聞こえましたが」

 再び私たちを見回しながら皇太子が問いかける。本当に、まったく悪びれた様子がない。

「猿と言うても頭だけだ」山部親王がぞんざいに答え、縁に置かれた盆を顎で示す。

大進だいじょうはそれをあの時の猿と思うている訳だな」

「確証はありませぬが、違うとも言い切れませぬ」私の答えは相変わらず歯切れが悪い。

「では、舎人が見たという者を見つけるに限るな」

 皇太子は言いながら、二人の大人の向かいに座り、盆の上に置いたままの猿の頭を軽く眺める。

「見つけると言いましても、闇雲に探して見つかる者でもありませぬ」右大弁が慇懃に言う。

「そうだな。では、飛礫つぶて打ちの得意な者を近隣から集める。私が命じれば良かろう。行幸の合間に見て興味がわいた、狩の余興に披露せよとでも言うて。その席で舎人に顔の確認をさせる事が出来よう」

「成る程、良い案かと思います」

 私は答えつつ、老と並んで皇太子の後ろに座る。

「近隣の者、衛府の舎人、寺社の奴からも手練れを集めるよう、速やかに命じてくれ」

 皇太子がすかさず命令すると、右大弁が承知したと応じ、老と私にうなずきかける。

 こうして、御狩の後の宴の席、余興として飛礫打ちの披露が行われる事となった。


 例によって陰陽頭おんようのかみが呼ばれる。猿の頭を渡され、この事が外部に漏れたならば、只では済まなくなる故に心して当たれと、中務宮は呪具の処分を命じる。

 そして私は、皇太子を今日の寝所まで送り届けるように、仰せつかった。

いましは内裏で髑髏を見つけたのだったな」

 二人だけになった道すがら、皇太子はふと立ち止まり聞く。

「御存知でしたか」

 私も立ち止まり問い返す。今更だが、我ながらどこか間の抜けた受け答えだ。

 体ごと振り返る皇太子は、少し話をしたいと言う。

「寝所まで行くと、舎人や内侍に聞かれて煩わしい。この辺りで立ち話をするか」

「畏まりました」

 やはり私の応答は、どこか的外れな気がする。

「あれを持ち込んだのは、流罪になった女孺めのわらわだったな。いつ、持ち込んだのか」

「神護景雲三年の事だと聞いておりますが」

 問いの真意が分からないまま答える。

「信じておるのか、汝は」

 いささか鼻白む表情でこちらを見る。

「信じるとは」

「汝があれを見つけるよりも以前から、私は何度もあの床下に潜り込んだ事がある。何度かは舎人に見つかって怒られた。だが、私も追いかけて来た舎人も、髑髏どころか鼠の死骸すら見ておらぬ」

 床下に潜り込んだ経験が無くても、当然に思う疑問だろう。埋められていたならばまだしも、階近くの柱の裏に置かれた物に、誰一人、三年以上も気付かないはずがない。

「あれが呪具として置かれたのは、汝の見つけた直前、呪詛自体は未然だったのであろう」

 唸りたい気分で、皇太子の顔を見下ろす。相変わらず怖じない視線が見返して来る。

「公式の発表では、様々に疑問や矛盾があって納得が出来ぬ。官人らの噂では、呪詛の対象は和嬪やまとのひん難波内親王なにわのひめみこだと言う。しかし、内侍らの噂話ではまるで違う。私の耳には、官人の話よりも内侍司ないしのつかさでの話の方が、遥かに容易に入って来る」

「内侍司では、どの様に言うておられたのですか」僭越と思いながらも聞く。

裳咋足嶋もくいのたるしまが中務省に提出した物は兄上を、床下に女孺が置いた物は足嶋の縁者を狙うた。だが何故、皇后宮で足嶋の縁者を呪うのか」

「さて、私には分かりかねます」

「そうだな、傍で聞いている分には意味が分からぬ。そもそも、足嶋の縁者とは誰の事か」

 向けられる黒目勝ちの目は、天皇や中務宮にそっくりで、私はただ気後れする。

「母上にかつて仕えていた、県犬養宿禰勇耳あがたのいぬかいのすくねいさみという女孺の名前を汝は当然、知っているだろう」

 容赦ない問いに、思わず無言でうなずく。

「その者は何をしたのか。何故、母上が、皇后おおきさきが、葬りたいとまで思うのか」

 知っていても答えられる訳もない。皇太子も答えは求めていないようだ。私が無言でいる事で、自らの情報の正否を確かめているのかもしれない。

 ふと、目の端に舎人が二人ばかり、歩いて来る姿が映る。それを助け船とばかりに、私はそちらに顔を向ける。気付いた皇太子も同様に、背後を見る。そして何もなかったような表情に戻ると、きびすを返して舎人の方に静かに歩み寄る。

 年嵩らしき舎人が、迎えに参りましたと笑顔で頭を下げれば、皇太子も大儀だと労いの言葉をかける。

「では大進だいじょう、明日の余興の人選は頼うだ。楽しみにしておるぞ」

 後に従う私にも、無邪気な笑みを見せる。

 姿形は年若い。しかし既に、人を喰らう龍だ。内心で呟きながら後姿を見送る。

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