第53話 宝亀三年五月 山背行幸 其の参 猿を捕らえる人
その父親、つまり
やがて
白壁天皇は散位(位階はあっても無職)時代、内室の実家には大いに世話になったと、はばかる事無く口にする。宝字八年の変(恵美仲麻呂の変)の後、
ところが、昨日も同行した近衛府の者の具合が悪いとかで、急遽、私が代行する事になる。然程の遠出をする訳でもない。残っているよりも気が楽かもしれないと、軽い気持ちで引き受ける。
そして午後、視察の列は加茂野第に無事到着する。藤原中納言や
巡察などは行わないと言ったはずが、どうして勝手に動き回るのか。その様に愚痴を言うのは、当然ながら中務宮山部親王と山背守の
加茂野第は、大きな
「
屋敷の広縁に陣取り、私は
「飛礫か。勿論、何度も見た事がある。国元にいた時には、得意としている者も何人か知っていたな。飛礫打ちがどうしたのだ」怪訝そうに老は聞き返す。
「飛礫ならば、この辺りの者も、結構、心得ておりますよ」家麻呂も不思議そうに言う。
「飛礫で猿を捕らえる様な事もするのか」
「追い払う事は、時に致しますが、さて」
首を傾げる家麻呂は、弟に意見を求めるように顔を見る。
「捕らえるにしても、飛礫では具合が悪いでしょう。怪我をさせるか、下手をすれば死んでしまいましょうから」弟は答える。
子猿ならば、生きて捕らえ、
「まあ、そうだな。実際、飛礫打ちで死者が出る例も見た事がある」
筑紫での出来事を思い出す。
「都周辺やこの辺りでも、
「どこぞで、猿に飛礫を打って捕らえた者がいた訳か、つまり」老が問う。
「ああ。それも一発で仕留めたようだ。遊びの類ではないと思う」
「もしかしたら、どこかの豪農か寺社領の
「しかし、猿を仕留めて
「思えぬな、この辺りでも郷里でも」老も首を傾げる。
私がそれを見たのは、皇太子に従って国内を巡り、加茂野へ向かう道の途中だった。
「何事か」皇太子は誰にともなく問う。
「藪の内に
すかさず番長が、二人の舎人を藪の方に走らせる。
「あそこに猿がおるな」皇太子が鞭で少し先の方の樹上を示す。
「成る程、猿を追い払おうとしているのやも知れませぬな」中将が答える。
示された枝の上に猿が一匹座っている。遠目に見ても、体の大きな大人の猿だ。この距離ならば、多少、凶暴な猿でも騎馬の隊列に手を出しはしないだろう。猿一匹に過敏になる必要もあるまいに。その様に思いながら眺めていた。その視線の先で突然、猿は短い鳴き声を上げ、藪の中に落ちて行った。
「何が起きた」皇太子が問う。
「
「このような場所で不謹慎な」
「沿道の見張りはどうなっている。郡司らは領民に、皇太子の御列が来るのを知らせておらぬのか」
「藪の内の者を捕らえて参りましょう」
周囲の近衛舎人らが勇み気味に言う。
「大事ない。あの者らは職務を果たしているだけであろう。咎める必要もない」皇太子が毅然とした態度で応える。
「ともあれ、様子を伺いに行っている者の報告を待ちましょう」私は声を抑えて進言する。
「ああ、そうだな」皇太子がうなずく。
程なく戻って来た二人の舎人が報告する。
舎人らが藪に入ると、里人らしい二人の者が、落ちて来た猿を回収している様子が見えた。声をかけようとする前に、逃げ出すように藪の奥に入って行った。しばらく行方を追ってみたが、地の利のある者らしく捜しだす事ができずに引き上げて来たという。
「皇太子は構わぬと言われて、その場は収まったが、俺を始め、周囲は納得しきれておらぬ。様子を見に行った舎人らも、居心地悪そうにしていたが」
「近隣の者が普段より狩りをするような場所です。下手に事を荒立てとうはないという、御気遣いなのでしょう」温厚に家麻呂が言う。
この男も都で近衛の経験がある。双方の事情に聡いので、一概に責めはしないのだろう。
「その舎人らは、里人らしき二人の顔を見たと言うていたのか」老が首を傾げながら聞く。
「遠目ではあるが、一人の顔は確認できたようだ」
「それだけでも、何かがあった時の対処にはなろうな」
何もないに越した事はないがと、小声でつけ加える。
いずれにせよ、猿を狩る理由は分からないまま、尻すぼみに話を終える。老と私は一度、加茂野第に顔を出すためと家麻呂らに暇乞いをした。
ところが屋敷の門を出ようとするその時、内舎人が一人、あたふたとした様子で駆け寄ってきた。
「中務宮様が、和気清麻呂様と槻本老様を御呼びにございます」
挨拶もそこそこに、息せき切って遣って来たままに内舎人は言う。
「中務宮は何方におられる」我ながら緊張感なく問い返す。
「天皇の御座所です」
「
こうして私は老と共に、疑問に思う事もなく山部親王の元に参上する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます