第52話 宝亀三年五月 山背行幸 其の弐 不謹慎な人々

 皇太子ひつぎのみこの元を退散して国府の近衛府宿所に戻ると、ちょうど種継たねつぐも何処からか帰って来たところだった。聞けば、中務宮なかつかさのみやに同行して加茂野かものに行っていたと言う。

 行幸二日目の朝、天皇すめらみことらは皇太子の隊列を見送り、朝餉あさげが済むが早いか、甕原みかのはら離宮をさっさと引き払って、加茂野第かもののだいに入り羽を伸ばしている。共に従った山部親王やまべのみこは、明後日の御狩りのためと称して、母方の叔父や従兄弟らの育てる猟犬や鷹を見に、和氏やまとうじの屋敷に向かった。そして正午前には、前哨戦とばかりに犬たちを放って狩が始まった。和氏らも心得ているようで、犬たちの朝食は控えさせていた。

 一人で国府へと引き上げて来た種継が、その様に語る。

大殿おおとの若翁わかぎみの世話は、和氏に任せておいた方が無難だろうからな」

御身おみもこれで一息つけるか」

 この様子では、今日も中務宮は夜までこちらに戻って来ないだろう。

「いいや、これから秦氏はたうじ狛氏こまうじの面々と、明後日のうたげの打ち合わせだ」

「皇太子の要望された件か」

「ああ、そうだ。まあ、こちらも心得た者だろうから、長くはかかるまいが」

「そうか。出来る男は多忙だな」

「秦氏の家で、また何か旨い物でも見繕って来る。それで、皇太子ひつぎのみこの様子は如何いかがなものか」

「御身の所に犬女いぬめが来たであろう、皇太子の文を携えて」

「ああ、来たな。何やら大仰な勿体ぶった態度で、手ずからに渡すように命じられたの何のと。内容は、前もって若翁らとも話し合うていた宴の件だ。皇太子も心得ておられように」

 皇太子との話の内容をかいつまんで語れば、種継は然もありなんとうなずいて笑う。


 日が沈みかけた頃、山背守やましろのかみからの使いが来たので、再び国府政庁を訪ねる。宿直とのい舎人とねりの案内で国司館に通されると、既に紀船守きのふなもりも顔を出していた。

「こちらに夕餉ゆうげ酒肴しゅこうを用意させてある」

 明日の宴の打ち合わせも終えて、種継は上機嫌そうに迎える。かみの采配とは申せ、国司館で私的な酒肴とは、我ながら良い御身分になったものだ。

 国司館は主に、衛府関係の上位者の宿所に充てられている。種継や船守はここが宿所なので、多少の深酒は構わない。私としては酔いつぶれて、夜明け前に離宮に戻るのも考え物だ。昨夜の事もあり、酒は控えめにするとしよう。

「つまり、犬女を追い払うために、皇太子は御身に今更な文を寄こした訳だな」

 船守は珍しく機嫌が良い。今日も秦氏から良い酒が届いているためか。

「皇太子の言われるには、犬女も例に漏れず男前の官人には敏い。故に種継に文を届けろと命じたならば、小躍りして出かけて行ったそうだ」私は酒瓶しゅへいを出しながら言う。

 県犬養姉女あがたのいぬかいのあねめに文を届けよと命じたのは、巡行から戻って来てからだ。その頃、種継は加茂野第かもののだいを出て秦氏の屋敷にいた。姉女は加茂野第で無駄足を踏み、更に秦氏の屋敷に向かい、そこでも行き違いとなる。そこから更に甕原みかのはら離宮を過ごして国府に向かい、ようやく種継に追いついた頃には、日も傾きかけていた。

「犬女などに気に入られたところで、何も嬉しゅうもないな」辟易とした顔で種継が言う。

「肥えた犬はうろつき回るが、呪師ずしは現れぬ」私も同様に言う。

「とうの昔に逃亡しておるのではないか」相変わらず船守は鼻先で笑う。

「現れぬのなら、それに越した事はない。もし現れたならば、やりそうな事は予想がつく」私は密かに溜息をつく。

「また呪詛ずその類か。相手はまた皇家……」

「真っ先に狙われるのは若翁わかぎみか」種継は嫌悪を露わに言う。

「ところで、皇太子と益麻呂は面識があるのだろうか」少し気を取り直すように船守が聞く。

「以前は皇后宮に何度か来ていた。当然面識はあろう。もしかしたら、呪詛への関与も知っておられるやもしれぬ」私は答える。

「もしそうならば、御身が髑髏されこうべを見つけた件も、真相を知っておられるか」言いながらも種継は小さく首を振る。

 言葉を否定したいのではなく、そうあって欲しくないと思っているのかもしれない。

皇后おおきさきが何をしたのか、皇太子は存じ上げている。そういう事になろう」

 私も否定はできない。

県犬養勇耳あがたのいぬかいのいさみの存在を葬ろうとした。更には、要らぬ事に感づき始めた若翁をも、邪魔に思い始めていた」

 種継は口の端で、苦々しげに笑う。

「思うに、誰もが皇太子を過小評価していたのやも知れぬ。あの方は、我々以上に色々な事を理解されているのであろうな」

 私は二人を交互に見る。

「若翁と同じだ。早うに一人前になる事を期待、いや、強いられて来た。若翁は大殿の失脚によって、他戸親王おさべのみこ様は十一歳で皇太子に選ばれて」

 今度こそ種継は、あからさまな溜息を洩らした。


兄者人あにじゃひとは手の届かぬ御方に同情している。いや、憧憬の念を抱いている。いっそう、懸想しているとでも言うべきか」

 そう言う呪女まじないめは、深刻な表情を初めて見せる。

「それならばいましと同じだな、兄妹そろって」

 夢の中とはいえ、我ながら間抜けた応えだ。

「私とは違う。兄者人は生きておる。だからこそ、その御方の力になりたいと思いこんでいる」

益麻呂ますまろ自身の野望ではのうて、手の届かぬ御方のためにか。健気と言うべきか」愚かしいと言うべきか。

「兄者人の野望など私は知らぬ。良民となって賜姓され、五位にまで昇った。大出世だ。だが、兄者人も私も子供の頃には、野望など存在すら知らなんだ。それを持つ者に出会うた後、教え込まれた。しかし、身の丈に合わぬ野望など持つなとは、誰も教えてはくれなんだ。身の丈が何かすら、分かっておらなんだ。故に身を滅ぼした。兄者人も私同様、道を踏み外すであろうよ」

 益女ますめの男のような言葉遣いは、育った環境のためなのだろうか。なまじ優秀だったため、僧侶から学問は教えられたが、良家の子女のように着飾る事は教わらなかった。裕福な権威者の目に留まり、ようやく女らしい生活を知ったのだろう。

「では何故、兄や犬女に教えない。野心など身を亡ぼす元だと」

「今更、肥え太った犬の事など知らぬ。あれは利になると思えば、誰彼構わず擦り寄るやからだ。兄者人が身を隠したのは、あれの隠れ蓑にされるのを避けるためだ」

呪詛ずその隠れ蓑か。皇后宮の呪詛には、益麻呂が関与しておらぬと言うのか」

「その事ではない。これからの事だ。犬に呪法を教えたのは私だ、兄ではない」

「ではやはり、今までの騒ぎにも犬女が関わっておるのか。これからと言うたが、誰を呪詛しようとしているのか」

「今までは傍で見ていただけだろう。いずれにせよ後悔している。内親王ひめみこらを欲望に走らせ、あのような女にまで力を与えた事に」

 嫌悪以上に哀れみを覚えて溜息が漏れる。そして私は目を覚ます。

 ここは国分寺に借りた宿の内だ。呪女と言葉を交わすような夢を見るとは、何やら不謹慎に思える。いや、あれは寺のはしためだった。寺に抵抗などないのか。おかしな思い付きに、今度は苦笑が出る。そうこうする内に、起床を促す鐘の音が聞こえる。

 益麻呂は姉女の共謀者ではないと、益女は言う。姉女は一人で何をしようとしているのか。少しばかり混乱して起き上がる。

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