第52話 宝亀三年五月 山背行幸 其の弐 不謹慎な人々
行幸二日目の朝、
一人で国府へと引き上げて来た種継が、その様に語る。
「
「
この様子では、今日も中務宮は夜までこちらに戻って来ないだろう。
「いいや、これから
「皇太子の要望された件か」
「ああ、そうだ。まあ、こちらも心得た者だろうから、長くはかかるまいが」
「そうか。出来る男は多忙だな」
「秦氏の家で、また何か旨い物でも見繕って来る。それで、
「御身の所に
「ああ、来たな。何やら大仰な勿体ぶった態度で、手ずからに渡すように命じられたの何のと。内容は、前もって若翁らとも話し合うていた宴の件だ。皇太子も心得ておられように」
皇太子との話の内容をかいつまんで語れば、種継は然もありなんとうなずいて笑う。
日が沈みかけた頃、
「こちらに
明日の宴の打ち合わせも終えて、種継は上機嫌そうに迎える。
国司館は主に、衛府関係の上位者の宿所に充てられている。種継や船守はここが宿所なので、多少の深酒は構わない。私としては酔いつぶれて、夜明け前に離宮に戻るのも考え物だ。昨夜の事もあり、酒は控えめにするとしよう。
「つまり、犬女を追い払うために、皇太子は御身に今更な文を寄こした訳だな」
船守は珍しく機嫌が良い。今日も秦氏から良い酒が届いているためか。
「皇太子の言われるには、犬女も例に漏れず男前の官人には敏い。故に種継に文を届けろと命じたならば、小躍りして出かけて行ったそうだ」私は
「犬女などに気に入られたところで、何も嬉しゅうもないな」辟易とした顔で種継が言う。
「肥えた犬はうろつき回るが、
「とうの昔に逃亡しておるのではないか」相変わらず船守は鼻先で笑う。
「現れぬのなら、それに越した事はない。もし現れたならば、やりそうな事は予想がつく」私は密かに溜息をつく。
「また
「真っ先に狙われるのは
「ところで、皇太子と益麻呂は面識があるのだろうか」少し気を取り直すように船守が聞く。
「以前は皇后宮に何度か来ていた。当然面識はあろう。もしかしたら、呪詛への関与も知っておられるやもしれぬ」私は答える。
「もしそうならば、御身が
言葉を否定したいのではなく、そうあって欲しくないと思っているのかもしれない。
「
私も否定はできない。
「
種継は口の端で、苦々しげに笑う。
「思うに、誰もが皇太子を過小評価していたのやも知れぬ。あの方は、我々以上に色々な事を理解されているのであろうな」
私は二人を交互に見る。
「若翁と同じだ。早うに一人前になる事を期待、いや、強いられて来た。若翁は大殿の失脚によって、
今度こそ種継は、あからさまな溜息を洩らした。
「
そう言う
「それならば
夢の中とはいえ、我ながら間抜けた応えだ。
「私とは違う。兄者人は生きておる。だからこそ、その御方の力になりたいと思いこんでいる」
「
「兄者人の野望など私は知らぬ。良民となって賜姓され、五位にまで昇った。大出世だ。だが、兄者人も私も子供の頃には、野望など存在すら知らなんだ。それを持つ者に出会うた後、教え込まれた。しかし、身の丈に合わぬ野望など持つなとは、誰も教えてはくれなんだ。身の丈が何かすら、分かっておらなんだ。故に身を滅ぼした。兄者人も私同様、道を踏み外すであろうよ」
「では何故、兄や犬女に教えない。野心など身を亡ぼす元だと」
「今更、肥え太った犬の事など知らぬ。あれは利になると思えば、誰彼構わず擦り寄る
「
「その事ではない。これからの事だ。犬に呪法を教えたのは私だ、兄ではない」
「ではやはり、今までの騒ぎにも犬女が関わっておるのか。これからと言うたが、誰を呪詛しようとしているのか」
「今までは傍で見ていただけだろう。いずれにせよ後悔している。
嫌悪以上に哀れみを覚えて溜息が漏れる。そして私は目を覚ます。
ここは国分寺に借りた宿の内だ。呪女と言葉を交わすような夢を見るとは、何やら不謹慎に思える。いや、あれは寺の
益麻呂は姉女の共謀者ではないと、益女は言う。姉女は一人で何をしようとしているのか。少しばかり混乱して起き上がる。
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