第51話 宝亀三年五月 山背行幸
新たな出来事が人心を騒がせれば、過去の事柄を忘れるのは容易い。
水面下でさざ波が立つまま、
南山背の
離宮は甕原の名を冠しているが、川の南岸、加茂野の北西端、
甕原離宮は恭仁宮以前から同じ場所にある。平城への遷都の後、時を置かずに建てられ、何度か増築や改修を行い、幾度も行幸の地になっている。
午後も遅くなり、それぞれが宿営の場所に落ち着くと、あちらこちらで
皇太子への機嫌伺は上位者らに任せ、中務卿の元へ報告に伺うと、既に加茂野に向かったという。
皇太子の
「それにしても、御身ら藤氏の情報網にも、益麻呂の行方は引っかかって来ぬのか」何杯目かを空けたところで船守が聞く。
「今のところは皆無だ。家麻呂に人相風体を伝えて、似た男を見たならば直ぐに知らせろと、この辺りでも命じてはおるがな」
種継の言う家麻呂とは和嬪の甥で、和氏の惣領息子だ。地元では名士一族のうえに、本人も少し前まで近衛舎人を務めていたので私も面識はある。目立つような男ではないが、真面目で腕が立つところは船守に似ている。
「
種継は勿論、船守もこの辺りの地理には明るい。今ここで、勝手が分からないのは私だけだ。
「秦氏や和氏が目を光らせている。そういう帳内らを選んでおるし、地元にも衛士や兵衛を経験した者が多い」何やら誇らしげに種継が言う。
「そちらはどうだ、
「幸いにして、今はその元気もない。都から山背まで、この程度の道程で相当につかれたとへたばっておるよ」私は肩をすくめる。
「良い御身分だ。歩きもせずに
「犬や
「
この度の行幸では天皇の視察は行われず、代わりに皇太子が務める事になっている。
「国府でも
種継も上機嫌に見えるが、この男の事だ、振りをしているだけかもしれない。
「そいつも半日で済むよ。皇太子の一行は昼過ぎには戻る予定だ」
「その後は、これという予定もないはずだ。御身、身が空くようならば、一度、皇太子と話をしてみてはどうだ」
何やら思いついたのか、船守は
「そうだな、直接の機嫌伺いも必要だ。御身は春宮
「何を話せと」少しばかり意味が分からず問い返す。
「そうだな、それとなく犬女の様子でも聞いてみろ。内裏で何をしているのか、少しでも知れれば、あの女の考えている事も分かるやもしれぬな」何やら大真面目に船守が答える。
思うに、この二人にしても命令は受けたものの、情報不足で手持無沙汰というところだろう。種継ならば、命令をする側の山部親王に、遠慮もせずに問うくらいはしそうだ。ところが肝心の親王が多忙すぎて捕まらない。仕方がないと、黙って座しているのも性に合わない。下手に動いてしくじりでもすれば、関係する上位者らが後始末をする羽目になるだろう。何ともやり難いものがある。
酒を過ごしたか、行幸二日目の朝は、心なしか頭が重く胸やけもする。早朝より大仰な隊列を仕立て、皇太子の一行は巡察に出発した。それを見送った後、遅い朝餉をとる白丁らに声をかけ、冷めかけた白湯をもらう。周囲でも私と同じように、食欲不振の二日酔い気味の者らが、乾いた喉に白湯を流し込んでいる。
「皇太子はいつ頃戻ると」
やたらに
「
「そうか。それならば、寝直す時間もあるな」
「いや、そうも行かぬと思うがな」
確かに、皇太子は外に行ったが、天皇は離宮にいる。天皇にとっては勝手知ったる土地だ。特に予定は入れていなくとも、予定外の行動をする可能性はあるだろう。
「
取り敢えず皇太子に面会の予約を取り付けようと、最も頼りになる古手の内侍、
「天皇や和嬪に急かされて、移動の段取りに行っておられるのでしょう」
「天皇が加茂野第に入られるのは、明日の予定では」
「離宮にいても退屈だし、周囲が気を使うだけだと仰って、早々にあちらに移る事にしたそうですよ」
加茂野第は和氏の屋敷に隣接する、かつての白壁王家の別業だ。御狩りでは、ここが御座所になるのは既に決まっている。
「皇太子も戻って来られたら、そちらに移るのですか」
「いえ、今日はまだ、離宮に留まられるでしょう。皇太子にはむしろ、こちらにおられる方が気楽なのだと思いますよ」
確かに、和氏らと縁のない皇太子には、逆に気の休まらない場所になりそうだ。同じ勝手の知れぬ場所ならば、甕原離宮にいる方が、周囲から構われる事も少ないだろう。
「皇太子から呼ばれたのですか、今日も」何やら思わし気に姉は聞く。
先日に皇太子が私を呼びつけた事など、十二分に承知しているのだろう。
「そういう訳ではありませぬ。春宮大夫の身が空かぬやも知れぬ故、私に機嫌伺に行くよう仰せつかりましてね」
春宮大夫が忙しいのは、中務卿に顎で使われる一人だからだ。それも今に始まった事ではない。
「そうですか。まあ、皇太子が御戻りになって一息継いだ後になりましょうから、夕刻前くらいになると思いますね。予定が立ちましたら、誰か知らせに遣りましょう。御身の宿所は国分寺でしたかしら」
「そうですが、日のある内は離宮の春宮坊宿所に居るようにします」
「分かりました」
宿所と言えども、ほぼ野営地だ。幸いにして、私にはこちらの方がなじみがある。
姉を始めとした内侍らも、仲の良さそうな者同士、その辺りでたむろして談笑している。内侍らが気軽にしている最たる理由は、酒人内親王が行幸に同行していないためだろうか。
皇太子の元から
案内された離宮の庭も、内裏に負けじと殺風景だ。夏だというのに緑の木々もなく、咲いている花も当然ない。風流人の天皇が加茂野に逃げ出す理由は、宮人らの煩わしさだけではなさそうだ。
人払いされた庭にいるのは皇太子が一人きり、そこに私が加わったのでは、更に花がない。しかし皇太子は、誰もいない事に安堵しているのか、身軽な動作で
「父上が甕原にいとうない理由は、国分寺が近すぎるからなのだろう」
やけに大人びた口調で言うと、北に見える国分寺の塔と金堂に顔を向ける。
「国分寺が御嫌いなのですか」
いささか意味が分からず、間抜けた言葉で聞き返す。
「嫌いである訳はないと思う」
顔をこちらに戻しながら皇太子は言う。
「だが、あの金堂は
以前に話をした時と、どこか印象が違う。
「私も伺うた事があります。平城に再び都が戻された後、山背国分寺に喜捨されて金堂になったのですね」
その頃、父の衛士の任期は終えていた。私たち家族は吉備に戻っていたので、恭仁京の事は直接知らない。私自身が衛士として都に来た後、昔話としての語りから、断片的に得た程度の知識しかない。恭仁への遷都を考えた聖武皇帝と左大臣の
「しかし、考えてみれば、加茂野からも金堂や塔は良う見える。父上にしてみれば、とうの昔に振り切れているのやも知れぬな」
呟くように言いながらも、加茂野の方を仰ぎ見る。そして、自らの裸足の足元に目をやって苦笑すると、おもむろに階の前に戻り、適当な段に腰を下ろす。
恭仁京遷都の後、聖武皇帝は
しかし、現地での天変地異などによって計画は潰え、様々な思惑の末に平城還都となる。大寺院と仏像造営は、平城の東で再開されて東大寺が建立される。その頃の白壁王は官界を退き、これらの事業には関わっていない。
「いつぞに
皇太子は再び視線を遠くに投げて話し始める。
「国分寺の大徳が、この金堂を建てたのは父上だと言うていたと。五百枝は言葉のままに受け取り、凄い事だと思うたそうだ。しかし父上は何も言わずに、金堂を見上げていた。金堂が恭仁の大極殿だったとは、その時は知らなかった。父上が恭仁や紫香楽の造営に携わり、様々な事が未完に終わったと知ったのも、後の事だと」
「然様にございますか」
答えに窮する私は、またもや間抜けた言葉でうなずき返す。
「つまらぬ感傷に聞こえたか、許せ」
こちらに目を向けて小さく笑う。その口調も顔つきも、異母兄の山部親王に驚くほど似ている。
「いえ、そのような事は」
相変わらず間の悪い私は、更に戸惑う。しかし、ここでようやく気が付いた。皇太子は声変わりが始まっている。以前よりも声がかなり低くなったため、山部親王により似て来たのだろう。
私も改めて国分寺を遠望する。山背国分寺に喜捨された大極殿は、金堂として御仏の住まいとなる。長年の風雪に、白い壁も朱塗りの柱も色褪せた。平城には新たな大極殿が建ったが、ここに見る金堂の方が重厚に写る。
「ところで汝は、私の何を伺いに来てくれたのだ。兄上や
「御不自由を感じておられないかと、まずは御要望を伺いに参った次第です」
慌てて向き直った私は、一応、用意していた無難な答えをする。
「それは済まぬ事だ。まあ、私としては気分が良い。一番うるさい者には留守をさせ、付きまとう女にも外に行けと命じた」
低くなり始めた声や口調も、やはり父親や異母兄に似ている。
「付きまとう女とは」
「県犬養の何と言うたか、先頃まで罪人として都を追われていた者だ。容疑が晴れて名誉回復したとかで、母上が拾い上げてやったらしいが」
「県犬養姉女の事でしょうか」
「ああ、そういう名前だったな。舎人らが陰で犬女と呼ぶ肥満女だ」
片方の口角を上げて笑う顔も親兄弟と同じだ。
「春宮坊でも近衛府でも呼んでおります。実を言えば私もです。犬どころか熊か猪だと言う者もおりますよ」私もつい、軽口を言う。
「そうか、私も呼んでいる。とにかく私はあれが嫌いだ。自らの意見が通らぬと、内侍どころか、こちらにまで要らぬ圧力をかけようとする。せっかく一番うるさい酒人を置いて来たというに、何故、あのような者が偉そうにものを言うか。酒人がいない故に、
愚痴とも思える言葉を聞いていると、自然に山部親王の顔が浮かんで来る。声が低く安定したならば、更にそっくりになるだろう。思うに天皇の若い頃も、このような雰囲気だったのだろう。
「先程、外に行かせたと言われましたが、用事を命じられたのですか」
「ああ。
山背守とは藤原種継の事だ。この男も最近、いくつかの職を兼任している。
「山背守は天皇や中務宮の供で、加茂野の御屋敷に行っているのではありませぬか」
「そう、加茂野ならば川も越えねばならぬ。手間も暇もかかる。あれは容姿の良い男に目が無い。種継に直に会えるとなれば、人に預ける様な事はせず、自ら手渡しに行くであろう、命令通りに」
後宮での噂話のような事を言い、鼻先で笑う。
「しかし、種継に文とは」
「別にどうでも良い事だよ。この辺りの秦氏や
聞けば聞く程、大人顔負けの事を平然と言う。そして、嫌味も殆ど感じない。余裕のある態度を見れば見る程に思える。年端は行かずとも、この人は正真正銘の親王だ。
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