第51話 宝亀三年五月 山背行幸

 下野国しもつけのくにからの知らせは、殊の外、悠長に届いた。去る四月七日、下野薬師寺別当の道鏡法師が亡くなった。既に七十を過ぎていたので、死因に疑問を持つ者もいない。かつては法界の頂点にいたが、僧綱そうごうから追放され都を追われた老僧は、平民の扱いで葬儀を行い葬られた。その報告に大きな関心を示す者は少ない。

 新たな出来事が人心を騒がせれば、過去の事柄を忘れるのは容易い。皇后おおきさきが罪に問われて一月、皇家を巡る人々の目は、皇太子ひつぎのみこ酒人内親王さかひとのひめみこに向く。もしも母親が断罪されたなら、姉と弟はどうなるのか。皇太子の地位はどうなるのか、伊勢の大御神が内親王を斎宮いつきのみやに認めるのか。まだ表立って問う者はいない。

 水面下でさざ波が立つまま、山背やましろ行幸の日を迎える。


 南山背の加茂野かものの地は、泉川を挟んで甕原みかのはらに隣接する。行幸の列は泉川に沿って進み、甕原離宮に入る。

 離宮は甕原の名を冠しているが、川の南岸、加茂野の北西端、鹿背山かせやまの麓に置かれている。天皇すめらみことと皇太子、側近らと太政官などの高官は離宮に宿を構える。他の上位者らは山背国府、国分寺、相楽さがらか郡衙ぐんがなどの官営の施設、近隣の豪族屋敷などに宿を借りる。そして行列の大半を占める舎人とねり雑色ぞうしきは野営の体制に入る。

 聖武皇帝しょうむこうていの頃、泉川北岸の甕原には恭仁宮くにのみやが置かれた。かつての大極殿は、国分寺に喜捨されて金堂となった。官衙かんがの建物も僧房そうぼう食堂じきどうなどに改装され、解体して国衙こくが郡衙ぐんがで再利用された。こうして三十年経った今でも、甕原の道や土地は整備されている。

 甕原離宮は恭仁宮以前から同じ場所にある。平城への遷都の後、時を置かずに建てられ、何度か増築や改修を行い、幾度も行幸の地になっている。


 午後も遅くなり、それぞれが宿営の場所に落ち着くと、あちらこちらで夕餉ゆうげの煙が立ち上る。舎人以上は暫しの休息だが、白丁はくていや雑色らはまだまだ忙しい。

 皇太子への機嫌伺は上位者らに任せ、中務卿の元へ報告に伺うと、既に加茂野に向かったという。和嬪やまとのひん能登内親王のとのひめみこは離宮に入らず、和氏やまとうじの屋敷を宿泊場所とする。その一行を送り届けた後、またこちらに戻って来るが、おそらく夜になるだろうと舎人が言う。

 皇太子の行所あんしょに戻って、早めの夕食を済ませ、部下たちと翌日の打ち合わせをした後、山背国衙の隅に設けられた近衛の宿営所に行く。こちらでも仕事は終わったようで、紀船守きのふなもり藤原種継ふじわらのたねつぐは互いを労い、既に一杯ひっかけている。私の顔を見ると、早速に新たな酒肴を用意させる。どうやら種継の母方の秦氏はたうじから、かなりの心付けが届いている様子だ。

「それにしても、御身ら藤氏の情報網にも、益麻呂の行方は引っかかって来ぬのか」何杯目かを空けたところで船守が聞く。

「今のところは皆無だ。家麻呂に人相風体を伝えて、似た男を見たならば直ぐに知らせろと、この辺りでも命じてはおるがな」

 種継の言う家麻呂とは和嬪の甥で、和氏の惣領息子だ。地元では名士一族のうえに、本人も少し前まで近衛舎人を務めていたので私も面識はある。目立つような男ではないが、真面目で腕が立つところは船守に似ている。

御行所ごあんしょの警備は如何いかがなものか。近衛や中衛が気を張っているとはいえ、やはり勝手の知れぬ他所の地だ」私は二人に聞く。

 種継は勿論、船守もこの辺りの地理には明るい。今ここで、勝手が分からないのは私だけだ。

「秦氏や和氏が目を光らせている。そういう帳内らを選んでおるし、地元にも衛士や兵衛を経験した者が多い」何やら誇らしげに種継が言う。

「そちらはどうだ、くだん犬女いぬめが誰彼構わず吠えておらぬか、天敵の酒人内親王がおられぬゆえ」船守が笑う。

「幸いにして、今はその元気もない。都から山背まで、この程度の道程で相当につかれたとへたばっておるよ」私は肩をすくめる。

「良い御身分だ。歩きもせずに輿こしに乗っていただけであろうに。むしろ、輿を担ぐ者らが気の毒だ。普通の倍以上の巨体を乗せているのだから」船守は首を横に振る。

 県犬養姉女あがたのいぬかいのあねめは、元々、肉付きの良い方だった。流刑先の遠国で何があったのか、都に戻って来た時には、更に太っていたと聞く。内侍司ないしのつかさに入った後も、目に見えて肥大化している。何か悪いモノでも憑いているのかと、彼方此方の陰で囁き合う。

「犬や呪師ずしはともあれ、明日は皇太子の国内視察だ。春宮大夫とうぐうだいぶと誰が付いて行かれるのだ」気を取り直して種継が聞く。

石上いそのかみの中納言だ。舎人らは大変だろうが、俺は居残り組で気が楽だ」回り始めた酒に手伝わせ、私はぬけぬけと言う。

 この度の行幸では天皇の視察は行われず、代わりに皇太子が務める事になっている。

「国府でもすけが張り切っているよ。御身の所では、犬女も殆どの内侍も居残りであろう。御身の役目は、その女たちの監視だな」

 種継も上機嫌に見えるが、この男の事だ、振りをしているだけかもしれない。

「そいつも半日で済むよ。皇太子の一行は昼過ぎには戻る予定だ」

「その後は、これという予定もないはずだ。御身、身が空くようならば、一度、皇太子と話をしてみてはどうだ」

 何やら思いついたのか、船守はつきを上げて私を見る。

「そうだな、直接の機嫌伺いも必要だ。御身は春宮大進だいじょうで近衛将監だ、不都合な事はあるまい」種継も合の手を入れる。

「何を話せと」少しばかり意味が分からず問い返す。

「そうだな、それとなく犬女の様子でも聞いてみろ。内裏で何をしているのか、少しでも知れれば、あの女の考えている事も分かるやもしれぬな」何やら大真面目に船守が答える。

 思うに、この二人にしても命令は受けたものの、情報不足で手持無沙汰というところだろう。種継ならば、命令をする側の山部親王に、遠慮もせずに問うくらいはしそうだ。ところが肝心の親王が多忙すぎて捕まらない。仕方がないと、黙って座しているのも性に合わない。下手に動いてしくじりでもすれば、関係する上位者らが後始末をする羽目になるだろう。何ともやり難いものがある。


 酒を過ごしたか、行幸二日目の朝は、心なしか頭が重く胸やけもする。早朝より大仰な隊列を仕立て、皇太子の一行は巡察に出発した。それを見送った後、遅い朝餉をとる白丁らに声をかけ、冷めかけた白湯をもらう。周囲でも私と同じように、食欲不振の二日酔い気味の者らが、乾いた喉に白湯を流し込んでいる。

「皇太子はいつ頃戻ると」

 やたらに欠伸あくびを繰り返す若い衛士えじが、同僚らしき者に問う。

ひつじの刻より前には戻る予定だと聞いたな。その半時前には、俺達もそろって出迎えに向かわねばならぬはずだよ」

「そうか。それならば、寝直す時間もあるな」

「いや、そうも行かぬと思うがな」

 確かに、皇太子は外に行ったが、天皇は離宮にいる。天皇にとっては勝手知ったる土地だ。特に予定は入れていなくとも、予定外の行動をする可能性はあるだろう。中務卿なかつかさのかみの山部親王が朝から姿を見せないのが、その兆候のような気もする。


中務宮なかつかさのみや様でしたら、早々に加茂野第かもののだいに向かわれていますよ」姉はあっけらかんと答える。

 取り敢えず皇太子に面会の予約を取り付けようと、最も頼りになる古手の内侍、和気広虫わけのひろむしを離宮に訪ねる。

「天皇や和嬪に急かされて、移動の段取りに行っておられるのでしょう」

「天皇が加茂野第に入られるのは、明日の予定では」

「離宮にいても退屈だし、周囲が気を使うだけだと仰って、早々にあちらに移る事にしたそうですよ」

 加茂野第は和氏の屋敷に隣接する、かつての白壁王家の別業だ。御狩りでは、ここが御座所になるのは既に決まっている。

「皇太子も戻って来られたら、そちらに移るのですか」

「いえ、今日はまだ、離宮に留まられるでしょう。皇太子にはむしろ、こちらにおられる方が気楽なのだと思いますよ」

 確かに、和氏らと縁のない皇太子には、逆に気の休まらない場所になりそうだ。同じ勝手の知れぬ場所ならば、甕原離宮にいる方が、周囲から構われる事も少ないだろう。

「皇太子から呼ばれたのですか、今日も」何やら思わし気に姉は聞く。

 先日に皇太子が私を呼びつけた事など、十二分に承知しているのだろう。

「そういう訳ではありませぬ。春宮大夫の身が空かぬやも知れぬ故、私に機嫌伺に行くよう仰せつかりましてね」

 春宮大夫が忙しいのは、中務卿に顎で使われる一人だからだ。それも今に始まった事ではない。

「そうですか。まあ、皇太子が御戻りになって一息継いだ後になりましょうから、夕刻前くらいになると思いますね。予定が立ちましたら、誰か知らせに遣りましょう。御身の宿所は国分寺でしたかしら」

「そうですが、日のある内は離宮の春宮坊宿所に居るようにします」

「分かりました」

 宿所と言えども、ほぼ野営地だ。幸いにして、私にはこちらの方がなじみがある。

 姉を始めとした内侍らも、仲の良さそうな者同士、その辺りでたむろして談笑している。内侍らが気軽にしている最たる理由は、酒人内親王が行幸に同行していないためだろうか。


 皇太子の元から女孺めのわらわが春宮坊宿所に来たのは、午後も遅くなってからだった。夏至にはまだ間があるが、夏の盛りは多少日が傾いても一向に薄暗くなる様子もない。

 案内された離宮の庭も、内裏に負けじと殺風景だ。夏だというのに緑の木々もなく、咲いている花も当然ない。風流人の天皇が加茂野に逃げ出す理由は、宮人らの煩わしさだけではなさそうだ。

 人払いされた庭にいるのは皇太子が一人きり、そこに私が加わったのでは、更に花がない。しかし皇太子は、誰もいない事に安堵しているのか、身軽な動作できざはしを下り、くつも履かずに庭に立つ。

「父上が甕原にいとうない理由は、国分寺が近すぎるからなのだろう」

 やけに大人びた口調で言うと、北に見える国分寺の塔と金堂に顔を向ける。

「国分寺が御嫌いなのですか」

 いささか意味が分からず、間抜けた言葉で聞き返す。

「嫌いである訳はないと思う」

 顔をこちらに戻しながら皇太子は言う。

「だが、あの金堂は恭仁宮くにのみやの大極殿だった。平城ならの大極殿を移築したのは、いましも知っていよう。命じたのは聖武皇帝しょうむこうていで、命じられたのは父上だったと聞いている。それこそ、兄上が赤子の頃の事らしいが」

 以前に話をした時と、どこか印象が違う。

「私も伺うた事があります。平城に再び都が戻された後、山背国分寺に喜捨されて金堂になったのですね」

 その頃、父の衛士の任期は終えていた。私たち家族は吉備に戻っていたので、恭仁京の事は直接知らない。私自身が衛士として都に来た後、昔話としての語りから、断片的に得た程度の知識しかない。恭仁への遷都を考えた聖武皇帝と左大臣の橘諸兄たちばなのもろえは、若手皇族官人の白壁王しらかべのみこを大極殿移築造営の責任者に抜擢した。

「しかし、考えてみれば、加茂野からも金堂や塔は良う見える。父上にしてみれば、とうの昔に振り切れているのやも知れぬな」

 呟くように言いながらも、加茂野の方を仰ぎ見る。そして、自らの裸足の足元に目をやって苦笑すると、おもむろに階の前に戻り、適当な段に腰を下ろす。

 恭仁京遷都の後、聖武皇帝は紫香楽しがらきに離宮を置く事を命じる。更には大寺院と巨大な毘盧遮那仏びるしゃなぶつの造営を計画する。この甲賀寺こうかでら建立の長官に任命されたのも白壁王だった。

 しかし、現地での天変地異などによって計画は潰え、様々な思惑の末に平城還都となる。大寺院と仏像造営は、平城の東で再開されて東大寺が建立される。その頃の白壁王は官界を退き、これらの事業には関わっていない。

「いつぞに五百枝いおえから聞いた」

 皇太子は再び視線を遠くに投げて話し始める。

「国分寺の大徳が、この金堂を建てたのは父上だと言うていたと。五百枝は言葉のままに受け取り、凄い事だと思うたそうだ。しかし父上は何も言わずに、金堂を見上げていた。金堂が恭仁の大極殿だったとは、その時は知らなかった。父上が恭仁や紫香楽の造営に携わり、様々な事が未完に終わったと知ったのも、後の事だと」

「然様にございますか」

 答えに窮する私は、またもや間抜けた言葉でうなずき返す。

「つまらぬ感傷に聞こえたか、許せ」

 こちらに目を向けて小さく笑う。その口調も顔つきも、異母兄の山部親王に驚くほど似ている。

「いえ、そのような事は」

 相変わらず間の悪い私は、更に戸惑う。しかし、ここでようやく気が付いた。皇太子は声変わりが始まっている。以前よりも声がかなり低くなったため、山部親王により似て来たのだろう。

 私も改めて国分寺を遠望する。山背国分寺に喜捨された大極殿は、金堂として御仏の住まいとなる。長年の風雪に、白い壁も朱塗りの柱も色褪せた。平城には新たな大極殿が建ったが、ここに見る金堂の方が重厚に写る。

「ところで汝は、私の何を伺いに来てくれたのだ。兄上や蔵下麻呂くらじまろから、様子を伺うて来いと命じられたのだろう」少し軽い口調で皇太子は問う。

「御不自由を感じておられないかと、まずは御要望を伺いに参った次第です」

 慌てて向き直った私は、一応、用意していた無難な答えをする。

「それは済まぬ事だ。まあ、私としては気分が良い。一番うるさい者には留守をさせ、付きまとう女にも外に行けと命じた」

 低くなり始めた声や口調も、やはり父親や異母兄に似ている。

「付きまとう女とは」

「県犬養の何と言うたか、先頃まで罪人として都を追われていた者だ。容疑が晴れて名誉回復したとかで、母上が拾い上げてやったらしいが」

「県犬養姉女の事でしょうか」

「ああ、そういう名前だったな。舎人らが陰で犬女と呼ぶ肥満女だ」

 片方の口角を上げて笑う顔も親兄弟と同じだ。

「春宮坊でも近衛府でも呼んでおります。実を言えば私もです。犬どころか熊か猪だと言う者もおりますよ」私もつい、軽口を言う。

「そうか、私も呼んでいる。とにかく私はあれが嫌いだ。自らの意見が通らぬと、内侍どころか、こちらにまで要らぬ圧力をかけようとする。せっかく一番うるさい酒人を置いて来たというに、何故、あのような者が偉そうにものを言うか。酒人がいない故に、増上慢ぞうじょうまんになっておるのであろうが」

 愚痴とも思える言葉を聞いていると、自然に山部親王の顔が浮かんで来る。声が低く安定したならば、更にそっくりになるだろう。思うに天皇の若い頃も、このような雰囲気だったのだろう。

「先程、外に行かせたと言われましたが、用事を命じられたのですか」

「ああ。山背守やましろのかみに文を届けろと。必ずに手ずから渡せと言い添えてな」

 山背守とは藤原種継の事だ。この男も最近、いくつかの職を兼任している。

「山背守は天皇や中務宮の供で、加茂野の御屋敷に行っているのではありませぬか」

「そう、加茂野ならば川も越えねばならぬ。手間も暇もかかる。あれは容姿の良い男に目が無い。種継に直に会えるとなれば、人に預ける様な事はせず、自ら手渡しに行くであろう、命令通りに」

 後宮での噂話のような事を言い、鼻先で笑う。

「しかし、種継に文とは」

「別にどうでも良い事だよ。この辺りの秦氏や狛氏こまうじに命じ、少し変わった宴を主宰されたしと書いてみた。私などが言わねども、種継ならば既に心得ておるだろう。もっとも、それが父上や兄上には、さほど珍しいものでもあるまいが」

 聞けば聞く程、大人顔負けの事を平然と言う。そして、嫌味も殆ど感じない。余裕のある態度を見れば見る程に思える。年端は行かずとも、この人は正真正銘の親王だ。

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