第50話 宝亀三年四月 春宮殿 皇太子の問い
五月に
先の
「どうして南山背の
「
「それも重要だが、何よりも、
「そうだな。御狩での行宮には、嬪様の御実家が使われる予定だとか。おかげで
「代わりに忙しいのは
「まあ、和氏だけが負担する訳ではない。あの辺りは
曹司に向かう私に気付くと、揃って立ち止まり敬礼をする。この者たちも近衛府からの出向者だ。この後、舎人らは宿舎で休むが、私は朝一番に宮内省に参上する。戻ってからは派遣人数や装備、備品、消耗品などの算出などを具体的に計上する仕事が待っている。悠長に見えていても、事務方はそれなりに忙しい。
春宮舎人が一人、私を訪ねて来たのは、仕事に追われる午後だった。
「春宮殿に来るよう言われているのか、
相手が私よりも、少し背が低いためもある。
「はい、
目の端では
「分かった。いつ窺えば良いのか」気を取り直し、背筋を正して問う。
「できれば、今すぐにでもと仰せです」やはり背を伸ばした舎人が答える。
その様な次第で少し外すと、少進に言って曹司を出る。外では
常々思うが、内裏は殺風景だ。
それを嫌った
舎人について春宮院の中庭に入る。ここには人の背丈ほどもある白い
「良い、
椅子から立ち上がった皇太子の背丈は、既に内侍らと変わらない。十二歳の今は手足ばかりが長く華奢に見える。だが、体格の良い父天皇や兄宮らに同様、いずれは偉丈夫と呼ばれるようになるだろう。
内侍や舎人らに下がれと皇太子は命じる。揃えたように一礼して、女達が両端の
「早速だが、兄上を抜きにして、
「御伺い致します」視線を外すように目礼する。
「
微かな笑いに、私は再び目を上げる。
「汝が、
予想に
「口外してはならぬと、勅命を受けております」視線を縁の床まで下げ、言葉を選びつつ答える。
「そうか。つまり、
年の割には落ち着いた物言いだ。感心しつつも、改めて皇太子の顔を見る。
「
「いえ、
我ながら口元が緩むのに気付く。
「やはり兄上も聞いたか、神託の事を」
皇太子の笑みは、少しばかり強張っている。
「宇佐大神は、兄上と私のどちらを
真剣な口調で更に問う皇太子は、階の上段に腰を下ろす。
「皇嗣にまつわる神託だと、どなたからか聞かれたのですか」僭越に思いながらも問い返す。
「兄上が右大弁と話しているのを聞いた。兄上も私も人を喰らう龍だ、宇佐大神が告げられたと」
真偽を確かめようと、真っ直ぐな視線が向く。
「否定は致しませぬ」
「人喰いの龍とはどういう意味か」
「中務宮様は言われました。皇家に生まれた者は、人を喰らう龍になり得る。歴代の主上を見ても、人臣の上に君臨する龍であられた。そのような意味なのだと思われます」
「つまり、兄上も日嗣に相応しいと、大神は告げられた。では、兄上と私の何れがと言われたのか。答えによって、汝を罪に問うなどはせぬ。あくまでも大神の言葉と信じる」
弟親王は百の同朋を喰らいて南の地に伏す。兄親王は萬の人民を喰らいて北の天に昇る。正確な意味は分からないが、どちらが位に就いても、穏やかでは済まされない争いが起こる。
「御気遣いを勿体無う存じます。しかし、神託では誰が皇嗣なのか、告げられてはおりませぬ。皇家の問題として、皇家の方々が判断すべき事と大神は言われた、私はその様に理解しております。御身様は皇太子として立たれた。それは真っ当な事です」
「では、私の立太子は、神意に背いておらぬのだな」
皇太子の目元が緩む。
「神意に背いてはおられませぬ」私はおもむろに告げる。
だが、産みの母親は、我が子を人喰いの龍にしたくないと泣いた。皇太子は生母の顔も知らない。
会った事もない産みの母親よりも、いつも身近にいた育ての母親に心を寄せる。貴貧を問わず言える事だ。
「そうか。もう、下がって良い。足労を求めて済まなんだ」泣き笑いでもしそうな声と表情で皇太子が言う。
他者に仕えた事のない親王が、目下の者に労いの言葉をかける。これも井上皇后の姿勢なのか。身の程もわきまえず、生さぬ仲の母子に同情に似た思いを抱く。
あの時、白壁天皇の姿で現れた大神は、二人の親王の何れも龍だと言った。どちらの親王が即位するにせよ、多くの血が流される。皇家はその事を覚悟せよ。神託は大いなる警告に他ならない。
池の畔には紫と白の
「
四代目の主、山部親王は意外そうな表情を見せる。花の終わった藤棚の下は、涼しい風が渡る。
「妙だな。他戸のいる場所で、その様な話をした憶えはない。だいたい、他戸は内裏から出て来ぬ。どこで聞かれたのだ」
「他の者の会話を聞いたのやも知れませぬ。しかし、神託の内容を知る者は限られます。その内で内裏に来る者となると、更に限られましょう」
猫と鳥から視線を移し、私も一緒になって首を捻る。
「私達以外の者が噂をしているのを聞いたとして、さて、誰がおるのか。天皇と共に報告を受けたのは御身の姉上、先の
藤原式家や南家で、山部親王支持の重鎮らの名前が挙がる。
「
「ああ、そうだったな」
うなずく親王の隣で、猫がゆっくりを身を起こし、音もたてずに地面に降りる。そして身を屈めるようにして州浜へと歩いて行く。
「まさかとは思うが、
「皇太子は、
白壁天皇の第一親王は、若くして出家し開成親王を名乗る。東大寺を経て唐律招提に入り、今では寺の台所に無くてはならない存在となっている。
「幾度も行っておる。皇后と共に訪れた事もあるが、大抵は父上に連れられてだ」
「御身様が神託の内容を知ったのも、
「開成本人は、父上から真っ先に相談を受けておる。いざという時は、俺などよりも余程に信用があるからな」
相変わらずこの人は、気が昂ったり動揺すると、一人称が私から俺になる。
「他戸に問われ、打ち明けたのか。あれも他戸を一人前の親王として認めておるのやも知れぬな。だが、それならば何故、俺や父上に問わず御身に問う。そこが分からぬ」
「それもそうですね。他戸親王様は、詳しい内容までは御存知ではなかった。ただ、人喰いの龍とは何かと聞いて来ましたから」
猫はまだ、州浜の端で鳥の動きを窺う。鳥は猫の気配に気づいていない。
「どこで漏れ聞いたにせよ、神託を一番に知らねばならぬのは、他戸と俺か。開成ならば、他戸に問われれば有体に話すだろう。離れて見ている分、状況を正しく判断できる」
言いながらも親王の目は、まだ猫を追っている。首を微かに伸ばす猫の足が、大きく前に出る。やおら走り出した黒い体が宙に舞うと、飛び立とうとした小禽を白い前足が捕らえる。再び州浜に下り立った時には、既に首の付け根に牙を立てている。
「しかし私は、夢の内容を殆ど告げておりませぬ。聞かれた事に答えただけです」
私の言葉に向き直った親王は、溜息のように息を継ぎながらも、どこか満足げな表情を浮かべている。
「子を人喰いの龍と言われ、俺の母は俺の意思に任せると言うた。他戸の実母は泣いていた。では、育ての母は何と言われていた」
「皇后も女帝も答えてはおられない。何の言葉もないまま、私の見た夢は終わりました」
「皇后は迷うておられたのやも知れぬな。あの御方は、私の野心を知っておられる故に」
得物をくわえた猫がこちらに歩いて来る。私達の手の届く辺りまで来ると、得物を一度地面に置く。鶺鴒は逃げようと翼を動かすが、猫は前足で無残に踏みつけ、顔を上げると宣言するように一声鳴く。
「良うやった、見事だ」落ち着き払った声で親王は応える。
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