第50話 宝亀三年四月 春宮殿 皇太子の問い

 五月に南山背みなみやましろへの行幸ぎょうこうを行う計画は、年の初めから聞いている。いにしえ薬狩くすりがりを彷彿とするような、御狩みかりを行いたいと天皇すめらみことは望んでいる。

 先の女帝みかどの御代は、狩を行うような事はなかった。更に先代の聖武皇帝しょうむこうていの御代には、行幸に伴う小規模な御狩は幾度かあった。しかし、このたび程に本格的な狩は、誰も記憶していないだろう。都が平城ならに移ってからは行われていない。それこそ、藤原の都の天皇以来かもしれない。


「どうして南山背の加茂野かものなのだろう」

 宿直とのい明けの朝食を済ませた春宮舎人らが、宿舎への帰り道に話をしている。

甕原みかのはら離宮がある故に、行宮かりみややら何やらの準備が要らぬ。行程としても、それ程の遠路でもない。まだまだ、緊縮財政ゆえに」

「それも重要だが、何よりも、和嬪やまとのひん様の御家があるからだろうよ」

「そうだな。御狩での行宮には、嬪様の御実家が使われる予定だとか。おかげで山背守やましろのかみも楽が出来ると安堵しているらしいぞ」

「代わりに忙しいのは和氏やまとうじか。なまじ近い分、大人数で押し寄せる事になろうから」

「まあ、和氏だけが負担する訳ではない。あの辺りは狛氏こまうじの本拠だし、秦氏はたうじも多い。とにかく裕福な土地柄だ。行幸を迎えるとなれば、国府以上に張り切ってくれるだろう、その連中が」

 曹司に向かう私に気付くと、揃って立ち止まり敬礼をする。この者たちも近衛府からの出向者だ。この後、舎人らは宿舎で休むが、私は朝一番に宮内省に参上する。戻ってからは派遣人数や装備、備品、消耗品などの算出などを具体的に計上する仕事が待っている。悠長に見えていても、事務方はそれなりに忙しい。


 春宮舎人が一人、私を訪ねて来たのは、仕事に追われる午後だった。

「春宮殿に来るよう言われているのか、皇太子ひつぎのみこが」つい、背をかがめ声を潜めて聞き返す。

 相手が私よりも、少し背が低いためもある。

「はい、然様さように申し付かりました」舎人もつられて声を潜める。

 目の端では少進しょうじょうが興味本位でこちらを見ている。更には曹司内を行き来する使部しぶらも、足を止めて顔を向ける。

「分かった。いつ窺えば良いのか」気を取り直し、背筋を正して問う。

「できれば、今すぐにでもと仰せです」やはり背を伸ばした舎人が答える。

 その様な次第で少し外すと、少進に言って曹司を出る。外ではつがいの燕が、相変わらず巣作りに忙しく飛び回る。


 常々思うが、内裏は殺風景だ。官衙かんがが味気ない風景なのは当たり前だが、ここまでがその延長に見える。間に合わせで植えた樹木も、初夏だというのに貧相で、華やぎや生活感が殆ど見られない。これというのも、先の女帝みかどが弓削氏や僧侶らを重用し、宮地も内裏も無味乾燥に改造してしまったからだ。

 それを嫌った白壁天皇しらかべのすめらみことは、東宮院の庭園を自らの好みに改葬した。元の邸宅である北一条第も、湧水を生かした池と藤棚や庭木が瀟洒に整えられる。風流人の天皇ではあるが、内裏にまでは手が回っていない。先の主の皇后おおきさきも、控え目な生活が長かったためか、贅沢には走り難かったのかもしれない。

 舎人について春宮院の中庭に入る。ここには人の背丈ほどもある白い躑躅つつじが盛りに咲く。これだけでも華やいで見えるのが救いだ。

 えんに置かれた椅子には、内侍ないしらを従えた皇太子が座る。私は正面のきざはしの下で膝を着き、参上の挨拶を述べる。

「良い、和気宿禰清麻呂わけのすくねきよまろ、顔を上げよ」頭上で呼ぶ皇太子の声はまだ高い。もう一年かそこらもすれば、低く変わるだろう。

 椅子から立ち上がった皇太子の背丈は、既に内侍らと変わらない。十二歳の今は手足ばかりが長く華奢に見える。だが、体格の良い父天皇や兄宮らに同様、いずれは偉丈夫と呼ばれるようになるだろう。

 内侍や舎人らに下がれと皇太子は命じる。揃えたように一礼して、女達が両端のきざはしから縁を下りる。衣擦れの音や足音が背後に遠ざかってゆくのを、私は前を見たまま聞いていた。

「早速だが、兄上を抜きにして、いましに問いたい事がある」視線をこちらに戻した皇太子が、高い声を殺し気味に言う。

「御伺い致します」視線を外すように目礼する。

中務卿なかつかさのかみの耳に入れるには、いささか不都合な事を聞く」

 微かな笑いに、私は再び目を上げる。県犬養勇耳あがたのいぬかいのいさみの顔は知らない。だが、宇佐神宮での夢で見た、弟親王と母親はそっくりだった。今、間近に見る他戸おさべ皇太子は、父親にも異母兄にも似ている。間違いなく皇家男子の顔だ。

「汝が、宇佐大神うさのおおかみより賜った託宣について聞きたい」

 予想に然程さほどたがわない言葉が返る。兄親王以上に露骨な問いかけだ。

「口外してはならぬと、勅命を受けております」視線を縁の床まで下げ、言葉を選びつつ答える。

「そうか。つまり、道鏡どうきょう法師や弓削氏の事ではないのだな。やはり皇家、いや、私に関する事なのか」

 年の割には落ち着いた物言いだ。感心しつつも、改めて皇太子の顔を見る。

如何いかがした」視線に気づき、怪訝そうに問う。

「いえ、中務宮なかつかさのみや様と似た御言葉を使われると思いまして」

 我ながら口元が緩むのに気付く。

「やはり兄上も聞いたか、神託の事を」

 皇太子の笑みは、少しばかり強張っている。

「宇佐大神は、兄上と私のどちらを日嗣ひつぎだと言われた」

 真剣な口調で更に問う皇太子は、階の上段に腰を下ろす。

 ひさししとみも戸も開け放され、人が隠れる場所は手近にない。声の届く範囲に、舎人も内侍もいない。最も近くに控える舎人を呼ぶにも、声を張り上げて腕でも振り回さなければ気付かれない。秘密裏の話は開け放された場所で行え。志貴親王しきのみこ以来の教えは、ここでも守られている。

「皇嗣にまつわる神託だと、どなたからか聞かれたのですか」僭越に思いながらも問い返す。

「兄上が右大弁と話しているのを聞いた。兄上も私も人を喰らう龍だ、宇佐大神が告げられたと」

 真偽を確かめようと、真っ直ぐな視線が向く。

「否定は致しませぬ」

「人喰いの龍とはどういう意味か」

「中務宮様は言われました。皇家に生まれた者は、人を喰らう龍になり得る。歴代の主上を見ても、人臣の上に君臨する龍であられた。そのような意味なのだと思われます」

「つまり、兄上も日嗣に相応しいと、大神は告げられた。では、兄上と私の何れがと言われたのか。答えによって、汝を罪に問うなどはせぬ。あくまでも大神の言葉と信じる」

 弟親王は百の同朋を喰らいて南の地に伏す。兄親王は萬の人民を喰らいて北の天に昇る。正確な意味は分からないが、どちらが位に就いても、穏やかでは済まされない争いが起こる。

「御気遣いを勿体無う存じます。しかし、神託では誰が皇嗣なのか、告げられてはおりませぬ。皇家の問題として、皇家の方々が判断すべき事と大神は言われた、私はその様に理解しております。御身様は皇太子として立たれた。それは真っ当な事です」

「では、私の立太子は、神意に背いておらぬのだな」

 皇太子の目元が緩む。

「神意に背いてはおられませぬ」私はおもむろに告げる。

 だが、産みの母親は、我が子を人喰いの龍にしたくないと泣いた。皇太子は生母の顔も知らない。山部親王やまべのみこが言うように、井上皇后いのえのおおきさきが実母でない事は知っているかも知れない。

 会った事もない産みの母親よりも、いつも身近にいた育ての母親に心を寄せる。貴貧を問わず言える事だ。他戸親王おさべのみこ自身が皇位を望むのなら、神意に背いてはいない。

「そうか。もう、下がって良い。足労を求めて済まなんだ」泣き笑いでもしそうな声と表情で皇太子が言う。

 他者に仕えた事のない親王が、目下の者に労いの言葉をかける。これも井上皇后の姿勢なのか。身の程もわきまえず、生さぬ仲の母子に同情に似た思いを抱く。

 あの時、白壁天皇の姿で現れた大神は、二人の親王の何れも龍だと言った。どちらの親王が即位するにせよ、多くの血が流される。皇家はその事を覚悟せよ。神託は大いなる警告に他ならない。


 池の畔には紫と白の杜若かきつばたが咲く。その上を小さなつばめが幾つか飛ぶ。湧水のある地に池を構えた北一条第きたいちじょうだいは、六十年ほど前に造られた。庭も屋敷も、先の三代に渡って手入れがされて来た。しかし、この屋敷の内に燕が巣をかける事はなかったという。代々の主は学問や詩歌よりも武芸や狩猟を好み、猟犬や猫が常に敷地の内をうろついている。天敵が幅を利かせる場所に、わざわざ巣をかける鳥もいなかろう。

他戸おさべが、私と百川ももかわの話を聞いていたと言うたのか」

 四代目の主、山部親王は意外そうな表情を見せる。花の終わった藤棚の下は、涼しい風が渡る。しつらえられた円卓の周りには、三つの椅子が置かれている。二つには親王と私が座り、もう一つには背の黒い雄猫が香箱を作って州浜すはまを眺める。猫の視線の先では、背の黒い鶺鴒せきれいが歩く。

「妙だな。他戸のいる場所で、その様な話をした憶えはない。だいたい、他戸は内裏から出て来ぬ。どこで聞かれたのだ」

「他の者の会話を聞いたのやも知れませぬ。しかし、神託の内容を知る者は限られます。その内で内裏に来る者となると、更に限られましょう」

 猫と鳥から視線を移し、私も一緒になって首を捻る。

「私達以外の者が噂をしているのを聞いたとして、さて、誰がおるのか。天皇と共に報告を受けたのは御身の姉上、先の女帝みかどと北家の左大臣は故人だ。百川と種継たねつぐ良継よしつぐ縄麻呂ただまろ蔵下麻呂くらじまろも大筋くらいは知っておるであろうが」

 藤原式家や南家で、山部親王支持の重鎮らの名前が挙がる。

紀船守きのふなもり槻本老つきのもとのおゆも、一部は知っております」

「ああ、そうだったな」

 うなずく親王の隣で、猫がゆっくりを身を起こし、音もたてずに地面に降りる。そして身を屈めるようにして州浜へと歩いて行く。

「まさかとは思うが、開成かいじょうか……」猫の動きを目で追いながら、親王はつぶやく。

「皇太子は、唐律招提とうりつしょうだいに行かれた事があるのですか」

 白壁天皇の第一親王は、若くして出家し開成親王を名乗る。東大寺を経て唐律招提に入り、今では寺の台所に無くてはならない存在となっている。

「幾度も行っておる。皇后と共に訪れた事もあるが、大抵は父上に連れられてだ」

「御身様が神託の内容を知ったのも、開成親王かいじょうのみこ様を通じてでしたね」

「開成本人は、父上から真っ先に相談を受けておる。いざという時は、俺などよりも余程に信用があるからな」

 相変わらずこの人は、気が昂ったり動揺すると、一人称が私から俺になる。

「他戸に問われ、打ち明けたのか。あれも他戸を一人前の親王として認めておるのやも知れぬな。だが、それならば何故、俺や父上に問わず御身に問う。そこが分からぬ」

「それもそうですね。他戸親王様は、詳しい内容までは御存知ではなかった。ただ、人喰いの龍とは何かと聞いて来ましたから」

 猫はまだ、州浜の端で鳥の動きを窺う。鳥は猫の気配に気づいていない。

「どこで漏れ聞いたにせよ、神託を一番に知らねばならぬのは、他戸と俺か。開成ならば、他戸に問われれば有体に話すだろう。離れて見ている分、状況を正しく判断できる」

 言いながらも親王の目は、まだ猫を追っている。首を微かに伸ばす猫の足が、大きく前に出る。やおら走り出した黒い体が宙に舞うと、飛び立とうとした小禽を白い前足が捕らえる。再び州浜に下り立った時には、既に首の付け根に牙を立てている。

「しかし私は、夢の内容を殆ど告げておりませぬ。聞かれた事に答えただけです」

 私の言葉に向き直った親王は、溜息のように息を継ぎながらも、どこか満足げな表情を浮かべている。

「子を人喰いの龍と言われ、俺の母は俺の意思に任せると言うた。他戸の実母は泣いていた。では、育ての母は何と言われていた」

「皇后も女帝も答えてはおられない。何の言葉もないまま、私の見た夢は終わりました」

「皇后は迷うておられたのやも知れぬな。あの御方は、私の野心を知っておられる故に」

 得物をくわえた猫がこちらに歩いて来る。私達の手の届く辺りまで来ると、得物を一度地面に置く。鶺鴒は逃げようと翼を動かすが、猫は前足で無残に踏みつけ、顔を上げると宣言するように一声鳴く。

「良うやった、見事だ」落ち着き払った声で親王は応える。


  

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