第49話 宝亀三年四月 皇太子をめぐる諸事情
更には反対派の筆頭に立ち、命婦をあおる御仁が現れる。皇太子の同母姉の
「何故、
「仲が悪いのではないようですよ。内裏の女たちの噂では、内親王は中務宮の気を引きとうて、わざと邪険な態度を示しているのだとか」
噂好きな二人の会話を聞いていると、ここもやはり近衛府とは違うと実感する。春宮坊も皇后宮職に同様、のんびりとした雰囲気が蔓延する。それでも、頻繁に出入りする春宮舎人たちは、近衛府や中衛府から出向者が多く活気がある。締まりのないのは、事務職の者らだ。今日も机の上の書類を放ったまま、噂話に花が咲く。
「
「ああ。内侍らには、恰好の噂の種のようだな」私は軽く答える。
中務宮と酒人内親王の噂は、室や種継からも聞いている。種継の言うには、内親王の態度は逆効果も良いところらしい。それこそ、惚れてもいない女の機微やら駆け引きに気付けなど、
「しかし、大声では言えぬが、内侍らも内親王には手を焼いている。ああも出しゃばって来られては、宮様や太政官の機嫌を損ねるだけだ。これでは、皇太子の立場も悪うする」
先日も若い内侍に対する剣幕を、目の当たりにしたばかりだ。何とかなだめた古参の者も、このような事は日常茶飯事だと溜息をついていた。
「このままでは、御自身の身の振り方にも関わりましょうな。
「さてな。何しろ
言ってはみたが、神意以上に人意もあるような気がする。斎宮の卜定は、南山背への行幸の後だと聞く。そして行幸まで一月を切っている。
夕餉も終えて日も暮れきった頃、船守と連れ立って久々に種継の屋敷を訪ねる。女や子供たちは奥に引き上げたか、珍しく静まり返っている。
少し蒸し暑い夜を幸い、家人らに命じて
「さすがに、
春宮殿にはびこる古女らの、相変わらずの横暴ぶりを
「何にしても、身内で話をする事まで、妨害するのでは異常すぎる。そもそも、女どもにそこまでの権限はなかろう」
船守は少し籠った声で言うと、二
「傍若無人の古手の内侍とはいえ、
私は答えながら船守の坏に酒を満たし、種継にも
「それに、噂が本当ならば
坏を出しながら言う種継は、少しばかり楽しそうに見える。噂話以上に、何か裏事情でも知っているのではないか。つい、勘繰りが先に立つ。
「それで、
つい先日も、具合が良くないと聞いて、中務宮が右大弁と共に見舞いに来たばかりだ。私も春宮殿の入り口までは供をしたが、皇太子の姿は見ていない。
「医師の言うには、特に重篤な病ではないそうだ」
私は、つい溜息をつく。皇太子が熱を出したの、食欲がないのと、内侍らは四六時中囁き合っている。
「若翁の言うには、単なる引き籠りと、女たちの過保護だと」
種継は察したように笑う。
内侍らは度々、皇太子の様子を春宮坊に上げては、医師や薬師が頼りないとこぼす。医師らはいずれも、身体は比較的健やかだと勿体ぶる。要するに、気から来る病なのだと、言いたい言葉を濁し続ける。
皇太子とはいえ、年端も行かない少年だ。いきなり、母親が謀反に加担していたと聞かされ、引き離されて安否も知れないのでは、不安になるのが当たり前だ。
何時までも内裏で一人にしておくのが良くない。父天皇ら家族と共にいるべきとの声は度々聞こえるが、それに抵抗する者らが立ちはだかる。その先頭が酒人内親王とあって、中務宮がこれまでも何度か対抗処置に出向いている。
「こんな気候の良い時節に引き籠るとは、勿体ない話だ」根っからの武官の船守が、うなずきながら言う。
「ゆえに、戸から
種継はやはり楽しそうだ。
「中務宮がか。相変わらず、大胆な御人だな」私はつい笑う。
中務宮
「皇太子におかれては、気の晴れた御様子だった。と、叔父上は言うていた」
種継の叔父とは、右大弁
「内侍らの反応は」
船守が鼻先で笑う。
「その場にいた者らは、若翁を見直したとか何とか言うていたな。今までも
「こぞって、たてついていた訳でもないのか、意外だな」
「まあ、若い内侍らの多くは、皇太子が東宮院に戻るべきだと思うているそうだ。若翁にしても、御自身だけで済むのなら、更に強気に出られただろう。やはり、
「皇太子は、お幾つになられた」種継が聞く。
「十二歳のはずだ」私は答える。
「中務宮の御息女との婚姻を早急に進めるにしても、成人までに三年はあるのか」船守が言う。
「三年が長いか短いか。何か不測事態が起こるには充分な時間だ」種継は考え込むように言う。
「起こるなのか、起こすのではないのか」笑いもせずに船守が聞く。
この男も時々、妙に辛辣だ。
「俺は積極的に起こす気はないし、立場でもない。だが、それを狙う者は、一人や二人ではあるまいよ」
種継の答えは大真面目だ。そして船守も私も、誰の事だとは聞けない。
気を取り直して目の前の酒瓶を取り、再び種継に差し出す。庭で焚かれる
ここ最近、皇太子は外に出る機会が増え、機嫌も良い様子だ。山部親王の訪問は、思いの外、功を奏したようだと、
先日には、姉の酒人内親王に対して、平然と言い返しているのを見たとも聞く。しかしその後には、
そして噂話には、もう一人の女の名前が頻繁に出て来るようになる。人並み以上に太っているためか、嫌でも目を引く。しかし、噂になり易いのは外見だけではない。
このような噂話が飛び交う最中、件の中務宮山部親王が、不意を突いて春宮坊に現れる。
誰も伴わずに行くには、古手の女らの目や口が煩わしい。私を指名して、春宮殿に供をしろと言う。
私としては命令を額面通りに受け取る気はないが、急ぎの仕事もないのを幸い、御意と頭を下げる。
「件の姉女とやらが出仕を始めたそうだな。あの者の役職は何だったか」
曹司を出て人気が無くなったところで中務宮は聞く。
「
「員外とはいえ
前を見たまま鼻先で笑う。復帰命令の出た一月前、皇后は内裏の主だった。姉女の推した横車とは、当然、県犬養
内裏の門に
こちらを直視していないのを承知しながらも、親王は衛士に目礼する。内舎人や近衛の頃の習慣を、あえてやめる気もないのだろう。
「今のところ、あれは大人しいのか」
しばらく無言で歩いた後、親王が小声で問う。あれとは無論、姉女の事だ。
「大きな問題は起こしておりませぬ」
「些細な問題は起きている、そういう事か」喉の奥の方で低く笑う。
「酒人内親王様にひどう嫌われているようです、内侍らの噂では」
「成る程、予想していた通りだな。互いに自己主張の激しい者同士だ、自ら引く事を知らぬ。面白い物が見られたなら、また教えてくれ」悠長に鼻先で笑い飛ばす。
生垣に沿って進み、角を入ったところで春宮殿に続く門が現れる。衛士がいない代わりに、すぐさま
更には舎人らの言う通り、皇太子は山部親王が来ると機嫌が良い。先の一件で長兄を見直したか、頼れる相手と判断して親し気に言葉を交わす。会話の内容は他愛ない、食事は進むか、睡眠はとれているか、勉学に怠りはないか、そして
私は舎人や内侍らと並んで、傍らで様子を眺めていた。周囲が心配するほど、皇太子の気が滅入っているようには見えない。山部親王が報告する行幸の予定に、興味を示す様子もありありとうかがえる。
「これまでの
春宮坊に戻って一息つきながら、話が始まる。応接室に二人きりとはいえ、隣の部屋では同僚らが勤務中だ。仕事をする振りで聞き耳を立てる者もいる。秘密裏の話など出来るものではない。取り敢えずは、声を抑え気味に話を進める。
「
「その辺りも皇后が止めていたようだ。
私が相手なので、末弟の事は他戸と呼び捨てにする。公式の場ならば、堅苦しく皇太子と呼ぶだろう。
「私などが口を出すのも僭越と思いますが、やはり皇太子が内裏より出られれば、いずれの方々も安心召されるのでは」
「さもなくば、天皇が内裏に戻るかだ。こちらの方が、遥かに聞き分けは悪そうだが」笑いもせずに親王は言う。どうやら冗談ではないらしい。
「いずれにせよ、一人でおいて置く訳には行かぬ。酒人がどうのこうの言うが、あれは他戸の事を分かっておるとは思えぬ。それこそ御身の言うように、能登の屋敷にでも預けて、五百枝らと共に過ごさせるべきではあるまいか。伯母御らが健勝であれば、内裏に乗り込ませる事も考えたが」
伯母御とは天皇の姉宮で、若い頃から内裏に仕えて裏も表も良く知る人達だった。しかし、六十四歳の天皇の姉宮ともなれば、殆どが故人となっている。ただ一人残る
「今は私も山背行幸の支度で手一杯だ。それが済み次第、早急に対処せねばと思うておる」
「先程の御様子では、皇太子も行幸に参加される事になりましょうか」
春宮坊としても、参加の予定で動いている。
「天皇も私もその様に勧めている。他戸もはっきりとは口にしていないが、外に出たい様子だ。皇后のおられた頃には敵わなかった故に」
ようやく親王の顔に笑いが戻る。
「では、留守居の筆頭は右大臣になりますな」
「ああ。この度は
年寄りと言うが、右大臣は天皇よりも一つか二つ年下のはずだ。
「皇太子の同行となれば、御身ら春宮坊や近衛府にも総動員してもらう事になる」
「我々も怠らぬよう、心して励みます」
「是非とも頼む」
相変わらず、臣下に頭を下げる。
「しかし、御身は思わぬか」ふと、何気ない口調になり、声は更に低く小さくなる。
「何をでしょうか」
私は身を乗り出す。
「他戸は知っているのではないのか、
「それは、つまり……」
私の濁した語尾に、親王は小さくうなずく。そして眉根を潜め気味に笑うと、視線を窓の方に向ける。釣られて外を見れば、二羽の燕が軒を掠めるように飛ぶ。
番で巣をかけているのか、強いてどうでも良い事を思う。それでも口からは溜息が漏れた。
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