第48話 宝亀三年四月 更なる出向と女たちの行方
左京五条七坊に紀寺が管轄する屋敷がある。廃后となった
内裏は未だ戒厳状態も同然で、
皇后宮職も主を失い解散となる。兼任や出向の形で仕事をしていた者は、元の職場に復帰する。
そして
「先の騒ぎ、やはり
「ああ、俺も聞いた。
「私は
中務宮
室から聞く様子では、新笠様は相変わらず元気だが、難波内親王様は寄る年波からか、体調が思わしくない。それが噂を助長しているのだろう。
近衛府に戻って半月、思い出したように中務宮からの呼び出しを受け、私邸を訪ねる。
「今度は、
「御身は地方勤務を希望しているそうだな。種継が言うていた。今の状況が一段落したならば、希望する国での任務も視野に入れておく」ここぞとばかりの真摯な顔で、中務宮が答える。
夏の始めの雨期の最中、北一条第の庭にも小雨が降り続く。小さいながらも丹精した池の水面には、湧水の波に加えて、雨の波紋が幾つも広がる。それを
「申し訳ありませぬ。豊前国への希望は、何度か口にした事はあります。しかし、ここでの任務があるのならば、それが最優先と存じております」言ってはみるが、我ながら言い繕いにしか聞こえない。
「豊前国なのか。備前ではないのか」親王の口調はかなり意外そうだ。
「豊前です」
「宇佐であのような事があったのにか。いや、むしろ、あったからこそなのか」
「そのように思うて頂ければ幸いです」
「そうか。憶えておく。だが、いずれにせよ、御身を近い内に
反論は許されそうにない。
「承りました」私としても、反論するいわれはない。
かくして、四月からは春宮大進にと配置換えが決まった。
今までの例では、皇太子の宮は東宮院に置かれる。ところが現在の東宮院には、楊梅宮が造られて、天皇の住まいとなっている。内裏に住まうのは皇后だったが、今は十二歳の皇太子が主となった。そのためなのか、内侍らの勢力は以前にも増して強い。誰も口にはしないが、もしも山部親王が皇太子だったならば、このような内侍らは、真っ先に追い出されただろう。
「勅命で東宮院に呼び戻せば、話は済むのではないのか」
「皇太子様だけならば、すぐにでもそうされような。しかし、海千山千の煩い女らが、群れで付いて来る。それを疎ましゅう思われているのだと思うよ」
春宮舎人らの立ち話が聞こえる。多くの舎人は近衛府や中衛府からの出向者だ。そのためか、皇后宮職の頃に比べると、遥かに気が楽だ。何といっても、宮への出入りに内侍らの目を気遣う頻度が、格段に減った事も有り難い。
「時に、
先月まで皇后宮職が使っていた建物を、今度は宮内省
「都の外に移した方が良かろうと、御偉方が判断したようだ。まあ、中務宮や右大弁が取り謀ったのだと思う」近くに他者のいない事を確認し、私も小声で答える。
「あの者は尾張あたりの出ではなかったか。今更、郷里に帰るという年でもあるまい。近隣に娘や息子でもおるのか」
「子供の所在は知らぬが、本人は
「御身の姉御の子らと共にいる、という事か」こちらを見ずに老が問う。
大きな
「葛城には
「なるほどな。かくして、皇后もあの
老の顔が少しだけ、こちらに向く。次の話題に載せられた犬とは、勿論、
「ああ。厄介な相手がいのうなったゆえ、今更にのこのこ出て来たそうだ」
私は
「あれが厄介と思うのは、皇后と足嶋なのか」老は軽く首を傾げて聞く。
「そうだな、二人は犬女の絡んだ過去を知っている。冤罪の何のと許されはしたが、あれが過去の呪詛に関わっているのは確かだ。殊に足嶋は、件の
「
「
老はうなずきながらも、右手の拳で肩や首筋を軽くたたく。言葉と動作が、妙にちぐはぐに映る。遠目に見れば、仕事を抜け出して愚痴を言い合っているように見えるだろう。
「乙女が井上内親王に仕えるきっかけは、足嶋の推挙によると聞く。足嶋も乙女も、犬女の事は嫌うていた。出家した勇耳に近づき、良からぬ事を仕出かすのではないか。それを懸念して見張っていたのだろう。まあ、乙女は既に故人で、足嶋に直接確かめた訳でもないのだが」言いながらも、私はわざとらしく額を押さえて下を向く。
「何れにせよ、恐れる相手は既にいないか。犬女の目的は何であろうな。勇耳と皇后の関係は知っているのか」
「可能性はある。元より、病的に他者を詮索したがると、悪評を幾つも聞いているゆえ。勇耳のみならず、足嶋も都には近づけぬに限る」
「元より皇后が勇耳を利用した様に、犬女も勇耳を何らかの形で利用しようと考えているのやも知れぬな」
「だが、勇耳本人には、何の権限もない。あるのは
「おまけに所在が知れぬとなると、まずは皇太子に近づこうとするであろうな」
「確かに。手懐けて信頼を勝ち取り、出世の足掛かりにでもと、考えておるやも知れぬ」
「それこそ
老は鼻先で笑う。心なしか船守の笑い方に似ている。
「尚侍か。そして
かつて橘朝臣を賜ったのは
「では、誰か大出世をする見込みのある男を掴まえねばならぬな。さもなくば、娘を皇太子妃にとでも画策するか」老は笑いもせずに言う。
「さて、犬女に娘はおったかな。元亭主は腐れた近衛舎人だったな。確か、側杖を喰らって流刑になった」
「うむ、娘がいたにしても、入内は難しそうだな。ゆえに、手早いところで勇耳に目を付けておるのやも知れぬな」
「皇太子の生母という事実を人口に膾炙させ、正式に
「そして母子に張り付いて、自らも甘い汁を啜ると。だが、それだけの器量が犬女にあるかは大いに疑問だが」老にしては、いつになく馬鹿にしたような口調で言って笑う。
「まあ、大言妄想も大概にせよと言うところだな」
私も一緒になって笑う。作業をしている者らから見れば、益々、暇で不謹慎な輩に映っているだろう。
「ともあれ、呪詛騒ぎは一段落した訳だ。次の仕事は、犬を見張る事になろうな」そう呟いて、老はわざわざ欠伸の振りまでして見せる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます