第48話 宝亀三年四月 更なる出向と女たちの行方

 左京五条七坊に紀寺が管轄する屋敷がある。廃后となった井上内親王いのえのひめみこは、そこに住まいを移した。宮からは出たが、都の内に住まわせるのは、まだ処遇が決定していないためだ。

 内裏は未だ戒厳状態も同然で、皇太子ひつぎのみこは東宮院か西宮院に、住まいを移すべきだと声が上がる。しかし、後宮を固める内侍ないしらの抵抗は大きい。宮内省や太政官も手を出しかねている内に、衛府による操作は一段落した。呪具や関係者から押収した証拠以外に、決定的な物は見つかっていない。

 皇后宮職も主を失い解散となる。兼任や出向の形で仕事をしていた者は、元の職場に復帰する。大進だいじょうの役職を解かれた私は、兼任している播磨員外介いんがいのすけにでもなるのかと、密かに地方勤務を期待していた。だが、間もなく介の任も解かれ、元の古巣の近衛将監に戻った。

 そしてちまたには、またも奇妙な噂が流れる。

「先の騒ぎ、やはり呪詛ずそがらみらしいぞ」

 舎人とねりらが物陰で囁き合う。

「ああ、俺も聞いた。中務宮なかつかさのみや様の御母堂を狙うたとやら」

「私は難波内親王なにわのひめみこ様もだと聞いたが」

 中務宮山部親王やまべのみこの母親は和新笠やまとのにいかさ、難波内親王は天皇すめらみことの同母姉だが、いずれの名前も捜査過程では上がっていない。誰が主体となって二人を呪詛したのかは、どの噂話でも言われていない。どうやらこの度も、故意に流されているようだ。

 室から聞く様子では、新笠様は相変わらず元気だが、難波内親王様は寄る年波からか、体調が思わしくない。それが噂を助長しているのだろう。


 近衛府に戻って半月、思い出したように中務宮からの呼び出しを受け、私邸を訪ねる。

「今度は、春宮坊とうぐうぼうですか……」思わず声に出る。

「御身は地方勤務を希望しているそうだな。種継が言うていた。今の状況が一段落したならば、希望する国での任務も視野に入れておく」ここぞとばかりの真摯な顔で、中務宮が答える。

 夏の始めの雨期の最中、北一条第の庭にも小雨が降り続く。小さいながらも丹精した池の水面には、湧水の波に加えて、雨の波紋が幾つも広がる。それを広廂ひろひさしで眺めるのは、主の山部親王と私、そして背の黒い大きな雄猫だけだ。

「申し訳ありませぬ。豊前国への希望は、何度か口にした事はあります。しかし、ここでの任務があるのならば、それが最優先と存じております」言ってはみるが、我ながら言い繕いにしか聞こえない。

「豊前国なのか。備前ではないのか」親王の口調はかなり意外そうだ。

「豊前です」

「宇佐であのような事があったのにか。いや、むしろ、あったからこそなのか」

「そのように思うて頂ければ幸いです」

「そうか。憶えておく。だが、いずれにせよ、御身を近い内に春宮大進とうぐうだいじょうに任命する」

 反論は許されそうにない。

「承りました」私としても、反論するいわれはない。

 かくして、四月からは春宮大進にと配置換えが決まった。


 今までの例では、皇太子の宮は東宮院に置かれる。ところが現在の東宮院には、楊梅宮が造られて、天皇の住まいとなっている。内裏に住まうのは皇后だったが、今は十二歳の皇太子が主となった。そのためなのか、内侍らの勢力は以前にも増して強い。誰も口にはしないが、もしも山部親王が皇太子だったならば、このような内侍らは、真っ先に追い出されただろう。

「勅命で東宮院に呼び戻せば、話は済むのではないのか」

「皇太子様だけならば、すぐにでもそうされような。しかし、海千山千の煩い女らが、群れで付いて来る。それを疎ましゅう思われているのだと思うよ」

 春宮舎人らの立ち話が聞こえる。多くの舎人は近衛府や中衛府からの出向者だ。そのためか、皇后宮職の頃に比べると、遥かに気が楽だ。何といっても、宮への出入りに内侍らの目を気遣う頻度が、格段に減った事も有り難い。

「時に、裳咋足嶋もくいのたるしまの行方を知っておるか、御身おみ。既に内裏にはおらぬようだが」槻本老つきのもとのおゆが隣で囁くように聞く。

 先月まで皇后宮職が使っていた建物を、今度は宮内省主殿とのも寮が使う事になった。その引越しの様子を見に来たところで、老に出くわして立ち話となった。

「都の外に移した方が良かろうと、御偉方が判断したようだ。まあ、中務宮や右大弁が取り謀ったのだと思う」近くに他者のいない事を確認し、私も小声で答える。

「あの者は尾張あたりの出ではなかったか。今更、郷里に帰るという年でもあるまい。近隣に娘や息子でもおるのか」

「子供の所在は知らぬが、本人は葛城かづらきにおるよ」

「御身の姉御の子らと共にいる、という事か」こちらを見ずに老が問う。

 大きなひつを舎人が二人がかりで運んで行く。傍から見ると私達は、作業を遠巻きに見て立ち話をする、暇な五位と六位に映るだろう。

「葛城には県犬養勇耳あがたのいぬかいのいさみがいる。甘い処置だと、中務宮は笑うておられたが」

「なるほどな。かくして、皇后もあのおうなも都を去った。そして入れ替わりに、次の犬が現れたか」

 老の顔が少しだけ、こちらに向く。次の話題に載せられた犬とは、勿論、県犬養姉女あがたのいぬかいのあねめの事だ。

「ああ。厄介な相手がいのうなったゆえ、今更にのこのこ出て来たそうだ」

 私はこうぶりの際を掻くふりをして笑って見せる。直接に姿は見かけていないが、職場復帰をしたのは確かだ。先日、早速に室が話してくれた。

「あれが厄介と思うのは、皇后と足嶋なのか」老は軽く首を傾げて聞く。

「そうだな、二人は犬女の絡んだ過去を知っている。冤罪の何のと許されはしたが、あれが過去の呪詛に関わっているのは確かだ。殊に足嶋は、件の誣告ぶこくをした女とも、繋がっている可能性が大きい」

丹比たじひの何やらいう。その者の発言によって、犬女――姉女は流罪になったのだからな」

丹比乙女たじひのおとめだ」

 老はうなずきながらも、右手の拳で肩や首筋を軽くたたく。言葉と動作が、妙にちぐはぐに映る。遠目に見れば、仕事を抜け出して愚痴を言い合っているように見えるだろう。

「乙女が井上内親王に仕えるきっかけは、足嶋の推挙によると聞く。足嶋も乙女も、犬女の事は嫌うていた。出家した勇耳に近づき、良からぬ事を仕出かすのではないか。それを懸念して見張っていたのだろう。まあ、乙女は既に故人で、足嶋に直接確かめた訳でもないのだが」言いながらも、私はわざとらしく額を押さえて下を向く。

「何れにせよ、恐れる相手は既にいないか。犬女の目的は何であろうな。勇耳と皇后の関係は知っているのか」

「可能性はある。元より、病的に他者を詮索したがると、悪評を幾つも聞いているゆえ。勇耳のみならず、足嶋も都には近づけぬに限る」

「元より皇后が勇耳を利用した様に、犬女も勇耳を何らかの形で利用しようと考えているのやも知れぬな」

「だが、勇耳本人には、何の権限もない。あるのは他戸親王おさべのみこの実母だという事実だけだ」

「おまけに所在が知れぬとなると、まずは皇太子に近づこうとするであろうな」

「確かに。手懐けて信頼を勝ち取り、出世の足掛かりにでもと、考えておるやも知れぬ」

「それこそ尚侍ないしのかみにでも昇るつもりか」

 老は鼻先で笑う。心なしか船守の笑い方に似ている。

「尚侍か。そして県犬養宿禰あがたのいぬかいのすくねを改め、橘朝臣たちばなのあそみにでもなる気でおるやも知れぬぞ」私も言いながら苦笑する。

 かつて橘朝臣を賜ったのは橘諸兄たちばなのもろえだが、元々の橘宿禰たちばなのすくねを賜姓されたのは、母親の県犬養宿禰三千代だった。この人は女孺めのわらわとして阿閇女帝あへのみかどに仕え、ある諸王みこの伴侶となり二人の男子の母親となった。後年、右大臣にまで昇進する藤原不比等の後添えとなり、光明氏皇后となる娘を産み、更に聖武皇帝の乳母めのとにもなった。こうして女帝らの信認を勝ち取り、大臣の内室として尚侍の地位にまで昇った。

「では、誰か大出世をする見込みのある男を掴まえねばならぬな。さもなくば、娘を皇太子妃にとでも画策するか」老は笑いもせずに言う。

「さて、犬女に娘はおったかな。元亭主は腐れた近衛舎人だったな。確か、側杖を喰らって流刑になった」

「うむ、娘がいたにしても、入内は難しそうだな。ゆえに、手早いところで勇耳に目を付けておるのやも知れぬな」

「皇太子の生母という事実を人口に膾炙させ、正式に夫人ぶにんひんとしての昇格でも狙うか」

「そして母子に張り付いて、自らも甘い汁を啜ると。だが、それだけの器量が犬女にあるかは大いに疑問だが」老にしては、いつになく馬鹿にしたような口調で言って笑う。

「まあ、大言妄想も大概にせよと言うところだな」

 私も一緒になって笑う。作業をしている者らから見れば、益々、暇で不謹慎な輩に映っているだろう。

「ともあれ、呪詛騒ぎは一段落した訳だ。次の仕事は、犬を見張る事になろうな」そう呟いて、老はわざわざ欠伸の振りまでして見せる。

 

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