そんな誰かの一部始終

ともはっと

そして彼は、未知の扉を開く

 私は、これから私に起きる期待に、ドキドキと高鳴る胸を必死に抑え込みたい気持ちでいっぱいだった。


 そのドキドキを、心の中で鎮まるように念じながら、事前に用意していた飲み物をぐいっと口に含む。

 清涼な香りと共に口の中に広がるは、ゆずの瑞々しい酸味がしっかりと効いたほんの少し温められたゆず茶だ。

 本格的なゆず茶は、ゆずの皮そのものが入っていて、こりこりっと言った果肉感も味わうことが出来るらしいが、苦味も少しあるので私はあまり得意ではない。

 私が飲んでいるこれは、お湯に溶かすだけで手軽に飲める粉末タイプのものを使っているのだが、そもそもがこれがお茶の部類ではないというところをまずは驚くべきなのだろうか。



 なんて。



 そんな思考に陥ってしまうところも、私の心がまだ落ち着いていない証拠なのだろう。

 こんな寒い日にほとんど裸で、腰にタオルだけを巻いた私の今の現状にはとても体が温まる。そこにリラックス効果を期待したのだが、この胸の高まりはやはりどうにもならない。



 服を着ればそれでいいのかもしれない。

 いや。それは、そんな選択肢は、ない。今私に起こる、私にとっての一大イベントには不必要なのだ。

 だからこそ、シャワーを浴びて体を拭いてそのままに、この部屋という名の戦場にいそいそと入り込んだのだから。



 だが、寒い。困った。

 いっそのこと、この胸の高鳴りで体も温まればいいのに。


 そう思いながらも、心は落ち着く気配を見せず。

 私は、急かされるように高鳴る鼓動と共に隣の部屋を見つめた。


「ふふ……ついに。ついにだ」


 これが念願。勢いで思い至った結果の不用意な行動であったとしても、もう行動に移っているのだから後戻りもできない。


 そう思い、私はふっと息を吸って、体の中にあった自身の罪悪感とともに息を吐き出すと、歩き慣れた借家の我が家の短い通路を歩いて隣の部屋へ。



 そこに流れるBGMは、よく聞く音――


 ――そう、私が会社に向かうときに毎日聞いている駆動音と風切り音。





 それは、電車の音だ。




■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■



 私はある日、会社に向かういつもの電車の中で、運命の出会いをした。


 その出会いは、とても衝撃的で。

 その出会いをどう表現すればいいのかは分からない。

 だが、その出会いをした時、まさに私の脳裏に虹が出たのは間違いないだろう。



「……ゃ、やめてください……」



 私は、痴漢を目撃したのだ。






 その声に、私も含めて男女が一斉に動き、相手を見事捕まえて次の駅で降ろして駅員に渡したのだが、目撃者ということもあって駅中で事情聴取。

 流石に会社も遅刻だ。



 とはいえ。……なぜか私だけがその場に取り残されているのだが。


 あの時ほど一糸乱れぬ連係プレイというものを感じたことはなかったのだが。

 私だけが長引く事情聴取に残されれば、その連係プレイも霞むというもので。


 いっときの仲間達は、すでに私を売ってこの場から去った。だから私だけがこの場に取り残されているという結果。


 いつか見かけたら、文句を言ってもバチはあたらないのではなかろうか。



 ……彼等の顔、まったく覚えていないが。




 だが、そんな一人取り残された状況にも、幸運はあった。


「ありがとうございます!」


 それは被害者の女性からのお礼の言葉だった。


 怖くて大きな声も出せず。ただ為すがままだった自分のほんの少し残った勇気。

 振り絞った声にすぐに駆けつけて助けてくれたことがとにかく嬉しかったと被害者の女性から言われた時には、自分の心の中に人のためになったことによる嬉しさが溢れたのは確かであって。



 だからというわけでもないが、

 いいことをしたという気分の良さからか、会社にこれから向かって色々嫌な思いをするのも嫌になってしまって、会社をお休みし、帰路へと着く。



 公園のブランコに座ってぶらぶらと。自分が乗車しているいつもの電車をみながら、会社の同僚から来るLINEのメッセージに辟易しながら、やりきった満足感に浸り続け――




 その時に、感じたのだ。この感情を。


 ふん。やりきった感情? そんなわけがない。


 あの時思ったのは、感謝の言葉と奮い立たせた自分の勇気への賛辞なんかではない。




 私は、捕まった彼のように。


 それを、のだ。



 そして私は。

 ブランコに揺られながら。

 その欲望を、解消できる方法を見つけたのだ。



 幸いにも私の家にいるはずの相方は、夜に実家に出掛けて一泊してくる予定なので、今日実行に移すに相応しい。


 だが、誘惑に駆られてしまって実際に行っては犯罪行為だ。

 だからこそ。




 【プレイ】に、走ったのだ。






――

――――

―――――――






 がたんごとんと流れるは、【プレイ】の準備をした彼女が持参したBGM。


 その個室にいる彼女は【プレイ】の一種であるアイテム、『吊り革ジャスティス・ロープ』にもたれるようにそこで一人ひっそりと佇んでいる。


 ここは私の家。

 そう。私は、私の家で、これから欲望の限りを尽くすのだ。

 普段ここにいるはずの相方は今日はいない。


 だからこそ余計に感じるこの背徳感。

 先に感じていたこの高揚感は、ただ私が欲望を吐き出すためだけの高鳴りではないことは分かっている。

 


 律儀にも雰囲気が出るようになのか、私に背を向け、黒い目隠し(オプションだ)をしている。

 相手が見えないながらも準備万端となった彼女に近づく。軽く身動ぎして行為のサインを伝えてくる彼女に、私の感情は余計に跳ね上がった。




 さあ、行こう。




 ついに私は、犯罪ではなく、合法的にその禁忌の行為に手を染めることができるのだ。

 なぜ今まで抑制していたのか。

 やるべきだったのではないのか。いや、やってしまえばそれは単なる犯罪であり、私が今日捕まえたあの犯罪者と同じ身となってしまう。




 だが、私は。


 あの男達と同じではない。



 決意を新たに。

 私は挑む。




 そして私は未知の扉を開け――






 がちゃり。






「忘れ物したーっ」




 相方の声が、玄関から聞こえ。




 がちゃりと。

 扉が開かれる――




■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■







「な~んていう話を、先日耳にしてな。思わず恐ろしい話だと思って話をしてみた」


 真冬の寒いある日のこと。

 私は、自分の愛する嫁と晩酌をしながら怖い話で盛り上がっている時に、ふと思い出した、どこかで聞いたこの話をぶち込んでみた。


 この話を思い出したのは、この聞いた話が寒い日の話だったからなのか。それとも私が今日と同じように寒い日に聞いた話だったからだろうかと自問する。




 ……そんなわけがない。



 ただ。目の前のコタツでぬくぬくしながら怖い話で盛り上がっていた嫁が、この話を聞いた時にどう反応するのか、ただその表情を見たかっただけだ。


 男としてはかなりのホラーではないかと思ったから、ついつい怖い話に合わせて言ってしまっただけと言うことでもある。



 決して。

 怖い話のストックが切れたからでは、ない!



「あー……なんと言えばいいのか」


 私の嫁はぽりぽりと、頬を掻きながら苦笑い。

 私も、この話を聞いた時は同じような表情を浮かべていたかもしれない。


 だが、それでも、男としては。


 時には冒険したいと思った時に起きた、悲劇、ではなかろうかとも、心の片隅に思ってしまう自分もいて。


 このお話の主人公の男が、【プレイ】を初めて体験しようとしたことであるからこそ、余計に男の性として同情してしまうのかもしれない。


 あくまでこの話は男目線であり、私もまた男だからこそそう思うのであって。女性目線の意見ではどう映るのかを聞いてみたかった、ただそれだけだったのかもしれない。


 いや。もう話してしまったのだから。

 全ては、言い訳だ。

 ……何に対してかは、知らんけど。


「噛み切り殺すかもしれないね。実際されたら」

「……なにを、噛み切るんだ?」

「アルトバイエルンを」


 かりっと。

 嫁が目の前にあったソーセージポークビッツにフォークを突き刺しワイルドに噛み切ると、ぐいっとビールをひと飲みした。




 その嫁の姿に。

 浮かび、鮮明に映るは。光景だ。




 ……うん。

 そっちのほうがホラーだった。

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