主への愛
土屋和成
第1話 主への愛 スルタン・ハトン物語
まだ完全に夜が明けていないにもかかわらず、草原を疾走する一団があった。数名の騎士に守られつつも、自ら騎乗している少女が、この小集団の長だった。
少女は父ムハンマド3世と共に、長きにわたって西遼の首都ベラサグン周辺で、事実上の幽閉生活を強いられていた。西遼の皇帝グルカンは、無能だが猜疑心が強く、父によく次のように言っていた。
「さあ、よい風が吹いておる。拓跋汗よ、狩りに出かけましょうぞ」
拓跋汗とは、「中国の支配者」という、たいそうな意味をもつ。これがカルルク部族の建てたカラハン朝の王統につらなる、少女の父の称号だった。だが、父に拒否権などない。もちろん、西遼の天幕群に、家族が人質として残されるのが常だった。
ヒジュラ暦608年(1211年)夏、いつもの狩りが行われる中、突然クチュルク附馬とその一党が、グルカンを囲み捕えてしまった。クチュルク附馬の義父グルカンに対する態度は丁重ではあったが、クーデターであることには変わりなかった。
国庫が空だと奏した宰相マフムートに対し、
「王侯から金を借りればよい」
と口走ったのが、グルカンの運のつきだった。クチュルク附馬は、王侯たちを口説いて、自らが後継者となることを了承させたのだった。
クチュルク附馬あらため新グルカンは、口調は丁寧であるものの、ムハンマドに次のように命じた。
「拓跋汗どの、自領のカシガルに戻って、新帝が即位したことをお伝えくだされ」
6年前に祖父ユスフが亡くなったが、父もその娘もカシガルには帰れなかった。このたび、めでたく幽閉が解かれることになったのである。
とはいえ、少女は一人、ベラサグンの天幕群に残された。すでに母は亡く、他に兄弟もいなかったため、人質に取られたのだった。好色なグルカンは、少女を一目見て、もうすぐ自分の後宮に加えてやろうと、ほくそ笑んだ。
同年晩夏、密使が少女の天幕に走りこんできた。父ムハンマド3世はカシガルで地元有力者によって暗殺されたと、密使は、息も絶え絶えに報告した。カシガルやホータンといったオアシス都市は、ぞくぞくと西遼に反抗しはじめ、父はその最初の犠牲者となったのである。
「新帝は、もともとキリスト教徒だが、皇后の影響で熱烈な仏教信者になったらしい。そのため、ムスリムを無理やり仏教に改宗させようとしている」
という噂が、ムハンマドがカシガルに着く前から流布していた。どうやら東から来たムスリムの隊商が言いふらしているようだった。オアシスにはムスリムだけでなく、仏教徒やキリスト教徒もいた。西遼の皇帝一族は仏教徒だったが、特定の宗教を優遇したり弾圧したりすることはなかった。
「王家が変わって、宗教に対する態度も変化したのだ」
と、まことしやかにささやかれた。
実際には、イスラームを棄てたくなければ税金を払えといって、宗教税が導入された。しかも、免税とされていた宗教団体にまで課されることとなり、反乱が起きたのだった。
父と自領という、後ろ盾を失った少女は、強引に後宮に引き込まれるであろう。そのような王家の境遇に、誇り高いカルルク部族は我慢できなかった。もちろん、少女も同じ思いだった。
もともと北方の草原にいたクチュルクを西遼に追いやったのは、モンゴルである。一団は、誰にも気づかれないよう、西遼の敵モンゴルに向け、夜明け前に逃走したのだった。
イリ河流域からモンゴル勢力圏への最短経路は、サイラム湖南岸からエビ湖に向かい、北のウルング湖へ行くというものであるが、常識的すぎて、すぐに追っ手に捕まるであろう。また、途中、ジュンガル盆地を越えるのも相当な覚悟がいる。それゆえ、危険ではあるが、沙漠を越えてタルバガタイ山脈を西に迂回して、イルティシュ河を目指した。
茫漠としたところで、しかも少人数で寝るのは恐ろしい。寒さだけではない。遠くないところから狼の遠吠えが聞こえる。しかし、神への信仰告白をすると、気持ちが安らぐのだった。夜にまとめて5回祈りをささげるのは心苦しかったが、神はすべてをご存じであると、自らに言い聞かせた。
翌ヒジュラ暦609年(1212年)夏、少女は、伐金戦のため漠南にいた、チンギス・カンの長男ジョチの下へ無事、到着した。
少女は、当然の如くハトン(王女)と呼ばれるようになった。ジョチは普段あまり感情を表に出す人ではなかったが、王女を見たときは、ふうと、深く息をついた。これまでも、異国の女と言えば、シベリアの金髪碧眼の美女を見たことはあったが、何か別の生き物のように思えただけだった。ところが今回は違った。ベールを被ったカルルクの姫君を見て、戦場にいることを忘れかけた。
太祖8年(1213年)、王女は男の子を出産した。トルコ語で強いを意味するベルケと名付けられた。翌年、再び男子が誕生し、ベルケチェル(小さいベルケ)という名が与えられた。また次の年、今度は女の子が生まれた。ジョチが、晩秋になって山西から漠南に戻るたび、王女は愛撫されつづけたのだった。結果的に、王女は3男3女を生んだ。
王女の回りには、中央アジアの商人たちが訪れるようになった。カシガルやホータン、タラスやホジェントなどから来た彼らは、今はもういないカラハン朝のスルタンの面影を、王女とその子らに求めていた。
太祖12年(1217年)、王女はひさしぶりにイルティシュ河畔に戻ってきた。そこで、カルルク部族の首長の一人スグナク・テギンと再会した。ジョチは王女の生んだ娘を、スグナクに与えた。スグナク附馬は、カルルク部族の仇敵となっていたグルカンとホラズムシャー朝の撃滅を、ジョチとスルタン・ハトンに誓った。王女はスルタン・ハトンと呼ばれるようになっていた。
モンゴル軍は中央アジアを順調に征服していった。太祖14年(1219)年冬、ジョチは王女を伴って、シル河中流域のジャンド市にいた。モスクに参詣した王女は、莫大な額の寄進を行った。王女はイマーム(宗教指導者)たちに言った。
「子どもたちの教育をお願いします。神はチンギス・カンを通じて、主に西方を治めるよう命じました。成長した暁には、主を支える人材になってほしいのです」
主(イディ)とは、ジョチの別名である。
王女にとって、信仰と主への愛は、矛盾するものではなかった。子どもたちは、アラビア語やトルコ語を習得し、もちろんイスラームについても学び、数学や化学にも興味を持つようになった。
スルタン・ハトンの噂は、中央アジア全体に広まった。ホジェント、サマルカンド、ブハラなど、各地から高名な学者が集まってきた。王女は彼らに惜しみなく援助をした。ジョチもまた、王女に多くの資金を与えた。
ジョチが王女に、金の糸が使われ、真珠があしらわれた豪華なベールを贈ったことがあった。王女は金曜礼拝の際、そのベールを持っていったが身に付けておらず、そのまま寺院に寄付してしまった。寺院は商人にベールを売り、何も事情を知らない商人は、ジョチにベールを献上したのである。ジョチは、苦笑するしかなかった。
町には宿坊、学校、孤児院などが増え、人々はジョチと王女を称えた。
旧ホラズムシャー朝の将兵たちも王女の下に集まり、カルルク部族を中核とした軍勢は3万騎に達した。全員がムスリムだった。当時、チンギス・カンの中軍でも1万騎であり、スルタン・ハトンに匹敵する数の騎兵を単独で動員できるのは、ハンガリー国王ぐらいだったであろう。
王女は、周りに多くの人がいることを好んだ。
「だって、たくさんいれば、狼だって襲ってこないでしょう」
ベルケは、母は冗談が好きな人だと思っていた。
後に、スルタン・ハトンのムスリム軍団を受け継いだベルケは、ジョチ家を、そしてモンゴルを救うことになる。
主への愛 土屋和成 @tsuchiyakazunari
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