第1話 誰もいなくなりはしなかった
駅のホームは、次の瞬間、三途の川と化していた。
渡りに舟、とはそんなにいい言葉じゃないんだ——僕は、そう痛感した。なにせ、渡るも何も、すでに渡りきっていたのだから。舟なんかなくても、向こう岸か、港までこうも簡単に辿り着けてしまうのだ。問題は、水が流れているのではなくただの砂利道で、地獄からの使者に手を引かれているという一点だろうか。
大勢の通勤者たちは、どこかへと消え去っていた。
スローモーションは、やがて、高速コマ送りのように曇天と砂利道を視界にスクロールさせる。
僕はここはどこだ、などと野暮ったい話をするつもりはなかった。
ほんの少し先を行く漆黒の佇まいの女性——獄卒に釘付けになっていた。
地獄からの死者は、どうやらとんでもない魅惑の術を使用可能らしい。
迎えに来ましたよ、と言われ手を引かれた少しの時間しか彼女の表情を拝むことができなかったのに——その刹那に、途轍もない感情が僕を襲っていたのだ。
単刀直入に、恐ろしく美しかった。
ホームで手招きされた、数分前よりも遙かに美しいと思ってしまった。
至近距離で彼女の表情を見たという要因もあるにせよ、一目惚れに近いこの感覚は一体何年ぶりだろうか。
通勤途中に色恋沙汰をどうこう話しても、無意味であるのはわかっている。
通勤先が、地上から地獄に変更されている点も忘れてはいない。
けれども、現世と幽世の区別などどうでもいいくらいに、ましてや普段愚痴しか出ない仕事なんて——取るに足らない些末なタスクとして、脳内で整理されていた。
今僕にできることは、この人に付いていくことだ——手を引かれるがままに、このまま砂利道の流れに沿っていけばいいのだ。
余計なことを考えなくていいのは、幸せだった。
生きていると余計なことまで考えてしまう、ならば、いっそのこと天国でも地獄でも現実の概念が通用しない場所へ移住すれば、ストレスはたまらない。
そうだ、だから人は死のうとするのだ。
いや、僕も死ねばいいのだ——。
まずい。
非常にまずい。
勝手にこんな思考になるのも、彼女の術中に嵌まってしまっているからなのだろうか。
駄目だ、このままでは。
本当は手を引かれたままでは駄目なのだ。
駄目だとわかっていても、身を委ねてしまう。
「それでも、いいんですよ宗二さん」
「なんで心の中を読めるんですか」
僕はこのとき初めて獄卒と会話をした。
獄卒は鬼だと聞いているけれど、とても柔らかい声色だった。声だけ聞けば、フェアリーか何かと勘違いしてしまうほどに。
おまけに、手が温かい。
時間が止まってこれが確かなる夢であっても、僕が目覚めたときにはきっと温もりが残っているだろう。
三途の川を二十代で渡ることになるとは——。
世界も変わったものだ。
そんな風に、手を引かれながら僕はどこに連れて行かれるのかを若干の期待とともに楽しみにしているのだった。
さらに、十分くらいが経過しただろうか。
駅の改札口は、どこへやら。
代わりに地獄へのゲートが、目の前に立ちはだかる。
超高層ビルのように進路を塞いでいるのではない。
あまりにも、普通の門なのだ。
木製ではなく、鉄製であること以外に特筆すべき点はないように思えた。
表札があれば、一般的な住宅の門扉と相違ない。
改札機のように、ICカードをかざすためのものか、リーダーが向かって右に備えられている。少し錆びている門は、妙なアンティーク調の雰囲気を醸し出しているが、成人男性がニーキックをすれば破壊は出来そうだった。
「壊しては、駄目ですよ。宗二さん」
またしても心内を獄卒に読み取られてしまう。
一体全体、どんなギミックで僕は嵌められているのだろうか——。
しかし、蓋を開けてみれば、なんの変哲もない一軒家のリビングでお茶を飲むような、一般的な風景を拝むことができてしまったのだ。
炬燵のなかに足を入れ……。
僕はここで、気温の高い低い、暑い寒いの感覚がないことに気づく。
五感が麻痺している?
ならば、味覚もないのか——と、炬燵の上に置いてある蜜柑に手を伸ばす。
「勝手に食べていいと思っているの?」
存在をスルーしていたわけではない。
意識的に視界に入らないよう、目を逸らしていたのだ。
その禍々しい雰囲気に、気圧されるどころかコンタクトを取ってはいけないと本能で僕は行動していたのだろう。
獄卒は、炬燵には入らず僕を促しただけだ。
炬燵へ実際に入ったのは、僕自身の判断だった。
だから、目の前の相手は、目の前の禍々しい存在は——獄卒ではない。
しかし、本能で行動しているのなら、半ば野生であろう僕という存在の経験から、彼女は獄卒よりも位の高い人物であるとわかった。
客人か罪人か、とにかく二十代男性である僕が招かれた人間で、その背後で立つ獄卒は、コンシェルジュみたいな役割であろうと予想がついた。
であれば、僕の前に炬燵のなかに足を入れて頬杖をついている禍々しい彼女は、重役みたいなポジションではないかと誰でも思いつく推察である。
「それはねぇ、禁断の果実なの」
下卑た笑みを浮かべても、獄卒に劣らない怖い美しさをもった……。
ではなく、随分と可愛らしい風貌である彼女は獄卒と姉妹のようにも見えた。偉そうなほうが妹で、コンシェルジュ然としている獄卒が姉だろうか。
炬燵に入っている僕が見下ろす形になっているということは、彼女の座高はかなり低いのだろう。
随分とミニマムな重役だ、と勝手な判断を下した。
「何か、言いたそうねぇ?」
下卑た笑みも、ままごとの延長のように感じられる。
今は、姪っ子と遊んでいるような、ほのぼのとしたシーンなのかもしれない。
「いえ、別に」
僕は特に訊きたいこともなかったので、真顔で対応した。
「何か、言いたそうねぇ?」
まさか、同じ問いかけが二度くるとは。
何かを訊かないと先に進めないのかもしれない。
死んでいる可能性が高い僕は、質問を探す。
会議などでは、常に新鮮な意見を欲しているから、常に意欲を燃やしておかなければならない。
「あの、そう言えば……」
「質問を認めよう! さぁ。言ってごらんなさい」
獄卒姉は、かなり食い気味で僕の質問を待っているらしい。ものすごく前のめりで、目を輝かせている。
そう言えばといったものの、実のところ質問が思い浮かんでいなかった。
地獄と勝手に決めつけている僕の先入観をぶち壊して欲しいのだけれど、相応の質問は見当たらない。
だから僕は、変化球のつもりでボールを投げた。
「その、頭の上にあるドリルは何ですか?」
「ドリルじゃない! ツノよ、ツノ!」
あなたの名前は、とかあなたは何者ですか? と、聞かなかったことに理由などない。
獄卒姉には、ドリルが生えていたのだから。
僕が地獄らしきところに召喚された理由よりも、およそ、日常生活を送っていた世界に存在し得ない生命体に、少々驚いているのだ。いや、うそだ。
本当に驚いているのだ。
ゲームの世界に入ってしまったのか。
没入感を売りにしたゲームが近年流行っていることだし、知らぬ間にモニタにされてしまったのだ。
そう思い込もうとする僕に、現実を教えてくれたのは獄卒だった。
この場合、獄卒妹になるのだろうか。見てくれは、彼女のほうが姉だが。本来先に聞くべき名前も知らないうちは、獄卒妹と呼ばせてもらおう。
「私の名前は——宗二さんが決めてください」
と、獄卒妹は僕の考えていることを容易に見抜いてしまう。
見透かされている感覚ともどこかちょっと違う感じだったのだけれど、不思議と嫌な気がしないのだ。
獄卒姉にはない包容力というのか、どこまで読まれているのかわからない怖さも相まって、僕の神経はある意味研ぎ澄まされていた。
それに、僕が名付け親になるらしい。今後の展開も鑑みて、慎重にならなければいけない。
「いや、名前がないわけではないわよ」
「いや、あんたも心が読めるんかい」
もしやと思わないわけではなかったが、やはりというべきか、獄卒姉も特殊能力を持っていることが判明した。
彼女らのなかでは当たり前なのかもしれないにしろ、迂闊に妄想を浮かべられないではないか。
僕含め、人間の思案中など、ご多分に漏れず素っ頓狂な意見を戦わせているに違いないのだ。
「心が読めるのは、心が澄んでいるからよ」
「邪心がありそうなんですが……」
「邪神、華やかな称号ね。気に入りそうだわ」
「心身がやられそう……」
僕はそんな問答を繰り返しながらも、獄卒妹の名前を熟考していた。
獄卒姉は、邪神より、閻魔というワードが似合っているので、獄卒妹の噛ませ犬的な役割を果たしてもらうべく、名前は決まっていた。
「失礼な奴ね。一応、あたしの名前もあるのに」
「教えてくれるんですか?」
「タダでは、嫌」
「じゃあ、閻魔さんでいいですか」
「いいわよ」
「んな、簡単に」
予想通り、獄卒姉の名前は早々に決めることができた。なぜ、本当の名前を教えてくれないかは、この際、どうでもいい。後々明らかになっていくだろう。
美しく鬼鬼しい獄卒妹に、名前を決めてくださいと言われている。
あまり待たせてしまっては、次に進めない。
「今すぐに決めなくてもいいんですよ」
「そうですか……では後日」
僕にとって後日があるかわからないが、とりあえず獄卒妹の名前の件は保留することにした。獄卒さん、と呼ばせていただこう。
彼女は名前という大事なものを決めかねている僕に、気を遣ってくれたのだろう。
鬼なのに——酷く優しい。
想像上の生物で、地獄の門番的な立ち位置の獄卒が、優しいとは考えづらい。
そういう当たり前の思考に行き着くのが人間の性という奴だけれど、どういうわけか彼女に対しては、真逆の印象しか抱かなかった。
女神や聖女が、相応しいかと思う。
「照れちゃいますね……宗二さんやめてください」
「いや、その。なんというか、ごめんなさい」
心が見透かされている、手の内がバレてしまう。
わかってはいても、獄卒さんに対する僕の気持ちを考えずにはいられない。
完璧に頭のなかを無にすることなど不可能だ。美しく、鬼である彼女に対して何の感想も抱かないのは、もっと不可能な案件だった。
「さ。イチャついているとこ悪いが、始めるぞ」
閻魔さんが、頬を膨らませながら手を叩いた。
「何をですか?」
「戦争、あるいは——裁判に決まっておろう」
どうやら、照れまじりの穏やかな話ではないらしい。
僕は、嘆息する。
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