鬼がみていた

或木あんた

第1話 オニガミテイル

 誰かに、見られている。


 そう感じて振り返ると、そこには誰もいない。


 この頃、そういうことが増えていた。

 学校の教室で。駅のトイレで。ついには布団に入っていてすらも。

 親に相談すると、「気のせい」だと笑われた。

 でも、わたしは、確かに知っている。


 誰かが、わたしを見ている。




「ヒィ!」



 目が合った。



 思わず悲鳴を上げた。

 いつもの通学路。

 習い事を終えた午後九時、すっかり日が落ちて肌寒い暗闇の中を、最寄り駅から自宅へ歩いている時だった。


 振り返ると、目が合った。

 

 白目は血走って爛々らんらんと輝き、その中央には漆黒の大きな瞳。

 肌は灰色で血色が全くなく、酷く痩せこけてしわに覆われていた。薄い白髪や着 物のぼろをまとい、何世紀も前の老人のようだが、


 その頭には、生々しく短い角が二本生えていた。


 鳥肌が立つ。


 この世のものではない。

 そんな存在が、食い入るようにわたしを見つめている。


 ……逃げなきゃ。


 わたしは一目散に駆け出した。

 一秒でも早く、一センチでも遠くへ離れたい。

 息を切らしながら薄暗い住宅街の路地を曲がり、自宅を目指す。


 しばらく走ってから横目で後ろを確認し、


 凍り付く。


 すぐ間近で、目が合った。



「やああっ!」


 恐怖のあまり、腰をぬかす。

 手足で身体を引きずるようにして、何とか後退するが、


 目玉が、わたしを見ている。


 一挙手一投足、呼吸のひとつすら逃さずに。


 

 逃げたい。

 でも逃れられない。

 ガタガタと手が震え、身体は言うことを聞かない。

 もう駄目だと思った。

 その時、


 手が誰かの足に当たった。



「やあ。……どうしたんだい、そんなに慌てて」


 年齢は、わたしと同じ、小学校高学年くらいだろうか。

 フリースに綿パンツという出で立ちで、その衣服には強烈な線香のような匂いが染みついている。

 街灯の明かりに照らされた彼は、手を差し出し、


「そんなことをしていると、汚れてしまうよ」


 わたしが手を掴むと、思いがけないほど強い力で身体ごと引き上げられる。わたしはそのまま彼の身体に隠れるようにして、

 

「た、たすけ、……あれがっ」


 上手く言葉にできず、異形な存在を指さす。

 しかし、少年の反応は思いがけないものだった。


「ああ、君も、おぬが見えるのか」


「え」と、わたしは少年の顔を見上げる。


おぬ?」

「そう。昔の人々は災厄の原因をおぬと呼び、目に見えぬ怪異の仕業であるとして畏怖したという。そしておぬはその後、おにの語源となったとも言われている」

「鬼……じゃあ、あれが鬼?」


 少年は肯定も否定もせず、わたしのことを一切見ないまま、


おぬは人を煽ることはあっても、傷つけたりすることはない。……ほら」


 ふいに道端に落ちていた空のペットボトルを拾い、振りかぶって投げる。放物線を描いたペットボトルは、確かに軌道上にいたその存在に跳ね返ることなく、地面に転がる。


「そう、なんだ」

 

 思わず脱力する。

 安堵の息が口から洩れるが、いまだ身体は緊張し心臓はドキドキしている。


「……でも、どうしてそんなこと、知ってるの?」


 恐る恐る尋ねると、少年は怪しげに微笑む。


「俺は、鬼討ちなんだ。自らの領分を超えた鬼を粛清する。それが役目さ。鬼の気配がしたので来てみたけれど、まだ何も起こっていなくて本当に良かった」


 どきりとする。

 何も起こっていないとは一体どういう意味なんだろう。

 しかし、少年はわたしの様子を気にせずに続ける。


「それで、どうする?」


 視線の先には、未だに鬼がいた。

 未だわたしをその大きな双眸で追い続けている。


「……見えなく、できる?」


 少年がわたしを振り返り、その切れ長な瞳がわたしを捉える。


「できないこともないよ、……ただ、一つ確認だけど」


 その時、わたしは彼の視線に、まるで胸の裏側が萎縮するような思いがして、目を逸らす。

 しかし、少年はそれを許さず、


「君、罪を犯したことがあるだろ?」


 心臓が、どくんと音を立てた。




 あの出来事を、わたしは誰にも言ったことがない。

 

 わたしがまだ低学年だった時。

 わたしには、ユウちゃん、という親友がいた。活発で良く笑う可愛い女の子。劇やダンスが得意で、みんなユウちゃんのことが大好きだった。


 あの日、わたしはユウちゃんに誘われて、近所の大きな公園に遊びに行った。

 そこには、同じクラスの男子たちもいて、わたしが好きな男の子もいた。わたしは思わず隠れてしまったけれど、ユウちゃんはその子を誘って遊んでいた。それが、少しだけ面白くなかった。でも、ユウちゃんはそのことに気が付かずに、ずっとその子と親しそうに笑っていた。


 日が傾き、男子たちと別れ、わたしはユウちゃんと二人、帰路につく。

 ボートが漕げるくらい大きな池の周りを歩いていると、ユウちゃんが突然、魚が見たいと言い始めた。

 わたしは疲れていて、一刻も早く帰りたかった。

 ユウちゃんは、わたしを気に止めず、人気のない船着き場に走っていき、魚を探す。仕方なくユウちゃんに続いたわたしは、後ろでしばらく沼面を眺める。

 わたしの心に、いくつかの感情が湧き上がってきた。


 それは疲れからくる些細な憤りであり、いつもは考えない小さな不満であり、ずっと募らせてきた妬みだった。


 ユウちゃんのせいだ。


 その思考が、わたしの心を黒く満たす。


 ユウちゃんがいなければ。


 が水面に落下して、水が揺れる。


 わたしが我に返った時、ユウちゃんの姿は消えていた。

 どれだけ呼んでも、どこを探しても見つからなかった。


 それ以来、ユウちゃんは行方不明になってしまった。

 ユウちゃんがいなくなって、みんなが悲しんだ。

 わたしが、目を離さなければよかった。


 あの日から、わたしは自分のことを責め続けている。




「さぁ、着いたよ」


 時間は午前二時を過ぎていた。

 わたしは一度帰宅してからこっそり家を抜け出し、少年と共に町はずれまでやってきた。

 そこは、人の住んでいない荒れ果てた日本家屋だった。

 板張りの玄関を、土足のまま上がり込む。所々で木材の鳴く音が聞こえ、少年の持つ明かりが生み出す影が揺れる。そのまましばらく廊下を進み、


「ここだ。ほら、そこ」


 少年が指さす先には台所があり、床面にはひっそりと一辺一メートルほどの四角形が見える。錆びた金属の縁で覆われたムロの扉のようだ。


 少年は上着のポケットから、書写の筆くらいの筒を二本取り出す。

 もう片方の手でマッチを擦り、一本の筒に着火した。得体の知れない煙が立ち上ぼる。


「その扉、少しだけ開けて」


 言われた通りにすると、少年は扉の中へ火のついた筒を投げ入れ、すぐに閉める。

 しばらく待つように言われ、


「それ、何なの?」

「……特別なこうだよ。ま、弱いヤツだけど」


 そう言って少年は金属の掛け金に手をかけ、


「一瞬だから、我慢ね」私が承諾するより先に、扉を開け放った。


 その瞬間、おびただしい数の昆虫、節足動物の類が帯となって飛び出してきた。折り重なり、入れ替わり立ち替わり争うようにして足元を這い出していく。

 無数の脚がひしめく気色の悪い音が過ぎ去ってから、床にぽっかりと空いた正方形の穴へと少年が降りていく。おぞましい思いがしたが、わたしは観念して彼に続いた。

 腐食しかけた梯子を伝っていくと、大人一人が立てるくらいの高さの空間が、横長に広がっていた。


「いい感じだ」


 少年はそうだけ言って、もう一本の筒に火をつける。

 今度は勢いよく煙が上がり、ムロの中は鼻をつんざくような異臭でいっぱいになる。その香りは、少年の服に染みついた匂いとどうやら同じものらしい。

 煙で視界も霞むほど辺りに充満させた時、


「じゃあ、始めようか」


 少年がわたしを見据え、手招きする。

 近くに寄ると少年が手にした短刀を手渡し、


「これで血を流すんだ。量は少なくていい。指先でもいいから、自分の手で」


 手が震える。指先に当たった短刀がひどく冷たくて、氷のようだった。恐怖のあまり躊躇するが、


「……っ」


 覚悟を決めて、荒い深呼吸のあとに力を込める。

 冷たかった切っ先が、急に沸騰したやかんくらい熱を帯びて、血が滴った。


「……次は、どうするの」


 尋ねると、少年は底知れぬ笑みを浮かべ、


「見てごらん」


 指さす先、穴の上から鬼が見ていた。


おぬは、罪に寄りつく。だから呼び寄せるには、罪を犯すのが一番はやい」

 

 少年は静かに短刀をしまう。その間にも鬼は梯子を一段一段下りてきて、


おぬが何か持っているのが、見えるかい」

「え、……あ」


 それは、教師が使う昔ながらの出席簿のような、黒い台帳だった。


「あれが、懲罪帳ちょうざいちょうだ」

懲罪帳ちょうざいちょう?」

「彼らは罪人なんだ。前世の罪を償うためにいんの道に落ち、罪を探し、罪を集めることでのみ転生を許された存在」

「……」

「もうすぐ彼は懲罪帳ちょうざいちょうを広げ、君の罪を記録する。いいかい、君がおぬを消したいなら、おぬがまさに罪を記録しようとするその時に」


 間近の少年の瞳が鋭く輝き、低く言う。


「……記録を、破くんだ」


 瞬間、少年の姿が消え、荒々しい衣擦れの音がする。

 振り返ると、人一人分ほど離れた距離で、少年が鬼の頭を鷲掴みにしていた。


「きぃあああ、きやああっ」


 まるで小動物の鳴き声のようだった。

 それでいて耳を塞ぎたくなるほど耳につく音。

 少年は全く気に留める様子もなく、鬼の頭ごと身体を地面に押さえつける。


「はやく、記録を奪えっ」


 少年が一喝する。

 手足をばたつかせ激しく抵抗する鬼。

 わたしは身体が震え、その場に氷漬けになる。


「急ぐんだ。香の効果が切れたら、機会がないぞ」


 その言葉にわたしは奮起し、


「うあああっ」


 鬼の手に持つ記録を両手でつかむ。抵抗が倍激しくなった。

 恐ろしいほどの握力で記録を離さず、長い爪がわたしの手に食い込む。わたしは痛みと恐怖に思わず、

「よこせええええええっ」


 全身の力を込めると、ついに鬼の手が開き、大きめのメモ帳ほどの古びた表紙がわたしの手に収まる。


「きぃあああ、きぃああああ」


 鬼が、半狂乱になって喚く。

 しかし少年がその胴体をしっかりと抑えつけ、伸ばす手は届かない。


 表紙を開いて見ると、解読不可能な筆跡で文字がびっしりと並んでいた。

 その時。


「あ……」


 記録が光り輝き、

 ふいに、はっきりと甦る光景。

 夕暮れの公園。

 懐かしい親友の丸まった背中。

 あの日、ユウちゃんがいなくなった時。


 これは、記憶だ。

 なのにはっきりと今現実のように目の前にある。

 そう思った時、


 


 ユウちゃんは大きなしぶきを上げて池に落ちる。さっきの鬼のように手足をバタつかせて、浮いたり沈んだりを繰り返している。

 わたしは、彼女を見下ろし、


 そのまま、ただずっと、見ていた。


「……そんなはずない」

「でも今、記録を見た」

「だって、そんなの……本当に覚えて……」

おぬは罰ゆえに、記録を違うことは許されない。だから、」


 まるで、冷たい水の中にいるような声だった。


「君が、彼女を殺したんだ」


 蘇る。ユウちゃんが動かなくなってから、わたしは死体を船着き場の下に隠して、何も知らなかったことにした。周りに嘘をつき続けると、いつからか自分すらもその嘘を信じるようになった。


「……わたしが、ユウちゃんを殺したっ」


 体中の震えが止まらない。

 鮮明な罪の記憶が、数年分の良心の呵責を生み出し、涙が流れ出る。


「しかしそれを破れば、君の罪は消える」

「え」

 少年の言葉に思わず顔を上げる。

 

懲罪帳ちょうざいちょうは、閻魔えんまがその罪に応じて罰するための記録。破ってしまえば、問われることはない」


 わたしは手に持った帳を見つめる。

 こんな苦しみにこれ以上耐えられない。いっそ破ってしまえばいい、少なくとも今ならそれができるのだから。


「きえぁあああ。あああああ」


 そこでわたしは、鬼が先ほどからずっと、駄々をこねる赤子のように声を出し泣いていたのに気づく。


「破ると、どうなるの?」

おぬは、前世の罪人への罰。破れば、またやり直しだ」

「やり直し……」


 まじまじと鬼の姿を見つめる。

 びっしりと書かれたこの帳。ここまで集めるのにどれほどの時間がかかったのか。もし破られたらあとどれくらいの時間がかかるのか。想像するだけでも気が遠くなる。

 

「選ぶんだ、自分で罪を負うか、負わせるか」


 少年の憎いほど平坦な声が響く。

 完全無欠に公正で、哀れみなどどこにもなかった。


「わた、しは……」


 荒い呼吸。

 心臓が限界まで脈打ち、全身に冷や汗をかく。

 そんな私を、六つの瞳が見つめている。


 良心の呵責を、恐怖が勝った。


「……そんなの、知らない」


 指先に力を込め、懲罪帳ちょうざいちょうを破り捨てた。

 その瞬間、鬼と目が合う。

 鬼の顔は何の表情もなく、ただ、わたしを見ていた。

 身体が薄くなり、次第に見えなくなる。

 

 それでも、最後まで鬼の目はわたしを見ていた。




 深夜の通学路を、少年の後に続いて歩く。

 不思議と身体が軽く、夜の闇にも恐怖を感じなかった。

 しばらく歩いてから、わたしが長年避けてきた公園に差し掛かる。

 一瞬躊躇するも、少年の後に続いて足を踏み入れた。

 いざ足を踏み入れてみると特に何も感じず、ただ二人分の足音だけが耳に響く。そのことにわたしは安堵の息を漏らした。

 視線を上げると池が見えた。

 夜の闇に沼面が月を反射して、幻想的な風景だった。


「今、どんな気持ちだい?」


 少年の声がする。

 わたしは沼面の月を眺めながら足を進め、船着き場に降り立つ。


「ずっと、この場所を避けてた。怖かったの。でも今は、何も怖くなくなった」

「……怖くない?」

「うん。いつも、誰かに見られてる気がしてたけど……あなたのおかげでそれもなくなった」

「……」


 ふと、思い当たる。


「そういえば、懲罪帳ちょうざいちょうを破ったら、罪が無くなるって言ってたよね?」

「ああ」

「じゃあ、今、ユウちゃんのことを知ってるのは、……わたしと」


 少年の背中が見える。

 思い留まるより前に、身体が動いていた。


「あなた、だけなんだ」


 どん、と。

 わたしの手が、少年の背中を押した。



 少年は声もなく、水面へと落ちていく。



 自分の行動に驚きつつも、不思議と後悔はなかった。

 ユウちゃんのことを、一瞬だけ思い出し、



 なぜか、笑みがこぼれた。




 その時。



「やはり、か」



 耳元で、池に落としたはずの少年の声がする。

 しかしその声色はさっきまでとは違い、地の底から聞こえてくるかのようだった。


おぬが見えるのは、罪を隠し続ける者だけだ。償わなければ、その者はおぬとなる。……なら、自らの罪を目の当たりにしてもなお、おぬに罪を擦り付け、重ねんとする者を、何と呼べばいい」


 背筋が震える。ひりひりと、今までとは比べ物にならないほどの恐怖を感じる。全身の毛が逆立ち、ガタガタと足が震え、振り返ることもできない。



「鬼、だ」


 

 月が光量を増し、鏡面のように輝く。沼面に映るわたしの顔は、



「君はもう、人ではない」



 そこには、鬼がいた。

 爛々と目を輝かせ、醜いしわで顔を歪めて、汚らしい笑みを浮かべた鬼の顔だった。

 背中に衝撃が走り、わたしはその鬼の顔へ落ちていく。


「自らの領分を超えた鬼よ、奈落の底へ堕ちるがいい」


 わたしは大きなしぶきを上げて池に落ちる。手足をバタつかせても何の抵抗にもならず、月も見えぬ深い闇の中へと堕ちていった。

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