電車に揺られて錯覚を

槻 治/Osamu Keyaki

第1話

「街の方にいくの?」声をかけられた。顎あたりで綺麗に切りそろえられた髪が揺れる。外は寒くなってきた。「いや…逆方向」男は照れ隠しか、はたまた急に声をかけられてびっくりしたのか無愛想に返事をした。女は「そうなんだ…」とだけ言ってひょこひょこと先を急いだ。今くらいの時間なら走らなくても充分だと伝えるべきか悩んでるうちに声が届かないくらいに彼女との距離が空いてしまっていた。女は学校のなかでも可愛らしい方だと男は思っていたので、声をかけられた後は少々気が浮ついた。「駅までは一本道だから一緒に行く?とか格好のいいことを言えてたら人生がちがったろうに…」と男は帰路の途中に幾度か悔やんだが、そんなことをさらっと言えるほどキザではないし、そんな間柄でもなかった。今回はただ単に男が女の目に偶然映り込んだが故に声をかけられただけなのだ。女からしたら、道であった人に挨拶をしたと同じことなのである。そうとも知らず男は歩きながら女をチラチラ見ている。「偶々目があったらどうしよう…そ、そらす?それとも、笑いかける?」なんて変な心配までする始末である。そうこうしているうちにコンビニ前の交差点に捕まった。男はあたかも偶然を装うかのようにその女の横に立って信号をまった。

信号が青に変わり、みんな一斉に動く。まるで坂を転がるビー玉のように同じ速度で動く。女はさっきより足早になる。いつしか歩行者の最前列はその女と男になっていた。男は敢えて女を見ないように傍にある民家や薬局を眺めながら歩いた。女は一心不乱に先を急ぐ。距離が空く。すると男は足の回転を早める。また距離が空いては回転をはやめる。とうとう男は女の後ろをついて歩く形になっていて、元いた歩行者の群からは一際目立つように飛び抜けていた。

そのままで二人は駅舎についた。スマホの時計は十五時四十二分を表示していた。時間を確認している数秒のうちに女は目の前から逃げていた。駅員室の上の方に設置された時刻表に次の電車は四十六分とあった。男はその電車に乗らなくては行けなかったので、何もなかったかのように改札を通った。

街の方に行くには五番線で男は六番線に降りなくては行けなかった。その二つのホームは上りと下りの線路が背中合わせになっていた。つまりホームが同じであった。さっきまで落ちかけていた気を少しずつ立て直しながら階段を降りた。この時間はやはり学生が多く広がって歩くので男は邪魔になっている彼らにイライラしていた、だからいつもは早めに駅に着くように早歩きで帰り道をいくのだが、今日ばかりはサッカー部と野球部がオフだったせいか商業科の生徒でホームが溢れかえっていた。「…もう少しはじに寄れよ…」そう思いながらも男には彼らを注意する度胸はなかった。それどころか肩をぶつけられるといくら相手が悪くても「あ、すいません」と反射的に口にしてしまう程であった。そんな自分にも男は嫌気がさしていたに違いないが、またそんな自分を許してくれる人に囲まれたいという願望を物心ついた頃から持ち合わせていた。

ホームの真ん中の自販機でコーヒーを買ってから奥まで歩いた。後ろの方は階段が近くベンチも多いことから学生が溜まりやすい。男は彼らを見るだけで自己嫌悪に苛まれるためそれを避けるには奥まで歩き、一両車に乗り込むしかなかったのだ。そこにはあの女がいた。反対側の線路だったので、後ろ姿だったが男にはすぐわかった。男が声をかけてるべきか悩んでいると女と偶然目があった。すると女はあからさまに嫌そうな顔をして見せた。まるでゴキブリを見るかのような目とはこのことであった。男はついに自分が無意識のうちに嫌がらせをしてしまっていたことに気づいてそばにあったベンチに座り、やるせなさからコーヒー缶のプルタブをパチパチといじっていた。すると何か汗臭い匂いが一瞬した。そりゃ運動部が多かったから汗の匂いがするだろうと思うかもしれない、しかしその日は部活がオフなのだ。不快に思って見上げると小太りのハゲたおじさんがお腹を揺らしながら前を横切るのが見えた。四十歳くらいだろうか、いくら仕事が大変だとしても汗や匂いくらいはしっかりしてほしいと思いながら睨んでいるとおじさんはあの女のよこにまっすぐ歩いていってベンチに座った。気になって仕方がなかったが男側の電車が駅舎についてしまったので、男は惜しみながらも車両に乗り込むことにした。「あの嫌そうな眼差しは本当に自分に向けられたものだったのだろうか。」。

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