終章 永咲館の春

永咲館の春


 紅を差した指を拭って、ふと、顔をあげる。

「客だな」

 やはり気づいて、広が言った。微笑して頷き、明紫は立ち上がる。居間へ戻り、硝子戸をあけて露台へ出た。もうだいぶ傾いてきた夕暮れの空に、すこし離れたところを漂っていた小さな光が明紫に気づいてゆらゆらとこちらへ漂ってきた。手を伸べるとふわりとそこへ降りてくる。

「よう来たね」

 何のものだったとも知れぬ魂に、微笑みかける。するとそれは嬉しそうにまたたいて浮かび上がり、ふわふわと明紫の周りをめぐりはじめた。

 小さな笑いがもれた。

「元気やなあ」

「前に」

 やはり露台へ出てきた広がついと手を伸ばして光の行く手を遮った。首を傾げて、明紫は伴侶を振り仰ぐ。

「うん?」

「花に妬くなと、言ったことがある」

「……ああ、あったね」

 思い出して、くすっと笑った。翁桜の花びらが広の肩に乗っていて、それをつまみとって自分の手を置いた。

「あの時のおまえの気持ちが、わかった気がする」

 かるくそれを握り込んだ手を、広は少し離れたところで開く。それは戸惑っているかのようにそこを動かずにちかちかと淡く明滅した。

 くす、と明紫は微笑んだ。

「それやったら、これがあん時の広の気持ちなんやね」

 手を伸ばして、それを指先でごくかるくつつく。

「お仲間も増えてきた。あとで爺さんとこ連れてったるから、待っといで」

 それはわずかの間そこにとどまっていたが、やがてすうと翁桜のほうへ漂っていった。

 どうやら、永咲館の立つ土地は、かつての胡蝶の姫の神域だったらしい。門の方角を感じ取って大淵へ漂ってきた死した者の魂は、大淵に入ると翁桜に集まってくる。

 翁桜の枝枝にいくつもの魂が休んでいる光景は、見えるようになった今の瞳で見ると、金色の花が満開についているように見える。それが、翁桜が常に花をつける本当の理由のようだった。

 毎日とはいかないが、広の護る龍ヶ淵、かつての屋敷へそれらを導いていくのが、明紫の今の役割だ。

「大嗣」

 居間の扉をかるく叩く音がして、外から五郎が呼んだ。

「そろそろお出ましを願うお時間ですが、よろしいでしょうか」

「ああ、うん。下りるわ」

 声を返すとお待ちしております、と言って五郎は引き返していった。

「最後のおつとめや。――行こうか」

 見上げると、広は頷いて先へ立って明紫のために扉を開けた。


「大嗣」

 主階段の手前で、自分の部屋から出てきた北野と行き合った。黒のシャツに白に金をあしらった上下という、夜に見せる妖艶な姿とはすこし印象の違う、涼やかな姿だ。化粧はしているが紅は濃くない自然な色を選んでいる。

 五郎の姿はなかった。もう、いつでも主階段を使える身分になったというのに、律儀な男は相変わらず裏階段を使って上り下りをしている。

「大丈夫なんか」

「もう。大嗣まで五郎みたいなことを言う」

 唇を尖らせてしかめつらをしたあとで、北野はいたずらっぽく笑う。

「もうどこも悪くないよ。今夜から客だってとるんだから」

 明るい笑顔に、明紫はあらためて北野を見る。

「何度も言うたけども。ほんまに、おつとめ続けるんか」

「何度も言ったけど、続けるよ」

 笑みを返してきた北野の表情には迷いはなかった。

 大父の突然の「薨去」が公にされたあと、今後の身の振り方を話し合った時に北野はこのまま娼妓でいると言った。新しい客は迎えないし客をとらない日も増やすが、世話にもなったことだし今いる馴染み客たちが登楼する限りは見世に出る、と。聞かされていなかった、というか聞けずにいたらしい五郎は顎が外れそうな顔をしていた。

「あの時も言ったけれど。本当は僕はそもそも身を売る必要はなかったんだよね。最初のうちこそあんな化け物の妾にされてしまって自棄になっていたところもあるし、永咲館にいる理由を作るためにはじめたことだったし、こんな身すぎに身を落としていれば五郎のことも諦められると思って続けていたけれど、本当にいやだったらもうやめると言えば大嗣も咎めないって僕はずっと知っていた。それでも見世に出ていたのは、服を選んで着飾って完璧な化粧をして、今日も美しいと褒めそやされてちやほやされてたまには駆け引きをして、主たちと交情するのが案外と性に合っていたということなんだよね」

 並んで階段を下りて行きながら言う北野の表情は明るい。

「むしろ、自分で選んで見世に出る今のほうが楽しいかもしれない。やっと下へ降りられる、って、今夜がすごく楽しみなんだ。五郎はまだ複雑そうだけど、まあ、少しは妬かせるさ」

 大父と対決したあの日から、北野は長く寝つき、しばらくは枕もあげられないほどだったが季節が緩むにつれて少しずつ恢復に向かった。春を迎えた今、少なくとも、外から見る限りはかつての北野に戻っているようだ。

「五郎も苦労するな」

「そのぶん閨ではたっぷり可愛がってやってるからいいんだよ」

「おや、のろけられた」

「ふふ」

「けど、可愛がられるのはお姫さんやないのんか」

「まさか。僕を可愛がろうなんて百年早い。でも、やっと五郎も最近はすこしはうまくなってきたんだよ」

「努力家やもんな」

「うん」

「おお、きたきた」

 話しながら下りていくと、永行が明るい声をあげて、階段に視線が集まった。永行の傍らには井和と端月の姿もある。

 永行と井和、端月だけでなく、サロンには永咲館に籍を置くすべての娼妓、そして使用人たちが揃っていた。山鳥も、猫を含め生き残った者は揃っている。

 それらの正面で彼らを迎えたのは五郎だ。白のシャツに、銀をあしらった黒の上下という、北野と対のいでたちをしている。明紫が最後に数段を残したところで立ち止まると北野が一段さらに降りて足を止め、広も一段下がって脇へ控える。五郎は彼らに丁重に頭を下げた。そして一歩前へ出て集まった面々へ向き直る。

 しんと静寂がホールを満たした。

「みなも、すでに知っているとは思うが」

 五郎の声が朗々と響いた。



「大嗣は? これからどうするの」

 自分は娼妓を続けると言って五郎に目を剥かせてから、北野は首を傾げて明紫を見た。

「そうやな……いちおう、姫のおつとめは引き継ごうと思うてるけど。ほっといたらいずれは爺さんとこへ行くみたいやけど、どうせなら早う連れてってやりたい」

「それはいいけどさ。おつとめじゃなくて。大嗣の、やりたいことはないの?」

 うすい茶の瞳がじっとのぞきこんできた。明紫はうすく苦笑する。

「あんまりないんよ。どうしてもこれだけは譲れんもんは、もう手に入っとるし」

 背後を振り仰ぐと広が苦笑に似た形に唇の端をあげた。

「自分、考えたら昔っから、譲れんかったんは広のことだけやったし、それは、全部かなってきたからなあ。あんまり、思いつかんのや」

「ねえ、龍」

 ため息をついて北野が広を見た。

「大嗣って、こんなにのろける人だったっけ」

「俺に聞くな」

「……それもそうか。おまえとのことをおまえにのろけるはずがなかったね」

「お姫さん」

 くすくす笑った北野を、かるく睨んだ。

「でもほんま、広と一緒に、静かに生きてられるんやったらそれでええんや。……けど」

 ぽつりと、本音が落ちた。

 北野がここに残るというのであれば――言ってもいいだろうか。

「……けど?」

 ひどく優しい声で、北野が促した。

「けど」

 目を伏せて、呟く。

「ほんまにわがまま言うてええんやったら、……自分は、このままがええ」

「この、まま?」

「うん」

 頷いた。

「宮様、呼ばれるの、ずっと、ほんまはいややった。けど、大嗣、て呼ばれるのは、呼んでくれる人がおるのは、嬉しい。お姫さんもよそへはいかんのやったら五郎も残るやろ、それなら自分も、まだここにおりたい」

「大嗣」

 北野が潤んだ声で呼んだ。立ち上がって明紫の隣へ場所を移すと明紫の手を両手でとる。

「そんなの。誰も反対なんかしないし、いくらでも呼ぶよ」

「けどな、楼主は、やめたほうがええと思うんや。自分とよしみ結んでも、もうなんにもならん。けど、自分が残っとったら何やかや期待される」

「いいよ」

 北野は明紫の手を握る手に、力をこめた。

「僕たぶん、大嗣が何を言いたいのか、わかった。言ってもいいと思うよ」

「……ほんまに?」

「うん」

 北野が励ますように頷く。ちらりと、明紫はそちらを見た。

「五郎」

「は――?」

 きょとんと五郎が首を傾げた。

「なんでしょうか、大嗣」

 何も疑っていない様子に、くす、と北野が笑った。



「みなも、すでに知っているとは思うが」

 五郎の声は張りがあって、よく届く。さすがに、いつもよりは少々緊張している様子ではあるが、言葉によどみはない。

「大嗣は本日をもって、永咲館の楼主を退かれることとなった。といっても今までどおり東翼にお住まいになられる。夜に見世へ降りておいでになることがなくなるだけで、今までととくに大きく変わることはない」

 五郎の言葉に、集まった娼妓たち、使用人たちがそれぞれ頷く。

「そして、永咲館の楼主は」

 そこまで言って、五郎はひとつ、咳払いをした。腹に力をこめた様子が後ろ姿でわかって、広はごくわずか、唇の端をあげる。

 あらためて顔をあげ、もう一度五郎はホールに並ぶ顔を見渡す。

「……永咲館の楼主は、不肖、この俺がお引き受けすることとなった」

 明紫に楼主を譲りたいと言われた時、五郎は天地がひっくりかえったような顔でとんでもないと頭を振って固辞しようとしたが、兄におまえにはその程度の男気もないのかとはたかれて押し切られた。その後兄と話し合って腹は括ったようだが、さすがに自分で楼主を名乗るのにはまだ少々抵抗があるようだ。

「差配も、今までどおり俺がつとめる……というか、端月どのも大嗣とともに退かれることとなり、俺が後任として正式に差配を承った。これもまた、今までと大きく変わることはない」

 これにも、頷きが返った。すべてはすでに娼妓たち使用人たちに伝えられている。

 大きく息を吸い込んで、五郎はあらためて背後の階段へちらりと視線を向ける。

「そのようなわけで俺は営業中は裏へ回るゆえ、表向きのことは、今後は大嗣にかわって北野様にお立ちいただく。みな、そのように心得てくれ」

 そこまで言って、五郎は階段の脇へ下がり、店の者たちと並んで階段の明紫と北野とを見上げた。広も階段を降りて、二人だけを上に残す。

 すべての視線が明紫に集まる。北野も一段下から明紫を見上げた。

「……今までみんな、ようついてきてくれた。どんだけ感謝しても足らん。おおきにな」

 明紫が微笑して居並ぶ顔を見回す。北野に視線を向け、目を合わせて微笑むと下へ向き直った北野の肩に手を置いた。

「あとは五郎とお姫さんが継いでくれる。みんなよう知っとるとおり、永咲館の裏と表の顔や。二人がおってくれたら、なんも心配することない。これからも、よろしゅうな」

「五郎がね」

 明紫にかるく促されて、北野がにこりとした。

「どうしても表に立つのだけはこわい勘弁してくれと金玉の小さいことを言うから僕が代わりをするけれど、楼主を継いだのは五郎だから。情けないことこの上ない主人になるだろうけれど、どうか、よろしく盛り立ててやっておくれね」

「兄者……」

 五郎が手で顔を覆って呻いた。

「ここでそういう言い方は勘弁してくれ。それでは格好がつかんではないか」

「つけたところでどうせすぐはげるし、そもそも、おまえがへたれなことなんかみんな知っているって」

「知られているのもわかっておるが! いや、そういうことではなくてだ!」

 墓穴を掘った五郎に、どっと笑いが起こった。再び手に顔を埋めて、五郎は深く嘆息する。

「まったく……せっかくの大嗣のお言葉に引き締まった空気がだいなしだ。――大嗣」

 ぼやいて、だが表情をあらためて背を伸ばす。北野が階段をおりて、弟の隣に立った。

「このような未熟者にあとをお任せになるのはご不安もありましょうが、必ず、ご期待に添えますよう精進いたします。――長い間、お導きいただきありがとうございました」

 五郎が深く頭を下げるのに合わせて、ほかの者たちもいっせいに頭を下げた。最敬礼した弟の傍らで、北野も優雅に膝を折る。広も、そこに膝をついて頭を垂れた。

「……おおきに」

 明紫はゆっくりと頷いて、微笑んだ。



 挨拶をすませ、娼妓たちはめいめい夜の準備に、使用人たちも見世をあける準備に戻ってゆく。山鳥は輪番の者と結局今も居着いている井和、猫を残して散っていった。

「じゃあ太夫、あとでな」

「うん。待ってるよ」

 今夜の北野の客になる永行も、登楼の支度のために引き上げていった。四家崩壊のどさくさのうちに永行はいくつかの利権と事業を四家から奪い取り己のものにした。もともと外遊先で事業を興し成功を得ていたこともあり、またたく間に押しも押されもせぬ大淵の名士だ。急激に力をつけた新参者は忌まれるのが常だが、永行には叢林の老人の後ろ盾がある。北野を介して大淵の主要な顔ぶれとも平和的に顔をつなぎ、とくに軋轢もなく大淵の社交界と経済界の一画におさまった。

「広」

 紫に呼ばれて、広は主人の傍らへ戻る。階段をあがっていく紫について、三階へと戻った。

「終わったなあ」

 居間から露台へ出て、紫が微笑む。荷の降りた顔をしていた。腕を伸べてきたので傍らへ行く。

 かるく背に手を添えた広の肩に紫は頭を預け、翁桜を見上げた。

 ちらちらと、ほぼ夜の色に染まった空に、ほの白い花びらが舞う。

 翁桜だけではなく、永咲館の桜はすべて満開だった。

「……広は、よかったんか、これで」

 ぽつりと落ちた呟きに広は苦笑する。

「今さらだろう」

 紫が顔をあげた。

「俺は、おまえのものだ」

 身を折って縁の唇に唇を重ねる。瞳を閉じた紫が笑んで自分からも広の唇をついばんだ。


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胡蝶の庭 クニミユウキ @akashiky

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