18 龍と蝶


「おう太夫」

 兄とともに大嗣の執務室へ降りていくと、応接椅子に陣取っていた永行が明るい声を出して手を上げた。裸の上体に包帯をぐるぐる巻きにして、井和のものなのか、大きめの男物の羽織を肩にかけている。頭にも包帯を巻いていた。

「気分が悪くなったと聞いたが、具合はもういいのか」

 気楽そうな明るい声に、見る間に兄の機嫌が悪くなった。

「誰のせいだと思ってるんだ」

「あいた」

 つかつかと歩み寄って、銀灰の頭を一つはたく。

「きみがあんな姿で戻ってきたのが悪いんだぞ。わかってるのか? 謝れ」

「ああ、うん。それはすまなかったと思ってる」

「いやあの! 永さんが悪いんじゃなくって」

 椅子の傍らの床にうずくまっていた猫がぴょんと身を伸ばした。

「俺が、ちゃんと護衛してなかったのがいけないんっす! なんかあったら、おまえが盾になって御曹司を守れよ、って言われてたのに」

「そういう話をしているんじゃない」

「えっでも」

「僕に口答えをするな。それから、僕が誰かと話している時に割り込まないように。不遜だ。身の程をわきまえろ」

「みゃっ……」

 北野に冷たい目で睨まれて猫がまた縮んで床に戻る。

「すんません……」

「八つ当たりするなよ、太夫」

「誰のせいだ」

「俺だ。すまなかった。心配をかけた。申し訳ない」

 苦笑した永行がとりなして、いっそう冷えた目に睨まれた。両手を肩のところまであげ、素直に表情をあらためて頭を下げる。

「無茶をしたのはわかってる。自分を的に使うなと井和にも大嗣にもさんざんに怒られた。反省はしてる。だが、必要なことだったとも思ってる。同じ状況になったら、次も俺は同じことをする」

 さらに険しく、北野の眉が寄る。だが睨まれても永行は今度は表情を変えず、北野をまっすぐに見返した。不快そうに北野は唇を曲げる。

「次は心配してやらないからな」

「それは寂しいな。俺にとりすがって号泣してくれよ」

「ぜったいにいやだ」

 ぷいと北野は顔をそむけた。デスクで穏やかな苦笑を浮かべていた大嗣に唇を尖らせてみせる。

「叱り方が足りなかったんじゃないの、大嗣。もっとこてんぱんにやってくれなきゃ」

「それはお姫さんがやりたいやろ思うてな」

「えー、こんなに手のかかるやつ、面倒だからいやだ。五郎にやらせよう」

「は? 俺か?」

「三時間ばかり板の間に正座させて説教しておいて」

「む……一時間ほどで許してやるつもりだったのだが」

「ぬるい」

「わかった。では二時間にしておこう」

「甘いよ」

「そのくらいが相応だろう。いちおうは怪我人だしな」

「えっちょっと待ってくれ。正座で説教はもう決まってるのか」

「兄者の伝家の宝刀だ。諦めろ。冬はとくにつらいぞ」

「おい――」

「ざまを見ろ」

 永行が情けない声をあげて、やっと溜飲を下げた兄は永行を打ち捨ててデスクの大嗣の傍らへ寄った。大嗣の伸ばした手を両手でとって握る。

「さっきはごめんね、みっともないところを見せてしまった」

「気にせんでええよ」

 大嗣は微笑んだ。

 おそらく、この短い時間のうちに何があったのか、大嗣にはわかってしまっているだろう。おそらくは、大兄も。永行はどうだろうか。そう思うと、少々居心地が悪い。

「ところで永行、起きておっていいのか」

「俺か? ちょっと貧血ぎみだが、そのくらいだ。大事はない。寝ているほうが傷に響く」

「あれでよくその程度ですんだな」

「山鳥のおかげだ。やつらの隠し里で作ったらしいが、見事な腕だ」

「その頭は。傷があるとは見えていなかったが」

「その通りだ。傷はない」

「は?」

 けろりと言った永行にさすがに声が跳ね上がった。

「なんだそれは」

「シャツを着てしまうと包帯は見えなくなる。俺は地上部隊の先頭に立つからな。旗としてわかりやすい方がいいだろう?」

「あのな……」

 頭を抱えた。背後で兄が怒気を発しはじめている。

「それでは狙ってくれと言っているようなものではないか」

「簡単には死なん。よしんば死んでもおおいに士気向上につながるだろうからその時はそれでよかろう」

 それ以上うそぶくと兄が確実に噴火する。

「五郎さん」

 ひやひやしながらどうなだめるべきか考えをめぐらせていると、戸口から控えめに五郎を呼ぶ声が聞こえた。

「おう」

 声を返して身を起こす。大嗣に一礼して戸口へ行った。

「どうした」

 扉の外へ出て聞く。五郎を呼んだ使用人は緊張に顔をこわばらせていた。

「お屋敷から、お使いが」

 心臓が音を立てて跳ねた。



 五郎が持って戻った奉書を受け取って、明紫が封紙を開く。硬い表情で北野が五郎に体を寄せた。

 ひととおり目を通して、明紫はうすく笑った。

「自分にお呼びや。お姫さん連れてくるように、やて」

「……卑怯だな」

 むっと北野が唇を尖らせる。

「僕が行かなかったら大嗣が咎められるじゃないか」

「伯父はんあたりの考えやろね。……けど、まあ」

 明紫は応接椅子の永行を見た。

「ちょうどええのやないか。そっちも準備でけたんやろ」

「ああ」

 永行が頷く。

「井和の翼というやつが間に合わなかったが、まあ、あればよしという程度だと言っていたし」

「失礼する。――御曹司」

 永行が言いかけたところで扉が開いて井和が入ってきた。手に何か長物ながものを持っている。北野と五郎の姿を見てそこで足を止めた。

「失敬。皆さまお揃いでしたか」

「お父はんから呼び出しや」

 明紫が奉書をとって井和に示す。井和は表情を引き締めた。

「案外早かったですな」

「せっかちだよね。せいぜい哀れを催すように泣きついてやったのにさ」

 北野が唇を尖らせた。「救出」されたあと、北野は大父に再度文を送ってある。どうにか助け出されて帰り着くことはできたが心労が甚だしくとても御前に出られるような状態ではない、身心を癒し次第必ず参上するゆえもう少し時をいただきたい、そんな内容にしたということだったが、あまり情に訴えることはできなかったようだ。

「あした自分に、お姫さん連れて下までくるように、て。……けど、永行と南も完全に決裂したみたいやし、むしろちょうどよかったんやないか、ゆうてたとこや」

「そうですな」

 井和は頷く。

「俺も、じつはご報告があって参じました。――御曹司、お待たせしました」

「お。届いたのか」

「はい」

 永行が顔を輝かせ、井和は太く笑って手にしていた長物を示した。

「ようやく、我が手に」

 それはやや長めの、太刀に見えた。だが鍔がない。といって白鞘というわけでもなく、派手ではないが凝った装飾がなされていた。実戦刀ということだろうが、鍔がないのでは競り合いになった時に手を護るものがないことになる。

「珍しい刀やね」

「俺の部族に特有の拵えでして。未熟なものには扱いきれぬところが気に入っております」

 にやりと唇の端を上げて、それを腰に差した。

「これでようやく、あの蟾蜍せんじょめに一矢報いてやることができます」

「よぉし。これですべて整ったな」

 永行が片手で拳を握り、もう片手の掌に打ちつけた。

「猫、地図を出してくれ。……大嗣、太夫。よかったらこっちへ来てくれないか。作戦の細かいところを説明したい」

「ええよ」

 頷いて、明紫が立ち上がった。北野もはいはい、と肩をすくめる。

 地図を持って明紫のデスクへ来て説明するのが本来だ。それを敢えて自分のところへ呼ぶ理由はどちらも理解している。

 明紫と北野が並んで永行の正面に腰を下ろす。咬は明紫の背後に、五郎は北野の傍らに膝をついて控え、井和は永行の背後に立った。猫が、取り出してきた大淵の地図をテーブルに広げる。

「これから夜の間に激を飛ばす。決起は明日のひる。地上部隊は二つに分け、本隊がまず」

 永行の指先が地図の一点を指した。

「南を叩く」

 明紫が小さく頷いた。

「別働隊は少し時間をずらして、西だ」

 永行は地図の別の地点に指を置く。四家それぞれの本家は大淵の中心部を囲むように、その名のとおり北東南西に位置している。

「南での開戦の報にほかの家がどう反応するかは未知だ。救援を送るか、無視か、あるいは自家の防備をかためるか。太夫とみなのおかげで最近四家も割れている。救援はないとは思う。そもそも俺を南の小僧が襲ったのが発端だしな。だが、西の襲撃を確実なものにするためにも、衆目は南に引きつけておきたい。――大兄、五郎」

 永行は薄灰の瞳をこちらへ向けた。

「二人は井和と鳥の精鋭ともに別働隊に加わってほしい。襲撃に加わるのは敷地内に押し入るまでだ。その後は分隊と別れて裏庭へ。この間の隠し通路から大父の巣へ突入してくれ」

「永行」

 明紫が永行をとめた。

「そこを、伯父はんらが固めてる可能性は」

「当然ある。そこは賭けだ」

 永行は頷いた。

「先日太夫たちに逃げられたのが、どこかの家の通路を使ったことはわかってるだろうからな。鳥の偵察によれば今のところあの小屋をとくに兵隊で固めている様子はないが、場合によってはそこでひと合戦あるかもしれん」

「お父はんとこまでたどりつけん可能性もある、ゆうことやな」

「そのためにも、南を襲う部隊は派手に暴れる。裏庭の小屋にまで兵隊を割いてる場合じゃない、と思わせるためにな。それだけ大兄たちの負担が軽くなる」

「なんもわざわざ押し入らんでも、お父はんとこまでいける道あるけど」

「え」

 永行がきょとんとした。明紫は視線で上を示す。

「明日やったらここからいける。呼ばれとるから、お父はんの呪は解かれとる。自分がおったら戸は開くし、途中分かれ道は複雑になっとるけど、自分は道知っとるから迷わんよ」

「いや、しかし――部領ことり

 やや慌てた様子で井和が声をあげる。

「それでは、御身にお運びいただかねばなりません」

「自分が行ったらあかんのか」

「え――」

「鳥らにもそれぞれ理由があるのは聞いた。けど、自分らのためのことでもある。まして広が――自分の半身はんみが、自分のために戦うとる時に安全なとこでお祈りしとるだけとか、真っ平や」

「部領」

「僕もいくよ」

「兄者!」

 なだめる声音になった井和の声を北野が遮って、五郎が唖然と声をあげた。

「何を――」

「僕もね。ずっとうじうじしていたけれど、最近ようやく、肚が据わったんだ」

 迷いのない声で、北野は弟の抗議を封じる。

「このまま何もしないでいたら僕はあの蝦蟇に喰われる運命だ。僕がいなくなれば五郎は自由の身になれるから、それも悪い終わりじゃない。そう思っていたけれど」

 何か言おうとした五郎を北野は視線で黙らせた。

「僕をそんなふうに失って五郎が残りの人生を晴れ晴れと送れるはずがない。それならばむしろ、僕の誓いのとばっちりを受けて命を奪われようと、あの蝦蟇に立ち向かって自由を勝ち取ることを選ぶだろう」

 五郎が表情を引き締めて、小さく首肯した。

「僕も、もういい加減うんざりだ。直接は何もできないとしても大嗣を護ることくらいはできる。僕の術で妖物を退けることができるのは昔から実証済みだ。それで天が僕から五郎を奪うというなら、僕だってそれ以上生きてやるものか。自分から蝦蟇の腹に飛び込んで神力のすべてを爆発させてやる。そうすれば蝦蟇だって無事ではすむまいさ。飛び散った破片を一つ残らず集めて燃やし尽くせば一巻の終わりだ」

「……きみが言うと本当にやりそうで恐ろしいんだが」

「僕は神子だぞ。ただの脅しでこんなことを言うと思うなよ」

 北野の語気にやや顔をひきつらせた永行に、北野は凄味のある笑いを見せた。

「香水はたっぷりつけていってやるから、心臓を轟かせながら結果を待っておくといい」

 永行が絶望的な表情で天井を仰いだ。

「お見事なお覚悟。感服いたしました」

 井和が真摯に表情を引き締めた。

「部領、御子」

 二人の前へと歩を進め、床に膝をついて深々と頭を下げる。

「御身は、この翼に賭けて我ら山鳥が必ず、無事に地上へお帰し致します。どうかご出御いただき、我らをお導きいただけますよう――」



 檄が飛んだ。北野も大量に買い入れた紙をすべて使い尽くす勢いで客への手紙を淡々と、しかし驚くべき速さで書き上げて行き、それぞれの行き先へ間違いなく届くよう、五郎が慎重に手配して送り出した。

 夜半。見世はいつもと変わらずに客を迎え、客たちはそれぞれの敵娼と部屋に入った。井和も、今夜はほかの客を断ったゆずり葉の部屋へ向かい、北野も今夜の客と部屋へ上がっていった。

 サロンから三階へ引き上げて、明紫は硝子戸をあけて露台へ出て行く。咬もそれに続いた。

 露台の端へ寄った明紫は手すりに手をかけて翁桜を見上げる。

「明日の終わりにも、この景色見えるやろか」

 呟いた声に、傍らへいって腰に腕を回した。

「見るさ」

「……そうやな」

 頷いて、明紫は咬の肩に頭を預ける。

「ずっと何もしなかった」

「……広?」

「おまえが穢され辱められ屈辱を受けるのを、ただ見過ごしにすることしかできなかった」

 明紫が見上げてくる。その翠の瞳。

 自分に命と、生きる理由を与えてくれた色。

「今度こそ、見過ごさない」

「……おおきに」

 にこりと、明紫が微笑む。顔を寄せると瞳がうっとりと閉じる。

 触れた唇が笑みを作り、上がった腕が咬の首を抱いた。



 南の首長が泡を食った様子で本邸を飛び出していった、と偵察の鳥から連絡が入った。少し前に、西の惣領も慌ただしく商会へ向かっている。北野の撒いた手紙が早速効果を出しているらしい。それだけ北野に影響力があるということだが、それだけ水面下では四家への反発が強く育っていたということでもある。

 手応えに永行は唇の端を上げる。

 やはり、機は熟していた。

 ならばさまざまな目はこちらに有利に出るだろう。

「刻限だ」

 檄文への返答は多くはなかったが、もとよりそれらの数を計算に入れてはいない。戦況を見てから旗幟を明らかにするつもりの勢力もかなりいるだろう。永行らがよく戦うほどに味方は増えるはずだ。

 片手の掌に、もう片手の拳を打ちつける。永行は白いシャツに黒のジレ、鳥たちの装束は黒。全員、上腕には黒地に桜模様の金襴のきれを巻いている。緋色あるいは花模様の布が、娼館から討って出る彼らの同志の目印だった。

「行くぞ!」

 永行の号令一下、地上部隊は鬨の声とともに南の屋敷へ殺到していった。



 点々と置かれ、揺れる篝火はかえって周囲に濃い影を落とし、ものを見えにくくさせている。

 篝火を背に、祭壇の前に黒い祭服をまとった老人の姿があった。

「大父の御前おんまえへ無頼の輩どもを引き連れて参上なさるとは、少々お心得違いがすぎませんかな、大嗣」

「すんまへんな」

 返す大嗣の声はいつものようにまろく、柔らかい。緊張を感じていないはずがないだろうに、すぐ傍らにいてもわずかにも常と異なる気配を感じ取れないのはさすがだと、北野は自分もあらためて背を伸ばす。承知で踏み込んできた場所だ。気後れなどしていてはみっともない。

「最近あちこちで物騒なことが起こってますからな。二度も続けて北野をお父はんの前へ出すのを邪魔されても困りますよって、周り固めさしてきたんですわ」

「それはご立派なお心がけでございますな。――では、北野様」

 老人の視線が自分に向いた。

「さ、大父のもとへ進まれよ」

 揺れた篝火が老人の顔を照らし出す。

 器物のような顔だった。

 人とはとうてい呼べない、醜悪な、欲の器。

 北野のことも当然ながら、大嗣のことも、命のあるものとは思っていない顔だ。

 だからこそ、これほど平然と北野に、あるいは今までの生贄たちに、喰われるために前へ出ろと、命じることができる。

 こんなものが、今まで自分たちの頭を押さえつけてきたのかと思うと反吐が出る思いがした。

「そのことなんですけどな、伯父はん」

 かるく腕を広げて北野が前へ進むのを抑え、大嗣が老人を見る。

「その前に、ちと、お父はんと話、させてもらいたいんですわ」

「大父と――話ですと? 何を言わっしゃる」

 北の老人はぎろりと目を光らせて大嗣を睨んだ。

「大父に何か申し上げようなど。僭越に過ぎましょう」

「僭越は伯父はんのほうですやろ。自分と話をしはるかどうかは、お父はんの決めはることや」

「大嗣」

「お父はん」

 老人を無視して、大嗣は浅瀬の向こう、岩棚にわだかまる闇へと声を投げる。

「お父はん、聞かしてほしいんですけども。北野を呼ばはったの、ほんまにお父はんのお考えですやろか」

「だ――大嗣、何を」

「なあ、お父はん。お父はんほんまはもう、自分らと話はでけんようになってはるんとちがいます? すっかりおつむ悪うならはって、自分の言うてることもわからんし、まともにしゃべることも、ものを考えることも、できひんようになってはるんやないですか」

「大嗣――! 不敬にもほどがございますぞ!」

「なんも不敬なことありまへんやろ。違うんやったら、違う、言うてくれればそれですむことや。なあ? お父はん。……それとも、ほんまにただの蝦蟇ひきがえるになってしまわはったんですやろか」

「大嗣!」

「大父! 大父っ!」

 老人が甲高く声を張り上げた時だった。調子の外れた叫び声と乱れた足音が駆け込んでくる。

「大父っ! 大父どうか! お願いにございます!」

 駆け込んできたのは、南の惣領――いや、先日まで惣領であった、南の新首長だった。老人の姿も、大嗣や北野たちの姿もまるで目に入っていない様子でばたばたと入り江を横切り、岸辺に倒れ込むように膝をつく。

「大父――おお、大父! 反乱でございます。すめらの血を引く小賢しい小僧めが、破落戸ならずものの集団を率い恐れ多くも大父の領土たるこの街で、大父の忠臣たる我ら四家に対し弓を! どうか、どうか大父、破落戸どもに、血族の小僧に、鉄槌を下してくださりませ! 大父!」

 背後で、鳥たちが静かに緊張を漲らせていく。北野も、口元を引き締める。

「血族の小僧、だと? いったいそれはなんの」

 北の老人がいっそう甲高く声をあげる。知らないのか。

 皇統の小僧とは永行のほかにない。南は知っていて、北は知らない、いや、知らされていない。四家の結束は弱まっていると永行が言っていたのはこれか。

 そして天罰をねだりにきた、ということは、それだけ苦戦しているということだ。

「大父、大父どうか――!」

 無言で、牙が動いた。大嗣の前へ出る。はっきりと構えはとっていないが、いつでも動けるように身構えているのがわかった。

 ざわざわと、背にいやな震えがはしる。

 岩棚にこごった闇がゆらりと揺れた。

 岸辺に平伏した南の首長の上に、影が落ちる。

「おお……大父! よくお出ましくださいました!」

 南の首長が身を起こし、そびえ立つを仰いで。

「どうぞ、あの不心得者どもに大父の――」

 ぶしゅっ。

 奇妙な音とともに男の言葉が不自然に途切れた。

「ひ……ッ」

 老人が引き攣れた声をあげる。

 南の首長は、頭部と左肩、そして左腕がなくなっていた。ひと呼吸の半分ほどを置いて、噴き上げる湧水のごとく首のあったあたりに黒っぽい水柱が立つ。

 ぼき、ごりっ、ばき、と、硬いものが割れ、折れる音が響く。

 何かが北野の手を握った。はっと見ると、井和と五郎が牙の左右へ出て並んでいて、五郎が後ろ手に北野の手をさぐって握ったのだった。

 暖かな手に握られて、はじめて手の先がひどく冷たくなって、そして震えていたことに気づいた。

「っ――」

 声をあげそうになって、握られていないほうの手で口元を覆った。

 影の上部に見えた、濁った、黄色い光。

 それがぎろりと動いて老人を見た。

部領ことり、御子。お下がりを」

 低く井和が囁く。頷いて、大嗣とともにゆっくりと、音をたてないように後ずさる。

 前方を護る三人は、逆に少し前へ出た。そして同時に左右にも分かれて互いの距離もあける。それぞれが十分に動けるように、だろう。とくに誰が指示をしたとも思えないのに、牙と鳥はともかく五郎までが同じように行動しているのが意外で、だが、頼もしく感じた。

 それぞれが腰を落として身構える。井和だけでなく牙も、今日は刀を腰に提げていた。五郎は長剣は扱ったことがない。刃の厚く短めの曲刀を借りて身に帯びていた。

「ひぃぃ……ッ!」

 老人が調子の外れた悲鳴を上げた。身を翻して、逃げ出そうとする。

 影が、跳ねた。牙と鳥、そして五郎が相前後して身構える。

「ぃっ」

 老人の声が途切れた。

 かわって、ごき、ぐじゅ、ばき、ぐちゃ、と、おぞましい音がする。老人の胸のあたりから下がごとりと倒れた。

 頭を上げたがぷっと何かを吐き出した。地面に落ちたものがごとんと硬い音を立てる。

 それが何なのかは、見えなかった。だがいずれおぞましいものであることに変わりはないだろう。

 黄色く濁った目が、ぎろりと光る。新たな血肉を食ったからか、先ほどの目よりもわずかに鋭さが宿っているように思う。かつてあった知性は感じないが、それでも、強大な妖力が間違いなくそこにはあった。

 蝦蟇の目がこちらを向いた。こちらを、いや、前に立つ三人は無視して、大嗣と北野を見ている。

 狙っているのは神力か、それとも。

 目が、合った。

 視線をそらさずに半歩前へ出、大嗣をかばった。

「……うおぉぉぉぉぉっ!」

 五郎が雄叫びを上げて、走り出した。叫びながら、大きく横手へ回り込んでいく。

 視線が外れる。蝦蟇の黄色の目がそれを追った。五郎の移動に合わせて身をひねり、のそりと体の向きを変える。

 ほかにも敵はいるというのに。

 おそるるに足らずと侮っているのか。

 いや。

 三者の中で最も未熟なのは、ごく最近ようやく力を得、使えるようになったばかりの五郎だ。

 血の濃さでは大嗣に、神力でも大嗣には当然のこと北野にも遠く及ばない。

 にもかかわらず、蝦蟇が五郎を追うのは。

 五郎が大声をあげて、動き回っているからだ。

 強く、北野は拳を握りしめた。

 なんと愚かしい。

 あれが――あんなものが。

 神でなど、あるものか。

 五郎に誘導されて、蝦蟇は完全にこちらへ脇腹を見せた。

「大兄っ! 鳥どのっ!」

 五郎が叫んだ。

 その時には、もう牙は走り出していた。わずかに遅れて、鳥が。

 背後から激しい羽ばたきの音と、羽が巻き起こした風が吹き抜けていく。

 盾となっていた三人にかわって、その場に残った山鳥が数人、大嗣と北野の前へ出た。そのうち一人は猫だ。

「っ……!」

 蝦蟇の舌が五郎の足を打った。五郎が大きく体を泳がせる。

 反射的に手が動いた。指先が陣を描き、それを蝦蟇へと打ち込む。呪縛された蝦蟇がびくりと動きをとめ、横手から牙が体当たりした。刀を抜いた鳥が斬りつける。

「お姫さん」

 大嗣が振り返る。ちいさく、北野は苦笑した。

「やってしまった」

 かるく肩をすくめて両手を広げて見せる。

「大丈夫か」

「僕は平気。……腹を据えたって言ったでしょ。だいじょうぶだよ」

 気遣う瞳に微笑を返す。

「このままなら僕は蝦蟇の餌だ、って言ったけれど。ここまできたら五郎だって同じだ。蝦蟇を倒すか、自分が殺されるか。だったら、いくつもの意味で早く蝦蟇を倒すほうが五郎が生き延びる確率はあがる。……まあ、そう考えてやったことではないけれど」

 それに、と北野は蝦蟇を見た。

「あれは、どう甘く見てやっても、もう神じゃない。僕が誓いを向けた相手は、おそらく、もういない。――猫」

「にゃっ? へ、へいっ!」

 ぴん、と猫が直立不動になった。尾があるならきっと毛はすべて逆立っているだろう。昨日きつくあたったから怯えているのかもしれないが、頭を撫でてやるのはあとだ。

「つい手を出しちゃったから、毒を食らわば皿までだ。僕は五郎たちを援護する。大嗣と僕の護りは頼んだよ」

 必ず、北野と大嗣とを護ると、井和は言った。

 猫は前回ここに突入してきた時も、顔ぶれの中にいた。そして、今はここに残されている。そもそも、井和の近習だ。

 少々足りないところのあるお調子者だが、ここに置かれている意味はあるのだろう。

 おまえを信じて託すから。

 顔をじっと見ると、猫の表情が変わった。

 言わずに視線にこめた言葉を読み取ったのか、猫なりに思うところがあるのか。

「……へいっ!」

 北野が今まで見た中ではもっとも真摯な表情で、大きく頷いた。だがはっと目を見開いて鋭く振り返る。

「お頭うしろぉぉっ!」

「っ!」

 吠えるような猫の叫びにはっと井和が背後を振り返った。

 弾丸のように暗がりから飛び出した複数の影が井和に襲いかかる。逆手に構え直した剣で井和が先頭の影を防ぎ、剣先を跳ね上げて弾き飛ばすと返す刀で二匹めを袈裟懸けに斬り下ろす。

「――ッ!」

 さらに三匹めが横手から飛びかかっていって、反射的に神力を撃った。銀の礫が宙を跳んで、ぎゃん、と打たれた妖物が悲鳴をあげる。

「かたじけない!」

 北野の作った間で体勢を立て直して、井和が三匹めを真っ二つに斬り上げた。

「うわやっべ、こっちきた!」

 猫の声がひっくり返る。見るといくつかの影がこちらへ向かってくる。さらにいくつかがが暗がりから湧き出て、牙と、そして五郎へも向かった。

「にゃあーっ!」

 猫が叫んで、先頭の一匹へ飛びかかる。と、その姿がぶれて、四足の獣があらわれた。太い前足で妖物を抑え込んで、その首筋に食らいつく。

 羽ばたきが聞こえて、数羽の鳥が別の妖物を襲う。

「おりゃあぁっ!」

 全身から赤銅の闘気を噴き上げて、五郎が妖物と組み合った。

「はッ――!」

 飛びかかった妖物の牙を躱し、首を両腕で抱え込んだ牙が咆哮をあげた。首の骨を折ったらしく、もがいていた妖物がだらりと力を失う。

「うわあっ、大兄ってすげえ!」

 それを見て猫が間の抜けた声をあげた。見ると妖物と取っ組み合いをしながら、頭だけ人間に戻っている。へんな化け物だ。

「数が多いな」

 大嗣が呟いて、北野も頷いた。

 あちこちで、山鳥が妖物と戦っている。山鳥だけではなく、五郎も、井和も、そして牙も、妖物に襲われていた。

「お父はんが呼んだんかな」

「蝦蟇だよ、大嗣。あれはもう大父じゃない」

「……そうやった」

 呟いた言葉をそっと訂正すると大嗣は苦笑する。

「あかんな、クセがついとる」

 それは、大嗣が自分に無理じいに刻みつけた習慣だ。化け物を父と呼び、敬語で扱うことで自分をあちら側に置き、生き餌を化け物に捧げることに罪悪感も悲しみも感じない化け物であろうとした。

 それを言うのであれば、いまでも大嗣と呼んでしまう自分も本当は改めるべきではあるのだろうが。

 でも、このひとを大嗣と呼ぶのは今でもとてもふさわしい気がする。このひとのつがいを狗とはもう呼ぶ気になれないのとは逆に。

「あれを見て」

 あまり見たいものではなかったが、指をさす。そちらへ目をやった大嗣が眉を寄せた。

 そこにあったのは、老人の残骸だった。蝦蟇が打ち捨てたものだ。あるいはあとで喰うつもりだったのかもしれないが、そこに何匹かの妖物がとりつき、断面や腹に顔をつっこんで残った部分を貪っている。東の男の死骸も、同じようなめにあっていた。

「あいつが呼んだんじゃないよ、たぶん。逆だと思う。血の匂いに惹かれて寄ってきて、侵入してきたんだ。今までは、蝦蟇がいるせいで近づけなくて横取りできなかったものを奪いにきてるんだ」

 おそらく、祭祀であった四人のうち半分、南と北の首長を自ら喰い殺したことで、最後に残っていたわずかな神性も喪ったのだろう。

「……そういうことか」

 大嗣が頷いた。

「ついでに自分らも殺して喰おう、ゆうわけや」

「僕たちだけじゃなく、鳥も牙も五郎もまとめてね」

 そう言って、悔しい気持ちになった。

 あの小物たちには見境がない。強大な妖力で威圧するものがいないというだけの理由で彼らに襲いかかってきている。

 自分や五郎はともかく、大嗣は本来は、それこそ蝦蟇など足元にも及ばない力を秘めているというのに。

 大嗣自身も使いたいと願い、請われて何度も手ほどきを試みたが、大嗣が自らの力を自分の意思で使えるように導くことは、ついにできなかった。自分に教師の才がないか、あるいは教えるためにもなんらかの訓練が必要なのかと思っていた。五郎に力の使い方を教えなかったのは、あまり五郎を人から隔たったものにしたくないと思っていたのも事実だが、教えようとして教えられなければ五郎が失望するだろうと思ったからだ。

 だが、いざ五郎の手をとったらそれは拍子抜けするほどに簡単で、むしろ大嗣のほうに、力を解放できぬように呪が施されているのだと理解した。

 そのせいで、こんなとるにたらない小物どもが無遠慮に跋扈して、彼らの邪魔をする。

「はッ!」

 飛びかかってきたものを障壁で防いで、はじき飛ばす。それを護衛の鳥が引き倒して、握った刃物で首を掻き切る。

「まずいね。小物が邪魔をして蝦蟇に手が届かない」

「そやね。……幸い、蝦蟇のほうも小物の相手で忙しそうやけど」

 妖物は鳥や牙たちばかりではなく、蝦蟇をも襲っていた。さすがに相手にはならずに蝦蟇にたやすく跳ね飛ばされ、あるいは舌に打たれ、踏み潰されてひとたまりもなく死骸に変わっているが、攻め手も同じ雑兵に阻まれて隙を突けないのはもどかしい。

「大嗣。力を使わせてもらえるかな。蝦蟇の代理をするみたいで癪だけど、結界を張ってみる」

「――ここにか。ちと広すぎやせんか」

「広いね」

 大嗣の懸念に苦笑して頷く。

「長くはもたないだろうけど、これじゃ埒が明かない。小物をようやく退けても疲弊して蝦蟇を討ち漏らすのじゃ、なんのためにここまで来たか、わからない」

「……わかった。やってみよ」

 短い間北野の顔を見て、大嗣は頷いた。北野に体を寄せ、肩に手を置く。

「猫。僕たちはしばらく動けなくなる。小物を寄せ付けるなよ」

「……へいっ!」

 猫の緊張した声を最後に、周囲から音が消えた。いや、自分で、遮断した。しん、と何も聞こえなくなって、自分の内側に流れる力だけを見る。

 肩に触れた手から、大嗣の力が北野へと流れ込んでくる。ほのかに桜の香りを感じる金の光は、だがあの時、大嗣と融合して感じとった力とはまったく質が違う。これは、大嗣が本来持っている、本質的な力ではないのだと、あれを経験したあとでは思う。もちろん、それでも北野の力よりは圧倒的に大きく、助けになってはくれるのだが、あの力を解き放つことができれば情勢はまったく変わるのに、と思うと手助けのできなかった自分の力不足が口惜しい。

 だが、できないことを嘆いても仕方がない。

 今は自分ができることをするだけだ。

 静かに息を吸い込み、額に力を集める。指先で触れ、そしてゆっくりと宙へのばした。

 広がりを意識して大きく手を動かしていく。呪言を記し、陣を描くと金と銀の撚り合った光が宙に大きく浮かび上がる。

 その輝きに、さらに視線を据えて、意識を凝らした。陣と自分とを繋いで、注げるだけの力を注ぐ。

 姫さまっ、と、叫ぶ声をかすかに聞いたように思った。

 なにかが迫っているのかもしれないが、些事だ。

 陣がまばゆく輝きを放つ。

「はァ――っ!」

 全霊を乗せて、天へ陣を撃った。

 かっ、と白銀の光が地下洞を照らし出す。

 きいぃ、ぎゃぁ、ちぃぃっ、と、あちこちから苦悶の声が聞こえた。妖物がそこここで地に落ちてのたうち回っている。体の一部や四肢のいくつかが溶け落ちたように消えているものもあった。

「鳥たち! ゆけ!」

 大音声に響いたのは、おそらく、井和の声だ。

 目の前が薄暗くなる。

「お姫さん!」

 膝が砕けた。ふらりと体が揺れて、倒れ込むのを大嗣が肩を抱いて支えてくれた。

「うまく、いっ……た、かな」

「ああ、でけてるよ。ようやってくれた」

「姫さまっ! 大丈夫っすか!」

 薄暗く明滅する視界に、猫の泣き顔が見えた。一方の肩が真っ赤に染まっている。

「けが、したの」

「たいしたことないっす! 姫さま大丈夫っすか!」

「だから、僕はおまえの……姫じゃ、ないってば」

 苦笑した。濃い血の匂いがして、頭が締め付けられるようだ。視界が歪む。

「猫。その血、今のお姫さんには障る。離れとって」

「わっ! すっ、すんませんっ!」

 頓狂な声をあげて、猫の姿が見えなくなった。おそらくは北野をかばって負った傷だろうに。ごめんね、と呟いたが声になったかどうかは分からなかった。

「蝦蟇、は」

「今のでだいぶ弱ったようやけど、残念ながらまだ生きとる」

 抱き支えてくれる手から力が細くはあったが流れてきて、使い切って底をついたものを補ってくれる。視界に降りていた薄闇がすこし晴れて、大きく肩で息をしながら、ようやくのことで顔を上げた。

 洞窟には光が満ちていた。陣の放った光だろう。押し寄せていた妖物は、もうほとんど見えない。結界に弾き出され、あるいは消滅させられずに残ったものはほぼ、鳥たちが仕留めたようだった。

 そして光にくっきりと浮かび上がる、醜悪などす黒い塊。

 ぐおおぉ、と咆哮を迸らせてそれは大きく身をよじった。ぎろりと、瞳が開く。

 そこへ、高く跳んだ井和が翼と呼んでいた刀で打ち掛かった。

 刃が蝦蟇の目の一方を割った。すかさず武器を逆手に持ち替えた井和が己が今作った傷に刀を突き刺す。ぶしゃっ、と斬り割られた場所から体液が噴き出す。

 凄まじい咆哮があがった。蝦蟇がいっそう猛々しく咆哮し大きく身を振る。井和が跳ね飛ばされて地面に落ちて転がる。飛びかかった牙が突き立ったまま残された剣を引き抜き、再び突き刺そうとして振り回された前肢に腰を打たれてやはり地面に落ちた。

「鳥! 広!」

「大兄っ! 井和どの!」

 大嗣がはっと叫び、五郎が駆け寄ろうとして蝦蟇に弾き飛ばされる。

「っ――!」

 大嗣が鋭く息を呑んだ。

「牙!」

 北野も思わず叫んだ。

 蝦蟇の前肢が地面に落ちた牙に振り下ろされた。がつ、と鈍い音が響く。

「が……っ!」

 濁った声が牙の喉から迸った。

「大兄ッ!」

 叫んで、牙の手を離れた剣を拾った井和が宙へ跳んだ。ばさばさっ、と力強い羽ばたきが起こって、天井近くから矢のように鋼色の翼が蝦蟇のもう一方の目を狙う。

「お頭……」

 すこし離れたところから猫が呟いたのが聞こえた。

 それは一羽の隼だった。一方の翼の半ばほどが、鋼で作られている。再び舞い上がり、もう一度、蝦蟇に体当たりをかけた。

 だが人をはるかに超える大きさの妖物に、大型といえ猛禽といえ人よりも小さな鳥では揺らがせることは出来ない。うるさげに身をよじり、井和を叩き落とそうともう一方の前肢を振り上げた。

「ぐ……ぁっ!」

 前肢に背を踏みつけられた牙が蝦蟇の体重を乗せられて苦悶の声を上げる。

「うおぉぉぉぉぉ……っ!」

 五郎が咆哮した。蝦蟇へ突進していく。組み付いた。

「誰か! 大兄を!」

 蝦蟇を牙の上から押し退けようとしながら五郎が叫ぶ。駆け寄ろうとした数人の鳥が鞭のように振られた舌に弾き飛ばされた。

 井和が前肢に打たれて地面に叩きつけられる。背から落ちて、血を吐いて動かなくなった。

「ぅ、ぐ……」

 じり、と五郎が押し返される。力をこめて踏みしめた踵が土を抉る。力を貸してやりたいのに、北野は指一本すら動かない。

「ううぅぅぅ……っ!」

 傍らで、低い唸り声が響いた。見ると猫が歯を剥き出して蝦蟇を睨みつけている。背は引き絞った弓のようにたわめられていた。助けに行きたいがここを守れと命じられていて動けずにじれているのだ。

 あの、豹のような生き物ならば。

 見ると、猫の片方の腕は力なくだらりと下がっている。さっき受けた傷のせいか。

 三本足でも四つ足は走れるのだろうか。

 いずれにせよここで唸っているだけよりは何かするだろう。

「猫、行け」

「えっ」

 低く命じると猫がはっとなって横目に北野を見る。

「ここはもういい。ほかの鳥もいる。おまえは行け。僕のかわりに五郎を手伝って来い」

「っ……ありがとうございますっ!」

 叫ぶなり猫は灰色のかたまりになって飛び出していった。

「ふぎゃあああっっ!」

「猫!」

 振り回される蝦蟇の舌を俊敏にかいくぐり、猫は一足飛びに五郎の元へ駆け寄った。蝦蟇の前肢の下へ肩を入れようとし、牙の下の地面を掘ろうとする。

 それを見て、五郎も改めて足を踏みしめる。

「っ……鷲王、息吹が! その名をもって――命じる!」

 五郎が叫ぶと噴き上がった赤銅の神気がその全身を覆った。

「神将よ吾に降れ! 吾が力となりて清宮あるじを助けよッ!」

 轟音が響いた。赤銅の輝きの中から、憤怒の形相の阿像が現れる。咆哮をあげて五郎とともに蝦蟇に組み付いた。

 五郎が一歩足を踏み出すと、神将も前へと踏み出す。足が地にめりこみ、腕に太く筋肉の束が浮かび上がる。

「うおおぉぉぉぉぉぉぉ……っ!」

 五郎が吼えた。蝦蟇の体が傾ぐ。

「猫ぉっ!」

「へいっっ!」

 猫が牙の腕をつかんだ。牙の体の下に自分の体を入れ、動くほうの腕で自分の肩に腕を回させて、担ぎ上げるようにして引き出そうとする。だが何かがひっかかっているらしくうまく立ち上がることができない。

 這い寄っていった井和が、猫に手を貸した。二人がかりでどうにか牙を引き出し、左右から担いで蝦蟇から距離をとろうとする。

「っ! 五郎っ!」

 がく、と五郎の膝が折れた。牙が助け出されたのを見て気がゆるんだのか。

「ぐ、っ……この、っ……!」

 神将の姿が薄れて、消えてゆく。

「大兄!」

 井和が叫んだ。直後、飛びかかった牙が蝦蟇に肩から体当たりする。

「離れろ!」

 五郎へ向けて牙が怒鳴り、五郎が転がるように距離をとる。五郎のいた場所を蝦蟇のもう一方の前肢が唸りをあげて打った。

 飛びすさった牙が、再び高く跳んで蝦蟇を襲う。

「広っ!」

 残ったもう一方の目を狙った牙に、蝦蟇の舌が巻きついた。大きく振り回し、地面に叩きつける。前肢を振り上げた。

「大兄っ!」

「大兄!」

「大兄ーっ!」

 五郎と井和、そして猫が叫ぶ。

 ごき、と。

 蝦蟇の前肢の下でいやな音がした。

「こ、う……」

 大嗣がかすれた声を落とす。反射的に駆け寄ろうとした五郎が次の瞬間跳ね飛ばされて北野からわずかのところへ落ちた。飛ばされた勢いのまま幾度か転がり、岩にぶつかって、そして動かなくなる。

 意識の残っている者はただこおりついて蝦蟇に踏み折られて動かなくなったひとの姿を見つめていた。


 と。


 投げ出された指先がぴくりと動いた。はっと大嗣が息を呑む。

 じり、と手が動いて地をかく。指に力がこもり、腕に力が入って、肩が持ち上がった。

「う、そ……だろ」

 呆然と言葉がこぼれた。

 蝦蟇の前肢に踏みつけられたまま。

 牙は身を起こそうとしている。

「っ、ぐ……」

 身体を支える腕に太く血管が浮き、筋肉の束が盛り上がる。

 ぐ、と背が持ちあがり、そして。

「……ぅぉおおお……ッ!」

 牙が、吼えた。

「広――っっ!」

 大嗣の絶叫。

 桜の香気が駆け抜けた。

 七色の燐光が弾けるように迸って。

 赫赤しゃくせきの光が宙を裂いた。

 まるで稲妻のごとく、轟音とともに広がった光。

 蝦蟇が弾き飛ばされて跳ね上がり、浅瀬に不様に落ちて派手な水しぶきを上げた。

「う、く……」

 五郎が小さく呻いた。土をかくようにしてわずかに頭を上げる。

「あれ、は……」

 ゆらりと立った、痩躯の長身。その上体は奇妙な位置で前かがみに、いや折れ曲がって、いる。

 その背中――おそらくは蝦蟇に踏み折られた折れ目から噴き出した赫い輝き。それは男の腰に巻き付き、胴を巻いて、胸へ這い上がる。

 巻き付いた輝きがぎりりと胴と胸を締め上げはじめた。

 締め上げるにつれ、折れ曲がっていた背が伸ばされていく。

 やがて男はまっすぐに背を伸ばした姿勢になった。意識はないのか頭は垂れている。

 巻き付いていた赫い輝きが牙の体に染み込むように薄れていく。代わって、全身の輪郭が赫い輝きを帯びはじめた。

「俺は、……なに、を……見て、おるのだ……」

 呆然と、五郎が呟いた。

「人が神になろうとしているところだよ」

 答えが勝手に唇を動かした。

 まるで最初からそうだと知っていたかのように。

「か、み……?」

「そうだ。――生まれるよ」

 今や、牙は全身、強い赫の輝きに包まれていた。袖をまくり上げた剥き出しの左腕がひときわ強く輝いて――。

 腕から迸った赫い輝きが天を衝くがごとく噴き上がり、赫い瞳が煌と輝いた。

「ああ……」

 全身が震えた。

 伏せられていた顔が上がる。

 こちらを、いや、大嗣を振り返った真紅の瞳。

 その体を巻き、背後を護るかのように浮かびあがった、龍。

「おまえ、大蛇おろちだったんだね――」

さや

 柔らかな声が呼んだ。その絹のような艶やかな響きに、北野は陶然とそちらへ顔を向ける。

 微笑を浮かべて大嗣が手を差し伸べていた。

 その背後に拡がる七色の輝きは、まるで。

 蝶の翅。

「姫、さま……」

 猫が涙声で呟いた。

 そうだ。あれが龍であるのならば。

 胡蝶がほかにいるものか。

 大嗣と呼ぶのがふさわしくて当然だった。

 嗣ぐのは、蝦蟇の地位ではなく。

けて」

「うん」

 微笑に頷いて、差し出された手に自分の手を委ねる。這い寄ってきた五郎が、自分も立ち上がれはしないまま北野の背を支えてくれて、どうにか立ち上がった。

「無理さすよ。ごめんな」

「いいよ。使って」

 すまなそうな瞳に微笑を返した。

 抱き寄せられ、大嗣の胸に背を預けて抱かれる。

 次の瞬間、北野は北野ではなくなっていた。

 かつて。

 自分はなんの力も持っていなかった。

 なにも出来ず、自分を護ろうと足掻くものたちが無残に踏みにじられ背骨を踏み折られ翼を引きちぎられ引き裂かれ命を奪われるのをただ、気の狂いそうな焦燥と悲嘆の中で見ていることしかできなかった。

 だが。

 今の自分には力がある。

 その使い方を知っている。

 決して。

 もう二度と、ただ見ているだけでは、いない――。

 濁った黄色の、一つ残った目と視線が合う。

 その奥に、髪を振り乱し歪んだ顔をした醜い男が見えた。

 あれもまた、滅ぼさねばならぬものだ。

 手を上げて、宙に呪言を綴り、陣を描いていく。


「永くより地と水を護る龍の名にかけて――」

      「旧くより続く国の護り主の血にかけて――」


 大嗣と同時に、北野は自分の知らない呪言ことばを唱えていた。


「明宮紫が」

      「清宮千早が」


「命じる」


 声が重なった。


「おぞましき者、悪しき者。呪われし者、赦されざる者、欲深き者、罪深き者よ。ここに汝を禁じ、祓い清め永劫の滅却へと追い落とす――!」


 もはや、その声が、動く手が、操る輝きが誰のものであるのかは、わからなくなっていた。

 手が指の描いた陣をなぞり、宙空からつかみ取って、鋭く投擲した。

「広っっ!」

 大嗣が叫んだ。

 雄叫びとともに龍が宙へ舞い上がる。

 はしる胡蝶の力を追い、並び、絡み合い、溶け合って。

 蝦蟇を貫いた。



 靴先を、寄ってきた波が濡らした。

 大父を蒸発させた力の爆発は岩棚も半ばほど吹き飛ばし、浅瀬の水を蒸発させたが、淵から湧く水がゆるやかにまた浅瀬を満たしていこうとしている。

 振り返ると、岸辺に紫の姿がある。こちらを見る微笑に広もうすく笑い、広がっていく水際にあとをつけられながら岸へと向かう。かるく腕を広げた紫を、自分からも抱き寄せた。

 左腕の龍に、紫が愛おしげに触れた。

 その顔は、紫のものであり、紫ではないものでもあった。

 広が、そうであるように。

部領ことり――」

 声にそちらを見ると、井和が感慨のこもった表情でそこにいた。肩を貸している猫は半べそをかいている。

 紫の前で、井和は膝を折った。

「お慶び申し上げます」

「おおきに」

 にこりと笑んで、紫は頷いた。

「けど、部領ゆうなら、自分やのうて広やないのか? 淵の主人は広やろ」

 首を傾げた紫に、井和は苦笑を浮かべる。

「その竜神を従えておられるおかたが、部領でございましょう」

 紫がこちらを振り返る。広も苦笑して、頷いてやった。

「俺の主はおまえだ。今でも」

「……べつにもう、主やのうてええんやけど」

「いやか」

「そういうわけやないけど」

「ならいいだろう」

「まあ……うん」

 ふふ、と笑う声がした。

「大嗣が龍におされてるところなんか、はじめて見る」

「二人やと、たまにあるんやけどね」

 悪びれずに苦笑して、紫は五郎にほとんど抱かれてかろうじて体を起こしている北野に手を伸べた。

「大丈夫か」

「ふふ。だめ。おもしろいくらい、体じゅうどこにも力が入らない」

 北野はくすくす笑う。傍らで、五郎が自分のほうが卒倒しそうな顔ではらはらしている。

「手をとれなくてごめんね。でもだいじょうぶ。五郎がいるし、すごく気分はいい」

 紫は膝をついて、自分から北野の手をとった。

「無理させてもうた。堪忍や」

「何言ってるの。誇らしかったよ」

 北野は微笑む。

「名前を呼んでくれたのも、力を貸して、って言ってくれたのも。はじめてだよ、大嗣」

「そうやったかな」

「そうだよ。五郎に知られたくない、五郎を変えたくない、って、ずっと僕が駄々をこねていたのを許して、黙って見守っていてくれた。譲って、護ってもらうばかりだった。やっと、役に立てたんだ。嬉しくて仕方がない」

「おおきにな。ようやってくれた」

 頷いて、紫は北野の手を握りしめた。

「やあ、すべて無事、めでたくおさまるべきところにおさまったようだ」

「……月」

「おや、妖怪じゃないか。今ごろになって何をしにきたの」

「お、おい、兄者」

 辛辣な兄を弟が慌てて窘める。だが当人はこたえた様子はなくからからと笑った。

「己の仕事をしにきたのよ。俺には翼も牙も刃もないのでな。戦いの場へ出て来てもなんの役にも立たんゆえ、終わるまで控えておった。……生きていたな、鳥」

「残念ながら生き延びたよ」

 視線を受けて井和が唇の端を上げた。

「またおまえに送ってもらい損ねた」

「なに、いずれはその日が来る。急ぐことはない」

 うすく笑うと端月はあらためて広と紫に向き直る。胸に手を置いて丁重な礼をした。

「よくぞ、なしてくだされた。老骨よりも御礼を申し上げる」

「鳥は、なんとのう見覚えあるんやけども」

 紫はやや不確かな声で言う。

「月は、誰やったやろ」

 問いに端月はただ唇の端を上げた。

「あれだ」

 広は背後へ視線を向けた。紫が振り返って広の顔を見上げ、視線を追って水面みなもを見る。

 淵のもっとも奥。最も深く水の流れ込む先に、月が映っていた。

「え」

 目を見開いて紫が天井を見上げる。だがそこにあるのは岩ばかりだ。

「さすが淵の護り主はよくおわかりだ」

 月が笑った。

「姫の仕事は上まで導くことだったからな、知らぬのも道理だ。ここがな、真の冥界の門なのよ。上の淵に沈んだものは流されて洗われてここへ流れつく。そしてここから冥府へ向かうのさ」

 そう言って端月は掌を上にして手を伸べる。と、入江のあちらこちらに砂粒のような燐光が灯り、浮かび上がって、端月の掌へと集まっていった。

「さ、くだってゆけ。次はもっとましなものに生まれて来いよ」

 端月が語りかけてかるく手を振ると光の粒はひと筋の流れとなって月に、いや月をうつした門に流れ込んでいった。

「ようやく、吹き寄せられて門を見つけられずに地上を彷徨う者らも送ってやれる。……蝦蟇も、かつての武者も、送ってしまうぞ。構わぬな」

 視線を向けられて広も、そして紫も頷いた。

「妖怪どころか神の化身だったとはな」

 感慨深げな声に視線をめぐらせると永行の姿があった。あちこちに血をこびりつかせているがすこぶる元気そうだ。頭の包帯は解けてしまったのか目印の金蘭のきれを頭に巻いて結んでいた。

「そっちも片がついたようやね」

「おう。大勝利だ」

 笑って頷き、永行は大股にこちらへやってくる。ぽんと北野の肩に手を置いた。

「大丈夫か」

「だめ」

「だろうな」

 見上げた北野がいたずらっぽく笑って、永行も苦笑した。立てる状態であれば北野が座り込んでいるはずがないとわかっている。

「蓋を開けてみたら四家手飼い以外の無頼侠客がすべて蜂起した。四家それぞれの事業への一斉の大小の妨害や乗っ取りでどこもかしこも大混乱だ。西の爺さんはなんとかしろと怒鳴ったところで口から泡を吹いてぶっ倒れた。まあ、このまま死ぬだろう。東の親父は混乱に乗じて積年の恨みと襲い掛かったやつに首を掻き切られたそうだ」

「……そうか」

「北と南は消息が知れないが」

「あそこや」

 言った永行に紫は月の門を視線で指した。そうなった経緯を察したのか、永行は眉を上げて唇をやや曲げる。だがすぐに肩をすくめた。

「ということは、四家の頭はまとめて全部すげ変わるわけだ。北の伯父貴は壺にしか興味がないから敵対はしてこないだろう。西は、……まあ、親父の醜聞ならいくらでも握ってる。代を継ぐ前に引退してもらって、その下は大淵じゅうからよってたかって利権をむしりとられてるこの状況で家を支えることはできまい。これで四家も終わりだ」

「西も、か」

「西もだ」

 確かめた紫に永行はうすく笑う。

「内側から四家を切り崩して俺が乗っ取ってやろうと思ったこともあったがな。だが大父は潰えた。ならば大父の背中に乗っかって旨い汁を吸ってた四家も、まるごと潰れてなくなったほうがいい」

「永行がそれでええならええよ」

 紫は頷いた。

「……兄者。おい、兄者? 兄者、しっかりしろ!」

 五郎がこわばった声をあげた。見ると北野がぐったりと五郎にもたれかかっている。意識を保っていられなくなったか。

「永行が無事やてわかって、安心したんやろね」

 あらためて、紫が北野の傍らへ膝をつく。

「ほんまに、よう耐えてくれた。……広、頼んでええ? 五郎には無理やろ」

「……申し訳ありません」

 自分が抱いていけるとは、さすがに五郎も言わなかった。面目なさげに頭を下げる。紫が場所を譲って、膝をついて五郎の腕から北野を受け取った。

「肩ぐらい貸すぜ、兄貴」

「自分一人で立つぐらいなら大丈夫だ。……とと」

「ああもう、無理をするなって。まったく兄弟そろって意地っ張りだな」

 永行が呆れて自分の肩に五郎の腕を回す。紫が苦笑を向けてきて、広も苦笑を返した。

「鳥も……減ったな」

 見回して紫は眉を曇らせた。井和が一礼する。

「それもまた戦いの常。大願を果たせましたゆえ、散った鳥も本望でございましょう。渡し守も戻りました。迷うこともございますまい。お心にかけていただき、ありがたく存じます」

「そうか。……おおきにな」

「とんでもない。こうして再び蝶の姫と龍の君に拝謁し、ご懇篤なるお言葉までいただける日がこようとは、あの日には夢にも思えぬことでございました。むしろ俺のほうこそ、お礼を申し上げたいほどです。あれほどの苦辱を経て、よく、地上へお戻りくださいました」

「自分も、思うところがなかったわけやないからな」

 やや苦笑まじりに言って、紫は広を振り返る。

「戻ろか」

 笑んだ翠の瞳に、広は頷きを返した。

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