17 名


 ひとまず相談はまとまり、明紫と北野は咬を従えて三階へあがる。三階の手前には数人の鳥が陣取っていて、彼らが上がっていくと左右へ分かれて丁重に頭を下げた。

「大嗣の部屋へ行ってもいい?」

 階段を上がりきったところで北野がややためらう口調で訊ねた。ちいさく首を傾げて、明紫は頷いた。

「ええよ? おいで」

「ありがとう」

 ちょうど五郎が裏階段から三階へあがってきて、状況を理解したらしく咬に会釈をした。

「ちょっと、ごめんね」

 部屋に入って戸を閉じると北野がそのままそこにいて、手を伸ばしてきた。北野にしては珍しいほどおずおずと咬の左胸に手を当てる。さすがに耳を寄せては来なかったが手に伝わってくる体温と鼓動を真剣な顔で確かめている。

ゆかりと同じことをする」

「やっぱり、……もう狗ではないんだね」

 苦笑すると、呟くように言って北野は手を離した。微笑して立っている明紫のところまで行って、明紫の背に腕を回して抱き締める。明紫の肩に額を押し当てた。

「よかったね、大嗣」

「おおきに」

 頷いて、明紫も北野の背を抱き返す。

「まあ、どういう仕組みになっとるのかは、分からんのやけどな。お姫さんにはどんなふうに見える?」

「光が入ってる。それしかわからない。大嗣が安心した顔をしているし、ずいぶん甘えるから、きっといい方に収まったんだろうなと思ってはいたんだ。でも、やっぱり自分で確かめたくて。ごめんね、勝手にさわって」

「広は気にせんよ。な」

 明紫の視線に咬も頷きを返した。北野が読もうとするかのように明紫の顔を見る。

「名前を、変えた? 今、大嗣のことも違う名前で呼んだね」

「戻した、やな。でも表向きは戻さんよ。今の名前使うとるほうが長いしどうせ呼ぶのはお互いだけや」

「そう。いいね。……でも困ったな。今さら大兄と呼ぶのは抵抗があるし、なんて呼ぼう」

「好きにすればいい」

「それが浮かばないから困ってるのに。……あ、そうだ」

 問う視線を受け流すと北野はふくれつらになって、そしてふと目を輝かせた。

「ねえ、口をあけて?」

 明紫の傍らへ戻った咬にふいに顔を近づけて、のぞきこんでくる。わずかに、咬は背をそらしてその顔から顔を離した。

「……なぜだ」

「あ、びっくりしてる。牙はまだあるのかなと思って。ある?」

「……」

 言われて、思わず口元へ手をやった。己の内側の感覚を確かめる。

「ある」

「じゃあ、牙にしよう。おまえは今日から大嗣の牙だ。……どうかな、大嗣」

「ああ、それはええね」

 明紫は瞳を和ませた。得意そうに笑って北野は明紫を放し、窓辺へいって出窓にかるく寄りかかる。ふと、表情を変えた。

「今さらだけど大嗣」

「うん」

「僕のところにきたのって、大嗣がした?」

「いいや」

「……やっぱり僕か」

「そうやと思うよ」

 明紫も椅子に腰をおろした。

「なんにも、覚えてないんだよね」

 窓の外へ目をやって、北野は独り言のように言う。

「狗が死んでしまう、って思ったんだ。そんなこと、絶対にだめだ、って――そうしたら、僕は僕が大嗣になったのを見ていた」

「自分は、お姫さんが叫んだんが聞こえて、そしたらあそこにおった」

「もう一度できればいいのにな。僕はあいつを攻撃できないけど、僕に大嗣が入っていれば僕の知ってる術は全部大嗣が使えるのに」

「そうやね」

 明紫もうすく笑う。

「ちゃんとゆうてなかったけど。あの時呼んでもろて、ほんま、感謝しとる」

「……うん」

 小さく頷いて、北野は淡い笑みを浮かべた。

「そうだね、一度できただけでも奇跡だったんだから、贅沢を言っちゃいけないね」

「そういう意味と違うよ、お姫さん」

「……うん。ありがとう」

 視線を伏せて、北野はこくりと頷く。

「だめだね、それぞれにできることは違うんだって、ひとには言えても自分のことだと割り切れない。……憂さ晴らしに五郎をしごいてくるよ」

「それは自分にはでけんことや。頼んだで、お姫さん」

「任せて。弟の操縦は得意中の得意だ」

 ようやくいつものいたずらっぽい笑みを取り戻して、北野は立ち上がって居間を出て行った。



 山鳥一党がならず者に囚われの身となっていた太夫北野の監禁場所を探り出し、無事に救出することに成功したのは、それから四日後のことだった。

 山鳥の護衛のもと永咲館に帰り着いた太夫は窶れた姿を見られたくないのか頭から薄布を被り深く面伏せて、四日前に永咲館を出た時と同じ黒ずくめの姿で馬車から助け下ろされた。

「お姫さん――」

 出迎えた大嗣は自身も心痛に窶れた姿で、よろめく太夫を抱き抱えるように支えて自らの執務室へ導いて行った。

「……そりゃあ僕が行くわけにはいかなかったけどさ」

 執務室で待っていた北野は大嗣に支えられて入ってきた「自分」の姿にうんざりした顔になった。

「もう少しなんとかならなかったの、それ」

「えっと……すんません」

 被っていた布をとって、「それ」呼ばわりされた猫がしゅんと身を縮めた。服だけは確かに数日前の北野の装いに近いが、布を被っていてもとても北野には見えなかった。

「まあ、許してやってくれよ」

 永行が苦笑する。

「かろうじて太夫と背丈が近くて比較的細っこいのがそいつしかいなかったんだ」

「まあ、助けてもらう身じゃ文句は言えないけれど。僕が助け出されたところは、何人もに見せたんだろう? 太夫大丈夫か、しっかりしろ、とかなんとか、大声で言いながら。あれが北野か、なんて思われていたらいやだなあ。まだ永行がやったほうがもう少しは雰囲気が出たんじゃないの」

「俺は奪還部隊の先頭にいたからそれは無理だな。なにせ攫われたのは俺の想い人だ。山鳥だけに任せてはおけん」

 にやりと言って永行は北野の手をとり、その手の甲に唇を触れさせた。その手から自分の手を抜き取って、北野は猫を見る。

「顔は見られてないよね?」

「あっ、へい! それはすげえ気いつけてたんで」

「喋ってもいないね?」

「ひとことも口きいてねえっす!」

「そう」

 頷いて、北野はにこりと唇の端を上げた。

「ご苦労さま。よくやってくれたね。ありがとう」

「っ……と、とんでもねぇっす!」

 猫は一瞬息の止まったような顔になって、そして真っ赤になって床につきそうなほど頭を下げた。ふと、北野が微笑む。

「鳥には言ったけれど、おまえの姫さまじゃなくてごめんね」

「いっ、いえっ!」

 猫は硬直してぶんぶんと頭を左右に振った。

「おっ、俺っ、俺が勝手に言ってた、だ、だけなんでっ! な、なんか勝手にそんなこと言っててすんませんでした!」

「いいんだよ。おまえの憧れの姫に似ているなんて光栄だ」

 にっこりすると猫が茹で上がったように真っ赤になる。

「あの、ほんと、すんません、俺なんかが……北野さまの、代理で……」

「おや? ……なんだ、本気にしちゃったの?」

 くすっと笑って、北野は猫の顔をのぞきこむ。

 永行が天井を仰いだ。

「冗談に決まっているだろう。感謝しているよ」

「は、はひっ! も、もったいないっす!」

 ぶるぶるっ、と、猫は頭を振った。

「あ、あっ、あのっ!」

「うん?」

「ひ、姫さまかどうかとはぜんぜん、別で! き、っ、北野さまはっ! お、っ、おきれいですっ!」

「……」

 きょとんと、北野は猫を見る。そしてふわりと柔らかく笑った。

「ありがとう」

「にゃ、……にゃあっ!」

 猫は奇妙な叫び声をあげ、また床にぶつけそうな勢いで頭を下げると執務室を飛び出していった。

「ふふ。おもしろいね、あれ」

「……太夫」

 笑った北野に永行が大きなため息をついた。

「あまり酷なことをするなよ」

「してないよ」

 苦言に北野が苦笑する。

「たまには純粋に慕われるのも悪くないと思っただけ」

「だから、それが酷だと」

「好意を感じてそれを素直にあらわしちゃいけないの?」

「……いや、そういうわけじゃ」

「たんにかわいいなと思ったから笑いかけただけだよ。金を出すわけでもない相手を手管にかけたって意味がないだろ」

 たじろいだ永行に北野はうすく笑う。

「僕はそういう無駄はしない。手管は金を落とす相手に仕掛けるさ。……五郎、今日のあるじは誰だっけ」

「辻崎さまだが」

「……あのひとか」

 北野は考える顔になった。

「兄者?」

 五郎がいぶかしげに北野を見る。

「今日の今日だぞ?」

「だって、あの人には前も悪いことをしたじゃないか。何度も失望させたくないよ」

「いや、しかし」

「だいじょうぶ。しつこい人じゃないし、お迎えするよ」

「兄者」

 訴える弟の声に、北野はかるく唇を尖らせる。

「なんだよ、その顔」

「今日の今日もだが、――あれからまだ十日も経っておらぬのだぞ」

「大丈夫だってば。……いいよね? 大嗣。見世に出ても」

「兄者。大嗣を味方につけるのはずるい」

「べーだ」

 兄が弟に舌を出してみせる。弟は苦い顔をした。

 弟の言うとおり、北野が大父に地下へ連れ込まれたのは六日前のことだ。それから数日で暴漢に攫われて永咲館には表向きいないことになったから、北野はずっと見世に出ていない。昼間は部屋にいるかこの執務室へ降りてきているかで常と変わらぬ様子には見えるが、弟がそういう顔をするからにはじつは回復ははかばかしくないのだろうか。

「かまわんけど。無理は禁物やで」

 だが、自分が商品だということを誰よりも強く自覚しているのも、北野だ。北野が見世に出ると決めたならば、明紫はそれを止めることはない。

「ありがとう大嗣。大丈夫、無理はしないから」

 北野がにっこりし、弟はため息をついた。

「……あのひとの会社は東と折り合いがよくないしね」

 うすく笑ってつけたした言葉に、永行がはっと目を見開いた。

「ほかのたちがやって、僕がやって悪い道理はない。使えるものは使うべきだよね。……そうだ、鳥の檄文に合わせて僕も客たちに付け文をしよう。四家と利権の食い合いをしている客なんて僕の客のほとんどがそうだ」

「そうか……。武力で抑え込むことしか考えてなかったが、そちらからも攻められるな。さすがだ、太夫。頼めるか」

「もちろん。僕が言い出したことだよ。……紙は足りるかな。今度こそうんといい紙を使わないと」

 北野はまだ根に持っていたらしい。冷たい視線に永行はそっぽを向いた。

「明日にでも紙屋を呼ぼう。墨と筆もだな」

「そうだね。頼んだよ、五郎」

「ああ」

 兄の微笑に弟が任せろと頷き、もう一つ永行がため息をついた。



 北野は誰が見ても顔色があまりよくなかった。瞳の光もやや弱い。時折ふっと、瞳が焦点を失う。

 無理もないだろう。何日もならず者に人質にされていて、今日ようやく救出されて永咲館へ戻ったばかりだ。それでも何日も見世をあけて心配をかけてしまったからと、娼妓たちにも、馴染みではなくとも登楼する客たちにも、無事な姿を見せたいと差配の反対を押し切って見世に出てきたのだった。

「北野」

「あ。……主」

 かけられた声にはっと顔を上げて、弱く笑う。

「ごめんね、迎えに行かなくて。ちょっと、ぼんやりしてしまってた」

 謝りながら客の差し出した手に自分の手を乗せて立ち上がる。

「たまには私が迎えに行きたいと思っていたんだ。初めて登楼した時だけだったからね、こうしておまえの手をとったのは」

「そうだった?」

「そうだとも。……恐ろしい目に遭ったと聞いたよ」

「うん。今日ようやく帰って来られたんだ」

「今日? 休んでいなくて大丈夫なのか」

「五郎にはうるさく言われたけれど」

 用意されていたテーブルで控えていた五郎をかるく睨む。五郎は目を伏せて客に一礼し、黙って北野のために椅子を引いた。

「でも、主に会いたかったから」

 視線に情愛をにじませて、やはり席についた客の手に自分の手を重ねる。

「それにずっと一人にされていたから、一人で部屋にいるとこわくて心細かったのを思い出してしまって、落ち着かないんだ。誰かが近くにいてくれるほうが安まるよ」

「そうか。では謹んで、おまえの手を握っている役目を承ろう」

「ありがとう。嬉しいよ主」

 とろけるように、だが今にも消えてしまいそうな儚さを漂わせて北野は微笑んだ。


「なるほど猫に見せた笑顔は手管ではなかったわけだ」

 裏へ戻ると永行がしかつめらしい顔で腕組みをしていた。五郎は苦笑する。

「これからも登楼するつもりならそういったことはあまり見分けがつくようにはならんほうがよいぞ」

「ああ、それはそうだな。……いいのか?」

「うん?」

「俺が登楼あがっても」

「兄は娼妓で、末どのはお客様だ」

 敢えて永行とは言わずに答えた。

「お客様が馴染みの娼妓のもとへ登楼られるのによいも悪いもない」

「……そうか」

 永行はさらになにか言いたげな顔だったが言わずに頷いた。

 五郎はサロンへ視線を戻す。兄は客とグラスを合わせて乾杯し、何か言葉を交わして微笑んでいる。小さく割ったクラッカーに前菜を乗せたものを差し出されて客の手から食べ、嬉しそうに笑った。片手はずっと客の手に預けたままだ。よく見れば客の手を握る手にはやや不自然な力が入っていて、さらに目を凝らせばあまり人目につかないようにされているもう一方の手はかすかに指先が震えている。

 いつもながら見事な加減だと、五郎は深いため息をついた。


 体調を気遣って添い寝ですませようと言った客にむしろ北野がねだって床入りをした。ことが終わってからも二人はしばらく睦言を交わしていたが、やがて客は寝入ったようだった。静かに、北野が起き上がる。ちらりと視線を送ってきたのでそっと近づいた。

「大丈夫か」

 低く囁くと北野は小さく頷く。伸ばされてきた手を握ってやった。すがるように握りしめられて、もう片手も添えて兄の手を包み、力をこめて握った。

 北野は静かに、だが深く息をついた。

「ありがとう。もう大丈夫」

「体を清めるか」

「ううん。外に出してくれたから平気」

「そうか」

「水をおくれ」

「おう」

 頷いて水差しから水を注いでやった。客に出したものとは別に用意しておいた湯冷ましだ。冷たい水がいいのにとよく文句を言われるのだが、今日は北野は文句を言わずに水を飲み、あいたグラスを差し出してかわりに五郎の渡した紅入れと鏡を受け取った。紅を差し直して、もうひとつ息をつく。

「寝るね。おまえももういいよ」

「わかった。俺はもうしばらくここにおるゆえ、何か用があれば呼ぶがよい」

「……うん」

 北野は半ば苦笑のような表情を浮かべ、だがどこか泣きそうな目で頷いた。五郎は微笑して頷いてやり、北野が再び横になるのを助けてやった。部屋の隅へさがって、控える。

 うす闇をすかして、客に体を寄せた兄の裸の肩がほの白く浮かび上がっているのが見えた。肩に力が入って緊張しているのがわかる。

 このところ、北野はあまり眠れていない。体の芯がいつも冷えてこわばっており、五郎が抱いていてやると少しまどろむのだがすぐにびくりと目を覚まして怯えた顔で周囲を見回す。あるいはかすかな悲鳴をあげて飛び起きる。

 それは、大父の二度目の呼び出しに応じるふりで山鳥に「攫われて」永咲館に戻ってからのことだ。

 兄は何も口にはしないが、たぶん不安なのだ。体裁は整えてあってもそれが嘘であることは自分が誰よりもわかっている。誓いを破ることで失われるのは五郎の命だ。いつか、突然に五郎の命が何者かによって奪われてしまうのではないかと怯えている。

 五郎自身は、むしろ自分がいつまでも兄の枷になるのであればいっそさっさと天罰に落ちてもらって兄をこの不本意な誓いの軛から解き放ちたいくらいだが、五郎がそういう理由で死んだら兄も生きてはおられまい。命を捨てないまでもおそらく正気を保ってはいられないだろう。

 そんなことを招くわけにはいかない。

 兄の憂いを恒久的に除く方法はひとつ。

 大父そのものが斃れればよい。いや、そのほかに道はない。

 それはおそらく、兄も大嗣も、一度も考えなかったことというわけではないだろう。ただ、大嗣は力を使うことはできず、兄は大父に叛くことができず、五郎は力を使うどころかまがものを見ることも感じることもできなかった。おそらくは大兄にもそうした制約がなにかあったのだろうし、大父じたいの力も強大で、太刀打ちのしようがなかったのだろう。

 だが、今なら。

 大父の力は弱まり、永行や山鳥たちが合力してくれることになり、五郎もわずかながら力を扱えるようになった。

 永行の言うとおり、起つ好機なのだろう。

 だが、それだけに兄の怯えと緊張が日に日に増していて、五郎はそれが痛ましくてならぬ。

「……五郎」

 囁くように、かすかな嗚咽のように、北野が呼んだ。音を立てずに近くへ寄る。こちらに背を向けて客に寄り添った腕をそっと叩いてやるとこわばった体からわずかばかり力が抜ける。だが、緊張をほぐしてやるにはあまりにも足りない。

 結局、いつまでたっても己にできるのはたかだかこの程度のことでしかない。

 そう思うと胸が苦くてならなかった。



 北野の「救出」から二日ほどが経った、午後のことだった。

 なにやら階下でどたどた、ばたん、がしゃん、と派手な音がした。

「お頭ーっ! おかしらああああああっっ! 北野さまあーーーっっ!」

「えっ」

 響いただみ声にいきなり名前を叫ばれて、五郎に爪を磨かせていた北野が目を見開いた。

「なに……?」

「猫の声だな、あれはたぶん」

 五郎も手をとめて周囲を見回す。

「おかしらーーーっ! 北野さまーーーっっ!」

 なおも猫は叫び続けている。お頭、というのは井和のことだが、なぜそこに北野の名が並ぶのか。

「……仕方ないな」

 まだ困惑の表情のまま、北野が五郎の手の中から自分の手を抜いた。

「いってみよう」

「そうだな。ここで首を傾げておるより行ってみたほうが早い」

 五郎も頷いた。立ち上がって、北野が立ち上がるのに手を貸す。

「……ねえ、五郎」

「ん」

「一緒に下へいって」

「……わかった」

 おそらくはあの声の大きさなら大嗣の部屋にも猫の叫びは聞こえているだろう。大嗣も、大兄とともに様子を見ようと部屋を出てくるはずだ。だから五郎が傍らに控えていなくてもいいだろうと、そうは思ったのだが。

 あまりにも兄が不安げな顔をしていて、俺は使用人だから裏からおりる、とは、とても言えなかった。

 部屋を出ると、やはり大嗣と大兄がこちらへやってくる姿が見えた。

「あ――お、おい、兄者」

 ならばここは大嗣を待って一緒に下へおりていくべきなのだが、見えていないわけはないだろうに北野は足早に階段を下りていってしまう。慌てて呼んでも兄は足をとめず、仕方なく五郎は二人に急いで会釈をして兄を追った。

「!」

 階下の様子が見えるところまで階段を下りて、北野が鋭く息を呑んで棒立ちになった。

「どうした、兄者。……っ!」

 追いついて北野の見ているほうへ目をやり、五郎もはっと息を呑んだ。北野が弾かれたように階段を駆け下りていく。

「永行っ!」

「あっ、き、北野さまっ!」

 サロンの入り口で横ざまに倒れている永行の傍らにへたりこんでいた猫が泣き声をあげた。

「どうしたんだよ。何なの、これは」

 永行は真っ青な顔色をしていた。唇も紫色になっている。口の端には血がこびりついていて、黒に近い濃い紫のシャツからははっきりとはわからなかったが、その肩の下にはじわりと血が溜まりを作りはじめていた。

「す、すんませんっ、俺、俺……っ!」

「落ち着け、猫」

「お、お頭ぁ」

 井和が姿を見せて、いっそう猫が顔を歪める。ぽんと頭をかるく叩いてやって、井和は永行の傍らに膝をつく。その肩に手を触れた。

「永行どの――永行どの、しっかり」

「っ、ぅ……」

 揺すらずに声だけをかけると、ぴくりと永行の眉が寄る。

「永行どの? 気を確かに」

「……ああ、井和どのか」

 低く、弱い声ではあったが、答えた永行の声音は見た目から想像したよりはしっかりしていた。

「いかにも」

「いや、すまんすまん。気が遠くなってた。保っておくつもりだったんだが」

「ご無理をなさいますな」

「いや、ほんとに、たいしたことじゃないんだ」

「永!」

 笑って起き上がろうとした永行に北野が悲鳴のような声を上げた。目を眇めて永行がそちらを見る。

「ああ、太夫もいたのか。気がついてなかった。すまんな、見苦しいところを」

「そんなの、どうでもいい。動かないで」

「いやしかし、いつまでもここに転がってるわけに……げほっ!」

「っ……」

 笑った永行が突如咳き込んだ。口元から血があふれて、床に散る。北野が表情を凍りつかせて一歩うしろへ足を引いた。

「おっと、いかん……ごほっ」

「鳥。とにかく、奥へ」

 急ぎ足に下りてきた大嗣が震えている北野の肩を抱いて井和に命じた。小さく頭を下げた井和が猫を促して二人で永行を抱え上げる。五郎は身を翻して奥へ駆け込んだ。ちょうど使用人が薬や包帯といったものを入れた箱を取り出してきたところに行き合って、差し出されたものをありがたく受け取って執務室へ走った。

「無茶をおっしゃる」

「きみが支えててくれれば大丈夫だって」

 執務室へ入るとそんな会話が聞こえた。見ると井和に肩を借りた永行が自分の足で立っている。

「ご、五郎さん」

 へたりこんでいた猫が這い寄ってきて足元にしがみついた。

ながさんが床が汚れるから立ってるって言ってて」

「何をばかなことを」

「いや、だってきみ、こんな見事な絨毯に血のしみなんかつけられないだろう」

 目を剥くと永行は真っ青な顔でへらりと笑う。

 五郎は自分の上着を脱いだ。

「惜しんでもらえるのは嬉しいが、どうぜ来年には敷き替える予定だ。多少早まったところで大差はない。気になるなら俺の上着を貸してやるからここへ寝ろ」

 嘘だったが、実際ひどく汚れたなら新たに買って敷き替えればいいことだ。上着を広げて、井和に目配せする。頷いた井和が永行を促した。実際立っているのでさえ井和の手を借りなければ無理なのだろう。永行はおとなしく五郎の敷いてやった上着の上に体を横たえた。

「御曹司、いったい何をなさった」

 永行のシャツをゆるめながら井和が険しい声で聞く。誰にやられた、とか、何があった、ではなく、何をした、と聞くのか、とわずかな苦笑をおぼえながら、五郎は井和に鋏を渡してやる。傷は背中のようだから切り開いてしまったほうが早い。

「けっこう値のしたシャツだったんだがなあ」

 布を切り裂くのがわかったのか永行が苦笑する。

「どうせこんなに血を吸ってしまっては雑巾にしかならぬ。惜しむならもっと身を慎め」

「ははっ、違いない」

「永行」

 大嗣が、大嗣にしては珍しい硬く険しい声で永行の無駄口を遮った。

「なんでこんなことなっとるんや」

「ああ、そうだった、それを言っていなかったな」

 永行の呼吸が荒くなっていた。ここまで気を張っていたのがゆるんだのだろう。

「東の伯母御のサロンに顔を出したんだ。あいつがいたからちょいと蚯蚓の話をな。それで帰ろうと思ったらずどん、と」

「永行どの――」

「外に出たあたりでやられると計算してたんだが、まさかサロンの中で手を出すとはなあ。伯母御が庇ってくれると思ったんだろうがあのかたは皇統じゃないが都から降嫁してきたかただ。北東の蛮族の蛮行を見逃してくれるはずがない。庇うどころか捕えろ牢へ入れろと気でも違ったような騒ぎになって、俺はそれに乗じて抜け出してきたというわけだ」

 呼吸は荒かったし顔色も酷かったが永行の言葉は相変わらず乱れをみせない。ひと息に語って愉快そうに笑った。

「まったくあいつはいくつになっても惣領になっても中身が伴わないな。じつにつつき甲斐があって面白い」

「永行どの……」

「はは、そんな顔をするなお頭。褒めてくれよ。これで堂々と戦争ができるぞ」

「御曹司……感謝申し上げる」

 シャツの下に、永行は薄手の帷子のようなものを着込んでいた。どちらかといえば痩せぎすの永行が内側に着てまったく体型に影響がなかったのはよほど薄手の、だが襲われた傷を相当に軽減した様子を見るに強靭な素材らしい。だが脇のあたりから井和が鋏を入れるとそれはあっさりと切れた。

「こういう場面のために、ひと筋だけ刃を入れられるようになっておるのです」

 説明して、井和が同じように肩のところを切り開く。現れた背中がずたずたに裂けていて五郎は腹に冷たく重いものが投げ込まれたように感じた。

「ああ――散弾がいくつか入り込んでしまいましたな」

「浴びた弾の数からしたら少ないだろう。さすが最新の防弾チョッキだ」

「性能試験のためにお貸ししたのではありませんぞ」

「はははっ、許せ許せ。……つぅっ」

「少しご辛抱を。猫手伝え」

「へっ、へいっ!」

 短く命じて、井和は上着の内ポケットから小刀を出した。五郎にちらりと目礼する。猫が這い寄って永行の肩にそっと手を添える。刺さっている破片をほじり出す間、永行が不用意に動かないように押さえておくのだろう。

 どうやら二人はこうした処置に慣れているらしいと少し安堵して、五郎も頷きを返した。やっと顔を上げて、兄を探す。とても目が離せなかったが、永行のあの口ぶりと言うことを聞いて兄が怒って叱らないのがじつは気になっていた。

 兄は少し離れたところで永行を見つめていた。顔がこわばって、頬も唇も真っ白になっている。見開かれた瞳が焦点を失っていた。

 これはよくない、と思ったのは直感だった。

「鳥どの。ここはお任せしても?」

「ええ。俺と猫で手は足りますゆえ、どうぞ」

「お願い申し上げる」

 頷いて、立ち上がる。険しい表情で見守っている大嗣の傍らへ寄った。

「大嗣」

「ん」

「兄が少々取り乱しておるようなので、一度、部屋へ連れて戻ります」

 低く囁くと大嗣もちらりと北野を見て、頷いた。

「頼んだ」

「かしこまりました。……兄者」

 意識して朗らかに声を張り、北野に大股に歩み寄って腕を取る。

「ちと話したいことがある。一緒にきてくれ」

「……え」

「こちらだ」

「え? 待って、いやだ」

「いや、急ぐのだ。頼む、兄者」

 五郎の言葉さえ理解できているのか、うつろに呟いて首を振るのを遮り、背を抱いて奥へ促す。隠し階段の戸を開いて兄を押し込んだ。

「え、なに……ねえ」

「よいから俺につかまっておれ」

 呆然と呟くのをいなしてかるく背をたたき、抱き上げた。いやだ、と呟いたまま、北野はだが五郎が自分を抱えあげるのを咎めなかった。周囲の状況を理解できていないのだ。

 そのまま三階まであがり、寝間へ連れて入って寝台に座らせる。あらためて兄の前に膝をつき、兄の手をとった。

「兄者。俺が分かるか。……兄者」

 氷のように冷たく、爪さえ白く色を失った手を握って、辛抱強く声をかける。

「……あ」

 幾度めに呼んだ時だったか。北野がびくりと体を震わせた。

「兄者」

 柔らかく呼んで、あらためて手を握る手に力を込める。

「わかるか。大丈夫か」

「……五郎」

「ああ、俺だ。聞こえるか。俺の手を握ってくれ」

「五郎……」

 北野の手には力は入らず、北野は途方に暮れたような顔で五郎を見る。

 と、その表情が歪んだ。

「僕の」

 ぽつりと言葉をこぼす。

「うん?」

「どうしよう。僕の、せいだ」

「なにがだ」

「永行……永行が、……僕の、せいだ」

「何を言っている」

「弟を」

 北野は喘ぐ。

「おまえのある限り、叛かぬと約す。我が叛かば、我が弟を取るがよい。それが、僕の……」

 呟いて、嘔吐をこらえるように両手で口を覆う。そのまま両手に顔を埋めた。

「兄者」

「どうしよう、僕のせいだ……身代わりにするつもりなんかなかった!」

「兄者!」

 体を丸めて叫んだ北野を強く揺すり、声を張り上げる。

「永行は死んだりせぬ!」

 びく、と北野が体を震わせた。見開かれた瞳が深い闇に沈んでいる。その瞳に五郎は映らない。

「出血はかなりのものだったが、深傷ふかでではない。間近で見た俺が言うのだ。信じろ。だいたい、瀕死の者があれほどぺらぺら話せるものか。――大丈夫だ、兄者。永行は死んだりせぬ。呪いの身代わりなどになったわけではない!」

 北野はかぶりを振った。薄茶の瞳が湧き上がってきた大粒の涙に見る見る濡れる。

「……じゃあ、じゃあやっぱり五郎が」

「俺も死なぬ!」

 叫んで、兄を抱き締めた。腕の中の体がひどく冷たくて、おそろしく震えていて、それが哀れで、そしてどうしようもなく――悔しい。

 なぜ自分はいつもいつも、こんなことしかできぬのか。

 だから、こんなに近くにいるのに、兄は自分一人の苦しみの中に囚われていて、助けを求めてはくれぬのだ。

「っ――」

 兄の顔を両手ではさみ、噛みつくように唇を押しつける。びく、と北野の体が震えた。

 見開かれた瞳と視線を合わせたまま、わずかに開いた唇のあわいから舌を差し入れる。深く侵し、兄の舌を捉えて絡めた。

 呆然と五郎を見つめていた瞳がふっと表情を取り戻した。ようやく、視線が合う。

 瞳と唇を合わせたままゆっくりと身を起こし、寝台に膝を乗り上げる。

「……っ、は」

 わずかに唇の離れたひと呼吸。北野が甘い吐息をこぼした。瞳がとろりと潤んで五郎を見る。

 覆い被さって再び唇を合わせ、深く舌を絡めて、五郎はそのまま北野の体を寝台へ仰向けに倒していった。



 脚に兄が己の脚を絡めてくる。抱き寄せた肩はしっとりと汗ばんで、芯にまだ残る熱を伝えてきた。胸板に細く柔らかな髪がすり寄ってきて、顔を上げた北野が首を伸ばす。五郎もそちらへ首を曲げて兄の唇をついばんだ。

「すごい」

「ん?」

 首を傾げると北野はふふっと笑う。

「今まででいちばん、気持ちがよかった」

「……そうか」

「うん」

 てらいのない言葉にややたじろいで頷くと北野はほうっと甘く息をつく。

「客と寝たのは何千回もあるけれど。契るのって、こんなに気持ちのいいことだったんだね。知らなかった」

 幸福そうな声に胸が詰まって、強く抱き寄せた。

「待たせてすまなかった」

 くす、と笑う吐息が胸板をくすぐった。

「おまえがとことん思い切りが悪くて奥手なことなんて、とっくに知っているよ」

「さんざんな言われようだな。……まあ、反論はできぬが」

 苦笑して、兄の髪に頬を寄せる。

「なあ、兄者。ひとつ、聞いてもよいか」

「へただったか、と聞きたいならへただったよ」

「っ……聞かでものことは聞かぬ」

「じゃあ、なあに」

「兄者の……いや、兄上の名を、教えてほしい」

「え」

「神力は得たが、結局記憶は戻らぬ。せめて、知りたいのだ。……あるのだろう? 明宮あけのみやさまのように、兄上にも。宮の号とは別に、名前が」

「……」

 ふっと、北野は息をついた。

「ちはや」

 ぽつりと、呟くように言う。

「千早だよ」

「美しい名だ」

「おまえは息吹いぶきといった」

「……俺にも、名があったのか」

「あるに決まっている。母上がもうこの世にいらっしゃらないなら、もう、この名を知っているのは僕だけだったのだけれど。……おまえにも、秘密を分けてしまったね」

「? 明かしてはならぬ秘密だったのか?」

「べつにそういうわけじゃないよ。たんに、僕だけが知っていることなんだなって思っていただけ」

「無理を言ってしまったのか?」

「ちがうよ」

 北野はくすくす笑う。

「僕だけの知っていることから、僕とおまえだけの知っている秘密になったのが、嬉しいんだ」

「……そう、か」

「呼んで」

「え」

「僕を、名で」

「……今、ここで、か?」

「聞かれて教えたのだから、呼ばれる権利はあると思うけれど?」

「う……」

 五郎は兄の笑った目から目をそらす。聞きたがったのは五郎なのだし、兄の言うことが正論ではあったが、いざあらためてと思うとひどく動揺する。

「ほら」

「う、うむ……」

 重ねて促されて、抗えず頷いた。

「千早……さま」

「さまはいらない」

「……ち、千早」

「ふふ」

 つっかえながらなんとか口にすると、北野は笑って五郎の頬を指先でつついた。

「真っ赤だ」

「……思っていた以上に恥ずかしい」

「どうして?」

「兄者を、俺だけしか知らぬ名で呼ぶというだけでまるで秘め事のようだし、……まして敬称をつけずに呼ぶなど、その」

「その?」

「……まるで、俺のものだと主張しておるようで」

「おまえのものだろう?」

「そ、っ、……それは、そうだが」

「ふうん。そこは認めるんだ」

「ええっ? い、いかんのかっ? 認めては?」

「あはは」

 慌てると兄は声をあげて笑った。そして五郎の目をまっすぐに見てくる。

「おまえのものだよ、僕は、ぜんぶ」

「……俺も」

 あらためて抱き寄せて、唇を交わす。

「すべて、あなたのものだ、千早」

 囁きかけると、兄は今まで五郎が見た中でいちばん幸福そうな顔で微笑んだ。

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