6章 永咲館の朝

16 決意


 屋敷から使いがやってきたと五郎が報告してきたのは、二日たった午後早くだった。

「見んわけにいかんのやけど」

 五郎に下へ下りると答えて先に帰してから、明紫は重く息をついた。

「見とうないなあ」

 そう言って、そしてふと苦笑を浮かべた。

「こういうことなんやな」

 独り言の意味をつかみかねて咬が首を傾げると明紫は苦笑を咬に向ける。

「お姫さんが自分は弱くなった、ゆうてたの、こういうことなんやな、って」

 呟くように言って咬の肩にこつんと額を当てる。

「誰かおると、つい弱音やらゆうてしまう。あかんね」

「言えばいい」

「……おおきに」

 うすく笑い、明紫は咬の手を探ってかるく握る。

「行こ」

 そう言って手を放した明紫に頷いて、咬は戸を開けるために先へ立った。

 階下の執務室には明紫が集めるように指示したのを受けて今朝には無事床を出られるようになったという北野と五郎だけではなく井和と、そして結局あのまま山鳥にまじって永咲館にとどまっている永行も姿を見せていた。デスクに向かい、明紫は五郎から受け取った奉書を開封する。目を通して、顔を上げた。

「……お姫さんに奥まで来い、ゆうてはる」

 明紫の静かな声に、集まった顔ぶれがそれぞれ緊張を浮かべる。

「太夫北野様、大父に対し奉り重大なる背逆の疑いありとのお言葉あり。逆心なくばただちに御身お一人にて奥の院まで参られ大父にその旨申し述べ身の証を立てられよ、だそうや」

 奉書を簡単に畳んで、デスクへ投げ出す。

「……それは、訪ねていってこの間は申し訳ありませんでした、って言えば終わることなのか」

「まあ、無理やろうね」

 永行の苦々しい声に明紫も苦そうにため息をつく。

「行ったら、帰ってこれへんやろ」

「……行くよ」

「太夫!」

 静かに北野が言って、永行が咎める声をあげた。だが北野はかぶりを振る。

「誓いがある。逆らうわけにはいかない。……もとはといえば、僕が命汚く抵抗したのが発端だ。幸い、ほかにお咎めはないようだし、僕が出向けばすべておさまる」

 ほかに、と言った時、北野の視線がちらりと咬を見た。

「お姫さん」

「いつか必ず来た日だよ、大嗣」

 北野は微笑する。

「この間はいきなりだったから取り乱してしまったけれど、もうだいじょうぶ。見苦しいことはしない」

 明紫の目を見てそう言い、北野は右手を左胸に当て、片足を引いて優美に頭を下げた。

「弟をよろしく。今まで、僕を慈しんでくれてあり――」

 ぱん! と鋭い音がして北野の言葉が途切れた。

「いい加減にしろ!」

 北野の頬を張り、怒鳴ったのは五郎だった。腕をつかんで乱暴に振り向かせた北野を険しく睨みつける。

「兄者はそれで義務を果たしたつもりになれて満足かもしれぬしどうせ死んでしまえは悔いなどあとに残らぬと思っておるやもしれぬが。そう言われて大嗣が晴れ晴れと兄者を送り出すと思うのか! これで災いは除けた、一件落着よと喜ばれると思うか!」

 北野の唇が震えた。何かを言おうとわずかに動く。五郎はそれを鋭く遮る。

「言うてみよ。兄者を犠牲に捧げて大嗣が、弟のごとく己が分け身のごとく兄者を愛し慈しみお護りくださった大嗣が! ああよかった助かったせいせいしたと、お思いになると思うのか!」

「……ご、ろう」

「俺が兄者を何も思わず送り出すと思うか! 永行がそいつはいい、頼むぞ太夫と、言うと思うか! 兄者をここで送り出さねばならぬのなら、――雛瑠璃はなぜ死なねばならなかった!」

「だ、って……」

「遺される者のことを考えろ! 俺とてこのまま兄者を見送ったらいつかは大嗣をお恨みしてしまうやもしれぬ。兄者はそれでよいのか!」

「っ……――」

 北野の顔が歪んだ。

「いいわけがないだろう! でも、だったら僕にどうしろって言うんだ!」

 きっと五郎を睨みつけて、北野は叫んだ。

「死にたくない行きたくないって泣き喚いて駄々をこねろって言うのか! そうしたらどうなるかわかるのか、おまえ! 僕のかわりに、大嗣があいつに喰われにいってしまうんだぞ! 僕が大父に背いたら、おまえが死ぬんだぞ! おまえは僕に大嗣を身代わりに差し出しておまえを死なせて、それでのうのうと生き延びろって言うのか!」

「っ……」

 北野の剣幕に、五郎が言葉に詰まって後じさった。

「大嗣が喜んで僕を行かせるわけがないことなんか、わかってるよ! 大嗣が今まで、何人を見送ってきたと思ってるんだ! 雛瑠璃に薬を飲ませて、あいつの寝床に置いてきたのは誰だと思ってるんだ! 大嗣が喜んでそんなことをすると思うのか、おまえは! 今まで、どれだけ大嗣が一人きりで心を痛めてきたと思ってるんだ! だから――だから自分の時は、せめて見苦しいところを見せないようにしようって、少しだけでも大嗣の傷が浅くすむようにって、そう決めて」

 北野の声が詰まった。唇を噛み締めて震わせ、懸命にこらえようとして、それでもこらえきれなかった涙が頬へ落ちる。

「だからおまえには知られたくなかったんだ。おまえが黙って残されてくれるはずがないって、わかっていたから――必ず、僕は行かなくちゃいけないから、だから」

「……あに、じゃ」

 両手に顔を埋めてかすかな嗚咽をこぼして肩を震わせる兄に、五郎は後悔と罪悪感に苛まれた顔で表情を歪める。

「……その、すまなかった」

 おずおずと言って、北野の頬に手を添える。

「俺が浅はかであった」

「よくも僕を人前で泣かせたな」

「すまぬ。許してくれ」

「許さない」

「兄者。頼む」

「ばか」

「悪かった」

「おまえなんか嫌いだ」

「あ、謝ったではないか。嫌わんでくれ」

「悪いと思ってるなら抱きしめて慰めるぐらいのことをしたらどうだよ」

「……あ、ああ」

 ぎこちなく、五郎が北野の背に腕を回す。引き寄せられて、いっそう北野の肩が震えた。その背中を、五郎はそっと撫でる。

「すまなかった」

 北野は返事はせずに、五郎の肩に頭を押しつけた。

「……けど、五郎の言うことも一理ある」

 明紫がゆっくりと言って、立ち上がった。

「お姫さんが引き受けてくれて、自分で手ぇかけたわけやなかったけど。あの仔犬がどんだけお姫さんのこと慕うてたか、どんだけ信じてたか、はたで見てるだけでもようわかった。あれやったらきっと、今から化け物に喰われてくれんか、ゆうても、頷いたやろう。手放すの、お姫さんもどんなにかつらかったやろ、て思うたら、あれをお父はんとこ置いてくるのは――ほんまに胸が痛かった」

 北野の傍らへ行って、そっと北野の髪を撫でる。

「あれから、まだ半年も経ってへん。なのに今度はお姫さんや。いつかは来る日や、て、自分もわかってたつもりでおった。諦められたつもりでおった。……けど、いやや」

 北野が顔をあげた。まだ濡れた瞳が大きく見開かれて明紫を見る。

「どれほど胸が痛うても、仔犬はまだ諦められる。いつかは忘れるかもしらん。けど――お姫さんはいやや。お姫さんはあかん。広とは別の意味やけど、やっぱり自分のかけがえのない半身はんみや。失うわけにいかん」

「大嗣……」

「永行」

「おう」

 明紫の視線を受けて、永行が返事をする。

「お父はんは神としての力を失いつつあるんやないか。そう言うたな」

「言った」

「それは、自分らがどうにか踏ん張ったらお父はんのこと倒せるかもしらん、ゆうことやろか」

「絶対とは言わんが、可能性はあると考えてる。大嗣」

 永行は一歩、足を踏み出した。

「この間はそこまで話ができなかったが、あらためて聞いてほしい。俺と山鳥は、大父を誅伐する計画を立てている。これは前に太夫には言ったが、俺は、大嗣を搾取し果てには喰い殺し、罪もなく大父に喰われる生贄たちの無数の屍の上で繁栄している、この大淵という街のいびつな仕組みをぶっ壊したいんだ。大嗣と太夫を、最後の犠牲者で、はじめての生還者にしたい。大淵はもう大父も四家も必要としてはいない。先日も言ったが大父の神格がゆらぎ、四家も相次ぐ代替わりでまだ落ち着いていない今が最大の好機だ」

 強い視線が明紫と北野を見る。

「もう、終わりにしようぜ。――太夫。ここできみが行ってしまったら次は大嗣だ。きみはいいのか、大嗣をあの化け物に差し出して」

「いやに決まってる」

 即答した北野の声はいつもの張りを取り戻していた。腕に添えられていた明紫の手に自分の手を重ねる。

「僕の命は、まあ、どうしても最後に手が詰まったらあいつに与えてやってもいいけれど。大嗣は絶対にだめだ。僕が時間を稼げばきっとそのころまでには永行と鳥が何かやって大嗣の安全は確保してくれるだろうと思ったのに、僕を見送ったら心が折れて次は大嗣も差し出すなんていう腑抜けだったなら素直に蝦蟇のところへ行くわけにはいかない」

 北野らしい辛辣さを取り戻した物言いに、永行がにやりと唇の端をあげた。

「うん」

 明紫が頷く。

「もう、お父はんにはなんも渡さん。……鳥」

「は」

「永行」

「おう」

「頼む――自分らに力を貸してほしい」

「必ず御意に添えますよう、全霊をもって働くでありましょう」

「任せてくれ」

 井和は跪いて深く頭を下げ、永行も真顔で頷いた。

「で、まず目の前の問題は、その呼び出し状だが」

「俺に献策がございます」

 顔を上げた井和が言った。

「御子は、大父に背かぬという誓いを立てておられ、これを破ることはおできにならない。これは正しい認識でしょうか」

「うん」

 北野が静かに頷いた。

「では、御子は先ほどの御心のまま、その責務を果たそうとなされませ。自動車はあまりよくはございませんな。馬車か、俥をお使いになられるのがようございましょう」

「……うん」

 いくらか訝しげに、だが北野はひとまず話を聞こうと思っているのか頷く。

「その途中、御幸ぎょこうのお乗り物が武装したならず者の集団に襲われ、御子が自由を奪われ拉致されておしまいになったとしても、それは御子の意思による不服従ではございません」

「……」

「そしてそのならず者連中が太夫の命を盾に永咲館になだれ込んできて立て籠もったりしたら、大父が心をかける太夫の命を惜しんで、大嗣もどれほど不本意であってもならず者どもに従うしかないよな?」

 永行がにやりと引き取って、片目を閉じた。

 明紫は珍しいことにぽかんとしていた。ひと呼吸おいて、肩を震わせて笑い出す。

「それは……とんでもない話やけど、そうなったら自分も涙を飲んでならず者の要求に従うしかないなあ。お姫さんも、どんなに行きとうてもお父はんとこ行かれへんね」

「いかがでしょうか、御子」

 北野はこれも珍しく、途方に暮れた顔をしていた。丁重に頭を下げた井和を見、にやにやしている永行を見、そして明紫を見て、明紫の微笑と頷きを受けてまた二人に視線を戻す。

「きみたちさ」

「ん?」

「なんでございましょう、御子」

「――ばかだろう」

 永行が爆笑した。

「あ、兄者、それはさすがにいかがかと思うぞ」

 五郎がたしなめる。

「鳥どのも永行も、兄者のために智略を巡らせてくれておるのではないか」

「にしたって、無謀が過ぎる」

 唇を尖らせて、北野は永行を睨んだ。

「このお調子者たちは、いざとなったら自分たちが僕誘拐の犯人として追われ捕えられて処刑されてやると言ってるんだ」

「えっ」

「いやまあ、どうしてもという流れならそれもやぶさかではないが、そこまでのことにはならんだろうよ。心配しなくていい」

「絶対だな? そういう生贄の肩代わりをされるのは寝覚めが悪いからいやだぞ」

 北野に睨まれて、永行は苦笑を浮かべた。

「わかったよ。それは、約束しよう」

「……わかった。ならおまえたちに誘拐されてやるよ」

「では、御子にはご出立を願いましょう。ただちに、というお言葉でしたゆえ、あまり引き伸ばすのはよろしくない。お支度も必要でしょう。その後の詳しい策につきましては、我らが永咲館に押し入ったのちにご相談を」

「そうやね。そうしよう」

 明紫が頷き、北野も頷いた。



 衣装は、飾り気のない黒を選んだ。黒のパンツに黒い華奢な革靴。ふだんはあまり着ないプレスの効いたシャツを、黒瑪瑙のカフスでとめる。

 賊に襲われて攫われる時に動きやすいように。

 紅は茶に近い沈んだ赤。シャツの襟元はあけて小粒の黒真珠を連ねた短めの首飾りをつけ、揃いの耳飾りをつけて、最後に黒いヴェールのついた帽子と黒天鵞絨の手袋で仕上げることにした。

 狂言といえど支度に手は抜かない。表向きは死装束なのだからそれなりの姿でなければ芝居だと見抜かれる。

 着付けを手伝っていた五郎の手がふとのびて、そっと頬を包んだ。

「まだ、腫れが残っておるな」

「容赦なくやったもんね、おまえ」

 部屋へ引き取ってからしばらく氷で冷やしてはいたが、そう時間をかけるわけにもいかない。腫れを完全におさめるには時間が足りなかった。

「すまぬ――本当に悪かった」

「いいよ、もう」

 またしゅんとなった五郎に苦笑して、五郎の手に自分の手を重ねる。

「どうせ蝦蟇のやつはそんなところ見やしないし、そもそも僕はこの顔をやつらの誰にも見られないまま山鳥に拐かされるんだから」

「……そうだな」

 五郎も笑った。それを見て、北野も微笑む。

「ん? ……なんだ、兄者」

「なんだ、って?」

「そんなにしみじみと俺を見て」

 くす、と笑いがこぼれた。

「おまえは、僕がおまえの考えていることをやすやすと読むと嘆くけれど。おまえだってずいぶん僕を読むじゃないか」

「そ、そうか? いつも読みたがえて失敗ばかりしておると思うのだが」

「そんなことないよ。……やっと、おまえの笑い顔が見られた、って思ってた」

「あ」

「さっきからずっとしょんぼりしていたから、笑ってくれてうれしい」

「……兄者」

 五郎の顔が歪んだ。瞳が潤み、涙をこらえる顔になる。笑った顔が嬉しいと言ったばかりなのに、とほんのすこし胸の中で苦笑したが、それが顔に出るより先に五郎は表情を引き締めて北野を見つめた。

「え……?」

 じつは見ることのあまり多くない五郎の真剣な顔に、北野はわずかにたじろぐ。五郎のもう一方の手が背に回って自分を抱き寄せ、その真顔が間近へ近づいてきて、思考が停まった。

 唇が触れ合う。視線を合わせたまま柔らかく押しつけ、二度目はかるくついばんで、少しだけ顔を離した五郎がふっと瞳を和ませた。

 再び唇が重なってきて、北野は吸い込まれるようにうっとりと瞳を閉じた。

 長く、深く、甘い口づけ。五郎の背に手を回して力をこめると、五郎の腕も力強く北野を抱き締める。

「……なぜ、泣く」

 唇が自然と離れて、目をあけた五郎がほのかに苦笑の混じった微笑を浮かべた。瞳を潤ませたまま、北野も笑みを返す。

「嬉しいからに決まってる」

 それこそ、何百人もの相手と何千回も抱き合い、唇を交わしてきた。接吻にこめられた思いを読み解くことなど容易だ。まして相手が五郎であれば。

 ためらいも、気後れもなく。まっすぐに伝わってきた情愛が、全身を喜びに震わせる。

「今まで、すまなかった。だが――」

 五郎が真顔に戻る。

「今は、これ以上はせぬ」

 ぱちりと、北野はまばたきをした。口を開く前に五郎が先を続ける。

「この苦難を乗り越え平穏な未来を手に入れたのちに、あらためて兄者に求愛する。……そうすれば、決して死ぬものかと思えるからな」

「ええ」

 ぷくりと、北野は頬をふくらませる。

「そこは出陣を前にしてこの世の名残りに契りを、じゃないの」

「それは生還が危うい時のことだろう。いや、危うかったとしてもだ。俺は生き延びる。必ず」

「それじゃ、僕も未練が残って死ねないじゃないか」

「死なれては困るから言っておるのだ。兄者は己の命を軽く扱いすぎる。先ほども、あれほど言ったあとだというのに自分はいざとなったら餌になってもよいなどと言ったではないか」

 拗ねた顔にかるく睨まれて、北野は喉を鳴らして笑った。

「ごめんごめん。わかったよ――せいぜい生き汚くあがいてみせよう。頼んだよ、僕の神将」

「任せておけ」

 太い笑みを浮かべ、五郎はもう一度北野の唇をついばんだ。



「お帰り」

 苦笑して、明紫が腕を広げた。

「ただいま」

 北野も苦笑を浮かべて、明紫の腕に抱かれる。少し窶れて見えるのは緊張のせいか。山鳥の言うことに説得力はあったが、果たしてこれが本当に誓いを違えていないことになるのか、不安だろう。それで北野が失うのは己ではなく弟だ。

「さて、僕はどこに軟禁されるの?」

「まずは奥だ」

 永行が執務室を指す。

「わかった。人質はおとなしく言うことを聞こう」

 頷いて、だが一歩足を踏み出したところで北野は振り返った。

「喉がかわいたな。五郎に紅茶を淹れさせて」

「はいはい、姫ぎみ」

「それと」

「おお、兄者戻ったか」

 永行が頷いて、さらに北野が注文をつけようとしたところで裏から五郎が顔を出した。

「疲れただろう。紅茶でも淹れよう」

「……うん。お願い」

「茶菓子は何がよい? それとも果物にするか」

「オレンジがいいな」

「わかった。今朝入ったよいものがある。切って持って行こう」

「頼んだよ」

 頷いて北野は明紫とともに執務室へ入っていく。

「今朝、五郎の手から甘くていい匂いがしてたんだ」

 明紫にそう説明しているのが聞こえたらしく、永行がいささかうんざりした顔で咬を振り返った。

「よくあれを何十年も耐えてこられたな」

「慣れる」

 うすく笑って言い、奥へあごをしゃくる。ため息をついて頷いた永行がやはり執務室へ向かった。

「まずは手紙を書いてほしい」

 紅茶と果物を人数分用意した五郎が給仕をすませるのを待って、永行は紙とペンを北野に差し出した。それまで待ったのは話をはじめようとしたら茶の一杯も飲ませないような礼儀を知らないならず者の話は聞かないと北野が拗ねて、五郎がやって来るまで永行を無視したからだ。

 顔ぶれは先ほどと同じく、明紫と咬、兄弟と、永行、井和だ。明紫と北野が並んで腰を下ろした前に永行が座り、咬は明紫の背後に立ち、五郎は兄の傍らに膝をついて控えている。井和も永行の背後に立って控えていた。

「せめてこれだけでも大父に届けてほしいときみが必死にならず者に頼み込んで書かせてもらった手紙だ。できるだけくどくどとまわりくどく、乱れて動揺した読みにくい文字と文で、非道の乱暴者どもに捕えられ参上できない詫びを連ねて窮状を涙ながらに訴えてほしい」

「ええー」

 不満げに北野は唇を尖らせる。

「乱れて読みにくい文字? くどくど? 涙ながら? この僕が? それすごく僕の矜恃を傷つけるんだけど」

「そこはすまんと思うがこらえてくれ」

 永行も素直に頭を下げる。

「大父の知性が鈍ってきているなら、読みにくい字と文であればあるほど読み解くのに時間がかかる。それだけ時が稼げる。読めないから読んでくれとは言えないだろうからな」

「わかってる。書くよ、大丈夫。書かないとは言ってない」

 北野もごねるつもりはないようだった。オレンジの最後のひと切れを口に投げ込んでため息をつき、五郎の渡してやった手巾で指を拭う。

「それから」

「まだ注文があるの?」

 ペンをとろうとしたところで永行が言い足して、北野は首を傾げる。永行は頷く。

「手紙の中に、この誘拐には東と南が関わっているのではないかと織り込んでほしい」

「……どういうこと」

「四家の間に不和を撒きたい。代替わりしたばかりの東と南が、長老風を吹かせる北と西を煙たく思っている、という筋書きだ。嘘ではないが、それを大父に吹き込む。そこから老人二人にも伝わる、あるいは、大父に渡す前かあとに老人のどちらかが盗み読みした時に目に入るように」

「具体的にはなんて書けばいい?」

「ならず者の中に東あるいは南の新首長や息子たちに従っているところを見たことのある者がいたとか、そんな感じかな。南と東は最近気が合っているようだ、というのも入れば申し分ないが、すまん、こじつける方法が思いつかなかった」

「だらしないな」

「申し訳ない」

「ふん。素直だから兄上が力を貸してやるよ。任せろ」

「できるのか」

「僕の人脈をなめるなよ、末弟。そのくらいの小ねたなら、客から聞いた話にいくらでもある」

 頷いて、だが永行をじろりと睨んだ。

「それはいいとして。なんだよこれ」

 渡された紙の束を不機嫌そうにテーブルに投げつける。

「こんな風情のない紙を使わせるなんて。僕を誰だと思ってるんだ。筆も墨もないじゃないか。ああもう、屈辱にもほどがある」

「人質らしくていいだろ」

「思いきり細かい字でびっしり恨みつらみを書いてやる。見てろよ蝦蟇。せいぜい読むのに苦労しろ」

 ぶつぶつ言いながら、北野はあらためてペンをとった。永行の注文を聞いたばかりだというのに迷うそぶりもなく、さらさらと紙に文字を書きつけていく。

「……こんなものかな」

 しばらくして北野はそう言って紙の束を五郎に差し出した。

「大作だな」

 十数枚もにわたって、宣言どおり細かい文字をびっしりと書き連ねたそれを受け取って、五郎は素早く内容を確かめていく。

「……うむ、じつにひどい文字と文の乱れようだ。とても兄者の筆跡とは思えぬほどだが確かに兄者の手跡でもある。誤字も随所にあるな。常であれば決してこのような間違いはされぬというに、これを書かれた際のお心の乱れを思うとじつにおいたわしい。これは北や西のご老公がご覧になっても容易には読み解けぬのではないか」

「ふふん。そうだろう。なかなかの傑作が書けた」

「うむ。それだけ表情をまったく変えぬままでよくこれほど感情的な文が書けるものだ。まったく感服する」

 自慢した北野に五郎も大真面目な顔で頷く。

「惜しむらくは、この芸術的な手紙を受け取るのがそのような風情を理解できる相手ではないということだな――まったく残念だ」

「どのみち自己満足だ。五郎が読んだからそれでいい」

「そんなにすごいのか。俺も見てもいいか」

「だめ」

 興味をそそられたらしく永行が手を伸ばしたが北野はその手を叩いて退けた。

「どうして」

「恥ずかしい」

「とても恥ずかしがっているとは思えない顔と口調で言われてもな」

「恥になる、という意味だ永行。納得の上で書いたとしても兄にとって不本意であることは変わらぬ。面白がるな」

 早速、手紙を封紙で包みながら五郎がたしなめる。やや口調が尖っているのは、やはり五郎も不本意だったらしい。封をしたものを渡すと裏に北野が名を書く。

「頼む」

「お預かりする」

 井和が押しいただいて受け取る。執務室を出て行き、郎党のどれかに託したらしくすぐに戻ってきた。

「ご心痛をおかけいたしました、御子。ご協力まことにありがたく存じます」

「時間稼ぎがしたいの?」

「おっしゃる通りでございます」

 首を傾げた北野に井和は頷く。

「先ほどは大きなことを申しましたが、計画は練っておりましたものの決行はまだ先のことと想定しておりました。もちろん最終的にはどのような形になろうと討って出る所存ではございますが、成算をより確実なものにするために、でき得る限りの手を打ち準備を整えたいと考えております」

「あれで多少稼げればいいけど」

「五郎どのが太鼓判を押しておられました。よし大父が己では読まず老人のいずれかに読ませたとしてもある程度の時はかかりましょう」

「なら、少しはゆっくり話せるな」

 紅茶のカップをテーブルへ戻して明紫が井和を見た。

「鳥らの策、聞かせてもらおか」

「御意」

 井和が一礼した。

「もちろん最大の目標は大父ではございますが、除かねばならぬのは大父のみにあらず。大淵に理不尽にはびこり権勢をほしいままにする四家も、解体し、できれば壊滅させる、最低でも一つの集団としては機能せぬ程度に弱体化させたいと考えております。これは四家それぞれの庇護を受けて狼藉を働くならず者どもの粛清も含みます」

「うん」

「時が到れば大淵の無頼侠客へ檄を飛ばし我らに呼応して起ち上がるよう求めるつもりではおりますが、我ら自身いまだ大淵では新参。親交を結んだ相手も多くはなく、必ず協力を得られると見込める数はそう多くはございません」

 そこで、と井和は言葉を継いだ。

「各地に散っております郎党ををただいま呼び集めております。俺の翼が間に合えば最良ではありますが、まずは一羽でも多く集まるのを待ちたく。しかるのち、地上を永行どのと鳥たちに任せ、俺は精鋭を幾人いくたりか率いて地下へ参る所存でございますが、――その際、大兄と、そして五郎どののお力をお貸しいただきたい」

 視線に、咬は頷く。

「大兄はともかく……俺も、ですか」

「おまえ神将の力があるだろう」

「あ……そうか」

 きょとんとした五郎が兄に言われてやっと心づいた顔になった。

「しかし、鳥どの。申し訳ないが俺はあの力をどうやったら出せて、どう使えばよいのかが、正直なところわかっておらぬ」

「そこは――御子、お願い致しましても?」

「……いやだけど、しょうがないね」

 井和の視線を受けて北野が頷く。五郎がはっと顔を上げた。

「修行を、させてくれるのか兄者」

「仕方なしに、だよ。本当はそんなことしたくないんだ。それを忘れないように」

「感謝する!」

 唇を尖らせた北野に五郎が頭を下げ、北野はため息をついて弟にカップを突きつけた。

「……で、そろそろさ」

 五郎に紅茶のおかわりを注がせて北野が井和を見る。

「おまえたちが『何』なのか、明かしてもらえるのかな」

「申し上げましょう」

 井和は頷いた。

「と言いましてもこれという秘密があるわけではございません。我らはご覧の通りの者。龍ヶ淵を住処すみかとしておりました鳥獣が徒党を組んだものでございます」

「龍ヶ淵?」

「現在は大淵と呼ばれております」

 そう言って、井和はかつてこの土地にあった鳥獣の憩い地のことを語った。若い龍に守られ、時折蝶の精霊が死人の魂を導いて訪れる淵。そこに流れ着いた蝦蟇の妖物に精霊は凌辱されて命を散らし、精霊を護ろうとした龍もまた力及ばずに果てた。

「龍と胡蝶姫の仇をとろうと打ちかかった鳥獣も次々と蝦蟇の手にかかり、残ったものらは命からがら落ち延び、しかし龍と姫を踏みにじった非道の蟾蜍せんじょ許すべからずと力を蓄え捲土重来を期すべく、同じ名を名乗ることとしたのでございます」

「ま、ってくれ鳥どの」

 五郎が喘いだ。

「俺はごく最近猫からその話を聞いたぞ」

「ああ……申しましたか。五郎どのに言ってみよと月に焚き付けられておるのは見ておりましたが」

「大淵のこととしか思えぬ話とは思ったが、まさか真実その蝦蟇は大父の前身なのか」

「まさしく、その通り」

「え、なにそれ。僕知らないぞ」

 井和と五郎を見比べて北野が不服そうに言った。五郎は頭をかく。

「俺もすっかり忘れておった。あれだ、東のご先代様の葬儀の前の日で、そのあとすぐ、永行が忍んで参って大嗣にご挨拶を申し上げたのだ。それでばたばたしてきれいに頭から抜けた」

「なんだ。きみのせいか」

「俺のせいか?」

 睨まれて、永行がさすがに声を上げた。それを無視して北野は井和を見る。

「妖怪はどうして、五郎に聞かせようとしたの」

「月がということではなく。猫があまりにうるさいので、なら自分から聞いたと装って五郎どのに言ってみよと申したのです。五郎どのから御子が話をお聞きになれば思い出されるやもしれぬぞ、と」

「僕が、なにを?」

「猫は、御子が胡蝶姫の生まれ変わりではないかと考えておるのです」

「……僕が?」

「お姿が、よく似ておられる」

「…………そうなの?」

「そうですな。俺が見てもよく似ておられます。猫はまだ当時ほんの仔猫でしたが、いたく姫を慕っておりましてな。はじめて御子のお姿を遠目に拝見して以来、姫さまだ、姫さまに違いないと」

「猫のことばかり言うんだね。鳥はどう思ってるの」

「俺はどちらとも言い切れぬというところでしょうか。たしかに似てはおられるが、いささかお持ちの気配が違う。猫のごとく違いないとは申せませぬ」

「ふうん……」

「お聞きになって、いかがでございますか」

「僕じゃないと思うな」

 北野は肩をすくめた。

「まあ、感覚でしかないけど。僕は皇統の裔だ。精霊の系譜には入っていないと思う。猫にはごめんねって言っておいて」

「申し伝えます」

 困ったように小さく笑った北野に、井和も苦笑して一礼した。

「永行は四家に思うところがあるだろうし母親のこともあるから大父に叛意を持つのはわからなくはないけれど、おまえたちはなんでだろうって思っていたんだ。つまり、おまえたちは、それこそ僕らなんかよりずっと昔から、あの蝦蟇に恨みがあるわけだね」

「おっしゃる通りでございます」

 井和も真顔で頷く。

「俺も当時、翼を片方引きちぎられました。長い時をかけて、ようやく新たな翼が手に入るだろうというところまで参りましたが、まだ少々日が足りませぬ。とはいえ間に合えばよしといったところ。届かねばそのまま討ち入ることに支障はございませんのでご安心を」

「それやったら、要るのは五郎の修行と兵隊が集まるまでの時間、ゆうことか」

「大きくは」

 明紫の問いに井和は頷く。

「小さいのがあるの」

「こざいます」

 北野が首を傾げ、井和はそちらにも頷いた。

「地下で大父を襲撃すると同時に地上では四家およびその周辺への攻撃を開始致します。ですが、どうせなら大義がほしいところ」

「これは正義の戦いや、ゆう名分か」

「はい。あちらが非道無体を働き、我らはそれに耐えかね、あるいは正当な報復のため、より理想的には大淵のためにあれらは除かねばならぬという義憤によって起つ。そうであればこそ賛同し助力する者も増えいっそう戦局は我が方にさらに有利となります」

「あてはあるんか」

「最も可能性の高いのは、南の御曹司が暴走なされて問題を起こされることと踏んでおります。うまく焚き付けたいところではあるのですが、あまりあからさまにもできませず」

「あからさまやなければええわけや」

 明紫が小首をかしげ、井和は頷いた。

「もちろんのことでございますが……部領ことりにはなにか策がおありで」

「うん」

 くす、と明紫は笑った。

「さっきの永行の筋書き、ほんまのことにしてもうたらええ」



 サロンには永咲館の使用人たち全員、そして永咲館に籍を置くすべての娼妓が集まっていた。

 全員の視線の向いている先には、五郎が立っている。その傍らの椅子には笑みを浮かべて北野が座っていた。

「集まってもらったのはほかでもない」

 五郎の声が朗々と響く。

「先日の争い事がまだ尾を引いており、少々、好ましからぬ状況となっておる。これをおさめるために、みなに再び力を貸してもらいたいのだ」

 五郎が見回すと、どの顔も真剣に五郎の言葉を聞いている。それを確かめて、五郎は言葉を継いだ。

「じつは先日の件が大父のお耳に入った。深くお心をかける寵姫の受難に大父はそれはご心配をなさり、大事はないのか、無事な姿を見せよと再び北野様をお召しになられた。北野様もそれにお応えすべくお屋敷へと向かわれた。ところが、だ。その道中、あろうことか、ならず者どもはまたしても北野様を襲い、非道にもあに……北野様を連れ去ってしまったのだ」

 沈痛に顔を歪め唇を噛んだ五郎の傍らで、北野はそれが聞こえているのかいないのか楽しそうににこにこしている。

 誰も、口を開かなかった。

「未だ、北野様の行方はわからぬ。南の御曹司もいくらかつての恨みがあるといえ非道なことを……あ、いや、なんでもない。北野様はまだ先日のご心痛からも立ち直っておられぬというに、無頼の荒くれ者どもに拐かされ、さぞや心細くご不安な思いでいらっしゃることだろう。いったいどのようなおぞましい場所へ籠められ、どのような無体な仕打ちを受けておられるのか。大嗣も気が揉めてならぬ、可哀想にといたくお心を痛められ、深くお嘆きになっておられる。その痛ましさたるや、……とても言葉には尽くせぬ。俺も、胸のつぶれる思いがする」

 やりきれなさに表情を歪め、五郎は顔をそむけた。激情をおさえこむように何度か肩を大きく上下させる。そして大きく息を吸い込み、集めた者たちへ再び顔を向けた。

「立て続けにこのような災禍に見舞われ、みなも、さぞや落ち着かぬことであろうと思う。あるいは今宵の見世ではいつもよりもどこかざわついた落ち着かぬ空気が流れてしまうやもしれぬ。給仕がごく時たま音を立てて皿を置いてしまったり、あるいは娼妓もお客さまを前にふと気を逸らしてしまったり、深いなじみの、よくよく気心の知れたお客さまに何かあったのかと問われてうっかり、つい、ぽろりとひとこと心のうちを漏らしてしまったり、ほんのわずかは、そういったことも、あるやもしれぬ。だが、俺はみながきっと、永咲館のためにそれぞれができうる限りの最善を尽くしてくれると、必ず、こたえてくれると! 信じておる。どうか、――よろしく頼む」

 強い口調で言い切り、五郎は深々と全員へ向けて頭を下げる。

「任せてください、五郎さん!」

「大丈夫だよ五郎ちゃん! 心配しなさんな!」

「ちゃあんと、仕事はするよ! 任せておきな!」

「あんたも大変だよね、つらいだろうけど、こらえるんだよ!」

 わずかな静けさのあとで、あちこちから口々に五郎に応える声がした。

「みな――」

 頼もしげな笑みを浮かべて頷く顔を見回す五郎は、感激に瞳を潤ませていた。

「なんと、礼を言っていいかわからぬ――心から、感謝する」

 ぐしゃぐしゃになりそうな顔を、きつく目を閉じ深く頭を下げて隠す。幾度かの深呼吸でなんとか気持ちを立て直して再び顔を上げた。

「先般より当家の警護を担う山鳥の郎党が現在、総力をあげて北野様の行方を探してくれておる。必ずや遠からず北野様の監禁場所を探し当て、奪い返してきてくれることであろう。ああ、それからな」

 無理に作ったような明るい顔になって、五郎は使用人たちと娼妓たちにぐるりと視線をめぐらせる。

「先日、西の末どのに、とてもうまいという西欧の菓子を教えていただいたのだ。この苦難を越えたのちには、みなにふるまおう」

 その声に、どっと歓声がわいた。

「楽しみです!」

「あたしは花梨の砂糖煮でもいいよ!」

「俺は香草を漬けこんだ酒を頼む」

「杏の蜜漬けも忘れないでおくれよ!」

「ああ、わかったわかった。晴れ晴れと外へ出られるようになったあかつきには、なんでも使いをしようとも」

「頼むね、五郎ちゃん」

「待ってるよ!」

 五郎があちこちからかけられる声に応えている間に、北野はすっと立ち上がって明紫の執務室へ入っていった。最後にあらためて、くれぐれもよろしくな、と声をかけて、五郎も兄に続く。見届けて、咬も執務室へ移動した。

 北野が椅子に倒れ込んで体を丸め、クッションに顔を埋めて足をばたつかせていた。声を出さないようにして笑い転げているらしい。明紫も口元を覆って肩を震わせている。

「お粗末様でございました――」

 五郎が頭を下げると、さらに明紫の肩が笑いに揺れる。

「いや、ようでけてた。じょうずやったよ、五郎」

 かろうじてそう言って、傍らへ寄った咬の肩に顔を埋める。うすく笑って、背をかるく抱いてやった。

「ああ、おかしい」

 ようやく喋れる程度には笑いがおさまったらしい北野がまだ笑い声を抑え込みながら言う。

「ね、前に言った通りだろう、大嗣。五郎はいろいろとへたれでだめなところだらけだけど、愛嬌だけはぴかいちで、うちのたちは誰だって五郎の頼みなら二つ返事で引き受ける、って」

「うん。ほんまや」

 やはりまだ笑いながら明紫が頷く。

「ようやってくれた、五郎。ええ差配持って、自分は果報者や」

「は――いや、とんでもない、大嗣。もったいないお言葉でございます」

「とくに、あそこがよかったよ。一回だけうっかり、あにじゃ、って言いそうになったところ」

「あ……いや」

 五郎は顔を赤くした。

「あれは、その……本当に、間違えた……」

 北野がまた椅子に倒れ込んでクッションに顔を埋める。噴き出した明紫がしがみついてきて、咬も苦笑しながら笑いに震える明紫の背を叩いてなだめてやった。

「いや、しかし……なあ、五郎兄」

 あっけにとられたような顔をしたままだった永行が真顔になった。

「まじめな話、平和になったら弟子入りさせてくれないか。俺も芝居っけにはそれなりの自信を持っていたつもりだが、あれは、どうやっても俺には無理だ」

「永行まで何を言っておる。――菓子の件は頼んだぞ」

「おう。というか、俺はなんの菓子の話を五郎にしたんだったか?」

「知らん。よいものを見繕って手配しておいてくれ」

「はあ?」

 永行が声をひっくり返し、北野が口を手でふさいでまた足をばたつかせた。

「お、おなかが痛い……五郎おまえ、今日は本当にすごい……最高だ」

 なおも笑っている北野に、五郎は複雑そうに口を捻じ曲げた。

「あまり褒められている気がせんのだが、兄者」

「疑り深いな。こんなにおまえを褒めたことは今までにないというくらい褒めているのに」

「それが本気に聞こえぬのだ」

「もう。おまえの一番のとりえは僕の言うことならなんでも素直に信じるところなのに、すっかりすれてしまって。僕はかなしいよ」

「しかし、太夫もすごいな。あの演説のとなりで何も聞こえていない顔でにこにこしているだけでいられるというのは、どういう精神力だ」

 芝居がかった口ぶりで唇を尖らせた北野に永行が言って、北野はきょとんとする。

「え? 僕は太夫だもの。そのくらいできなくてどうするの」

「……そういうものなのか?」

「そういうものだよ?」

「そ、……そうか。……もしかして、大嗣も、あれができるのか?」

 永行の視線を受けて明紫は首を傾げる。

「ん……そうやね。必要やったら、できるんやないかな」

「できるのか」

「まあ、こう見えて太夫やからね」

 永行はそれ以上は言わなかったが、何やら珍妙な顔をしていた。

「俺の話を聞いておったみなも、とくに笑ったりはしておらなんだろう」

 五郎が苦笑ぎみに声をかけた。

「ああ、うん」

「この商売はそういうものなのだ。笑わねばならぬ、笑ってはならぬ時がある。それができてはじめて、お客さまに満足していただける。永咲館は大淵の娼館の最も上に位置する館だ。できぬようなものは端女はしためといえど当家にはおらぬ」

「……感服した」

「今ごろは娼妓たちが誰がどのくらい、どの客に何を明かすか、相談をまとめておるだろう。何日かのうちに南の御曹司はどこへ顔を出してもひそひそと陰口を囁かれ、居心地の悪い思いにいらつくようになるだろうよ」

「ありがたく存じる」

 井和は五郎に深々と頭を下げた。

「御子、五郎どのの準備にはどれほど時が要りましょうや」

「三、四日もあればある程度はかっこうがつくと思う」

「かしこまりました」

「ところで、二階の妖怪は? あれもおまえたちの仲間なの?」

 北野が言うと、井和の表情がわずかに変わった。

「あれは、……我らとは少々、出自をことにするものでございます。俺から申し上げるのはどうぞご容赦を」

 井和は丁重に一礼し、北野も頷いてそれ以上は追求しなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る