15 心

「咬――!」

 階段を駆け下りてきた明紫が叫んだ。駆け寄って咬の腕をつかむ。それ以上は言わなかったが、翠の瞳が何かを訴えて咬を見つめた。

 片腕を井和に支えられたまま、もう片腕で明紫の背を抱いた。大丈夫だと頷きかけてやる。明紫はほっとしたように頷き、何かをこらえるようにうつむいて唇を強く結ぶ。

 あちこちで使用人たちが驚愕の表情で硬直していた。血まみれ泥まみれの集団が北野を中央に守っていきなり入ってきたと思ったら大嗣が血相を変えて階段を駆け下りてきた上に叫んだのだ。驚くなと言うほうが無理があるだろう。

 二階の手すりにも、何事かと出てきた娼妓たちが息を飲んで鈴なりになっていた。

 この場を一度おさめる必要があるが――どうするのが適切か。

 そう思った時。

 ぱん! と音がした。使用人たちがびくりとする。

 五郎が手を打ち鳴らした音だった。

「仔細は明かせぬが、少々争い事があった」

 一歩前へ出た五郎の声が静まり返ったサロンに朗々と響く。

「しかし、鳥どのと御曹司のお助けがあり、太夫も大兄もこのとおり、ご無事だ。案ずることはない」

 力強い言葉に周囲の緊張がいくらか緩む。

「だが今宵は、あるいは大嗣も太夫も見世へは降りておいでになれぬやもしれぬ。俺もいささか傷を負ったゆえ顔を出すのが遅くなるだろう。――だが、永咲館の使用人として、永咲館を彩る花々として。皆、常と変わらず今宵も見世を開けお客様がたをお迎えしご満足いただけるおもてなしをしてくれると俺は信じている。いや……頼む! けしてこのことをどなたにも気取られぬよう、皆で今宵を乗り切ってほしい」

 わずかの間、サロンは沈黙に支配されていた。

 だが。

「もちろんです!」

「お任せください!」

「ご心配なく!」

 口々に、使用人たちが声を上げる。

「わかったよ!」

「大丈夫さ、五郎ちゃん! 任せておおき!」

「任せておけ!」

「任されたよ、安心して」

「お安いご用だよ! へたくそな客に感じてるふりして見せるよりずっと簡単さ!」

 二階からも威勢のいい声がかかり、井和の女、ゆずり葉の声に上も下もどっと笑った。

「皆……かたじけない。よろしく頼む。……つ、っ……いたた」

「ああもう、大声を出すからだ」

 胸を押さえて呻いた五郎を支えて北野が頬をふくらませる。馬車を下りるまでは死人のような顔をしていたが、ここで弱っている姿を見せないのはさすがというべきだろう。

「まったくおまえは締まらないな。せっかく格好いいと思ってときめいたところだったのに」

「はは、……それは、すまなんだ……」

 五郎はかろうじて笑ったが気が抜けたのか今にも倒れ込みそうだ。

「とにかく、上へ。お休みいただこう。――大嗣、大兄は俺が」

「……ああ。頼むわ」

「かしこまりました。大兄――」

 咬を井和が支えて階段へ促す。咬は井和に視線を向けて小さくかぶりを振った。主人より前に立つわけにはゆかぬ。

 井和は正確にそれを理解した。咬を片手で支えたまま、明紫に丁重な会釈を送る。

「大嗣、太夫。お先へ」

「ああ……そうやね。行こう、お姫さん」

「――うん」

 五郎を気にしながらも、自分たちが先に行かなければならないことは北野も理解している。頷いて、明紫に支えられて階段に足をかけた。

「ほら、あんたもだ五郎兄」

 永行も五郎の腕をとった。

「えっ、い、いや、末どの、俺は裏から」

「ぐだぐだ言うんじゃない。あまり聞き分けがないと担いでゆくぞ」

「ええっ、そ、それはご勘弁を」

「なら自分の足で歩け。ほら」

 歩けと言いながら半ば五郎を抱えて、永行が階段を上がっていく。

「参りましょう、大兄」

 あらためて促した井和に、今度は咬も頷いた。



 三階の手前に山鳥の郎党たちが陣取って階段を護り、大嗣の居間へは大嗣、大兄、兄と自分のほかに永行と井和だけが入った。寝椅子に寝かせようとすると兄はかぶりを振り、松江の一件のころに大嗣のよく使う肘掛け椅子の隣へ運び入れた揃いの椅子に腰を下ろした。

 大兄は常のように大嗣の背後に控える。自分は戸口へさがっているべきか、傍らに控えているべきか。一瞬迷ったが兄が膝に乗せていた手を外側へ落とした。

「僕に、さわっていて」

 細い声に頷き、椅子の傍らへ片膝をついて控え、兄の手をすくい上げるように自分の手で包み、体温の下がっているそれをそっと握ってやる。

「何があったんや」

「大父が、僕を喰おうとした」

 大嗣の問いに兄がぽつりと答え、大嗣は眉を寄せた。

 兄が自分の身に起こったことを話し、五郎と大兄のとった行動については主に五郎が話し、そして井和と永行がそれぞれに状況を語った。以前に大嗣に引き合わされた両者は協力し合い、山鳥が永行の護衛を務めたり永行が便宜を図ってやったり共同で四家の秘密や弱みを探ったりしているのだという。

「どうも、朝から胸騒ぎがしたというか、太夫がやけに緊張してるから心配になってな。どうせいつかは探るつもりだったし、実家の裏庭を探索しようぜと鳥どのを誘ったんだ。何もないのが最上だが、結果的には備えた甲斐があった」

「うん。……永行。鳥」

 頷いて、大嗣は二人を見た。

「ようやってくれた」

「恐れ入ります」

 ねぎらいに井和は胸に手をあてて一礼し、永行はにやりと唇の端をあげた。

「けど、……へんやな」

 大嗣は口元に手をやって考え込む。

「お父はん、なんでそんなことしはったんやろ」

「太夫を喰おうとしたことか?」

「うん」

 永行の明け透けな問いに大嗣は頷く。

「まだおなかすかはる時期やないし、そうやったとしても自分とお姫さんはまだ食べんでおいたほうが得や、ゆうことはわかってはるはずや。それやのに、お姫さんに手ぇ出そうとしはった。それも、それやったらその場で食べてしもうたかてかまわんやろに、わざわざ手間かけて奥まで持っていかはって。なんや、妙な感じがする」

「御曹司――」

「うん」

 井和が永行を見て、永行も頷いた。首を傾げた大嗣に向き直る。

「じつはな、大嗣。俺と井和は、ある仮説を立てている」

「どんな」

「大父は、神性を失いつつあるんじゃないか、というものだ」

「……説明してもらおか」」

「もちろんだ」

 瞳を鋭くした大嗣に、永行は頷く。

「これは大嗣や太夫にはわざわざ言うまでもないことだとは思うが、神という存在は大きく分けて二種類いる。そもそも神として在ったものと、神に成ったものだ」

 指を二本立てた永行に大嗣は頷く。永行はその指を一本減らした。

「このうち、大父は後者だ。そもそも人であったものが恨みを呑んで果て怨霊と化し、土地に憑いていた妖物とまじりあって、付き従う者たちに礼拝されることによって神に成り上がった」

「そうやね」

「だが、考えてみてほしい。昨今、果たして大父はかつて受けていたほどの崇敬と礼拝を受けているだろうか」

 ぴくりと、大嗣は眉を寄せた。訝しげに見る大嗣を、永行はまっすぐに見る。

「かつて、大父の屋敷には大父に願いを叶えてほしいと陳情するものが引きも切らなかったという。俺は入ったことがないから見たことはないが、屋敷の大半はそういった連中を待たせておくための待機所になっているらしいな? だが」

 一度言葉を切って、永行は大嗣を鋭い瞳で見据える。

「近年、その部屋部屋はどれほど使われている? いや、どれかひと部屋でも、最後に使われたのはいったいいつだ。へたをすればもう百年以上前じゃないのか。大淵は大きく発展した。人は増えた。だが、その何割が大父という神を信仰している? 一割もいないだろう。なぜなら、大父の利益りやくを、大都市に発展した大淵はもう必要としていないからだ」

 永行の瞳が獰猛な色を浮かべた。

「かろうじて今なお大父を信仰するそもそもの氏子、四家にしたところで、まともに信仰心を持ってるのはせいぜいが直接大父と接触し祭祀を受け持つ家長ぐらいだろう。だがそれも半数が入れ替わった。賭けてもいいが、東と南の伯父貴は、形だけはいちおう敬って見せても腹の中じゃ面倒な仕事だぐらいにしか思っちゃいないぜ。なにせ、あいつらは人攫いをさせられたり生贄を差し出すよう命じられたり、大父に迷惑をかけられたことはあっても、大父の恩恵を受けたことがない。やつらが生まれた時には四家はもうとっくに大淵の名家だったからな。そんな状況で、大父は神としての己を保っていられるか。俺たちは、それは難しいと思っている。いや」

 永行はひとつ首を振った。

「もうとっくに、大父は神ではなくなりつつあるんじゃないだろうか。今の話も、大父が神ではなくなりつつある――知性も失いつつあると考えると、説明がつくと思うんだよな」

「……たしかに、そうかもしれない」

 かるく拳を口元に当てて、考える様子で永行の言葉を聞いていた北野がゆっくりと口を開いた。

「あいつに襲われた時、僕の力はほとんど残っていなかった。なのに、かろうじてではあったけれど、なんとかあいつを押し戻していられた。火事場の馬鹿力というのもあっただろうけれど、あいつの妖力そのものが弱まっていたのなら。……それに」

 兄は顔をあげて大兄を振り返った。

「僕に聞こえたんだから、おまえも、聞いたよね」

 大兄の紅の瞳が兄を見る。小さく頷いた。

「あのね」

 首をかしげた大嗣に、兄は視線を移す。

「狗と組み合っていた時。蝦蟇が貴様、許さぬ、って――言ったんだ。だけど、そう言っているのはわかったけれど、本当はそうは言っていなかった。もっと、不明瞭で、いびつで……少し前にあいつが大嗣と言葉をかわしたのを聞いた時とは、ぜんぜん違った。あのときはちゃんと言葉だったけれど、さっきのは違った」

「人の言葉を、まともに話せへんようになってはる?」

「うん。言ったのはそれだけだったから、確証はないけれど」

「その、大父と大嗣が話したっていうのはいつのことだ」

「いつだろう。よくおぼえていないけれど、今年だよ。夏ぐらいじゃないかな」

 少しだけ、永行の問いに答える兄の声に沈痛なものがまじった。五郎は兄の手を握る手に力をこめる。冷えた指先が弱く五郎の手を握り返してきた。

 ふむ、と永行は考え込む。そして兄を見た。

「太夫。――先だって、俺が夜にきみのところへきた時」

「うん」

「きみは、今のきみにかなり近い状態だった」

「ああ――うん」

 北野はちいさく頷く。

「あの日は、大嗣が屋敷へ呼ばれたんだ。最近大父がえげつなく力を持っていって大嗣の負担が大きいから、すこし大嗣の受けたものを肩代わりしたんだけれど。あやうく死ぬところだった」

「それは、いつもそうなのか?」

「ううん。こんなの毎回やられてたらほんとに死んじゃうよ。前からも時々はあったけれど、たまのことだったし、今ほど根こそぎ持っていくことはなかったんだ。前回も、大嗣はひどいめに遭わされたけれど僕はそれほどでもなかったし。僕はいつも大嗣のあとに呼ばれるから、それほどひどい目には遭わないんだ。ここまでされたのは初めてだよ」

「推測だが――それは、きみたちの神気で、薄れゆく神格を補っていたからじゃないか。こうしたものはある日突然切り替わるというものでもない。以前から衰えははじまっていて、それを埋めるために折々に大嗣から過剰に神力を奪っていた」

「そして今回は、大嗣に次いで御子からも奪わねばならなかった――それでも足りずに、御子を喰おうとした、そういうことでしょうか」

 引き取った井和に永行は頷く。

「可能性は高いと思う。神性がほとんど剥げたことで、分別も失ったんだろう。四家とのつながりが薄れたことで、人、というか怨霊の部分が急速に失われつつあるのかもしれない」

「そうかもしれませんな」

 井和も頷いた。

「いかに恨みが深いと言えもう千年から経っております。その間、手厚く生贄や供物を供えられ、鎮められてきた。ならば、恨みも昇華されていてもおかしくはない」

「ならばなおさら、大父の神格の基盤は危ういな。ただの蝦蟇であったころはそもそも何にも崇められてはいなかったんだから」

 永行が言って、井和を見る。目を見交わし、そして大嗣へ顔を向けた。

「大嗣――」

「ごめん」

 その言葉を、北野が弱々しく遮った。めまいをこらえるように、額をおさえてうつむく。

「ちょっと限界だ。僕、部屋に戻ってもいいかな」

「兄者」

 反射的に兄を支えようと身を起こしたが、五郎は内心で首を傾げた。たしかに兄は弱ってはいる。だがもう耐えられぬというほどではないと感じていた。雛瑠璃の件を思い出してしまって心痛がつのったのだろうか。だが限界を越えていてもこういう場面では弱音を口にしないのが兄だ。

 ならば、これは。

 芝居だ。

 理由はわからぬが、兄はこれ以上話を長引かせないようにしようとしている。

 であれば、五郎のすることは決まる。

「苦しいか。無理をして体を起こしておったからだろう。ほら、俺に寄りかかれ。今、部屋へ運んでやる」

 自分の胸元へ引き寄せて、顔を隠してやった。

「……そうやな」

 大嗣も頷いた。

「いっぺん、休もうか。お姫さんは一番の被害者やし、自分も慣れんことしたからちょっとしんどい。山鳥らも、養生せんとあかんのがおるやろ」

「――恐れ入ります」

「悪い、気が利かなくて」

 ばつの悪そうな顔になった永行に、大嗣はやや疲れたような笑みを向ける。

「永行が悪いわけやないよ。……お父はん、たぶん、まる一日くらいは動かれへんと思う。うまくすれば二日。伯父はんらになんぞ言うにしても、早くて明日の夕方か夜や。……鳥」

「は」

「昔やったら差配がおらんでもみんな見世回しとったけど、五郎がようやってくれて長い。動揺もあるやろうし、飾りでも差配がおったほうがええ。月に部屋から出ろ、言うてもらえるか。百年ぶりに仕事せえ、て」

「かしこまりまして」

「あと、お姫さんは今夜は見世へは出られへんから、お客さまにお断りを」

「申し伝えます」

「いや、大嗣――。俺は、大事ございません。夜には下へ」

「あかん」

 驚いた五郎に大嗣はかぶりを振る。

「五郎がようてもお姫さんが五郎おらんかったら心細いやろ。そばにいてやらんと」

「――……は」

 兄を出されてしまっては逆らえない。五郎は頭を下げて従意を示す。

「さあ、兄者――つ、っ」

 兄を抱き起こそうとして、胸に響いた激痛に顔をしかめた。

「ああもう、何やってるんだよ」

 慌てて駆け寄ってきた永行が五郎を支えて椅子から落ちそうになった北野を抱きとめた。

「あんただってかすり傷じゃないんだぞ。……太夫、俺が抱いていくが、いいな?」

「……お願い」

 小さく、北野がかすれた声で頷く。永行が北野を抱き上げ、五郎はかろうじて自力で立ち上がった。だがくらりとめまいに襲われる。よろめいたところを井和が腕をとって支えてくれた。

「御子のお部屋の前まで、お供いたしましょう」

「……申し訳ない」

 頷いて、井和に支えられて大嗣にかるく会釈だけして居間を出た。



 北野と五郎を支えて永行と井和も出ていき、居間には明紫と咬が残った。決して彼らの存在が厭わしかったわけではないが、慣れた静けさにいくらかほっとして、明紫は息をつく。同じようなことを思ったらしい。黙って、咬が露台へ通じる硝子戸を開けにいった。少し冷たい、だが澄んだ空気が流れ込んでくる。ちらちらと白い花びらが暮れかけた藍色の空を横切っていった。

 立ち上がって、戸をあけたままそこに佇む咬の傍らへいった。

「咬」

 呼ぶと咬が振り返る。その左胸に、明紫はためらいながらそっと手をあてる。顔を寄せ、耳を当てた。

 確かに、そこには脈動があった。

「どう、なってるんやろ」

「わからん。だが、死んでいないことは確かだ」

「うん……あったかい」

 咬の胸元に額を押しつけた。体が震える。

「よか、った……」

 呟くと、咬の腕が背をかるく抱く。

「助かった」

 短い声にかぶりを振った。

「お姫さんのおかげや」

 明紫は部屋にいた。そろそろ北野と咬、そして五郎が戻ってくるころだろうと思って、エンジンの音が聞こえないかと顔を上げた。

 その時だった。

 どくん、と、左胸に激痛がはしった。呼吸が詰まる。

 いったいなにが、と思った時、北野の絶叫が聞こえた。

 次の瞬間、明紫は倒れた咬の姿を見ていた。

(だめだ――!)

 北野の慟哭。

 咬は、あとほんの一瞬で死骸になろうとしていた。心臓がない。大父に奪われたのだ。

 わけもなくそうしたことを一瞬で理解した。

 全身の血が瞬時に沸騰したように感じた。

 だめだ。

 許さない。

 今まで、多くのものを奪われてきた。

 だが、これだけは。

 決して、奪わせない――。

 手を伸ばし、散ってゆこうとする魂魄ごと、咬を抱きしめた。

 どくん、と咬の左胸が鼓動を刻んだ。

 大父に心臓をもぎ取られた空洞に光が満ちた。

 視線をあげると、蝦蟇が見えた。

 よくも、と怒りが噴き上がった。

 迷いなく手が動いた。

 迸る力で陣を描き、呪言で補強し、蝦蟇へと叩きつけた。

 咆哮をあげて大父が弾き飛ばされ、同時に、明紫も永咲館の床に倒れ込んでいた。

 心臓が轟いていた。

 今、自分は何を見た。

 いったい、何を、した――?

 全身から力が抜けていた。床を指で掻いて這い、寝椅子に手が届いてかろうじて体を引き上げた。荒く息をつき、なにが起こったのか、懸命に考える。

 北野の声が聞こえた。

 おそらく北野が、自身を依り代に明紫の魂をあの場へ呼んだのだろう。

 よもやそんなことが可能だとは、思ったことも、いや、可能不可能を言う以前に考えたことさえなかった。北野自身、意図してやったことではないだろう。

 そして、自分は力を使った。

 確かに、力を使ったという感覚は残っている。

 だがそれは自分には使えないはずの術だった。実際、もう一度やろうとしても手が動かない。

 退ける方法を知っていたのは北野だ。明紫は北野の身体を借りていたから、それで手が動いたのだろうか。

 それが幻覚や白日夢ではなかったことには、確信があった。だが確証はない。その後の状況もわからない。

 咬は――どうなったのか。意識を澄ませても、何も感じられない。

 時間とともにやっと手足に感覚が戻ってきて、立ち上がれるようになったが、呼ばれた側の明紫でさえ、戻ってしばらくは全身にまったく力が入らなかった。北野の負担は明紫の比ではなかっただろう。大父の伽に侍ったあとで困憊していたはずだ。無事だろうか。

 大父を退けることは本当にできたのか。北野は無事なのか。姿は捉えられなかったが咬がいたのであれば五郎もいたはずだ。逃げおおせることはできただろうのか。

 何もわからずに、明紫はここにうずくまっているしかできない。

 気が狂いそうだった。

 いつまでたっても車の戻って来る音はしない。

 夕刻が近づき、馬車の車輪と蹄の音がして、はっとなった。

 まだ客が登楼する時間ではない。

 客でないのであれば、それは。

 夢中で部屋を飛び出した。

 果たしてそれは咬と北野、そして五郎だった。永行と山鳥が彼らを護るように取り巻いている。

 咬と目が合って、思わず駆け寄ってすがりついた。

 生きていて、くれた。

 ほっとしたが、一瞬触れただけだ。ぬくもりは感じたが、心臓を失った咬がどんな状態でいるのか、それがわからないのが恐ろしくてならなかった。今にも命を失って崩れ落ちるのではないかと思うと体が震えて、それを見せないように抑え込むのは相当な苦行だった。

 北野が会談を打ち切ってくれたおかげで、やっと咬に触れられた。咬が生きていると確かめられた。

 あの従弟には助けられてばかりいる。

 咬の手が頬に触れた。顔を上げるよう促す。導かれるまま顔を上げると、咬の紅の瞳が間近から明紫を見ている。その瞳が伏せられ、顔が近づいてきて、咬の唇が自分のそれを覆った。

 明紫が弱っている時に、生命力を補うために口づけるほかは、決して自分から触れてきたことのない唇が。

 背が震えた。咬の背に腕を回し、力をこめる。それ以上の力で、強く抱き寄せられた。

 幾度。

 こうして抱きしめられることを、口づけられることを、夢想しただろう。

 求めても、決して与えられることのないものだと思っていた。命じれば、頼めばしてはくれたが、本当にほしいものはそれではなかった。

 明紫が拾い上げてしまったがためにこんな場所まで連れて来て、人でないものにまでしてしまった。それが自分の在る意味で、望むことだと言ってくれはしたが、いつでもすまないと思っていた。

 せめて闇に侵されて生まれる欲だけでも自分の身で受けて鎮めたいと願っても、ほかのどんな望みは叶えてくれても、決してそれだけは頷いてはくれなかった。

 その咬の腕が、自分を抱き締めている。唇が、自分の唇を求め、熱の高い舌が自分の舌を愛撫する。

 どれほど、この瞬間に焦がれていたことだろう――。

「俺の命など、とうにないものだった」

 長い口づけのあとで、咬が低く言った。

「惜しいと思ったことはない。俺の命を拾ったのはおまえだから、おまえの役に立つならいつ死んでもいいと思っていた」

「咬」

「だが、だめだと言われた。北野は、おまえの言わないことを俺に言う。いや」

 言葉を切って、咬は明紫を見つめる。

「おまえの声も、聞こえた」

「……」

「許さない、いやだと言っていた」

「……うん」

 頷いた。

「いやや――咬がおらんようになるのは、いやや」

 思えば、そうと口にしたことはなかった。言うことで咬に枷をつけたくはなかった。

 だが。

「独りは、いやや。咬がおらんと、いやや」

 失うことには、耐えられない――耐えられないと思い知った。

「どこへも行かんで。ずっと、自分とおって」

「俺は、おまえのものだ」

 低い声が体の奥へ染み入ってくる。

「命など惜しくはないが、おまえが望まないなら手放さない。おまえがもういいというまで、必ず、おまえと共にいる」

「咬……」

「だから、……泣くな、ゆかり

 頭を振った。

「そんなん、泣くに決まってる」

 その声に名を呼ばれることを、どれほど待っていたことか。

 涙にぼやけた視界で、それでも視線を外さずに見つめると咬が小さく笑って指で目尻の涙を払う。

 その手が頬に添えられ、赤い瞳が間近からのぞきこんでくる。うっとりと微笑んで目を閉じると、再び咬が深く口づけてきた。



 隙間がないように、布団を肩口の少し上まで引き上げてやる。いつもは暑い重いといやがる兄はおとなしく布団に埋もれていた。もう限界だといったのは嘘にしても、部屋に戻り横になって、気を張っていた反動が出たのだろう。紅を拭った唇が、哀れなほど白い。

「苦しくはないか、兄者。何か持ってきてやろうか。ほしいものはないか」

「大丈夫」

 重そうなまぶたをうすく開けて、北野は微笑んだ。目の光も弱い。その目を五郎と合わせたまま、布団から指先を出して、自分の唇に触れた。一瞬たじろいだが、頷いて、身をかがめた。兄の唇に己のそれを重ねると、触れた場所を通して自分の内側から兄の中へ、流れ込んでいくものがあるのを感じる。

「どうだ」

「……もう、おまえも、わかってしまったね」

 すこしだけ、兄の笑みは寂しそうだった。五郎は頷いて、兄に笑いかける。

「やっと、……少しは役に立てるようになった」

 あの洞窟で、自分の中に今まで在ると知らなかったものが在ったことを知った。そしてそれが、兄の持つものと同質のものだということも。

 着替えを手伝った時に、触れると自分から兄へ力が流れていくのを感じた。大嗣の部屋で、兄が触れていてくれと言って、そういう仕組みなのだと納得した。そしてこうしてみると、手や肌に触れているより唇を触れ合わせるほうが流れていくものは多いようだ。

「だからといって、自分の持ち分を全部僕に渡そうとか考えてはだめだからね」

「……だからだな、兄者。そうやすやすと俺の考えを読……いたた」

「ほら見ろ。おまえだって自分を養う力は必要だよ」

「俺は、別にあとでもよいし、傷ぐらい神秘の力がなくとも治る」

「僕がいやだからだめ。……なが、いるよね」

「……いるとわかってるなら、あまり見せつけないでほしいんだが」

 ため息をついて、北野を寝台におろしたあと部屋の入口へ戻って待っていた永行が寝台に近づいてきた。北野に見えるように五郎の背後から顔を出して、のぞきこむ。

「なんだい」

「五郎をお願い」

「……はいよ」

 苦笑して頷き、永行が五郎の腕をとる。

「ほら、行こう。ここは静かにしておいたほうがいいだろう?」

「ああ……そうだな」

「僕は大丈夫。ずいぶん楽になった。少し眠るから、手当てをしてもらっておいで」

「……わかった」

 兄の容態が気にはなったが、兄も五郎がいつまでも傷の手当てを受けずにいればそれが気になって休まらないだろう。思い切りをつけて、永行とともに兄の部屋を出た。

「どこか使える部屋はあるかい」

「俺の使っておる控えの間が」

「よし、じゃあそこへいこう」

「三つめの部屋だ」

「わかった」

 頷いて、永行は五郎を支えていないほうの手で、床に置かれていた木箱を拾い上げる。

「それは?」

「鳥に頼んでおいた。薬や包帯がどのくらいあるかわからなかったからな」

「……末どのは、じつによく気がつかれるな」

「娼館の差配ができるほどじゃないさ」

「大嗣も言っておられたが、末どのと鳥どのが加勢に来てくださらなんだら、俺たちはここへ戻ってくることはできなかったやもしれぬ。あらためて、お礼を申し上げる」

「間に合ってよかったよ。俺も、せっかく出会えた兄貴と想い人をまとめて奪われたくはない。……ここか」

 五郎の示した部屋に入って、永行は五郎に服を脱がせ、あちこちに手を触れる。痛いかと聞かれて、痛いところは素直に痛いと言った。

「末どのは、医術の心得がおありなのか」

「免許はとってないが、ざっくりな。……しかし、これは」

 つぶやいて、永行は珍妙な顔をして五郎を見た。

「驚いたぞ」

「……何だろうか」

「どこも折れていない」

「は?」

「あれだけ吹っ飛ばされたり叩きつけられたりして、肋骨の半分ぐらいは粉々じゃないかと思ってたんだ。なのにどこも折れていない。打ち身だけだぞ。どういうことだ」

「どうと言われても俺も困るが、……俺は神将とやらになれたらしいので、そのおかげなのやもしれぬ」

「嬉しそうだな」

「……俺はよくよく読みやすいのか」

「まあ、顔にはよく出てるな」

「修行をしなおさねばならんな。……まあ、うむ。嬉しいさ。やっと、本当に必要な力を手に入れられた」

 五郎は自分の手を見下ろす。力を得た実感はあるが、ではその力をどう使うのかと言われれば皆目わからない。それでも、すくなくとも兄を支えることはできるようになった。

「太夫の言ってたことじゃないが、だからといって太夫のために使いすぎるんじゃないぞ」

「兄と同じことを言うのだな」

「みんな思ってるさ。言うか言わないかだけの差だ。……よし」

「いたっ!」

 ぱちんと背を叩かれて悲鳴をあげた。

「本当にどこも折れてないようだ。深い傷もない。一度、風呂で汚れを落として体を温めてくるといい。多少しみるかもしれないがそこは我慢しろ」

「いや、風呂はもう、この時間は落としておる。まあ、井戸の裏に洗い場があるのでそこで体は洗えるが――さすがにこの時刻から水を浴びるのは少々冷えそうだな」

「は? 何を言ってるんだ。今のきみに井戸で体を洗わせたりしたら俺が太夫に口をきいてもらえなくなる。やめてくれ。風呂ならあるだろう、この奥にいつでも使えるやつが」

 永行がきょとんとして、言われた五郎のほうもぽかんとした。

「何を言っておられる。あそこは兄の」

「太夫は寝てる。風呂になんか入って来やしない。そうでなくても、別に風呂場でかちあって困る間柄でもないだろう」

「いや、そういうことを言っておるのではない。あそこは俺のようなものが使ってよいところではないと」

「太夫が起きてたら使えと命令するさ。なんなら太夫の部屋に戻って寝てるのを起こして許可をとってやろうか?」

「やめてくれ。そのような理由で起こすなど」

「だろう? なら入れ」

「いや、しかしだな末どの……うわ、ま、待ってくれ引っ張るな」

「きみを説得してると時間がいくらあっても足りん。服ごと風呂に投げ込まれれば観念して脱ぐ気になるだろう」

「わ、わかった、わかった。入る。入るからそれは勘弁してくれ」

 このままでは本当に服のまま風呂へ投げ込まれそうで、諦めて降参した。着替えと手拭いを用意しておとなしく永行の肩を借りて湯殿へ向かう。

「しかし、なんだな――」

「うん?」

「末どのは時々、兄にそっくりの物言いをする」

 いくらか拗ねた気分でこぼすと永行は低く笑った。

「血かな」

「そういうところは似んでくれてよいのだが」

「ははっ。選んで似たわけじゃない。諦めるんだな」

 朗らかな笑い声に、五郎は深くため息をついた。



 勧められたとおり体の汚れを落とし、湯で体を温めるとこわばっていた節々がほぐれて、ずいぶんと全身が楽になった。逆に痛みの強くなった場所もあったが、それは本来の痛みで、今まで感じていなかったほうがおかしいのだと叱られた。

「ところで、五郎兄」

 五郎の腕に包帯を巻いていきながら永行が言った。

「……末どの。その呼び方は」

「その後太夫は押し倒したか?」

「なっ……?」

 目を剥くと永行は目の端から上目遣いに五郎を見て、大きなため息をつく。

「まだなのかよ。愚図だな」

「いや、末どの」

「というか、前から気になってたんだがな、その呼び方はやめてくれないか。人前ではともかく、いちいち西の息子と他人扱いされているようでいらっとする。永行でいい。あと、敬語もいらん」

「……で、では、永行どの」

「永行だ。そっちが兄貴だろうが」

「な、……永行」

「よし」

 ぴしりと飛んできた声がまるで兄の叱声のようで、思わず従ってしまった。

 やはり兄が五郎に言うことを聞かせたあとのように永行は頷いて、あらためて五郎を見る。

「で? なんだっていつまでも据え膳を食わないんだ」

「い、いや……だから」

 なんだかその色素の薄い瞳を直視できずに、五郎は目をそらした。兄の瞳はうすい茶で永行の灰とは色がまったく違うのに、やはりこれもなぜか兄を思い出してしまう。

「そもそも据え膳などではないのだ、あれは。俺をからかっておるだけで」

「なあ、兄貴」

 腕の包帯を結んで、背中へ回って永行は打ち身に膏薬を貼る。

「太夫は本気だぞ?」

「何を言っておられ……何を言っておる」

 かぶりを振った。

「兄は昔から、俺をからかって振り回すのが好きなのだ」

「そこは否定しない。じつに楽しそうにきみをいじめるよな。だが、これに関しては、きみの思い違いだ。きみだって、あの時あの場にいただろう」

「あの、というのは」

「俺が最初に登楼した時だ」

 背中にも胸にも膏薬を貼って、永行は晒を裂いて幅広の包帯を作り、五郎の上体に巻きはじめる。

「五郎以外の弟と寝るつもりはなかった、おまえが僕を押し倒さないせいでほかの弟と寝てしまった、と言っていただろう」

 終わったらしい。シャツを渡されたので、受け取って袖をとおした。

「あれこそが兄のいつものからかい口だ」

 下へ下りるわけではないから上を一つ残して釦をとめた。袖口の釦も左、右ととめて、見下ろした右手をぎゅっと握る。

「兄は、……もうだいぶ前から、俺が自分をよこしまに恋慕しておることを見抜いておるのだ。だからそれを咎め戒めるために、ことごとに俺をからかってくる」

「おい――勘弁してくれ」

 永行は天井を仰いだ。

「あのなあ、馬鹿野郎」

 ほとほと呆れたという顔でそんなことを言われて、五郎は鼻白む。

「な……なんだ」

「逆だ」

「え」

「あれこそ韜晦に見せた本音だよ。日々客に体を売っていて、きみに捧げられる純潔など残っていない。だからこそ、せめて弟とは寝ていないと限ることできみに操を立てていたんだ。そうと知っていれば太夫がきみと結ばれるまでは血縁だと明かさなかったのにと、俺はあの時心底後悔したんだぞ?」

 唖然と、五郎は永行を見る。

「いや、まさか……そんな」

「宮の名を持つ人だぞ」

 薄灰の瞳が真摯に五郎を見据える。

「それほど高貴な人が、蝦蟇の化け物に犯され日々男に体を与え艶声をあげる己を恥じずにいられるものか。そんな自分が、弟を恋慕していると、太夫のほうこそ口が裂けても言えるはずがなかろう。敢えて冗談やからかい口にまぎらわせなければ口にできるはずがないと思わないか」

「…………」

 呆然と、五郎は永行を見る。

 言われてみればいちいちにそのとおりだと思える。傍目八目とも言う。はたで見るほうが当人よりもわかるというのは、こういうことなのか。

「なあ、五郎。きみもしや、太夫が本音を口にした時ほどそれを冗談だ、からかわれたと受け取ってきたんじゃないのか。太夫なら、どう話をそらしてどう意地悪を言えばきみがそれを信じ込んでしまうかわかるはずだ」

 黙り込んでしまった五郎に、さらに永行が言う。それもまた、言われてみれば道理だ。

 なぜまだ数度会っただけの永行がそこまで兄を理解できるのかと思い、すぐにかぶりを振った。それは嫉妬だ。

(嫉妬……)

 はっと息を呑んだ。

 少し前。まさに永行に嫉妬したことを、つい兄に告げてしまった時。


―― いじめてごめんね


 ぽろぽろと涙を落とした兄は微笑してそう言った。

 あれが嘘だということはわかった。自分はまた、言ったことか、返答か態度か、なにかを間違えて兄を傷つけてしまったのだと。

「ではあの時、兄者が泣いたのは」

「泣いた?」

「!」

 独り言を呟いたらふいに襟首を掴み上げられて、五郎は愕然と永行を見上げる。

「泣かせたのか! きみが! 太夫を!」

「あ、い、いや……その」

「何を言った。太夫に、きみが! 何をした!」

 あまりにも詰め寄ってきたその眼光が険しくて、気圧されて五郎はその時のやりとりを白状してしまった。

「…………」

 聞き終えて、なおも強く怒りを浮かべた瞳で永行は五郎を睨みつけた。

「きみが清宮さやのみやの想い人でなければ顔の形がなくなるほど殴ってひと月は床から出られないようにしてやるところだ」

 吐き捨てて、五郎の襟首を突き放す。五郎はそのままへたりと床に座り込んだ。

「まったく、腹の立つ。なんだって俺はこんな男に負けるんだ」

 早口に呟くと、永行は五郎に背を向けた。

 永行の肩が大きく上下している。幾度か大きく息を吸って、そして振り返った。まだ呆然としている五郎の前へ膝をつく。五郎の肩を両手でつかんだ。

「……なあ、兄貴。頼むよ」

 永行は、兄が泣くのをこらえているときのような顔をしていた。

「約束してくれ。次は必ず、からかわれたなどと思わず、たとえ怒らせたとしても抱き締めて、口づけて、あんたから、想いを告げると」

「……」

「地獄を見てきた人なんだぞ。ずっと独りで耐えてきたんだ。せめてこの先ぐらい、幸福にしてやってくれよ。神力を得ることなんかより、神将になることなんかより、ずっと大事で、太夫の喜ぶ、あんたにしかできないことだ」

 真摯な声が、胸に染み込んでくる。

 瞑目して、五郎は強く唇を結んだ。



 ずっと、宮、宮様、と、そう呼ばれていた。女房たちや、下女下男、警護の侍たち、典医、進講の学者たちはもちろんのこと、父にさえ、名で呼ばれたことはなかった。母は生きているのか死んだのかも知らなかったがおそらくいたとしても名で呼んではくれなかっただろう。

 それは宮様が貴いお方でいらっしゃるからでございますと、なぜ名で呼ばないのかと聞けば言われた。呼んでほしいと言うととても宮様の御名をお呼びできる身分ではございません、私がお咎めを受けてしまいますと首を振る。自分が許すと言えば、とんでもない、恐れ多いと固辞された。

 ならば自分の名はいったいなんのためにあるのだろうか。なんのために自分には名がつけられたのか。

 一方で高貴な身であるのだから軽々に他者に名を明かしてはならぬとはうんざりするほどに言われた。名を知られてしまうと呪詛をかけられたり怪しげな術に使われてしまうやもしれぬ、と。

 ますます、自分の名とはなんのためにあるのかと思った。きれいな言葉だと思っていたし文字も気に入っていた。だからこそ誰にも口にしてもらえないのは切なく寂しかった。

 広に出会うまでは。

 ひどく寒い、湿った雪が重く降る日。父に連れられて祖霊の廟へ詣でた帰りのことだった。

 道端に蹲っている少年がいた。父にあれはどうしたのかと聞くと貧民でおそらく凍えているのだろうと教えられた。

 哀れに思って、連れて帰ってはだめかと尋ねた。めったにねだりごとをせぬ自分の願いを父は聞き入れてくれた。おそらく、拾って帰ってもすぐに力尽きると思ったのだろう。のちに女房のどれかが命汚い小僧と物陰で罵っていて、父の真意を知った。

 だが少年は父や女房の思惑に反して力尽きなかった。名を聞いたらコウと言ったので広と字を当てた。名を名乗ったらその名で呼んでくれた。

 はじめて、ゆかり、と呼ばれた日の甘い背の震えを、今でも覚えている。すぐに女房に知られてひどく叱られたようだったが、余人の前では体裁をつけても二人だけの時は今までの通り呼んでほしいと頼んだら聞いてくれた。

 光の当たり具合で時折赤に光るように見える黒い瞳。口数は少なくいつも自分ばかりが話して、相槌もほとんど打たずに聞いているだけだったが、返事はしてもろくに聞いていない女房などと違っていつもちゃんとすべて聞いていてくれた。嬉しいことは少なかったが、どんなことも話した。いつでも傍らに、それが許されない時は部屋のすぐ外に、あるいは窓の外に控えていて、いつからか、何かあれば前へ出て背で庇ってくれるようになった。

 誰も、一銭の給金も与えたことがないと知ったのはずっとあとになってからだ。憤ると広は小さく笑っておまえに従っていることを許されるのが何よりの報酬だと言った。広が笑うことはめったにないことだったから、言われた言葉もその時の笑みも何よりの宝になった。

 父が死んだのは広を得て何年した頃だったろうか。とくにこれといって慈しんでくれたという記憶はなかったからあまり悲しいとは思わなかった。結局一度も名を呼ばれないままだったなと、そう思っただけだった。だが父があの時廟へ連れていってくれなければ広と出会うことはなかった。それだけは感謝した。

 父を喪って、もうひとつ、変わったことがあった。屋敷を出て、神宮と呼ばれる場所へ移るよう命じられたのだ。

 どこにいてもたいした差はない。広は従者として連れて行ってよいということだったので、言われるまま居を移した。

 それは、最大限に善意に見て、軟禁だった。独立した離れを与えられ、食事は都度きちんとしたものが届けられた。衣服も十分に用意されていた。狭くも寒くも暑くもなかったが、履き物は与えられなかった。神宮の外へ出ることはもちろん、庭に出ることも許されなかった。最後まで名を呼んではくれなくとも父はこの境遇から自分を守り続けてくれていたのだと、やっとありがたく思ったが、もともと家にいても活発に外へ出るたちではなかったからあまり変化はなかった。

 紙と筆は頼めば与えられたし書物も多少なら与えられた。書物を読み、窓や縁から庭や空を眺めて、歌を作ったり風景を絵に描いたりして時をつぶした。広が話し相手になってくれたし、広は外出を制限されていなかったから庭から花や若葉や紅葉をとってきてくれて、それで十分に楽しかった。

 神宮へ移されて何年が過ぎたのか。ある夜、狼藉者の一団が離宮に押し入ってきた。自分を攫っていこうとする狼藉者たちに広は敢然と立ち向かったが何人もの成人した男には少年の力は及ばず、自分の喉に刃物を突きつけられては抵抗を諦めるほかになかった。

 一団が広を殺して捨てていくと言っているのが耳に入って、従者を殺したら己も舌を噛むと脅して広と二人で神宮を出た。

 決して、広だけは害させぬ。それがたった一つだけ、願ったことだった。

 名前も知らなかった北東の街。そこを支配する醜悪な化け物に手込めにされそうになった自分を庇って、広は化け物に踏み潰された。己の身が潰されたように感じた。化け物の足元にひれ伏し懇願の言葉を口にすることにもためらいは感じなかった。


―― ならば我に忠誠を誓え


 ぎりぎりと、足の下の広をさらに踏みにじりながら言った化け物に誓うと約した。おぞましい化け物を、己の手で引き裂けと命じられて、従った。


―― ごめん、ごめんな、広。


 引きずり出した妖物の心臓を血濡れた手で広に差し出した。



 広がいてくれれば。

 広を失わないためなら。

 どんなことにも耐えられる。

 おぞましい化け物に繰り返し犯されついには悦楽を覚え込まされても。

 自分の与えた穢らわしい内臓のためか紅く染まった瞳で広が見つめる前で淫声を迸らせる羞恥など、広を失うことに比べれば何でもなかった。


―― もう、宮様やのうなってもうた。


 永劫に続くかと思った搾取から解放され、別室へ移されて。

 唇を噛んで俯く広に、苦く笑いかけた。


―― けどまあ、宮でおってなんぞええことあったか、ゆうたら、たいしてなかったし。広がおってくれるからそれでええ。……明紫。そう名乗ろかな、今日からは。


 どうやろ、と微笑むと、なら、と広は強い決意を秘めた瞳で顔を上げた。


―― 俺は、咬だ。あんたの狗だ。



 咬の肩に頭をこすりつける。腕が上がって、髪を撫でた。幸福に、明紫はうすく笑う。

 起き上がり、引き締まった胸板に覆い被さって唇を重ねる。頬に手のひらを添え、額を合わせて目をのぞきこんだ。

「目の色、戻らんね」

「いやか」

「いやと違うよ。何色してても広は広や。点検しとるだけ」

 いたずらっぽく笑って見せると咬も苦笑めいた笑みを浮かべる。明紫を抱いていないほうの腕を上げてかざした。

「溶かせなくなった」

「……そか」

 明紫は手を伸ばしてその手の指に自分の指をからめた。

「けど、ほんまいうと、自分、あれ、好きやなかった。咬の手が爛れとるの、痛そうで、いつも胸痛うて」

「そうでもなかった」

「それ、感覚がのうなってた、いうことやろ」

 ぷくりと頬をふくらませる。手を引き寄せて、穢らわしい機能を失ったてのひらにそっと口づけた。

「これも、まだあるね」

 左腕の龍を指でなぞる。狗の心臓を飲み込ませ、生き返った咬の腕に浮かんでいたこれも、消えずに残っていた。

「もしかしてこの龍が広のこと守ってくれたんかな」

 ふと口に出すと咬がかるく首を傾げる。うすく、明紫は苦笑を浮かべてみせた。

「前からな、思ってはいたんや。犬の化け物の心臓使うて蝦蟇の力で生き返って、……なんでこれは龍なんやろ、て」

「……そういえばそうか」

「思うたことあれへんか」

「ないな」

「自分の体のことやろ」

「おまえの役に立つならなんでもいい」

「……広は全部それやな」

「ほかに何がある」

 下から手をのばして、咬は明紫の頬に指先で触れた。

「俺は全部、おまえのものだ」

「……うん」

 頷き、明紫は再び咬に口づける。

 髪をとおって首の後ろへまわった手が引き寄せる。逆らわずに体重を預けるとそのまま体を入れ替えて組み敷かれた。

 重なった肌の温度の高さにとろけた吐息がこぼれる。

「名前呼んで、広」

「紫」

「……うん」

 うっとりと、明紫は微笑む。

「広に呼ばれると、僕の名前やなあ、て思う」

「いくらでも呼んでやる」

「おおきに」

 笑うと、かぶさってきた唇も笑みの形をつくった。



 何かが静かに動く気配を感じてふっと目を醒ます。

「おっと、すまん」

 目を開けると、そこにいたのは永行だった。

「起こしちまったか」

「……いいよ、だいじょうぶ」

 かぶりを振って、そして布団に重みが乗っていることに気づく。

 目をやると、寝台の端に五郎が突っ伏していた。肩に厚地の掛け物がかけてある。これをかけにきてくれたらしい。

「床をとれといったんだが、断じてきみのそばにいると言い張るのでな。まあ、俺がいなくなればほどなく力尽きるだろうと思って、時間をおいてのぞいたら案の定だ」

 にやりとした永行に、北野もうすく笑う。

「……どちらが兄かわからないな」

「なに、たまにはいいだろう。……で、どうだ?」

 どう、とは何のことかと目をしばたたくと永行の視線が動く。追うと、五郎の手が布団の中で自分の手をしっかり握っているのに気がついた。

「……道理で、ずいぶん楽になっていると思った」

「そんなに違うものか」

「そうだね。明日……の朝はちょっと無理かな、夜か、あさってには起きられそう。五郎がいなかったら五日は起き上がるのも厳しかったかも」

「それはたいしたものだ。兄貴も報われることだろう」

 兄貴と言いながら、北野に言われたからというわけでもないだろうがまるで弟を見るような目で永行は眠る五郎を見る。そして少し表情をあらためて北野を見た。

「係が今日は力尽きてるから俺が代わりをしよう。何かほしいものはないか」

「ん……水を少し飲みたいけど、五郎を起こしそうだからいいや」

「そう言うような気がしたよ」

 苦笑ぎみに笑って、永行は枕元のテーブルに何かを置いた。

「水差しを置いていく。あとで飲むといい」

「ありがとう」

「どういたしまして。――なあ太夫」

 永行の声がふと真摯な響きを帯びた。

「うん?」

「二度と言わないから、一度だけ、言わせてくれないか」

「なに?」

 目を上げると永行の視線がまっすぐに北野を見る。

「母が語る姿に、ずっと憧れていた。ひと目で恋に落ちた。共寝して、離したくないと思った。――きみを愛してる」

「……ありがとう」

 視線を合わせたまま、北野は微笑んだ。

「僕も大好きだよ、あるじ」

 永行は唇の端を上げた。

「じゃあ、俺はそろそろ行くよ」

「今日はどこに泊まるの」

「地下の空き部屋を使わせてもらうことになった。山鳥と雑魚寝さ」

「……ほかのを揚げてもいいよ」

 永行の背に、そう言った。振り返った永行に笑いかける。

「きみだけは特別に、浮気をしても許してやる」

「特別扱いか。それは気分がいいな。考えておこう」

 永行はうすく笑い、おやすみと言い残して部屋を出ていった。

「……ごめんね」

 客としてでなければ、応えてやることはできないと、残酷な返答をして。

 ごく小さく呟いて、北野は五郎に体を寄せて目を閉じた。

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