14 依(よりわら)


 永行の言ったとおり、東の老人の葬儀に南の老人の姿はなかった。さすがにその日にということはなかったが、さほどたたずに訃報が届き、四家のうち二つが前後して代替わりということになった。



 ひととおり書面に目を通して、末尾のあたりに視線を据えたまま北野は黙っている。

 北野が何を考えているのか、その平坦な表情から読み取ることはできなかった。

「……お姫さん」

 しばらく待って、明紫が静かに呼んだ。

「いややったら行かんでええよ」

「まさか」

 返事には迷いはなかった。

「喜んで行ったことは一度としてないけれど、行くのが嫌だと思ったことも一度もないよ。これは僕のつとめだ。……まあ、さしもの僕も今度ばかりはただではすまないかな、と考えていたのは事実だけれど、だからといって大嗣に肩代わりなんかさせない」

「……五郎、連れていくか?」

 そう言われて、北野はぎゅっと口元を引き締めた。小さく息を落とす。

「やっぱり、わかっていたね」

「うん」

「……すこし考えさせて」

 書状を元通り畳み、封紙に包んで明紫に返すと北野は居間を出て行った。その足取りはいつもよりも少し覇気を欠いているように思えた。

 明紫が肩越しに咬を見上げた。手を伸ばしてきたので控えていた背後から傍らへ場所を移す。

 咬の胴に腕を回して引き寄せ、明紫はため息をこぼした。

「ままならんもんや」

 独り言に、明紫の頭を自分に寄りかかるようにかるく引き寄せる。素直に咬の胸に頭を預けて、明紫はもう一つ吐息をこぼして目を閉じた。



 背後の扉のさらに奥からごくかすかに、甘く切なげな声が聞こえて、五郎は体を固くする。

 先ほどちらりと見た扉は石造りでかなり厚かった。開けるのを五郎も手伝ったがひどく重かった。

 あの扉を通してもまだ聞こえてしまうほどの声。周囲には耳が痛いほどの静寂が満ちていてわずかな物音もよく聞こえてくるだろうとは言え。

 唇を強く結び、腹に力を入れる。膝に置いた手をぎゅっと握った。

 兄が客の相手をする部屋の前で待つのは珍しいことではない。部屋の中に控えることもそれなりにあるから兄の艶声は数えられぬほどに聞いている。だが部屋が永咲館の兄の部屋ではなく、そして相手が大父となると、さまざまなことを知ってしまった今となっては平静ではいられない。

 ちらりと、傍らの大兄を見上げた。扉の前に膝をついて控えた五郎とは違い、大兄は扉にかるく背を預けて腕組みをしている。常のようにその顔には感情と窺えるものは浮かんでいない。だが兄はともかくとしても、大嗣のこうした声を、この人はずっとここで聞いてきたのだと思うと粛然たる思いがする。

 かすかに漏れてくる声は高くなり、途切れ、また長く響いてふっつりと切れ、少しおくと再び聞こえ始める。

 声は聞こえては途切れ、また聞こえては聞こえなくなり、そしていくらかの間をおいてあらたに響きはじめる。

 声が聞こえているうちはいとなみは続いているということだ。そしてそれは北野を揚げるさまざまな客を見てきた五郎の感覚からしても非常識なほどにいつまでも続いた。

 いったい、大父はいつ果てるのか。一度ではないのかもしれぬが、ではいったい幾度挑んでいるのか。大父のやりようがえげつないと兄は言っていたがこういうことなのか、あるいはもっと別のことなのか。はじめてここへ供をした五郎にはわからないことが多すぎる。それをいちいちに大兄に尋ねるのも憚られる。結局何も言わず悶々としているほかになかった。

 気づくと、途切れた声が再び聞こえはじめることのないままずいぶんと時間が過ぎていた。ようやく、兄は解放されたのか。ほっとため息がこぼれた。

 兄が奥にあるという湯殿で体を清め、戻る支度が整ったら鈴を鳴らす。それを合図に五郎は大兄とともに扉をあけ、兄が屋敷を出る供をする、と教えられている。

 しかし、なかなか鈴は鳴らない。大嗣も先に大父に求められた時はしばらく立ち上がれなかったらしいと聞いているが、もしや兄も――そう考えた時、ふいにざわりと胸が波立った。

 全身がこわばっていく。

 違う。

 たぶん、これは――。

「……大兄」

 それは、無視することのできない胸騒ぎだった。意を決して振り仰ぐと、大兄が五郎へ視線を向ける。

「その、このようなことを突然申し上げて何をくだらぬとお思いになるやもしれませぬが――もしや、兄はこの奥のお部屋にはもうおらぬのではないかと」

 わずかに、大兄は片方の目を眇めた。五郎もその目を見つめ返す。

「なぜと言われれば俺がそう感じるから、としか申し上げようはないのですが――いや、むしろ感じぬと申すべきでしょうか。胸が騒いでならぬのです。兄はそこにはおらず、どこか、俺に声の届かぬところで俺を懸命に呼んでいる、そう思われてなりませぬ」

 大兄は短い間、五郎をその真紅の瞳で見ていた。平素であれば大兄と目を合わせるなどけしてしないことではあるが、今だけはひたと見つめ返した。

 大兄が腕組みを解いた。扉へ向いて把手に手をかける。五郎の言うことを聞き届けてくれたのだと五郎も急いで立ち上がり反対の戸を引いた。

「兄者……? 兄者、おるか」

 声をかけながら奥へ足を向ける。兄がいて、なんらかの理由で入って来られたくないのであれば来るなと応えを返すだろう。あるいは時間がかかっているのを心配させたと気づいて返事をしてくれるかもしれぬ。

 しかしいらえはなく、おそるおそる踏み込んだ寝間に、兄の姿はなかった。ばかげた広さの寝台に散らばったぐしゃぐしゃの敷布は色めいたものよりもむしろだらしのなさを思わせた。

 床のあちこちには兄の衣装が乱雑に投げ捨てられていた。

 その光景を見た瞬間、強烈な怒りがこみ上げてきた。腹の底が灼けるように熱い。

 兄が身につける衣服だ。客の前へ出るための衣装はもちろん、肌着は当然、部屋着から湯着、手巾一枚、沓の中敷きにいたるまですべてが吟味され選び抜かれたものだ。あたいの高くはないものもたまに混じることはあるが質の悪いものは一つとしてない。

 それを。

 まるで価値のないごみか襤褸かのように粗略に投げ出すなど。

 大父にとって兄の衣服は、畢竟ひっきょう兄そのものはその程度の、こればかりの敬意も払うに値しない存在なのだ。それをこのぐしゃぐしゃにされた衣服は表しているのだと思うと、憤ろしくてならなかった。

 床からそれらを拾い集め、手早く、しかし丁寧に畳んで一つにまとめる。それを抱えて、五郎の傍らを通り過ぎて奥へ向かう大兄に続いた。

 部屋の奥には幅の広い廊下があった。なにやら床の中央あたりがぬるぬるしている。足を滑らせぬように気をつけて避ける。

 途中で右手に入った先には広い湯殿があった。だがそこにも兄の姿はなかった。

「大兄――いったい、兄はどこに」

 部屋の前にはずっと五郎と大兄がいた。それ以前に兄の衣服は床に散乱していた。

 下穿きの一枚も身につけず、兄がどこかへ行くとはとうてい思えない。

「武器は」

「え」

 大兄が言ってどきりとした。

「ぶ、武器……でございますか」

「持っているか」

「……いえ、何も」

 かぶりを振ると大兄は頷いて身をかがめた。編み上げ靴から細身の短剣が抜き取られて、鞘ごと差し出される。

「持ってろ」

「は――」

 一瞬、それでは大兄が武器がなくなるのでは、と思った。だが、大兄は玄人で、五郎は多少の心得がないわけではない、という程度の素人だ。武器が足りないのであればどちらがそれを持つべきかは明白で、それでも大兄が五郎に武器を持たせようと思うのであれば、それは受け取ってよいものだ。そう考えて受け取った。

「お借りいたします」

「手はあけておけ」

「――かしこまりました」

 緊張とともに頷く。だが兄の持ちものをここへ置いてゆくのは抵抗がある。湯殿に用意されていた湯着を拝借してしっかりとくるみ、背に負った。借りた短剣は帯にはさみこむ。

 大兄は五郎が支度をする間、何も言わずに待っていた。五郎の準備が整うと歩き出す。表情を引き締めて、五郎もあとに続いた。

 廊下は広く、時折枝分かれしている。だが大兄は迷わずに道を選んで足を進める。

「大兄は、ここをよく使われるのでしょうか」

「はじめてだ」

「道を、よくご存じに見えました」

 疑問を口にすると大兄は前方へちらりとあごをしゃくる。

 床に、先ほどもあったぬめぬめとした、巨大な蛞蝓なめくじの這い跡のようなものが見えた。

「これを、追っておられる?」

「大父の通った跡だ」

「――!」

 言われて、やっと理解した。

 兄はあの部屋にいなかったのだ。連れ去ったのであれば、大父をおいてほかにないではないか――。

「では、この行き着く先が……」

「大父の巣だ」

 巣、という言葉と、大兄の冷たい声にぞっと背筋が寒くなった。

 そこからは五郎も口をつぐんだまま先へと進んだ。

 大兄は走りはしなかったが、かなりの早足で大股に先へ向かう。それについて行きながら、五郎は胸の騒ぎがどんどん波立っていくのにやきもきしていた。


 ふと。


 なにかが聞こえて、はっと呼吸が詰まった。

「大兄……」

 あまりにも胸が痛くて、呼んだ声は囁きにしかならなかった。大兄が振り返る。

「声が」

「……声?」

「兄の、声が……」

 いや。

 それが本当に声だったのかどうかも、五郎にははっきりとはしなかった。

 聞こえた、というよりは、感じた、と言ったほうがよかったかもしれない。

 だが、それが兄のものだということだけは、疑うべくもなかった。

 そしてそれが悲痛な、絶望を間際にした悲鳴だということも。

「兄者……」

 浮かされたように呟いて、五郎は身の内のなにかに命じられるままに足を踏み出す。反対の足がそれに続き、先の足がさらに前へ出た。

 よろめくような足取りはやがて駆け足になり、そして疾走に変わっていく。

(兄者……――!)

 それ以外のものは、五郎の意識から消えていた。



 もともとねちっこく長く、そして一度では終わらぬ強精ではあったが、今日の大父はいつに増してしつこく、そして貪欲で激しかった。

 表向き喘いで悶えて見せながらも体力は温存し、極力、追い上げられないよう気をつけてはいたが、とうとう最後には自制をすべて剥ぎ取られ狂乱させられた。

 気力も体力も精も神力もとことん絞られ吸い上げられて、ついには意識が途切れた。

 気を失っていたのはどのくらいの間だったのか。肌寒さに意識を引き戻されてうすく目を開けると、そこは屋敷の寝間ではなかった。

 ゆっくりと、ままならぬ体を叱咤して起き上がる。

 そこは薄暗く、広い空洞だった。濁った水の匂いと、かすかにぴちゃぴちゃと水の音がする。

 振り返ると少し離れたところに水が打ち寄せており、さらに水面をはさんで岸があるのがうっすらと見えた。見上げた頭上は暗く、見えはしなかったがなんらかの天井があるのは空気のこもりかたと空とおぼしきものが見えないことでわかった。

 北野は一度だけ、ここに来たことがある。いや――二度か。

 一度めははるかな昔。神宮から攫われて、はじめてあのおぞましい生き物に犯された時。

 二度目は、ごく最近。

 雛瑠璃が食い尽くされたことを確認するために訪れた大嗣に従ってきた。

 大父が平素過ごしている、淵に寄り添う岩山の地下にある洞窟だった。淵の水が流れ込んで小さな入り江のようになっており、岸からしばらく続く腿から腰高ほどの深さの浅瀬の向こうに岩棚が広がっていて、そこが大父の巣になっている。

 北野は、その巣の中ほどに転がされていた。

 そうとようやく理解して、そして全身に鳥肌が立った。

 伽をつとめる場所はいつも屋敷だった。放埒に耽る時は、大父は己の姿を多少人に近いものに変える。そのほうが大嗣や北野の体をたっぷりと愉しめるからだ。大父の本体はかなり大きく、人を喰うには適しているだろうが陵辱し蹂躙するには逆にやや不自由があるのだ。

 屋敷と同じような寝台は一画にあり、生贄を喰わせる時には先に犯してから喰うこともあるためにそこへ生贄を置いていくが、ここは、色を愉しむ場所ではない。

 ここは、大父が、食事をする場所だ。

 そこに連れてこられたということは。

「!」

 ぞわりと毛が逆立って、はっと振り返る。

 振り返った鼻先に粘液をまとったおぞましい手が迫ってきて、叫び声をあげて反射的にそれを跳ね除けた。神力で障壁を張り、妖物を禁じる術で身を護る。

 何十年か前、はじめてここへ連れて来られた時にもしたように。

 あれから、我流ではあったがいくらか修行も積み、神力を操るのは多少は巧みになった。

 だが、さんざんに嬲られたばかりで、困憊している。体力も、精神力も、そして何より神力がほとんど残っていない。抗いとおすことができないのは、何よりも自分がわかっていた。

 それでも。

「来るな……退がれ! ……僕に、触れるな!」

 気合を放つと縛されて妖物が動きをとめ、押し戻される。だがそれは一時しのぎにすぎない。やがて縛は解けてまたにじり寄ってくる。

 退けた妖物が再び迫ってくるまでの間隔はどんどん短くなっていく。合間に逃げようとしても、力はすべて妖物を退けることに回している。脚が萎えていて立ち上がれない。手を使って背後へわずかずつ這っても、それは化け物が迫ってくる速度とは比べ物にならない遅さで、岩棚の縁でさえもはるかに遠い。まして浅瀬を、歩くなり泳ぐなりして抜けて岸辺へあがるまでの間、妖物を押さえておくことが今の自分にできるとはとうてい思えなかった。

 捕らえられてしまえば、もうその先に明日はない。

 いつかはやってくる日だとはわかっていた。過去の生贄と大嗣はすべて、この化け物の腹に納められた。だから自分もいつか、あれに喰われるのだと、覚悟は決めていた。

 そのつもりだった。

 それなのに。

 いざその場になると覚悟などまるで決まっていなかったことを思い知る。

 これほど長く生きてなお、これほどに死は恐怖なのか。

 慈しみ庇って、見守り支えてくれた優しい従兄をこの地獄に遺していってしまう悔しさ。

 誰よりも愛おしい弟。

 たった二度、口づけを交わしただけだった。

 もう抱き締めることも、抱き締めてもらうこともできない未練。

 なんと、自分はあさましく愚かなのか。

 それでも。

 抵抗を放棄することはできない。

 今まで彼らを生かしてくれた、あの青年とその影のためにも。

 ああ、でも――弟は。

 弟はこれで、自分が弱く愚かだったがためにかけてしまった呪いからは解き放たれる。

 せめて、それだけが救いだろうか。

「退がれと言っている!」

 足先に触れようとしたおぞましい指先を押し戻す。

 にたりと、蝦蟇が笑った。

 わかっているのだ、これも。

 北野の抵抗がどんどん弱まっていることを。ほどなく力尽きるのだということを。

 縛されることにすら、そのたびにその力が減じていることを確かめて愉悦をおぼえているだろう。

 そう、これは――むしろ、北野への拷問だ。

 北野はこの化け物に叛かぬという誓いを立てさせられた。反射的に退けてからしまったと思ったが、化け物は笑っている。

 これは、とてもではないが「叛く」と呼べる状態ではないということらしい。

 抵抗を重ねるほどに北野は弱り、蝦蟇に対する優位を喪っていく。

 じめじめと湿って冷たいこの巣も、寝台からそのまま運ばれてきて一糸もまとっていない身体から体力を奪っていく。

 わかっている。

 だが、諦めるものか。血肉はどうしようもないとしても、せめて神力だけは、一片たりとこいつに喰わせてやるものか。最後の一滴まで使い尽くしてやる。

 それまでは、断じて折れるものか――。

(……五郎)

 弟の笑顔を脳裏に思い描くと、わずかに体がぬくもりを取り戻す。

(大嗣)

 柔らかく勁い笑みの残像が、心に芯をとおしてくれる。

 まだだ。まだ、抗える。

(僕を、護って。せめて最後まで、誇りだけは手放さずにいられるように)

 冷たい汗が蟀谷こめかみを流れていく。浅い呼吸に苦しく肩を上下させながら、北野は蝦蟇を睨む視線に力を入れ直した。

 だが、果てはもう目の前ににきている。

 視界が明滅し溶暗する。

 意識が薄れて――懸命にそれをつなぎとめる。

 だがその刹那を、蝦蟇は決して見逃しはしなかった。

「ッ――!」

 ひと跳びで距離を詰められた。生臭い息が顔にかかる。わずかに背をのけぞらせてせめてもの距離をあけようとしたが――それもまた詰められる。

 ここまで、なのか。

 ……いやだ。

「五、郎……」

 かすれた声で祈りを囁いた。


「兄者――ッ!」


 聞こえた叫び声にぞくりと全身に粟が立った。


 まさか、と思いながら、一方で気づいて追って来てくれたのか、と喜び、また一方では今のは自分の願望が聞かせた幻聴だったのではないかと怯えながら。

 それでもそちらを見ずにはいられずに振り返った北野の目に映ったのは、まぎれもなく洞窟へ駆け込んで来た弟の姿だった。少し遅れて狗の姿も視界に入ってくる。

 ほっとした瞬間、気が緩んだ。

「ッ――」

 べちゃりと、首の後ろを悪臭を放つ濡れた肉片が舐め上げて全身の毛が逆立った。

「!」

 五郎が憤怒の表情になった。

「兄に! 触れるなァ――ッ!」

「――っ!」

 びく、と身体が震えた。

 怒号を放った五郎の、全身から立ち昇った、鮮烈な赤銅の、闘気。

 そこに浮き上がった、――憤怒の形相を浮かべた阿像。

 北野の背後すぐにまで迫っていた妖物が吹き飛ばされてはるか背後に墜落したぐちゃりと濡れた音が聞こえた。

「うそ、……だ、ろ」

 呆然と呟いた時には、北野は水を蹴立てて駆け寄ってきた弟の腕に強く抱き締められていた。

「兄者――兄者!」

 ひしと抱き締めて、そしてはっと抱擁を解いて顔を近く覗き込んでくる。

「大丈夫か。無事か。なにもされておらぬか」

「……う、ん」

 かろうじて頷くと湧き上がってきた涙がこぼれ落ちた。

「大、丈夫……」

「そうか」

 五郎がほっとした様子で笑顔になる。凍えきっていた体の芯にじわりと温もりが戻ったのを感じた。

 だが、次の瞬間。

 五郎の肩の向こうに、激怒した蝦蟇が迫ってくるのが見えた。

「! 五郎!」

「っ! うぐ、っ……!」

「五郎っ!」

 反射的に振り返り北野を背にかばった五郎が胸を打たれてよろめき、濁った呻き声を上げる。

「げほっ……おのれ……!」

 咳き込み、打たれた胸を押さえて、五郎はもう片手で刃物を抜いた。

 その背の大きさに北野は息を呑む。

 松江と法師に送り込まれた魔物に襲われた時。五郎は北野を胸に抱き込み庇って、己が魔物の攻撃を受けた。

 だが、今は。

 北野を背に護って、あの時とは比べ物にならぬ強大な妖物に立ち向かおうとしている。

「うおぉぉぉ……!」

 再びのそのそと迫ってきた己の倍は上背のある蝦蟇を、腕を上げ握った刃物を突き出して防ぐ。

 その背にまた、赤銅の炎が噴き上がる。

 それはまさしく、かつて神宮にいたころに見せられたことのある護法童子――五郎の生命を贄に北野が呼びおろすはずであった神将の姿だった。

 五郎は、自らの神力で己に神将を降ろしたのだ。――なんの術も儀式も使わず、それも無意識に。

 松江の件で魔や闇の気を感じ取れるようになったのを契機に、五郎には持ち合わせていなかったはずの神力が生じた。

 そうしたことがあると聞いたことはなかったが、あとで聞いた永行の話によれば彼らの母もだいぶ時間が過ぎてから宮に移されたようだったから、まれにはそういうこともあるのかもしれない。もしくは母のその質を受け継いだのか。

 だが北野は五郎にはそれを告げなかった。五郎は自分には神力がないことを気にしていたが、知れば弟は今度はそれを使いこなせるようになりたいとかそのために修行がしたいだのと言い出すに決まっている。

 北野は、五郎にはできる限り只人でいてほしかった。自分たちのいるどろどろとした世界を、できることなら知らないままでいさせたかった。

 だが五郎が神力を得たことで助けられたことも事実ではあった。

 少し前に、大父の伽に侍った大嗣が受けた触りの一部を肩代わりした時。あまりに乱暴に容赦なく奪い取っていかれた衝撃に命のほうが耐えられなかった。

 五郎がくれた気つけ――酒ではなく触れた五郎の唇から与えられた神気で、北野はあの時かろうじて命をつなぐことができたのだ。

 大嗣はいつからか気づいていた。狗も知っているだろう。だからこそ、ここへ五郎を伴ったのだ。

 だが、狗もこれは予想はしていなかっただろう。

 まさか五郎が己の気迫だけで神将を降ろしてしまうなど――。

「く、っ――」

 五郎と蝦蟇の押し合いは続いている。だが、五郎が歩が悪い。神将を呼べたことでさえ奇跡に近い。その力を使いこなせていないのだ。

 こんなことなら少しでも力の使い方を教えておくのだった――。

 五郎を補助することはできない。それは大父に叛くことだ。誓いを破ることに相当する。弟の命が絶えてしまう。

 北野はただ、どうか無事でと祈りながら護られていることしかできない。

「っ……」

 五郎が膝を折った。だが押しつぶされる半ばで持ち直して肩で大父を押し留める。

「く、そ……っ、――大兄! 兄を!」

 その叫びは北野の背後へ投げられ、ほぼ間をおかずに腕をとられた。振り仰ぐと狗が北野の身体を引き上げて立たせようとしていた。

「……いや、だ」

 腕を引かれてかぶりを振った。

「僕だけなんて、いやだ」

「あんたが逃げないと五郎も退けない」

「っ……」

 低い声に全身が震えた。

「見捨てはしない」

「……わかった」

 唇を結んで頷いた。狗にほとんど抱えられて洞窟の出口のほうへ向かう。

「ぐぁ、っ……!」

「!」

 背後で五郎の苦しげな叫びが聞こえてびくりと体が震える。振り返りたい。だが狗が正しい。北野が今しなくてはならないのはできる限り安全な場所へ避難することだ。狗の腕にしがみついて、ほぼ抱えられていてもせめて一歩なりと自力で前へ進もうと、わずかでも狗の負担を減らそうと、力の入らない足を懸命に踏みしめる。

「く、っ……こ、のぉ……、ぐぁっ!」

 呻き声と、ばしゃん、となにかが水面に叩きつけられる音。

「ここにいろ」

 言って狗が北野の腕を放す。いつの間にか岸についていたようだった。そのまま、北野はその場にぺたりと座り込む。動くなと言われるまでもなく、自分の足では立っていることができなかった。

「五郎を、お願い」

 必死に見上げた視界は薄暗くて、狗の顔は見えなかった。

「必ず、連れて戻る」

 返事が聞こえて、涙があふれた。いつもならせいぜい頷くだけで返事などしない男が、北野が見えていないと気づいて、言葉で返してくれた。

 可能な限り深く呼吸をして心を鎮めようとつとめる。少しでも回復しておかなくては、足手まといになる。だが続けざまにひどい音と五郎と狗の叫びと呻きが聞こえてきて、集中はずたずたに散らされてしまう。

 それでもなんとか呼吸を深くしようとしながら、懸命に目を凝らす。ぼやけた視界にようやく見えたのは、蝦蟇の舌に喉元を掴まれて宙に吊り上げられた弟と、それを奪い取ろうと飛び掛かった狗が弾き飛ばされて背から岩棚に叩きつけられた姿だった。

「っ……」

 地に落ちた狗が立ち上がろうともがいて、果たせずに顔から地面に倒れ込む。喉元に巻きついた蝦蟇の舌をほどこうと弟が身をよじる。浮いた足がむなしく宙を蹴る。手に握ったままの刃物はとうに折れて、もう刃と呼べるものは残っていない。

 このままでは――殺されてしまう。

「や、め……んぅっ!」

 思わず懇願を唇からこぼしそうになった瞬間、なにかが背後から北野の口をふさいだ。一瞬、全身が冷えて、そしてふと漂った香りに目を見開いた。

「言うな」

 低く抑えた声が鋭く制止する。

「言ったら縛られるぞ」

「っ……」

 叱責にはっと目を見開く。唇を結んで、頷いた。

 だが、ではどうすれば――。

 ぴぃーっ、と、指笛のような、甲高い鳥の声のような高い音が響いた。ばさばさっと力強い羽音がして何かが鋭く宙を切って蝦蟇を襲う。次いで、もうすこし小さな、だがいくつもの翼がいっせいに羽ばたく音がしてやはり蝦蟇を打った。舌がゆるんで、五郎の体が宙へ投げ出される。

「にゃあーっっ!」

 だみ声が響いて、傍らを灰色の何かが駆け抜けていった。

「ぎゃっ!」

 それは落ちてくる五郎の下へ潜り込み、五郎の下敷きになって悲鳴をあげた。

 一瞬見えたのは、人と同じほどの大きさの、猫――か、あるいは豹、のようなもの。五郎の下から這い出し、倒れている五郎の襟首のあたりを咥えて、引こうとする。だがすぐにそれを諦め、ひとつ頭を振った。と、猫に似た動物の輪郭が溶けて人に変わる。

 それは、命知らずにも大嗣を揚げてみたいなどとほざいたという、このごろ館で時々見かけるようになった剽軽者にひどく似ているように見えた。五郎を揺すり、腕を引き上げて、立たせようとする。何か声をかけているようにも見えたが北野のところまでは声は届かなかった。笛のような甲高い音、羽ばたきの音、何かがぶつかりあう音、激しい水音などが混じり合いわんわんと響いて北野の耳をふさいでいる。

 飛び回っているのは、焦点のぼやけた瞳でははっきりとは見定められなかったが、鳥、のように見えた。蝦蟇を取り囲み、周囲をぐるぐると飛び回っては次々に体当たりをしたり羽で打ちかかったりしている。

 ぐおぉ、と不快げな咆哮を放ち、蝦蟇が身を揺する。鳥の何羽かがそれに打たれた。いくらかは弾き飛ばされ、いくらかは失速して墜落する。

 五郎がゆるく頭を振った。意識が、戻ったのか。だが体に力が入らないのか、立ち上がろうとして横倒しに倒れる。起こそうとしていた男がそれを引き上げようとする。

 蝦蟇が舌を振ってその二人を打った。跳ね飛ばされて、二人が重なり合って浅瀬に落ちる。思わず手を伸ばした体を、背後から北野を抱いて支えていた腕が引き戻した。その腕の中で、北野は弱くもがく。

 わかっている。自分の体を支えることさえできない北野に、できることなど、なにもない。

 本当に――なぜ、自分はこんなにも弱く非力なのか。

「……っ!」

 蝦蟇が。

 軽々と跳躍し、着地する。ずしんと地面と水面が震えて、立ち上がりかけていた五郎と男がまた倒れる。

 そこへ、蝦蟇が前肢を振り下ろした。

 咆哮が響いた。

 割り込んで蝦蟇の打撃を受け止めたのは、狗だった。両腕を交差させて受けた蝦蟇の腕をじりじりと押し戻す。蝦蟇が濁った蛮声をあげるとわずかにひるみ、だが再び蝦蟇を押し返す。

 赫く輝く闘気が背に噴き上がる。

 それなら、押し戻せるのではないか。

 そう思った一瞬。びくりと狗の背が震えた。胸に強い痛みを感じて北野は息を詰まらせる。苦痛に視界が歪んだ。

 ぶつり、と、何かが引きちぎられた感覚。

 狗ががくりと膝をついた。急速に、その全身から生気が消えていく。

「だめだ――」

 かぶりを振った。

 そんなことが、とおってなるものか。

 自分たちのために。

 あのひとの唯一の、かけがえのない半身が喪われることなど。

「だめだ――!」

 叫んだ、その瞬間。

 強烈な輝きが北野を塗りつぶした。



 ぎりぎりと、蝦蟇が押して来る。

 足を踏みしめ、咬は顔の前へ出した両腕にいっそう力をこめる。

「五郎を連れていけ!」

「へっ、へいっ! 五郎さんっ! 早くっ」

 背後へ怒鳴ると猫が飛び上がって五郎を助け起こそうとする。

「大兄!」

 五郎が叫ぶ。

「行け!」

「ですが大兄!」

「いいから行け!」

 鋭く叫んだ。

 ぎろりと、濁った黄色い目が咬を捕らえた。

『ギ、ザマ……』

 がらがらと割れた声が響く。

『ユル……ザ、ヌ――』

「っ、ぐ――……」

 どくん、と心臓が震えた。

 ぎりぎりとそこが絞り上げられて、激痛に呼吸が止まる。

 そこには、狗の心臓がある。

 明紫が、泣きながら自らの手で妖物とはいえ生き物を引き裂いて、その血に染まった手で咬に与えた命。

 それを動かしているのは大父だ。大父に逆らい抗った以上、大父が咬を生かしておくはずもない。

 それでも。

 見捨てることはできなかった。

 明紫も、決して兄弟を見捨てて咬が独りで復命することを望みはすまい。

 可能であればもう一度、顔を見たかったが。

 もう、咬は十分すぎるほどに与えられた。悔いはない。


 ぶつり、と何かが体の奥からちぎり取られたのを感じた。



 もう、寒いとは感じなくなっていた。体の震えもいつからか止まった。吐く息も白く曇ることはなくなった。

 彼はただぼんやりと、目の前の地面の白が濃くなっていくのを眺めていた。

 地面を覆ってゆく白く湿った重みは地面だけでなく彼の体にも降りかかってきた。

 剥き出しの腕や膝、脚に降りかかってきては溶けて流れていったそれは、いつからか溶け残るようになり、そしてじわじわと降り重なって彼の体をも白く覆っていこうとしていた。

 だが、だからといってどうというわけでもない。死という概念は知っていたし、自分がそこにじりじりと近づいていっていることもぼんやり理解していたが、それに抗うすべを彼は知らなかったし、抗おうという意欲もとくには持っていなかった。

 じわりと瞼が重くなっていく。全身が重く、だるい。

 もう、眠ってしまおう。

 そう思った時だった。

 白いだけの視野に、何かが入ってきた、

「なあ、きみ」

 やわらかな声が何かを言った。

「なあ、聞こえるか?」

 自分に向けられた言葉だろうかと、こわばった瞼を押し上げて目だけを上げた。

 若葉が見えた、と思った。

 こんなにも寒い冬のさなかに見えるはずのない、萌える春の色。

「ああ、聞こえたんやな、僕の声、聞こえるんやな」

 鮮やかな緑がふわりと揺れた。何かが、こわばってかたまった手に触れる。

 それが人の瞳で、そこに子供がいて、自分の手を握ったのだと、その時の彼は理解することはできなかった。柔らかい、と思ったところでふっと意識が途切れて、気がつくと見たことのない場所にいて、何枚もの衣にくるまれていた。

「ああ、目え覚めた」

 さっきちらりと見えた若葉の色が覗き込んできた。

 人の瞳だった。

 自分と同じほどの子供だった。泥だらけで襤褸をわずかに巻きつけているだけの自分と、輝くようなすべすべの白い肌に柔らかそうなゆったりした服をつけている相手を同じと呼べるのかはわからなかったが。

「ほら、これ飲むとええよ。お白湯や。ぬくうなるよ」

 小さな手が器を差し出す。わずかに体をかたくして彼はそれを見つめる。

 坊主これをやろうかと大人に食い物をちらつかされたことがある。手をのばすと馬鹿がと蹴られ、笑いながら殴られた。あるいは物陰へ引きずり込まれて押さえ込まれそうになったり、股の臭いものを口につっこまれそうになったこともあった。

 振り切って逃げたことも、ついでに食い物を奪えたことも、逃げきれずに屈したこともあった。負けるとたいてい食い物は手に入らなかった。

 だが、この相手は子供だ。手も小さく、おそらく腕も細いだろう。これなら殴られそうになっても反撃できるだろうか。だが体はこわばっていてあまり感覚がない。やはり殴られてしまうだろうか。

「……あ、もしかして僕の言うことわからんのやろか。聞こえてるか? 僕がなんて言うとるか分かる?」

 不安げになった目に見つめられて、少し、警戒心がゆるんだ。小さく頷くと相手はほっとしたように笑顔になる。

 その花のような美しさに目を奪われて、呼吸がとまった。

「よかった。僕らの使う言葉てすこし普通と違うらしいんや。通じてへんのやったらどうしよかと思うた。……もしかして、手えまだ使えへんかな、ほら、飲んだら体ぬくうなるよ」

 器が口元にあてがわれる。警戒しながら口を開くとほのかに温かな、とても旨いものが流れ込んできた。

「あ、堪忍」

 飲み込もうとしたら口の端からそれがあふれて、口の端から胸元へこぼれたそれを相手は慌てて布を出して拭いてくれた。

「ごめんな、こうゆうことするのはじめてなんや。慣れてへんで」

 しきりと謝る相手にかぶりを振った。こわばった手をゆっくり持ち上げて、器を受け取る。

 相手は彼を殴りも、蹴りもしなかった。そのまま彼の手に器を渡してくれた。

 ごくりと飲み込むとそれはひどく旨いものに思えて、だが続けて飲むうちにそれはふつうの水だとわかってきた。冬に水が暖かいのがすこし不思議だった。相手の言ったように、体の中の硬く凍えたものがほどけていく気がした。

「飲めたんやな。おなかすいとるやろけど、凍えたあとすぐ硬いもん食べると体にようないんやて。せやからな、今はこれで我慢してや。葛湯や」

 もっともらえないかと器を差し出すと相手は彼の手から器をとって別の器を渡してきた。今度はすぐに受け取って口をつけた。

 今まで口に入れたことのないうまさが口の中に広がった。驚いて目を見開き、そして残りを一気に飲み干した。

「あまし、いっぺんにたくさんおなかに入れたらあかんのやて」

 再び器を差し出すと相手は申し訳なさそうに言った。

「女房があとで重湯持ってくるゆうてたから、それまで休んどったらええよ。……きみ、名前は? 教えてもろてもええかな」

「……コウ」

「コウ、ゆうんか」

 答えると、それだけで相手はぱあっと嬉しそうな笑顔になった。まるで花が開くように。

「字は……ええと、字はわかるやろか」

 それには首を振った。字というものがあることは知っていたが彼には無縁のものだった。

「それやったら、僕が決めてもええかな。……こうや。どうやろ?」

 手を上げて、指をあちこちに動かす。

「こういう字な。広い、いう意味や」

 頷いた。よくはわからなかったし、どうでもいいことだったが、相手が嬉しそうだったからそれでいいと思った。

「あ、ごめん。僕、自分の名前ゆうてなかったね」

 彼の前にあらためて膝を揃えて座り、子供は彼の目をのぞきこんできた。

「僕、ゆかりや」

「……ゆかり」

「うん」

 言われた言葉を繰り返しただけだった。

 なのに、子供は顔を輝かせて、これほど嬉しいことはないという顔で笑った。

「そうや、紫や」

「紫」

「うん」

 顔じゅうで笑って、紫は頷いた。

「仲良うしてな、こう

 澄んだ若草の瞳と幸福そうな笑顔に魅入られて、ただ頷くほかにできることはなかった。



 すでにもうあの冬の夜に、失くしていたはずの命だった。

 命を拾われ、名を与えられ、主人を得た。

 なのに狼藉者から主人を護ることもできず、あまつさえ主人に命を買ってもらって再び生かしてもらい、そして主人の軛となった。

 幾度も、己の欲で穢した。

 それがただ、己の裡に育った闇にもたらされた衝動だけでないことは、己が一番よく知っていた。

 はじめて、主人に欲望をおぼえたのはいつのことだったか。

 まだ人であった時分なのは間違いがない。たしか、宮でのことだ。

 暖かな午後だった。窓から差し込む陽光に眠気を誘われて、主人はうとうとと眠りはじめた。衣をとってかけてやり、ふと、その頬に触れた。主人はうっすらと微笑み、咬の手に自分の手を重ねて頬を押しつけた。手のふちに主人の唇が触れて、ずく、と下腹部が疼いた。

 夜半、床についた主人の部屋を守り漏れ聞こえる寝息を聞きながら幾度となく自分を慰めた。自分が路地裏で男どもにされたことを、夢想の中で主人に強いた。そうとも知らず澄んだ信頼のまなざしを向けられるのが申し訳なくて目を合わせられなかったこともあった。主人が嫌われたのかとひどくしおれてしまって、いっそう罪悪感が募ってすぐに改めた。欲望も罪悪感も、すべてを自分の内側にしまい込めばいいと学習した。

 紫、と呼ぶと瞳が和むのが愛おしい。そう呼んで唇を奪ったらどんな顔をするだろうかと幾度も考えた。何も知らず無邪気に自分の膝や肩を枕に使うたびにいっそういとおしく感じた。

 傍らにいることを許されるのでさえ僥倖だ。それ以上を求められる身分ではない。わきまえているつもりで、頭の中では数え切れぬほど触れ、犯した。

 人ではなくなって、生じた欲が主人に向かったのは当然のことで、そして罰でもあったのだろう。

 もう――主人も。

 そうしたすべてのことから、開放されていい頃合いだ。

 全身が急速に冷えていく。弟は兄のもとへたどりついただろうか。猫がいたということは鳥もいるだろう。西の末子の使っている香りも漂っていた。兄弟はきっと、それらが護って逃げ切るだろう。

 ならば――自分は、役割を果たし終えた。

 視界を闇が覆っていく。

「だめだ!」

 誰かが、そう叫んだのが、かすかに聞こえて。


「咬――ッ!」


 凛、と響いた声が、左胸の空洞にどくんと光を満たした。



 決して余人の呼ばぬ大兄の名を呼ぶ声が響いた。

 その声に知った響きを感じて五郎はまさかとそちらを見る。

 すっくと立った、輝くような白い裸身。

 いや。

 その白い体は、まさしくまばゆい輝きを放っていた。

 そして、それは――……兄では、なかった。

 うすい麦わら色の髪は、紫がかったつややかな黒髪に変じていた。ごくうすい茶の瞳が鮮やかな翠にきらめく。

 す、と白い手が上がる。伸ばされた指先がまるで舞うかのように空中を滑り、複雑な軌跡を描いて動く。

 指先のとおった道筋が黄金に光り、見る間に陣を描きあげていく。

 見えるようになったあと。兄が神気で護符を描くのを見せてもらったことがある。今のように指先のとおったあとに光った神気は白銀の色をしていた。

 ならば、これは――。

 だが。

 かの人は、おそれられるほどの神気を持ちながらその使い方を知らぬのではなかったか。

 兄の全身が金色こんじきの輝きを放つ。

明宮あけのみやゆかりがその名において命じる――」

 柔らかく、だが強靭な声も、もう兄のものではなかった。

「穢らわしき者、我が宮を侵すこと、これを許さず。去れ!」

 鋭い命令とともに、描かれた陣がまばゆい金の輝きを放つ。

 すさまじい喚声が響いた。

 光がふっと消え、同時に兄の体も力を失ってくたりとくずおれる。

「兄者!」

 よろめきながら駆け寄り、手前で足がもつれて倒れ込んだ。這い寄って、抱き起こす。

 わずかに開いた薄茶の瞳が、弱くまたたいて五郎を見た。唇が震えて何かを言おうとする。

「兄者、しっかりしろ! 大丈夫か! 怪我は。大事ないか」

「……うん」

 かすかに囁いて、北野は浅く喘ぐ。

「狗、は」

 聞かれてはっとあたりを見回す。左胸を押さえて、よろめきながら立ち上がった長身が見えた。

「ご無事だ。……いや、無傷ではなかろうが、立ち上がっておられる」

「……そう」

 兄はほっとしたように眉根を緩めて頷いた。

「よかっ、た……。……大嗣が、あいつの動きを、とめたから……今の、うちに」

「わかった」

 頷いた。だが兄はこの様子では動けまい。抱き上げようとして、強いめまいに呻く。

「無茶をするな」

 伸びてきた手がぐったりと目を閉じた北野を抱きとった。

「俺が抱いていこう。きみは立つだけでもやっとだろう」

 容赦のない物言いに五郎は唇を噛んだ。だが指摘のとおり、兄の無事を確認して力が尽きた。兄を抱いていなくても立ち上がれるかさえあやうい。頷いて、ほのかに銀色に光る瞳を見た。

「……お願いする」

「任せろ」

「五郎さん。俺につかまって」

 五郎の腕をとって、自分の肩に回した猫がにっと笑った。見ると大兄の傍らには井和が寄り添っている。肩を借りるほどではないようだが、大兄もひどく顔色が悪い。

「……すまん。世話になる」

「お安いご用っすよ!」

 気楽げに猫がにぱっと笑って、ようやく、この場を切り抜けたのだと実感が湧いた。



 永咲館から洞窟までの通路には、常には大父の呪がかかって通れないようになっている。もちろん屋敷へ戻るのは論外だ。

 洞窟を出、こちらへと井和が促して、それについていった。どこからきたのかは知らぬが井和らのたどってきた道筋が一番安全なはずだった。

 いつの間にか前後に人影が増えていた。すべてを見たことがあるわけではなかったが、輪番で永咲館に詰めているのを見かけた顔が一定数ある。井和の配下だろう。猫と同じく、洞窟を飛び回っていた鳥がそうか。

 しばらく隧道を進み、そして勾配の急な狭い階段をのぼると、小さな小屋に出た。

 小屋の外は雑木に囲まれていた。森番の小屋という風情だ。他者の気配はなかった。山鳥の一党とおぼしき者たちが周囲を警戒している。

 永行がそっと北野を地面へ下ろした。意識はあるようだ。手をついて体を支え、めまいをこらえるように目を閉じ顔を伏せて浅く喘いでいる。五郎もうずくまって大きく肩を上下させていた。咬は近くの立ち木にかるく身を預けて少し離れた場所に立つ。

「ひとまずは安全圏だが――敵地には違いない。長居はできんな。とにかく永咲館へ逃げ込もう」

「そうだな。――失礼、御子」

 頷いた井和が上着を脱いで、北野の肩にかけた。それに気づいて、わずかに北野が顔を上げる。

「このようなもので失礼とは存じますが、多少の風よけにはなりましょう」

 小さく、北野は頷いた。

「……ありがとう」

「兄者の……召し物なら、ここに」

 五郎が絞り出すように言って、よろよろと立ち上がった。背にくくりつけたままだった包みをほどいて、腕に抱え直す。

「支度を手伝おう、兄者。井和どの。すまぬが暫時、壁を作ってもらえぬか」

「……おい兄貴」

 永行が声をあげた。

「そんな悠長なことやってる場合じゃ」

「永咲館の太夫を、乱れた姿で人前に置いておけるか!」

 鋭い怒号に永行が気圧されて一歩後ろへ足を引いた。

「すぐにすむから待っておれ。さ――兄者」

 一転ひどく優しい声で呼んで手を伸べた弟を、兄は見上げるとうすく笑ってその手を握った。助けられてどうにか立ち上がる。

「井和どの、頼む」

「……承知した。おい」

 井和が合図をし、何人かの山鳥が二人に背を向けて並び、五郎と北野の姿を周囲から隠した。

「ここへ立て。体を拭こう。湯着を拝借したのはちょうどよかった」

「うん」

「洗ってやりたいが、用意がない。すまぬな」

「いいよ」

 短い言葉とともに、ごくかすかな衣擦れが聞こえてきた。

「ああ、しまった。血をつけてしまった」

「だいじょうぶ。目立たないよ」

「ならよいが。さ、靴だ。俺の肩につかまれ」

「うん」

 時折交わされる、静かな、短い会話。なまめいたところなどどこにもない言葉のやりとりは、だがひどく親密なものを漂わせていて、すぐ後ろからそれを聞かされる山鳥たちは居心地が悪そうにしていた。猫などは顔を赤くしている。

「お待たせした」

 ほどなくして五郎が言い、ややほっとしたように山鳥の壁が左右へ分かれる。

 永咲館の太夫が、そこにいた。蝋のような顔色をしてはいるが鮮やかな枇杷色の衣装とくっきりした紅が目を引いてさほどは目立たなくなっている。支度をしたせいか地面を踏む足にもある程度力が入るようになっているようだ。先ほどまでの、今にも絶え入りそうな風情はどこにもなく、それを見て永行がぽかんとした。

「……すごいな。きみはあそこへ化粧道具まで持っていっているのか」

「化粧はしてないよ。紅を差して香水をつけただけ」

「だけ、って」

「そのくらい持つのは常識で、化粧のうちに入らない。五郎が櫛を持っていたから髪は直してもらったけど、そのくらいだよ」

 北野は井和へ視線を向けた。

「ここはどこ」

 北野が攫われた生贄から太夫に戻ったことで、この場の序列が確定した。五郎が上着を返し、それを小脇にして井和が恭しく下問に答える。

「西の本宅の奥でございます」

「四家にはそれぞれ、本邸から大父の巣に行ける隠し通路があるんだ。それを探していたところできみらの難事に気づいて駆けつけたというわけだ」

 補足した永行を北野は見る。

「助けてくれたことにはお礼を言うけれど。どうしてわかったの」

「きみが香水をつけててくれたからさ」

 永行は北野の手をとって、その手の甲に接吻した。

「言っただろう? きみがそれをつけていてくれれば俺はきみとつながっている、って」

「え……そういう意味だったの」

「そういう意味なんだ。俺は神力はほとんどそなわっていないが、まったくないわけではないようでな。その香水に入っている、西欧の魔女の使う香料を互いにつけていると、少しだけ相手のことがわかるんだ。何から何までわかるわけじゃない。むしろほとんどわからないが、強い衝撃を受けたり、恐怖や緊張を感じたり、そういった時にそれを感じ取れる。……おかげで、迷わずにきみたちを見つけることもできた」

「そう。つけていた甲斐があったわけだ。……それで、ここからはどうやって出るの」

「奥に裏木戸がございます。そちらに馬車を」

「車を、屋敷に待たせたままだ。車はどうでもいいけれど、運転手は連れ帰ってやらないと」

「うちの者を走らせましょう。御子はどうぞご心配なく」

「……わかった。頼んだね」

「かしこまりました」

 井和が丁重に一礼する。

「では、参りましょう」

「歩けるか太夫」

 井和が促し、永行が北野の顔を見る。北野は苦く唇を歪めた。

「急ぐのは無理かな」

「抱いていってもかまわないか」

「……仕方ないね」

 諦めたように、北野は小さなため息をついた。

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