5章 永咲館の夜

13 変化


 東の老人が死んだ、という知らせが届いたのは秋も深まりかけた頃だった。

 その知らせ自体はさほどの驚きはもたらさなかった。いくらか前に、どうやら東の老人が寝付いたらしいと井和が五郎を通して耳打ちをしてきた。そう長くはもたないだろうというその言葉のとおり、結局そのまま不帰路へ旅立ったらしい。葬儀は五日後。知らせを携えてきた使者に、明紫は参列すると返事をした。

「どんだけ悪どいことしても最後はあっけないもんや」

「残念だな」

「おや」

 うすく苦笑した明紫の言葉に短く返すと明紫が眉を上げて首を傾げた。問う目が咬を見る。

「俺が殺すつもりだった」


―― 主人が惜しくば動くな、餓鬼。


 あの日。

 明紫の喉元に刃を突きつけたのは、当時はまだ成年を迎えてそう経ってはいなかった東の長男だった。大淵へ向かう道すがら、犯すわけにはいかぬがこれならよかろうと、従わねばこいつを殺すと咬を質に明紫の唇に汚らしい性器をねじ込んで冒涜したのも。

 殺してやると、はじめて思った相手だった。

 咬の答えに、明紫が瞳を和ませたる。

「おおきにな。……けど、ええんや。放っといたらこうやって死ぬ。自分らは残っとる。なんもわざわざ手ぇ汚すことない。生きとったほうが勝ちや」

 手で己れの傍らを示したのでそこへ膝をついた。見上げると明紫の手が髪をかるく梳いて、指先が頬を撫でる。唇をゆっくりとなぞって、ほのかに笑った。

「自分がいちばん咬のこと穢しとるんやけど。なるべく、穢れてほしゅうないんや。余計な殺生までせんでええ」

「俺は気にしない」

「知っとる」

「だが、あんたが気にするならやめておく」

 わずかに、明紫は目を見開いた。

「……おおきに」

 そう笑んで、指先を自分の唇に触れさせ、その指でもう一度咬の唇を撫でた。



 明日は東の老公の葬儀が行われる。参列のために大淵を訪れる名士はそれなりにいる。当夜の永咲館はいつもよりも賑わうだろう。

 永咲館として直接なにかの取引といったものがあるわけではないが四家は大父の側近であり、永咲館の主人である大嗣は大父の嗣子として立てられている。まったく関係がないとは言えない。

 辛気臭くなりすぎぬよう、さりとてよもや老公の死を喜んでいるのではあるまいなと疑われるほどには華やかになりすぎぬよう、ほどほど大物の死を悼んでいるとわかる程度に見せるにはサロンの飾りつけをどうするか。案を練っていると目の隅をかすめたものがあった。一瞬おいてそれがなんだったか理解した五郎は目を見開き、振り返って見間違いではなかったことを確認する。

「おい――猫」

「へいっ!」

 声をかけると威勢よく返事をして、通り過ぎていった猫が振り返って駆け寄ってくる。

「なんっすか五郎さん! 用事っすか!」

「いや、おまえ、どうした――それは」

「へ? ……ああ、これすか!」

 きょとんとしたあとで五郎の視線を追って、猫は頭に巻いた包帯をさわってにぱっと笑う。服の袖や胸元から見える場所も、あちこちに布をあてて包帯で押さえてあった。

「いやー、ちょっとやられちまって。たいして痛かねぇんですけど、アタマかち割られて縫うのに毛刈りしたんで見た目がね、よくねぇから包帯巻いとけって」

「かち……それは、笑って言うことなのか?」

「ほら俺ら無頼っすから! こういうのが仕事みたいなもんっす!」

 猫はあくまでも屈託なく笑う。

「なにか、抗争などに巻き込まれておるのか?」

「んー、巻き込まれてんじゃなくて、してる? ほうっすかね」

 猫は首をひねる。

「親分に言われてるんでこっちからは仕掛けてねえんですけど、仕掛けて来られたら黙って殺されてやるわけにもいかねえんで反撃はしてます。ほら、こないだ、東のじじいが死んだじゃないっすか」

「待て」

 手を上げて猫をとめた。いろいろと気になる部分はあるがこれを聞き流すわけにはいかない。

「はい?」

「東の、ご老公が、お亡くなりになられた、だ」

「……へ?」

「そのように申し上げろ」

「え、ええ?」

 猫はきょとんとしている。五郎はかるく息をついた。

「よいか。永咲館のご主人は大嗣で、大嗣は大父のお世継ぎでいらっしゃる。大嗣を永咲館のご主人に据えられたのも大父だ。永咲館はそもそも大父の持ち物なのだ」

「……へい」

「四家様は大父が深く信頼を置かれる代々の忠臣だ。また、ご子息様がたをはじめ、当家へご登楼いただいておられるかたも多い。それゆえ、四家様に対し軽んじるような物言いをする者が家内にあっては困る」

「はあ。……いやでも、俺もべつにえらい人の前だったらちゃんとしますって」

「どなたかがおられることに気づかぬこともあろう。そもそも、こうしたことは普段からきちんとくせをつけておかねば何かのはずみでぽろりと出るものなのだ。よいな、次にそのような物言いをしておるのを聞いたら出入りを禁じるぞ」

「えっ! そ、それ厳しすぎねえっすか!」

「返事は」

 五郎の強い語調と視線に気圧されて、猫は一、二歩後ずさった。

「……へ、へい。かしこまりました」

「うむ。それでよい」

 頷いて、それで、とあらためて猫を見る。

「おまえのところは東家様と抗争中なのか」

「いや、うちは南……様? っす。あっ、まずいんっすかねこれ? 俺ら出入り禁止っすか」

「それは大嗣の判断なさることだな。のちほどお耳には入れておく。とうにご存じのことやもしれぬが」

「へえ? さすがっすね大嗣様は! 病気でもそのへんは抜かりないんっすね」

「うん?」

 内心で頭を抱えたがこれは先ほどのようにそのまま咎めるわけにはいかない。怪訝そうな顔を作って首を傾げた。

「大嗣がご病気というのはどういうことだ。お元気でおられるが」

「え? だってここんとこずうっと、ほとんど下にもおいでにならねえじゃねえですか。よっぽど重い病気なんだろうって俺ら」

「そんなことはない。たまたまおまえの気づかぬ時においでになっておられるのだろう」

「えーでも……」

 さらになにか言い募ろうとして、猫は何かが喉に詰まったような顔をした。さすがに気づいたらしい。

「あー、そ、そうっすね! そうかもしれないっすね!」

「そうだ。俺がそうと言っておるのだからな」

「……へい!」

 おそらく精一杯まじめな顔なのだろう。般若のまねをしているような顔で猫が頷いた。

「山鳥らはそのような詮索をして回っておるのか?」

「え、いや、別に詮索とかじゃないっす。ただの雑談すよ。最近大嗣様いらっしゃらねえよな、ご病気かね、重いんじゃねえのかな、とか、……そういう」

「そうか。だが、そういった憶測は安易にするものではない。慎め」

「……へ、へい」

 猫は首をすくめて頭を下げた。

 どうやら五郎は相当に険しい顔をしていたらしい。猫は引け腰で五郎の顔を窺っていた。

 兄に言えば呆れられるか叱られるか、いやむしろ両方か。修行も演技力も足りないとさんざんに言われそうだ。

 猫の言う通り、大嗣はだいぶ加減が悪いのだ。

 半月ほど前、大父の伽に侍って奪われた神力がなかなか戻らないという話だ。あの時その一部を肩代わりしてやはり倒れた兄は、当夜はさすがにかなり具合が悪そうだったが何日かだるそうにしていただけですでに恢復しているのだが、大嗣はそうはゆかぬらしく、部屋を出るのも、夜に見世へ顔を出すのも最小限におさえている。


「大嗣はね、持ってる神力の量が桁違いなんだ」

 なぜ大嗣の体調はなかなか戻らないのかと聞くと、兄はそう言って講義の料金だと五郎に剥かせた梨をかじった。

「盥と湖から水を汲み上げたら再びいっぱいになるまでにかかる時間はぜんぜん違うだろう? そういうことだよ」

「それは、ああ、わかるが……例えるにしてもずいぶん極端だな。大嗣と兄者の神力はそれほどに差があるのか? 兄者も相当に神力が強いのだよな?」

「そうだね。僕は人の子としては神にかなり近いけれど、大嗣は人の子でありながら神とほぼ同じだ。これは越えられない差だよ。でも、大嗣は神力を使う修行をしていない。たぶん、力があまりに強かったから警戒されて、修行から遠ざけられていたんだ。へたに力を使いこなせるようになって宮に反逆されては困るから」

「……それほどなのだな」

「うん。だからこんなに長く大父の相手をしていられるし狗を生かしてやれている」

 しゃく、と白い果肉を齧って、北野は少しだけ力を入れてこめて唇を結ぶ。

「でも、それだけにまとめて奪われると取り戻すのに時間がかかる。――最近大父がえげつなく貪欲だから目立っているけれど今までもあったことだ。じきに回復するよ」

 兄はそう言ったが、憂い顔は晴れなかった。


 あれはたぶん、大嗣が老公の葬儀に参列するからだろう。兄はついてはゆけぬ。自分が近くにいれば、あるいは永咲館の中であれば何かあっても手が打ちやすいが、外ではそうはいかない。大兄を信頼していないわけではないのだろうが心配がまさっているのだ。

 力を持たぬ五郎には、それを奪い取られる、という感覚はよくはわからない。だが兄が自分も氷のように体を冷たくしながらあれほど大嗣を案じて取り乱した様子を見せたからには、よほどひどいことなのだろうと思う。

 何か力になりたいと思っても、神力のない五郎はより縁の近い兄にでさえただ近くにいて手を握っていてやる、というくらいの気休めにしかなってやれない。まして大兄のいる大嗣の役に立てるとは到底思えない。

 だからせめて、大嗣が可能な限り憂いを持たずにすむよう、永咲館の運営では遺漏のないよう仕事を進めるべく、いつも以上に気を配っているつもりだ。

「五郎さん」

 猫が詰所に引き上げていき、手配した品の一覧を見返しながらそんなことを考えていると、控えめに五郎を呼ぶ声がした。振り返るとこの頃五郎が贔屓にしている工房の職人頭が裏口から遠慮がちに顔をのぞかせていた。

「おう」

 約束はしていなかったが、どうしても見せたい自信作ができた、あるいは必ずよいものにする自信はあるがあまりに値が張って手の出ない玉石などがあるといった時はいつでも相談に来いと言ってある。その類かと近づいていった。

「どうした」

「お忙しいところ失礼いたします。じつは先日お話し致しました職人をご紹介しようと存じまして」

「職人……?」

 そんな話を聞いていただろうか。それに、直接関係がなくも四家で行われる葬儀のことを知らぬはずがない。ことさら今日でなくともよかろうに、なぜ、と、そう思った時、職人の背後で深く頭巾をかぶっていた人物がちらりと顔を上げた。

「……ああ、あの男のことか」

 叫びそうになったのを咄嗟に抑えて大きく頷いた。

「ぜひじっくり話を聞きたいと思っておったのだ。……しかし俺も今すぐには時間が取れぬ。しばし借りてもよいだろうか?」

「は――。手前はこちらにて失礼させていただきますが、これは置いて参ります」

「そうか。すまんな。世話をかけた」

「とんでもないことでございます。いつなりとお声がけを」

 職人は低く腰をかがめて頭を下げ、いくらか逃げるように帰っていった。五郎はちらりと頭巾の職人を振り返る。

「こちらへ参れ」

 手招き、一度地下へ降りて、五郎だけが鍵を持っている通路から階段を使って一階へ戻る。

 そこは、大嗣の執務室だった。執務室の扉はサロンに面していて常に人目がある。見られぬように出入りする必要がある時に使う通路だった。上階との間にも同じように隠し階段があり、北野がたまに使って大嗣と客の会見を物陰から聞いていたりする。

「ここでしばらく待たれよ」

 応接室でもあるから部外者に見られ、あるいは触れられて困るものは一切外に出していない。万一嗅ぎ回られても問題はないし、敢えてこのような形で訪れたからには扉からサロンに出てみようとは思わないだろう。

 相手をそこに残して再び階段と通路を使って地下へ戻り、改めて三階へあがる。

 報告を受けた大嗣は呆れ顔で、しかし会おうと頷き、そして大嗣の許可を得て知らせた兄は手を叩いて大笑いした後で自分も同席すると言った。

 支度をすませた大嗣とそれに従う大兄を主階段の下で迎えて、執務室へ供をする。五郎たちが部屋に入り、戸を閉めるのとほぼ同時に裏から北野がやってきて、頭巾の男を見てあらためて爆笑した。

「そんなに笑わないでくれよ。格好がつけづらいじゃないか」

「だって、あは、あははは、なんだよそれ、てるてる坊主みたいでひどい格好だ。おかしい、あははははは」

「お姫さん。あんまり苛めなや」

 ひとしきり兄に笑わせてやったあとで大嗣が苦笑しながらとりなしてやり、ようやく兄も笑いをおさめた。大嗣はあらためて頭巾の男に向き直る。

「ちゃんとご挨拶するんは初めてになりますな」

「そうだな」

 男が頭巾をとると、下からは永行の銀髪が現れた。ご丁寧に下にはぴったりした足通しに短い上着を幅の狭い帯で締めた職人風の姿だ。

「お初にお目にかかる」

 大嗣の足元に跪き、永行は胸に手をあてて恭しく頭を下げた。

「賢兄臺下だいかにおかれましてはご機嫌うるわしくお過ごしのこととお慶び申し上げる。これなるは血族のすえ、永宮鷹行。どうぞお見知り置きをいただけますよう、伏してお願い申し上げる」

 すらすらと述べて大嗣の長い上着の裾をとり、うやうやしく口づけた。

「……これはご立派なご挨拶や」

「礼儀に厳しい兄がいてね」

 大嗣がうすく笑い、永行もにっと唇の端を上げる。

「どうかな太夫。これなら俺の大嗣への崇敬は十分にあらわせたのではないか」

 立ち上がった永行に視線を向けられて、北野はうーん、と唇に指をあてて首を傾げる。

「……六十点」

「厳しいな」

「きみはそもそもえらそうな上に物言いが軽いんだよ。それで大仰に重々しく挨拶をしたってふざけているようにしか見えない」

「難しいものだな」

「腰が低くて物言いに重みのある態度を身につけたいなら五郎を手本にするといいよ。それで? なんだってそんなふざけたかっこうで大嗣に会いにきたんだい?」

「だってきみは紹介してくれないっていうし、昼間に正面から訪ねたらあらぬ憶測をされて迷惑をかける。大嗣に会おうと思ったらこうするしかなかったんだよ」

「嘘をつけ。変装して忍び込んで謁見とか、思いついてしまっておもしろそうだからやってみたくなっただけだろう」

「ばれたか」

 北野に白い目で見られて永行は悪びれずに笑った。

「まあ、俺とつながったと見られて大嗣に迷惑をかけたくないというのも本音だ。どうもこのごろ、何かと周りが騒がしくてな」

「なんぞあったんか」

 大嗣がかるく首を傾げた。永行の挨拶を受けて言葉遣いを目下に対する語調に変えている。まあお座り、と応接椅子を示した。おう、と頷いて永行がこだわりなく腰を下ろす。大嗣はその正面に腰を下ろし、兄は大嗣の傍ら、大嗣に体を寄せるようにして椅子の肘掛けにかるく腰を引っ掛けた。

「何というはっきりしたものはとくにはないんだ」

 早速もう敬語をどこかへやって永行は肩をすくめる。

「ただ、命を狙われてる」

「ちょっと」

 兄が目を見開いた。

「はっきりしてるじゃないか」

「いやあ、たぶんそうだろうなってだけで、何かこう、宣言みたいなものや明確にあいつだという証拠があるわけじゃないんだよ」

「つまり、相手の目星はついとるんやね」

「まあね」

「誰や」

「南の長男」

 大嗣の問いに、永行はさらりと答える。大嗣は瞳の色を深くした。

「因縁があったんか」

「うーん、ないわけではない、という程度かな」

 腕組みをして、永行はかるく首をひねる。

「俺がまだほんのガキのころの話だが、まるまると太った蚯蚓みみずを投げつけてやったことがある。そしたらたいそう驚いてな、悲鳴を上げて腰を抜かした上に小便を漏らした」

「……まさかそれ以来恨まれてるの」

「らしいぞ? 先だって十数年ぶりに顔を合わせて、俺があの時の西の妾の子だと分かった途端にものすごい形相になって睨みつけてきたからな」

 永行は屈託なく笑う。

「その帰り道に、馬車に轢かれそうになった。ほかにもいろいろと起こっているが、すべてあれ以降だ」

「阿呆やな」

「ばかじゃないの」

 大嗣と北野がほぼ同時に言った。

「まったく、坊ンもいくつになっても大人げない」

「きみもきみだ、永行。なんだってそんなこと明かしたんだよ」

 だがそれぞれの感想が向いた先は正反対のようだった。兄になじられて永行はからからと笑う。

「人物の小ささがどこから見たって明らかなのに大物ぶっているから滑稽でな。最近は驚いても小便は洩らさなくなったのか、蚯蚓はもう怖くないのかと、つい」

「ばかだ」

「阿呆やな」

 今度は二人の感想が揃った。

「ははは。いやあ、つついたら割れそうな風船はつつけというのが母方の曽祖父の遺言でな」

「それは僕の曽祖父でもあるけれど、そんな遺言が伝わっているとは聞いていないな」

「おっと、ばれたか」

 永行はなおも悪びれた様子がない。

「あとは」

「なに、ほかにもあれを逆撫でにするねたがあるの」

「おお、あるとも」

 永行は得意げに笑った。

「きみだ」

「……僕? なにそれ」

「きみ、あいつを振っただろう」

 言われて、北野はきょとんとした。五郎を見る。

「そうだっけ?」

「南のいちばん上の御曹司なら、たしか十三年ほど前にお申し入れがあって、兄者がいやだと言ったのでお断りしたな」

 頷いたが、兄はぴんときていない顔だった。

「そんなことあったんだ? 覚えていないな」

「兄者は断った客のことはその場で忘れるからな。あれは、俺が聞いた兄者の断りの中でも飛び抜けて冷たい『いやだね』だった。よく覚えておる」

「覚えているんじゃないよ、そんなことまで」

 兄はふくれつらになった。くす、と大嗣が笑う。

「つまり、自分は振られたのに永行がお姫さんとこに登楼あがったからおもろない、ゆうことやね」

「そういうことだ。じつに気分がいい。ざまをみろだ」

「気分がよくて殺されちゃ世話はないよ」

 永行はからから笑って、兄に睨まれた。だがこたえた様子もなくにこにこしている。

「心配してくれるのか、太夫。嬉しいねえ」

「不本意だから少し身を慎んでくれないかな」

「俺としては慎まずにもっと焚きつけたいところなんだが、――少し情勢が変わった」

 永行の表情が変わった。真顔で見た永行に大嗣も笑みをおさめて永行に視線を返す。

「東の爺さんが死んで、それはめでたいことなんだが、あまりめでたくないのは南の爺さんもじつは危ないってことだ」

「……ほう?」

「知ってたかい」

「いや。東は知っとったけど、南は初耳や」

「それは耳に入れておけてよかった。たぶん明日の葬式にも出てこないぜ。むしろ葬式の間に死ぬかもしれん。だがここで老人が死ぬと、当然惣領が家を継ぐ。すると、俺の宿敵が持ち上がりで惣領になるわけだ」

「馬鹿に鋏だね」

「まさにその通り」

 顔をしかめた北野に、永行は大きく頷いた。

「手に入った権力で嬉々として俺を殺しにかかるだろうな。うるさいがこわい老人は半分に減ってる。南の伯父貴は馬鹿だ。長男を溺愛してる上に家長になるなり老人どもにうるさく押さえつけられるのを嫌うだろうから息子を全面的に支援すると俺は見てる。東の伯父貴は逆に老人どもと波風を立てたくないから仲裁には入らない。つまり、新惣領をとめるやつはいない。……と、いうわけでだな」

 永行はいくらか身を乗り出すようにして、大嗣を見た。

「南がいつ死ぬかにもよるが、あまり早いようならしばらく俺はここには来ないほうがいいだろう。太夫のことがなくても俺の登楼を許したこと自体に難癖をつけてくるかもしれない。万一そんなことになった時のために、先に詫びておきたかった。――太夫にもな。次の約束は守れんかもしれん」

 真摯な目を向けられて兄はぷいとそっぽを向いた。返事もしない兄に永行はうすく苦笑を浮かべたがそれ以上は言わなかった。

「まあ、身を慎んでしばらくここらを避けておくのはええとして」

 ちらりとその兄に視線をやって、大嗣が口を開いた。

「坊ンは諦めへんやろ。どうさばくつもりなんや」

「それなんだよな。まだ決めかねてる」

 永行は腕組みをした。

「逃げ回るのは性に合わないんだが、こっちから殺しに行くほど俺は従兄弟に愛情は持ってないんだ。小物だからそのうち自滅するだろうとは思ってるんだがそれをのんびり待つのも先の見通しの立たない話でなあ」

 少し離れて控えていた五郎は唇を結んだ。

 この会見は大嗣と永咲館の客のものではない。しかし、いくらか変則的な形での訪問ではあったが、やはり客人であることに違いはない。

 あまり実感はないが、いちおう、五郎は永行の兄ということになるらしい。一方で兄の情人でもあるからそれなりの縁はある。

 だが、だからといって、使用人の自分が大嗣と来客との会話に口を挟んでよいというものではないのではないか。

 考え込んでいたら何かが飛んできて肩に当たった。驚いて、だがこんなことをするのは兄の他にはない。飛んできたものを落とさないよう反射的に受け止めてから手の中を見て目をしばたたいた。

 顔を上げると、兄が沓を履いていない素足を自分のほうへ突き出していた。何やら不機嫌そうな顔だ。

 何かしただろうか。今は何もせずただ控えていただけだから、これといって兄を怒らせるようなことはなかったと思うのだが。

「履かせて」

 こういう時の兄に逆らうとろくなことはないということを、五郎は長年の経験で知っている。頷いて立ち上がり、兄の傍らへいくとその足元に膝をついて沓を履かせてやった。

「これでよいか」

「よくない」

 見下ろしてくる兄の目が冷たかった。

「なんだ?」

「それは僕のせりふだ」

「あいたっ」

 こつんと拳で小突かれて頭を押さえた。力は入っていないが拳を握った指の節で叩くから案外と痛い。

「言えよ」

「え」

「何か言おうかどうしようか迷っていただろう」

 五郎はがっくりとうなだれて深いため息をついた。

「……だからだな、兄者。そうやすやすと俺の考えていることを読まんでくれまいか」

「隠せるようになってから言えと言ったはずだよ。大嗣に何か言いたいんだろう? 僕が許すから言ってごらん」

「……」

 五郎は唇を尖らせて視線を落とす。兄が許すと言ったからといって、なんでも大嗣に言える立場の兄と自分では身分がちがうのだ。

「……なあ大嗣」

 背後で永行が大嗣に話しかけた。

「俺たちはもしかして、ものすごい惚気を見せられているのかな」

「自分は慣れとるよ。お姫さんと五郎はいつもこんなや」

「だっ……大嗣! 何を――」

 思わず振り返ってしまって、しまったと思った。慌てて視線をそらして控える。

「ええよ、五郎」

 くすっと大嗣が笑った。

「言わんとお兄ちゃんがあとでこわい。言うてごらん」

「は……恐れ入ります」

 恐縮して頭を下げ、あらためて大嗣に向き直った。

「のちほど、お耳に入れるつもりでいたことなのですが。じつはつい先ほど、当家に出入りしております山鳥の若党から聞いた話がございまして」

「うん」

「かの郎党はこのほど、南のお家と、抗争状態になったとのことでございます」

「ああ――いつやったか、鳥が南とは仲が悪い、ゆうとったな。本格的な戦争になったんか」

「山鳥のほうからは、鳥どのが戒めて手を出しておらぬとのことですが、もしやそういう者たちであれば南家様あるいは御曹司お使いの無頼やならず者などのことも知っておるのではないでしょうか。また、場合によっては末どのをお助けしたり、あるいはお役に立てることなどがあるのでは、と」

「ふむ……」

 大嗣が考えていた時間は短かった。

「鳥は」

「まだ本日はお下がりになっておりませんので、月どののお部屋かと存じます」

「呼んできや」

「かしこまりまして」



「ねえ、五郎」

 その日の暮れ方。五郎に染めさせた爪に仕上げに小さくちぎった金箔を貼りつけながら、北野は弟を呼んだ。

「ん? どうした兄者」

 今日北野が履く予定の靴を丁寧な手つきで磨き上げながら五郎が返事をした。

「さっきさ」

「おう」

「……どうして、言うのをためらったの」

「ん?」

 顔をあげた五郎はきょとんとして目をぱちぱちさせる。

「さっき? なんのことだ」

「山鳥が南と戦争になっている、っていう話。言うの、いやがっていただろう」

「いやがっていたわけではない」

 革に曇りを見つけたのか、五郎は靴に顔を寄せて慎重な手付きでそこを丁寧に拭う。

「俺は使用人だからな。正式な訪問でなくとも末どのは客人だ。大嗣がお客人と話をされているところに割り込むのは気後れがするのだ」

「それだけ?」

 顔を見ると五郎はまたこちらを見て、困った顔になった。

「それだけ、だが……どうしたのだ兄者」

 戸惑った声と表情。ひとつ、北野はため息をついた。

「おまえってさ」

「おう」

「……ほんとに、お人好しで善人で、ばかだね」

「兄者?」

 いっそう、五郎の困惑が強くなった。

「それは、……俺は褒められておるのか? くさされておるのか?」

「そのくらい自分で考えなよ」

 唇を尖らせてぷいとそっぽを向く。

 弟はしばらく首をひねっているようだったが、やがて靴を脇へ置いて立ち上がった。北野の傍らまできて膝をつく。鏡台に置いたままだった塗りかけの手にかるく指先を重ねてきて、北野は思わず弟を見てしまった。

「なに」

「なにか失望させてしまったならすまなかった」

「……してないよ」

「ならば、なぜそんな顔をしているのだ」

「どんな顔だよ」

「なんだか寂しそうだ」

「……」

 返事をするかわりに爪紅の瓶をとって五郎の側頭部をこづいた。

「さっさと靴をすませて着付けを手伝って」

「……ああ、わかった」

 北野の手の甲をかるく指先でたたいて五郎は立ち上がり靴を磨く作業へ戻る。北野も細かく裂いた金箔を再び爪に乗せ始めた。

「……兄者」

「うん」

 静かに呼んだ五郎に、視線は動かさずに返事をする。

「ひとつ、懺悔をしてもよいか」

「なに」

「俺は今日、少しだけだが――ほっとしてしまった」

「なんのこと」

「末どのがしばらく登楼できぬかもしれぬ、と聞いて」

 手がとまった。

「なんで」

「妓楼の使用人としてはこんなことを言うべきではないと、よくよくわかっているのだが。やはりどうにも、その、……割り切りがつかぬのだ。兄者があのかたを……客として迎えることに」

 顔を向けると弟は顔を伏せてかるく唇を噛んでいる。手が止まっていた。

「いや、断ってほしいと言っているわけではないのだ。それは俺の言ってよいことではない。わかっておる。だが、……だから、あちらの事情で次の約束が流れるやもしれぬ、と聞いて、俺は。……少しだけほっとした」

「五郎」

 呼ぶと、五郎は珍しく目だけでこちらを見た。まるで北野の顔色を窺うように。

「ここへおいで」

 自分のすぐ傍らの床を示す。五郎は少し表情をこわばらせた。だが逆らわずに靴を再び傍らへ置いて腰を浮かせ、傍らへやってきて控える。

「遠い」

 もっと体を伸ばせと指で示すと神妙に頷いて従った。だがその体もこわばっている。肩に妙に力が入っているのは、――そうか。

 北野を怒らせたと思っているのか。

 本当に、ばかな弟だ。

「僕を見ろ」

「……」

 命じるとやはりまた目だけがこちらを向く。

「世話の焼ける」

「! むぐ――んぅっ!」

 両の頬を両手ではさんでぐいと上向け、目を見開いて驚いているうちに唇を奪った。舌を入れるとびくっと肩が跳ねて体が硬直する。

「野暮天」

 しばらく弟の口腔をねぶってから少しだけ顔を離して、愕然と硬直しているのをなじった。

「目くらい閉じろ」

「っ……あ、あに、……」

「喋るな」

 今度は自分も瞳を閉じて、もう一度唇を重ねた。あらためて深く口づけると五郎が喉の奥でかすかに呻く。ちらと瞳をあけると、さすがに今度は言われたとおり目は閉じていた。むしろ必死に目をつむっているという風情だ。膝の上で、かたく握った拳がかすかに震えていた。ほのかに笑って、さらに深く、情熱的に舌を絡めて、煽る。

 五郎の手が、北野の両腕を握った。そして北野の体を押し離す。

「っ、く……ぷはっ、あ、兄者、待て、待……って、くれ、……頼む」

 五郎は肩を大きく上下させていた。顔が真っ赤だ。今にも泣き出しそうな顔をしていた。いや目にはかなり涙が浮きかけている。

「なんだい?」

「お、……俺は、てっきり、きつく叱られるのだろうと、きっとはたかれると、そう覚悟して」

「そうだろうとは思ったけどね」

 ため息をつく。

「というか、僕としてはそこじゃないところの話をしてほしいんだけど」

「っ……」

 いっそう五郎の顔が赤くなった。そして顔が歪む。

「これ、が……罰なのか」

「え?」

「お、……俺とて木石ではないのだ、兄者。そんなふうに触れられては平静ではおられぬ」

「もちろん、それを狙ってるんだよ?」

「そうやって俺を……生殺しにするのがそんなに兄者は楽しいのか」

 五郎は涙声だった。膝の上できつく握った拳が細かく震えている。

 北野は小さく息をついた。手を伸ばして弟の顎をつかみ、くいと顔を上げさせる。涙をこらえた瞳が、だがこらえきれずに真っ赤に充血している。

 やっと、嫉妬したことを白状してくるようになったのだと嬉しくてならなかったのに。

 結局のところ弟には届かないのだ。

 なんとまっすぐに、けがれなく素直に育ったのだろうか。

 五郎にとっては兄はどこまでいっても兄で、そして一方で、だからこそ神聖で冒すべかざる禁忌なのだ。

 正しいのは五郎だ。弟にそれ以上の感情をいだいている北野がよこしまなだけだ。

 もう、諦めるべきなのだろう。ようやく通じた、やっと抱き合えると、喜んで期待して舞い上がっては突き落とされるごとに思って、それでも次こそはとまた期待して、また絶望する。

 そんな思いをし続けるくらいなら、もう。

「……兄、者?」

 五郎が呆然と呟く。

「兄者……? な、なあ……どうした。なぜ泣いている」

 こういうところだ。

 さっきまで泣いていたくせに。いじめないでくれと、叱られたらどうしようと縮こまって怯えていたくせに。からかわれたと思い込んで傷ついて目を真っ赤にして涙をこらえていたくせに。

 北野が泣き出したら自分のことなど全部放り出してしまう。

「なあ、どうしたのだ、兄者。そんなに泣くと目が腫れてしまうぞ? もう支度もせねばならぬだろう。どうしたのだ? 俺は、どうすればいい?」

 戸惑いながら、五郎がそっと、こすらないように北野の目元から涙を払う。その手をつかんで、強く両手で握った。

「兄者?」

 握りしめたらいっそう切ない。

 こんなにも近くにいるのに。

「兄者……何も言ってくれなくては俺にはわからぬ」

 五郎の声が優しい。

「……いじめてごめんね」

 呟くと、五郎は一瞬、切なげに表情を歪めた。

 こういう嘘はすぐに見抜くのに。

「手ぬぐいを絞ってきて。あと、氷」

「……わかった」

 頷いた五郎が握る力をゆるめた北野の手から自分の手を抜き取り、少しだけためらったあとで北野の手を上からかるく握った。そして立ち上がる。

 一人になった部屋で、北野はゆっくりと息を吐き出した。手を上げて、弟の手が慰撫していった場所に唇を押しつける。

 とめたつもりだったのに、また頬に涙が落ちた。


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