12 厄(わざわい)


「あれっ、五郎さん?」

 通りかかった猫が目をぱちぱちさせて、五郎は首をかしげて振り返る。

「どうした、猫」

「なんか、……ちょっとふしぎな匂いがしないっすか」

「……ああ」

 鼻をひくつかせる猫に苦笑して、五郎は自分の腕のあたりの匂いを嗅いだ。

「北野様の新しい香水だ。俺にはあまりわからんが、移ったのだろう」

「こーすい? ってなんっすか」

「西欧の香だ。……今日おいでになるお客様が調香師にご自分の専用として調合させて使っておられるものだという話でな。北野様がご自分も使いたいと所望なさったので届けてくださったのだ」

「へえ? えっじゃあ、その匂いって、そのお客さんと北野さまだけが……」

 そこまで言いかけて、さしもの猫も五郎の苦い顔に気づいたようだった。尻すぼみに語尾をごまかして、目をそらした。

「え、ええとその、……なんか、すいません」

「別に謝ることではなかろう」

「え、……あーいや、えーとその、……あっそうだ、俺、五郎さんに聞こうと思ってたことがあるんっすけど」

「なんだ」

 必死に話題を変えた猫に、五郎は、これは猫が井和が言うほどには鈍くないということなのか、その猫にさえわかるほど自分の演技がうまくなったのか、あるいは猫は真情なら感じ取れるのかと内心で苦笑しながら乗ってやる。

「五郎さん、胡蝶姫って知ってます?」

「……いや? 知らんな。なんだ、それは」

「なんか、ここらの昔話? らしいんっすよ。月の親分に聞いたんっすけど」

 井和の朋輩だからか、猫は端月を月の親分と呼ぶ。

「昔話? どういう話だ」

「なんか、ここいらには昔、森に包まれた淵があって、冥界につながってたらしいんっす。そんで、死人しびとの魂を冥界へ連れてく役目の胡蝶姫って精霊がいて、そこの淵まで、死人を導いてやってたとか」

 淵は深い森に包まれ、土地柄としてやや寒冷ではあったが生い茂る葉が熱をたくわえて寒気を遮り、真冬でも凍えるようなことはなく、森を棲み家とする鳥獣にとってはよい休み場であったらしい。

 冥界の門がすぐそこにあることもあって自然と殺生は控えられた。そこで出逢えば狐と狸であっても並んで水を飲み、互いの毛づくろいをして昼寝をし、木の実を分け合って齧る。

 枝には小鳥が並びあちこちの枝やうろに巣をかけ、茂みでは兎が仔の毛づくろいをし、その傍らで丸くなって眠る猫の頭に雀がとまる。そうした場所だった。

 淵を守護するのは若い竜であった。若くはあったが傍若ではなく、胡蝶姫を深く敬っていた。

 姫は訪れては去ってゆくもの、竜は留まるもの。互いに交わることはなかったが竜は姫が訪れた折は淵の端へ退いて控え、姫は去り際にちらりと一瞥を投げてゆくのが常だった。

 ある日、淵に老いた蝦蟇がまが姿を見せた。蝦蟇は淵に潜り、水草の上で休み、時に岸辺へ這い上がって日を浴びた。蛙が訪れることもままあることで、気にとめた者はいなかった。

 しばらくして、胡蝶姫が死人の魂を伴って淵を訪れた。いつものように竜は離れた場所へ控えた。

 その時、蝦蟇がやにわにその長い鞭のごとき舌を飛ばして胡蝶姫を襲った。

 捕らえられ岸へと引きずり降ろされた胡蝶姫に蝦蟇がのしかかる。蝦蟇がその背の美しい翅を食いちぎろうとした刹那、激怒した竜が蝦蟇に襲いかかった。

 だが蝦蟇は狡猾に己の正体を隠していた強力な妖物で、正体を現し竜をも襲った。

 激しい戦いの末、竜はわずかな隙をつかれて蝦蟇に引き倒され、組み敷かれて背骨を踏み折られて動けなくなってしまう。

 瀕死の竜が憤怒に血の涙を流す眼前で、蝦蟇は翅を破られ動けずにいた胡蝶姫を悠々と再び組み敷きその翅を引き裂きちぎり取って、姫を陵辱し蹂躙した。残忍な仕打ちに姫が耐えきれずこときれるとそれを喰らい、まだ死にきれずにいた竜の腹も食い破って血肉を喰らい骨の髄をすすり心臓を飲み込んで、遺骸を投げ捨てて淵の新たな支配者となった。

「……それで?」

 猫がそこで話をやめてしまったので、五郎は先を促す。猫は口を曲げて首を振った。

「それだけなんっす。美しいもの崇高なものは俗な悪意の前にははかないものよ、って月の親分は言って、俺もその先はなんかねえんすかって聞いたんですけどね、知らんって言われちまって。だから誰か知らねえかなと思って。強ぇ法力持った坊さんとかがきて、その蝦蟇を退治してくれたとか、そういう話ってないっすか」

「いや……俺は知らん」

 慎重に、五郎はなんでもないことのようにかぶりを振った。

 だが腹の底に冷えたかたまりが沈んでいく。

 それはあまりにも、少し前に聞かされたおぞましい話に似てはいないか。

 都から落ち延びてきた反逆者が皇統を恨んで呪詛を吐いて死んだという淵にいたのも、蝦蟇の妖物だった。

 その蝦蟇は、今は。

 猫は今度は気づかなかったらしくそっかあ、と言ってため息をつく。

「なんつうか、そりゃ現実なんてそんなもんかもしれねえっすけど。お話ならなんか救いがあってほしいっすよねえ」

 素直な嘆息にそうだな、と笑った時だった。

「っ……!」

 どくん、と何かに心臓を鷲掴みにされたような胸の痛みと苦しさが五郎を襲った。

 根拠はなかった。だが。

「すまん、猫。ちと用を思い出した」

「あっ、へいっ! おつかれさまっす!」

 ぺこっと頭を下げた猫を残して、五郎はその場をあとにした。裏階段へ入り、ほかの者の目がなくなったところで段を飛ばして上へと駆け上がる。

 以前にも一度、このひどく落ち着かない、いやな感じを味わったことがある。

 その時は、駆けつけると兄は魔物に襲われていた。

 声をかける間も惜しく部屋に飛び込むと、兄が床に倒れていた。

「! 兄者っ! 兄者どうした!」

 駆け寄って、抱き起こす。

「兄者! 兄者、しっかりしろ、兄者! どうした、何があった!」

 北野は真っ青な顔をしていた。苦しげに眉をしかめ、片手で喉元を、もう片手で口を押さえている。

「どうした。苦しいのか? しっかりしろ」

 声をかけながら、背をそっとさすってやる。ひく、と背を震わせて、それでも五郎に気づいたのか喉を押さえていた手がすがるように五郎の服をつかんだ。その手に自分の手を重ねて、強く握る。

「わかるか、俺だ。五郎だ。しっかりしろ、兄者。大丈夫か」

 握り込んだ兄の手はひどく冷たくなっている。細かく震える肩を強く抱いた。

「気をしっかり持てよ。今、医者を」

「……っ」

 北野はかすれた声をこぼして、頭を振った。兄の言葉を聞き取ろうと五郎は兄の口元へ耳を寄せる。

「なんだ? どうした」

「行く、な……」

 かすかな声が呟く。

「行かない、で……ぅぐ、っ……げほっ」

「……わ、わかった。わかった。ここにいる。どこへも行かぬ。安心しろ」

 苦しげにえずいてかたく体を丸めた兄に、五郎は懸命に声をかけ、抱き寄せて背をさする。

 どのくらいそうしていたのか。それほど長い時間ではなかったのかもしれないが、五郎には永劫のように長く感じられた。

「っ……、は……」

 小さく呻いた北野の肩から力が抜ける。ことんと五郎の胸に頭をもたげてきた。

「兄者……? 大丈夫か?」

 浅く喘ぐ顔をのぞきこむ。ごく小さく、北野は頷いた。ほっと、五郎は息をつく。

「ひどい汗だ。拭くぞ。……何かほしいものはあるか」

 手巾を出してそっと頬や首筋から汗を拭ってやる。うっすらと、北野が目を開けた。

「ここに、いて……離れないで」

「ああ、わかった。こうしていよう。ここにおるぞ」

 頷いて、あらためて兄を抱きかかえ、背をかるく叩いてやる。

 少しずつ北野の呼吸が深くなり、落ち着いていく。握ったままの手も、少しあたたかみを取り戻したようだ。きつく寄せられた眉から力が抜けて、頼りなげにぼやけた瞳が五郎を見た。視線を合わせて、笑いかけてやる。

「少しは、楽になったか?」

「……うん」

 北野はため息のように頷いた。

「気付けに、酒をとってこよう。ひと口含めば体もすこしあたたまるだろう」

「うん」

 頷いて、だが服の胸元を握ったままだった兄の手に力がこもった。

「でも、すぐ、戻って来て。僕を一人にしないで。死んでしまう」

「わかった。わかっている。すぐそこだ。棚までいって、戻ってくるだけだ。すぐだ」

 そっと兄の手を外させ、寝台に寄りかからせて立ち上がる。大股に部屋を横切り、戸棚をあけて、酒の壜とショットグラスをつかんでまた兄の傍らへ戻った。

「とってきたぞ。ほら、酒だ」

 膝をつき、グラスに注いで酒を差し出す。

「……兄者?」

 北野は瞳を閉じていた。五郎の呼ぶ声にも身動きもしない。

「おい、……兄者、兄者?」

 ざわりと、全身の毛が逆立った。心臓が何かに握られたように痛む。

 肩に腕を回すと、ことんと頭が倒れてくる。

 触れた兄の体はひどく冷たかった。

「……っ」

 迷ったのは一瞬だった。グラスの中身を己の口に含み、兄の頬を手で支えて上を向かせて、その唇に己の唇を重ねる。氷のような唇に強い酒精スピリッツを流し込んだ。

 こく、と喉が動いた。わずかに眉が寄って、酒に濡れた唇が小さな吐息をこぼす。瞳がうすく開いて、五郎はほっと、詰めていた息を吐き出す。

「気がついたか? 大丈夫か」

 冷たい頬を手でくるむ。北野は目を閉じて五郎の肩に頭を預ける。

「死ぬ一歩手前だった」

「え、縁起でもないことを言うな。気をしっかり持て。もうひと口飲むか」

「うん」

「……飲めるか?」

「飲ませて」

「…………わかった」

 さっきとはちがうふうに、鼓動が速くなる。どう見ても兄には気付けが必要なのに、兄の意識があるというだけで怖気がつく。

 本当に、先日兄になじられたように、自分は意気地がない。

(ええい!)

 腹に力をこめて、酒を含み、兄の唇を覆う。まるで口づけに応えるかのように兄の唇がかすかに動いて、どきりとする。それを腹の奥底へ押しやって、酒を注ぎ込み、唇を離した。兄が長いため息をつく。

「どうだ」

「……だいぶ、楽になった。ありがとう」

「もう少しいるか?」

「今はいい」

 ため息をついて、北野は五郎の肩に額を押しつける。大丈夫と言った割にまだ相当に苦しそうな様子に、五郎は戸惑いながら兄の顔をのぞきこむ。

「兄者、……寝台に、あがらぬか。ここは冷える」

「いやだ。離れないで」

 呻くような声が涙を含んでいるように思えて、また心臓が跳ねる。

「離しちゃいやだ」

「いや、離さぬ。ずっと、こうしている。一緒にいてやるゆえ、寝台に入ろう。な」

 兄の背に手を添え、ほとんど抱き上げるようにして立ち上がらせ、寝台へ引き上げる。己も傍らへもぐりこんで、兄を胸へ抱いて掛布を引き上げた。

「ほら、これなら少しあたたかい」

「……うん」

 やけに素直に頷いて、兄は五郎に体を寄せる。腕に抱いて、兄の髪に頬を寄せた。しばらくそうしていると、やっと氷のようだった兄の体のこわばりが解けて、ぐったりと五郎に体を預けてきた。

「楽に、なったか」

「うん……。……酒をおくれ」

「おう」

 頷いて、片腕は兄を抱いたまま手を伸ばして壜の蓋をとり、グラスに注いだ。

「持てるか」

「うん」

 差し出してやると手を出してくる。そのことに安心はしたが兄の手は細かく震えていて痛ましい。小さなグラスを両手でかろうじて握った兄がそれを口元へ運ぶのを、手を添えて助けてやった。

 半分ほど入れたグラスの中身を何度かに分けて干すと、北野はため息をついてまた五郎の肩に頭を預ける。手から空になったグラスをとり、寝台の傍らに置かれたテーブルへ戻してやった。

「……何が、あった?」

「あいつだよ。……大父」

「大父?」

 また眉を寄せて、北野は五郎の肩に頭を強く押しつける。

「大嗣が今日、呼ばれて行っているだろう。このところひどい扱いをされているから、前もそうだったけれど、今度も僕の持ちものを持っていってもらって障りをすこし肩代わりしたんだ」

「……! あれか、まえに、兄者が真っ青になって倒れそうになっていた時の」

「そうだよ。大嗣が屋敷へ行っている時だったろ」

「確かに、そうだった。医者を呼んだら縁を切ると言われて」

「医者になんか、何もできないよ。……ああくそ、あのいまいましい蝦蟇ひきがえるめ。殺してやれたらどんなにいいことか。誓いさえ立ててなければ」

「兄者……」

 めったに感情を昂ぶらせない兄の悔しげな呪詛に、ひどく胸の絞られる思いがする。

「大嗣、大丈夫かな。僕でこれじゃ、直接やられた大嗣はどうなってるか」

 途中で声に涙が混じって、五郎は緊張する。

 兄が泣くのではないかと思ったことは何度もあったし、泣きそうな顔だと思ったこともあった。

 だが。

 こんなふうにこらえきれずに涙をにじませて声を震わせる兄を見るのは、初めてのことだった。

「大丈夫だ。大兄がおられる」

 細かく震える肩を抱きしめて、精一杯囁いた。

「俺は、兄者の手を握っておっても気休めにしかならんが、大兄は大嗣と力を分け合っておられるのだろう? 大兄が支えてくださる。だいじょうぶだ」

「……うん」

 繰り返すと、頑是ない小児のように、北野はこくりと頷いた。顔をゆっくりと上げて、まだ潤んだ瞳を五郎へ向ける。

「接吻して」

「……え?」

「して」

「っ…………」

 無理だ、と、反射的に思った。だが、本当に兄がそれを求めていることも、同時に理解した。硬直して見つめていると、兄の濡れた瞳にさらに涙が浮かぶ。

「……そんな顔をするな」

 見捨てられそうな子供が懸命に泣くのをこらえているような顔など――そのままにしておけるものか。

 頬に手を添え、指で涙を払ってやる。そのまま、身を折って唇を重ねた。

 そっと吸うと兄の唇が開く。ちらりと、濡れた感触が唇を撫でて、誘われるまま舌をのばした。

 兄の口腔はまだ回復していないせいかひやりとしていて、気付けに含んだ酒精の香りが強く残っていた。やはり冷たい舌が、五郎の舌をなぞり、愛撫して、からみついてくる。強いめまいがした。懸命に動悸とめまいをこらえながら兄の動きをまねて、愛撫を返す。

 長く濃密な口づけを交わし、自然と唇が離れた。のぞきこんだ兄の瞳には涙とは違う潤みが浮かんで、頬もいくらか血色を取り戻しているようだ。

 視線が合って、ふ、と北野は微笑んだ。

「へたくそ」

「っ……! だ、第一声がそれか?」

「ふふ。慣れていなくてかちこちでぎこちないのがいっそ新鮮で、ぞくぞくした」

「あのなあ、兄者」

「嬉しいな」

「っ……」

 兄が幸福そうに笑んで、息が詰まる。

「さすがに何十年かのうちにどこかでちょっとしたつまみ食いぐらいはしたかと思っていたのに、口づけさえまともにしたことがないなんて。おまえ、あのを振ってからもずっと清い身を貫いていたんだね」

「え」

 ぎくりとして兄の顔をおそるおそるのぞきこむ。

「ま、さ……かと思うが、兄者、山ノ井……」

「僕が頼んだ。弟の筆おろしをしてくれ、って」

「な……――」

 もう、とうにいなくなってしまった娼妓。誘われて、あまりに真摯でほだされて部屋までは行ったが、やはりどうしても服を脱ぐ気になれずに土下座をして謝った。

「べつに、あの妓も僕に言われたからおまえを誘った、ってわけじゃないからね。おまえのことを好いていて、僕が許すなら床を共にしたいと思っている妓だったから頼んだんだよ。気立てもよかったし、おまえはきっと一度寝たら情が移るだろうから、そのまま恋仲になって所帯を持つのもいいんじゃないかって、そう思っていた」

「兄、者……」

「僕は、そう言われてもおまえに傷ついた顔なんか見せない自信があったからね」

「……あれは、その。謝るから、つつかんでくれ」

 さっさと降参して、だが苦いため息が落ちた。

「まったく俺は、何に対しても覚悟も思い切りも足らぬ。兄者が信用しきれぬわけだ」

「信じていないわけじゃない。おまえに背負わせたくなかっただけだ」

「同じことだ。こんな……」

 やっとすこし体温の戻ってきた兄の体を抱き締める。

「こんな思いを兄者一人にさせて、一人きりで耐えさせて。俺は何も知らずに医者だ、心配だ、なんとかせねばと無駄に騒ぎ立てるばかりだったではないか。……本当に、すまない。俺が至らぬばかりに」

「そんなふうに言うものじゃない」

 北野は腕を伸ばして、五郎の頬に触れた。瞳を和ませて微笑う。

「おまえが何も知らずにいることが、おまえに知らせずにいられていることが、僕の支えだったんだから。僕は本当に弱くなってしまったんだよ。こういう時におまえにすがりつかないと耐え切れないなんて、少し前までありえないことだったのに」

「それでよいのだ、兄者」

「おまえがそう言ってくれるから、甘えてしまうんだ。おまえは、僕を甘やかしすぎる」

「ずっと甘やかせずに焦れておったのだ。せいぜい甘やかさせろ」

「……もう」

 喉を鳴らして笑い、北野は五郎に身を擦り寄せる。

「少し寝る。大嗣が帰ってきたら起こして」

「承知した」

「僕が眠るまで、出て行っちゃいやだよ」

「わかっている。甘やかすと言ったであろう。案じるな」

「……うん」

「寝台からは、出てもよいか? 部屋を片付けたい」

「僕が寝るまでだめ」

「……では、そうしよう」

「わがままだね、僕」

「いいのだ。俺はわがままを聞きたい」

 ごく小さく笑って、北野は五郎の胸板に頭を押しつけて目を閉じた。大嗣、無事で、と呟いたのが聞こえて、五郎も目を閉じて兄と同じ言葉を口の中で唱えた。



 声が絶えて、もうずいぶんと時間が経った。だが、咬を呼ぶ打ち具の音がしない。

 大父が立ち去り、身じまいを整えた合図のその音が、これほど長く聞こえないのは今までにないことだった。

 強く唇を引き結ぶ。

 数か月前に呼ばれた時も、明紫は身じまいだけはどうにか整えて咬を呼んだものの立ち上がることができずにいた。その時よりもひどいことになっているのではないのか。

 明紫は己の乱れた姿を咬に見られることを恥じる。だから呼ばれるまでは入らないことを貫いてきたが。

 意を決して、咬は背後を振り返る。扉に手をかけて、ゆっくりと引き開けた。

 室内へ足を踏み入れ、耳を澄ませる。物音はこそりとも聞こえない。すくなくとも、大父が明紫の上で忙しく腰を振っている気配はない。

 静かに次の間を横切り、寝間へ入った。

 やはり、そこに大父の姿はなかった。がらんと広い寝台、乱れきった敷布の合間に、まるで襤褸布ぼろぬののように明紫が横たわっていた。眉根を寄せ、瞳を閉じている。わずかにではあったが、胸が上下していた。

 床には明紫の衣服が乱雑に落ちていた。弾き飛ばされたのか、眼鏡は壁際に落ちている。拾い上げて、枕元の小卓へ置いた。服も集めて埃を払い、畳んで眼鏡の傍らへ置く。

 咬が動き回っても、明紫は瞳を開けなかった。かがみこんで手を伸ばし、頬に触れる。

「……ん」

 ようやく、明紫が反応を示した。うっすら瞳をあけて、よく見えないのか目をすがめる。

「……咬?」

「ああ」

「……ごめん。ようやっと終わった、思うたら気ぃ遠くなって」

 弱く笑い、明紫は身を起こそうとする。だが力の抜けた手がわずかに敷布を掻いただけで、明紫は力尽きたように目を閉じる。

「あかん……動かれへん。助けて」

 指先が少しだけ咬のほうを向き、咬はその手を握り、寝台に膝を乗せて明紫の体を抱き起こした。上衣を肩にかけてやり、肌を隠して、血色の失せた唇に己の唇を重ねた。

 幾度か口づけを重ねると、ようやく明紫が一つ、息をつく。

「ごめん。もう少し」

 囁きに応えて、再び口づける。ようやく少し明紫は自分でも顔をあげて、咬の口づけに応えて唇を押しつけてきた。やっと少し力の戻った手が咬の腕にかかる。咬の肩に顔を伏せた。

「頭、がんがんする……気持ち悪い。お湯連れてって。奥入って、右」

 頷いて、敷布を剥がして明紫の体をくるみ、抱き上げた。寝間の奥へ向かうと、床には大父が体を引きずった痕跡と思しきぬめりがうねりながらのびている。またぎこえて途中から方向を分かち、言われたとおり右手へ入ると広い湯殿が用意されていた。

 積まれていた湯着をとり、汚れた敷布から湯着へ明紫の体を移してくるむ。湯殿の縁へ横たえ、自らも衣服を脱いで、あらためて明紫を抱き上げて湯船に入った。

 手で湯をすくって肩にかけてぬくめ、化け物の体液に汚れた手足から穢らわしいものを擦り落とし、冷えたそれをさすってやる。

 だが、最も蹂躙されたはずの場所に触れることはさすがにためらわれた。介添はそこを清める手伝いをするのも役目のうちだから五郎は慣れているだろうし北野も触れられることに慣れているだろうが、明紫はいつも自分一人で始末をしていた。咬が触れては、主人の矜持を傷つけるのではないか。

「……ごめん、咬。ぜんぶ、綺麗にして」

 目を閉じたまま明紫が囁く。

「ぜんぜん、あかん……」

 頷いて、湯着の裾から手を入れた。一方であらためて明紫の唇に己のそれを重ねた。穢れたものを掻き出し、清めて、奪われたものを己の生気で補ってやる。

 湯の濁りが完全に消えて少しして、ようやく明紫が少し頭を上げた。

「おおきにな……。綺麗なったら、ちょっとましになった。……もう、あがる。着替えて、帰ろ」

「まだ無理だ」

「うん、きつい。けど外へ出るまでやったら、なんとかいける」

 明紫は弱く笑った。泣きそうな顔だった。

「ここにいとうないんよ。はよ帰りたい」

 頷いて、明紫を抱いたまま立ち上がり、湯船を出る。座らせると明紫は自分で湯着を脱ぎ、渡してやった新たな湯着に袖を通して体の水滴を吸わせた。

「出ているか」

「……ここにおって」

 聞くと、だが明紫はかぶりを振った。

「一人で立ち上がれる自信ない。ごめんな」

 かぶりを振って別の湯着をとり、明紫の髪を拭いてやる。幾度か湯着を替え、最後に新しい乾いた湯着をまとった明紫を抱いて寝間へ連れ帰り、明紫が服を着る間に湯殿へ戻って自分も体を拭いて衣服を着けた。

 少し時間をおいて寝間へ戻ると明紫はどうにか身じまいをすませ、仕上げに紅を差しているところだった。

「……どうやろ」

 苦笑めいた笑みに、頷きを返してやる。顔色は悪いが眼鏡と紅のおかげでそれほど目立ちはしない。もとよりあまり血色がいいわけではないし、使用人たちは大嗣の顔を凝視などしない。気づかれることはないだろう。

「ほな、帰ろ。……え、咬?」

 頷いて、あらためて抱き上げると明紫が驚いた声を出す。

「外までは抱いていく」

「……そやな。頼むわ。おおきに」

 言うと明紫は逆らわずに頷き、咬の肩に頭を預けた。

「お姫さん、だいじょぶやろか……」

「五郎がいる」

「……うん。そうやね」

 呟いた明紫に答えると、明紫も自分に言い聞かせるように頷いた。

「目を閉じていろ」

「……うん」

 これにも頷いて、明紫は瞳を閉じた。



「大嗣」

 永咲館へ入ると、笑顔の北野が階段を小走りに下りてきた。

「お帰りなさい。待ってたんだ」

「ただいま。……ご機嫌やね。なんぞ、ええことあったんか?」

「ふふ。うん、あったんだよ。こっそり教えるから、聞いて? 大嗣の部屋へ行こう」

 明紫に抱きつくようにして腰に腕を回した北野が、咬に顔が向いた一瞬だけちらりと、瞳だけで頷きかけた。任せろという目に明紫を託して、数歩遅れて二人のあとに続く。

 北野もだいぶ顔色が悪い。五郎が何かを飲み込むのに苦労している顔をしているから、やはり北野もかなりひどい状態だったのだろう。

 果たして三階へ上がり、居間の寝椅子に明紫を座らせると北野は自分もその足元に座り込んで明紫の手を両手で包んだ。立っていられないのだ。

「横になる? 何か飲む? よかった、帰ってきてくれて。戻ってこられないんじゃないかって、心配で生きた心地がしなかったよ」

「このままでええよ。お姫さんも、しんどかったやろ。おおきにな」

「僕は大丈夫。部屋にいたし、五郎がすぐ気がついて駆けつけてきたから。……大嗣は、今日はうんと遅くまで下りて来なくていいからね。どうせ今日登楼あがってくるのはながだし、僕が最後までサロンにいるから、具合がよくならなかったら休んでいていいよ」

 西の末子ばっしは、今日がまだ二度めの登楼だというのに、すっかり北野の手下扱いだ。

「……おおきに」

 微笑して、明紫は北野の手を握り返す。

「お姫さんも無理せんで、ぎりぎりまで休んどくんやで」

「わかってる。心配しないで」

 頷いて、そして北野は咬を見上げた。

「ごめんね、立たせてくれるかな」

 頷き、伸べられた手をとって、北野が立ち上がるのを助けてやる。もう片手も咬の腕にかけて体を支え、北野は何度か深呼吸をして、そして顔を上げた。

「ありがとう」

「部屋まで送ったげて、咬」

「だいじょうぶ。外に五郎がいる。……おまえは、大嗣を寝間へ連れていって、夜まで離れずにそばにいてあげるんだよ。いいね」

 咬が頷くと、北野も頷いて咬の手を放し、戸口へ向かう。最後ににこりと笑みを残して部屋を出ていった。

 北野に言われたとおり、咬は明紫を抱き上げて次の間へ向かう。

「……なあ、咬」

 おとなしく運ばれていきながら、明紫が呼んだ。

「五郎、もしかして、変わったんやないか……?」

「ああ」

「やっぱりな……」

 頷くと、明紫は小さくため息をついた。

「今の北野にはそのほうがいい」

「……そうやね」

 頷いた明紫を寝台へおろして、眼鏡を外してやる。

「添い寝して」

 細い声に頷いて、うすものをかけてやった傍らへ体を伸ばし、近くへ引き寄せてやる。明紫がため息をついて咬に頭をもたげてきた。



「あれ」

 ふと、たった今心づいたかのように時計を見て目を丸くする。

 深夜が近かった。すでにサロンに残っている者もほとんどいない。敵娼を決めた客と娼妓たちももちろん、客のつかなかった娼妓もあらかたがもう新たに登楼ってくる客はいないと見切りをつけて部屋に引き上げている。

「もうこんな時間なんだ? ……あるじが話がじょうずだからすっかり時間を忘れてしまった」

 とろけるような笑みを浮かべて甘えた目を向ける。

「ごめんね。もしかして、待たせてしまったかな」

「いいや」

 客も瞳を和ませて手を伸ばし、北野の頬をごくかるく、触れるか触れないかの距離で撫でる。そのまま、テーブルに置いていた北野の手に手を重ねて握ってきた。

「俺ときみは出会ったばかりだ。話すこと話したいこと話してほしいことはいくらでもある。ひと晩じゅう話していたって話は尽きないさ」

「それでもいいの?」

 悪戯っぽく瞳をまたたかせて見せる。

「ああ」

 相手もすました顔で頷いた。

「きみに会うのはこれが最後じゃないからな。――そもそも、かつてはきみほど位の高い人を揚げようと思ったら数回は手も握らずに酒を酌み交わして話を楽しむだけで帰るものだったんだろう?」

「そうみたいだね。でも、今はその当時じゃない」

 するりと相手の手の下から自分の手を抜いて、相手の手に重ねなおす。やんわりと力をこめて握った。

「もうみんな部屋に引き上げてしまったみたいだし、話の続きをするにしてもほかのことをするにしても、僕の部屋でにしようか」

「いいとも」

 相手は頷いて、身軽に立ち上がる。慣れた動作で北野の椅子を引き、一方で片手を差し伸べて立ち上がるのを助けた。北野が立ち上がるとあらためて腕を差し出す。くすっと笑って、その腕にかるく手をかけた。腕を組んで、他愛のない話をしながら階段を上がっていった。

「どうする? もう少し飲む?」

「いいや。もう十分だ」

 部屋に入って戸を閉め、振り返ると首を振って相手は長椅子に腰を下ろし、北野を手招く。

「……あまり飲んでいないよね?」

 言われるまま隣に座り、すこし奇妙に思って首を傾げた。すくなくとも前回登楼してきた時はもっと飲んでいた。

「どうかした?」

「俺はなんともないが、俺がぐいぐい飲んでたらきみもある程度つき合わないといけないだろう」

「……」

 北野は無言で相手を見る。かるく眉を上げて、永行は視線を返してきた。唇の端を少しだけあげる。

「なんでわかったの」

 化粧で入念に血色を調整した。体調の悪さで言えば五郎を遠ざけていたころのほうが悪い。その時だって、どの客にも、閨に入ってからでも気づかれたことはなかった。

 それなのに、まだ二度目の登楼の永行がなぜ見破ったのか。

「半分は推測。大嗣が結局姿を見せなかったし、きみが時間を忘れて話し込んだりするものか。時間は分かっていて顔を出せない大嗣のかわりに居残ってるんだろうと思った」

「もう半分は?」

「香りさ」

 北野の手を取って、永行は手首の内側に小さく接吻する。

「この時間になってもまだつけた直後に近い香りがしてる。べつに体温をはかるためじゃないが、ある程度、まあ、一般的な人間の体温程度の温度がなければ香りが変わりにくいように調合してあるんだ。この間きみを抱いた時はとくに体温が低いようには思えなかった。つまり、相当体調が悪くて体が冷えてるんだろうと思った。何度か触ったら手もいつまでもかなり冷たかったしな」

「……それ、かなり屈辱なんだけど」

 北野は唇を尖らせた。

「客に、しかも一回しか寝てない相手に見透かされるとかさ」

「俺が言わなけりゃきみふつうに俺に抱かれるつもりだったろう?」

「当たり前だよ。お客なんだから」

「だから言ったんだよ」

 永行は手を伸ばして北野の首筋に触れた。永行から贈られた香水は口づけされた手首と今触れられた首筋のそこにつけている。

「つけててくれてよかったよ。ほかの香りじゃわからなかった」

「もうつけないことにする」

「そんなこと言わないでくれよ。俺に気づかれたくないような体調なのかと心配になる」

「……ずるいぞ」

 ぷいと顔をそむけたらそんなことを言われて、いっそうふくれっつらになった。

「いや、まじめな話、できれば俺に会う時だけじゃなく、なるべくいつもつけていてほしい。理由がある時以外は」

「何それ。独占欲?」

「そうだな。きみがそれをつけてれば、俺はきみとつながっていられる」

「……考えておくよ」

「いい答えを出してくれることを期待してるよ。まあ、今夜はもう寝よう」

「え。本当にしない気?」

「そう言っただろう?」

 さっさと上着を脱ぎ服をゆるめはじめた永行に目を見開いたらむしろきょとんとした顔をされてしまって、北野は唇をねじ曲げる。

 閨のことをしなくていいのは、正直に言えばありがたい。今もかなりめまいと頭痛がひどい。五郎は冗談にとったようだったが死ぬ寸前だったと言ったのは事実だ。五郎が口移しに酒を飲ませるのをもう少しためらっていたら今ここにいられたかどうかはわからない。

 ただ、永行にそれを見破られて気遣われているのが、矜持にひっかかるだけだ。

「ほかの主なら、体調が悪そうだから今日は何もしないで寝るとしようって言われたら、ごめんねありがとう大好きだよ主、って言うのに」

「俺には言ってくれないのか?」

「……言いたくないんだ、たぶん」

 問い返されてやっと自分で答えがわかった。

「きみは、朝になって送り出したら次に会うまで他人になる、その場限りの愛人じゃないから」

 ぱちりと、永行はまばたきをした。

「それはつまり、俺はここにいない時もきみにとって他人じゃない、って自惚れてもいい、という意味かな」

「まあ、うすくてもいちおうは血がつながっているからね」

「だったら話は簡単だ」

 すとんと北野の隣へ戻ってきて、永行は北野の目をのぞきこむ。

「きみはこう言えばいい。今日は具合が悪いから何もさせない。寝るよ、と」

「……そうか」

 小さく噴き出して、北野は永行の肩に額をあてた。

「僕は寝るから寝台へ運んで」

「任せておけ」

「添い寝は、させてやる」

「ありがたき幸せ」

 そのまま体重を預けると背に回ってきた腕に柔らかく力がこもった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る