11 弟


―― とと様。あれ、なんですやろ。

―― うん? ああ、あれか。少童わらしやな。

―― あのようなところで、何しとりますのやろ。

―― ようはわからんが、何をしとる、ゆうよりも、動けんようになっとるのやないか。今日は寒いよって、凍えとるのかもしらんな。

―― ……あの、父様。あれ、連れて帰ったらあきまへんやろか。


 自分の頼みに、同じ車の中、自分を膝に抱いていた父が意外そうに目を見開いた。



 失礼致します、と、骨箱を抱いた女は最後にもう一度深々と頭を下げて、五郎に案内されて執務室を出ていった。

「まあ、たしかに多少、目尻やらにしわはあったりしたけれど、老いた醜いというほどじゃなかったね」

 明紫の隣で、今回は最初から同席していた北野が首を傾げた。

「せっかく拾って育てて仕込んでやったのに、あのくらいで縁を切られちゃさすがにちょっと同情する」

 女は、松江の養母だった。事態が落ち着いたところで面識のある五郎が顛末を伝える手紙を送り、それを受け取って急ぎ大淵まで出てきたのだ。日はかかっていたが、老境に入りかけた女の脚には、決して近い距離ではない。むしろよくこの日数で大淵まできたと言えるだろう。

「とはいえ、母のほうにもさして情はなかったみたいだから、似たもの親子かな。血がつながっていなくても似るところは似るんだね。いや、似るからこそ縁ができるのかな」

 女は勧められた椅子には腰を下ろさず、床に額をこすりつけて養い子の不始末を詫び、とんでもないことを申し訳ございませんと咽び泣いた。

 だが、それはどこか芝居めいた仕草だった。

 女が涙ながらに語った言葉によれば松江は捨て児で、まだ乳飲み子の時分に遺棄され泣いているところを女が見つけて拾い、育てたということだった。ませた子供で早いうちから熱心につとめに励んでいたがまさかひとさまを呪うようなおそろしい心根を持っていたとは思いもよらなかった、と詰まらせた声には、忌々しさがにじんでいた。

 女にとっては養い子が死んだことよりも、養い子がこともあろうに大淵の大嗣とその抱える娼家に迷惑をかけたことによって自分が責を負わされてはたまらない、という思いのほうが強いようだった。

「それなりに稼がせてもろたやろにな。……ご苦労さん」

 女を送り出した五郎が戻ってきて、明紫は五郎に頷きかける。

「かかさんのお志や。松江の部屋のもん、うまいこと処分したって」

「かしこまりまして」

 明紫の言葉に五郎は頭を下げた。

 輿入れの時に松江が用意したさまざまな調度品を、母親はせめていくらかなりと皆様へのお詫びにお取りくださいませと引き取るのを辞退した。相当な荷造りと何日もの旅程を経て持ち帰るにはあまりにも量が多かったということもあるだろう。持ち戻ってあらためて処分するにも苦労がかかる。それにしても形見に手鏡や櫛の一つぐらいは持って帰れるだろうに、それさえも求めないのはやはり北野の言う通り養い子の死そのものはどうでもいいのだろう。

「松江の惨死は知れ渡っておりますから道具屋などは嫌がりますでしょうが、……まあ、港に入る西欧の船にでも破格と称して高く売りつけましょう。ちょうど数日うちに一隻やってくることになっていたかと」

「悪どいな」

 北野が目を丸くした。

「五郎、おまえいつからそんな悪徳商人のような手を思いつくほどすれてしまったんだい。僕は悲しいよ。純真だったおまえはどこへいってしまったの」

「えっ、ええっ? いや、兄者、これは別に! 悪どいとかそういうことではないぞ? 単なる商道の基本としてだな」

 兄の揶揄に今日も弟はひっかかって声を上擦らせる。ええ、ほんとかなあ、と北野は目をきらきらさせてさらに弟をつつく。

 その兄弟を、明紫は瞳を細めて眺めていた。

 永咲館の営業再開から十日ほど。日常の営みが戻ってきて、北野の体調も落ち着いたようだ。五郎は目に見えて表情が明るくなり、それを見る北野の表情も穏やかだ。

 松江の骨も引き取られていった。部屋に残された道具類もそうたたずに運び出されるだろう。松江の一件は過去になる。すべてが松江が鞍替えしてくる以前に戻る。

 そう何となし考えた時、執務室の戸を叩く音がした。

「失礼申し上げる。大嗣はこちらにおいでだろうか」

 次いで、よく響く声が聞こえた。井和だ。五郎が明紫を見る。明紫が頷いたので一礼して戸口まで井和を迎え入れに行った。

 そう――何もかもが旧に復したわけではなかった。五郎は今まで見せてもらえずにいたものを見られるようになり、そして。

 永咲館には住人が増えた。

部領ことり、そして御子。ご機嫌うるわしゅう。本日も麗しきお姿を拝見できまして、恐悦に存じます」

 やってきた井和はかるく膝をついて、明紫と北野に一礼する。苦笑を浮かべて、明紫は正面の椅子を示した。

「下ばっか見とって首疲れてきたとこや。そっちへお座り」

「ありがとう存じます。それではお言葉に甘えまして」

 頷いて井和は立ち上がり、明紫の正面の椅子に浅く腰を下ろす。今日は藍のしじら織の単に薄手の羽織の気楽そうな普段着姿だった。端月のように着流しでないのは、いちおうは明紫の前へ出るからか、性格の差か。

 あの日以来、井和は連日永咲館に登楼してきている。というよりはむしろ流連いつづけと呼んでいいだろう。昼近くまで妓女おんなの部屋におり、朝の忙しい時間帯が終わると出てきて館内をぶらぶらしているか、端月の部屋で碁を打ったり茶を飲んだりしている。夕刻には引き上げていくが口開けにはまた登楼あがってきてサロンで酒を飲み、端月の取り持った妓女おんなに客がつかなければそれを揚げ、客がつけば別の妓女を選んでその部屋に泊まる。

 はじめの数日は去就が確定せぬゆえということもあっただろうが、三日ほど前には北から差し向けられてきた「護衛」を、あの日の打ち合わせのとおり打ち負かして、正式に永咲館の護衛として取り立てられた。北からは抗議されたが、北野が言ったように無頼に勝てぬ護衛などいらぬと喝破し、騒動を聞きつけた東の惣領が井和なら自分が推挙すると後押しをしてきて、北も引き下がらざるを得なかった。どうやら護衛云々という話は老人の独断であったらしく、それこそ新参の無頼に負けるようではと揶揄されて市中の自警団という話も立ち消えになったようだ。

 井和は明紫とは主人と部下ということになったが、昨夜も平然と登楼ってきて泊まり、やはりこの時間まで普段着でうろついている。

永咲館うちの居心地はどうや、鳥」

 明紫がそう訊いたのも、だから、多少の揶揄も交えて両方の意味があったのだろう。

 含みのある問いに、井和は微笑を浮かべた。

「大変結構な棲み家を頂いたと感謝しております、部領。つきましては、少々ご相談がありまして罷り越しました」

「なんやろ?」

「我ら現在、市中に本拠を構えておりますが、これがいささかこちらからは遠く。平素はとくに問題はございませんが、万一なにか危急のことがございました折に鳥たち郎党を参集させるに少々不便でございます」

「うん」

 流れるように語る男に、明紫は小さく頷いてやる。

「程近い場所にちょうどよい広さの屋敷がございました。こちらを入手し一党の本拠としたく存じますが、無頼の鳥どもがお庭近くに巣をかけますことをお許し願えますでしょうか」

「屋敷、いうたら……どこやろか」

「かつての緑山様邸でしょうか」

 問う目を向けられて五郎が首をひねる。

「あちらでしたら、当家よりはやや裏手にあたりますゆえ、登楼の皆様の道筋にはほぼ入らないかと存じますが」

「ああ……あそこか。方角で言うたら、うちから見て鬼門やな」

 明紫が見ると井和は一礼した。わかった上でそこを自分たちで守ると言いたいらしい。明紫は頷く。

「ええんやないかな、それで」

「ありがとう存じます。では、そのように話を進めて参ります」

 明紫が頷いて、井和はあらためて頭を下げた。


「なあ、兄者」

 部屋へ引き取った兄のために窓を開けて部屋の空気を入れ替え、掃除に入った者が動かした小物の位置を細かく直してやりながら、五郎は兄を呼ぶ。

「うん?」

「鳥の御仁は、なぜ大嗣をコトリと呼ぶのだ?」

 五郎は永咲館の差配だ。井和の一党が永咲館の警護役に取り立てられ、いわば同輩となったわけだが、大嗣大兄、兄、端月と並べば五郎が最も軽輩だ。しかし差配という立場からすれば同格、むしろ五郎が上になってしまう。

 毎夜妓女を揚げるし花代もきちんと支払うが、さりとて立場を考えるとお客さまとも、一党に加わっているでもない身では親分とも呼びづらい。

 名は知ってはいる。名乗られた。あちらは五郎どのと呼ぶのでこちらも同等に呼ぶのでよいのかもしれないが、どうも大嗣でさえ名で直接呼ぶことは少ないらしい。そうなると五郎もそうそう気安くは呼べぬ。迷った末に、話題に出す時には鳥の御仁とし、呼ぶ時は鳥どのとした。とはいえさすがにやや呼びづらい。今のところはなるべく呼びかけずに目配せで用があるのを伝える、というふうにしている。

「ご本人は鳥を名乗られ、郎党のことも鳥、小鳥と呼んでおるようだ。大嗣をその一に含めるのは俺にはいささか不敬に思われるのだが、大嗣も大兄もそうは思っておられぬご様子。兄者もだ」

「おまえには、あれが目下への呼びかけに聞こえる?」

 気に入りの椅子に身を沈めて、兄は悪戯っぽい目で五郎を見る。五郎は素直に首を横に振った。

「そう思えぬから不思議に思っておるのだ」

 井和は兄を御子と呼ぶ。兄の神力を見抜いているのだ。その兄と並べてコトリと恭しく呼ぶからには敬称としか思えない。

「うん。正しい」

 にこりと笑って北野は頷いた。胡桃を放ってきたので受け止めて割り、兄の手に返した。

「あれは小鳥じゃなくて、部領ことり。古い役職の名前なんだけれど、それらを束ねて統率する者をとくにそう呼んだ。今の言葉にすれば我らのおさ、ぐらいの意味かな」

 そう言って、兄は胡桃をひとかけらつまみあげて口に放り込んだ。

「……ほう」

 意外な解説に五郎は目を見開く。

「そんな役職があるのか」

「あった、が正しい。そうだな、大淵ができたころか、もっと前に置かれなくなったんじゃないかな」

「そんなに古いことなのか。よく知っておるのだな、兄者は」

「僕らの家には史書がたくさんあったんだよ。僕は早熟で字を読めるようになったのも早かったから片端から読んでいたんだ」

「さすがだ、兄者。……つまり、あの御仁は大嗣に、我が主よ、と呼びかけているということか」

「そういうこと」

 にこりと兄は頷いた。

「僕なんかよりずっと大嗣を敬ってるよ、あのひとは。おまえに言う必要はないと思うけど、妖怪の旧知らしいし、長いつき合いになるかもしれないから、あの連中とはうまくやって」

「心得た」

「あんまりあこぎな値段でものを売りつけるとかしちゃだめだよ」

「身内にそんなことはせぬ」

「へえ、身内じゃなければするんだ」

「! い、いや、そういうわけではない! 違うぞ兄者!」

 五郎の弁明を聞かずに兄はひどいなあ、と繰り返して笑い、胡桃をつまむ。五郎も笑った。一時は本当に気を揉んだ食欲も戻った。部屋着の袖から覗く腕の白さもあの時期のような病的な血色の悪さではなくなった。

 やっと、兄が笑ってもその裏にひそむ痛ましさに胸を痛めずにすむ。

 それは五郎にとって何より嬉しいことだった。



 北野に奇妙な贈り物が届いたのは、目当ての船の船長に渡りをつけて、松江の遺品もおおよそ心算どおりの値で売ることに成功し、あらかたが運び出されたころだった。

「北野様へ捧げ物とのことでございます」

 そう言って届けられたのは、花籠であった。籠は白と金のリボンで飾られ、こぼれんばかりに種々の純白の花が活けこまれている。

 そして一輪、象牙から掘り出して金を象嵌した薔薇の花が添えられていた。

「じつに見事だが、どなたからの贈り物であろうか」

 贈り主の名の記されていそうなものが添えられていないことに五郎が首を傾げると、花屋はそれが、と口ごもる。

「お使いを名乗る方がみえまして、花の種類や数、配置まで細々とご指示をなさったのですがご主人のお名前は伏せさせてもらいたい、と」

「それでは困るのだがな……」

 困って、五郎は頭をかいた。

 娼妓に贈り物をするならそれは客か、客になろうと望んでいる者のどちらかだ。名を明かさないというなら後者だろう。前者が自分の名を当てさせて試そうとしている、という見方もできるが、贈り先が北野ではそれはない。北野は自分の情愛を疑われることを何より嫌う。試すようなことをしたら即手切れを言い渡される。

 一方で、何より警戒せねばならぬのは、そうした贈り物を装った嫌がらせの類だ。

 北野には信奉者は多いが、その美貌や才、あるいは位をよく思わない者もいる。袖にされた客もすべてが納得しているわけではないだろう。北野自身、やや、いや、かなりくせのある性格で万人に愛されるというわけでもない。現にごく最近、北野を妬んで呪おうとした不埒者が出たばかりだ。

 疑うのは心苦しいが籠や花にどんな仕掛けがされているかも分からない。花屋は出入りの者だからそれが作ったというなら毒虫の類が沈めてあるというようなことはないだろうが、絶対とも言い切れない。

「決しておまえを疑うものではないが、そのお使いがおまえの目を盗んで何か仕掛けを加えた可能性がないとも言えぬ。先の一件もあって当家でもよろず慎重にならざるを得ぬゆえ、贈り主のはっきりせぬものを受け取るわけにはゆかぬのだ。申し訳ないが持ち帰ってくれ」

 頭を下げると花屋のほうももとから言いにくそうにしていただけあって頷いて、だがさらに言いにくそうに何かを懐から取り出した。

「じつは、どうしても受け取れぬと言われた場合に限って、これを大嗣にお渡し願ってお受け取りいただけるようお口添えをいただくように、と……」

「……は?」

 書状を捧げ出されて五郎はぽかんとしたが、むしろ花屋のほうが身の置き所のない様子でいた。自分の持参したものを受け取ってくれるよう大嗣から口添えをしてもらいたい、など、もとより言えるような身分ではないのだからそれも当然のことだろう。

「と、とりあえず検分させていただこう」

 困惑のまま受け取って裏書きを検め、五郎は世にも珍妙なものを飲み込まされたような顔になった。


 ふだんは三階まではやってこない五郎がわざわざ戸を叩いて、困り果てた顔で差し出した書状を受け取って裏書きに目をやった明紫が、やはり奇妙な顔をした。手を差し出したので小刀を抜いて渡してやる。それを使って封を切り、書状にざっと目を通して、明紫は苦笑を浮かべた。

「お兄ちゃん呼んどいで。自分も降りるから階段とこで」

「かしこまりました」

 頭を下げた五郎が部屋を出て行き、明紫はまだ苦笑を乗せたままの顔で咬を見る。小刀を返してきて、ついでのように書状をかるく振って見せた。

「あん時の借り、じじさまこれでチャラにしてくれはるらしいわ。こんなことでええのやったら助かるけど、……誰なんやろな、贈り主」

 言いながら戸口へ向かった明紫に先回りして戸を開けてやり、背後に続く。

「大嗣。なんの騒ぎなの、一体」

 ちょうど主階段の上で北野と行き合った。

「五郎は腰を抜かしててぜんぜん要領を得ない。爺さまと花がなんだって?」

「お姫さんに、て花が届いてるそうや。名前は今は聞かれとうないらしい」

 明紫は微笑して北野を階下へ促す。五郎はいつものように彼らを見送ってから裏階段へと回っていった。

「叢林のじじさまが、わけあって今は身元を明かせない方だがあやしげな者でないことは爺が保証するゆえ太夫によしなにおとりなしいただきたい、お聞き入れ頂けるのであれば大変に恩に着る、ゆうてはるよ」

「大仰だなあ。まあ、仔犬の借りがそれで返せるっていうなら、花ぐらい受け取ってあげるけれど。精液まみれにされてたりしたらちょっと気持ち悪いけれど、そうだったらさわらないで捨てればいいんだし」

「それ、五郎に聞こえるとこで言うたらあかんよ」

「え、別にいいんじゃない? このくらい」

「前に自分が魔羅ゆうたら天地がひっくりかえったような顔しとったよ。お姫さんがゆうたら寝込むんやないかな」

「ほんとにあいつは軟弱だなあ。大嗣にまでそんなに気を遣わせるなんて。僕らが何年この商売やってると思ってるんだろう。今度金玉を踏んで鍛えてやることにしよう。……おまえが花屋?」

 先に下へ下りて彼らを迎えた五郎の背後で硬直している男に北野はこだわりなく声をかける。

「いいよ、花とやらは受け取ってあげる。でも僕の部屋には置く場所がないから、ここへ置こう。五郎、なにか乗せる台を出しておやり」

「かしこまりました。では、ここへ置いてくれ」

「ははっ!」

 北野がよく使う長椅子の傍らに置かれている小さな丸テーブルを五郎が示し、花屋が今にも器を取り落とすのではないかと思えるほど緊張した様子でそこに抱えていたものをおろす。

「ご苦労さま」

「ご苦労やったね」

「い、いえっ! と、とんでも……」

 北野ばかりか明紫にまでねぎらわれて花屋が飛びすさるようにして後ろへさがる。五郎が受け取りを書いてやって、花屋は何度か頭を下げて脱兎のごとく逃げ帰っていった。

「……ふうん」

「あっ」

 しばらくその贈り物を見下ろしていた北野は、ついと手を伸ばして中央の象牙の薔薇をつまみあげた。五郎が思わずといった様子で声をあげ、北野は呆れたように中途半端に手を伸ばしてかたまっている弟を見下ろす。

「身元は保証されたんだろう? そんなに警戒することじゃないよ」

「い、いや、しかし……」

「よくできてるね」

 手にした薔薇を灯りにかざしてそう呟き、北野はほら、と明紫にそれを差し出す。

「ほんまや」

 明紫も瞳を和ませて頷いた。受け取って、北野がしたように灯りにかざした。

 ふっくらとした薔薇そのもののように掘り出された象牙には、ごく薄く削って形を作った一枚一枚の花弁の縁、花脈や萼など要所に金が象嵌されている。

「相当に腕のええ職人の細工やね」

「ね。いい趣味だ」

 明紫が返した薔薇を、北野は茎を指で持ってためつすがめつする。そして、萼の根本に顔を寄せた。

「……ここになにか模様がある。波みたいな。紋かな」

 北野の示した場所をのぞきこみ、明紫も頷いた。

「家紋ではなさそうや。おしるしやね」

「五郎。これ、覚えておくんだよ。たぶん次もこの印がついてる」

「わかった。……次、も、あるのだろうな」

「ないはずがない。むしろなかったら驚くよ」

「ほんまや」

 笑い合って、明紫と北野は上階へ戻っていく。

「ああ、持っていってしまった……」

 身元が保証されたとはいえ、やはり不安なのだろう、五郎が大きなため息をついた。



 花籠の翌日には砂糖菓子が、また贈り主の名を記さずに届いた。やはり象牙と金で飾った水晶づくりの盆に本物と見紛う桜の枝が乗せられており、揺らすと本物の桜のごとくはらはらと落ちる花はもとより、かるく指先でひっかくだけで剥がれる樹皮、そして枝そのものもすべて砂糖で作られた飴菓子であった。枝にはあちこちに細かく刻みが入っていて、折りやすく作られている。盆の目立たない角に、同じ波の紋があった。

 北野はおもしろがって花をすべて盆へ揺すり落とし、樹皮を一片残らず剥がして、枝も刻みの部分をすべて折ってばらばらにして遊んだあと、いくつかを口に入れて、残りはその日の登楼客や朋輩たちに振る舞った。さらに残ったものは翌日、五郎を通して使用人たちが相伴に預かった。

 次の日には淡雪のようにふわりと白い薄絹で作られた肩掛けが、紋の入った畳紙に包まれて届けられ、さらに翌日には桐箱の隅に紋を入れた象牙色の光沢を放つ手袋が、今度は濃紫の薔薇の生花とともに届いた。

「やっと色がついた。真紅の薔薇なんて俗なものをつけてきたらどうしようかと思ったけれど、黒薔薇は悪くない」

 丁寧に棘を処理された花を機嫌よくつまみあげて、北野はそれを鼻先へ持っていく。そしてわずかに妙な顔をした。

「……どうした、兄者」

「ほんの少しだけど、薔薇のほかに別の香りがする」

 ほら、と差し出されて五郎も顔を寄せてみたが、はっきりと嗅ぎ分けられるほどの香りは感じなかった。

「俺にはよくわからぬが」

「ほんのりわかるかわからないか、ってくらいがいいんだよ。ちょっと香辛料みたいな匂いだけど……香水かなあ」

 もう何度か匂いを嗅いで、北野は五郎に一輪挿しを出してくるよう命じた。


 五日目には首飾りと腕飾りブレスレット、そして耳飾りの揃いが届けられた。だが、奇妙なことに耳飾りは一つしかなく、もう一つをおさめる場所があいている。紋は首飾りの留金に刻まれていた。

「これは困ったなあ」

 象牙と金を主に、糸のように細い金の鎖と象牙色の真珠を組み込んだ繊細なつくりの揃いを前に北野は腕を組んで少しも困っていない様子でくすくす笑う。そして五郎を見た。

「仕立て屋と生地屋を呼んで。あと紙屋。筆と墨も持って来るように言って」

「承知した」

 兄の指示に、五郎は表情を変えないよう注意しながら頷く。北野はくすっといたずらっぽく笑った。

「そこまでするのか、って思ったな、今」

「……思ったがそうやすやすと表情を読まんでほしい」

「もうすこし隠すのがうまくなってから言うんだね。どんな趣向にしようかなあ」

 楽しそう、というよりはむしろ嬉しそうな声に、五郎はちらりと兄の顔を盗み見る。ぱちりとまばたきをして、北野は首を傾げた。

「なんだい?」

「……俺の表情が読めるなら分かるであろう」

「まあ、分かるけれど。言わせるのが楽しいんじゃないか」

「性格が悪いぞ」

「今さら言うこと?」

「……」

 ぶすっと唇を尖らせた五郎に北野は楽しそうな笑い声をあげる。身を乗り出して、五郎の顔を覗き込んだ。

「さあ、お言い」

 ほらほら、と促されて、五郎は言えと言われて言うことではないと抗ったが、所詮兄に勝てるはずはない。

「兄者は」

 結局根負けして、不承不承口を開いた。

「……そんなに、今回の新しいお客様に気を惹かれておるのか」

 新たに北野を揚げて馴染みになろうとする客は、そもそもさほど多くはない。最近では年に一人いるかどうかというところだ。北野ほどの娼妓を揚げるには釣り合う身代が必要だし、それだけの人物は無限にいるわけではない。全員が北野を求めるわけでもない。永咲館の娼妓は日に一人しか客の相手をしないから、あまり馴染客が多ければめったに登楼できなくなる。自然、客の数は限られた。

 新たに北野を求めようとする客がいたとしても、言うなれば尋常に、太夫北野を揚げたいがいかがだろうかと申し入れをしてくる。もちろん初会には贈り物ぐらいは持参するが、申し入れさえする前から名も明かさずこれほどの贈り物を積み上げる客は今までに一人もいたことはなかった。

 兄はべつに使われた金の額には心は動かされないだろうが、こうしたばかばかしいほどの外連けれんというか遊び心は大いに兄の好むところだ。ここ数日は朝に客を送り出したあと、今日は何がくるかなあ、と心待ちにしている様子を見せている。

 顔も名も、身分もまだわからぬこの客に、すでに客と娼妓の隔てを越えるほどの好意を持ちはじめているのではないのか。五郎はこの数日ずっと、その考えを拭い去れずに悶々としていた。

 新しい客のために新しい衣装を誂えるのは、北野ほどの娼妓なら当然のことだ。とくに不思議はない。

 だが、紙、まして筆や墨まで新しく選ぶというのは胸がざわつく。それは、申し入れがあれば北野自身が返事を書くつもりがあるということだ。それも、手持ちから適当に選ぶのではなく、その客のために特に新たに選んで。

 それは、深い馴染みの客でもめったには見せてもらえないほどの情愛だと、長年従っている五郎は知っている。

 よもや本気なのかと顔を窺うと、北野は五郎がこれまで見たことのないような、無垢であどけない顔でうっとりした笑みを浮かべた。

「……そうだね、こんな気持ちになったことは今までにないかな」

「そ、……そうか」

 さすがに、なんでもないことのように頷くことはできなかった。

 もちろん、永遠に兄の第一が自分であろうと自惚れたことはない。いつかはきっと、五郎よりも愛おしむ相手を見つけるだろうと、そう思っている。いや、思うことにしている。

 飲みこんではいる。

 だが。

 そのことと、それが今日だということを受け入れられるかどうかは。

「……まったくもう、おまえは」

 くつくつと兄は喉を鳴らして笑った。ふわりと空気が動いて、顔を伏せた視野の中、五郎の膝に触れるほど近くに兄が膝をつく。

「! 兄者、服が」

 汚れてしまう、と慌てて上げた顔の目の前に北野の微笑があった。

「ばかだね」

「っ……!」

 頬を兄の両手が包み、もう距離もないほど近くにあった顔がさらに近くなって。

 北野の唇が五郎のそれに触れた。

「…………」

 世界が揺れて、ぐるぐると回った。目の前がちかちかと光る。

 腰が砕けて、五郎は床に尻をついていた。

「うそに決まっているだろう」

 こつんと額を五郎の額に触れさせて北野はひどく優しい顔で笑った。

「おまえが一番だよ。何よりも誰よりも、いちばん愛してる」

「あ、あ……あに、じゃ」

「そんな顔をするんじゃないよ。僕がおまえ以上に愛する相手など現れるものか」

 諭すように言って、北野は五郎の背に腕を回す。五郎の肩に頭を乗せた。

「たんに礼を尽くしてるだけだよ。あれだけのばかをやるような相手に、ふつうの対応をしたのじゃ僕の沽券に関わるじゃないか。あとは布石」

「布石?」

「もしかしたら恋に落ちた方がいいかもしれないからね。たとえばほかの客に予定をずらしてもらうとか、昼に僕がわざわざ会いに行くとか、そういうことをすることになっても、僕が夢中になっている相手なら不自然じゃない。そのためには会う前からこの人だけはなぜか気になっていた、ってことにできたほうがいいだろう? 五郎にさえ疑わせることができたなら狙い通りだ」

「で、では、あれは本当に演技なのか。なぜそんなことをするのだ? 兄者は贈り物の主がどなたかわかっておるのか」

「知らない。でも、これだけ念の入ったことをするからには何かあるような気がするんだ。嫌うのは一瞬で足りるしいつでもできるけれど、僕がそれこそ客に一目惚れなんていかにも嘘っぽいだろう? 先に相当好意を感じていて、顔を合わせたのが決定打になった、ぐらいがちょうどいい」

「そうか……。ではもしや、俺は少しやきもきしておいたほうがよいのか」

「できるならそのほうがいいかな。でも、おまえは演技はへただからね。本当にそうだと思い込んでいたほうがいいかなと思ってちょっと揺さぶってやったら、あんな泣きそうな顔をするんだもの。騙すのがかわいそうすぎて種を明かしてしまった」

「泣きそうな顔などしておったか?」

「していたとも。あんな顔、おまえが三つの時にできごころで意地悪を言って泣きべそをかかせてしまって以来だ」

「覚えておらぬことを引き合いに出されてもわからぬ」

「僕が後悔してこうやっておまえを抱きしめてしまったくらいだよ。……ところで五郎?」

「ん?」

「僕がこんなに全身で抱きついてやっているのにおまえはどうして抱き返してこないんだ? ひどいうそをついたからついに僕に愛想が尽きた?」

「なっ……! そ、そんなわけがなかろう!」

「本当に?」

 拗ねた声で言うと北野は五郎の肩に頬を押しつけた。

 ふと、もしや兄にとってもさっきの芝居は冒険だったのだろうかと、そう思った。五郎が信じてしまうか、信じても信じないと反発するか、あるいは芝居を見抜くか、自分がどのくらい信じられているか、はかっていたのかもしれない。

 それならばたぶん、五郎はいちばんまずい反応をした。

 そっと腕を上げて、兄の背を抱いた。兄がじっとしているので腕に力を込めた。兄がため息をついて体の力を抜き、五郎は自分が正解したことを知る。

「兄者を信じていないわけではないのだ」

「知っているよ」

「ただ、ついつい兄者の言うことを真に受けてしまうだけだ」

「知っている」

 背に回った兄の腕に力がこもった。

「……知っているよ」

 繰り返した兄の頭に、そっと、自分の頭を寄せる。

「できれば、あまり騙さないでほしい。いや、騙しても兄者が楽しいならそれでいいのだが、その、兄者はたまに俺が騙されると傷つくだろう。俺が騙されて兄者が傷つくのは、いやなのだ。自分が情けなくて、はらわたが煮える。だから」

「うん。……ごめん」

 細い声が聞こえて、返事のかわりに兄の髪に頬ずりをした。



 次の日には額飾りが届けられ、そして七日めには使者が紅入れを携えて永咲館を訪れた。

 象牙に金で薔薇を象嵌した意匠のそれにはやはり濃紫の薔薇と歌とが添えられており、使者はお返事を賜りたいと口上を述べた。

 受け取った北野はしばらく使者を待たせ、返歌を書いて渡した。そして五郎を呼ぶと五日後に客が登楼すると告げた。

 これもまた、異例中の異例だった。

 北野は常に客と約束をしていて、約束の客に緊急の用でもできぬ限りは客がつかないということはない。そういった時も客は花代は支払うし、あるいは親交のある別の客が代わりに登楼する。

 あまり先まで縛られたくないという北野の意向もあって予定を入れておくのは半月からひと月ほど先までと、これは不文律として決まっている。どんな客も、長くてもひと月待てば北野を揚げることはできるということだ。新しい客は当然、常にはそこまで待たされる。

 だが娼妓はもちろん毎夜客をとるわけではなく、月に何日かは見世を休む。北野の言った五日先はまさにその日で、北野は休みを返上して新しい客を招くことにしたのだ。

 五郎は北野の前ではかしこまりましたと頭を下げたが、何やら内心にひっかかっているような微妙な顔でその日のもてなしに用意する追加の品や酒の準備を命じた。

 五郎が兄を崇拝しているのはもちろん誰もが知っていることだったから、使用人たちは同情する目で五郎を見て、だが当人には何も言わなかった。

「ついに明日ナゾの人が登楼するってホントっすか!」

 前日になって、恐れげもなく五郎にそう振ったのは、最近永咲館に出入りするようになった若い男だった。呼び名は猫。本人もそう名乗るので本当の名を知る者はいない。山鳥一党の若衆で、井和の近習のような役目をしている。

 永咲館には山鳥一党は井和とは別に二人が常時詰めているが、親分が相変わらず流連同然に毎夜登楼してきては夕方までいるので、付き人の猫も自然と館内にいることが多かった。五郎が兄の房事には基本的に介添えを兼ねた万一の際の護衛として部屋の片隅あるいはすぐ外に控えているのに対して、猫は井和が女の部屋にいる時には逃げ出してくる。刺激が強すぎるらしい。それで地下の詰所にいるか、一階をうろうろして使用人に邪魔にされたり手伝いをしたりしている。粗忽で気の利かないことも多いのだが、どこか憎めない愛嬌があって案外と使用人たちには受け入れられている。

「ナゾの人とは? おい猫、そこは触るな。磨いたあとだ」

「あっすんません! あれっすよ、北野さまんとこにずっと届いてた贈り物の」

「ああ、あのかたか。そうだな、明日登楼されることになった」

「どんな人っすかね! 若いんっすかねおっさんですかね爺さんですかね!」

「さあな。登楼なされればわかることだ。これを数えてくれ」

「へいっ! ひーのふーのみ……」

 猫は口数は多いがいちどきに二つのことができぬようで、何かを言いつけると黙る。猫がかしましい時はなにか用を言いつけるといいというのはすでに使用人たちの間では知れ渡っていた。

「五十六っすね! そんで、なんか、北野さまが今回のお客には惚れこんでるらしいって、ホントなんっすか」

「そうなのか? 俺は知らぬが」

「えっ? だって、五郎さんって北野さまとは」

「こら猫」

「みゃっ?」

 太い声が咎めて、猫は飛び上がった。振り返ると井和がのぞきこんでいる。

「益体もない噂話で五郎どのをわずらわせるんじゃない。ちょっと使いに行ってくれ。これを百舌モズに」

「へいっ! あっ、すんませんでした、五郎さん!」

「気をつけて行ってこい」

「ありがとうございます!」

 井和の渡した書付を懐に入れて、猫は勢いよく五郎に頭を下げて駆け出していった。

「まったくやかましい。……気の利かないやつで申し訳ない」

「とんでもない」

 かるく頭を下げた井和に五郎は苦笑してかぶりを振る。

「……というか、俺はやはり、だいぶ気を遣う必要のある顔をしておりますか」

「そのように見えますな、俺には」

「いやはや……。申し訳ないのは俺のほうですな。まったく修行が足りぬ」

「なに、そう謙遜されたものでもない。よくできておりますよ」

 五郎は井和を見た。井和がうすく笑う。

「修行が足りぬにもほどがあるではありませんか」

 五郎は肺の空気を全て吐き出して嘆いた。

「また兄に笑われてしまう」

「そう嘆かれずに。人はおおむね己れの見たいようにものを見る。猫など、五郎どのが今にも己れの喉に刃物を突き立てようかと思い詰めていても気づきもしますまい。ほどほど、狙った様子が作れていればよいのです」

「お教え、胸に刻みます」

 五郎は頭を下げた。

「ところで、五郎どの」

「はい」

「大嗣は本日、下へおいでになりますかな」

「ほどなくいらっしゃると存じますが」

「では、お手数だが耳打ちを頼まれてほしい」

 一歩五郎に近寄り、井和は長身をいくらかかがめて五郎の耳元へ顔を寄せた。



 仕立て屋は北野の服を作ってそれなりになる。北野が注文したとおりの衣装を仕上げてきた。

「父親も腕はよかったけど息子の代になってからいっそう着心地がよくなった。長生きしてほしいなあ」

 襟元を広く開けた服の背中の細かな釦を五郎に留めてもらいながら、北野は鏡を覗き込んで眉の形を確かめ、慎重に、少しだけラインを足す。

 すでに化粧は済んでいる。あとは紅を入れるだけだ。目の縁には金茶で細くラインを引き、目尻に金粉を混ぜた淡茶の粉を乗せ、ぼかして、頬にはごくうすく色を置いて陰影をつけている。

 五郎が釦を留め終えたので首飾りをつけ、一方だけの耳飾りは左の耳につける。腕飾りは右の手首に巻いた。額飾りを置いた上から五郎が慎重に金粉を散らす。それでも微細な粉が少し散って、それを五郎が柔らかい刷毛で落としてから客のよこした紅入れをとって、紅をさした。指に残った紅は五郎が丁寧に拭い落とす。最後に手の甲の半ばまでの短い象牙色の手袋をぴったりと引き上げた。

「よし、できた。どうかな」

「うむ。今宵もとても美しいぞ」

「真顔でいうよね、おまえはいつも」

「本当のことだからな」

 やはり真顔で言った弟に北野は微笑する。立ち上がると五郎が肩掛けをとって着せかけてくれた。

「さて、行こう」

 立ち上がって部屋を出る。

「行っていらっしゃいませ」

 部屋の前で膝をついた五郎が深く頭を下げて見送った。

 少しだけ高慢さの見える笑みを作ってゆっくりと主階段を下りていく。今日の衣装は漆黒。生地に織り込まれた細い金銀の糸が動くと照明を受けてきらめくが、襟元だけを大きくあけて、あとは体にぴったりと添った飾り気のない仕立てだ。それだけに客に贈られた肩掛けや装飾品が際立つ。

 北野に気づいた娼妓たちが軽く目礼し、客たちも感嘆の視線を送ってくる。顔見知りの何人かは目が合うと会釈や笑みを向けてきた。相手に応じて笑みや目配せ、会釈を返して、長椅子ソファの一つに腰を下ろした。

 今日の北野はいつもより少しだけ落ち着きがない。顔なじみの客に声をかけられればそつなく相手はするが、そうでない時はどこか心ここにあらずという風情で、いつもよりも脚を組み替えたり姿勢を変える頻度が高い。何を思い浮かべているのか、うっすらと笑みを浮かべることもある。

 いつもの北野とはいくらか様子が違うことに、客たちにも気づいた者がちらほらいるようだった。素知らぬ顔で観察する者もいるし、素直に自分の敵娼に今日は何かあるのかと小声で聞いた者もいるようだ。

 宣伝はこれで十分だろう。

 いくらか時間が過ぎて、北野がじれたように唇を尖らせ、何度めかに脚を組み替えた時だった。

「やあ、太夫」

 つかつかと歩み寄って、親しげに声をかけてきた男がいた。北野はちらりとそちらへ視線を向けて、ごくかるく会釈をした。

「こんばんは」

 若い男だった。見た目ははたちをいくらか越えたほど。多く見積もっても三十というところだろう。三十分ほど前に登楼あがってきた客で、酒を一、二杯楽しみながら居並ぶ花を愛でていた。肩をすこし越えるほどに伸ばした髪は銀髪にさえ見えるうすい灰色、眉も同じ色で瞳もやはり薄灰色。肌の色も男にしてはかなり白い。光沢のある黒のシャツに金糸の縫い取りの入った象牙色のネクタイを締め、濃紫のスーツを着こなしている。襟元には象牙から削り出したとおぼしき薔薇の蕾を挿していた。

「じつは、さっきから気になっていたことがあるんだ。聞いてもいいだろうか」

「もちろんいいよ? お客さまが何を言おうと、お客さまの自由だもの。……僕が返事をしたり答えを教えるかどうかは、また別の話だけれどね」

 これだけでも北野に慣れていない客なら怒らせるには十分な態度だったが、銀髪の客は怒るどころか楽しげに笑った。

「全くそのとおりだな。まあ、教えてもらえなくともだめもとで聞いてみよう。その耳飾りはどうしたんだ? 片方しかつけてないじゃないか」

「ああ、これ?」

 長椅子ソファの肘掛けに寄りかかって、北野はそちら側の耳にかるく指先で触れる。

「これはね、主からの贈り物なのだけれど。どういうわけか片方を贈り忘れてきたんだ」

「ほう? それはまた、随分と間抜けな話だ」

「でしょう。おかげで僕は片耳だけの耳飾りでここに座っていなくちゃいけない。ひどいと思わない?」

「そうだな、ひどい話だ」

 男はしかつめらしく頷く。そしてかるく身を乗り出した。

「じつはな太夫」

「なあに?」

「俺はどうしたわけか、その耳飾りによく似た耳飾りを、それも片方だけ、持っているんだ」

 ほら、とポケットから取り出して見せる。

「どうだろう、遠目に見るぶんにはそんなに差はないだろうし、とりあえずのつなぎに。……つけてやってもいいか?」

「できるの?」

「わりと得意なんだぜ」

「へえ」

 きょとんと目を見開いて見せると男はにやりとし、北野はくすっと笑う。

「じゃあ、お願いしようかな」

 少し顔を左へ向けて、かるく目を閉じた。

「おう。任せておけ」

 ぎし、と長椅子ソファが軋み、ざわ、と低いどよめきがあがった。

 それはそうだろう、娼妓ではなく客が、娼妓を飾っておくための長椅子に乗り上げるなど、前代未聞のことだ。もちろん、馴染みどころか客にさえなる前にこんなふうに、しかも公衆の面前で北野に触れることも、北野がそれを許すことも。

 ぱちん、と蝶番が小さく鳴って、耳たぶを耳飾りの金具がはさんだ感触がした。位置もずれていないようだ。得意と自分で言っただけのことはある。

「うん、よく似合う」

 長椅子を下りて一歩下がった男が満足げに唇の両端を上げた。

「そう? 見えないけれど、そういうことにしておくね。ありがとう」

「どういたしまして。……どうだろう太夫、ついでにもう一つ、打ち明け話を聞いてくれないか」

「なんだろう?」

 すましてにこりと笑うと、男の瞳がきらめいた。

「じつはな。きみの言ったその間抜けな主っていうのは、俺なんだ」

「そうなんじゃないかなって、思っていたよ」

 男と視線を合わせたまま頷くと、男は北野へ向けて手を差し出した。

「一杯、酒の相手を頼めるかな」

「今夜の相手を、とは、言わないの?」

「そこまでお願いできりゃあ最高だが、それはこれからの俺の態度次第だろう?」

「……そうだね」

 北野は頷いた。

「じゃあ、まずはあなたの席に侍ろうか」

 男の手に自分の手を乗せる。軽く引かれて、その力に助けられて立ち上がった。

「近くで見るといっそう美しいな」

 席へエスコートしていきながら男は北野にだけ聞こえるように囁く。五郎が近づいて来ようとしたのをあいた手でかるく制して、北野に椅子を引いてやった。促されるまま腰をおろし、北野は興味深く男を見る。

「珍しい」

「うん? なにがだ?」

「こんなにさらっと僕を美しいと言って、こんなに自然に椅子を引いてくれる主なんて、めったにいないよ」

「ああ、そういうことか」

 男はにっと笑う。

「ごく最近まで西欧にいたんだ。ひと月ばかり前に入港した客船があるの、知ってるかい。それで帰ってきたのさ。あちらはそういう文化だから、慣れているんだよ」

「ああ……あの船か」

 五郎が松江の遺品を高く売りつけたという、あれだ。

「なにかと僕らに縁のある船だな」

「うん? なにかあったのか」

「ちょっとね」

「おっと。秘密だったか」

 すまして笑うと男はそれ以上は追求せず、ぱちりと指を鳴らして給仕を呼んだ。

「太夫に飲み物を。俺ももう一杯」

「ギムレットをお願い」

 席にあったグラスを見て自分も合わせてショートカクテルを頼むと、ちらりと男が笑った。



 北野が目をきらめかせて客の話に相槌を打ち、何かを言って、笑い、そして目を見張る。猫のような瞳は相手を観察して出方を窺っているようにも、大いに興味を惹かれているようにも見えるが、あれは悪巧みの顔だ。

「楽しそうやな」

 咬にそう囁いて、明紫は自分も酒をひと口含んだ。

「大嗣」

 背後にそっと五郎が寄ってきて、低く呼んだ。

「どうやった」

「は。やはり叢林のご老人よりの紹介状で登楼あがってみえましたが」

 五郎の姿は位置からしても、姿勢を低くしていることからも、ほかの客たちからはほとんど見えないはずだ。唇も読まれないし、声を聞き取ることもできないだろう。

 それでも、五郎はさらに声を低めた。

「――西の、末のご子息でいらっしゃいます」

 その言葉に、わずかに明紫は眉を寄せる。

 西の末弟は……いや。

「離宮のひめの子か」

「はい」

 酒を飲むふりで口元を隠して確認すると五郎も低く頷いた。

 西の惣領――家長である老人の長男は大淵の外に妾を囲っていたことがあった。その妾については惣領は多くは語らず、零落した名家の娘ということだけが伝わって、各家で離宮の媛と呼び習わされていた。子が一人あり、これも男と知られているだけだ。洋行していたことも、明紫でさえ知らなかった。母親はたしか十年ほど前に儚くなっている。

「にしても、随分若く見えるな。媛の子ならたしか三十前後やろ。南の坊ンとそう変わらんのやなかったか」

「俺も、そのように記憶しておりますが、まあ、あのくらいでしたら気が若いという部類におさまるかと。西欧でのびのびと暮らしておられたのであれば、よろず老け方も我らとは変わってくるのやもしれませぬ」

「うん」

 頷いたが何かが腹に落ちきらない気分で明紫は酒をもうひと口すすった。五郎に媛の子のことをできる限り調べるよう命じる。もっとも、北野の馴染みになるのであればどのみち身元は徹底的に調べるものではあるが。

 頭を下げて五郎がさがっていき、明紫はちらりと背後へ視線をやった。呼ばれたと理解して咬が傍らに膝をつく。

「どう思う? 本人がどうこうやのうて、なんやろ、すごく、なんかを思い出すような感じがするんやけど」

「あんたたちに似てる。匂いが」

 囁くと意外な答えが返ってきて、明紫はグラスで慎重に表情を隠す。

「たち?」

「あんたと、兄弟だ」

「――血が、入っとる?」

「相当薄いが、たぶん」

「なるほどな……そういうことか」

 やっと腑に落ちて明紫は頷いた。道理で、顔に見覚えはないのに何か親近感のようなものを感じたわけだ。

「さすが咬の鼻は特製や」

 テーブルの下で手を伸ばして、咬の手にかるく触れた。

 四家には血は入っていない。

 つまり、離宮の媛が血を持っていたということになる。

(それで大淵には入れんかったんか)

 大父に知られれば奪われる。惜しんだか、そんなものを囲って背叛ととられるのを警戒したか。そう考えた時、咬がすっと立ち上がって下がった。

「大嗣」

 顔を上げると、客がやってきて会釈をした。

「おや、こんばんは」

 明紫は瞳を細める。

「だいぶご無沙汰でしたな」

「しばらく当地を離れておりました。戻って参りましたのでひとことご挨拶をと」

「それは、おつかれさまでしたな。まあ、お座りやす」

 微笑んで、明紫は客に席を勧めた。



 抱きしめてきた腕は外見に見合った細さだったが想像よりもしっかりとしなやかな筋肉がついていた。

 身動きできないように抱き竦められ深く穿たれて、その腕にしがみついてまんざら演技でもなく艶声がこぼれた。

 甘やかな絶頂の陶酔からゆっくりと身体のこわばりがほどけていくのを楽しんでいると、首筋に客が頬をすり寄せた。耳朶にごく浅く歯が食い込んでくる。

「やっと会えたな……清宮さやのみや

「ずいぶん懐かしそうに僕を呼ぶんだね」

 身体をねじって客のほうへ向き直ると薄明かりの中銀色に光る瞳が意外そうにまたたく。

「なんだ、驚かないのか。俺としては今のが最大の隠し球のつもりだったんだが」

「うそはよくないな」

 客の頬に手を添えて、薄い唇をお返しにかじってやる。間近から瞳を覗き込んだ。

「金に象牙、清流のしるし。すべて僕が宮で使っていたものだ。とくに紋をこれみよがしにつけてこられて、偶然だと思うほど僕はおめでたくはできていない。……動かなくていいよ、五郎。大丈夫」

 北野の物言いに不穏な気配を感じて身構えた五郎を抑え、男を見据える。

「きみは僕が誰なのか知っていて、それをちらつかせて近づいてきた。きみは誰? なにが目的?」

「うーん、どれからどう答えるのがいいかな」

 男は抱擁を解いて、寝台に仰向けになる。北野から遠いほうの腕を頭の下に入れて枕のかわりにし、北野を見た。

「最終的な目標を言うと、きみたちを救いたい」

「救う? 隨分と傲慢な物言いだな」

「ああ、言葉が悪かったか。すまないな。解放すると言えばいいか? つまり、俺は大淵の仕組みをまるごとぶっこわしたいんだ」

「……仕組み?」

「皇統の血を引く者をさらってきて、化け物の伽に侍らせ、あるいは食わせる。それによって繁栄する一族。それをいしずえに発展する街。なんだそれは。野蛮にもほどがある。人を生贄にせねば成り立たない家など、街など、潰えて消えてしまえばいい」

 ここまでの飄々とした様子をふいにかなぐりすてたかのように、男は強い語気で言う。そして北野に視線を戻すと、元通りの様子でにっと笑った。

「……まあ、ざっくり言うと、俺はそういうことを考えている」

「なかなか壮大なことを言うね」

「それなりに成算はあるんだ。どうだ、乗らないか。きみたちにとっても、悪い話じゃあないと思うんだ」

「きみたちというのは?」

「きみと、鷲王、それから明宮あけのみや

 北野はゆっくりと身体を起こした。手を伸ばすと五郎が薄物を広げて渡す。それに腕を通した。

「狗は数に入れないんだ?」

「入れてやりたいところだが、俺はこう見えて実直なんでな。できないことをできるとは言わないことにしてるんだ。俺にはあいつがどういうものか、わかっていない。解放してやれるものならもちろん助力は惜しまないが、手がかりがない。明宮に詳しく話を聞きたいところだが」

「狗をどうにもしてやれないなら大嗣は動かないよ。それから僕らを気安く古い名で呼ばないように。――とくに大嗣を御名ぎょめいで呼び捨てるなど、不敬にもほどがある」

「失礼した、象牙の御子」

 北野の冷えた視線にも男は動じた様子はなかった。さらに視線を強めて、北野は男を見据える。吐き捨てるように言った。

「これだから四家の者は。……そう言われたくないなら慎むことだ」

 これには、いくらか男の表情が変わった。

「肝に銘じよう」

「よろしい」

 北野が頷いて許してやると、男はさてと言ってごろりと寝返りを打ち、手枕で上体を起こした。

「俺の身上はどこまでばれてる?」

「西の末っ子とは聞いたけれど。離宮のひとの子だって」

「さすがだな」

 男はちらりと頬を緩めた。

「まあ、それが全部といえば全部ではあるんだが。なぜ母がそこに置かれていたか、知っているかい」

「ううん」

「あそこはな、養殖場になる予定だったんだ」

 北野は顔をしかめた。

「……ものすごく、胸糞の悪い話を聞かされそうな気がする」

「勘がいいな。まさにそのとおりだ」

 うすく笑い、男はどこか遠くを見る目になった。

「大嗣ときみのおかげで、四家うちは当面、神宮から次の神子をかっぱらってこなくてもよくなった。もちろんいつかは必要になるだろうが、そのいつかがやってくるまで間がある。人間、ひまだとろくなことを考えんもんでな、次の大嗣を自分らで作れないかと考えた」

「……最悪だな」

「同感だ。もっとも、この計画はすぐに頓挫、というか、実現する前にお蔵入りになった。血統の女に種をつけても必ず孕むものでもないし、人間は子を生むまでに一年近くかかる上に、おおむね一度に一人しか生まない。生まれた子を育てるにも手がかかる」

 手を伸ばして、男は北野の腿を撫でた。

「種馬も用意する必要がある。生まれた子が失敗作で大嗣になる素質がないなら大父に食わせればいいが、食わせるための子となるとさすがに自分らの種はつけたくない。血筋の男を種馬に使ってもいいが、あまり強壮では御しきれぬし逆に虚弱すぎては種馬の役に立たない。結局男女どちらを手配するにも難があるとなって、大嗣養殖計画は見送ることになった。ところが」

 撫でおろした手で、男は北野の膝がしらをまるくなぞる。

「自分の血を引く大嗣というのは悪くないのではないか、と考えた男がいた。自分が家を継いだ時に大嗣が己の子であれば四家の中でも頭角を現すことができる。……お察しのとおり、それが俺の親父であり、そのために攫ってこられたのが母で、生まれたのが俺だ。幸いなことに血も薄く才能がなかったので大嗣候補にはさせられずにすんだ。種が悪かったんだろう。母も、見た目はたおやかで若く美しかったが、じつはもう百に近い歳だったらしいから、子に渡せる力はもうほとんど残っていなかったのかもしれん」

 北野は男が脚を撫で回すのを放置していたが、手が内腿へもぐりこもうとするとかるくそれをはたいて追い払った。

「神宮の神子に手を出すのは、基本的には合議の上ですることになっていたから、親父としてもばれるとまずい。そこで女は子もろとも別荘に閉じ込めて世間の目から隠した。そのあとも励んだらしいが結局子は俺しかできなかった。そうそう悪いことはできぬものだ」

 内腿を狙うのは諦めて、男はまた北野の腿を撫ではじめた。

「まあ――俺がそういったことを知ったのはずっとあとの話だ。子供の時分の俺は母とともに離宮に閉じ込められていて、何よりも多く聞いたのは母の昔語り、母よりもずっと早く神宮にとられた、母が若いころに生んだ子供たちの話がほとんどだった。力の強く美しく聡明で弟思いの黄金と象牙の神子、そしてそれに従っていった、一本気で健気で一途な、鷲の翼を持った弟」

「……最悪だ」

 北野は大きなため息をついた。

「弟と寝る時は五郎が最初と決めていたのに」

 むぐ、と部屋の隅で五郎が何かを喉に詰めたような音をたてた。じろりと、北野は振り返って弟を睨みつける。

「それもこれも、おまえがさっさと僕をくどかないからだぞ」

「なっ……?」

「おまえさえ勇気を出せばいつでも二つ返事で寝てやるつもりでいるのに、何年僕を待たせるつもりなんだ。おかげでこんなぽっと出の末弟に先を越されてしまったじゃないか」

「ま、待て、待て兄者! そこか? そういう問題か?」

「ほかにどんな問題があるっていうんだよ」

「あるであろう! いろいろと!」

「些細なことを気にして本筋を見誤るんじゃない」

「だから、本筋は――」

「だいたいこの間だって、僕が接吻までしてやったのにおまえ僕を押し倒さなかったじゃないか。まったくおまえは意気地がない」

「あ、っ、兄者それは……! お、お客さまの前で言うことか!」

「別に言ったっていいだろう。僕が誰よりおまえを一番に愛してることなんか、おまえ以外の誰もが知っている」

「勘弁してくれ、兄者!」

 ついに介添えとしての立場を保っていられなくなった五郎がほとんど半泣きで叫び、客はといえば腹を抱えて笑い転げていた。

「いや太夫、たしかに俺たちは同腹だが父の格が違いすぎる上に歳も遠い。俺たちの縁など、せいぜいがかろうじて弟と言えなくもない、という程度だろう。きみは弟だと知らずに同衾したんだし、これからも弟として慈しむつもりはないだろう? 俺は計算外でいいんじゃないかな。きみの弟への貞操は守られていると思うぞ」

「す、っ、末どのまで何を……!」

「まあ、そうか。じゃあそういうことにしよう。きみの、その考え方の柔軟なところは悪くないな」

「お褒めに預かって光栄だ。……ところで五郎兄。茶を所望してもいいかな」

「……俺は、使用人ゆえ。五郎と呼んでいただいて結構」

「ふうん? かたいんだな」

「この融通のきかないところがいいんだよ。五郎、僕にもお茶をお願い。すこし冷えてきた」

「……承知した」

 呻くように頷いて、五郎は次の間へ下がっていった。ため息をついて、北野は自分の腰に抱きつき、腿に頭を乗せた客を見下ろす。

「あんまり五郎をいじめるなよな。僕のかわいい弟なんだぞ」

「いじめたつもりはないぞ。親愛の表現だ」

「そういうところだよ。あそこで兄呼ばわりするとか、鬼かと思った」

「一度言ってみたかっただけだ。ずっと名前しか知らなかった兄とようやく会えたんだぞ、少しぐらい弟っぽい物言いをしてみたいじゃないか」

「じゃあ僕に言えばいいだろう」

「きみは俺の想い人だ」

 唇を尖らせた北野の手をとって、男はその爪の先にそっと唇を触れさせる。

「俺はまたきみと同衾したい。弟の数に入れられては困るんだ」

 その手を自分の頬に添えさせ、掌に口づけて、視線だけで北野を見上げる。

「またきみを求めにきてもいいか?」

 北野は小さく息をついた。

「……これ以上はもう五郎をいじめないと約束できるなら、いいよ」

「約束しよう」

「破ったら出入り禁止だからね」

「それは困る。精一杯慎もう」

「僕の逆鱗も覚えておくことだ。大嗣をたとえ冗談にも軽んじることは許さない。しかるべき敬意を払えば、僕の心証はずいぶんとよくなるよ。あと、名を聞いておこう」

 客が視線を上げる。北野はそれを冷ややかに見返した。

「それは、俺は信用されていないということかな」

「信頼してほしいなら自分の名を明け渡すぐらいのことはしろという意味だ。僕らの名を知っているとちらつかせて自分は名乗らないのでは信頼できるはずがないだろう」

「違いない」

 男は小さく笑う。そしてあっさりと言った。

永行ながゆきだ」

「案外ふつうだな」

「母がつけた名は永宮ながのみや。幼名は白鷺丸といったんだが、いちばん使う名前がいちばん俗でまったくおもしろくない」

「もっとも呼ばれる名など俗なほうがいいんだよ。でも、母上には申し訳ないけれど、白鷺というのは、なんだかきみには合わない気がするな」

「じゃあ、きみならなんてつける? きみは霊媒の質が高くて他者の本質を感じ取ると母が言っていた」

「そうなの? うーん……そうだなあ、鷹行たかゆき

「ああ、それはいいな。いつかそう名乗ろう」

「いつ?」

「俺が四家を滅ぼした時だ」

 永行は笑うと、北野の腰骨に小さな音をたてて接吻した。

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