4章 永咲館の客

10 罪


 永咲館の娼妓、松江が、法力者の道場で惨たらしい姿で死んでいるのが見つかったのは秋の気配も濃くなった頃だった。傍らには道場主である法力者の遺骸もあった。

 顔面が無惨に爛れていたことから松江を恨む者の犯行かと思われたが、両者はどちらも内蔵を食い荒らされており、獣に襲われたのではないかとの見解もあがった。だがそれにしては獣の足跡が残っておらず、道場主は内蔵をほぼ食い尽くされ、松江に至っては心臓をわざわざひきずり出されて潰されているという異様な状況で、これは獣ではなく魔物ではないかという意見が次第に趨勢を占めていった。

 松江の遺骸の傍らには耳飾りが片方落ちており、松江の握っていたものと推測された。それは調べの結果永咲館の太夫、北野の持ち物と特定され、いっときは北野にも疑いが向いた。

 しかし永咲館の差配がしばらく前に北野のその耳飾りが見当たらない、誰か知らぬかと使用人に聞き取りを行っており、部屋に鍵がかからぬ館の構造から盗まれたと見るほうが自然であった。おそらくは、松江本人が盗んだのだろう。

 また、当夜の北野は、名前は出すのはあまりにもはばかられるがとある馴染客と少々危険な薬物を使って遊んだ末に昏倒しており、とても外出のできる状態には見えなかったと、複数の証言があって、すぐに北野の疑いは晴れた。

 松江の当夜の客は共に死んでいた法力者であり、そもそも永咲館で夜を過ごしていたはずの二人が道場で死んでいたことがまずおかしい。松江の部屋を検めたところ北野の美貌と人気を恨む書き付けが数多く発見され、呪術に必要な道具や香料などを列記したものも見つかって、そのほとんどが二人の死の現場に揃っていたことが確認された。

 これは松江が北野を妬み恨んだ挙げ句、客の法力を頼って呪いをかけようとして失敗し、魔物に食い殺されたのであろうと結論が出るまでにそう時間はかからなかった。

 もとより、大淵は魔物の出る土地だ。常には大父及び大嗣に護られていて、人が襲われることはほとんどないが、まれにはある。まして大淵に名高い花を呪おうとしたのであれば魔物に喰われても自業自得であろう、と警邏庁は結論を出した。

 松江のものではありえない粗末な、しかし法師が持つには釣り合わない女物の柘植の櫛が転がっていたのだけが少々奇妙だったが、とくに関係はないだろうとされた。

 暑気はおさまってはいたが遺骸が無惨な状態だったこともあり、松江は早々に荼毘に付され、当面の間、永咲館がその骨を預かることになった。



「この度はご災難でございました」

 老人はそう言って、丁重に頭を下げた。

「ほんまですわ」

 明紫も同調して頷く。

「なあんも悪いことしてへんのに、妬まれて恨まれて呪われたあげく疑われて、うちの太夫、心痛で寝込んでしまいましたわ」

「おお、それは哀れな」

「警邏の長官はん、たしか伯父はんの古いお友達でしたよな」

「さようでございます。あやうく大嗣お可愛がりの娼妓に誤って縄をかけるところであったと、それはひどく恥じておりまして、お役目を返上すると申しております。いや、大嗣ご本人にあらぬ疑いをかけたならばまだしも、そこまでのことは大嗣もお望みではあるまいと申したのですが――」

 ちらりと、太い眉毛の下から落ち窪んだ目が明紫を窺う。

 助命せよということか。普段は椅子から立つこともせぬという北の老人が見舞いという名目とはいえ、わざわざ出向いてくるとは珍しいと思っていたが。

 どうやらこのところ風向きが悪く、北はやや揺らいでいると聞いている。逆に追い風を受けているのが東で、警邏の副長官にはたしか東の息がかかっている。ここでさらに勢いづかせたくないというところだろうが、明紫はどちらに乗るだろうか。

「そら潔いことや。ご立派ですなあ」

 明紫はにこりとして頷く。

「さすが、人の上に立つお人は器が違う。自分はべつになんも望んでまへんけど、ご立派に進退決めはったおかたにどうこう言うのも野暮やないですかな」

「たしかに、仰る通り」

 わずかに、老人の目の光が強くなった。

「さすがは大嗣。儂はまだまだですな。己のつまらぬ情に流されてしまうところでございました」

「伯父はんのお気持ちもよう分かります。自分かて旧友やったら同じふうに言うたかもしれまへん」

「そんなものですかな。いやはや、情とは厄介なものよ」

 老人は苦笑いし、ところで、とあらためて明紫を見た。

「こたびは呪いといういささか歪んだ形でありましたが、これが大嗣と永咲館、ひいては大父への害意、由々しき背叛であることは疑いようのない事実。我ら四家と致しましても、見逃しにはできませぬ」

「ふむ……。そのお心はご立派ですけども。もう当人らは死んでますのや。どう見逃さんおつもりです」

「仰るとおり、起こってしまったことを遡って防ぐことはできませぬし、すでに死んだ者を罰したところで滑稽なだけ」

 小首を傾げた明紫を否定せずに老人は大きく頷いた。

「しかし、これから起こることを防ぐために策を講じることは無駄ではございますまい。そうは思われませぬか」

「言わはることはわかりますけども。具体的にはどうしはるおつもりで」

「まず第一に、警邏庁とは別に、市中の治安に目を光らせる者を置こうと考えております。いわば自警団ですな。不届きな企みはもとより、恐れ多くも大父大嗣に対し、軽んじ、あるいは侮るがごとき言動を見せる者も取り締まる所存にてございます」

「それは、ご苦労様でございます」

 今回の件を口実に私兵を配置するつもりか。東への備えにするつもりなのかもしれぬ。

 口実に使われるのは不快だろうが、永咲館に実害はないだろう。明紫もそう思ったのか熱のない口調で頷く。

「第二に」

 頷いた明紫に、老人はさらに言葉を続けた。

「こちら永咲館にも、警護を置かせていただきまする」

「……もういっぺん、ゆうていただいてええですやろか」

「幾度でも申しましょうとも」

 温度の下がった明紫の声を平然と聞き流して老人は頷いた。

「永咲館は商売柄、人の出入りが多く、なにかと無用心でございます。現に太夫のお持ち物が不心得者に盗まれておりますな。現在今の警備体制では不十分ということでございましょう。此度はこそ泥でございましたが次は大切なる御身に害意を持った者やもしれませぬ。そのような場所に大嗣をお置きしておきましては大父のご心配は晴れませぬ。それゆえ、四家より人を遣わしまする」

「いりまへんわ。自分には狗がいますよって」

「いかに大兄といえ万能ではござりますまい。もちろん御身はお守りできましょうが御身を狙う者と御物あるいは太夫を狙う者とがおりましたらいかがなさいます。此度狙われたは太夫でございました。太夫もまた大父が深くお心をかける御子みこ、大嗣も同然の御方。いやいや、とても大兄お一人にお任せしておけるものではございませぬ」

「伯父はん」

「人数がいる、というだけでも意味はあるのでございますよ、大嗣」

 老人は明紫にそれ以上の言葉を発することを許さなかった。

「もとより大嗣をお守りするは我らが役。先ほどもその心がけや立派とお誉めを頂戴致しました。今まで大兄の御忠実なるに甘えてお役目をおろそかにしておりました我らが不明、どうぞ、今こそ正す機会を与えていただきとうございます――」


「やられたわ」

 老人が辞去していって、明紫はいまいましげに息をつく。

「しばらくやり合うてなかったから油断してもうた」

 それでも、詰所を三階に置くという要求は撥ねつけた。ならば二階にと言い募るのも、そこは娼妓の住処、そこに入ると言うなら紅白粉を塗って体を売れ、一階には余剰の部屋はないと言い籠めてなんとか地下へ追いやることには成功したが、そもそも四家の手下てかを館内に入れねばならないという時点で侵害であり譲歩、いや、敗北だ。

「なにが大嗣や。えらそうな肩書き担いでおったところでじじい一人思うようにでけん」

「あれれ」

 椅子の肘掛に拳を打ちつけたところにちょうどのぞきこんできた北野が目を丸くした。

「珍しい。大嗣が落ち込んでる」

「え、今のはお怒りではないのか」

「ちがうよ。どこに目をつけてるんだ。だよね、大嗣」

 従っていた五郎が目をしばたたいて、兄に呆れ顔でばかにされた。ね、と笑みを向けられて明紫は小さく苦笑する。

「お姫さんにはなんも隠せんな」

「隠さなくていいんだよ、僕には。……なにがあったの? 汚らしい古狸が帰っていったけれど」

「揚げ足とられてもうたよ」

 ため息をついて、明紫は今しがたのやりとりを北野に説明してやった。聞き終わって、北野は思いきりしかめつらをする。

「相変わらずいやらしいな、あの狸は。僕、老人どもは全部嫌いだけれど、一番嫌いなのは北だ」

「自分も。まあ、腐っても四家筆頭、ゆうことやな」

「所詮僕ら籠の鳥だからね。向こうには大父って錦の御旗があるし。本気出してこられたら勝てないよ。仕方ない。地下まで追い払ったならじゅうぶんじゃないか。大嗣はよくやったよ」

 微笑んだ北野に明紫は目を伏せて小さく息をつく。

「そうやろか」

「そうだってば。あとはその手下どもが来てから考えよう。どうにだってできるさ」

「簡単に言うんやな」

「だって簡単だもの。なにせ、こっちには五郎がいる」

「は?」

 急に兄に笑顔を向けられて五郎がぽかんとする。

「俺? 俺が、なんなのだ? 兄者」

「この弟はね、大嗣」

 きょとんとしている五郎の肩を、北野は抱き寄せる。

「神力はからきしだけど気働きと愛嬌はぴかいちだ。うちは娼館だよ、男をたらしこんで手玉に取るのが商売だ。うちのたちはみんな、五郎が永咲館のために頼むと言えばなんだってしてくれるさ。万一乗り込んでこられたとしたって、腕しか自慢のないような連中なんてちょろいちょろい」

 にっこり笑った北野に、明紫は噴き出した。

「そうやった」

「だろう? 五郎がこっちについたからには、うちの娼妓はみんな僕らの味方だ。だから、少しくらいの失策でそんなに落ち込まないで。ね?」

 弟を放して明紫の傍らにしゃがみこみ、北野は明紫の手を握った。明紫が小さく笑う。

「おおきに」

「どういたしまして。あとね、これを言いにきたんだけれど、僕も今夜、見世に出ることに決めたから」

「兄者! まだいかんとあれほど!」

「だいじょうぶだって言ってるのに。今だってふらつかないで上からここまでこられただろう。言ってやってよ大嗣、僕はそんなにやわじゃないって。やっと見世をあけるのに僕がいないなんておかしな話だよ。そのせいで、へんな薬を盛られて体をこわしたんじゃないかなんて思われたくない」

「あ」

 五郎がやっと心づいた顔になった。横目で弟をにらみ、北野は唇を尖らせてぷいと顔をそむける。

「おまえはこのところ心配が度を越している。もうすこし僕以外のことも考えろ」

「……すまぬ」

 松江の死骸が発見されて、さしもの永咲館も休業を余儀なくされた。それをむしろ奇貨として北野は体調の回復をはかっていたが、疑いを向けられ、連行こそされなかったが長時間の取り調べを受けて一時は起き上がれないほど悪くなった。

 騒動も落ち着き、これ以上閉めてはいられない。今夜から見世をあけることにしたのだが、見世に出る出ないで昨日から兄弟は堂々巡りの言い合いを続けていた。

「お姫さんがいける、ゆうんやったら自分は反対はせんけども。無理はせんようにな」

「わかってる。僕の主たちはみんなやさしいから、あまり激しくしないでねって言えば聞いてくれる」

「おやおや、お客さんもおらんのにのろけられてもうた」

 ようやく明紫がいつもの笑みを取り戻す。

「五郎、今夜はお客さんぎょうさん来はる。頼んだで」

「かしこまりまして」

 神妙に五郎が頭を下げた。



 三階に戻って、北野は居間ではなく寝間へ入っていく。寝台にあがると体を丸めて目を閉じた。やはりまだ調子が悪いのだ。五郎は掛け物をとって兄にかけてやる。

「大丈夫だよ」

 目を閉じたまま、北野は呟くように言う。

「だいぶ楽にはなってるんだ。つとめを休むほどじゃない」

「……兄者がそう言うなら、俺はもう何も言わぬ」

「ええ。少しは言ってくれないとおまえを言い負かす楽しみがなくなる」

「わがままだな」

「そうだよ。知っているだろう」

「まあな」

「……下へ戻る用がある?」

「ないわけではないが、急ぎはせぬ。どうした」

「少しそばにいて」

「わかった」

 頷いて、寝台の傍らへ、兄の顔が見えるよう腰を下ろす。北野が手を伸ばしてきたので、その手を握った。

 法師の送ってきた魔を退ける時、兄は大嗣に力を分けてもらったと聞いた。

 さっき兄に神力はからきしだと言われてしまったが、こうすることで少しでも兄に何かを渡してやれているのだろうか。いちおうは、自分の中にもそういう血は流れているということではあるが、五郎にはその実感がまるでない。

 あの日、兄に聞かされた話も、あれから何日も経っていて何度も反芻しているが、まだ飲み込みきれているとは言えなかった。


「僕たちはね、――僕もおまえも、大嗣も。皇家の血を引いてる」

 あの日。頭を上げていると頭痛がひどいとやはりこうして寝台に横たわって、兄はそう言った。

「……は?」

 としか、自分は言えなかった。口をぽかんとあけた五郎を見て、北野は苦笑を浮かべた。

「もちろん、傍流の末席で、皇位を継げるような身分ではないんだよ。血を持っているだけ。僕の名は清宮さやのみや。おまえは鷲王わしおうと言った。不幸にも僕は神力に恵まれて生まれてしまったので、巫覡かんなぎ――神職となるべく、とある神宮へ入った。おまえと一緒にね」

「不幸、なのか」

「不幸だよ。死ぬまで宮に閉じ込められて、ただひたすら神に祈りを捧げるだけで生涯を終えるんだ。万が一、都に危機迫った折には神力をもってその守護を担う、というのがお題目だけれど、出番なんか宮が置かれてから一度もありはしない。ただ力のある者を遠ざけ一か所に籠めて飼い殺しにするための場所だ」

「ひどい話だな」

「なんのなんの。おまえなんかもっと悲惨だ。いずれは僕の神将になるはずだったんだから」

「……すまん兄者。俺にわかる言葉で言ってくれ」

「僕らは神力を操る修行を経て、最初はちょっとした雑用のできる式神を、最終的には護衛とか敵が攻めてきた時にそれを迎え撃つ戦力になる、神将という存在を呼び出すことができるようになる。簡単に言うと使い魔だ。そして、神将とするには人間の魂が最適なんだ。縁の近い者であればなおいい」

「…………」

 うすい茶の瞳に静かに見つめられて、全身が冷えていくように思った。

「つ、つまり、……俺は」

「うん。いずれ僕のために殺されて、僕の使い魔として僕が呼び出した時にあらわれて僕の命令に従って戦ったりお使いにいったりすることになっていた」

 淡々とした声が頷く。

「ひどいだろう? もっとひどいことを教えてやるよ。おまえをそのお役目に選んだのは僕だ」

 兄の目から、視線を外すことができなかった。

 魅入られたように見つめる自分に、兄は優しくさえ聞こえる声で語り続けた。

「望むなら弟を同道させてやろうと言われて、そうしてほしいと言った。おまえがいつかその時がきたら何をされるのか、もちろん知っていたよ。それでも、おまえを道連れにしたんだ」

「なにか……理由があったのだろう?」

「どうだろうね。おまえの心を壊して人形にして、とある宮様の影武者に使おうという話もあったようだったけれど、決まった話ではなかった。……結局のところ、僕がおまえと引き離されるのがいやだったんだよ。何十年も、へたをしたら何百年も一人なんていやだったんだ。おまえが神将になれば僕が果てるまで共にいられる」

「何百年? それは、いったい」

「そもそも皇家は天孫、神の一族だ。長命なんだよ。初代からしばらくのみかどは何百年も生きたとか言われているだろう? あれは神話ではなく事実。もうだいぶ血も薄まって只人と寿命は変わらなくなってしまっているけれど、宮には神気が満ちていて、僕らの血はその力に清められる。先祖返りするんだね。歳を取るのがゆっくりになるんだ。でも、僕らの血はもう純粋ではないから、誰がどのくらい神に戻って何年でひとつ年をとるようになるのかは、誰にもわからない。数十年で尋常に死ぬ者もいれば、百年たって見た目が若いまま死ぬ者もいる。十年しか経っていないのにある朝突然何百歳にも見える老人になって死んだ者もいた」

「……それが、松江の知りたがっていた不老の秘密なのか」

「うん。僕と大嗣がなかなか年を取らないのはそのせい。薬酒も仙丹もないんだよ。ただそういう血を持っているというだけ。おまえだってそうだ、今のところは、僕と同じぐらいの速度で年をとっている」

「それは、俺もじつを言えば奇妙には思っておった。なぜ俺も、と」

「僕や大嗣はいいの?」

「なんとなく、いいのだと思っていた。永咲館うち妓女おんなどもでも、じつは五十を越えておってもまだ三十にもなっていないように見せておるのもおるから、美しいものはそういうものだと」

「僕は美しい?」

「美しいとも」

「真顔でそういうことを言うところ、本当に好きだよ五郎」

「っ……」

 にこりと兄が目を細めて、五郎はどぎまぎして目をそらした。

「からかうな兄者。……そ、それで、大嗣も、その宮から?」

「たぶんね。僕よりもだいぶ前にいた神子だと思う。詳しくは知らない」

「大兄もか」

「あれはまた別。……ところで、もう何百年、千年近くか、それ以上も前かという話だけれど。皇家に反逆した武将がいたんだ」

「……お、おう」

 急に話が変わって、五郎は戸惑いながらも頷く。疲れたのか、兄は瞳を閉じた。

「経緯はどうでもいいから省くけれど、武将は反乱を起こして、そして負けた。逃げて、はるか北東の地にたどりついたところで力尽き、すさまじい怨念を残して死んで、怨霊となった。その土地にはね、間の悪いことに、強い妖物がいたんだ。蝦蟇ひきがえるなんだけれど、どちらが取り込んだことになるのか、蝦蟇の妖物と怨霊はまじりあって、人の意識と知能を持った、妖力甚大な化け物が生まれてしまった」

「う、うむ……」

「武将に従って落ち延びてきた家臣たちには、醜い蝦蟇がまであろうと、志半ばで果てた主人が神として復活したように見えた。いや、そういうことにした、というべきか。それを新しい主人として祀り、その土地に住みついた。化け物は家臣の願いを聞いて、乾けば雨を呼び、雨が続けば雲を吹き飛ばし、嵐や津波が起きればこれを抑えて家臣と集落を守った。やがて近隣の住民も、この神の存在に気づき、礼拝するようになり、集落に加わった。化け物は周辺の妖物や魔物、精霊といったものをあるいは喰い、あるいは追い散らして、それらから得た妖力魔力に加え人々の信仰も得てさらに強大になり、土地神となった。――それが大父だ」

「はぁっ?」

 思わず声がひっくり返った。

「ま、待て、それはおとぎ話とか神話とか昔話とか、そういう話ではないのか?」

「おまえは本当に学習しないな」

 だるそうに瞳をあけた兄はうすく苦笑する。

「僕がここでなんの関係もないおとぎ話を始めると、どうして思えるんだよ」

「いや、だが――あまりにも」

「当然、その集落の名は大淵だ。蝦蟇の支配していたふち――武将の果てた地でもある場所を崇めてつけられた。淵そのものは、今は蝦蟇の屋敷になっている」

「……本当、の、ことなのだな」

「うそを言うとおまえが信じるから言えないだろう」

 苦しいのか、兄はまた瞳を閉じて浅く息をついた。

「もとが怨霊であり妖物だ。神となっても大父は祟り神だった。人を食う。頻繁に生贄を求め、そして皇家への呪いを吐く。ある時、偶然に、皇家の血を持つ者が、これも都での権力争いに敗れて落ち延びてきた。それを知った祟り神は我に捧げよと命じた。家臣たちは共謀してこの落人を捕え、神に捧げた。するとね、神はいたく満足して、次に生贄を求めるまでの間が、今までよりも開いたんだ。これはと思ったとある家臣が、やはり皇家の放蕩息子の手がついて生まれて市井でひっそり育てられていた子供を都から攫ってきて大父に献上した。これがとても美しい娘でね」

「っ……」

 心臓が跳ねた。まさか、と目を見開いた五郎に北野はうすく目を開いてあわく笑いかける。

「うん。そそられた大父は食う前にそれを犯した。とてもよかったらしいよ。憎い血筋を己の精と欲で穢すのはさぞ気持ちがよかったんだろう。そして、次の生贄を求めるまでの間はさらに開いた。次に家臣たちはこう考えた。いちいち都から攫ってくるのは手間がかかる。大父に喰わせずに、飼っておき折々に大父の伽に使えば、より長持ちさせることができるのではないか」

「あ、にじゃ」

「そうだよ」

 ひたと北野は血の気を失った五郎を見据えた。

「それが大嗣のはじまりだ」

 世界が崩れていく音が聞こえたような気がした。

 だが、兄は宣言のとおり容赦なく話を続けた。

「大父に犯されるとたいていの者は気が触れる。大父に精も生気も貪られて、あまり長持ちはしなかったらしいね。狂人だから世話にも手間がかかる。長く生きてもそのうち容色が衰えるから、適当なところで贄として大父に喰わせていたらしい。大嗣がまだ使えるうちに大父が飢えれば、その時は適当な生贄を喰わせた」

 背筋が震えた。兄の、その平坦な声の中には、何十、何百という死者がいる。

 そして、その行き着く先には。

「ある時の大嗣は、どうしたことか、容色の衰えが遅かった。それは、とある山地の奥にひっそりと隠された神宮から攫ってきた大嗣で、調べたところそこは皇家の血筋の中でも邪魔にされた厄介者たちが神に仕えるためと称して投げ込まれる廃棄場すてばだった」

「兄者」

 わかってしまった。五郎は頭を振る。

「これはいいものを見つけたと家臣たちは喜んだ。今までの大嗣よりも全般に長持ちする上に、血が清められているからか、大父の腹持ちもいい。血をある程度持っているが攫っても大騒ぎにならないような軽い身分という、なかなか面倒な条件を満たす者を探すまでもなく、そこへいけば血の濃いのが掴み取りだ。もともと厄介者だから奪っていってもさほどの騒ぎにはならない。彼らの仕事は格段に楽になった」

「待ってくれ兄者」

「聞けよ。話せと言ったのはおまえだ。とある神子は従者とともに攫われてきた。従者は主人を護ろうと必死の抵抗をみせ、大父に踏み潰され虫の息となった。神子はそれを救ってくれと哀願した。かわりに忠誠を誓うかと聞かれて頷いて平伏した。皇家の血が臣下にくだるという考えは大父の意にかなって、大父は従者の命をつないでやった。神子に妖物を引き裂かせ、まだ生きている心臓を従者に喰わせることによって、妖物の命を従者に埋め込んだんだ。その心臓は大嗣をとおして大父が動かしている。あまり長い時間大嗣の傍らを離れていると大父の力が届かなくて心臓が止まる」

「!」

「結果、従者は人でありながら妖物となり、主人の傍らを離れないゆえに蔑みを込めて狗と呼ばれるようになった」

「っ……」

「その大嗣はさらに都合のいいことに、狂わなかった。身の回りの世話をする必要もなくて手がかからない。狗の命を握られているから大父に従順で、そして美貌も衰えない。家臣たち――四家には、とても都合のいい大嗣だった」

「……家臣らが、四家のはじまりなのか」

「宮を見つけたのが北。だから取り立てられて四家の筆頭なんだよ」

「そんなおぞましい功で、今の彼らはあるのか。彼らに恥はないのか」

「あるもんか。いやらしい連中だろう? 大嗣と呼んでしまったから表向きは立てて見せるけれど、僕らのことなんか裏庭の小屋に籠めてある鶏ぐらいにしか思っていない。普段は慇懃に頭を下げて、必要以上に持ち上げて見せるからなおさら腹立たしい」

 北野は少し声を強め、それで頭痛がぶり返したのか顔をしかめた。

「話を戻そう。その大嗣はまだまだ使えたけれど、たまたま宮の様子を窺ったら、ちょうどやはり従者を連れた神子がいた。家臣らはそれも攫ってくることにした。大嗣が一人でなくてはいけないということはない。従者をまた狗にして質にすればもう一人従順な大嗣が作れる。ふたりを使い回すことで使い減りをさらに抑えようとしたんだ」

 五郎はきつく目を閉じた。声をもらすまいと唇を結び、力のこもった頬が震える。

「ふたりめは、従者よりもむしろ神子のほうが抵抗を示した。神子は先の大嗣よりも少しばかり修行が進んでいたから、神力を使ってある程度大父に抵抗することができたんだ。それでも所詮は子供だ。むしろ人の手によって押さえ込まれ、従者の首筋に刃物を突きつけられればなすすべはなかった」

 静かな声が、しんしんと染み入って全身を冷やしていく。胸の奥だけが熱い。

「それでも神子は抗い、最終的に、従者には手をかけぬことと引き換えに己の身を大父に差し出す契約をした。そのあかしとして、己が約定を破れば従者に死がもたらされるという呪いをかけさせられた。力の強い神子は神と同じだ。その誓約は託宣であり預言、すなわち呪いだ。ひとたび宣されれば本人にももう打ち消すことはできない」

 ゆっくりと、北野は息を吐き出す。

「そして、従者はそこまでの記憶のほとんどを失ってしまった。よほど恐ろしかったのだろうね。でも、そのほうが幸せだ。見るもおぞましい化け物に今にも頭を食いちぎられそうになって、それを救うために誰よりも大好きだった兄が自分の目の前で化け物に何度も何度も犯された場面なんか、覚えていないほうがいい」

「……っ」

 膝の上で握りしめた拳にぼたぼたと水滴が落ちた。

「もう……。そんなところで泣くんじゃないよ」

 兄はため息をついた。

「もっとこっちへおいで。そうじゃないと頭を撫でてやれないだろう」

 うん、と頭を縦に振って、膝を使って少し前へ出た。

「もっとだよ。僕は動けないんだぞ。頭をこっちへもってこい」

 頷いて、兄の寝台に頭を押しつけると、力の入っていない手がようやく髪をかろうじて撫でてくれた。


 あれほど泣いたことはないというほど泣いたのは恥ずかしいが、聞いたことを後悔はしていない。もちろん、衝撃ではあった。だが、兄がこの重さを一人で抱えてきたことを思えば、今まで自分一人がどれほど愛され護られ何も知らぬまま大切にされてぬくぬくと過ごしていたかを思えば、何ほどのことでもない。

 だが、知ってしまった以上、思わずにはいられない。

 自分には、何もできないのか、と。

 こうして手を握って、ただ傍らにいるだけではなく。何かもっと、実のあることはできないのだろうか、と。

「俺には、どうやっても神力の才能はないのだろうか」

「ないよ」

 呟くと、眠ったかと思っていた兄が返事をした。

「諦めるんだね。ひとりができることには限りがある。悔しくてはがゆい思いをしているのはおまえだけじゃない」

「……うむ」

 やるせなく頷いた。

 大嗣も、大兄も、兄も。くびきと咎を背負って、かろうじて勝ち取ったわずかな平穏の中でできる限り生きているのだ。誰よりも誇り高く何者にも侵されぬ存在だと信じていた大嗣でさえもが搾取される生贄でしかなく、たかが老いさらばえた老耄にさえじつは逆らうことができない。

 それでも、彼らは頭を上げて生きている。限られた中で奪い取れる限りのものを奪い取ってこの巣を確保してくれた。

 五郎のこの日常も、兄たちが勝ち取ってくれたものだ。

「詮ないことを言ってすまなかった」

「おまえは知ったばかりだし、修行が足りていないから仕方がない。もういっていいよ。仕事があるだろう」

「兄者は大丈夫か。何か用意するか。ほしいものはないか」

「起きた時に摩り下ろした林檎をお願い。支度に時間がかかると思うから、すこし早めに起こして」

「わかった」

 頷いて、最後に兄の手を握った手に力をこめて、立ち上がる。上掛けを肩の上までかけ直してやり、すこし乱れていた髪をそっと整えてやって、兄の部屋を出た。

 兄のことは気になるしもちろん最優先だが、見世のほうも今日はいつに増してやることは多い。

 大嗣も言っていたとおり、今夜は久しぶりの営業だからいつもより客は多いだろう。年末や正月など、やはり客の多い時節にするようにサロンの席を増やしておくよう言ってあるが、滞りなく進んでいるだろうか。席だけでなく食器やグラスの数も増やしておかねばならぬし、料理やつまみ、酒の準備も十分か確かめなくてはならぬ。

 誰に何を聞き、どこを見て、何が足りない時はどこに連絡を入れるか、誰をどこへ差し向けるか。妓女たちも久しぶりのことで気合を入れて着飾るだろうから、やはりあれがほしいこれが足りないと思うことも増えるだろう。早めに部屋部屋を回って聞いてやらねばなるまい。

 裏階段を降りていく間に、五郎は無力を嘆く弟から有能な差配へと意識を切り替えていった。



 襟元を最後にすこし直して、のぞきこんだ鏡の前から明紫が振り返った。

「おかしいとこあらへんか」

 聞いてくるりと回った明紫に、頷いてやる。微笑んだ明紫の手が頬を撫でた。

「咬も男前や。……お姫さん、頼むわ」

 頷いて、明紫の部屋を出る。主階段を通り過ぎ、北野の部屋の前へいくと、ちょうど北野が部屋から姿を見せた。銀糸で一面に縫い取りをした、ふわりとした白の衣装をまとった姿は、淡い薔薇色を乗せた頬とあいまってあどけない花嫁のようだった。咬の姿を見て、銀を混ぜた朱の紅で染めた唇の端をくすっと上げた。

「……相変わらず大嗣は過保護だ」

 答えずに少し体を引いて、北野を通した。主階段の前で、あとから部屋を出てきた明紫と合流する。

「わあ、きれいだね、大嗣」

「お姫さんもな」

 明紫は黒を基調に、一方の身頃に花の意匠の金襴をあしらった、体にぴったりした衣装を選んでいる。とくに打ち合わせはしていなかったが明紫の服は黒のことがほとんどだ。北野が自分の衣装を選べば対になるようにも双子のように揃えることも難しくはない。

 咬を従えて、二人が並んで階段を降りていくと、白と黒の一対にすでにかなり集まっていた客たちから感嘆のどよめきがあがった。

 二人で一緒に降りていかないかというのは北野の提案だった。夕刻すぎに五郎が伝えてきて、明紫もいい案だと頷いた。今日はほとんどの客が明紫に見舞いの声をかけたいはずだ。明紫は張り見世はしないが、北野と並んでであればサロンの長椅子ソファに座っていても不自然にはならない。明紫の席まで挨拶にくるには気後れのある客も、サロンの中央であればやってくることができる。北野の客が登楼あがってくるまでの間、ひとことふたことで用のすむ客たちを早めにさばいてしまうのに最適だった。

「大嗣。このたびは」

「ご災難でした」

「このたびは大変なことで」

 果たして、明紫が北野とともに長椅子に並ぶと客たちが次々と席を立って声をかけにきた。あまり詰めかけて口々に声を投げるのも、列をつくって順番を待つのもみっともない。客たちはそれぞれ牽制しあい、さりげなく譲りあって自然とほどよい流れができた。

「北野」

「今日も美しい」

「……あれ。ええ?」

 一方で、北野も客に囲まれていた。

「え、どうしたの主」

 北野の馴染客たちだった。誘い合って登楼していたらしい。連絡を受けていなかった北野がきょとんと彼らの顔を見回す。

「皆でポーカーをしようかとね」

「もちろん先約はあるだろうが、どうしても顔を見ておきたかったんだよ」

「少し飲んだら引き上げるが、元気そうでよかった」

「おそろしいめにあったそうじゃないか。倒れたと聞いて生きた心地がしなかった。もういいのか」

「もうだいじょうぶだよ。ありがとう主。みんなで来てくれるなんて、なんて僕は幸せ者なんだろう。僕も主の顔が見られて嬉しい」

 北野はまんざら演技でもなさそうに瞳を潤ませて極上の笑みに顔をほころばせた。

 客たちはいくつかのテーブルに分かれており、順に声をかけにくる。北野はそれぞれの手を握り、返事をし、微笑みかけた。その中には北野のためにひと芝居打った客もいて、北野がその客の手を握っていた時間は、ほかの客たちにしたよりもすこし長かった。

 さすがに北野の馴染みになる客だけあって退き際も潔く、客たちは言ったとおりほどなく全員引き上げていった。そのころには明紫に声をかける客も、もうほとんどいなくなっていた。敢えて席を立たずにいる客たちは、あとで明紫の席へ声をかけにくるつもりだろう。

「ねえ大嗣」

 幸せそうに頬を上気させ瞳を潤ませていた北野が、客たちがすべて引き上げていったあとで低く明紫に囁いた。

「へんなのがいるね」

「うん」

 明紫も小さく頷いた。

「なんやろね、あれ」

 サロンのかなり隅のほうの席だった。見た覚えのない客だ。二人組で、それぞれ娼妓を侍らせているが、一方は娼妓の胸元に手を差し入れ、もう一方は、よくは見えないがどうやら娼妓の衣装の裾をたくしあげて内側をまさぐっているようだ。

 服装はだらしなく、着ているものも安い。ひと目でそれとわかるごろつきだった。

「なんであんなもんが入ってきとるんや」

「今日は人の出入りが多いから、何かにまぎれて入り込んだのかなあ。あとで五郎をとっちめてやらなきゃ」

「その五郎の登場や」

「遅い」

 五郎がその客のテーブルへ向かっていることに気づいてとりなした明紫に、だが兄は辛辣だった。明紫が苦笑を大きくする。

「厳しいなあ」

「あいつはおとなになったからね。もう見逃してやらないんだ」

 北野はつんと頭をそらした。

「なんだとぉ!」

 ふいに蛮声があがり、ざわっとサロンの空気が揺れた。

「こっちは客だぞ! 買った女をどう扱おうが文句を言われる筋合いはねえ!」

「申し訳ありませんが、お客様。当家では、そういったお考えのお客様にお遊びいただくことはご遠慮いただいております」

 周囲が静まり返って、五郎の声が聞こえてきた。

「はっ、えらそうに! 女の股で金稼いでる淫売屋風情がお上品ぶってんじゃねぇ!」

「っ――!」

「五郎ちゃん!」

 ふいに五郎がよろけ、男たちの席にいた娼妓の一方が悲鳴をあげた。

「あいつ――!」

 北野が険しく眉を跳ね上げた。

 五郎を突き飛ばしたように見えた男の手に、刃物があった。

「――……」

「お待ちを、大兄」

 そちらへ足を踏み出そうとした咬の背を、誰かがかるく抑えた。

「大兄がお出になるまでもございません」

 低い声に思わず動きをとめた。

 待てと言われたからではない。よもや、自分に手を触れる者が明紫のほかにあるとは思わずに虚を突かれたからだった。

 平然と咬を狗と呼ぶ北野でさえ、自分から咬に触れたことはない。

「お任せを」

 そう続けた声はそのまま咬を追い抜いてサロンの奥へと向かっていった。

 離れる間際、触れていた手がとん、と一度指先で背を叩いていった。

 言葉こそ丁重ではあったが、まるで、安心せよと、部下や、あるいは年少の者をなだめるかのような触れ方で。

 一瞬の、わずかな自失。次の瞬間、だん、と床が大きく鳴った。目にも留まらぬ速さで迫った声の主が五郎に切りつけた男の腕を捕えてひねり、刃物を奪うと同時に鮮やかに一回転させて背中から床に叩きつけた音と振動だった。

「な、っ――」

「せぇッ!」

 その光景に唖然と言葉を失ったもう一人に、気合を放った五郎が足払いをかけ、こちらはうつ伏せに床へ倒して抑え込んだ。

「お見事」

 最初の男を投げ飛ばした声の主がやや意外そうに眉を上げた。

「これは、もしや余計な手出しでしたな」

「とんでもない。隙を作っていただきましたので俺でもなんとかなりました。ご助力、感謝致します」

 五郎は相手に丁重に会釈をした。そして目線で指示を出す。警備を担っている使用人が数人駆け寄ってきて、五郎の押さえた男と、投げ飛ばされて白目を剥いている男をサロンから連れ出していった。

「五郎――」

 北野が駆け寄っていく。

「傷は。切られただろう、今」

「大事ない。案ずるな」

 顔をこわばらせている北野に、五郎は笑いかけてやる。傷を隠すように北野に背を向けた。

「手を出してはいかん。血がついてはせっかくの美しい衣装が台無しだ。もうお客さまがお見えになるころだろう、着替えておる時間はないぞ」

「だって」

「案ずるなと言っている。大丈夫だ。大嗣――兄をお願い致します」

「わかった。ほら、お姫さん」

「――……」

 珍しく、五郎のほうが完全に正論で北野が反論できずにいる。北野の背をそっと明紫が抱いた。唇を尖らせて、だが逆らわずに北野は促されるまま数歩うしろへさがった。かるくその腕を叩いてやって、明紫は捕物に手を貸した男にかるく会釈をする。

「お世話になりましたな。ようこそ、おいでやす――親分はん」

「すっかりご無沙汰になってしまいました、大嗣」

 井和はかるく一礼した。今日も白の揃いを着こなして、人間を一人投げ飛ばして衣服をまったく乱していない。

「お見舞いとご挨拶がてら伺ったのですが、思わぬところでお役に立てたようで」

「助かりましたわ。……お礼に、一杯いかがですやろ」

「もちろん、喜んで」

 井和は一礼し、明紫は北野を促して自分の席へ向かう。まだ表情の硬い北野を隣に座らせて、井和にも席を勧めた。

「先程の青年は? 兄、と聞こえましたが」

「この北野の弟ですのや。うちの差配でしてな」

「ほう。ずいぶんと若く見えましたが、差配とは。有能な部下をお持ちだ」

「おおきに。……まさかとは思いますけども、北の伯父からなんぞ聞いてはりますか」

「残念ながら、北家様とはまだご縁をいただけておりませんで」

「……じゃあ、自作自演の売り込み?」

 北野がにこりと笑う。瞳が鋭い。井和はかるく眉を持ち上げた。

「申し訳ありません。ご下問の意味を量りかねますが」

「自作自演って言葉の意味はわかる? 自分で騒ぎを起こして、自分でおさめてみせるってことだよ」

「恐れながら、御子よ。あの程度の働きで大嗣に買っていただけるとは、自分にはとうてい思えません。それに、自分が仕込むのであれば、もうすこしましな仕込みを致します。大切な弟君をむざと傷つけるようなまねは致しませぬ」

「僕を御子と呼ぶんだ?」

「そのようにお見受け致しますが」

 ふ、と北野は瞳を和らげて唇の端をあげた。

「……見る目があるね」

「恐れ入ります」

 井和はかるく会釈をした。そこへ給仕がグラスを持ってくる。

「ごめんね、僕は今日は主と乾杯するから」

 グラスをとらずに言った北野に、井和はもう一度かるく目礼する。明紫がグラスを掲げたのへ頭を下げて自分もグラスを上げた。ひと口含んで、ちらりと明紫を見る。

「今のお話は、何か騒動を予期しておられたともとれますが」

「してないわけやなかったんですけど。なんぼうちの伯父が耄碌しとっても、さすがにあれはちとお粗末ですわな」

「あの二人は、南の御曹司がご同行なされて参りました。北のご老公は関わっておいでではないかと存じます」

「ほう? けど、坊ンはおらんようでしたな」

「早々に娼妓の部屋へあがられたご様子」

「……よう見てはるんですな」

「我ら、現在南のお家とは少々緊張状態にありまして」

「なんや」

 平然と言って酒を口へ運んだ井和に、明紫はうすく笑う。

「遊びにきはったのかと思うたんですけどな」

「もちろんそのつもりでお伺いしております。たまさか、そこに御曹司がおいでになっただけの話。このような風雅の場に争い事など持ち込みは致しません」

「……なあ、親分はん」

 静かに、明紫が呼んだ。

「今の話、自分、聞かんかったことにしますわ」

「と、申されますと」

「あ、それおもしろい」

 くす、と北野が笑って明紫の腕に自分の腕をからめた。

「偶然まぎれこんできて五郎に傷を負わせた与太者を、偶然居合わせたこのひとがのして、大嗣に誤解されたのをこれ幸いと自分を売り込むわけだ」

「うん」

「ほう?」

 グラスごしに、井和は明紫と北野を見た。

「つまり俺には、北のご老人の息がかかっておるわけですか」

「そうなんですやろ? 永咲館には警護を置いたほうがええて言わはったの、今日の昼やったのに、伯父はんもされることがお早い。早速こんな男前で、しかも頼り甲斐のありそうなお人を遣わしてくれはって」

「いや、大嗣」

 井和はゆっくりとかぶりを振った。

「お言葉ではございますが、北のお家とは我ら、いまだご縁がなく。お人違いかと」

「おや、そうやったんですか。そら残念や」

「ですが、それは聞き流しにできぬお言葉。こちらでは警護を務める者をお探しなのでしょうか? であればぜひともそのお役目、我ら山鳥一党にお命じいただきたく存じます。先程ささやかながらお助け致しました褒美と思し召して、どうか、お取り立てを」

 グラスを置き、井和は椅子をすべり降りて床に跪く。左胸に手をあてて、深く頭を下げた。

「ん……困ったなあ。伯父はんの手下てかもおっつけ来はるやろうし。どないしたらええかな、お姫さん」

「かんたんだよ、大嗣」

 視線を受けて、北野がにっこり笑う。

「北から人がきたら、彼らと腕試しをさせて強いほうを置けばいい。無頼者に負けるような警護じゃ、置いたところで意味はないもの」

「ああ、それがええね」

 頷いて明紫は井和を見た。

「それでどうですやろ、親分はん」

「かしこまりました」

 いっそう深く、井和は頭を下げた。

「必ずや、ご満足いただける腕前をお見せ致すでありましょう」

「まあ、詳しいお話は明日にでもしましょ。今日はお客さまや。席へお戻りやす」

「恐れ入ります」

「大嗣」

 そっと寄ってきた五郎が背後から低く呼んだ。

「おまえ、傷は」

 明紫よりも先に振り返った北野が問う。五郎は苦笑いして包帯を巻いた手を兄に示して見せた。

「大事ないと言ったであろう。血止めとはったりで包帯を巻いたが、本当にかすり傷だ。なんならあとで傷を見せてやる。大嗣、お騒がせを致しまして、申し訳なく存じます。南の御曹司が朋輩と称してお連れになったのですが、御曹司が先に部屋へ引き取られて少々箍が緩んだようでございます」

「ご苦労さん。で、そのお友達は」

「すでにお帰りいただきました。御曹司には明朝、この手をちらつかせながら俺からお伝えいたします」

「頼むわ」

「かしこまりまして。それと――」

「ん?」

「やあ、やはり鳥ではないか」

「……なんと。月か」

「あ。妖怪だ」

 朗らかな声が井和を呼び、呼ばれた井和が目を見開いて、北野がまばたきをした。

「根っこが生えて部屋から出られなくなったんじゃなかったの」

「おうとも。根もだいぶ太く育っておったが、どうにも見覚えのあるやつがきている気がしたのでな、久々に根を除いて出てきてみたのよ」

「なんや、爺さんの知り合いやったんか」

 明紫も意外そうに五郎の背後から出てきた男を見上げた。

「うむ。昔なじみというやつだな。その前に、久しぶりだ、大嗣。太夫ともどもお変わりなく今宵も美しいな。重畳重畳」

 男は満足げに幾度か頷いた。髪を腰まで伸ばして首の後ろでくくった、どこかとぼけた印象を与えるひょろりと背の高い優男で、名は端月タンゲツ。明紫は爺さんと呼ぶが、見た目はせいぜいが壮年に足を踏み入れようかというところで、井和と大差がないか、むしろ井和より若くみえる。ただし、見た目だけの話だ。北野が妖怪と言う通り明紫が永咲館に入るより以前からこの姿でここにいる男で、永咲館の正式な差配でもあった。

「まだ生きておったとはな、鳥よ」

「こちらのせりふだ。しかも、よもや永咲館で顔を合わせるとは思わなかった」

「しぶといだろう。しばらく前から大嗣のご厚情でここに居候しているのさ」

 呵々と笑って、端月は井和の肩を叩いた。

「大嗣とのお話はまだ終わらぬか」

「いや、先がた終わった。今にもご挨拶申し上げて席へ戻ろうと思っていたところだ」

「そうか。今宵の女は決めたか」

「これからだ」

「なら俺に仲人をさせろ。おまえにめあわせたい女がいる」

「ほう?」

「顔、乳、腰、尻、脚。何もかもがおまえの好みだ。そのうえ気質もおまえ好みで、床上手だ。必ず気に入るぞ。気に入らなんだらこの髪を切ってもよい」

「それは大きく出たな」

「まあ、一夜抱いて寝ればわかる。よいかな、大嗣。これを持っていっても」

「自分の返事なぞ聞くつもりあらへんやろ」

 もう井和の腕をとって立たせながら言った端月に、明紫も苦笑した。

「ほな、親分。また」

「失礼致します、大嗣。――おいこら、引っ張るな月よ。ご挨拶ぐらいさせないか」

 ぐいぐい先に行く端月に半ば引きずられて、苦笑しながら井和が最後に明紫に会釈する。会釈を返して、明紫は喉を鳴らして笑った。

「誰に添わせるつもりやろ」

「のちほど、ご報告いたしましょうか」

 五郎も苦笑を浮かべていて、珍しく冗談を言った。頼もうかな、と明紫も軽口に応じる。もちろん報告させるまでもなく見ていればわかることだ。

 では帳場を見て参りますと五郎が言って離れていく。席が静かになって、小さく、明紫が息をついた。

「まあ――爺さんの古馴染みやったら、間違いはないな」

「そうだね。頭もいいし、腕もだいぶ立ちそうだ。いい相棒になるんじゃない?」

 そう言って北野は咬ににこりと笑いかけた。表情を変えず、咬はそれを無視する。北野は苦笑して明紫の肩に頬を寄せた。

「それにしても。見かけ通りじゃないのはわかっていたけれど、まさかあの妖怪と同じぐらい古いとはね。あれもじつはとんでもない狸かも」

「狸でも木菟みみずくでも、害にならんのやったらなんでもええわ」

「たしかにそうだ」

 北野も笑って頷いた。

「さて、僕もそろそろ戻ろうかな。主もいい加減来るだろうし、いつまでも大嗣を独占してるとお歴々がかわいそうだ」

「そうやね。――お姫さん」

「ん?」

 戸口のほうへ首を伸ばしていた北野が振り返る。その目を、明紫はのぞきこんだ。

「さっきは、こわかったな。けど、五郎は大丈夫や」

「……」

 瞳を揺らして、北野はわずかに視線をそらした。こくりと、小さく頷く。

「うん。……すごく、こわかった」

 囁いた声はひどく弱く、そして震えていた。握り合わせた手もかすかに震えている。

「五郎が大丈夫なのだって、見てわかったのに、まだ震えてる。だめだな、僕は。すっかり弱くなってしまった」

「まだ、新しい距離に慣れてへんだけや。お姫さんも、五郎もな。最初はそんなもんや」

「……うん」

 弱く笑って頷き、北野は額に指をあてて目を閉じる。ゆっくりと幾度か呼吸をして、顔をあげた。

「うまく集中できないな。……でも、少しましにはなったかな」

「大丈夫。ようでけとる。別嬪や」

「ありがとう、大嗣。……あ、主がきた。本当にいくね」

 勢いをつけて立ち上がり、ようやくいつもの北野らしい表情に戻って、北野は客を迎えに入り口へ向かっていった。


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