9 毒


 サロンへ降りていくと、客にしなだれかかっていた北野がにっこりして手を振った。明紫が頷きかけてやると瞳だけで微笑してまた客との会話に戻る。

「痛ましいなあ」

 客たちに挨拶や会釈を振る舞ってやりながら、明紫が咬にだけ聞こえる声で嘆いた。

 五郎とけんかをしてから七日。北野は見る影もなくやつれた。夜には化粧と表情で完璧に繕っているが、昼の姿を見ているだけになお痛々しい。

 あれ以来北野は昼の間は一切階下へ降りていないから直接目にしてはいないはずだが、さすがに長年傍らに侍っているだけあって化粧の下に何を隠しているのかはわかるのだろう。五郎も日々苦悩の色を濃くしている。夜には北野に見えない位置から泣きそうな顔で兄を見つめていることがあり、それをグラスや酒、あるいは掌に隠した小さな鏡に写して、北野はまた瞳に憂いの色を濃くする。

 五郎に頼まれたこともあって、明紫は毎日、昼を共にしないかと北野を誘っている。北野は苦笑を浮かべ、だが逆らうことはせずに大人しくやってきて明紫と同じ席にはつく。だが茹でて塩やひしおを振った青菜のほかは堅果や果物、乾果を少しつまむ程度で、口にする量は多くはなかった。

 五郎は口にするかどうかだけを気にしているようだったが、明紫と咬にはそれが穀断ちだと理解できた。なまぐさも避けているようだったから肉魚を直接使ったものは当然のことそれらでとった出汁を使っているようなものも避けて並べるものを選んだが、北野は淡い笑みを浮かべて瞳で謝意を示したが口にする量が増えることはなかった。

 修行をすると言っていたし考えがあってしていることだろうと明紫は強く勧めることはしていないが、さすがにそろそろ限界が近いだろう。

「咬」

 明紫が緊張をはらんだ声で呼んだ。膝を折って傍に跪き、耳を寄せる。

「お姫さん、様子おかしくないか」

 言われて北野のいる席へ視線を向ける。明紫の席からは北野の後ろ姿しか見えなかった。客の肩に凭れかかっている。だが確かに、どこか様子がおかしかった。見ていると客に何か囁かれて頭が不自然な揺れ方をした。

「大嗣」

 あれは意識を失っているのではないのか。そう思った時、給仕が遠慮がちに声をかけてきた。

「あの、北野様のお客様が、たいへんに申し訳ないがこちらまでお運びいただけないだろうか、と仰せで」

「わかった」

 頷いて明紫は立ち上がる。咬も立ち上がり、顔を真っ青にしている五郎を動くなと鋭い一瞥で制して主人に続いた。

「こんばんは」

「やあ、すまないね、大嗣」

 明紫が声をかけると客は温厚な笑みを返してくる。

「いいえ。うちの姫がなんぞお困らせしておりますやろか。――おや」

 北野は客に寄りかかって顔を伏せていた。瞳は閉じている。長い睫毛が頬にどこか病的な影を落としていた。

「眠ってしまいましたんか。あるじはんの前やいうのに」

「いやいや、大嗣。これは私が悪いんだ。このごろ眠りが浅くて医者に薬をもらっているのだが、その話をしたら自分も最近寝つきが悪いというのでね、なら試してみるかと言って飲ませてしまった。申し訳ない。叱らないでやっておくれよ」

 客の弁解に明紫は目を見開く。

「それはまた、ずいぶんとよう効くお薬ですなあ」

「体質によるらしいね。私はあまり効かないんだよ。じつは酩酊に近い状態というか、媚薬のように作用することもあるらしくてね。白状するとそちらの効果が出ないものかと期待していたのだが」

「まあ……」

 くす、と明紫は笑った。

 つまり医者の処方というのは嘘で、あやしげな薬をどこからか手に入れて持ってきたというわけだ。もちろんそんな薬を黙って飲ませたのでは、ほかの娼妓ならともかく北野が相手では即手切れだから、北野も承知の上で飲んだということになる。

「悪いことはできまへんな」

「まったくだよ。……それで、寝室へ運んでやりたいんだが、生憎とご覧のとおりの痩せ男だ。多少抱えるくらいならともかく、部屋まで抱いてゆくのはいささか荷が重い」

「これにさせますわ。――咬」

 明紫が目配せをして、咬は頷いて前へ出る。客の腕から北野の体を抱き取った。

「おっと」

 手を引かれて客がきょとんとする。見ると、北野は片方の手で客の手をしっかりと握っていた。

「まったく、いじらしいことだ。ほどくのも忍びない。このままご一緒させていただいても問題ないかな、大兄?」

 客が愛おしげに瞳を細める。視線を向けられて、咬は頷いた。

 明紫が一歩先に立ち、北野を抱いた咬と北野に手を握られた客が並んで階段を上がっていく。さすがに憚られるらしくあからさまにではなかったがちらちらと盗み見る視線が投げられ、少しでも多く、交わされる言葉を拾おうとあちこちで娼妓も客も耳を澄ませている。

 その中には松江と、今日も登楼してきていた例の法師の姿もあった。

「ほんまに、ご迷惑をおかけしてしもうて」

 部屋まで北野を運び、寝台に下ろした。明紫は客に改めて頭を下げる。

「よろしかったんですやろか、あんな嘘までついてもろて」

「もちろんですとも」

 寝台に腰をかけて空いているほうの手で北野の髪を整えてやりながら客は穏やかに笑う。

「私と北野の間だからこそ、薬も盛るし盛られたと承知の上で飲む。誉ですよ。羨ましがられこそすれ、悪く言われなどしません」

「恐れ入ります」

「いやいや。やっときてくれたね、頼れる人が登楼あがってくるのを待っていたんだ、あなただから甘えるけれど僕はこれから失神するからあとはよろしく頼むね、などと言われてしまってはありったけの芝居っ気を発揮せねばなりますまい」

「まあ……そんなことを言いましたんか。それはいっそうのご迷惑を」

「北野に頼られて迷惑に思う情夫などおりませんよ。むしろよくぞ私を選んでくれたと礼を言いたいほどです。だが本当にだいぶ具合が悪いようだ。しばらく寝顔を見て、今宵は早めに引き上げるとします」

「お心遣い、ほんまにありがとう存じます。あるじはんのお言葉はあとでぜんぶ、北野に聞かせておきますよって」

「はは。それは恥ずかしいな」

 客は笑い、また瞳を細めて北野を見やった。事情を聞こうとはしない度量も、北野が見込んだ客だけのことはある。演技ではなく気を失っている北野と二人だけにしても無体を働くようなことはないだろう。

 明紫も同じことを考えたようだった。どうぞごゆっくり、と頭を下げて北野の部屋を出ていった。

 明紫に従って部屋を出る。扉を閉め、そしてそれに気づいて視線をめぐらせた。

「どないした? ……ああ」

 振り返った明紫が苦笑する。

 裏階段の出入り口になっている隠し戸の向こう側に、五郎が俯いてひっそり立っていた。

「ここは出入り禁止やろ」

「……まだ、西翼には足は踏み入れておりません」

「なに子供みたいなこと言うとるんや」

「あの、兄は」

 笑った明紫に五郎は呻くように声を絞り出す。

「兄は、どうなのでしょうか」

「眠っとるよ。それしかわからん」

「医者を――」

「何時やと思うとる。それに北野はお客はんに眠り薬飲まされて眠ってもうたんや。お医者呼ぶ理由なんぞ、あらへんで」

「ですが――」

「五郎」

 言い募ろうとして明紫にたしなめられ、五郎は唇を噛んで俯く。

「まあ、少しだけ、情けかけたげような。お客はん夜のうちにお帰りにならはるから、そのお声かかるまで、部屋の前におってええよ」

「――ありがとう、ございます」

 客の出入りの時にちらりとなら姿を見られるだろう。客から直接様子を聞くこともできる。明紫の配慮に五郎は声を震わせて深く頭を下げた。おずおずとではあったが裏階段から廊下へ出てくる。

「そしたら、頼んだで」

「は」

 扉から少し距離をとって、五郎がかつては毎夜していたように廊下に片膝をついて控える。それだけで感極まったのか顔を泣きそうに歪めていた。



 とるべき道を決めたというのに自分は軟弱で、少しでも気を緩めると涙がこぼれそうになった。

 檻から眺めやる空は遠く、奪われた数多あまたのものは懐かしく慕わしく、己が奪ったものの重さを思うと胸が締め付けられる。


―― あにうえさま


 そんな時自分を慰めてくれたのはまだいとけない弟だった。自分が瞳を潤ませているとすぐに駆け寄ってきて、手を握ってくれた。


―― 吾がおそばにおります。吾がおまもりいたします。あにうえさまをおまもりするが、吾のおやくめでございます。


 うまく回らぬ舌で、懸命に。誰ぞから聞かされたのか、きっと意味もよくはわかっておらぬであろう言葉を繰り返した。それはどういう意味かと聞くとはにかんで、よくはわからないと白状した。その照れた笑い顔のなんといとおしかったことか。


―― ですが、おやくめがなくても、吾はあにうえさまのおそばにおります。ずっとおそばにおります。おやくそくいたします。ですから、どうぞ、おこころをやすらかに。


 まっすぐに慕ってくれる瞳が嬉しくて、いとおしい。

 何年が過ぎようと、あの瞳は、決して変わらない。

 変えるわけには、いかない。


「……し、……お」

 唇が勝手に動いた。だがかわききった喉は軋んで、幸いにもそれを言葉にするのを防いでくれた。

「おや。気がついたか」

 うっすらと瞳をあけると、優しい瞳がのぞきこんでくる。

「……ある、じ」

 かろうじて、北野は笑みを浮かべた。

「すまない、起きる前に帰るつもりだったのだが、ついつい寝顔がいとしくて長居をしてしまった」

「ううん。まだいてくれて、嬉しい……」

 かすかにかぶりを振る。たったそれだけのことが、ひどく難しい。

「ごめんね、あるじ。おきあがれないんだ。接吻して?」

「いいとも」

 甘えると瞳がいっそう和らいで、かるく唇を吸われる。次いで、頬にも唇が触れてきた。

「私はもう帰るから、あとはゆっくりお休み」

「うん……今日はありがとう」

「お安いご用だよ」

「あのね」

「どうした?」

「たぶん、外に、弟がいると思うんだ」

「呼ぶかね」

「ううん」

 頭を横に動かすと頭蓋の奥が鈍く痛んだ。

「僕の、言いつけを守るように、って――伝えて」

「わかったよ」

「お願い……ごめんね、甘えてばかりいて」

 また閉じてしまいそうな瞼を懸命に開いて客を見る。温度の高すぎない手が目もとを覆った。

「謝らなくていい。ちゃんと伝えるから。見送りもいらないから、目を閉じていなさい。おやすみ、北野」

「……うん」

 頷いて、逆らわずに目を閉じる。少しして、戸が開いて閉じる音がわずかに聞こえた。扉の向こうから低い話し声がする。聞き取れないのはその声がひそめられているからか、ひどい耳鳴りがするせいか。だが客に応えている声の響きは、やはり五郎のものだった。

(ああ……いってしまう)

 客を案内してゆくのだろう。五郎の気配が離れていく。

 行くな、とは、言うわけにはいかない。突き放したのは自分だ。それでも顔が見たくて、声が聞きたくて目尻にうすく涙が滲んだ。


 ゆるゆると、夜が深まっていく。うとうとと浅く眠り、とろりとまどろんではふっと意識を取り戻し、うっすらと瞳をあけ、そして閉じて、北野はまた昏睡へと沈んでいく。

 幾度それを繰り返しただろうか。

 じわりと、部屋の一画に綻びが生じた。

 干菓子の角をほんの少し削ったほどの、見えるか見えないかの崩れ。

 そこからぬるりと滑り込んできた、うっすらとした淀み。

 それはつうとひと筋流れこんでくると床でぽちゃんと跳ねて波紋を広げ、床と壁の境にあたって戻ってきた時にはわずかに色を濃くしていた。

 ぽたり、新たな翳りが落ちて、また波紋が広がる。

 次第にそこには薄墨の水溜まりが形成されていった。波が寄せては返し、水面みなもが震えて、そのたびごとに薄墨は寄り集まって翳りを濃くしてゆく。

 やがてすっかり灰色になったそれは大きく伸び上がった。すうと一本、中央に黒い線が入る。それがぱかりと左右へ開いて、内側からのぞいたのは真っ暗な闇。

 それがくるりと裏返って、異形を成した。

 半ばでくびれたその形はかろうじて頭部と胴と見分けがついた。頭部の一部に目と思しき黄色く濁った三角の光が二つ灯り、その下が三日月の形に赤く裂けて口となる。客が消さずに細めて残していった弱い灯りに、口の内側にびっしりと植わった鋭利な刃のようや歯がぎらりと光った。

 頭部が持ち上がり、それにつれて胴体が引き伸ばされて長くなる。胴体の両端が下から裂けて腕になった。

 その腕を北野へ伸ばそうとして、それはふいに動きをとめた。ぎょっとしたようにやや後ろへ体を引き戻す動作がやけに人がましい。

「待っていたよ」

 北野はそれを縛した瞳にさらに力を籠めて、ゆっくりと口を開く。

「弱っているところを見せれば、必ずくると思ったんだ。まんまと僕に踊らされ――」

 言葉が途中で途切れた。浅く喘いで、北野はそれを凝視する。

「おま、え……そんな、……ぁ、ぅっ、ぐ――!」

 北野が動揺を見せた一瞬をすかさず突いて、それは腕を勢いよく伸ばした。喉を押さえつけられて北野は顔を歪める。頭を振って振りほどこうとしたが、それはごく弱いもがきにしかならなかった。

「っく、ぁ……――」

 喉を圧し潰されて、かすれた呻きがこぼれる。

(く、そ――)

 押しのけようと、手をあげることさえできない。

(ああもう、本当に――僕は軟弱で、意思が弱くて、詰めが甘い)

 ここまですべてを削って準備をしておいて。

 おそらく大嗣も気配に気づいてはいる。だがいつものあの気配だと思っているはずだ。客も帰っているが、あの状態の自分に退魔をさせようと狗をよこすだろうか。あれが入ってくれば形勢は逆転する。だがせめてひと晩北野の回復を待とうと、考えるのではないだろうか。

 それでは、間に合わない。

「ァ――……ぐ、ふ……」

 視界に暗く靄がかかっていく。

 こんなことなら、あんな意地を張って五郎を遠ざけたりするのではなかった。いや、それではこれに五郎を巻き込んでしまったから、やはりこれが正しかったのだけれど。

 意識が粘った闇に引きずり込まれていく。

「ご、……ろう……」

 最後に、せめて、ひと目――。


―― 兄者!


 どこからくだされた慈悲か。聞こえるはずのない声が聞こえて、闇に溶かされていく意識の最後のひとかけらで、北野はうっすらと笑った。



「兄者! 兄者しっかりしろ! 兄者っ!」

「――え」

 声も枯れよと呼ぶ絶叫に心臓が跳ねて、目を見開いた。

「兄者!」

 狂おしく自分を呼ぶ弟の顔が、目の前にある。

「ご、ろう……?」

「ああ、気がついたか兄者、大丈夫か。よかった。よかった――」

「え――?」

 呆然と北野は顔をぐしゃぐしゃにして泣き笑う弟を見る。

 なぜ、五郎がここにいる。

 どうして、あれは握りつぶせる寸前だった自分の喉を放した。

 まさか、この弟が、跳ね飛ばすなり押しのけるなり、したというのか。

 混乱と恐怖が北野の思考を凍りつかせる。

 だが。

 五郎の背後に、憎悪と殺意を増幅させたそれが見えた。

「五郎っ!」

「! ……兄者っ!」

 はっと振り返った五郎が明らかにそれを見て。

 そして北野を両腕に抱き込んで寝台に身を伏せた。

「ぐぁ……っ!」

 五郎の体がびくんと跳ね、苦しげな呻きが聞こえる。

「五郎……五郎?」

 五郎の腕に抱き込まれて、北野には何が起こっているのか確かめるすべがない。

 なにかの振動が伝わってくる。それは五郎が殴打あるいは蹴仆しゅうふされている衝撃ではないのか。

「五郎……やめるんだ、五郎」

 弟の腕と胸板にかばわれて、北野は懸命に首を振る。

「逃げるんだ。僕を捨てて逃げろ。僕があいつの動きを止めるから、おまえは生き」

「……ばかを言うな!」

 怒鳴り返してきた声の強さが、北野から声を奪った。いっそう強く、頭を抱き寄せられる。

「俺が兄者を贄に差し出しておめおめ逃げおおせ生き延びると思うか! あなたを護るが俺の役目ぞ! っ、ぁ、ぐ――……」

 見開いた瞳から、涙があふれた。

 その言葉を聞いたのは何年ぶりだろうか。

 覚えて、いたのか。思い出したのか。それともただ、自然とそう思い決めたのか。

 嬉しい。

 だが、今は。それが弟を殺してしまう。

 どうにか、しなくては――。

 その時。

 重い音とともに部屋全体が揺れた。ぞっと内臓の竦む殺意が飛び込んできて、弟を打擲するものを弾き飛ばした。それがどこかに叩きつけられた振動がずしんと響く。

「ぅ、ぐ……」

 弱く呻いて、五郎が北野の顔をのぞきこむ。

「無事、か、兄者」

「……うん。だいじょうぶ」

「そうか。よか、……っ、た」

 かすかに笑って、五郎はどさりと寝台に体を落とした。視界が少しだけ開け、筋肉のついた肩の向こう側に、飛び込んできた獣の姿が見えた。身に封じられた竜で魔性を捉えて押さえつけ、鋭利な鋼の爪でまさに切り裂こうと腕を振りかぶっている。

「待て」

 命じると、赫に光る瞳がちらりとこちらを振り返った。

「まだ殺すな」

 その視線を捉えて、低く命じた。弱っている今の北野では狗を支配することはできないかもしれない。だが理性が残っていたらしく、狗はそのまま動きをとめた。

「いい子だ」

 喘いで、五郎の下からなんとか体を引き出そうとする。傍らから伸ばされた手が北野の肩を抱いて、それを助けた。支えようと腕に添えられたもう一方の手にすがって、どうにか体を起こした。

「大嗣――助かった」

「間に合ってよかった。大丈夫か」

「あんまり大丈夫じゃない」

 ひそめられた眉に苦笑を返す。

「でも、まだ生きている」

 膝に乗る、意識のない五郎の髪をそっと指先で撫でる。親指の下のところで目の下を左右拭って、涙を払い落とした。

「それを処理するまでは、死ねないからね」

「……なんなんや、あれ。えらい気色悪いもんなんはわかるけど」

 狗が押さえつけているそれを、大嗣は眉をしかめて見やる。

「人か? えらい穢れとる」

「もとは、人……たぶん。死霊の怨霊っていうか……。僕が悪いんだ」

「お姫さん?」

 あらたに湧き上がってきた涙を、頭をひとつ振って押し戻した。

「今はもう、ただの使い魔だ。かわいそうに――そしてさらにかわいそうなことに、これから僕に利用されて、誰よりも愛した男を殺すはめになるんだ」

 五郎の頭を寝台におろして、北野は寝台の端へ体を運ぶ。なんとか床におろした足は笑うほど萎えていて、かなり減らしておいたのに体重を支えられない。大嗣にほとんど抱きかかえてもらってかろうじて立ち上がった。よろめきながらそれに近づいていく。

「よくも、呪物まじものの分際で神子しんしの宮を侵したな。その罪、万死に値するが、まずは返してもらおうか。……押さえていろよ」

 狗に短く命じて、膝をつき、北野はそれに手を差し入れる。おぞましい波動が触れたところから全身に広がっていって、顔が歪んだ。

「……あった」

 影の内側をまさぐり、そして指に触れたそれを引き出す。見下ろして、小さく息をついた。

 指の間につままれていたのは、真珠の耳飾りの一方だった。

「一方は大嗣を扶けて誉を得たというのに、半身は呪具となって永咲館に障りを成すか」

 永咲館の三階には、結界を張ってある。本来、影や魔物の類はそれにはじかれて、窓や扉が開いていたとしても、招かれない限りは入ることはできない。

 例外が、そこに属するものを身につけていたり、飲み込んでいる場合だ。もとより結界の中にあることを許されているものだから、ほかのものもこうして連れ込めてしまう。

 立ち上がると強いめまいがした。揺れた体を大嗣が支えてくれる。

「御神酒を、とってもらっていいかな」

「これか」

「うん。ありがとう」

 昨夜、サロンへ下りようと部屋を出る前に用意しておいた小瓶を大嗣が差し出した。受け取って指先で蓋を外し、一口呷る。胃がかっと熱くなって、その助けを得て、ひと晩かけて慎重に練り上げたのに首を絞められて散ってしまった力の残滓をわずかにかき集めた。

 瓶の口から指先へ酒を振り出し、周囲へ撒いて、瓶を投げ捨てて狗へ視線を向ける。もがく魔物を押さえつけたまま、赤い目が無表情に見返してきた。

「これは、僕に向けられた呪詛だ。返しても術者しか害さない。僕は今弱っているから、支配が及ばなくて術者さえ殺しきらないかもしれない。だからおまえに託す。間違えず追って、必ず、そこにいるものすべてを殺してくるように」

 北野の視線を受け止めたまま、狗は静かに、だがはっきりと首を縦に振った。

「あと、これを置いてきて」

 耳飾りを差し出すと受け取って、上着のポケットにつっこむ。

「頼んだよ。盗まれたのは、あいつがはじめて登楼あがってくるより前だったから、もとから通じていたか、それとは関係なく僕を狙っていたか。まあ、どちらでもいいや。僕の逆鱗に触れた以上は赦さないことに変わりはない。――はじめる」

 震える手を制して、ゆっくりと、宙に陣を描いていく。肩に大嗣が手を添えた。ほのかに桜の香りのする力が流れてきて北野はその香気を深く吸い込む。すこし意識が澄んで、肩に添えられた手に自分の手を重ねて、握りしめた。あまり大嗣から力を吸い取るのは本意ではないが、もう自分の手持ちがほぼ枯渇している。ありがたく借りた。

 陣を描き、呪文を記す。最後に己の名を署し、額と唇、そして左右の瞼を清めた。

「返す。――放せ」

 命じると、狗がそれから手を離した。

 己が身が自由になったことに気づき、それが次の行動へと移るまでの、わずかの一刹那。

「――我に下れ。我がものとなり、我が刃と変われ。おまえを辱め穢し唆して放った者のもとへ駆け戻りその咎を思い知らせてやるがいい!」

 北野の宣した声が、銀の銛となってそれを刺し貫いた。気合いとともに放たれた陣がそれへと深々と食い込む。

 声にならない悲鳴をあげ、それは大きくのけぞると弾かれたように一条の闇となって侵入してきた結界の綻びから飛び去っていく。

 俊敏に部屋を飛び出した狗が、それを追った。

 膝が崩れた。がくりとうなだれた北野を、抱きとめた大嗣が寝台に座らせてくれる。

「ようやった」

「どうしよう大嗣――五郎が」

 微笑みかけてきた大嗣に、北野はすがりついた。

「五郎が、僕をかばったんだ。あれから。あれを突き飛ばして、僕を腕に抱いて、あれの攻撃を自分が受けて。どうして――ねえ、大嗣どうしよう」

「それは、あとでな。五郎が気がついて、お姫さんも少し休んでからや」

 北野を抱きしめて、大嗣が言い聞かせる口調で言う。

「今ここで、どうしてなんで、ゆうててもなんにもならん。お姫さんは、今は休むんや」

「大嗣、だって――」

「お姫さん」

「眠れないよ。気が狂いそうだ。五郎が死んだらどうしよう」

「殴られて気ぃ失っとるだけや。どこもひどいけがはしてへんよ。よう見てみ、血も出とらんやろ」

「……でも大嗣」

「気が弱っとるから、悪いように考えてしまうんや。五郎は大丈夫。お姫さんくたくたやろ。眠れるよ。五郎に抱っこしてもらお。な」

 首を振るのをなだめられて、寝台に寝かされる。五郎の腕を大嗣が北野の背へ回す。意識のない弟は、だが北野の背をのろのろとさすり、髪を緩慢に撫でて、己の胸元へと頭を抱え寄せた。

「おやすみ」

 大嗣のまろい声が囁く。弟とまとめて上着をかけられた。

 弟のにおいがする。

 弟の体だ。

 暖かく、そして、確かな脈を打っている。

 これは死ぬ者の脈ではない。ようやく、体のこわばりが少しほどける。

 常に体を鍛えていることは知っていた。よもやこんなことに役立つとは思っていなかっただろうが。

「よか、った……」

 弟の肩に額を押しつけてぎゅっと目を閉じた。



 術師は腹を半ば以上食い破られていたが、まだ息はあった。紐のちぎれた水晶と木の珠が周囲に散らばっている。驚愕に見開かれた瞳が咬を凝視した。

「どう、して」

 内臓の半ばを喰われて、腹にあいた穴から床が見える。そうかからずに死ぬだろう。わざわざとどめをさして、苦痛からの解放を早めてやる必要はない。

「おまえが、それがわからぬ程度の小者だからだ」

 言い放って、視線を転じた。

 傍らに座り込んで脱力している、人形じみた美貌。

 今は血の気が失せてはいるが、そうでなくとも作り物のように白い肌。唇は鮮やかに赤かったが、紅を落とせばきっと色など残っていないだろう。

 やはり作り物を埋め込んだような濃い青の瞳だけがぎらついて、咬を睨んだ。咬はその松江を無表情に見下ろす。

 確かに今夜、北野の件で階下はざわついていた。五郎は三階に詰めたから、部屋に引き取ったと見せかけてなんらかの形で永咲館を抜け出すことは不可能ではなかったはずだ。

「なぜ北野を呪った」

 雛瑠璃が死んだことを察し、それをたてにとって北野を脅そうとした、とは聞いていた。北野が手ひどく侮蔑してはねつけた、とも。

 法師の矜持は相当に傷つけられはしただろう。だが公衆の面前でなされたことではなかった。あれでもいちおうは客だからわずかばかりは情けをかけたのだと、北野はつまらなそうに言っていた。

 法師がはじめて登楼するよりも前に、呪いに使われた耳飾りは盗まれていたと北野は言った。それまで北野と関わりのなかった法師が北野を呪うために求めて松江に盗ませたのではないということだ。

 松江が、なんらかの悪意をもって、北野からそれを盗んであったのだ。そしてそれを法師に与えて、北野を呪わせた。

「邪魔だったからだよ」

 白い顔を、松江は憎々しげに歪める。

「大嗣に近づこうとしても三階は遠い。あいつが邪魔をする。いつもいつも大嗣にべたべたして、大嗣もあいつをたのみにしてる。それじゃいつまでも僕の場所ができないじゃないか。もう僕の衰えははじまっているのに――間に合わなくなってしまう」

 青い瞳が病的にぎらついた。

「日一日と僕らは醜くなっていく。なのに大嗣はもう数十年あの美しさを保ってる。北野だってそうだ。大父だけが知る秘術で、寵愛の二人の美を保っているんだろう。どうやっているの――あの子供を使ったんだろう? 知ってるんだ、僕は。あの子供の耳飾りが大父の屋敷に落ちていたんだ。食ったの? それとも血を飲むの? 骨の髄をすするの? 剥いだ生皮を顔に貼るの? 前は失敗した。うまくいかなかった。悔しい――あいつらは美しいままなのに、僕だけが醜くなっていく」

 青い瞳を光らせて、松江は濃い紫に染めた爪を手のひらに食い込ませる。

「教えてくれないなら、知ることのできる位置にいくしかないだろう。北野をどかせば、席があく。次に召されるのは僕だ。仙人だろうが、所詮は男だ。僕の手管と体でとりこにしてやる。そうすれば僕にも、秘術が施される。だから――だからあいつは死なないといけない……ひッ?」

 顔を鷲掴みにして引き上げるとびくっと松江が声を引き攣らせる。

「美しさを保ちたいか」

「ああ……ああ、そうだよ。だって、美しくなければ僕たちに価値はないじゃないか。美しいからこそ愛でられるし大切にされて、絹の衣装と居心地のいい部屋と富が手に入るんだ。だから僕は――あああああぁぁぁぁぁっ!」

 松江が魂消る悲鳴を上げた。

 じゅうう、と、手のひらの下、松江の顔から紫色の煙が上がる。

「ぎゃあああああああっ! いた、痛い、痛い、顔、か、顔ぉぉぉーーっっ!」

「おまえはとうにこの上なく醜いが、外皮に傷がなくば醜くないと言うなら、傷をつけてやろう」

 低く、咬は吐き捨てる。

「ひ――」

「焼け爛れた醜い屍を晒せ」

「や、いや、いやだあああああああっっっ!」

 咬の掌から染み出す酸に肌と髪を溶かされ、松江は狂ったように悲鳴を上げて咬から逃れようと暴れる。両手が咬の腕をつかんで爪を立てたがそんなものでは咬をわずかに揺らすことさえできない。いっそう強く松江の顔を握り酸を吐き出し続けた。

 途中からは、悲鳴はとまった。喚いていたせいで口に流れ込んだ酸が舌を焼き口腔を焼き喉を焼いてかすかすとかすれた音しか出なくなった。黒く爛れた舌が歯の間からはみ出て痙攣している。

 青い瞳は濁り、半ば裏返っている。

 無様で、醜い。

 その体が、びくりと一度、大きく跳ねた。

 見下ろすと、北野の打ち返した法師の使い魔が、松江の脇腹を食い破ったところだった。

 北野の神気を注ぎ込まれたからか、その姿にした法師がすでにこときれているからか、それは人の姿をかなり取り戻しつつあった。

 ほっそりとしたおもて。女の造作かおだ。左の目の下に泣きぼくろが見えた。乱れてもつれた長い髪には柘植の櫛が絡まっている。

 ごぶ、と松江の喉の奥でしゃくりあげるような音がした。さらにびくんと不自然に体が跳ねる。女が、食い破った脇腹から枯れ枝のように細った腕の残骸を体内へ突き入れた。ややあって、ずるずると血まみれの腕が引き出されてくる。

 その先端、枝分かれした指のようなものは、握りこぶしほどの、ひくつく桃色の臓器を握っていた。

 女の口もとが吊り上がって、笑った。ぐしゃりと、臓器が握りつぶされて、爆ぜる。

 手の下で、顔だけを握って吊り上げていた松江の体がふいに重くなった。ちらりとそれへ視線を向け、あらためて見下ろすともう女の姿は残ってはいなかった。ひしゃげた臓器だけが落ちている。

 松江の心臓を握り潰して本懐を果たしたか。

 松江――いや、松江だったものは、もう、ぴくりとも動かない。

 手を剥がすと、顔は半ば以上溶け崩れていた。どさりと仰向けに倒れる。筋肉が弛緩したのか、裏返っていた眼球が正面を向いて、青い瞳がどろりと濁ってうつろに咬を見ている。

 死ぬ前にもっと苦痛を与えてやりたかったが、――顔に酸をかけた時点で最大の苦痛を与えただろうから、それでよしとすべきか。

 上着のポケットを探り、預けられた北野の耳飾りを松江の手のすぐ傍らへ転がす。背を向けて、その場をあとにした。

 表へ出ると、空の色はかなり薄れていた。あとわずかで曙光がさすだろう。

 素早く物陰へ身を滑り込ませ、人の目につかぬように物陰から物陰を選んで永咲館へ戻る。

 すでに永咲館の朝ははじまっていた。最も早く立ち去る客は夜明けと同時に出るため、それらの客に出す茶やかるい食事の準備、そのあとに続く娼妓たちの食事や入浴の支度に、使用人たちは動き出している。

 翁桜を登るのはやや目立つ時間だ。表から館内へと入ると、五郎が使用人たちに馬車を正面へ回す順番やどの部屋へいつごろ何を運ぶかなど、いつものように指示を出していた。咬に気づき、かるく目礼を送ってくる。

 やや顔色は悪かったが、兄を怒らせて仕置をされているせいでこのところ落ち込んでいることは誰もが知っている。その上、昨夜はその兄が、本人も承知の上とはいえ客に怪しい薬を飲まされて昏倒してしまった。ひどい顔をしていても同情されるだけで不審には思われまい。

「ご苦労さん」

「おつかれさま」

 三階へあがり、明紫の居間へ入ると明紫と、そして北野が咬を迎えた。北野は寝椅子に体を横たえて、まだだいぶぐったりしているようだが、昨夜よりは少しましな顔をしている。

「下が落ち着いたら、五郎があがってくる」

 明紫の傍らへ寄ると、咬の手に気づいて明紫が見せろと手を差し出す。

「話は、そん時に聞かして」

 それで大丈夫だなと確かめる瞳に小さく頷きを返した。五郎にも聞かせるということは、少し前に明紫が言っていたように、北野も観念したらしい。

 酸に溶けた掌を明紫に治してもらっていると視線を感じた。目を向けると北野がじっと咬を見ている。

「起き上がるとすごく頭が痛むから、寝たままで悪いんだけれど」

 目が合うと北野は静かな声で言った。

「ゆうべは、僕と弟を助けてくれてありがとう。さし出たことをして、ごめんね。おまえは大嗣のものなのに、命令して悪かったよ。聞いてくれてありがとう」

 真摯な瞳に、咬は小さく頷いて謝罪と礼を受け入れたことを示した。



 北野が切なげなため息をついた。

「そういうことだったのか……」

「そういう? あれの正体、お姫さん知ってたみたいやったけど」

「知ってた、っていうか――見てただけだよ。あの男に憑いてたんだ。ほとんど消えかけていたけれど。幸の薄そうな娘だったよ。泣きぼくろが似合っていた。柘植の櫛を握りしめて、惚れていたのに殺されたんだなってすぐわかった。あんな下衆を慕う気持ちはわからないけれど、恋は盲目というからね。きっとあの櫛を贈られて、力になってほしいとか、そんな甘いことを言われて、それで喜んでついていったら殺されてしまったんだ」

 眉を寄せて、傍らに侍らせてからずっと離さずにいる五郎の手を弄ぶ。

「……松江の美しさとやらを保つための、効きもしないあやしげな儀式の生贄として」

 もうひとつ、ひどく悲しそうに北野はため息をついた。

「僕あのとき、雛瑠璃を騙って僕を脅そうとしたのが本当に腹が立って、いもしない死人がどうこう言ってないでその本物の死霊をどうにかしたらどうだ、って――言ってしまったんだ。それで、まだ漂っていたことに気づかせて、利用させてしまった。かわいそうなことをした」

「……まあ、恋敵に復讐もでけたようやし、本人もちょっとは溜飲下げたんやないか」

「そうかな。少しでも救われてくれたならいいんだけれど」

「人の姿に戻って消えた。化け物のまま消滅するよりはましだったろう」

「……ありがとう。やさしいねおまえ。おまえもそう思わない?」

 言い添えた咬に弱く微笑みかけ、北野は傍らで目を白黒させている弟に話しかける。

「え、う、あ、……――」

 ふいに何か言えと言われて五郎はぱくぱくと口を動かし視線を忙しくあちこちにさまよわせた。北野がかるく首を傾げて言えと促すと、ようやく声を絞り出す。

「あ、あ、兄者たちは、い、いつもこんな相談を、俺のいぬ場でしておったのか? それは、あまりにも無情ではないか? 俺は大兄がこんなに言葉を使われるのをはじめて聞いたぞ? 隠し事をするにも限度というものがだな」

「いつもじゃないよ。今日がはじめて。狗がこんなに喋るのを聞いたのも、僕もはじめて。本当は、これは僕たちが聞いちゃいけない話なんだ」

 混乱している弟をやんわりなだめて、北野は五郎の手をかるくさする。そしておもむろにその手の甲をつねり上げた。

「あいたっ? いた、痛い、兄者何をする!」

「それもこれも、おまえが松江に脅されたことを僕に報告しなかったせいだぞ」

 瞳を険しくして、北野は弟を睨む。

「先に知っていれば、僕だってもう少し冷静に松江の相手ができたかもしれないのに。おまえが悪い」

「い、いや、しかしだな――」

「知らん顔を通すつもりならもっとうまくやれ。ばか」

「う……」

 痛いところを突かれて五郎がたじろぐ。明紫がくすっと笑った。

「そやね。『言えん』はようなかったなあ。格好はよかったけど、隠し事には下の下や」

「大嗣まで……。ですが、あそこで言えば俺は兄の隠し事を追求せねばならなく」

「そうやな。せやから、隠してることを見せたんがそもそもあかんかったんや」

「うぐ……」

「いいから、さっさと出しなよ。持っているんだろう、雛瑠璃の耳飾り。ああもう、はたいてやりたいのに体が動かないってほんとにいらいらする。頭痛がひどくなる。頭が割れそうだ」

「えっ、だ、大丈夫か兄者……あいたっ」

 慌てて顔をのぞきこもうとして、ようやく届いた手にぽかっと殴られた五郎が悲鳴をあげた。

「ほら」

「……うむ」

 手を出されて、五郎は渋々頷いてポケットをさぐる。取り出した小布の包みを開いて、そっと、兄の掌にそれを乗せた。

「……」

 北野は無言で、その透明な石で作った装飾品を見つめる。掌をかるく揺らした。

「聞きたいことがたくさんあるんだろう? 聞くといい。ちなみに、これのもう片方なら翁桜の下だ」

「…………」

 兄の平板な声に、五郎は唇を結んだ。しばし黙り込んだあとで、顔をあげる。

「問い詰めたいわけではない。つらいことを掘り返して傷つけてまで聞こうとは思わぬ。ただ、一人で抱えないでほしいのだ、兄者。俺から、隠さないでほしい。俺にも、あなたの荷を負わせてほしい。俺の願うはそれだけだ」

「……それが、僕がいちばんしたくないことなのに」

 弟の真摯な訴えに、兄は掌の耳飾りを見つめたままため息をついた。そして視線を上げる。

「おまえが譲るか、僕が譲るかなんだよ。おまえは僕に譲れというの」

「すまんが、これに関しては譲ってほしい」

「……大嗣。弟が生意気を言う」

「まったく生意気や、言うようになったなあ」

 言いつけてきた北野に、明紫は笑った。

「けど、もう隠しとく意味のうなってしまったやろ。五郎は知ってもうたし、もう見える。……そうやな」

「は」

 かたい表情で、五郎は頷いた。

「いつからや」

「はっきり、その、見えた、というのでしょうか。それは昨夜がはじめてで。ですが、このごろどうも、あちこちがもやもやしているように感じておったといいますか。時折、こう、すっと空気が暗くなって。すこしするともとに戻るのですが、幾度もあるので、どうにも妙だなと」

「うそだろ……」

 北野が呻いた。片手で顔を覆う。

「僕の失策だ。ああもう、やっぱりあいつが僕のかわいい弟を変えてしまった。あいつのせいでさんざんだ。あんなやつ受け入れてみようよなんて言うんじゃなかった」

「え? ええ? あれも、なにか松江に関係のある」

「あの坊主が僕たちのことを覗こうとしてたんだよ。不老長命の薬酒だか仙丹だかを見つけて盗むなり、製法を探り出すなり、したかったんだ。――ねえちょっと、どうしてくれるんだよ。弟を守ってくれるって言ったじゃないか。うそつき」

「守るとは言っていない」

 八つ当たりがこちらへ向かってきて、言い返すと明紫がくすくす笑った。

「なあお姫さん」

「ん?」

「仔犬のとき、ゆうてくれたよな、言ってくれたらいつも一緒にいってあげたのに、大嗣が言うはずがないからもっと早く気づくべきだった、って」

「……言ったね」

「なら、わかるやろ。五郎は気がついた」

「はあ……もう、仕方がないな」

 本当にいやそうに、北野は大きなため息をついた。ちらりと弟を見る。

「泣きぼくろの女に殴られたところは? まだ痛い?」

「うむ、まあ、少しは。だが、さほどではない」

「やせ我慢ができるんだね? じゃあ、僕を抱いて部屋まで連れて帰って。朝は大嗣に肩を借りたけれど、もう立ち上がるどころか頭も上げたくない。部屋に戻ったらお風呂に入るから、その間に梨を剥いて、紅茶とビスケットとクリームを用意して、胡桃を割っておくれ。そしたら全部話してやるよ。おまえが気分が悪くなって腹の中のものを全部吐いてわんわん泣きながらもうやめてくれって頼んでもやめないからね」

「……うむ。どんなことでも聞く。よろしく頼む、兄者」

「最初は、おまえが本当は僕の弟じゃないっていう秘密からだ」

「なっ……?」

「うそだよ、ばか」

「っ……、あ、兄者、心臓に悪い」

「本当にうそだと思った?」

「えええ? ど、どっちなのだ」

「お風呂からあがるまで内緒。早く連れていって。いつまで僕をここに居座らせておくつもりなんだよ。僕らがいたら大嗣と狗がいちゃいちゃできないだろ」

「あ、ああ……わかった」

 からかわれたのかそうではないのか混乱しながら、だがやっと兄と元通りの、いや、以前よりさらに近い距離に立てた嬉しさを隠しきれずに口の端を緩めて、五郎が慎重に兄を抱き上げる。手のふさがった五郎のかわりに戸を開けてやると恐縮した様子で頭を下げて出ていった。

 北野は五郎の胸に頭を預けて目を閉じていた。相当無理をしていたようだから、五郎に抱き上げられた瞬間に意識を手放したかもしれない。

「あれでお湯なんか使えるんかな」

 明紫も気遣わしげに戸口を見やる。

「まあ――話すのは今日でのうてもええやろし。やっと、お姫さんも肩の荷が下ろせるな」

 傍らへ戻ると、明紫が微笑んで見上げてくる。腕をのばして、抱擁をねだってきた。

「お姫さんにめいっぱい力持っていかれたし、ゆうべから気ぃ張ってくたくたや。咬も疲れたやろ。せっかくお姫さんが気い使うてくれたから、いちゃいちゃしよ。昼寝するから添い寝して」

 うすく笑い、頷いて、咬は明紫を抱え上げた。

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