8 諍い
ふと、咬は顔を上げた。ゆっくりと視線を周囲へめぐらせる。
「……どないした?」
咬の体が緊張を帯びたのを感じたのだろう。咬を床に座らせて自分はその膝を枕に寝そべっていた明紫が顔をねじって咬を見上げる。
「咬?」
答えずに意識を凝らす咬に、明紫は床に手をついて体の向きを変え、あらためて咬の顔を見る。頭が膝から離れて、咬は姿勢を変えた。片膝を立て、身を低く身構える。
「匂う。魔だ」
「え……ここでか?」
明紫が眉を険しく寄せる。鋭い視線を周囲に巡らせた。
「自分には、わからんけど」
「俺でもぎりぎりだ。――見てくる」
「気ぃつけて」
起き上がった明紫に頷き、部屋を出る。廊下を抜けて階段へ出、二階へ降りた。あたりを見回す。
妙だ。
どこかに――何かが、いる。それはわかる。
だが、異様なほどに気配がうすい。
例えるなら大盥いっぱいの水に一滴だけ墨を落としたような、ごく微細な濁り。
三階からおりてきても、ほとんど感じ取れないままだ。
なぜ、こんなにも気配がうすいのか。いや――。
これほどにも希薄なのに、なぜ、ここに存在していられるのか。
永咲館の敷地は古くからの神域らしく、地の力が強い。だから翁桜のような巨木が育つし、それこそ澱のようなものは永咲館には発生しない。そこまで育つ前に、自然と分解され崩壊して塵すら残さず消え失せてしまう。
だから、魔物の屍体をはじめとするおぞましいものはすべて、翁桜の下に埋める。それがこの街で最も浄化が早いからだ。
これほどかすかな気配しか発さないものが、ここに存在できるはずがない。
最初は、三階にいるせいかと思った。上階には北野の結界がある。ひときわ防護が厚い。そのせいで気配が遠いのだろうと。
だが、二階に降りても、気配の弱さが変わらない。
いったい、これは、なんだ――。
眉をひそめて周囲を再度見回した時。
ぱりん、とうすい硝子が割れたような感覚があった。それと同時にすうっと気配が消えていく。
あらためて周囲の気配をさぐった。
もう、どこにも、何も残っていない。
「ごめんね」
三階へ戻っていくと、廊下に寄りかかって、北野が立っていた。眉間に深くしわを刻んでいる。
「ものすごくいらいらしたから祓ってしまった。追いたかった?」
視線を外して首を横に振った。ここにあるべきではないものだったことは、間違いがない。消したというならそれでいい。
「いやだな、まだ、ちりちりする」
まだ険しい表情で、北野がこめかみのあたりに手のひらをあてる。
「やっぱり勝手に祓うんじゃなかったかな。おまえに追わせた方がよかったかも。でも、すごくいらつく感じで、耐えられなかったんだ」
「お姫さん。咬」
明紫が部屋から出てきた。やはり表情が険しい。
「自分の部屋で話そか」
「……そうだね」
頷いて、北野が壁から離れる。咬の傍らを通り抜けようとして、ふいに上体を泳がせた。
「お姫さん――」
「ありがとう」
片腕で抱き止めた咬に北野は頷きかけた。咬の腕に手をかけて重心を取り直す。緊張した表情の明紫にほのかに笑いかけた。
「大丈夫だよ」
「……なら、ええけど」
「大嗣の部屋に、桃の
「ええよ」
肩を並べて奥へ向かう明紫と北野に続く。
そういうことか――。
気配が弱いのではない。永咲館にあって、あそこまで気配を薄められるほど、強力なのだ。強引に跳ね飛ばした北野がここまで消耗するほどに。
それならば、消えたのではなく退散したと見るべきだろう。相手も相応の損害を受けているはずだ。すぐには戻って来られまいが――。
その夜、咬は日がのぼるまで徹底して街を捜索した。
だが北野の神気に抉られた傷を持つはずのものは、どこからも見つけ出すことができなかった。
「五郎さん」
五郎が松江に呼び止められたのは、朝の仕事がひととおり終わって、最後の確認がてら部屋部屋の娼妓たちが何か五郎に頼みたい用事はあるかと二階をひと回りしている時だった。
「どうした」
首を傾げると、ちょっとお話が、と部屋へ招かれる。余人には聞かれたくない話をしたい時にはよくあることだ。気軽に頷いてついていった。
「これを、見ていただきたくて」
五郎を部屋へ入れると松江は声をひそめて小さな布切れに包まれた何かを差し出した。
開いて、包まれていたものに五郎は首を傾げる。
「なんだ? これは」
「北野
「北野様の? いや、俺は見たことがないが」
「おや」
かぶりを振ると松江は青い目をしばたたく。
「おかしいですね。たしか、兄様ご寵愛の坊やがつけていたものだと思ったのですけれど」
絹の
「ああ、あの子供に北野様がお授けになった耳飾りのことか。それならこれではないぞ。よく似てはおるがな」
「確かでございましょうか?」
「選んでお目にかけたのは俺だ。見間違えるようなことはせぬとも」
「ああ……そうでした。五郎さんは北野兄様のお持ち物はすべて覚えているんですよね」
「うん? なぜそんなことを言う」
「以前、兄様が自慢していらっしゃいました」
「自慢にしていただけるなら光栄なことだ。必ずすべて、かどうかはわからんが、北野様が出してこいと言われたものを見つけられなかったことは今のところはないな。……で、これは、どうしたのだ?」
「ゆうべ、僕、東家の御子息のお相手をさせていただいたんです」
「ああ、そうだったな。御曹司がお持ちだったのか」
「ええ。……大父様のお屋敷に、お部屋の隅に、落ちていた、とか。大父様の御物ではないゆえ、ほかにこうしたものを身に着けて出入りをするような者となれば、永咲館の誰ぞではないかと」
「……それがどうして、あれに北野様がやったものということになるのだ?」
しんねりした視線に、五郎はきょとんとして首を傾げる。
「だって、兄様は大父様のご寵愛を受けておいでなのでございましょう? あの坊やも、粗相を働いてここを出された、というのは表向きで、本当は大父様がお召しになられたのではないのですか」
「は? なんだそれは」
「ですから、そういうことなのでは、と。お隠しにならないで」
「……松江」
苦笑して、五郎はかぶりを振る。
「どんな想像をするのもおまえの勝手だが、そうだろう、と俺に迫られても違うものは違うとしか言えん。おまえの気に入るようにでたらめを言うことはできんのだ」
「もう、いやな言い方。僕を我儘な小娘のように扱わないでください」
笑いかけてなだめると、松江はぷくりと頬をふくらませて五郎をかるく睨んだ。
「はは。ならそのような態度をあらためることだ。そもそも大父がお側に召されたのであれば隠す必要などあるまい。身の誉れだぞ」
「あんな小さな子をお求めになるのでも?」
「発育は悪いがあれでも十八らしいぞ。たとえもっと若かったとしても物心もつかぬ二つ三つの小児であれば別だが、分別のある年齢で大父のお手がついて隠す必要はなかろう。大父は永咲館のご主人なのだからな」
「では、やはり違うとおっしゃる?」
「当たり前だ。案外、大父のお部屋に落ちていたというほうが偽りで、御曹司はご自身でこれを用意なさってお持ちになったのではないのか。大父のお側に侍るご自身をさりげなく誇ろうとなさった、とか」
「さあ……どうでしょう」
「いやまあ、御曹司のお言葉を疑うのも僭越だ。小僧にやったものでないにせよ、大父の御物でないならたしかに大嗣か北野様どちらかのお持ち物やもしれぬ。俺の目ちがいかもしれぬしな。俺が預かって大嗣と北野様にお聞きしておこう」
「そうですね。お手数ですけれど、お願いしていいですか」
「無論だ。そうしたことが俺の仕事だからな」
頷き、元どおり小布に包んでポケットへ入れると、五郎は松江の部屋を出た。裏階段から三階へ上がり、探し物でもある顔で西翼の納戸に入っていく。
後ろ手に引き戸を閉じて、五郎は納戸の戸を背にずるずるとその場にへたり込んだ。顔が紙のように白くなり、唇まで土色になって口元を両手で覆う。
「ぅ……ぐ、ぶっ――」
喉の奥で濁った音が鳴る。迫り上がってくる胃液を全身を硬くして押し戻した。
そう。あの耳飾りは五郎が選んで兄に示した。ほかにもいくつか選んだ中で一番、これが兄の気に入るだろうと確信していた。目利きはそれなりにしてきているが、これと思える掘り出し物をいつも見つけられるわけではない。だがあの時は断然これだと思った。兄が目を輝かせて一番に手に取って、最後まで手から離さずにあれこれと比べてやはりこれにする、と決めて、まったく誇らしかった。
見
それが、なぜ大父の屋敷に。それも片方だけ、落ちていたというのか。
いったい、五郎に見せてもらえない世界では何が行われているのだ――。
ようやくのことで胃液を全て押し戻し、五郎はきつく目を閉じて唇を噛み締める。
苦しさのあまり目尻にうすく浮いた涙が頬へぽろりとこぼれ落ちた。
―― 大父様の餌にされっちまうぞ
ふと。
瞼の裏に浮かんだ顔に、五郎ははっと目を見開いた。
「ええか、坊主」
そう言ったのは庭師の老爺だった。厩番だったかもしれぬ。顔を合わせたのは井戸端だった。兄に言われて水を汲みにきたら、老人が足の泥を落としていたのだ。
まだ幼い五郎には妖怪じみて思えるほどにしわくちゃで、髪も歯ももうだいぶなくなって、喋る言葉はもごもごとこもっていて聞き取りづらかった。
だが、その時言われたことはしっかり聞き取れた。
「役に立てよ。そうじゃねえと、大父様の餌にされっちまうぞ」
「え、えさ……?」
「そうさ。このお館にはな、地面のうーんと下までつながってる隠し廊下があってよ、大父のお屋敷につながってんだ。時々、大嗣が小僧や娘っこをこっそり大父に差し上げるのよ。大父はそいつらをびりっと股裂きにしてな、肉もはらわたも骨も、全部ばりばりぼりぼり食っちまうんだ」
幼かった自分は震え上がった。
兄貴はいい、別嬪だから売り物にできる、だがおまえは客がとれないって話だろう、役に立つとこを見せねえとあっという間に大父の腹の中だぞ、と、老人はあまり残っていない乱杭歯を剥き出して凄み、自分は水を汲むのも忘れて泣きながら兄の部屋へ逃げ帰った。
「っ……」
五郎は浅く喘ぐ。
なぜ、忘れていたのか――。
あにうえさま、吾はだいふさまのえさになるのですか、と顔をぐしゃぐしゃにして泣いた自分を、兄はぎゅっと抱きしめて、そんなことはない、そんなことはさせぬ、おまえは餌になどされぬ、けしてさせぬ、と、五郎が安心して泣き止むまで辛抱強く言い聞かせてくれた。
そう――。
させぬ、と。
兄はそう言った。
それは嘘だとか子供を脅そうとした老爺の作り話だ、とは言わずに。
おまえは餌にはされぬ、と。
そして、雛瑠璃は――された、のだ。
はっと息が詰まった。
「菓子、の……家」
―― おなかいっぱいにごはんを食べられてから死んだほうが幸せだと思わない?
あの時兄が言っていたのは――。
そして自分は、魔女は改心するのがよい、と。
まさにその魔女に向かって。
「っ、く……」
両腕で頭を抱え込み、きつく唇を噛む。こみあげてくる熱く苦いものを懸命に押し戻し、これ以上ひと雫たりと涙を落とすまいとぎゅっと目を閉じた。
はじめからわかってあれだけ情愛を注いでやった兄が泣かずにいるのに、自分が泣いてはあまりにも不甲斐がない――。
すう、と空気がほのかに濁った。咬は視線を険しくする。
「ひつこいな」
明紫も不快げに目もとをこわばらせた。
「お姫さん迎え行って」
指示に頷いて部屋を出る。西翼に入ると部屋からちょうど北野が出てきた。咬を見とめて、ほのかに笑む。
「早いね」
囁きのような言葉には返事はせず、体を引いて北野を通した。あとについて東翼へ戻る。
「こんなに短い距離なんだし、護衛はいらないよ?」
居間へ入って、北野は明紫に苦笑を向ける。
「その間、大嗣が無防備になってしまう」
「それこそ短い間やし、自分になんぞあったら咬が吹っ飛んで戻って来れる距離や」
「過保護だなあ、大嗣は」
笑って、北野は居間を横切り、肘掛け椅子に腰を下ろす。明紫がいつも使っている椅子ではなく、小卓をはさんだ隣に最近運び込んだものだ。
「……やっちゃおう」
「ん」
一瞬だけ苦しげな顔をした北野がそれを振り切るように頭を振って言い、頷いた明紫が北野の背後に立ってその肩に手を置いた。
北野が左手を右肩に乗った明紫の手に重ねる。卓に乗せられていた小さなグラスをもう片手で引き寄せ、かるくひと口呷ってから卓に戻しがてら人差し指を浸した。
酒で湿した指先で北野が宙に陣と文字を描く。最後に己の額にも酒でしるしをつけ、目を閉じる。ゆっくりと息を吸い込んだ。
「――せェッ!」
鋭い気合が放たれて、あるかなしかの濁った気配が消える。ふう、と北野はため息をついた。
「ご苦労さん」
「どういたしまして。まったくもう。しつこくていやになるね」
「まったくや」
「あ」
グラスに残った酒に手をのばそうとした先で明紫がグラスを取り上げた。手を宙に浮かせたまま恨めしげな目を向ける北野に明紫は笑って自分がグラスの残りをあけてしまう。からのグラスを咬に手渡した。
「まだ昼やで」
「夜には抜けるのに」
「あかんよ」
「ちぇー」
唇を尖らせて、北野は椅子の上で膝を抱える。そこに自分の頬を乗せた。
「式が使えればよかったのになあ。使えないなら使えないでせめて神将が呼べるくらいになっていればよかったのに。あれもこれも中途半端で、なにもできやしない。まったく、いやになる」
「ないものねだりしてもしゃあないよ、お姫さん」
「わかってるよ。愚痴ぐらい言ったっていいだろう」
自分の椅子に腰を下ろしてやんわりいさめた明紫に、北野はやや鋭く言い返す。膝を抱いた腕に力を込めてさらに小さく体を丸めた。
「……ごめんね、八つ当たりして」
「気にしてへんよ」
小さな呟きに明紫は微笑する。
「なあ、お姫さん。少し、昼寝せえへんか。自分といっしょに」
「え。大嗣の寝台で?」
「うん」
「いいね」
やっと北野が顔をあげて少しだけ笑う。明紫が立ち上がって手を差し出すとその手を取って自分も立ち上がった。
二人が手を繋ぎ合って寝室へ入っていく。しばらくは何やら小声で囁き交わす声が聞こえてきたが、それもほどなくして静かになった。
部屋の境から覗き込むと体を丸めた北野の頭を胸元に抱え寄せた明紫が眼鏡を外した瞳だけで笑いかけてくる。咬も頷いて、衣桁からうすい上着をとって二人にかけてやった。明紫が瞳を細めて、そのまま自分も目を閉じる。それを見届けて咬は居間へ戻った。咬があまり近くにいては、明紫はともかく北野の眠りが浅くなる。
あの奇妙な気配が永咲館に現れたのはこれで六度。同じ回数だけ、北野が祓っている。二度目からは明紫もそれの気配を感じ取るようになった。
退魔が使えるのは北野だけだ。相当に消耗するようなので、明紫が自分の力を渡して補助をするようにしている。明紫と咬もそうだが、触れることで、明紫は北野に力を分けてやることができるのだ。北野が明紫の身代わりをつとめられるように、二人の力はかなり近い。
それでも北野の負担は大きい。その上、どうもその気配が合わないというのか性質だか波動だかが神経に障るらしく、ただ追い払うしかできないことと相俟って北野は日々苛立ちを募らせている。
客の前での振る舞いは変わらず完璧だ。しかしそれだけに神経をすり減らしているだろうと明紫は心配している。それこそ、西から東翼までのわずかな距離の送り迎えを咬に命じるほどに。そして実際、北野も疲労を隠しきれなくなっている。迎えなんかいらないよと最初は咬が廊下に出た頃にはもうすぐそこまできていたのが、今では咬が西翼に入ってから部屋を出てくる。疲労で感覚が鈍って気配に気づくのが遅くなっているせいと、自分でもよろけずに歩く自信が持てないのだ。
退けられると、それはしばらくの間姿を消す。どれほど咬が捜しても姿を捉えることはできない。追うつもりで館の外で待機していても、永咲館から弾き出されたものがどこかへ飛び去る姿や気配を捉えることはできなかった。
どこかに隠れているわけではなく都度呼び出されていて、祓われると消えるのだろうと北野は言う。だから倒すには追うのではなく出てきたところをおさえなければならない。だが、呼び出している術師がわからない以上は咬がその現場をおさえるのは難しいし、よし可能であったとしても、それが現れる間隔は決まっていない。
いつ儀式を行うかわからなければその時まで貼りついていなくてはならない。それは長時間明紫の側を離れることを意味する。咬にはできないことだ。
式神を持っていれば各地に監視を置けるのにと、だから北野は悔しがっている。それも北野の苛立ちの一因だ。
露台に通じる硝子戸をあけて、露台へ出る。なるべく北野から離れておくために。
手すりに寄りかかってちらちらと舞う花びらを見るともなしに眺めていると、からからという音が聞こえてきた。車輪の音だが蹄の音はしない。もちろんエンジンの音も。人力車――俥だ。
また、松江だろうか。鳥を名乗る一党の挨拶を受けに東へ出向いた帰りに外出しているのを見かけたが、あのあとも頻々と外出しているらしい。あの日の店で買っているのか時折嗅ぎ慣れない匂いをつけている。悪臭ではないし目立つほど強い香りではないが、嗅覚の鋭い咬にはたまに鼻の奥に刺さるように感じられる。最近ではごくごく薄くではあるが、二階に常に何か独特の香りが漂っているようにさえ思える。
車輪の音がとまった。
ご苦労さまでした、ありがとう、と、かすかにだったが松江が車夫に礼を言っているのが聞こえた。
(また、来ているなあ)
氷を入れただけの強い
見ているようには見せずに見ているのは、少し離れたテーブルだった。客に手を握られてさすられながら、松江が瞳を細めて何か言っている。
以前にも見たことのある客だ。その時も松江を揚げていた。頭巾はつけていないが
高級娼館に
紹介者があってもあまりに永咲館にふさわしからぬ客であれば次からは遠慮してもらうのも差配の仕事のうちだ。早速、次の日には男の素性を調べてきた。
それによれば、男は最近大淵に道場を構えた法力者であった。修行中雷に打たれて尋常ならざる法力に目覚め、山にこもって祈祷三昧に過ごすより現世利益を衆生に施すべしと発願して山を降りた――という触れ込みで占いや、運気を高める、不運を祓うと言った祈祷などをしているらしい。よく
永咲館の上客もそこそこの数、男を頼っているようで、短期間のうちにずいぶんと名を上げている。金回りは悪くなく、異様な風体も頭髪も汚れているわけではなく修行形であり法衣であると言われれば咎めることはしにくい。結局少し様子を見ようということになった。
汚らしい男だ、というのが、男への北野の第一印象だった。外見のことではない。内側から滲んでくる心根や人格のあり方が汚らしい。法力者という肩書を知って鼻で笑った。功徳を売る時点で人品は知れる。
とはいえ、金を払うなら客だ。北野がほしいというなら即答で断るがほかの娼妓を揚げることまでどうこういう権利はないしそのつもりもない。
だが、今のこの状況で法力者というのはいささか気に食わなくはあった。
まだグラスに半分以上あった酒をひと息に呷って、指を一本立てて給仕におかわりを命じる。
今夜の客はサディスティックな行為を好むのだが、根は優しいので理由がなければ北野を縛ったり苛めたりといった行為に踏み切れない。だから、北野は「悪い子」でなければならない。たとえば少し度を越したわがままを言ったり、あるいは客が登楼する前から酔っ払っていたり。
酔ったふりなどいくらでもできるが、実際に飲まなければ息に酒の匂いは混じらない。少しは飲んでおく必要がある。最近五郎が酒を控えろとうるさいから、いやがらせにもちょうどいい。じっさい、今もサロンの向こう側から恨めしげな目でこちらを見ている。最近くさくさしていたからいい気晴らしだ。
機嫌よく給仕にあいたグラスを渡し、かわりのグラスを受け取る。わずかに唇を尖らせた。見た目は前のグラスと同じショットグラスだが、重さが違う。硝子が厚く、入れられる酒の量が少なくなっているのだ。酒にあまり強くない娼妓が客に強いられた時などに使う。
(やったな、五郎)
さりげなくそっぽを向いた五郎を横目で睨む。
まあ、体調が万全ではないのは確かだ。北野が言わないから五郎も口に出しては何も言わないが気を揉んでいるのは分かっている。今日はおとなしく弟の諫言を容れておくか。
そう考えて新しいグラスの酒をちらりと舐めた時だった。
「
席を離れた松江がやってきて北野に声をかけた。かるく首を傾げて、北野は松江を見上げる。
「どうしたの」
「少しだけ、お話をさせていただいても?」
「お客様をほったらかして?」
「ご主人様からのお話なのでございます」
「ふうん?」
ちらりと目をやると、仰々しい数珠をかけた法師が席からかるく頭を下げてくる。いちおうは客だから会釈を返して、北野は松江へ視線を戻す。
「よろしゅうございますか?」
「そうだねえ」
「僕を見下ろすのをやめるなら、少しぐらい聞いてあげてもいいよ」
「あ――申し訳ありません」
そっぽを向いて酒をちびりとやると松江は慌てた様子で一歩さがり、床に片膝をついた。
「大変失礼を致しました」
「うん。分かればいいんだ。行儀のいい子は嫌いじゃないよ」
「恐れ入ります」
「それで?」
「すこし、お近くへ寄らせていただいても?」
「好きにすればいい」
「ありがとう存じます」
一礼して、松江は北野が寄りかかっている肘掛けの近くへにじり寄った。声をひそめて、囁くように言う。
「じつは、今夜の僕の主人は強い法力をお持ちのお方でございます」
「ふうん?」
知っているとは言わずに興味なさげに頷く。
「その主人が申しますに、兄様に、その……
「……それで?」
やや太めに描いた眉をかるく持ち上げて、北野は松江を無表情に見る。
「まだ若い、少年なのだそうです。耳に、青い耳飾りをつけている、と」
さらに松江は声をひそめた。
「もし、兄様になにかお心当たりがおありでしたら、お話のできるよう取り持つことも、あるいはお祓いをすることもできますゆえ、どうぞご相談あそばされませ、と」
ひとつ、北野は息をついた。くいとグラスを傾ける。
「時間の無駄をしたな」
「はい……?」
「あのね、松江」
にっこりと、北野は笑みを作って見せた。
「おまえのご主人がどんなぺてんで信者をだまくらかしているのかは知らないけれど。僕が誰だかわからない程度の法力でいもしない死人を騙って僕を脅そうだなんて、八千年早い。蛆からやり直してくるといい」
「これは、……お厳しい」
さすがに松江の顔がいくらか強張った。北野は肘掛けに頬杖をつく。
「僕の返事はこうだ。お気遣い痛み入るけれど、僕はあなたごときに助けられるほど程度が低くはないので謹んでお断り致します。あなたこそまずはその柘植の櫛を握り締めている泣きぼくろの娘とよくよく話し合ったほうがいいよ、と、そう申し上げて」
「……承知いたしました」
退がれ、と言ったのは伝わったらしい。松江は濃く長い睫毛を伏せて一礼し、少し後ずさってから立ち上がってもう一度丁重に礼をして離れていった。
少しして、がたん! と大きな音がした。くだんの法師が椅子を蹴倒して立ち上がった音だった。視線は向けずに坊主の浅黒い顔が蒼白になっているのを見て取ってふんと笑う。下策なのは口に出す前から分かってはいたが、我慢ができなかった。
(まったく、僕は修行が足りない)
グラスを一気にあけて、北野はサロンの向こう端ですごい顔をした五郎を無視してもう一杯持ってくるよう身振りで給仕に命じた。
板の間に正座させられた五郎は膝を強くつかみ、唇を真一文字に結んで床を睨みつけていた。
「強情だな」
その前に仁王立ちになった北野はいらいらと足を踏み鳴らす。
「もういい加減観念して白状しなよ」
「できぬ」
だが五郎は顔をこわばらせたまま、かたい声で同じことを繰り返すばかりだった。
松江がなんの考えもなくただ法師に唆されて北野に雛瑠璃が憑いているなどと言ってくるはずがない。必ず北野よりも先に、より与しやすそうな五郎に揺さぶりをかけている。そこから何かを得て新たに北野に狙いを定めたか、あるいは逆に五郎からは何も引き出せずに諦めて北野に矛先を変えたかだ。
だから客が帰るのをじりじりしながら待って、見送ったその足で弟を見つけ出し有無を言わせず部屋へ引きずってきて雛瑠璃のことで松江に何か言われただろうと問い質した。聞かれたが大嗣に言われたとおりに答えたと返した顔は明らかにそれ以上の何かを隠していて、話せと迫ったらあろうことか顔をこわばらせて「言えぬ」と言った。それで怒った北野に正座を命じられてもう小一時間がところそのまま責められているというのに、口を割らない。
「わかった」
だから北野も意地にならざるを得なかった。
「むこう一か月、僕の部屋に――いや西翼に足を踏み入れるのを禁じる」
「――!」
はっと五郎が顔を上げた。見開かれた目が信じられぬように北野を凝視する。
唇を曲げて、北野はその瞳を見返した。
「部屋の外でも。僕に話しかけることは許さない。言いつけを破ったら縁を切る」
「…………っ」
五郎は口を開いて、いくつかの形に唇を動かした。兄者、と言おうとしたのかもしれぬし、そんな、とか、それは、だったのかもしれぬ。だがそれらは声にはならず、逡巡した末に五郎は何も言わずただ目を伏せた。
「出ていけ」
言い放つ。五郎は引き結んだ唇を震わせ、頬を引き攣らせて、そしてただ床に手をついて深く頭を下げると腰を浮かせ、そのまま後ずさりして部屋を出ていった。
「お姫さん……」
呻くように呼んで、そのまま明紫は深いため息をついた。
「それは、いくらなんでも五郎がかわいそうや」
「いいんだよ」
殻ごと炒った胡桃を手の中でもてあそびながら、北野は唇を尖らせる。
「まあ、ひと月よりも前に何か口実をつけて許してはやるよ。うんと勿体をつけてね」
「お姫さんがしんどいやろ」
「当たり前だよ。五郎にあんな顔をさせて胸が張り裂けそうだし、五郎を苛められなくてつまらないし、五郎のいない部屋に一人でいなくちゃいけないなんて寂しくて死にそうだし、服を選んでも化粧をしても誰も顔を輝かせてほめてくれなくて飾り甲斐がないし、……誰も胡桃を割ってくれない。今にも泣きそうだ」
「それなら許したったらええやないか」
「だめ」
胡桃の殻を、北野はかるくかじる。
「自分が意地を張ったせいで僕が日に日にしおれていくのを見て死ぬほど後悔すればいいんだ」
「だから、お姫さん――。そのためにお姫さんが身ぃ削ることないやろ」
「いいんだよ」
もう一度、ぽつりと、北野は静かな声で呟いた。
「どうせ僕は、五郎がいなかったら生きていけないんだ。それを思い知らせてやる」
ちょうどいいし、それまでの間すこし修行でもしておくよ、と覇気うすく微笑んだ北野が部屋へ引き取っていって、明紫が仕事をするのに一階へ降りてゆくと、果たして弟のほうも咬でさえ哀れを催すほどしょぼくれた顔をしていた。
「聞いたで」
明紫が声をかけると一瞬瞳が潤み、表情が歪む。だが口元を引き締めて一礼した。
「俺の我儘で、ご迷惑をおかけしております」
「自分にも言えんことか?」
「……申し訳ありません」
「さよか」
明紫は頷いて、それ以上は聞かなかった。五郎が差し出した書類を広げる。傍らに控えて書類を受け渡し、あるいは明紫の質問に答えながら、五郎はずっと何事かを考える顔をしていた。
「……大嗣は」
仕事をすませ、引き上げようとするころに、五郎はついに口を開いた。明紫はちらりと五郎を見やる。
「なんや?」
「大嗣は……すべてご存知なのでしょうね」
「全部かはわからんけど」
小さく、明紫は笑む。
「知っとることはあるよ」
「俺は」
大きく、五郎は息を吸い込んだ。
「俺はまだ、そんなにも頼り甲斐がないでしょうか」
「ん?」
「俺は長年、兄の力になりたいと、兄を支えられる己でありたいと、そう願って、そのために己を磨いて参りました。僭越かもしれませんが、少なからず成果はあがっていると、己では思うのです。なのに兄はまだ俺を信じてはくれませぬ――。俺は」
声を揺らして、五郎はきつく目を閉じた。唇に歯を食い込ませる。
「俺は、いつまで兄の庇護下におらねばならぬのでしょうか。いつまで兄は何もかもを自分で背負わなくてはならぬのでしょう。兄を凌駕したい兄の上に立ちたいなどとは
「……五郎」
「いや」
明紫が何かを言う前に、五郎はぶるっと頭を振った。
「申し訳ありません。大嗣に申し上げることではございませんでした。……こんなことをくだくだしく言っておるからまだ
「自分はな、五郎」
明紫はやんわりと笑む。
「お姫さんの決めたことには口を出さん、て決めてるんや」
五郎が顔を上げる。
「それが、どんなにお姫さんが痛うて、傷だらけになることでも、な」
五郎の目が大きく見開かれた。
それは、北野が己の全てを擲って勝ち取った権利だ。
―― 控えよ、下郎。
―― そのおぞましく穢らわしい手で我が弟に触れること、断じて許さぬ。
―― 代わりにこの身をやろう。いかようにもするがいい。
その名の通り清冽な威厳を見せて凛と言い放った声音を、咬もまだ覚えている。
―― ごめん。……ごめんな。
泣きじゃくりながら真っ赤に染まった手を差し出した、あの日。
明紫も、同じ決断をした。
だから、明紫は北野を決して否定しないし、阻害しない。
表情を引き締めた五郎に、明紫は弱く微笑みかける。
「力になってやれんで、ごめんな」
「いえ。――お教え、感謝いたします」
五郎は深く頭を下げる。そして意を決したように顔を上げた。
「あの、大嗣」
「うん?」
「このようなお願いをしますのは筋が違うと、重々わかってはおりますが、どうか、兄を――お願いいたします。せめてひと口でよいので酒以外のものを口に入れるようにと」
「……食べてへんのか」
「客の相手で多少つまんでいるようではあるのですが、このところ昼はなにを出しても手をつけてくれませず。昨日はさんざんに説き伏せてようやく桃をひと切れ」
明紫は苦笑を浮かべた。
「困ったお兄ちゃんやな」
「俺が困ることなどどうでもよいのですが、兄が体を損なってはと、それだけが気がかりで」
「気にしておくよ」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げて、五郎は退出していった。ちらりと咬を振り返って、明紫は苦笑を浮かべる。
「それでも、枉げんのやな」
明紫からとりなすことはしない。北野もひどく傷ついて苦しんでいる。そう伝えても、五郎の決意は変わらなかった。
「……兄貴にそっくりだ」
そう言うと明紫は小さく噴き出した。
「まったくや」
手を伸べてきたので近くへ寄った。腰に明紫の腕が回り、胸元に頭が押しつけられてきた。
「五郎、少し変わったやろか」
「どうかな」
「そうは見えへん?」
「はっきり言えるほどの変化はない」
「そっか」
「……変わってほしいのか」
ため息に残念そうな響きを聞き取って明紫を見下ろす。明紫は小さく頭を横に振った。
「ほしい、わけやない。お姫さんの望まんことやし。でも、ほんまは、そうなってしもうたほうがお姫さん楽になるんやろなあって、思う」
もう一つ、明紫は息をついた。
「変わってしもうたものはもとに戻せへんやろ。そうなったら、お姫さんもちょっとは諦めがつくんちゃうかな」
「誘導するか」
「あかん」
咬を抱き寄せた腕に明紫は力をこめる。
「……それは、したらあかんことや」
瞳を閉じ、唇を結んで、明紫はいっそう強く咬の胸板に頭を押しつける。咬に、それを命じてしまわないように。
少し迷った末に、咬は明紫の肩に腕を回してかるく引き寄せてやった。
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