3章 永咲館の影

7 兄


 朝いちばんに、大兄に呼ばれて大嗣の部屋へ出向いた。するとそこには、昨夜具合が悪いと客との約束を珍しく断ったのに朝には寝床にいなかった兄の姿があった。

「おひいさんの飼っとった仔犬な」

 椅子の肘かけに身を凭せかけて、大嗣は足元に控えた五郎を見る。

「どうしても譲ってほしい、誰にも知られんと、こっそり色子を飼いたい。そうゆうお話があってな。お受けして、ゆうべのうちに持って帰らはった」

「……は?」

 主人に反問などあってはならないことだったが、思わずそう返してしまった。

 確かに雛瑠璃の姿もないと思ってはいたが、それこそ部屋にいない兄が散歩にでも連れ出しているのかと思っていた。だが兄はすこしつまらなそうな顔で出窓に腰掛けて外を見ている。傍らに雛瑠璃の姿はない。

「知られたらあかんからな、誰ぞが何か聞いてくるようやったら粗相があって家へ戻すことになった、誰にも見られんように夜中に出て行かした、そう言うておいて」

「……」

 それはいったいどういうことなのかと、問いが口をついて出そうになった。

 ひそかに子供を買いたい、夜のうちに連れ去った、など、あまりにも不自然だ。夜の間に車の出入りなどなかったし、そもそも鍵は表も裏も毎夜五郎がかけて、朝に外している。

 子供を連れ出すことなど――。

 その時ふと、耳の奥に甦った声があった。


 ―― 僕を疑わないで


 祈るように囁いた、あの時の、泣き出しそうだった声――。

 ぐっと、五郎は唇を結んだ。

 信じると、あの時そう誓った。

 ここに北野がいるということは、兄もすべて知っているということだ。

 ならば、五郎のすべきことは一つだ。

 大嗣の言う通り、五郎なら、夜のうちにこっそり子供を放逐できる。

「承知、仕りました」

 床に手をつき、深く頭を下げた。

「そのように」

「頼んだ」

「は。……ほかに、御用はございますか」

「いいや」

「かしこまりました。では、俺はこれにて」

 あらためて頭を下げ、五郎は大嗣の居間を辞した。階下へ降りていきながらあらためて表情を引き締める。

 素直な子供だったが、それゆえか兄の言いつけを厳に守って客のみならず階下の使用人や娼妓ともあまり深くは親しまなかった。いなくなったことを訝しみ惜しみ悲しむような者はいないだろう。詮索好きな者たちはしばらく取り沙汰するかもしれないが、五郎は何も知らないし北野と大嗣が水を漏らすはずがないから、すぐに噂話に飽きて忘れてしまうはずだ。

 むしろ気になるのは兄のほうだ。昼夜をかず可愛がるほど気に入っていたようだったというのに。横からさらっていかれたようなものだし、ひどく気落ちしなければよいのだが。

 いや、あるいは、最初から話ができていて、兄はその客の気に入るようにあの子供を愛育していたのか――?

 正直に言えばなぜそこまで兄があの子供を愛重するのか、いささか腑に落ちぬものはあった。客には徹底して尽くすひとではあるしその時は本人もその気でいるが、一方でそれは手管のひとつであり金銭が介在するからこその関係だと誰より割り切ってもいるのも兄だ。客と切れると驚くほどさっぱりと相手のことを忘れてしまうことなどがその証左だ。

 その兄が、言うなれば一銭たりと出すわけでもない相手にあれほどの情をかけるとは、信じがたいものがあった。

 それが恋着というものなのかもしれない。

 だが。

 これは奢りあるいは嫉妬かもしれないが、あの兄が。

 弟の自分以上に執愛する相手など。

 できるはずがない。

 だが、それが、そもそもの目的であったのなら。

 そこまで考えて、頭を振る。

 それは、昨夜ひそかに雛瑠璃を連れ去った客がいる、という大嗣の説明が事実だという前提での推測だ。そもそも夜のうちに子供を連れ出すことは不可能だと、己自身が結論づけたではないか。

 しかし、ならば――子供はいったい、どこに消えた。

 おぞましい想像が脳裏をよぎる。

 まさか――。

 たしかにあの時は、雛瑠璃が襲われている、喰われる、と感じたが。

 いくらなんでも、そんなことが。

 あるはずがない。

「ええい!」

 ぶるっ、と強く頭を振る。

 信じると誓った。

 断じて、それを違えたりはしない。



「お待たせしましたな」

 咬のあけた扉から室内へ入った明紫が、そこにいた人物に声をかけた。扉を閉めて室内を見ると、来客は用意された椅子ではなく床に跪坐して控えていた。明紫が傍らを通り抜けると床に拳をついてうやうやしく頭を下げる。背後には同じように、だがやや座り慣れていない様子でぎこちなくかしこまっている若い男がいる。随従だろう。

 白の揃いを隙なく着こなした、風采のいい男だった。胸のポケットに黒い色眼鏡をさしているのが見えている。後ろへ撫でつけた鋼に近い銀髪と、こめかみに大きな傷痕があるのが目立っていた。革張りの椅子に明紫が腰をおろすと、あらためて深々と頭を下げた。

「お初にお目もじを得ます――部領ことりよ」

 低いが華やぎを秘めた、深い響きのある声だった。郎党を従えていることでもわかるが、それなりの地位にいることが伝わってくる声だ。

「これなるは山鳥やまどり一党のおさ井和セイワと申す無頼者。この大淵の地にかくれなき尊きおん方にお見知りおきをいただきたく、東の嗣子様にご無理を申し上げ、本日こうしてご挨拶の場を設けていただきました」

 そう言って、身を起こし、明紫を見る。瞳は南天の実のような艶のある赤。

 明紫はうっすらと笑った。

「珍しいお名前ですな」

「恐れ入ります。古い土地に生まれましたゆえ」

「それで? その親分はんがうちのごとき卑しい妓娼に、どんなご用ですやろ」

「卑しいとはまた謙遜をなさる」

 微笑した表情には追従はなかった。

「言葉通り、ご挨拶にございます。部領におかれては、俗世の浮沈にはあまりご興味はお持ちではないとお見受け致しますが、いかがか」

「ああ、まあ――そうやねえ」

 うっすらと明紫は唇の端をあげる。

「あまし興味はありまへんな」

「で、あれば――部領」

 少しだけ、男は身を乗り出すようにする。

「新参の山鳥が、お庭に成った果実をいくらかついばみましても、お目こぼしをいただけましょうや。どうぞ、お許しをいただきたく――」

 もう一度、男は床に拳をつき、頭を下げた。

「お許し、て。そないなこと、言われても困りますな」

 くす、と笑って明紫は口元を手で隠す。

「自分のものと違いますからな。鳥がつつこうが熊が喰らおうが、自分の知ったことやおまへん」

 明紫がそう言うのをひたと見つめる男の表情は、ひどく真剣だった。

「さようでございますか」

「好きなようにしはったらええですわ。――けどまあ、あまりに騒々しゅうされると、お父はんのお気に障るかもしれまへんからな。そこはええ具合に塩梅してもらえたら助かりますわ」

「――畏まりまして」

 重々しく言って、男は再び丁重に頭を下げた。

「お引っ越しは、もうすまさはりましたんか」

「おおかたは。残りも一両日のうちにと考えております」

「さよか。落ち着かはったら登楼あがっておいでやす。いつでも、お待ちしてますよってな」

「近いうちに、必ず」

 さらに深く頭を下げて、そのまま次の口上を述べる。

「本日は、まことにありがとうございました。拝顔の栄に浴しましたこと、もったいなきお言葉を頂戴いたしましたこと、厚く厚く、御礼申し上げる」

「大げさやな、山鳥はんは」

 ふふ、と明紫は目を細めた。

「ご自分で言わはるとおり、だいぶん古いお人のようやけど――そうやって筋目とおしてくれはったら、うちかて悪い気はせえへんよ」

 最後だけ、少し明紫は言葉をくだけさせた。立ち上がる。また、男は頭を下げた。

 随従は最初から最後まで平伏したままだった。

 明紫のために扉をあけ、送り出したあとでちらりと見ると、男は空になった椅子に向かってまだ深々と頭を下げたままでいた。


 大嗣が退出したあと、かなり間をおいてから井和は頭を上げた。

「第一関門突破、というところか」

 ひとりごちて身軽な動作で立ち上がり、若党を従えて部屋を出る。この後酒肴でもと屋敷の主人には誘われていたがすでに十分以上のおもてなしをいただきましたと断ってあった。

 四家ごときに用はない。むしろこれらは踏み台であり獲物だ。

「お頭、お頭っ!」

 部屋を出るとそれまでがちがちに固まっていたのをすっかり忘れて若党が鼻息を荒げる。

「見ましたか、あのおかみさん! すんっっっっげえ美人でしたね!」

「うるさいぞ猫」

 苦笑してたしなめる。

「見たに決まってる。あのかたにお目通りするために来たんだから。それに、おかみさんじゃないぞ。大嗣は男だ」

「へっ? えっ? ええっ? あれで男っすか!」

 目を丸くし、いっそう猫は声を大きくする。正しい名はほかにあるが、耳の上の毛がいつもはねていて猫の耳のようなのと何かにつけて猫の鳴き声のような声をあげるので猫と呼んでいる。落ち着きのない粗忽者だがそれでいて憎みきれないところも猫の名の由来だ。

「いやでも、だってシギの爺さんが大嗣ってのは天女みてぇな別嬪だって」

「別嬪だから女と決まったもんでもないだろう。まあ今の大嗣のことかどうかもわからんが。鴫が大淵をのぞいたのなんざ五十年以上も前の話だぞ」

「あっ、そうだったんすね! じいさん昨日会ったみたいに言うからてっきり」

「昨日もなにも、おまえ、そもそもうちに何年いる。おまえが入る前から鴫はいるだろう」

「あー! それもそうっすね!」

 猫はぽんと手を叩く。それで一歩遅れ、だが次の瞬間には井和の前へ回り込んできた。

「大嗣のあの話し方も、あれってお国言葉なんっすかね? なんかすげえ、えーと、なんっすかね、とっとく? こう、すげえ、ほかとちがう、っつうか」

「独特、な。あれは古い雅び言葉だよ。間違っても、真似をしようなんて思うんじゃないぞ。似合わんし、そもそも使える身分が限られてる。お前ごときが使っていい言葉じゃない。都あたりでそんなことをして聞かれたらそれだけで打ち首だ」

「えええ、しませんしませんっ、そんなことで首落とされちゃたまんねぇや。ん? てことは、大嗣も都にいったら打ち首っすか?」

「どうだろうな。大嗣はおまえとちがって身分のある方だからな」

「あー、そうっすよね、俺とは違いますよね。あっでも、ねね、お頭お頭っ! でも、あのひと、あれっすよね、えーしょーかんつうとこのお職なんっすよね? あのひとも買えるんっすよね? おあし積んでお願いしたら俺なんかでも揚げれるんっすかね? いくらぐらいするんっすかね!」

「猫」

「っ――」

 声を強くすると猫はびくんと喉に声を詰まらせる。あごをしゃくって背後を示してやった。

「へ? ……みゃ、みゃっ!」

 井和に話しかけながら後ろ向きに歩いていた猫は背後、つまり井和の前方を振り返って、甲高い悲鳴をあげて飛び上がった。

 狗が腕を組み廊下に寄りかかっていた。血の色の瞳を向けられて、猫は背中に棒をつっこまれたようになって硬直する。

「躾のなっていない猫で申し訳ない」

 横目で見て苦笑し、かるく目礼して非礼を詫びる。

 その言葉に狗はごくわずか唇の端を上げたようだった。

「鳥が猫を飼うか」

「若いうちから共に育てますと猫でも己を鳥と思うようになるようで」

 行くぞ、と若党の背を叩いて歩をすすめる。ぎくしゃくした忍び足で、まだ顔をひきつらせた猫が狗の前を通り過ぎようとする。

「おい」

「ぃにゃっ?」

 低い声に再び猫は飛び上がった。へっぴり腰でおそるおそる振り返る。

「は、はひ……」

「情けがほしいなら芸の一つも見せて口説いてみるといい」

 抑揚のない口調で狗は言う。

「興が乗れば寝所へ入れてくれるぞ」

「えっ! ほんとっすか! たとえばどんな芸だったら」

「おい猫――」

「入れたからといって、出してやる保証はないがな。猫の皮でも襟巻ぐらいにはなる」

「ぎゃぁっ?」

「いい加減にしろ」

「あぎゃっ!」

 後ろ頭をはたくと猫は情けない声をあげた。

「大兄も――あとできつく叱っておきますので、どうぞもう、そのへんでご容赦を」

 頭を下げると、狗はわずかに苦笑したようだった。

「苦労するな」

「いやまったく、汗顔の至り。――ほら猫。失礼するぞ」

「にゃあっ、お、お頭、そこは、いて、あいててて」

 耳をねじり上げて、悲鳴をあげるのには構わず引きずるようにしてその場を後にした。狗の目の届く範囲を出たところで耳は放してやったが、そのまま襟首をつかんで屋敷から連れ出す。

「まったくおまえは――好奇心猫を殺すという諺を知らんわけでもあるまい」

「えっ? 俺殺されるんっすか?」

「殺されても文句は言えんところだ。相手の首を折って頭を胴体から引っこ抜く獣を前にして、緊張感がないにもほどがある。そんなに首をへし折られたいのか」

「うえええ?」

「まあ――幸いなことに気に入っていただけたようだが」

「へ? 気に入って、って……あれでですか」

「大嗣がひと声かけてこいと言ったんだよ、あれは。直接大嗣が来たんじゃそれこそ我らと結託したと思われかねんからな。そうでもなければ狗がわざわざ大嗣の傍らを離れて我々に声をかけてくるものか。まして冗談を言ったりからかったりなど、するはずがなかろう」

 東の惣領に恭順を示すために、馬鹿馬鹿しいが車は使わずに徒歩できていた。無事に敷地を出て、ポケットのサングラスを抜き取り、かける。

「――さて、猫よ」

「へい」

 声の調子が変わったことに気づいて猫も表情を引き締める。

「ひとまずのお墨付きはいただいた。次はそれこそ直接お声をかけていただけるよう、せいぜい鮮やかに腕を見せようぞ」

「へい!」

 頷いた猫が鋭く指笛を鳴らす。応えて、そこここの物陰からすうといくつもの影が姿を見せた。


 車の助手席で、咬は一瞬だけ、わずかに視線を動かした。

 後部座席で明紫がつと髪を気にした気配がする。

 同じものに気づいたのだろう。

 それは、松江だった。

 通り過ぎる一瞬にちらりと見えただけではあったが、間違いはない。北野がよく「真っ黒」と呼ぶ、陰にこもったねっとりした情念の気配は独特だ。

 もちろん、松江も一本立ちの娼妓で、年季に縛られてはいないから外出を制限されてはいない。どこへ出かけようと自由ではあるが。

 朝までつとめを果たし、睡眠をとって顔や体の手入れをし、客にねだりごとや登楼を誘う文を書き、夕には見世に出る支度をはじめる娼妓はあまり外出をしない。永咲館がどちらかといえば街の中心を外れた場所にあることもあって、億劫が先に立つことが多いようだ。

「はい。外出をしたいというので俥を手配いたしました」

 永咲館に戻り、五郎を呼んで明紫が尋ねると、果たして五郎は頷いた。

「いろいろと買いたいものがあるのと、まだ街をよく知らぬゆえ観光がてらと、そのように申しておりましたが。何かございましたか」

「通りすがりに見かけて、あれ、て思うただけや。あそこ、何の店やったかな」

 おおよその場所と店構えを告げると五郎はああと頷く。

「香りのものを売っておる店です。以前は仏具屋でしたが近頃あるじが代わりました」

「香りのもの?」

「香や香木、精油、匂い袋、西欧の香水やポプリ、サシェといった品々でございます。西欧のみならず東南や南方の島などからも珍しい香りのものを集めておって、ほかで手に入らぬものも多く、種類が豊富というので人気を得ております」

「へえ。五郎は物知りやな」

「恐れ入ります」

「そういう話は、どっから聞いてくるんや」

「どこ、と決まった先があるわけではございませんが。街へ出た折りに小耳にはさんだり。出入りの商家などからも聞こえて参ります」

「聞こえるんは、新しい店やはやりもんのことがほとんどやろか」

「……どういった噂話をお探しで」

 五郎の声が変わった。

「そういった捜し物を得意としておる者どもも存じておりますが」

「そこまではせんでええよ。鳥をな」

「鳥、でございますか」

「……いや、ええわ」

 苦笑して明紫はかぶりを振った。

「とくに耳そばだてておかんでも聞こえてくることがあったら教えて」

「かしこまりまして」

 五郎は深く頭を下げた。



 あれえ、と小さく声をこぼして、北野は首を傾げた。

「ねえ五郎」

「ん。なんだ兄者」

「おまえ、あれをどこかへやった?」

「あれ、とはなんのことだ」

 弟を呼んで聞くと弟は首をひねる。

「ほら、あれだよ、ここに置いてあった」

「うん? ……ああ、片方だけになってしまった耳飾りか」

 あれとかそれとかこことか、そんな言葉だけで北野の言いたいことを理解するのは見事なものだと、北野はよく思う。北野は細かいことを気にしないたちだから、名前は当然のこと、色やら形やら手に入れた経緯やらを仔細に言葉にするのをすぐ省略してしまう。それなのに弟とは話が通じるのだ。

「そう、それ」

「俺は知らんぞ。さわっていない」

 頷くと弟は首を振る。

「おかしいなあ、ここからは動かしていないはずなのだけれど」

「いつまであったか覚えているか」

「うーん、ここにあるものだと思っていたからよく覚えてはいないけれど、……そうそう、この間、お館へいった日にはあったよ」

 外出につけていく装身具を選んでいて、目に入ったのだ。揃いのもう一方が壊れた原因がその日の行き先だったから、自分も気をつけねばと考えた。だから覚えている。

「ひと月も前ではないか」

「だって、必ずそこにあるものを毎日確かめたりはしないよ」

 それでは参考にならんという顔をした弟に唇を尖らせて言い返した。

「どこかに落ちているのではないか。探してみよう」

 そう言って、五郎は床に這い、箪笥や鏡台の下を覗き込み、敷物をめくって耳飾りを探す。だが見当たらなかったらしく、ないな、と呟いて立ち上がった。

「落ちていたものを掃除の時にそのまま捨ててしまった、というのもなかろうし、……となると、やはり誰かが、ということになるのか……?」

 永咲館では、娼妓の部屋には鍵がついていない。楼主を母や父と呼ばせる娼館では家族に隠し事などないとして鍵をつけず娼妓が客からの心付けを勝手にしまいこんでいないか楼主が部屋の物入れをあさるようなところもあるが、これはもっと現実的な話で、おかしな客を引き当ててしまった時に鍵がかかっていないほうが、殺されそうになっている娼妓を助けられる可能性が高くなるからだ。

 だが、そのぶん、もちろんのこと不用心にはなる。部屋の主のおらぬ時に周囲の目を盗めば、誰の部屋にでも入り込み何かを持ち出すことはできるのだ。使用人も、掃除をしたり寝具を取り替え整えるために毎日何人かが出入りする。それは、常には立入禁止とされている三階の、大嗣の部屋も北野の部屋も同じだった。

「とってゆくにしたって、片方しかないものをとるのもおかしな話だよね」

「いや、揃いで盗んでいったとしてもつけるわけにはゆかぬだろう。兄者のものと、少なくとも俺が見ればわかる。客が誰か、兄者をしのぶよすがにと持って帰ったとか? 片方しかないのなら使わぬから困らぬだろう、と」

「最近のお客は昔なじみばかりだったから、そんなばかなことはしないと思うよ。言えばなにか渡すし、黙って持っていったとばれたら僕に捨てられるもの」

「そうだよなあ。とはいえ、俺としては使用人に太夫の持ち物をかすめるような者はおらんと信じたい。――ひとまず、誰か見ていないか、最後に見たのはいつか思い出せるか、聞いてみよう。身に覚えがあるならあやしげな挙動を見せるだろうし」

「うん。お願い」

 頷いて、弟が部屋を出ていくのを見送った。かるく唇を尖らせて、並べてある装身具を指先でつつく。

 べつに、さして高価なものではないし、とくに思い入れのあるものではない。かわりを買ってもらったし、たんに捨てるほど気に入っていなかったわけではないからそのまま持っていただけだ。

 だが、自分の知らぬところで自分に属するものを誰かが手にしているかもしれない、というのは落ち着かない。

「雛瑠璃が手癖が悪かったらよかったのに」

 唇を尖らせて、ちいさく呟く。あの子供が、それこそ五郎が言ったように片方しかないのだからよいだろうと自分の衣服に忍ばせて、そのまま、もう処分してしまったあれらの衣服や持ち物のどこかに隠してあったとか、持ったままあの化け物に喰われてしまったとか、そうだったなら、安心はできる。

 だが、あの子供は素直で、賢くて、曇りなく北野を慕っていた。きっと、最後の瞬間まで自分が贄に捧げられた、そのために慈しまれたことさえも知らないままだったろう。北野の持ち物をかすめるような不実をするはずがない。

「どこへいっちゃったのかなあ」

 唇を尖らせて、北野はため息をついた。



 化粧が気に入らなくてやり直し、そうしたら服が合わなくなって、着替えたら今度は別の首飾りにしたほうがいい気がして、とりかえたら爪の色にうんざりした。北野はその時どきの気分で感じ方も考えも変わるから、こういうことはたまにある。まして今日は耳飾りが見当たらなくて気が散っているからなおさらだ。

 結局支度を全部やり直すことになって、その夜北野が見世へおりていったのはいつもよりだいぶ遅くなってからだった。もちろん自分の客を待たせるようなことはしないが、もう客はだいぶ入っていてあちこちのテーブルで娼妓と酒を酌み交わしたり体を寄せ合ってなにか囁き交わしたりしている。

(……ん)

 そんなテーブルの一つに短く切り揃えた艶やかな黒髪があって、北野は内心で首を傾げる。

(どんな客をとるのも、べつに自由だけれど、あれはどうなんだろうな……)

「北野」

「あれ。こんばんは」

 ちらりと横目で見たところで声をかけてきた客がいた。北野の客ではないが、北野の客の紹介で登楼するようになった男だ。といっても顔を見たのは四年か五年ぶりか。

「ずいぶん久しぶりじゃない?」

「しばらく西欧に行っていてね」

「そうだったんだね。あなたに不義理をされている間に高良たからは死んでしまったよ」

「私もそれを聞いて嘆いていたところなんだ。まずはあれに一杯捧げたいんだが、つきあってもらえないかな」

「ん……今日でなければ断らなかったんだけど、ごめんね、今日の一杯めはあるじと飲む約束をしているから」

「そうか。それは残念だ」

 もちろん先約のある娼妓を酒の相手に誘うのだから、客も断られて不快な顔をしたりはしない。頷いて引き下がった。

「僕はお相手はできないけれど、夕雲雀に声をかけてみたらどうかな。高良とは気が合って仲良くしていたようだから、思い出話につき合ってくれると思うし、気質も柔らかいからねやでもお気に召すと思うよ」

 そもそもが、北野の客の客人だ。当時の敵娼は今も話題に出たように二年ほど前に死んでいる。こうした場所ではよくあることだが、それを揚げるつもりで登楼した客は今夜の相手がいなくなってしまった。ならば北野がかわりの敵娼を紹介してやるのが筋だし、客もそのつもりで声をかけてきている。そうでなければ適当な娼妓を見繕ってから声をかけてくるはずだ。

「ほう? ではそうしてみようかな」

「五郎」

 視線をやって呼ぶと五郎が近くへ来て膝をつく。

「夕雲雀をお召しになるって。呼んできておくれ」

「かしこまりました」

 頭を下げて離れていった五郎が居並んでいた娼妓から北野が名指した娘を呼んで、連れて戻ってくる。

「夕雲雀でございます」

 五郎が紹介し、夕雲雀は慎ましく一礼した。客がいくらか眉を上げ、目を見開く。どうやら外見は気に入ったらしい。北野は夕雲雀に笑いかける。

「あのね、こちらは僕のあるじのお友達。高良がとてもよくしていただいたんだ」

「はい。高良から何度かお話を聞いたことがございます」

「そう。外遊からお戻りになったところなんだって。高良を悼んでくださって、思い出話をなさりたいということだから、お相手をしてさしあげてくれる?」

「喜んで」

 夕雲雀が丁重に頭を下げ、少し懐かしげな瞳と控えめな笑みを客に向ける。頷いた客が手を差し出し、夕雲雀はそこに己の手を乗せた。

「では」

「よい夜を」

 にっこりすると、客は頷いて夕雲雀を連れて席へ戻っていった。卓につくころにはもう腰を抱いている。案外手が早い。

「さすがのお差配でこざいました」

 傍に控えて見送った五郎が小声で言った。北野は微笑だけを返す。こうした時に客の好みに合いそうな娼妓の名をすぐに挙げられなくては太夫として失格だ。北野は日頃、他の娼妓とは交わらないが、サロンにいる時はほかの娼妓たちの様子を見ているし、五郎という情報源も持っている。ぬかりはない。

 夕雲雀はこのごろ客のつかないことが多くなっていた。客に売り込んだように気が優しくて情も深いのだがそのぶん控えめで地味なところがあって、客の目にとまりにくいのだ。

 無沙汰をしている間に敵娼に死なれたから、あの客はしばらくはまめに通ってくるだろう。客についている姿を見て次に登楼した時の相手を見繕う客もそれなりにいる。北野が推挙したと聞いて興味を持つ客もいるだろう。気にしていてもいつでも手を貸せるとは限らないから、今日は運がよかった。

 しかし。

「ねえ。大嗣はいつごろお出ましかな」

「伺ってはおりませんが、お急ぎでしたら聞いて参りましょうか」

「……ううん。そこまでじゃないからいいよ。僕のあるじもそろそろくるだろうから」

 どうせここでは何もできまい。大嗣も気がつかないということはないだろう。

 いずれにしても、気鬱なことに変わりはないが。

「あるじ、早くこないかな」

「……珍しいな、そのようなことを言うなど」

 口調を変えてぼやくと五郎も声をひそめて弟に戻る。

「どうかしたか」

「べつに。早く飲みたいなって思っただけ」

「……兄者はこのごろ少々酒量が増えておるのではないか。体に障るぞ」

「余計なお世話だよ。――あ、あるじだ。噂をするとくるんだよね」

 身軽に立ち上がりサロンへ入ってきた客に駆け寄っていく。この客は北野が子供っぽいふるまいをするのを好む。

「いらっしゃい。遅いよあるじ。待ちくたびれてしまった」

 思わず手を握ってしまったが待たされてふくれていることは見せようとして、だが失敗して嬉しそうな顔を隠せない、というのが狙った態度だ。もちろん、北野はそういうところでしくじったりはしない。

 完璧な演技に客は相好を崩してすまなかったねと言いながら北野を抱き寄せた。

 むくれた顔をがんばって作っているふうを装いながら、そういえば一度だけ、表情を取り繕うのに失敗したことがあったな、とふと思い出した。



 衣擦れが近づいてきた。ちらりと視線を上げると、艶やかな衣装に身を包んだ娼妓が微笑んでいる。

「隣、いいかしら北野様」

「どうぞ」

 にこりとして、北野は頷いた。

 女は浮舟という名で、永咲館ではかなりの古株だ。さばけた性格の、姉御肌の気質で、いきなり太夫を名乗って見世に出るようになった気位の高い少年にもこだわりなく話しかけてきて何かと構ってくる。北野は自分からはほかの娼妓との交誼を求めないから、ほぼ唯一、娼妓の中で言葉を交わす相手だった。

「ね、これ。見て」」

 腰を下ろすなり豊満な体を寄せてきた浮舟は、自分の襟元を示した。

「……あれ。すてきなものをつけてるね」

「そう思う?」

 女は自慢げに笑う。

 そこには、石と硝子細工を組み合わせて作った大ぶりの花の飾りがついていた。そう高いものではないようだが、女の華やかな雰囲気によく合っている。

「似合うね。すごくいい」

「でしょう? これね、五郎が買ってきてくれたんだ」

「……へえ」

 わずかに、反応を返すのが遅れた。ちらりと、女は得意げな顔をのぞかせたが、それは見なかったていで無視して飾り物をのぞきこむ。

「ずいぶん目が利くようになったなあ」

「いいものをいつも見てるっていうのは、やっぱり目を肥やすよね。さすが北野様の弟だよ」

 大切そうに、浮舟は襟元の花を指で撫でる。この飾りの映えるような衣装を客にねだろうかねえ、と笑った。


「……ってね、自慢をされてしまったよ」

 長椅子に陣取って、北野はぷくんと頬をふくらませた。狗が渡した書類に目をとおして指示を書きつけた大嗣が筆を置いて北野を見る。

「べつに妓女おんなに何を買ってやったってかまわないけれどさ、それなら僕にも何か持ってくるべきだと思わない?」

 ぼやいて、椅子の上で膝を抱えた。

「五郎が僕になにか贈ってきたのなんて、四つの時に庭に咲いていた花を摘んできたぐらいだよ」

「そんなことあったんや」

「一度だけね」

 北野は大きなため息をついた。

「いいなあ、浮舟は」

「そう言いなや」

 笑って、大嗣はデスクを立って北野のいる応接セットのほうへやってきた。向かい側へ腰をおろす。

「お姫さんも、なんぞほしいんやったら五郎に言うたらええやないか」

「えー、それはいやだ。妬いてるみたいでみっともないじゃないか」

「妬いとるんやろ」

「妬いてるけど」

 まだ唇を尖らせたまま、北野は抱えた膝に頬を乗せた。

「でも、そこを見せないのが兄の矜持じゃない?」

「見せてもええと思うけどなあ。……というか」

 くす、と笑って大嗣は北野の顔をのぞきこんだ。

「誤解しとるようやけども。それは五郎が浮舟に贈ったのと違うよ?」

「え、そうなの」

 北野は目を見開いた。うん、と大嗣は苦笑して頷く。

「選んだのは五郎かもしらんけど、お使い頼まれとったよ。あたしに似合いそうな飾りものをひとつ買ってきておくれ、て」

「……なあんだ」

 大きく息をついて、北野はころりと長椅子に体を倒した。

「女狐め。わざとやったな。まさかああいう年増が好みなのだったらどうやっても勝てないと思って頭を抱えていたのに」

「今ごろほくそ笑んどるやろね」

「ちぇ。すっかり乗せられてしまった」

 ぼやいたが、五郎が急に色気を出して特定の娼妓に贈り物をしたわけではなかったとわかってほっとした。気のいい女のちょっとした意地悪ぐらいは許してやれる気分だ。

「お客はんはいくらでも手玉にとるくせに、弟にだけはいつまでもうぶやなあ」

「初恋だもの」

 苦笑した大嗣に、北野は素直にため息をついた。

「言うたらええのに」

「言わないよ。僕は陰間だぞ。弟には似つかわしくない」

「お姫さん……」

 そっぽを向くと大嗣はたしなめる声で北野を呼んだ。

「せめてそろそろ地金は見せてもええんやないのか」

「じつのところ、それは僕も思ってるんだよね」

 北野は起き上がって、あらためて膝を抱える。ため息をついた。

「でも、きっかけがないっていうか。何もないのにいきなり明日から本性を見せるからね、とは言いづらい」

「……まあ、それもそうか」

 うすく、大嗣は苦笑した。

 北野は馴染みになった客への情愛は濃いが一方で切れた相手や気に入らない相手にはとことん冷淡なことでもわかるように、基本的には気位が高く高慢で気まぐれだ。一部は客に合わせて演技を加えるにせよおおむねはそれが地なのだが、困ったことに弟はそれがすべて兄の演技だと信じている。それは、北野が長年、弟の前では穏やかで慈愛深い人格者を演じているゆえだ。

「自分でも自分が本当はこんな性格だったなんて気がついていなかったんだよねえ」

 北野は大きなため息をつく。

「弟が尊敬できるような兄でいよう、そうなろう、って、それしか思っていなかったんだよね、あのころは。若かったなあ」

「年寄りじみたこと言うて」

 苦笑して、そして大嗣は北野を見る。

「なあ、お姫さん。ちと相談があるんやけど。もしかしたらそのきっかけになるかもしらん」

 いたずらっぽい笑みを含んだ声に、北野はまばたきをして首を傾げた。


 弟がいくらか緊張した様子で北野の部屋を訪ねてきたのは、浮舟に五郎が選んだ飾り物を自慢されたことを大嗣に愚痴ってから何日かしたころだった。

「今、よろしいでしょうか兄上」

「いいよ」

 爪紅を選んでいたところだった北野は鏡ごしに弟のややかたい表情を見、振り返って立ち上がる。

「隣へ行こうか」

「はい」

 居間で話そうと促すと弟はきまじめな表情で頷いてついてきた。

「どうしたの?」

 肘掛け椅子に腰を下ろし、柔らかな、慈愛に満ちた笑みを浮かべて弟を見る。五郎はいつもするように北野の前へ膝をついた。それなりに分別がつくようになってからは、弟は自分は使用人であり、太夫である兄と同じ高さで話をしていい身分ではないと言うようになって、隣に座ってはくれなくなった。

「兄上はすでにお聞きのこととは思いますが、……差配にならぬかと、大嗣よりお話がございました」

「うん。この間どう思うかと聞かれたよ」

 微笑んで頷いてやる。

「五郎なら問題なくつとまると思うとお返事しておいた」

「ありがとう存じます」

 五郎は一礼する。

「どうするの?」

「不肖の身には大役ではありますが、……お受けしようと思っております。差配どのが退かれるわけではないので、補佐としてではありますが」

「そう」

 頷いた。

 何か手伝えることはないか、用があれば言いつけてほしい、と弟が言い出したのは、北野が北野を名乗るようになってほどなくしてだった。男娼として役に立たなかったがゆえに兄に借金を肩代わりしてもらったという大嗣の筋書きを信じ込んでいたから、せめて何がしかの役に立ちたいのだろうと水を汲んできてくれ、飴を買ってきてくれと小さな用事を言いつけるようにした。

 次第に弟は北野だけでなくほかの娼妓からも用を頼まれるようになり、今ではすっかり館じゅうの小間使いだ。だが五郎当人がそれを楽しんでいるようなので、北野も咎めるつもりはない。実際、外見だけはおとなしやかだがけっこう大雑把で気まぐれな北野とは真逆に弟は裏表がなくまじめで誠実、物覚えもよくて気が回る。娼館の裏方を取り仕切るにはうってつけの性格だ。

 永咲館にはいちおう正式な差配はいるが、めったに自分の部屋からは出てこない怠け者だ。経営まわりのことでは狗が大嗣を補佐しており、裏方は使用人たちがなんとなくそれぞれの担当ごとにかしらを決めてあれこれを切り回し、必要があれば大嗣に相談を持ち込んでいる。

 それで回っているわけではあるから、差配が必要かといわれればそうでもないのかもしれないが。

 今でも結局のところ北野の付属品でしかない弟に明確な居場所ができるのであれば、それに越したことはない。

「いいと思うよ」

「ありがとうございます。……それで、兄上」

「うん?」

「そのことで、……お願いがございます」

「なあに?」

 弟の緊張顔は、差配の件よりもこちららしいと読み取って、北野は頷く。

「その」

 表情を引き締めて、五郎は北野を見上げた。

「これを機に、……今まで、己のことは吾と言っておりましたが、これを、俺、に」

「……俺?」

「はい。それと」

「うん」

「兄上を……兄者、と」

「…………兄者」

「はい」

 五郎は、かるく叩いただけで粉々に割れるのではないかと思うほど顔をこわばらせていた。

「その、ように……改めさせていただくことを、……お許し、いただけ……ない、でしょうか」

 北野は緊張のせいだろう、青ざめてさえ見える弟の顔を見つめる。

 使用人たちや、ほかの娼妓の前ではいつからか自分のことを俺と呼んでいることには気づいていた。北野の前では昔からそうであるように吾と言うのは気恥ずかしいのかと思っていたが、この緊張ぶりを見ると兄の前でそのような乱れた言葉は使ってはならぬと自らを戒めていたようだ。

 どうやら彼らはどちらも、同じようなことを思って同じようにきっかけをさがしていたらしい。

「いいよ」

 頷くと、五郎は弾かれたように顔をあげた。見開かれた赤茶の瞳に、北野は微笑みかけてやる。

「そんな顔をしているから何を言われるのかと思ったよ。……かわりに、というわけではないけれど。僕からもいい?」

「は、はい」

 表情を引き締めて、五郎は居ずまいを正す。あらたな緊張を浮かべた頬を、指でかるくつついてやった。

「敬語はなしだ」

「……は?」

「おまえは差配になるんだろう? 差配といえば楼主のもと、館のすべてを束ねる立場だ。娼妓よりも立場は上になるのだし、兄と弟という立場と差し引きで、対等になろう」

「兄う……兄者」

「いいかい?」

「はい、あ、いえ……わ、わかった」

「うん。よくできた」

 にっこり笑って、弟の頭を撫でてやる。

「僕も、もう兄上でいるのはやめることにする」

「え? 兄者、それはどういう……」

「差配を任されるくらいに成長したのだから、もう僕はできた兄上でなくていいだろう? これからは地金は隠さないから、よろしくね、五郎」

「は、はあ……」

「まずは、お茶かな。お茶菓子は羊羹がいいな」

「は?」

「お茶だよ。煎れてきて。羊羹も忘れるなよ。それから仕立て屋と細工職人を呼んで。男物を多めに持って来させておくれ。おまえは僕の気に入りそうなものをいくつか先に選んでおくこと。いいね」

「あ、あの……あにう……兄者?」

 矢継ぎ早の注文に五郎はぽかんとしている。その弟を北野は唇を尖らせてにらんだ。

「何してるんだよ。早く」

「は、はい……あっ、いや、……す、すぐにしよう」

「頼んだよ」

 今ひとつ解せぬという顔で首をひねりながらも急いで出ていく弟にひらひらと手を振った。



 五郎が使用人になにか指示を出しているのが見える。

 あの日に作ってやった服は、さすがにもう古びて出番はなくなってしまったが、五郎はそれからもずっと、胴回りのゆるみや裾の長さなどは時勢に応じて多少変えてはいるが北野の仕立ててやった服と同じ型の服を作り、北野が選んでやった襟章を必ず襟元につけて見世の裏に入る。もう、それが北野の見立てだと知っているのは弟のほかには大嗣と狗だけだ。

 浮舟は年をとったと廃業して永咲館を去った。今日は昨夜の礼だろう、夕雲雀が丁重な目礼を送ってきたが、見世で北野と雑談をしようなどと考えるような娼妓はもういない。腹の中が真っ黒な、ぬめぬめした妖怪が何かをさぐろうとねっとりすり寄ってくるぐらいだ。

(あいつの気がするんだよな……)

 客とふざけ合いながら、視界のすみで自分の客と何やら囁き合っている黒髪を見る。

 使用人全員に聞いてみたが、五日ほど前に掃除をした時にはあったと言った使用人がいた、その者も翌日以後は北野の部屋には入っていないからその後はわからないらしい、その一方北野の部屋に誰かが入っていくのを見た者はいなかった、と五郎が報告してきた。

 まあ、盗っ人は人の目につくようなことはするまいから、見た者がいないのは仕方がない。

(僕には何を仕掛けてもいいけれど。五郎は、巻き込むなよ)

 抱き寄せられるまま客の肩に頭を寄せて、北野は言葉には出さずに呟いた。


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