6 現(うつつ)


「あ、うわ」

 てん、てん、とよく跳ねる鞠が右にも左にも飛んできて、雛瑠璃はしりもちをつく。

「あっ」

 後ろへそれた鞠が一つ、ひときわ高く跳ねて、窓から飛び出してしまった。

「あははは。何をしているんだよ、へただなあ」

 ころころと北野が笑う。その笑い声は無邪気で、どこにも意地の悪さはない。雛瑠璃が鞠の動きに翻弄されて右往左往するのを、ただおもしろがっているのだ。たまに、北野はこうしたひどく幼いところを見せる。

「いや、それは雛瑠璃に気の毒であろう。今のは俺でも全部とりきれるか難しいぞ」

「あれ? そうだった?」

 五郎の弁護に、北野はきょとんと首を傾げた。

「ごめんね、雛瑠璃」

「いいえ。拾ってきます」

「うん、お願い」

 主人がにっこりしたので雛瑠璃はかるく頭を下げ、北野の部屋を出た。

 今のは偶然だったが、はじめて主人の張り見世に供をした次の日から北野はたまに、窓からものを投げて雛瑠璃にとってくるようにと命じる。階下へ行く用も言いつけられるようになった。顔のわかるようになった使用人が何人かでき、階ののぼりおりにもずいぶん慣れた。もう部屋の外へ出しても大丈夫だし、余人に姿を見られても恥ずかしくないと判断されたのだと思うと少し誇らしい。

 正面の入り口から出入りをするようなことは、もうしない。知らなかったとはいえ、はじめてここへ来た日、よくも正面から入った上で大兄か大嗣にと取り次ぎを頼もうなどと思っていたものだ。

 大嗣と大兄には、あのあと一度だけお会いした。見世にいて、たまたままだ主人の客が登楼ってくるまえに大嗣がお出ましになって北野と言葉を交わした時に、声をかけていただいた。北野にはお客様でもないのに大嗣に声をかけてもらえるなんておまえは果報者だねと頭を撫でられ、あとで五郎にも俺は誇らしかったぞ、と肩を叩かれて、誇らしさに胸が熱くなった。

 それほど雲の上のかたが、あの日よく自分のぶしつけな訴えを拾ってくださったものだ、とあらためて震える思いがするし、一方で拾ってくださった大嗣への感謝は尽きない。

 少しだけ気になるのは、最近お見かけする大嗣が少し窶れて見えるように思えることだ。お仕事が多くてお疲れなのだろうか。季節の変わり目が近いからお体にさわっていたりするのではないだろうか。雛瑠璃ごときが心配申し上げるのでさえ不遜かと思って北野にももちろん、五郎にさえ言えずにいるが。

 たとえば、子供の肝は精がつくというけれど、自分ではすこしとしがいってしまっているかもしれないけれど、召し上がって少しでも大嗣がお元気になるなら……とか。

 大嗣も、もちろん大兄も、きっと人の肝など召し上がったりはしないしそれこそ失礼の極みとわかってはいるが。

 雛瑠璃に差し出せるのは己の身のほかにないから、どうしてもそう考えてしまう。

「ええ、と……」

 裏手へ出て、館を振り仰ぐ。北野の部屋の窓を見つけ、北野のいた位置と窓の向きから鞠が落ちたはずの方向に見当をつける。少し灌木が植わっている場所もあるが、永咲館の庭には下生えは少ない。ものがひっかかるような枝の木はないから、むしろ見当たらなければ灌木の中を探せばいいとわかる。

 目に見えるところに、鞠の鮮やかな刺繍は見えなかった。

 ただ今回は、鞠の跳ねたと思われる方角に翁桜があった。巨大な古木は太い根がからみあっていて、鞠が隙間にはさまっていることがある。

 探してみようと小走りに寄っていって、はっと雛瑠璃は動きをとめた。

 翁桜の幹に手をかけて、大兄が立っていた。

 枝の落とす影と幹じたいの陰影に、黒っぽい衣服が溶け込んで遠目には見分けられなかったのだ。

 古木に向かい合うように立って幹に手を当て、いくらか顔を伏せているのは、なにか考え事だろうか。何かを祈っているようにも見える。

 いずれにしても雛瑠璃が邪魔をしてはいけないだろう。ほかの場所を先に探して、なければここを最後に探そう、と一歩下がろうとした時。

 何かを踏んでかさりと小さな音がした。

 大兄がこちらを振り向いた。

「っ……」

 その赤い瞳に見られた瞬間、体が動かなくなった。

 視線がそらせない。

 少しでも動いたらきっと。

 食われる。

 それは理屈ではなく直感だった。圧倒的な強者の前に引き出された弱い生き物の、本能的な絶望。

 体が細かく震えはじめた。

 喉がからからだ。

 ずっとこのままではいられない。

 たぶん、身動きしてしまう。

 そうしたら、おしまいだ――。

 大嗣や大兄がそうしたいと言われるなら食われてもいいと、そう思ったばかりだというのに。

 いざ食われるかもしれないと思ったら、こんなにも怖い。

 おそろしくて、おそろしくて、気が狂いそうだ。

「雛瑠璃」

 なすすべもなく震えていると、五郎の声が聞こえた。

「どうだ、見つかった――おい、雛瑠璃っ! どうした!」

 のんびり近づいてきた声がふいに険しくなった。だっと大きな影が駆け寄ってきてその背中で雛瑠璃をかばう。

「あ……」

 そうしてから、五郎はそこにいる人物に気づいたようだった。

「大、兄……?」

 ゆらりと、大兄の視線が五郎に向いた。

 そこにはもう、さっき目が合った瞬間に感じた恐怖をもたらしたものは宿ってはいなかった。だが、いつも無表情な人ではあるけれど、その表情にはいつに増して底知れないものがあるように思えて背に寒いものがはしる。

「……申し訳ありません、大兄。これが、何か粗相を致しましたか。兄が投げた鞠を拾いに寄越したのですが」

 ふ、と大兄の視線が逸れた。長身をかがめて、足元から何かを取る。それを五郎へ投げた。

「っと……」

 胸元で五郎が受け止めたのは、まさに雛瑠璃が探しにきた鞠だった。

「そこにございましたか。ありがとうございます」

 笑みを浮かべた五郎を無視して大兄はふいと彼らに背を向ける。そのまま翁桜の向こうへ歩いていってしまった。

 大兄の姿が見えなくなって、ようやく雛瑠璃は詰めていた息を吐き出した。

「どうした。ふいに大兄に出会って驚いたか」

 五郎が笑って彼の頭に手を置いた。もう片手の鞠を差し出してくる。

「さ、北野様が待ちくたびれてしまわれる。戻るぞ」

「はい」

 鞠を両手で受け取って、雛瑠璃は頷いた。

 さっきの、おそろしかったことは言うまいと思った。

 大兄をさして食われると思った、など。

 決して言ってはいけないことだ。


 弟に話があるから外しているように言うと雛瑠璃は素直にはいと頷いて立ち上がり、部屋を出ていった。

「よい気性の子供だな、あれは」

 見送った五郎がうすく笑う。そりゃそうさ、僕のものだもの、と自慢して、北野は椅子から身を折って床に跪座する弟の顔を覗き込む。

「な、……なんだ? どうした兄者」

ふいに近くなった顔に五郎が目を見開く。その目を、北野は真顔で見据えた。

「それは僕のせりふ。どうしたの」

「え……」

「僕に隠し事ができると思うなよ、弟の分際で」

「てっ」

 指で額を弾くと五郎は情けのない声をあげて額に手を当てる。

「言いな。さっき何かあっただろう」

 睨むと弟は深いため息をついた。視線をそらす。

「……俺は、そんなにわかりやすいだろうか」

「生意気。僕はおまえのことならなんだってわかるんだよ」

 ふふんと見下してやる。五郎はもうひとつため息を落とした。

 今度のため息は苦々しく重いものだった。ちらりと、北野を見る。

 ひどく切ない目だった。

「……俺はな、兄者。巷間の噂は、あるいはこの館の誰よりも知っておるかもしれん。だがそれらが噂に過ぎず信じるに値しないということも、誰よりもわかっておるつもりでおった」

「うん」

「だが……先刻。俺は」

 五郎は虚空のどこかを睨みつけた。

「雛瑠璃が、……獣に襲われている、と思った。狼か、……あるいは犬、に」

 膝に乗せた手がきつく握られ、かすかに震えていた。

「雛瑠璃が危ない、と思って間を割って飛び込んだ。いざとなったら俺が盾になってでも雛瑠璃を逃がさねば、とまで思ったというのに。そこにいらしたのは大兄であったのだ」

「……ばかだね」

 手を伸ばして、北野は弟の頭を撫でてやった。

「そういう時は雛瑠璃を抱えて逃げるんだよ」

「兄者――」

「あれは狗だ」

 訴えたいことはそれではないと顔を上げた弟の瞳を間近から射竦めて、言葉を奪う。

「もちろん詮索好きの無知な下民があれこれ面白おかしく吹聴する噂は噂でしかないけれど。それでもね、五郎。あれは狗なんだよ。人の形をしているけれど、獣だ」

「あ、にじゃ……何を」

「おまえに真実を教えてる」

 五郎の赤茶の瞳が大きく見開かれた。

「あれは獣だよ、五郎。理性があり知能があり人の言葉も理解する。けれど、あれは大嗣の狗だ。人ではなく獣だ。大嗣が命じれば、たとえ僕にであってもその牙を剥く。あれはそのためにいる」

 五郎の唇がかすかに震える。

「きっと気が立っていたんだろう。このところ大嗣があまり調子がよくないからね、あれも神経を尖らせている。悪いところに行き合ってしまっただけだ。でも」

 こつんと、額を五郎の額に触れさせる。

「これから、とてもひどいことを言うから心して聞くように」

「……」

 五郎の喉仏が上下する。こわばった表情が、だが引き締められて頷いた。

「次は、襲われるまえに逃げろ。おまえが組み合ってどうにかできる相手じゃない。だめだと思ったら、雛瑠璃を投げ与えて、おまえは逃げるんだ」

「ッ――」

 ぅぐ、と喉の奥で五郎は濁った音をたてた。だが唇を強く結び頬を震わせて、その声を喉の奥へ押し戻す。

「そんなことになってほしくないとは思うけれどね」

 すこし瞳を和らげて、北野は弟に微笑みかける。

「でも、約束して。おまえは自分と雛瑠璃を天秤にかけてはいけない。ぜったいに、残るのはおまえでなくてはいけない。必ず、雛瑠璃を捨てろ。その時は、僕もおまえと一緒に三日三晩泣いてあげるから」

「……兄者は」

 ゆっくりと、五郎が口を開いた。声を揺らしてしまわないようにしているのだろう。慎重に言葉を押し出す。

「俺の知らぬことをたくさん知っておるのだな」

「兄だからね」

「俺にも、もっと教えてほしい。兄者の知っている俺の知らぬ真実を」

 北野は笑みを深める。弟の背へ腕を回して、その肩に頭を押しつけた。

「そう言うのがわかっているから、黙っているんだよ」

「知っておる。だがよい加減俺もそれなりに育った。少しは兄者の背負っておるものを肩代わりできるようになっていると思うぞ」

「……そのうちにね」

「早めにだ」

「欲張りなやつだな。一つやったらもう三つも四つもよこせと言い出す」

「それは、俺が兄者を慕っておるゆえだ」

「あ、そういう殺し文句をつるっと言うようになったのか。生意気なやつだ」

 弟の背に回した腕に力をこめる。ためらいがちにではあったが、五郎が北野の背を抱き返してきた。

 今までは途中まで腕をあげて、迷った末にそのまま腕を戻してしまっていたのに。

「……もし」

 背を抱く手から伝わってくる熱がどこかを溶かして、ぽつりとひとしずく、言葉がこぼれた。

「もし僕を慕うと言うなら、僕を疑わないで」

「……わかった」

「僕が大切なのは、世界でたったひとつ、おまえだけだから」

「うむ」

 信じる。決して疑わぬ、と耳元に響いた声が染み込んで、溶けた場所を堅牢なものでぴったりとふさいだ。



「仔犬」

 長椅子で客と体を寄せて小声で睦言を交わしていた北野が振り返って雛瑠璃を手招きしたのは、翁桜の根方で大兄と遭遇して肝を冷やしたその夜のことだった。

 少年は一瞬怪訝そうな顔をしたが、五郎も内心でおやと呟いた。

 北野が少年を仔犬と呼ぶのはいつものことだ。兄は余人の耳のあるところでは己のつけた名では少年を呼ばない。だが、客と過ごしている足元へ呼ぶことも、今までにはなかったことだった。少なくとも五郎が子供と共に介添えに侍っていた時には。

 雛瑠璃もやはり初めてのことだったのだろう。戸惑った様子だったが北野の顔を見て確認を取る。北野が頷いたので遠慮がちに立ち上がった。長椅子の傍に寄って改めて膝をつく。

「背伸びして」

 北野はそう言って自分の腿を指でかるくたたく。そこに手をかけて伸び上がれということか。まだ怪訝そうにしてはいたが、雛瑠璃はそれにも従順に従う。形だけ北野の腿に手をかけて伸び上がった。そのあごを下から指先で押し上げて、北野は少年に顔を上げさせる。

(……っ?)

 危うく身動きをしてしまうところだった。

 兄が手にしていた杯から酒をひと口含み、雛瑠璃の唇に唇を重ねたのだ。

 口づけされた雛瑠璃のほうは逆に全身を硬直させていた。驚きに半開きになった唇を北野が己の舌でこじ開けて深く雛瑠璃の唇を犯す。

 腹に力を入れて、その淫靡な光景からゆっくりと視線を外した。見ていても見てはいない。介添に侍る者は、そうでなくてはならぬ。

「あるじがね、座興を見たいんだって」

 唇を離して、だがまだ間近から北野は自失している子供に甘く囁く。

「だから、いい子にしているんだよ」

 頬を撫でた北野の手がさがって少年の肩をつかむ。首筋を甘く噛まれて仔犬はひっというようなかすかな声をこぼした。


 手の中で弄んでいたショットグラスにいくらか残っていた濃い赤の酒を、喉をそらして飲み干した。グラスを卓へ戻して、明紫は肩越しに咬を振り返る。おりてきた視線にうすく笑いかけた。手を差し出すと咬がその手を下からとる。それに体重をかけて、身を沈めていた椅子から立ち上がった。

「戻ろか」

 北野をはじめ、客のついた娼妓たちはすでに半ば以上部屋へ引き上げている。まだ敵娼を決めていない客もほとんどおらず、ちらちらと明紫のほうを窺い声をかける機会を見計らう視線ももうない。引き上げてもいい頃合いだ。

 歩き出すと、いつものように咬が無言であとについてくる。

 まだ席にいる客たちにどうぞごゆっくり、と声をかけながらサロンを横切って主階段をのぼっていく。

 三階へ上がると、西翼へ向かう廊下に五郎が膝をついていた。

 奥からはごく細く、聞こえるか聞こえないかの、だが北野のものではない艶声が聞こえてきていた。

 気配に気づいたのかちらと顔を上げた五郎が丁重に目礼する。やるせない目をしていた。それへ小さく頷きかけて、明紫は自分の部屋のほうへ向かう。部屋に入り、露台へ通じる硝子戸を大きく開いた。

 いくらか、風が出ていた。さあ、と桜の花びらが夜を横切っていく。

「咬」

 手を延べると、戸口で立ち止まっていた咬がちらと視線をよこす。

「おいで」

 重ねて呼ぶと、床を一歩ずつ踏み締めるようにして咬が近づいてくる。最後に一歩を残して動きを止めた。

 わずかにそらされた視線に宿る、苦い色。

 剥き出しの左腕に手をかけるとぴくりと咬が体を震わせた。

「阿呆やな」

 苦く、明紫も顔を歪めた。

「こんななるまでなんも言わんで」

 触れた指先の下。褐色の肌に巻きつく龍にはほとんど力が残っていなかった。これでは、ただの刺青だ。

 言わせなかったのは自分だ。気づいてもやれなかった。咬が隠していたのが悪いのではない。獣は訴えぬ。不調を見抜くのは主人の義務だ。

「ごめんな」

 膝を折って、咬のその腕に唇を寄せる。ぴく、と咬の指先が動いた。

 彫り物に口づけ、片手を咬の手に絡めて、龍の体に舌を這わせていくと咬の体に力が入る。

 丁寧に、龍をくすませている穢れを清め、こそげ落としていく。

「っ……」

「あかんよ」

 明紫を押しのけようともう一方の手が肩に乗ったのにかぶりを振る。

「つかまるんやったら、ええけどな」

 わずかに、咬が口の端を曲げた。手が肩から離れる。

「咬の拗ねた顔見るのも久しぶりや」

 低く笑って、明紫は仕事に戻る。

 舌を動かすにつれて咬の腕の龍に生気が満ちていく。やがてすっかり穢れは拭い去られ、黒々と輝くばかりの艶を帯びる輪郭に明紫は瞳を細め、そこに頬を押しつける。

「……もういい」

「まだあかん」

 体を引こうとするのを、つないだ手と、もう一方の腕を咬の腰の後ろへ回して引き戻した。

「こっちが残っとる」

 引き寄せた咬の腰に頬を寄せる。咬が顔をしかめた。

「それはいい」

「ようない」

 下からかるく唇を尖らせて睨むと咬はわずかにひるんで目をそらす。

「ええやん。たまにしかでけんのや。……さして」

 な、と見上げると咬は顔をそむけた。

「……好きにしろ」

 吐き出すように言った咬に微笑んで、目の前のベルトに手をかけた。

 前を開くとそこには猛り立って脈を打つ熱のかたまりがある。ためらわず引き出して、己の唇に含んだ。咬の体に力がこもる。

 小刻みに頭を前後させ、喉奥へ呑み込んでいく。唾液と舌を絡め、吸い上げ、すする。咬は喉の奥でかすかに呻き、息を詰めた。

 大父が守護の手を緩める間、街の守護は明紫が補う。だが明紫は自分の力を思うようには扱えない。大父ほど強固に街を守護することはできず、澱が生じやすくなる。

 澱が寄り集まればそれは闇になりやがて魔に育つ。それは人にも、街にも、災いしかもたらさない。

 咬は闇や澱を嗅ぎ分けることができた。見つけ出し、こそげとって、潰し、消滅させる。だがそれは獰猛な獣が己よりも弱い獣を殺すようなものだ。もともと性質が近い咬は、澱や闇を狩るうちに、触れた場所からわずかずつそれを取り込んでしまう。

 それは咬の内側へ降り積もり咬の存在をじりじりと闇へ沈めていく。

 咬の中に蓄積された闇は、やがて咬の中に欲望を育てる。犯したい、という欲を。

 明紫を襲い犯してしまわぬために、咬は己の力を使って己れを押さえ込む。それも限界となった時にはじめて明紫を頼るのだ。

 明紫は、咬が取り込んでしまった闇を梳き取って浄化してやることができた。闇を抑え込んで疲弊した龍の力も、清めて高めてやれる。

 だが、清めるだけでは一度湧いた欲望はおさまらない。それはそれこそ永咲館なりほかの妓楼なりの娼妓ではだめで、相手は明紫でなくてはならないのだ。

 かなりの時間をかければ自然に収まっていくようだが、それまで耐え続けなくてはならないのが哀れで、明紫はいつもそれを自分の唇で慰めてやっていた。体を繋ぐことだけは断じて咬が受け入れないからだ。

 明紫を穢すといって、咬はこの行為をいやがる。闇に煽られた欲望を明紫に吐きかけるのはいやだというのだ。だから己を保っておけるぎりぎりまで明かさずに耐える。

 まして今、明紫はいささか弱っている。大父に貪られてから日をおかずに守護に力を吸い取られ、回復が追いつかない。だから、咬はいつも以上に隠して、堪えていた。北野が清めた仔犬を一瞬にせよ明紫と錯誤して襲いかかりそうになったほどに。その瞬間に咬の放った凄まじい殺気のおかげで気づけたが、そこまでさぞつらい思いをさせていただろうと思うと苦しくてならない。

 咬はいやがるが、明紫はこの行為がむしろ好きだった。常であれば明紫のためにしか動かない咬が、己の衝動に突き動かされて明紫を求める。それが嬉しい。

 穢れに当て、身を損なわせてばかりいる。それが咬の望みでもあるとわかってもいるが、それでもそれを当然の権利と享受し何も感じずにいることはできない。

 咬から搾取するばかりの明紫が、唯一、咬に何かを与えられるのがこの時なのだ。

 明紫あっての己だと咬は言うが、咬と明紫ではそこは言い分が違う。咬あってこそ、明紫は正気を保ってこの世にしがみついていられる。そのために咬をこんな存在に貶めてしまったのも自分だ。咬に穢されることなどなんでもない。いや――大父に組み敷かれるよりもよほど、それは明紫を悦びに満たして震わせる。

「っ……」

 頭上で、熱のこもった吐息がこぼれる。大きな、熱い手が明紫の髪を乱暴にかき回し、そして頭をつかんで己へと押しつけた。

 陶然と笑み、明紫はその力に逆らわず、いっそう深く、咬の熱をのみこんでいった。



 まだ、夢を見ているようだった。いや、夢ではない。あの晩だけでなく、あれからも何度も、朝にも、昼にも、夕暮れにも、客が興を示せば夜にも、北野は雛瑠璃を抱いた。今も、昨夜受け止めた熱い熱の名残りが腰の奥にわだかまって、甘くとろけるような疼きを脈打たせている。磨いている鏡に写る己の顔も、まだほんのり上気して目も潤んでいるように思えた。唇は、昨夜散々吸われたから少し腫れぼったく、いつもよりも赤みが強くて、少し恥ずかしい。

 だからこれは夢ではないのだけれど――やはり、夢ではないのか、と思わずにはいられなかった。

「雛瑠璃」

「はい」

 北野に呼ばれて顔をあげる。客が帰ったあとで湯を使ってからまだあまり経っていないのに、北野はもう湯上がりに好んで着る袖の短い部屋着からふつうの服に着替えていた。

「一緒においで」

「はい」

 この時間、五郎は階下で使用人たちの指図をしている。鏡を丁寧にもとの位置に戻して立ち上がり、北野に従って部屋を出た。

(え……?)

 庭にでも出るお供かと思ったのに、北野は主階段の前を素通りした。その先へは、雛瑠璃は一度も足を踏み入れたことがない。そこは、雛瑠璃ごときが近くに寄るのも畏れ多い貴人のお部屋だ。

 気後れに足の鈍りがちになる雛瑠璃をよそに北野は慣れた足取りで廊下を抜けていき、かなり奥の部屋の戸を軽やかにたたくなりドアを開けた。

「大嗣。いる?」

 以前の雛瑠璃であれば、わあとか何か大きな声を出してしまっていただろう。その扉は、きっと、そんなふうに気軽に開けてよい扉ではない――。

 雛瑠璃を飼うようになったあと、ついてこなくていいと言われて北野が部屋をあけることはたまにあった。戻ってきた時に五郎が従っていることがあって、だいたいそうした時には五郎はなんともいえない表情をして、あのだな、とか、兄者……、とか、いわく言い難い顔で曖昧に何かを言おうとして口を閉ざす。

 あれは、こうした場面に行き合ったりしたからではないのだろうか、と、神妙な表情を懸命に取り繕いながら考える。サロンで何も見えない聞こえる音は理解できないふりをしていたおかげで、部屋の入り口につくまでにはそれは成功した、……と思う。

「何をしているんだよ。早くおいで」

 戸口で控えると、とっくに部屋の中にいた主人は呆れた顔で振り返って大きく手で雛瑠璃を招く。だが、いくら北野に来いと呼ばれたとしても、明らかに貴い人のいる部屋に足を踏み入れていいのか――。

「ええよ、入っといで」

 その時、雛瑠璃の葛藤をまるで読み取ったように笑い含みの柔らかな声がして、雛瑠璃はようやく動くことができた。顔を伏せ、足音を忍ばせて主人の背後へ追いつく。

「僕がいいって言ったんだからいいのに」

「そうもいかんやろ」

 部屋の主は前にある椅子に腰を下ろしているようだった。膝をつこうとしたその時、北野の手が後ろへ向かって伸ばされ、慌てる雛瑠璃を自分の前へ引き出す。

「立ったままでおいで」

 耳元で小さく命令されて、はっとして表情を引き締めた。ならばきちんと立たなくては。背を伸ばすと背後から両肩に北野の手が乗った。

「どうかな、大嗣」

 耳の後ろから前へ向かって声がかけられる。

「なかなかの仕上がりだと思わないかい?」

「ああ……ほんまやね」

 部屋の主人の声がほのかに微笑んだ。

「さすがはお姫さんや。見事やな」

「ふふ。そうだろう? すこし時間がかかってしまったのは謝るけれど、待たせただけのことはあると思っているんだよ」

「うん。まったくや。――咬」

 大嗣の視線を受けて大兄が部屋の奥のほうへ向かう。交わされている言葉の意味は、雛瑠璃にはよく分からない。だが貴人たちの言葉は理解できる必要のないものだと、雛瑠璃は知っている。耳はそばだてず、ただ神妙に立っていた。

「ん。おおきに」

 大兄が何かを手に大嗣のもとへ戻る。見上げた大嗣が満足げに頷いて手を差し出した。空いているほうの手で大兄がその手を取って大嗣が立ち上がるのを助ける。そして持ってきたものを手渡した。

 大兄から受け取ったものを手に大嗣が近づいて来る。

 なんて美しい人だろう、と雛瑠璃はうっとりする心地でその姿を見つめる。

 北野もこの上なく美しい人だと思う。けれど大嗣の美しさもまた際立っている。昼と夜の一対だ、と思った。北野は夜の見世にあっても太陽のようにまばゆいけれど、大嗣は明るい昼の部屋にこうして立っていても夜を切り取ったように艶かしい。

 小さく、大嗣が首をかしげた。

「名前、なんやったかな」

 とくん、と心臓が跳ね上がった。

 大嗣が、自分の名前を尋ねている――。

 肩に乗った北野の手にかるく力が入った。

「お尋ねだよ。いいよ、お返事をして」

 耳元で北野が言う。ちらりと振り返ると励ますように微笑して頷いたので、こくりと頷いてあらためて館の美しい主人を見上げた。

「雛瑠璃と、北野様につけていただきました」

「そう。雛瑠璃。かあいらしい名前や」

「ありがとうございます……」

 褒められたのが嬉しくて、はにかみながら笑った。大嗣の笑みが深くなる。

 すべてはあの日、大嗣が拾ってくれたからだ。そう言おうかと思ったけれど、喋りすぎになるだろうと思ってやめた。

 大嗣の指が雛瑠璃の頬をなぞる。背が妖しくざわめいて息を飲んで見つめていると、その指先があごまでおりてきて、くいと雛瑠璃に顔を上げさせる。

 大兄から渡された、小さなグラスに入っていたものを大嗣が含む。

 まさか、と思いながら、雛瑠璃は次に起こることを理解していた。大嗣の緑の瞳に視線をつかまれて、身動きができない。いや、そうでなかったとしても雛瑠璃は決して身動きはしなかっただろう。

 大嗣の顔が近づいてきて、そしてその唇が自分のそれに重なり、幾度も北野にされたように甘くそしてくらりとする芳香を纏わせた飲み物が注ぎ込まれてくる。

 間近から微笑みかけてくる翠の瞳をうっとりと見つめながら、雛瑠璃は与えられた飲み物を飲み下した。

 頭の芯が痺れて、世界が歪んで、ぼやけた。


 そのあとのことは、よく覚えていない。頭からうすぎぬをかぶされて、誰かに手を引かれてどこかを歩いた。階段を下へ下へ、ずっと下へと下ったような気もしたけれど、それは三階から地下へ下りるよりもずっと遠くて、そんなはずはないからきっと自分の思い違いなのだろう。

 どのくらい時が経ったのか。ぼやけていた意識が、わずかに覚醒する。だがまだ頭は痺れて重く、思考はひどくのろくしか動かなかった。

 すこし、冷えている気がした。

 空気の温度が低いのかもしれない。そして、なんだかじっとりと湿っている気がする。遠くで、ごお、と何か響く音がしているような気がした。

 定まらない視線でぼんやりと、のろのろと、周囲を見回す。

 知らない部屋だった。広くて、弱い灯りが少し離れたところに灯っていたけれど明るくはなく、隅々までは光が届いていない。

 その部屋の中央に、かつて両親と妹と暮らしていたあばら屋よりも広いのではないかと思うほど広い寝台があって、雛瑠璃はその上に、うすぎぬをかぶされたまま座り込んでいた。よく周囲が見えないのはこの布のせいもあるのかもしれない。だが、布を取ろうと思うほど、周囲をよく見たいという気持ちもなかった。

 全身が重くて、だるい。体の奥には、奇妙な熱がたまっている。

 それは、幾度も繰り返し北野に与えられた甘く狂おしい感覚とよく似たものだった。それに気づいたらなんだかたまらないような心地になって、雛瑠璃は吐息をこぼしていた。自分の吐いた息の熱さ、甘ったるさにさらに四肢が震えて熱を帯びる。

 ずるり……と、何かを引きずるような、湿った音がした。

 部屋の奥から、何か――誰かが、こちらへやってくる。

 次の間があったのか、あるいはそこが出口で、入ってきたのかもしれない。

 なんとなく、理解したように思った。

 自分は売られたのではないだろうか。

 北野は雛瑠璃には客はとらせないと言っていたが、それが変わったのかもしれない。

 だが、それならそれでいいと思った。雛瑠璃はあまりにもよくしてもらっている。もとより、最初に大嗣になんでもする、何をされてもいいと誓った。客をとってなにがしかの恩返しになるのなら喜んで客の枕席に侍ろうと、鈍い頭でぼんやり思った。じょうずに、それこそ北野のように客を悦ばせることはできないかもしれないけれど、せいいっぱい、お仕えしよう、と。

 息づかいが聞こえてきた。ふう、ふうう、と、重く、湿った、濁った音。灯りが揺れて、大きな影がちらついた。きっと、すごく肥った、そしておそらくは、醜い人なのではなかろうか。だから部屋がこんなに暗いのだ。

 だがそれが大嗣と――あの場に大嗣がいたということは大嗣も知っていることだ――北野が決めたことなら、否やはない。

 ぎし、と寝台が大きく揺れた。まだはっきりしない視界が、影に覆われる。

 肩をつかまれ、仰向けに押し倒された。かぶされた布がそのまま顔を覆う。

 服を脱がなくてよかったのだろうか。そう頭の片隅で思った時、まとっていた柔らかな布地は紙か何かのようにぴりぴりと引き裂かれて、一瞬だけ、あ、と思った。今日は朝、あれがいいと北野に言われて最初の日にもらった、北野がかつて着ていたという瑠璃色の服を雛瑠璃の体格に直したものを着ていたのだ。破けてしまってはもう着られない。最初に北野にもらったものだったから少しだけ悲しいと思った。

 胸板が外気にさらされた。ぽたりと、なにか水気のあるものが落ちてくる。唾液かもしれない。

 どこか生臭い――水の減った沼地の、腐りかけた藻のような匂いがした。

「っ、ぁ」

 ぺたりと、何かが胸板をなぞった。ずじゅ、と濡れた音がして、舐められたのだとわかった。

 だが、その瞬間に全身をはしった甘い戦慄は。

「ぁ、ふっ……ん、ぁっ、あ……っ」

 ぺちゃぺちゃと水音をたてて胸板を舐め上げられ、米粒のように小さな乳首をちゅるちゅると吸い上げられる。背が震え、全身がわなないて、媚ではなく勝手に喉から声がこぼれた。

「んひ、っ……ぁ、あっ、あぁ……っ」

 力なく投げ出された腕のつけ根に何かがもぐりこんできて腋窩を水音とともに舐め回される。ぞわぞわと全身を快楽がうねって、嗚咽のような引き攣れた声が次々とあふれた。こぼした声のぶん息を吸い込もうと喘ぐと薄布が口をふさいで、足りない空気に頭がぐるぐると回る。

 雛瑠璃の上体をたっぷりとねぶり、濡れた感触は腹へとうつる。下衣も易々と引き裂かれて引き抜かれ、雛瑠璃はわずかに上衣の切れ端を背中の下に敷いただけで全裸にされた。

 濡れた舌はなおも雛瑠璃を嬲る。腰のくびれをしばらく執拗にねぶって、そして腰骨のあたりを強く吸い上げる。腰が勝手に跳ねて、揺れる感覚に自分の性器が腹を向いてそそり立っていることに気づいた。

 ああ――そこを。早く、そこを――いたぶって、ほしい。

 ままならない呼吸に苦悶し絶え間なく突き上げてくる疼きと快楽と飢えに身悶えて、雛瑠璃は腰を浮かせ、くねらせて、ねだり、誘う。ずちゅっとまるごと咥えられ、強く吸い上げられて、全身が大きく反り返る。慟哭のような嬌声をあげて、雛瑠璃は吐精した。

 ぐったりと寝台に体を落とす。あまりの愉悦にまだ全身はひくひくと震え、もとより半ば靄に沈んでいた意識はほぼ消えていた。

 おぼろな、わずかな意識の断片で、脚を開かれたことを知覚する。大きく持ち上げられ、その奥の窄まりを吸われ、うごめく肉片が襞を押し開き体の中へもぐりこんでくる。

 腰がはじけるほどの快楽がそこから生まれ、あっという間に二度めの吐精を内側から押し出されて、雛瑠璃は絶叫した。腰を持ち上げられ半ば逆さに吊るされた上体が跳ね、のた打つ。まだからんでいた薄布がついに大きく揺れて、顔から落ちた。

「は、っ、はぁっ、は……か、はっ……」

 吸い込む空気を遮るものはなくなったが、あまりに続けざまに与えられる快楽の強烈さに体が自由にならない。喉は締まって痙攣し目は半ば裏返って視界が濁る。

 ず、とさらに脚を持ち上げられた。膝裏を握られ、体が二つ折りにされる。

 もとから弱い灯りが、顔に落ちてきた影にさらに遮られる。

 ああ、入れられるんだ、と、ぼんやり理解した。

 ねっとりと濡れたものが窄まりに押しつけられる。

「ぅ、ぐ……」

 大きい。

 先ほどまで舌でねぶられて拡げられ、まったく身動きもならないほど脱力していてなお、それは大きくて、限界まで押し広げられた肉襞がみしみしと軋む。

「はっ、ぁ……く、っ……」

 ぴりり、と、どこかが切れたのか鋭い痛みがして、わずかに意識の靄がうすくなった。

「ひ……――ッ」

 何の加減なのか、揺れた灯りが、雛瑠璃を組み敷く存在を照らした。

 雛瑠璃は――見てしまった。

 それを。

「……ぎゃあああああああああーーーーっっ!」

 絶叫が響き渡ったのと、雛瑠璃の肉が大きく裂けたのは、ほぼ同時だった。



 少年は、かろうじて頭が半分ほど食い残されていた。中の柔らかい脳をすすりきって、残りの硬い殻には興味がなくなったのだろう。残った側の耳に、瑠璃の耳飾りが涼しげに澄んだ色をきらめかせていた。

 驚愕と恐怖と絶望に歪んだ顔を半分以上残したそれを、北野がゆっくりと拾い上げる。片方残っていた見開かれた瞳を、瞼を引き下ろして閉じてやった。

 それをちらりと見て、明紫は奥まった暗がりへ視線を向けた。

「いかがでしたやろ」

「うむ」

 がらがらと、あぶくの向こうから響くような濁った声が頷いた。

「美味であった」

「それは――ようおした」

 目を伏せて、明紫はかるく膝を折る。

「ほな、これで。失礼しますわ――お父はん」

 背を向けて、部屋を出る。首の残骸を片手に持って北野が続き、岩室を出ると扉の外にいた咬が背後で扉を閉めた。

 長い隧道を、肩を並べて進む。行き詰まりには長い階段があり、そこをゆっくりと、だが歩速を変えずに上がっていく。

 上がりきった先、扉の前で足を止めると咬が一歩前へ出て扉を開けた。

 そこは、永咲館の三階だった。

 夜は終わりを迎えようとしてはいたが、まだ払暁というには早い。そんな時刻になっていた。これは咬が開くのは待たず、明紫は居間の扉を開けて中に入った。肘掛け椅子に腰を下ろす。

「すこし前にね」

 自分は張り出し窓にかるく腰を引っ掛けて、北野が雛瑠璃だったものを手の中で弄びながら言った。

「五郎に言ったことがあるんだ。腹を減らした狗に襲われたら、雛瑠璃を投げ与えておまえは逃げろ、その時は僕が一緒に三日三晩泣いてやるから、って」

 明紫は北野に視線を向けて、小さく頷いた。北野はほんのりと微笑む。弄んでいたものを目の高さに上げ、その半分も残っていない少しだけの唇に短く接吻した。

「でも、今日の僕は、泣かない。雛瑠璃はこのためにあったのだし、自分の役割を十全に果たしたんだからね」

 明紫を見て、北野は唇の両端をあげて、くっきりとした完璧な笑みを作った。手にしていたものを、咬に向けて放る。咬は表情を変えずそれを片手で受け取った。

「頼むね」

 北野の視線に咬は頷き、それを片手に握ったまま硝子戸を開けて露台へ出て行った。身軽に露台の手すりを乗り越えて飛び降りる。翁桜の根元へ、子供の残骸を埋めてくるのだ。

 大父は常には大嗣を寵愛し街を庇護するが、時折、贄を――生きた肉を求める。捧げるのを怠れば街の守護を緩める。街には闇が忍び入り魔が跋扈する。海は荒れ、船が沈み、人は病む。贄を捧げれば大父の守護は再び堅牢なものとなる。

 贄は、大淵の平穏のために必要な人柱だった。

 贄が大嗣の情けを受けた者だと、大父が贄を求める間隔が開くことがわかった。そこで贄を差し出す前に大嗣の伽に侍らせるようにしたが、年に一人か二人といえ、大嗣の側仕えが次々行方をくらませるのは外聞が悪い。そこで淫売を集めて平素は客をとらせることにした。

 もとよりこうした館では逃げたり死んだりと顔ぶれは次々と入れ替わる。苦界に墜ち囲われている者の数の増減など気に留める者はいない。その中から必要に応じて贄を選び、大嗣と床を共にさせたのちに大父に献上するようにした。それが永咲館のはじまりだ。

 だが時が流れるうちに永咲館の格は高くなっていった。自ら望んで永咲館に入る者が増え、去る者もそれなりの形をとって去るようになった。本末が転倒して、ここから贄を出すことはできなくなってしまった。

 結局もとのとおり、大父の求めに応じて市井から身寄りのなく行き詰まった者をひそかに拾い上げ、永咲館に隠し置いて伽をさせ、大父の食事に差し出す。

 それが大嗣の、表立っては知られていない役目だった。

「おおきにな、お姫さん。何から何までぜんぶ、やってもらってしもうた。……咬のことも、助けてくれたんやてな」

「なんの」

 見やると北野は瞳をいたずらっぽくきらめかせる。

「あのくらい、お安いご用だよ」

 ふ、と瞳がまたたいた。

「……大嗣はいつも、ひとりきりであそこにいたんだね」

 静かな声が、囁くように言う。

「僕に言ってくれたら、いつも一緒にいってあげたのに。ううん、大嗣が言うわけがないんだからもっと早く気がついてあげなくちゃいけなかった」

 北野の頬を透明なしずくが流れ落ちていく。

「……泣かへんのやなかったんか」

「いいんだよ、これはあの仔犬のための涙じゃないもの」

 するりと窓から降りて、北野は明紫の傍らまでくると膝をついて明紫の胴に腕を回した。

 腿に乗った北野の頭を明紫はゆっくりと撫でる。

「ごめんね、気がつくのが遅くなってしまって」

「謝ることやないよ。お姫さんがいてくれて、自分はなんぼ助かっとるかわからん」

「またそうやって僕を甘やかす」

 すり、と北野は明紫の腿に頬をこすりつける。

「僕ほど大嗣にひどいことをしているやつはいないっていうのにさ」

「自分はそうは思うてへんよ」

「わかってるよ。だから心が痛むんじゃないか」

 微笑して、明紫はもうひと粒北野の目尻から転げ落ちたしずくを自分の指先で拭ってやった。



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