5 夢


 それは、雛瑠璃が雛瑠璃になる以前におぼろげに想像していたのとは、まったくちがう暮らしだった。

 永咲館が娼館であることは知っていた。娼館が何をするところなのかも。

 そこに身を売るのだから自分も客を取ることになると思っていた。雛瑠璃がかつて暮らしていた界隈では、それこそ握り飯ひとつのために体を売る子供もたくさんいたから、どういうことをするのかも知っていた。

 たまに漏れ聞く話から、暗くてじめじめした部屋に閉じ込められて、入れ代わり立ち代わりやってくる男にいいように慰み者にされるのだろうと、そう思っていた。

 噂では永咲館を取り仕切る大嗣はもう百年も容色が衰えないらしい。それはあちこちから買い集め拐い集めてきた子供の生き血を沸かした風呂に入っているからだとか、その子供らから絞った脂で焼いた肝を食べているからだとか、いや子供を食い生き血をすするのは大嗣の飼っている狗の所業だとか、そんなおそろしい話もたくさん聞いた。だから、自分は客を取るのではなく生き血を抜かれたり食われたりするのかもしれないと覚悟もしていた。

 それなのに。

「ほらごらん、雛瑠璃」

 まるで天女のように美しい人が満面に笑みを浮かべて、手のひらに乗せたものを示す。

 広くて明るくて、いい香りのする部屋で、雛瑠璃は絹で作られたきれいな服を着て、絹張りの、小さな布団を膝の下に敷いて跪いている。

「きれいだろう」

「うわあ……」

 北野のペットという身分になったその日のうちに、職人や商人が何人もやってきた。ある者は雛瑠璃の体のあちこちに糸をあてて寸法を測り、ある者は何反もの布地を次々と広げて北野に披露し、ある者は大切そうに抱えてきた小箱を北野の前に開いて並べ、中に入っていた金銀や石の細工ものを開陳した。

 次の日には雛瑠璃の衣服が何着も何着も届けられた。真っ白な下着、ぴったりとした胴着やふわりとしたシャツ、肩かけや腕を通すだけの上着、ベストやジャケット。足通し、サスペンダーで吊るパンツ、柔らかな綿を底に詰めた沓に、のぞくと顔の映るぴかぴかの革の靴。それらを並べておく場所が納戸の一画に作られ、あまり大きなものではなかったが十分に横たわることのできる、絹の布団まで与えられた。

「すごく、きれいです……」

 それは、濃い藍色をしているのに美しく透き通った石の珠だった。片側に細く短い、銀の針のようなものが埋め込まれている。

 はじめのうちは口は開かないようにしていたが、もらった菓子があまりにも甘くておいしくて思わず声を出したら北野がにっこりした。あとで五郎がそっと、きれいだ、素敵だ、うまい、嬉しい、ありがたいといった言葉は素直に言ってよいのだぞと耳打ちをしてくれたから、そうしたことは言うようにした。

「これが何か、わかるかい?」

 針の部分をつまんで、北野はそれを雛瑠璃の目の前にかざす。わからなかったので首を振った。

「これはね、耳飾りなんだよ」

 ほら、と北野は自分の耳たぶをかるく引っ張ってみせる。そこにはよくよく見ないとわからないがごく小さなへこみがあった。

「耳に針で穴をあけて、この針のところを通すんだ。この金具で裏側からとめると、落とさなくなるんだよ」

「痛く……ないのですか」

「最初だけね、ちくっとするけれど。すぐに傷は治ってしまうからだいじょうぶ。……じゃあ、頼んだよ五郎」

「承知」

 北野のもとへ今の耳飾りの入った箱を届けて、そのまま控えていた五郎が前へ膝を進める。

「こちらを向け、雛瑠璃」

「え……。僕、の耳に……穴をあけるんですか」

 思わず左右の手でそれぞれ耳を隠してしまった。

「五郎はじょうずだよ。ほとんど痛くない。僕の耳も五郎がしたんだ」

 北野がなだめるように言う。

「こわいなら僕が手を握っていてあげる」

「えっ」

 言うなり北野が彼の手をとって自分の手のひらに乗せ、もう片手をその上へ乗せた。驚いて息を呑んだ瞬間、耳にちくっと何かが刺さった。

「あ……」

 目を見開いた時にはあごをつかまれてくいと顔の向きを変えられ、驚く間もなくもう片方の耳にもちくりとした痛みがはしっていた。

「動くなよ」

 短く言った五郎が卓からさっきの青い石をとって彼の耳もとでなにかをする。左、右と同じようにされて、耳にはほんのわずかな疼痛が残った。

「ほら、もう終わった」

 今度は雛瑠璃の顔を自分のほうへ向けさせて、北野が間近からにっこりする。

「うん。いいね。とてもよく似合う」

「ありがとう、ございます……」

 嬉しくなって笑った。

 自分では見えないからよくわからないが、北野が似合うと言うならきっと似合うのだし、自分が見てどう思ったとしても北野が気に入ってくれたのならそれでいい。

 きれいな何着もの服も、頬が落ちそうに美味な食事も、はじめは自分にそんなものなどと恐縮したが、すぐにこれは自分のためではないのだと気がついた。北野が、雛瑠璃にあれこれと服を着せ替えて飾って楽しむために、たくさんの衣服は用意されたのだ。最初の時のように、北野が、自分の、しかも大嗣から譲られた持ちものが、自分の意に染まない姿をしたり、貧しいものを食べているのがいやなのだ。

 そう思うと、豪華な衣服も贅沢な食事も、恐縮せずに受け取っていいのだという気になれた。

「頬もちょっとふっくらしてきたね」

 目を細めて耳飾りをつけた雛瑠璃を眺めていた北野が優しく頬を撫でる。

「若いとすぐにやつれるけれど、肉が戻るのも早くていいね」

「まったくだ。……ああ、そういえばな、雛瑠璃よ」

「はい」

「先ほど、ついでがあったのでおまえの生家をのぞいてきたのだが。母御は持ち直されたそうだぞ」

「……っ」

 ひく、と喉が詰まったような思いがした。

 どうせこれ以上は悪くならないのだからと大嗣に直訴を試みた日。まだ雛瑠璃ではなかった彼に家まで案内させた大兄は中へは入らず、明日の朝永咲館へ来いと言い置いて立ち去った。

 金はいつもらえるのだろうか、騙されてこのまま何もしてもらえないのではないのかと内心不安にかられていると、少しして尋ねてきた者があった。出てみるとそれは医者で、大嗣の意向で診察にきたと告げ、母を診て、代金をとらずに薬を渡してくれた。

 なぜ大嗣がと驚く家族に彼は大嗣に己を買ってもらったのだと告げた。母は泣き崩れ、父は彼を殴ったあとで自分が不甲斐ないばかりにすまないと土下座して号泣した。妹は状況を理解できていなかったようだったが両親の様子にひどく不安そうにしていた。兄は奉公に出てもう家へは戻らないから両親を頼んだぞと手を握ってやったらようやく安心したのか微笑んで頷いた。

父御ててごもよい職を得たらしい。寮があって、近いうちにそちらへ移れるかもしれぬという話だ。妹は明るい顔をしておったぞ。……ああ、もちろん、直接顔を出してはおらぬ。俺のような者が顔を出しては迷惑になるからな。遠巻きに様子を見ただけで、話は医者から聞いた」

「……」

 あの日母に医者を呼んでくれただけで十分に報いてもらったと思っていたのに。まだ医者は母を診てくれている。父にしたところで、何日かに一度、わずかな日銭仕事を得られるかどうかだったのだ。職が見つかったのであれば、それは大嗣か大兄か、あるいは北野の意向が働いたほかにないだろう。

 そもそも、雛瑠璃はここへきた経緯いきさつは北野にも五郎にも話してはいなかった。

 気にして、わざわざ大兄か大嗣に聞いてくれたのだ。

 なんと、ありがたいことだろうか。

「ありがとう、ございます……」

 声が喉に詰まった。

「よかったねえ」

 優しい声で言って北野がうつむいた雛瑠璃の頭を撫でる。撫でられたらこらえきれずに涙がこぼれて、懸命に嗚咽を噛み殺した。

「心配ごとは解消したようだし、行儀も悪くないのがわかったから、今日からは見世にも出そうかな」

「承知した。では忘れず支度をさせよう」

「銀の繻子の服だよ。化粧は僕がするからね。おまえはするんじゃないよ」

「わかっておるとも」

 主人と五郎が雛瑠璃にはよくわからないやりとりをしている。自分に関することのようだったのでそちらを見ると北野が指の背で頬を拭ってくれた。

「あんまり泣くと目が腫れてしまうから、いつまでも泣いていてはだめだよ」

「あ、……はい。すみません」

「ああこら、こするんじゃない。もっと腫れてしまう」

 慌てて目もとをこすった手をつかまえられた。目尻に小さく北野が接吻する。

「顔を洗っておいで。涙は塩気があるからね、肌に残しておくとかぶれるよ」

「はい」

 それまでに泣き止んでこいということだと理解して頷き、立ち上がった。


「ねえ五郎」

 泣き笑い顔の子供が部屋を出て行って、北野がぽつりと弟を呼んだ。

「こんな童話を知っている? 貧しい家のきょうだいが、親に捨てられて森をさまようんだ」

「……ほう?」

 唐突な話に首を傾げながら五郎は相槌を打って話の先を促す。

「それは、どういう話なのだ?」

 兄は窓の外へ視線を向けた。指先で、雛瑠璃が割った胡桃の殻を揺らしている。できるようになったのがあまりにも誇らしげだから何個も割らせてしまう、と笑っていたのは昨日だったか。

「何日もさまよった末に、兄弟は森の奥でお菓子で作られた家を見つける」

「ふむ」

 菓子などで家を作ってまともに住めるのか、と思ったのは黙っておく。

「飢えていたきょうだいがそのお菓子を食べていると中から優しげな老婆が出てきて、きょうだいを家の中へ招いて、ごちそうと寝床を与えてくれる。きょうだいは喜び、安心して、老婆に養われてすっかりまるまると太って、……そして本当は悪い魔女だった老婆に食われてしまうんだ」

「えっ」

 いい話だ、老婆は人格者だな、と喜んでいたらいきなり話が凄惨な展開をして、五郎は声を裏返す。

「そ、その先はどうなるのだ?」

「ここでおしまいだよ」

「な、なんだそれは。まるで救いのない話ではないか」

「そう思うかい?」

「兄者は、そうは思わぬのか?」

「だってお菓子の家を見つけなければきょうだいはきっと飢えて死んだよ」

 五郎に視線を戻した兄はどこか儚げに微笑う。

「それならせめて、まるまると太るくらい、おなかいっぱいにごはんを食べられてから死んだほうが幸せだと思わない?」

「う……ううむ」

 腕を組んで、五郎は唸る。

「子供らは、死ぬほかにないのか? たとえば、魔女のもとを逃げ出す、とか」

「そのためには魔女を殺さなくちゃいけないんだ。自分が生き延びるためならほかのものを殺してもかまわない?」

「うぐ……いや、そこはあれだ、知恵を絞って! 殺すことなく逃げ出す方法を考える」

「それでまた森で迷子になって飢えて死ぬの?」

「うっ……い、いや、もしかしたら森から出られるかもしれぬではないか!」

 五郎は懸命に言い募る。

 死ぬ前にせめて腹いっぱい食えたほうが幸せだろうと、そう言った兄が、泣きそうな顔をしているように見えたのだ。なんとかしてその運命を覆したかった。

 もしかしたら、かつて、何かその話を彷彿とさせるようなことが彼らの上にあったのかもしれぬ。兄はそれを思い出して傷ついているのではないか。

 じつを言えば五郎は幼いころの記憶がかなり欠けている。とくに、永咲館に移ってくる前の娼館での記憶がほとんどない。永咲館にきたばかりのころのことも、覚えていないことのほうが多い。そのさらに以前にいたっては何一つ覚えていない。思い出そうとするとすさまじい恐怖に襲われて平静でいられなくなる。それだけむごい体験をしたのだから無理に思い出そうとするなと、兄にも、大嗣にも言われたことがあるのでいつもは考えぬようにしているのだが――。

 自分の覚えていない場所でなにかが兄を傷つけていて、それを覚えていないゆえに兄を慰められぬのは、ひどく悔しく、もどかしい。今からでもせめて埋められるものがあるなら埋めたい。だから、五郎は必死に考える。

「そ、そうだ、太らせるために養ううちに情が湧いて魔女が改心するというのはどうだ。きょうだいは魔女とじつの親子のように睦まじく暮らすのだ」

「……それはいいな」

 五郎の提案に北野はにっこりと笑う。

「とてもすてきな終わり方だ」

「そうであろう」

 五郎も笑って頷き、腹の中で歯ぎしりをした。失敗だ。慰めるどころか、いっそう兄を傷つけた。

 そしてその理由がわからない己の愚かしさが、どうしようもなく憤ろしかった。


 日が暮れ、灯りが必要になるころ、北野は身支度をはじめる。服を選び装身具を選び、身につけて、爪を染め、時には髪に金粉や銀粉をまぶし、化粧をする。

 これまではそれをうっとりと眺めて北野が出ていくのを見送り、あとは朝になって五郎に呼ばれるのを、奥の、自分の服や靴を置いた一画で待つように言われていた。だがその日は北野の支度の途中で五郎に呼ばれた。奥へ連れていかれ、光沢のある銀鼠色の服に着替えるようにと命じられた。

「よいか、雛瑠璃」

 雛瑠璃が着替えるのを見守りながら、五郎が言った。

「粗相のないようにな。北野様以外への直答は、決してしてはならぬ」

 北野には兄者と呼びかけるが、五郎は雛瑠璃には必ず北野様と言う。兄弟なのは二人だけの間のことで、ほかのものの前ではあくまで太夫と差配なのだと、厳しく線引きをしている。決してそこをあやふやにせずけじめをつけているのはすごいといつも思う。

「北野様からかけられたのではない言葉はすべて、異国の言葉だと思え」

「異国、ですか」

「そうだ。異国の言葉なら、耳には入っても意味はわからぬだろう? そういうことだ」

「……はい」

 緊張して、頷いた。

 思えば永咲館にきてから、いちばん最初の日に大兄と、あと一瞬だけ大嗣を見たけれど、そのほかは五郎と北野以外の人には会っていなかった。

 今日は、誰かに会うのだ。――はじめて、雛瑠璃として。

「なに、すべて北野様がよいようにしてくださる。おまえはここでしているように、北野様だけを見て従っておればよい」

「……はい」

 太い笑みに少しほっとして頷いた。

 着替えが終わって支度部屋へ連れて行かれるとすでに用意をすませた北野が待っていて、雛瑠璃に化粧を施してくれた。言われるままに目を開いたり閉じたり、顔を横へ向けたりするとそのたびにふわふわする刷毛が顔を撫でる。

「よし、かわいく仕上がった」

 最後に指の先にとったあまり濃くない色の紅を彼の唇にのばして、北野が満足げに笑む。

「どうだい? 五郎」

「うむ。とても愛らしい。さすがだ、兄者」

「そうだろう。……さあ、おいで雛瑠璃」

「はい」

 今日は自身が夜空のような、しっとりと黒い衣服に身を包んだ北野に従って部屋を出る。決して一人で降りてはならぬと言われた階段を北野に従って降りていくと、階下には華やかなさざめきにあふれた大広間が広がっていた。あちこちに置かれたテーブルには風采のいい紳士たちがいて、グラスや手札を前に談笑している。広間をぐるりと囲むように、たくさんの長椅子が並べられ、何人もの、艶やかに着飾った男女が絢爛と座っていた。

 あまりのきらびやかさに、めまいがするようだった。

「こっちだよ。おいで」

 思わず息を詰めていると、振り返った北野がふわりと笑う。それだけで呼吸が楽になって、雛瑠璃はつまづかないように慎重に主人のあとに続く。あちこちから視線が刺さってきて、おそらくは彼のことをさしている囁き声があがったが、耳の奥で心臓の鼓動が轟いていて言葉は聞き取れなかった。

 あいていた豪華な長椅子に北野がゆったりと腰をおろす。黒い手袋をつけた手で足元を指したので、雛瑠璃はそこへ膝をついた。頭の上に北野の手が乗せられる。

 視線を伏せれば、見えるのは自分の膝とそこに乗せた手、そして北野の黒い柔らかな革靴の爪先だけで、少し安心する。

 と、その爪先の向こうから、やはり黒い靴がこちらへやってきた。北野の、爪先の尖った、足首の上まである編み上げの靴とはちがう、先をまるく型どって甲のところに帯を渡した、光沢の強い革の靴だ。靴を履いている足は白く光沢のある靴下を履いていた。

「こんばんは、兄様あにさま

「やあ、松江」

 北野よりは低く、五郎ほどは太くない柔らかな声がして、北野がそれに応えた。

「お邪魔をさせていただいても?」

「いいよ。どうぞ」

「ありがとう存じます」

 短いやりとりがあって、そしてやってきた人がいきなり床に膝をついて、雛瑠璃は思わず目を見開く。

「となりに座ればいいのに」

「とんでもない。僕などとてもても、北野兄様のお隣に並べる器ではございません」

 床に膝を揃えて足を流して座り、長椅子にしなだれかかってその人は北野を見上げる。

 気になって、一瞬だけ、ちらりとそちらを見る。顔は見えなかったが、白いシャツに黒の上着を肩にかけ、襟元には細いリボンを大きな蝶結びに結んでいた。

「ああ、今日も兄様はお美しくていらっしゃる。こうして見上げているだけで酔ってしまいそうです」

「ふふ。ありがとう。松江の褒め言葉はいつも大げさだね」

「そうでしょうか? まだまだ兄様を称え尽くすにはとても足りないと思っているのですけれど」

「ふうん? それでも足りないなんて、欲張りなんだね」

「……ああ。そんなふうに思ったことはございませんでしたけれど、そうかもしれません。さすがです兄様」

「何を言っても松江は僕への賛辞にしてしまうんだなあ」

「だって兄様は何をされても素晴らしいのですもの。いいえ、何もなさらなくても、兄様はそこにいらっしゃるだけで至高の宝玉よりもお美しい。お肌も、今宵も輝くばかり。どんなお手入れをなさっているのかお伺いしても?」

「え、それ、ここでする話?」

「だって、兄様とは昼間はお話をさせていただく機会がないではありませんか。こんな時でなければお聞きできません。……それとも、近いうちにそんな機会を与えていただけますでしょうか」

「お客さま以外と先の約束をするのは好きじゃないから、ここで話そう。でも、うーん、肌の手入れか……べつに特別なことはしていないと思うよ。お風呂に毎日入って、きちんと洗って、きれいにしているくらい? お湯は、たまにいい匂いがするから、五郎が何か入れているかもしれないね。聞いてみるといい」

「はい。そういたします。そういえばお湯に、お酒を入れると肌によいのだそうですよ。盥に熱いお湯を入れて、お酒を入れて、湯気を顔にたっぷり吸わせるのも」

「詳しいね」

 微妙に、雛瑠璃は居心地の悪い心持ちがした。

 北野はいつものように穏やかに相手と話をしているのに、なぜかそれは穏やかな会話には聞こえなかった。

「僕ら凡俗は兄様とちがって何もしないでいてはすぐ衰えてしまいますので、よいと聞くことはなんでも試してみずにはおられぬのです。でも、兄様も、本当はなにかなさっているのでは? ご自身が意識しておいででなくとも、それこそ五郎さんがいつもお持ちになる薬酒や仙丹などがあったり?」

「うーん。これといって特別なものを出されているとは思わないけど。それも僕ではわからないから弟に聞いて」

「かしこまりました。兄様は、ほとんどのことは五郎さんにお任せなのですか?」

「そうでもないよ。食べたいものがない時に食べるものを決めるのは面倒だから任せているけれど、そのくらいかな。着るものや化粧は自分で決めるよ。僕が決めた服や飾りを用意するのは五郎の仕事。何年前の服でもあれと言えばすぐ出してくるから便利なんだ」

「兄様のご衣装をすべて覚えておられる?」

「当然だろう? だって多くたって季節ごとに十か二十、年にせいぜい百着ぐらいだよ」

「並にできることではございませんよ。さすがは五郎さんです」

「そりゃあ、僕の弟だもの」

「ご自慢でいらっしゃるのですね。……ところで、最近ご自慢のものを増やされたとか」

「ふふ、来たね、雀」

「すずめ……?」

 相手の声が少しいぶかしそうになる。

「……申し訳ありません、兄様。お言葉の意味が」

「別に謎かけをしているわけじゃないよ。言葉のとおりさ。おしゃべり雀」

「っ……それは、また」

「どうせ松江だけじゃなく、ほかのたちも興味しんしんなのだろう? 僕が今から松江に言うことは、明日には館じゅうに知れ渡っているわけだ」

「ふふ。まったく、兄様には何も隠せないのですね。すっかりお見通しでいらっしゃる。だって五郎さんがこれに関してだけは何も教えてくれないんです。直接兄様にお聞きするほかなくて」

「どうせ自分が一番の新参だから、少しばかり粗相をしてもきっと目こぼしがもらえる、とかなんとか言ったのだろうけれど。へたにつついて藪から蛇を出してしまったり、あるいはとても誰にも言えないような秘密を聞いてしまう、とは、思わないの?」

「蛇の出るような藪をつつかせてくださる兄様ではないと存じます。ここにはすでに耳も目もございます。兄様が外へ聞かせるわけにいかないような秘密を口にされるとは、僕は思いません」

「おやおや。買いかぶられてしまった」

「事実でございましょう? ――でも、お見通しでは遠回しに聞こうとしても滑稽なだけでございますね。明け透けにお聞きしてしまいますが、その坊やが、兄様がとられた部屋子なのでございますか?」

「ううん、部屋子じゃないよ。これは客はとらないから」

「おや……。女郎屋にお置きになっておつとめはさせぬ、と?」

「だってこれは仔犬だもの」

 北野の手が頭を撫でた。雛瑠璃は慎重に目を伏せて、精一杯何も聞こえていないふうを装う。五郎が言ったのは、こういうことだったのだと理解した。

「どんなにお客が物好きだったとしても、猫に玉を舐めさせたり、金魚の口にあれを入れようとはしないだろう? そんなことをするより、僕に舐めさせたり僕の口に入れるほうがよっぽど気持ちがいいもの」

「……たしかに。おっしゃるとおりでございますね」

「だろう? だから、これは客はとらないんだ」

「感じ入りました。苦界にあって紫の上をお育てあそばすとはすいの極みでございますね」

「ほら、また松江は僕を買いかぶる」

 北野はくすくす笑った。

「僕の言葉の裏なんかさぐったって無意味だよ。これは仔犬。そう言っただろう? それだけの意味だってば」

「松江。そこにいたのか」

「あ。ご主人さま」

 別の、これは男性的な大きな革靴が近づいてきて、北野と話していた人が急に甘い声を出す。

「いらっしゃいませ」

「うん。今日は、独り身かな」

「もちろんです。今日こそおいでいただける気がして、どなたともお約束はしないでお待ちしておりました」

「嬉しいことを言ってくれる。……よろしいかな、北野どの。お話が弾んでいたようだがお相手を連れていっても?」

「もちろん。あなたを待つ間の時間つぶしに雑談をしていただけだし、娼妓はお客さまのものだもの。どうぞ、よい夜を」

「それでは、失礼いたします兄様」

 隣にいた人が立ち上がって大きな革靴の人とともに去っていく。ほっと息をついたら、小さく体が震えた。

「あれ、どうしたの、寒い?」

 それに気づいた北野がのぞきこんでくる。小さく頭を振って違うと答えた。

「大丈夫だよ、いきなり妖怪がきちゃってびっくりしただろうけど、あれはべつにおまえに危害は加えないからね」

 そう言って、北野はかるく雛瑠璃の髪に頬ずりした。

 北野様はあのかたがお嫌いなのですか、と聞こうかと思ったが、僭越だと思って言葉にはしなかった。


 灯りを絞った部屋には、荒い息遣いと艶かしい衣擦れが暑気だけではない熱とともにこもっていた。

 浮かされたような甘く切ない啼き声。薄暗い灯りの中でも目に痛いほど滑らかに白い肢体。くびれた細い腰が淫靡に蠢く。

 見るべきではない、と思うのに目が吸い寄せられて一瞬たりとそらせなかった。

 やがてひときわ高く甘い声とともに白い喉が大きく反り返り、しがみついていた岩のようなもう一方の影も低い呻き声を漏らしてびくびくと震えた。

 そのまま二人は固く抱き合ったまましばらく身動きをしなかったが、やがてしなやかな白い体が気怠げに起き上がる。汗で額に貼りついた前髪をかるく払って、部屋の一画に控える雛瑠璃に微笑を向けた。

「水をおくれ」

 ずっと声をあげていたからか少しだけ掠れた声は、だがいつもの柔らかな声より数段なまめいて、しっとりとした艶を帯びているように思えた。

 反射的に返事をしそうになって、五郎に「よいか、この先はかまえて声を出してはならぬぞ」と言われていたのを思い出したのと北野がいたずらっぽく片目を閉じて唇に指を当てたのが同時で、あやういところて口を閉じた。床に入るまで主人と客が向かい合っていた卓の、まだ使われていなかったグラスをとる。たっぷりの氷を詰めた水差しの水はよく冷えていた。寝台のすこし手前で膝をつき、そのまま進んでグラスを差し出すとよくできたとひとつ頭を撫でられる。その手がそのままグラスを取っていき、ゆっくりと、だがひと息に半分以上をあけた。

「今日はおまえを置いておいてよかった」

 差し出したままの手にグラスを戻して北野が囁く。

「五郎はことのあとには体を冷やすといって冷たい水はくれないんだ。……だめだよ、だからといって次は冷えていない水を出しては。そのくらいで具合を悪くするほど軟弱ではないんだからね」

 そうすべきだったのか、気が利かなかった、次はそうしなくては、と思ったのを先回りで制された。つまりどちらでも構わなくて、北野は冷たい水がほしい時は雛瑠璃を、冷たくなくてよい時は五郎に水を命じるのだろうと思った。

 それをとって、と指をさされて、ほとんど透けているような薄手の部屋着を衣桁からとって渡した。北野がそれに袖を通すと、透けた黒い布地の中で白い裸体がむしろ浮き上がるように際立って見える。

「紅と懐紙と鏡」

 ほっそりした手が差し出されて、急いで小物をまとめて置いてあるところから取って渡す。掃除のあとで五郎が部屋を整える時に自分にも手伝わせていたのはこのためだったのだと理解した。

 渡した懐紙で北野はほとんど落ちてしまった紅を丁寧に拭き取り、手のひらにおさまる小さな鏡を頼りに紅を差し直す。指に残った紅を拭いて、まとめて差し出してきたすべてを雛瑠璃は揃えた手のひらで受け取った。

「今日はもういいよ。奥へ戻ってお休み。途中で五郎に僕が呼んでいると声をかけていって」

 頭を下げて拝命したことを伝え、紅と鏡を戻し、懐紙はくず入れにそっと落として静かに寝室を出た。

「五郎さん……」

 次の間の戸をそっとたたいて小声で呼ぶ。すぐに中から動く気配がして五郎が顔を見せた。もうずいぶん遅いはずなのに、眠っていなかったのか。衣服も夜が始まる前と変わらない。

「北野さまが」

「おう。ご苦労であった。あとのご用は俺が承るゆえおまえはもう寝るといい」

「まだご用が?」

「うむ。そのうちおまえに頼むこともあるだろうが、今はよい。ゆけ」

「はい」

 五郎の笑みに頭を下げた。足音をたてないように奥の間へ戻って戸を閉め、布団の上に座り込む。

「っ…………」

 吐き出した息がひどく熱い。足の間を強く押さえ込んだ。

 寝室で夜ごと北野が何をしているのか、わかってはいた。そのつもりだった。

 だけど――。

 あんなにも甘く、淫靡で、熱くて、いやらしくて――あんなにも気持ちのよさそうなことだったなんて。

 経験のない雛瑠璃のおぼろげな想像など、とうてい及ぶような行為ではなかった。

 ためらいながら服の中に手を入れる。

 布団に顔を押しつけ、弾む呼吸と時折こぼれるかすかな呻き声を隠して、雛瑠璃は幼くささやかな秘め事に没頭していった。



 客とグラスを合わせ、酒をひと口含んだ北野がとろけるような笑みを浮かべて何かを言っている。客の返した言葉にくすくす笑って客の腕に抱きついた。

 自分のグラスを口元へ運んで、明紫はその姿を見守る。

 北野を名乗って、当人の希望どおり最初から太夫として見世に出た少年は数日でその地位にふさわしい器であることを示し、ほどなく多くの馴染み客を得て永咲館の頂点に立った。

 特上の傾城になるだろうという予感は外れなかった。楼主としては喜ばしいと思うべきなのだろうが。本来であればそれこそ妓楼という言葉さえ知らぬままでいたかもしれぬのにと思うと哀れにも思う。とはいえ、かつての生活が今のそれよりもましなのかと言われればそうとも言い切れなくはあるのだろうが。

 客と笑い合いながら北野は傍らに控えた少年の頭を撫でる。とくに子供の方を見るでもなく、ふと手を動かしたら触れて、そのままとくに意識もせずに撫でた、とでもいうような仕草だった。そうされた少年がほのかに、だがひどく幸福そうに微笑した。

 もちろん、北野にすれば少年が自分以外何も目に入らぬほど崇拝するように誘導することなど、造作のないことだったろうが。

 あまりにも一途にいじらしく慕われて、必要以上に情をうつしてしまわなければいいのだが。

「お姫さんの泣くんは、見とうないなあ……」

 もうひと口酒を舐めて、明紫は小さく息をついた。



 肩が大きく上下する。

 片手に握った澱を顔の前へ持ち上げる。短い間見つめて、そして握り潰した。ぐしゅっ、と半ば実体化していた内側の組織が潰れて液体を散らし、そのまま霧散していく。

 黒い革手袋の掌にわずか残った痕跡を見下ろして、咬は険しく眉を寄せ、その手から顔をそむけた。


 永咲館へ戻った時には、すでに夜の端がだいぶ色を薄くしようとしていた。

 翁桜の幹に手をかけ、咬は乱れた呼吸を整えようとする。

「おはよう」

 静かな声に顔をあげて振り返ると、すこし離れた場所で北野が微笑していた。

「だからこのあいだ、寝てあげようかって言ったのに。僕が声をかけるまで気がつかないなんて、よほど鈍っているね。まあ、僕もわざと気配を紛れさせていたけれど」

 見つめる咬に北野は苦笑する。咬からはすこし距離をあけて、翁桜へ近づいた。

「主が夜中に腹痛はらいたを起こしてしまってね。部屋を汚しては悪いと帰ってしまったんだ。よもや僕が独り寝ではあるまいと思って油断したんだろう」

 手をあげて、北野は自分も翁桜の幹に手を触れる。と、木から流れてくる力が増した。

「これなら、ばれないよ。気休めぐらいにしかならないだろうけれど、僕は大丈夫だからすこし多めに吸っておいき」

「……」

 目を伏せて、かるく頭を下げた。

 北野が微笑したのが、翁桜の幹をとおして伝わってきた。

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