2章 永咲館の夢

4 雛


 蹄と車輪の音とともに、馬車が遠ざかっていく。深く頭を下げて送り出した五郎は腰を伸ばして背伸びをした。

 今のが最後の馬車だ。陽は完全にのぼった。昨夜の客たちは皆、寝坊も長居もせず順当な時間に引き上げていった。

 だが、館の朝は始まったばかりだ。風呂は今からがいちばん混み合うし、使用人たちは娼妓たちの食事に館じゅうの掃除、昨夜の片付けと忙しい。五郎も出入りの商人たちと打ち合わせに納品されるさまざまなものの確認、娼妓らに頼まれた買い物や届け物の手配、大嗣にお目にかける書類の選別やらこまごまとした仕事がある。兄の所望の肉桂を練った飴も買いに行かねばならぬ。使用人らはいつでも使いをすると言ってはくれるが、これは五郎の仕事だ。

 どの作業をどの順にこなすか、頭の中で組み立てながら館の中へ戻ろうとした五郎がぎょっと動きをとめたのは、植栽の影から玄関口を窺う小柄な影に気づいたからだった。

「おい、わらし

 声をかけると人影はびくりと体を震わせ、植栽の向こう側へ隠れるようにする。眉を寄せて、五郎は大股に植栽の陰へ回り込んでいった。

 それは、痩せこけた子供だった。身を縮めて、怯えた目で五郎を見上げる。

「ここで何をしておる。ここはおまえのような者の立ち入ってよい場所ではないぞ」

 自分は怖く見えるのだろうかとやや鼻白みつつ言葉を継ぐ。妓楼の差配としてはもちろん貫禄や迫力はあるに越したことはないのだが、何かにつけて五郎は凄みがない少しは偉そうにならないものかと兄や娼妓たちにからかわれている。そういう愛嬌が自分の持ち味かと思っていたから、何やら座りの悪い心持ちがした。

「あ、あの……僕、今日からこちらにご奉公に」

「奉公?」

 いっそう眉が上がった。

「そんな話は聞いておらんぞ。というか、当家では奉公人は預からん。何か勘違いをしておるか、あるいは誰ぞに騙されたのではないのか。どこを通しての話だ」

「あ、あの……」

 子供はさらに怯えた様子で身を縮める。本格的にこわがらせているようだと五郎は髪をかき回す。なるべく人好きがするように笑みを作った。

「すまんな、言葉がきつかったか。ここは館の表側だ。それこそ奉公人がうろついてよい場所ではない。ひとまずは俺と参れ。話を聞こう」

「あ……はい。申し訳ありません」

 子供は慌てたように頷き、ぺこりと頭を下げた。五郎が先に立つと小走りについてくる。

「あ」

 使用人が使う出入り口のほうへ連れて行こうとしたら子供が小さく声を上げた。見ると玄関口から大兄が姿を見せたところで、その視線が子供に向いていて五郎は慌てる。どんな勘違いで紛れ込んできたのかは知らないがさして罪もなさげな子供が大兄や大嗣の勘気に触れては哀れだ。

「おはようございます、大兄。申し訳ございませぬ。よく分からずに迷い込んできたようで、今諭して帰すところで」

「いい」

「は……?」

 遮られて五郎はきょとんとする。大兄は再び子供に視線をやった。

「それは大嗣が拾った。今日から館へ入れる」

「え、……ええ?」

 ぽかんとして五郎は大兄と子供を忙しく見比べる。

「部屋子……に、おとりあそばされた?」

「いや。飼うだけだ。――ついてこい」

「は、……はいっ」

「え? あ、あの大兄? まさかそのまま大嗣のもとへ連れてゆかれるので? あの、大兄さすがにそれはいかがなものかと――」

 制止する五郎を無視して大兄は子供を連れてすたすたと階段を上がっていく。まさかそのまま追うわけにはいかず裏階段を駆け上がったが、二階へ上がった時には大兄はもう三階へあがる階段の半ばだった。

「あの、大兄、本当に、お待ちを」

「にぎやかだな。どうしたの?」

「あ! 兄者、よいところに!」

 部屋から出てきた北野が手すりに寄りかかって下を見おろした。天の配剤と五郎は兄にすがる目を向ける。

「頼む! 今そちらへ行くゆえすこし大兄にお待ちいただいてくれ。頼んだぞ!」

 言い置いて、裏階段へ向かって走った。


 ぱちぱちとまぼたきをして、北野は階段の下をのぞきこむ。

「行ってしまった。僕はまだいいよともいやだとも言っていないのに。落ち着きのない弟だなあ。……でも、弟が僕に頼み事をするのも珍しいし。ちょっとだけ、待っていてやってくれない? それとも、ほんの少しも待てないほど急いでいる?」

 ちょうど階段をあがってきた狗に目を転じると、狗は仕方ないという様子で足を止めた。

「悪いね」

 にっこりして、そして北野は狗の背後に何かがいることにようやく気づいた。

「なんだい、それ?」


 咬が従えた子供に気づいて、北野は目を丸くする。だが、すぐにその目にはきらきらした楽しげな光が浮かんだ。

「ねえ、どうしたんだい? それは。どこからとってきたの? 誰かにもらったの? 使いみちは決まっているのかな」

 こういう時、北野は獲物を前にした猫を思わせる貌になる。不穏な空気を感じ取ったのか少年が少しだけ後ずさった。

「あ、……あに、じゃ……大、兄……」

 ぜいぜいと息を切らした五郎が柱の影からまろび出てきた。一階と二階を結ぶ裏階段は娼妓も使用人もよく使うので東西どちらの棟にもあるが三階に向かうものは西にひとつだけ、それも奥まった位置にある。三階にあがる必要のある使用人は多くはないからそれでふだんは足りるのだが、急ぐ時には難儀をするようだ。

「いつものことだけれど、落ち着きがないな、おまえは。これはなんの騒ぎなんだい?」

「そ、それが俺にも、はっ、……よくは……わからんのだ」

 懸命に呼吸を整えようとしながら五郎が首を振る。

「大兄は、はぁ……大嗣がその子供をお召しになったと、言っておられたが」

「……そうなの?」

 首を傾げた視線がこちらへ向いた。

「ああ、きたんやね」

 明紫が部屋から出てきた。声が聞こえたのだろう。少年を呼んだ時間は伝えてあったから、何の騒ぎかもわかっているはずだ。

「大嗣。おはよう」

 猫の目を細めて隠し、北野がにっこりと笑いかける。兄が話をしているところに割り込むわけにはいかないので五郎は膝をついて控え、丁重に一礼してそれを挨拶にかえた。

「あの」

 口を開こうとした少年の顔の前を手で遮って咎める。それだけで理解して急いで口をつぐんだのはやはりそれなりに聡いし礼儀を理解しているようだ。

「おはようさん。早いね」

「あるじが帰ってから寝ていたんだけれど、五郎がうるさいから目が覚めてしまったよ。……ねえ大嗣、その仔犬どうしたんだい?」

 そらぞらしい物言いに明紫はほのかに苦笑した。仔犬と呼ぶ時点で北野がすべて理解していることは明白だ。

「拾ったんや。昨日、じじさまのとこへお邪魔した帰りにな」

「飼うの?」

「まあ、拾うたからにはな、面倒見んと」

「僕にくれない?」

「あ、兄者っ?」

 明紫はわずかに首を傾けただけだったが五郎が仰天して声をあげた。大嗣の前だったことを思い出して慌てて顔を伏せる。

「ねえ、おくれよ。だめ? ちゃんとしつけるからさ」

 背で手を組んで、北野は下から可愛らしく明紫を見上げる。甘える声に明紫は苦笑を大きくした。

「手間やろ」

「だいじょうぶだよ、五郎がいるし」

 ちらと視線を送られて弟は「俺か?」という顔でぽかんと口を開けた。

「手間がかかるならなおさら、大嗣はお役目が多くて僕なんかよりずっと忙しいじゃないか。その上仔犬の面倒を見るなんて、たいへんだよ。ちゃんとやるよ。ね? お願い。だめかな」

「……叶わんな、お姫さんのおねだりには」

 笑って、明紫はかるく両手を上げて降参を示した。

「そんなら、頼もうかな」

「やった」

 手を叩いて北野は無邪気に破顔する。なるほどこの笑顔を褒美にもらえるならどんなねだりものでも客は買ってやってしまうだろう。明紫も同じように思ったらしく、たしなめる目で北野を見た。

「自分にそんなお愛想振らんでええやろ」

「ええ、別にお愛想なんかしてないよ。嬉しいから嬉しいと言っているだけ。ありがとうね大嗣。すごく嬉しい」

 北野は意に介さず満面の笑みで明紫の手を握った。

「ねえ、名前は? つけている?」

「いいや、まだ」

「何がいい? 考えていた名前はある?」

「なんも考えてへんよ」

「だったら僕がつけてもいい?」

「そうしたらええ」

「わかった。――おまえ」

 にっこり頷いて、くるりと少年に顔を向ける。

「聞こえていたよね。おまえは僕がもらったから。おいで」

 呼ばれて、少年は戸惑って立ち尽くす。

 すでに明紫は少年に興味を失ったていで自分の部屋へ戻っていくところだった。困惑の表情で自分を見上げてきた少年を、咬も無視して明紫に続いた。

「……ああ、その、なんだ、そういうことになったようだ。ともかくこちらへ来るといい」

 見かねて五郎がとりなしているのが背後から聞こえてきた。

 やや大股に足を運んで、前をいくほっそりした背に追いつく。部屋に入って、明紫はそのまま露台に通じる硝子戸をあけて外へ出た。

「みんな、自分のやりとうないこと察して、代わりにしてくれる」

 手すりに寄りかかって、ため息に乗せて言う。

「自分、甘やかされてばっかりや」

 それは、それこそ余の者にはできないことを明紫が担っているゆえだが、明紫はそれさえも己の我儘でしていることだと言うだろう。


―― 大嗣が悲しむよ


 しばらく前に聞いた、切なげな声がふと耳の奥に甦った。



 永咲館では、客は娼妓それぞれの部屋でことを愉しむ。そのため、格の低い娼妓でも部屋はきちんとひと間が与えられる。格が低いといってもそれぞれ市井の娼館に入れば最上級の地位を得られるだけの娼妓だから当然の扱いでもある。

 最も狭い部屋でも寝台を置き、箪笥や長持、鏡台といった道具を並べ、サロンから引き上げたあとも客をちょっとした酒肴でもてなすぐらいのことは可能な広さがある。

 もっと広い部屋になれば部屋自体が広かったり次の間があったりするし、寝室と居室を完全に分けられるふた間続きの部屋などもある。松江の入った部屋はそうした中でも最も広く、ゆったりした三間の大きな部屋で、二階では最も広い。

 そして大嗣と並んで館で最も格の高い太夫である北野の部屋は客と過ごす寝室と客間、昼間に眠る用の寝間と普段過ごす居間のほかに衣装部屋に支度部屋、客に合わせて変える調度や掛け軸、花瓶といったものを入れておく納戸、さらに専用の風呂があり、たいていは五郎が詰める次の間に、まれに客が伴う従者を待たせておく控えの間と、格段に豪華だ。

「さて」

 居間に入った北野は柔らかなクッションをたっぷり置いたお気に入りの椅子に身を沈めて、まだ困惑した様子の子供を見る。

「それにしても小さいね、おまえ。年はいくつだい」

「十八……です」

「ええ? ほんとうに? 見えないなあ」

 目と口を丸くあけて北野はまばたきをする。

「まあ、そんなに痩せ細っていたら上にも育たたないか。ガラ骨みたいだけれど、ダシもとれそうにないね。それに、……あんまりきれいでもない」

「……」

 じろじろと上から下まで検分する視線に、子供はまた身を縮めてうつむく。耳のあたりがほんのり赤くなったから羞恥心を刺激されているのだろう。北野は楽な部屋着を無造作にまとっているだけだが、そんな服でも子供が着ているものとは比べ物にならない上質な布地のものだ。それを、上つかたはすごいなと思うのではなく己のみすぼらしさを恥じるというのが下層民にしては珍しいが。

「五郎」

「お? お、……おう、なんだ兄者」

 ふいに呼ばれて驚いた。椅子の上に片足を引き寄せて膝を抱いた北野が、そこに頬を乗せて五郎を見ていた。ついと顎先で子供を示す。

「これ、裏で洗ってきて」

「え?」

 思わず声が出た。

 たしかに今、湯殿はつとめを終えた娼妓たちが使っているし、もちろんのこと兄の部屋の湯殿を使わせるのは論外だ。いや、これについては兄が許せばかまわないがこの子供、いや十八だというから子供と呼ぶべきではないか。この少年は五郎が見ても兄の部屋の湯殿を使うには少々汚すぎる。当人としては精一杯清潔にしているつもりだろうが下層民独特の匂いもうすく感じられた。だからこそ、五郎もこれを連れて大嗣の部屋へあがっていこうとする大兄を懸命に止めたのだ。

 だから、井戸で体を洗わせるのは妥当なことではあり、なにか危険なものを隠し持っていないか検分する意味でも一度裸にするのは理にかなってはいるのだが。

 だが、洗ってこいと、物のように言うのはどうなのか。

「……なあに」

 すっと北野の瞳が鋭くなる。ぎくりと心臓が縮んだ。

「い、いや……!」

 慌てて頭を振る。見分けはつけにくいがこれは機嫌の悪い顔だ。今の物言いに一瞬非難の思いが湧いたのを見破られて兄の勘気に触れてしまったらしい。

 こういう時は余計なことをあれこれ言わずに従うのが賢いことを、五郎は長年の経験から知っている。

「すぐにしてこよう。……おい、小僧、俺と参れ。こちらだ」

 手招きをして、急いで兄の部屋を出る。自分がさっき駆け上がってきた裏階段へ少年を導いた。

「さっきおまえのあがった主階段は、大嗣と大兄、それから北野様のほかは、勝手に使ってはいかんものだ。それらのかたがたに、一緒にこいと言われた時以外はこちらの階段を使うのだぞ」

「はい。……あの、大兄、というのは、その……」

「大嗣のおそばを護っておられるおかたを、そうお呼びしておる」

「……そのお名前は、僕がお呼びする時にも使っていいのでしょうか」

 少し意外な質問に五郎はうしろをついてくる少年を肩ごしに見た。名を尊び、はばかったりあるいは忌んで口にせぬのは上品じょうぼんの考え方だ。下層の民はそもそもそうした人びとに触れる機会がないからそういう考えを持たない。せいぜいが呼び捨てにするのはまずい、狗と蔑む言葉で呼ぶのはよくない、ぐらいのことを考えるのが関の山で、入ったばかりの使用人であまり生まれのよくないものは大兄を指す言葉に困ってお犬様などと口走り失笑を買うこともある。

 となると、先ほど五郎に誰何されて口ごもったのは、大兄に呼ばれたと言いたいがなんと口にしていいか迷ったゆえだろうか。

「構わぬが、そもそも我らが大兄に何か話しかけるようなことはめったにないし、ご本人のおられぬ場で軽々に話題に出してよいかたではないゆえ、慎むようにな」

 そんなことを話しながら階段を一階まで降り、井戸へ連れていく。井戸というよりはその裏手が目的地だ。板で簡単に囲ったものだが、体を洗うための洗い場がある。使用人は昼間、娼妓たちが湯を使い終わった後に日に何人と交代でしまい湯をふるまってもらうが、それ以外で体や手足などを洗う必要があるときはここを使う。

「おまえは自分で洗えると言うだろうが、洗ってこいとのお指図なのでな。すまんが俺がするぞ。服を脱げ」

 少年に手伝わせて用意されている大きな桶に水を汲み、袖をまくり上げて石鹸を濡らしヘチマにこすりつけて泡立てた。少年が驚いた顔で五郎の手元を見る。

「これか。これは石鹸という。汚れを落とすものだ。そこへうずくまれ。髪を洗う間は目を閉じておれよ。石鹸が目に入るとしみるからな」

 夏のこととて井戸水をかぶっても寒いことはない。水をかけ手早く洗ってゆく。

 本当にひどく痩せた体だった。少し丸まった背中は骨がぼこぼこと浮き出ていて、今にも皮膚を破りそうだ。ろくなものを食っていないのだろう。だが、もとの骨格や体型は悪くはないようだし、手足に虫に喰われた跡などはあるがそれをひどく掻き壊して肌に取り返しのつかないような傷をつけてはいないようだ。ごく自然にそう考えて、苦笑が浮かんだ。娼妓として買う訳ではないというのについ値踏みをしてしまう。差配の仕事が骨の髄まで染みついているようだ。

「あ、あの……」

 背中と髪を洗い終わって前へ回ると少年が困った様子で前を隠して背を丸める。

「恥ずかしいか。まあわかるが、俺もお役目なので容赦はしてやれん。手を外せ」

 手首をつかんで引くと抵抗はあっけないほど簡単に陥落した。ちらりと目をやって、たしかに年齢にしては発育が遅いようだと見てとったが表情には出さずに機械的に仕事を続ける。いちおうは五郎もそのくらいの芸はできるのだ。それが功を奏したのか観念したのか、少年もそれ以上は抵抗せずにおとなしくしていた。

「……ああ、しまったな。おまえの着るものを用意しておらなんだ」

 あらかた終わったところで失態に気づいた。久々に兄を怒らせて、動転していたらしい。常に持ち歩いている手拭いをとりあえず渡して体を拭いておくよう言い置き、屋敷の中へ取って返して行き合った使用人に適当な服をひと揃い借りた。

 少々大きかったが袖や裾をまくって間に合わせる。それを連れて戻ると、北野は一瞥して白い目で五郎を睨んだ。

「なに、それは」

「なに、というと? 言いつけのとおり小僧を洗って」

「外側のことを言ってるんだ。なんでそんなものを着せてるの」

「これは、うっかり着替えを手当てするのを忘れておって」

「だからってそんなかっこうをさせて僕の前へ持ってくるというのはどういう了簡かな、五郎」

「え、え……?」

 きつい物言いに五郎は目を白黒させる。どうやら、機嫌が直るどころか悪くなっているようだ。

 こういうときにあれこれ知恵を絞ってもまず正解には当たらない。失敗が重なるほど兄の機嫌を結ぶのは難しくなる。

「すまない、兄者。何がよくないか教えてもらえぬだろうか」

 早々に白旗をあげると北野は芝居がかったため息をついた。

「はあ……手のかかる弟だな」

「面目ない」

「あのねえ五郎。それは僕が、大嗣から、もらったんだよ? おまえ、それを今、大嗣に見せられるの?」

「あ」

「できると胸を張るほど馬鹿ならたった今ここで縁を切るよ」

「い、いや、すまぬ兄者。俺が愚かであった。申し訳ない」

 鋭い叱責に冷や汗をかきながら平伏した。まったく兄の言うとおりだ。北野が我儘をとおした形になったし人だと思うとちがうように見てしまうが、それこそ兄ではないが少年を物と考えれば、経緯はどうあれ、確かにこれは大嗣から下賜されたものだ。それに使用人の着古しを着せていたのでは、兄の面目がまる潰れではないか。北野が何より先に洗えと言ったのもそれが理由だと今さら思いいたる。

「すぐに別の……そうだ、俺の服から何か見繕って……いたっ」

 北野が傍の小卓に置かれていた菓子鉢からとった胡桃を投げたのが頭に当たって、五郎は頭をおさえるのと跳ねた胡桃を受け止めるのを同時にする。兄の不機嫌の度合いをあらわしてかなりの力で投げられた胡桃は勢いがついていたが、なんとか落とさずに受け止めた。

「本当に気が利かないなおまえは。お前のお下がりなんか、ぶかぶかで着られたものじゃないし、だいたいどれもこれも飾り気も色気もない服ばかりじゃないか。そこは僕に何を着せるのがいいのか聞くところだ」

「あ、ああ、そうだな、気の回らぬことでまったく面目ない。では兄者、これには何を着せるのがよかろうか」

「ようやくまともなことを言った」

 北野が手を差し出して、五郎は今しがたの胡桃の殻を割ってその手に乗せる。この胡桃はよく水に浸した後で丁寧に炒ってあり、こつを知っていれば簡単に割って実を取り出せるのだ。

「お前の着古しじゃなくて僕の昔のものを着せておやり。八年くらい前のだったかな、瑠璃色の胴着の揃いがあっただろう」

「あの年の瑠璃色の胴着というと、銀で海鳥の群れを縫い取ってあるものだな。……よいのか」

「いいよ」

「承知した」

 確かにこの何年かは出番のなかった服だが、割合に気に入って着る回数の多かった衣装だ。それこそ少年にやってしまえばあとから取り上げても北野が着ることはできなくなる。念のために確認すると兄が頷いたので五郎は頭を下げて命令を拝受した。

「小僧、来い」

 少年を促して次の間へ連れていく。そこに待たせて、北野の命じた一式を行李から出してきてやると、少年は申し訳なさそうに頭を下げる。

「すみません……僕のせいで怒られて」

「うん? いや、どうということはない。俺のしくじったのがよくなかった。着方はわかるか。いや、俺が着せてやる。腕を広げろ」

 あまり時間をかけてはようやく直りかけた兄の機嫌がまた悪くなる。手際よく少年に服を着付けていった。やはりあちこちが余るが、もともとゆるみの少ない服だからそのまま着せても見苦しくはなさそうだ。

「いきなりのご勘気で驚いたかもしれんが、今日はたまたま、すこしご機嫌がお悪いだけだ。いつもはとてもおっとりした、お優しく慈悲深いおかただ。このご衣装も、とてもお気に入りにしておられたものだ。それをくだされるのは、おまえをお気に召してくださったゆえだ。誠意をこめてお仕えするがよい」

 笑いかけると、少年はようやく、少しだけ頬をゆるめて頷いた。



「うん。いいね、ずいぶんましになった」

 着替えを終え、五郎に連れられてもとの部屋へ戻ると、北野は瞳を細めて満足げに頷いた。指先で彼を招く。ちらと五郎を見たら頷いたので、おずおずと近づいていった。

「そこへお座り。膝をつくんだよ」

 北野が自分の足元を指す。五郎が、さいぜんからそういうふうにしていた。まねをして膝をつき、膝の上に手を揃える。

「そう。それでいい」

 目を伏せたら、北野の手があごを下からくいと押し上げて彼に顔をあげさせた。

 息が止まった。

 なんという、美しい人なのだろうか――。

 さっきまでは自分のみすぼらしい姿にも五郎が自分のせいで怒られているらしいことにも気後れして、ずっと顔を伏せていた。北野のことは、廊下でちらりと見ただけでなるべく見ないようにしていた。冷たい声がこわかった。

 だが。

 一瞥だけでもきれいな人だということはわかっていたが、あらためて間近に見たその美しさは彼の想像をはるかに超えていた。真正面からから見るその人の美しさと笑みの甘さに胸がとくんと跳ね、そのまま早鐘を打ちはじめる。

「おまえ、汚かったけれど頭は悪くないんだね。きちんとした親に育てられたのかな。じょうずだよ」

 顔を上げさせた手が動いて、頭を撫でられた。ふわりと、ほのかな、すがすがしい香りがして、胸の奥から喜びがこみあげてくる。

「これでやっと話がはじめられる」

 彼の頭に手を置いたまま、北野は彼の目をのぞきこんでくる。近くなった距離に呼吸が詰まる。

「僕は北野。この永咲館の太夫だよ。太夫ってわかるかい? 土地によって呼び方はちがうけれど、大淵の娼家では太夫が一番格が高い。つまり、僕はこの館の娼妓の中でいちばん地位が高いということだ。ああ、もちろん、大嗣の次に、だけれど」

 まっすぐに目の奥へ視線を注いでくる、磨いた玉石のような透明できらきらする瞳に魅入られて、声が出なかった。かろうじて小さく頷くと北野は満足げに頷く。

「そしておまえは、今日から僕が飼う。西欧ではペットと言うんだけれど、猫や座敷犬や金魚みたいなものだね。僕にかわいがられて僕の無聊を慰めるのがおまえの仕事だ」

 とん、と指先がからかうように額をつつき、まだ少し湿っている髪をつまんで、ひねった。

「僕が出ていろ、ついてこなくていいと言わない時は必ず、僕の近くにいて、僕についてくること。すこしは教養があるみたいだけれど貴人の前でのふるまいはわかる? 僕が何か命令したら、はいかわかりましたで返事をすること。何かをする時には必ず僕の許しを得ること。僕より前には出ないこと。僕より頭の位置が高くなる時は必ず、そうやって膝をついて控えるか、立つ時は僕の後ろに立って控えること。わかったかい?」

 これには、かろうじて「はい」と囁くことができた。もう一つ、頭を撫でられる。

「覚えがいいね。それから、僕が機嫌が悪い時にはおまえのことを理不尽にぽかっとやるかもしれないけれど、それは、おまえがちょっとぐらいたたいても僕を嫌わないと信じているからで、おまえを嫌っているからではない。それを忘れないようにね。あと、名前は……ん、どうしようかな」

 視線が天井を見上げて、くるりと周囲をさまよう。彼にはもちろん親につけられた名があったが、この新しい主人に名をつけてもらえると聞いて嬉しく感じていることが一方では不思議で、だが一方では当然だと感じていた。

「いざとなると難しいな……たまとかポチとか呼ぶのでは楽しくないし」

 それはさすがにどうかと思うぞ、と五郎が言って、北野もそうだよねえ、とくすくす笑う。

 だが彼は、この主人がつけてくれるのであれば、それがどれほど汚い言葉であっても構わないしきっと誇らしく嬉しいだろうと思った。

「ひな、るり……」

 少し考えたあとで主人が呟いた。

「うん、そうしよう。雛瑠璃だ。どう思う?」

「よい名だな。柔らかく繊細で美しい。兄者の見立てどおり瑠璃色がよく似合っておるしな」

「そうだろう? このこには濃くて鮮やかな色が似合うと思ったんだ。それなのにおまえときたらごわごわした綿でできた生成りの野暮ったい服なんか着せてきてさ」

「いや、だからそれは俺の不明であった。悪かったと謝ったではないか。勘弁してくれ、兄者」

「仕方がないなあ。きょうだいのよしみで今回だけは許してやるよ。――ああ、雛瑠璃、この野暮天は五郎といってね、僕の弟なんだ。館では差配という、大嗣の次にえらいお役目についているんだけれど、そんなにえらい男じゃないし働き者だから用のあるときはなんでも言いつけるといいよ」

「うむ。些細なことでも困りごとは俺に言うがよい。あたう限り力になろう」

 大嗣の次にえらいというのにその言い方はすこしかわいそうではないのかと思ったが、当の五郎が得意げに胸を叩いている。

 その姿がなんだか微笑ましくてすこし笑ったら、くうと小さな音がした。

「おや?」

 北野が目を見開き、彼は鳴ってしまった腹を押さえてうつむく。顔が熱い。

「ああ、おなかがすいていたのか。ごめんごめん」

「すぐに何か持ってこよう」

 目を細めた北野が彼の頭を撫で、五郎が腰を浮かせた。

「僕も小腹がすいたな。サンドイッチを作らせてきてよ。冷製肉ときゅうりのと、甘く焼いた卵の」

「わかった。そのようにしよう」

 五郎が頷いて、部屋を出て行く。

 彼は北野と二人きりになった。

「おまえは、麺麭パンを食べたことはあるかい、雛瑠璃」

 どこもがさがさしていない、絹でできたような指先が頬を撫でて、彼は陶然とかぶりを振る。

「そう。じゃあはじめての体験になるね。小麦を焼いたものでね、ふわふわで柔らかくて美味しいんだよ」

 言いながら北野は卓に転がしてあった割れた胡桃の殻から実をつまみとって彼の顔の前へ差し出してきた。

「あーん」

 まさかその手から食べていいのかと動揺していると北野がにっこりして、彼はおそるおそる口を開けた。口の中に香ばしい胡桃が押し込まれてくる。北野の指先が唇をついと撫でて、めまいがした。

「おまえは胡桃は割れる?」

 新しい胡桃を取って北野が示す。できませんと答えるのはひどく悔しい気がした。

「教えていただけば、できるようにします」

「ざんねん。僕はできないんだ。あとで五郎に習うといい」

「はい」

 難しいのか簡単なことなのかはわからなかった。だが必ずできるようにならねばと思った。


 こうして、彼は雛瑠璃になった。



 まだ幼さの残る肢体に衣をそっとかけてやると、暗く沈んだ瞳が重そうにこちらを見た。

「……おとう、と、は」

 かすれた声が囁くように問う。

「無事や」

 力の入らないであろう体を懸命に起こそうとするのを助けてやって、背後へ視線をやる。狂おしく弟をさがす瞳が咬に抱かれた小さな姿をようやく見つけて、そのぐったりした様子に恐怖を浮かべる。

「気ぃ失うとるだけや。だいじょうぶ。なんもされてへんよ」

 壊れそうに華奢な肩を抱いてやって囁くと、ようやく安心したのかふっと体から力が抜ける。腕にかかった重みは、痛ましいほどに軽い。

「弟は眠っとるから、今は兄上でのうてええよ」

「……」

 弱々しくまたたく瞳がぼんやりと見上げてくる。乱れた髪を、指先でそっと整えてやった。

「ようがんばった――ほんまに、よう耐えた」

「…………」

 色の褪せた唇が震えた。微笑んで、頷いてみせる。

「えらかったな」

「っ……」

 うす茶の瞳に大粒の涙が湧いた。けなげに唇を噛むと目尻からぽろりと頬へ落ちる。

「……ぅ」

 頬の涙を指先で払ってやると、整った顔貌がくしゃくしゃに歪んだ。

「っ、く……ぅ…………ぁ、……っ」

 しがみついてきた体を両腕で強く抱いてやる。

 明紫の胸に顔を埋めて、少年は声をあげて泣きじゃくった。

 やがて泣き声は静かなすすり泣きに変わり、そして少年は長く重い吐息をこぼす。

「……ごめんなさい、取り乱して」

「謝ることないよ」

 吐息のように呟いた声は年齢に似合わぬ静かさで、明紫は痛ましくその髪を撫でてやる。少年はまだ涙の残る瞳を上げる。

「抱いていてくれてありがとう」

「どういたしまして」

 頷いてやりながら、泣き腫らした目で、それでも微笑んだ少年の、儚げでいてどこか艶めかしさを漂わせる表情に内心で感嘆する。

 計算はないのだろうが、それでこの表情が出せるのは天与の才といえるだろう。本人にその気があれば、相当な傾城になるだろうが――そう思って、自分も女衒が板についたとほのかに苦笑する。

「とりあえず、うちへおいで。ここよりはましなとこや。お湯も使える」

 誘うと、少年は素直に頷いた。衣を着るのを手伝ってやると途中でふと明紫を見る。

「あなたの、名前を聞いていなかった」

「そうやったね、ごめんな。自分は明紫。……けど、大嗣、て呼ばれるほうが多いかな」

「大嗣?」

「自分な、表向きは大父……今の、あのかたのな、跡継ぎ、いうことになってるんや」

「じゃあ、僕も大嗣と呼んだほうがいい?」

「どっちでもええよ」

「……ひとつ、聞いてもいいかな」

「うん」

「今言っていた、大嗣ではないほうの名前」

「うん?」

「ほんとうに、あなたの名前?」

 明紫は目をしばたたいて少年を見た。

「なんで?」

「ちがうような気がしたから」

 色の淡い瞳が、それだけに何もかもを見通しているかのように明紫をじっと見つめた。

「……そうやね」

 小さく、明紫は唇の端を上げた。

「もともとの名前とは違うよ。ここにきてから使っとる名前。みんな大嗣て呼んでこっちの名前は呼ばんし、自分から名乗る相手もおらんから馴染んでないのかもしらん」

「……ごめん」

 小さな手が頬に触れて、明紫は目を見開く。

「なんで、謝るんや」

「似合わないと言ったつもりではなかったんだ。強くて美しい名前だよ。あなたから桜の香りがしたから、もっと柔らかな名前なのだろうと思っただけ。自分で名乗ることを決めた名前だったんだね」

 両手で明紫の頬を包み、少年は真摯に明紫の瞳を覗き込む。少しだけ申し訳なさそうに、柔らかく微笑んだ。まだ少し涙の残る瞳に浮かんだ笑みは甘く、しかしどこか寂しげで、気にしていないと抱きしめてしまいそうになった。これを意図してやるようになったらたいていの相手は意のままにできるだろう。

「内緒やで」

 かわりに少年の耳元へ顔を寄せた。

 長く名乗っても、呼ばれてもいないかつての名を囁くと少年はわずかに目を見開き、そして花が開いたように微笑んだ。

「とてもあなたらしい名前だ」

「おおきに。ていうか自分、桜の匂いするんや?」

 この表情の変え方も見事なものだと思いながら首を傾げた。明らかに明紫のほうが年も上、おそらく地位も上だろうとわからぬはずがないだろうに、それでも侮られまいというような気負いを見せるわけでもなく敢えて対等に話す芯の強さも悪くない。

「自分の部屋の外にはたしかにおっきな桜の木あるけども。狂い咲きの桜でな、一年中咲いとるんや」

「ああ、その桜だ、きっと」

 言うなり少年は頷いた。

「今、香りがした。あなたと縁のある木なんだね」

「そうなんかな。翁桜、て呼ばれとるんや。……見にいこか」

 誘うと、少年はこくりと頷いた。立ち上がろうとするので難しいだろうと思いながらも手を貸すと、ややおぼつかなくはあったが自分の足で立った。話をしているうちに多少回復したのだとしても、ほとんどは精神力だろう。強い子供だ。

「……歩けるか? ちょっと遠いんやけど」

「急いでいくのは難しいかな。ゆっくりでもいい?」

「かまわんよ」

 手を差し出すと、少年は少し迷うそぶりを見せて、それからおずおずと明紫の手を握った。手をつないで、少年の歩ける速度で歩き出す。

 道中、少年は足元に目を落としたまま、黙っていた。明紫もとくには何も言わずに傍らを歩く。

 永咲館に戻り、湯を使わせ、衣服を替えさせてやった。弟はまだ意識は戻らなかったが、兄が体を洗ってやったらしい。

 清潔な衣服に身を包んだ少年に葛湯を出してやる。湯呑を両手で包んで飲む姿は、年齢相応の子供に見えた。ほうと息をついて、明紫を見る。

「……ここは、どこ?」

「永咲館。この街にある妓楼や。……妓楼ゆうて、わかるかな」

 少年の来し方を考えると知らなくてもおかしくはなかった。問うてみると不確かそうに首を傾げる。

「さっきみたいなことを、するところ、かな」

「うん。合っとるよ。……ああ、けど、べつに客はとらんでええんよ。自分もしてへん。弟とここで静かに暮らしとればそれでええ」

「……しても、かまわない?」

「え」

 出自からも、年齢的にも嫌悪感を示すかと思っていた少年から予想外の言葉が出て、明紫は目を見開いて首を傾げた。

「娼妓になる、ゆうことか?」

「うん」

「まあ……そうしたいんやったらかまわんけども。ここにおる代わりに、やら、そういうつもりやったら気にせんでええんよ? 自分らはお父はんに呼ばれてお仕えするのが仕事や」

「どうせ、同じことをするんでしょう。だったら毎日したって同じだ」

 ぽつりと呟いた言葉に混じっていた捨て鉢な響きに明紫は少年を痛ましく見つめる。

「それでええんやったら、ええよ? けど、よう考えてからにしたほうがええ。今は疲れとるやろし、気持ちもまだ乱れとるはずや。落ち着いてからもっぺん考えてごらん」

「……そうするよ。ありがとう」

 少年は瞳を伏せ、それ以上は言い募ることなく頷いた。憂いを帯びた影が白い頬に落ちて、清潔な中にほのかな艶かしさを感じさせる。

 見世に出せばこの少年の手を求めようとする客は多いだろうと思うと少しばかりもったいないと思い、そう思った自分にまた明紫はほのかに苦笑した。



 居間の扉が遠慮がちに叩かれたのは、兄弟を永咲館へ入れて何日かしてからだった。咬が扉を開けると、弟の手を引いた兄がそこにいた。

「すこし、いいかな」

「もちろんや。おいで」

 微笑んで頷く。並んで、長椅子に腰をおろした。

 兄の傍らに、弟もちょこんと座り込む。だがぼんやりとあらぬかたを見ていた。意識は戻ったが、一言も発さぬらしい。時折、ひきつけたかのように声を振り絞って泣く声が聞こえる。まだ先日の出来事を心が受け入れきれていないのだろう。

「あのね」

 弟の手を片方の手でしっかりと握ったまま、少年は明紫を見る。

「僕、やはり娼妓になろうと思う」

「……決めたんか」

「うん」

 少年は静かな表情で頷いた。

「ここで、いちばん位の高い娼妓って?」

「太夫やな、大淵では」

「なら、僕は太夫になりたい」

 大胆なことを言って、少年は傍らの弟を見た。

「弟は、まだ心が目を覚ましていないけれど、いずれはきちんと目を覚ますと思うんだ。ゆうべね、少しだけ、目を覚ました。すぐまた眠ってしまったけれど、あの時のことは、何も覚えていない、……というか、僕が兄だということ以外は、何も覚えていなかった。思い出そうと考えているうちに真っ青になって叫び出して、泣くのをなだめたら眠ってしまって、それからまた、起きてこない」

「……そうか」

 痛ましさに眉が寄る。

「でも、あれを覚えていないのは、むしろいいことだと思うんだ。でも、それだとどうして僕たちがここにいるのか、説明ができないでしょう? だから、僕と弟を、あなたが買ってここへ連れてきたことにしてもらえないかな」

 兄の静かな表情には迷いはなかった。

「自分で言うのもどうかと思うけれど、僕は見目は十分に売り物になると思うんだ。でも、自分を安く売るのはいやだ。だから、太夫が一番高位だというなら太夫がいい。そのために必要なことがあるなら全部覚えるし、身につけるよ。だから、お願い」

 真摯な瞳が明紫を見つめた。ちいさく、明紫は笑う。頷いた。

「わかった。ええよ、……けどうちではふつうは娼妓は育てへんから、どこか別の娼館に売られてきたのを買い取ったことにしよか」

「弟も身を売っていたことにならない?」

「してへんかったことにしたらええ。まだ小さいんやし、怯えてどうしても床に入れへんで客がとれへんかった。だからお兄ちゃんが二人ぶんの借金を背負うことにしたけど、宿が安うていつまでも借金が返されへん。自分はもっと高う売れるはずや、永咲館で買うてくれ、ゆうてきた、て筋書きはどうや」

「……悪くないね」

 その案が気に入ったらしく、少年はくすっと笑った。

「ありがとう大嗣。必ず、自分の大言壮語に見合う太夫になるよ。まずは何をすればいいかな」

「教養を積むことやね。出て左の、二つめの部屋が書庫や。読めるだけお読み。歌や詩や物語をたくさん知れば自分でもええ歌や詩が作れる。わからんことは聞いておいで」

「わかった」

「閨での所作は、自分も教えるけど、誰ぞ頼んで教えてもらお。立派な太夫に仕上げたるよ」

 滑らかな頬に手を添えて、顔を寄せる。

 薔薇色の唇をついばむと少年はうっとりした様子で瞳を閉じた。


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