3 御寮

 鞍替えの娼妓が永咲館に入ったのは、夏が盛りを迎えようとしている頃であった。


 その日は朝から門から玄関先までずらりとさまざまな道具類を捧げ持って人が列を作った。泊まりの客たちが帰ってゆく時間は避けられていたが、後朝きぬぎぬを楽しんでいたり寝坊したりで遅めの出立になった客たちはもれなく目を丸くした。

 もちろん、彼らも永咲館で遊ぶような客だ。運び込まれようとしているのはさまざまな家具や調度品、そして道具のたぐいで、そんなものを堂々と表玄関から運び込むのであれば新しい、しかも格の高い娼妓の輿入れに決まっている。敵娼あいかたにこれは何かと聞くような野暮なことはせずに黙って馬車や俥、あるいは自動車に乗り込んだが、並ぶ道具類を横目で確かめて新しい娼妓の品定めぐらいはしただろう。一夜くらいは揚げてみようかと考えた客もいたはずだし、そもそもこれはそのための行列だ。

 事前に綿密な打ち合わせがなされ、抽斗よりも先に抽斗に入るものが持ち込まれぬように、部屋の出入りや階段の上り下りで混乱が起きぬよう、無駄に時間をかけすぎぬよう、並ぶ順番も前へ進む速さも立ち去る時に通るべき場所も厳密に決められていた。順に己の担当するものを決められた部屋へ持って入り、決められた置き場所、しまい場所に一寸の狂いもなく置き、あるいはおさめて退出する。そのまま再び別の荷物を持って列に並ぶ者も多かった。

 ここで万事を粛々と執り行い、妓楼側に迷惑をかけないのが道具を納める側の矜持で、義務でもあった。万一混乱を招けば以後こうした行事があった時に妓楼に声をかけてもらえなくなる。どこから送り込まれた者も緊張を含んだ神妙な表情をしていた。

「次。螺鈿づくり、流水模様の化粧道具入れ。よし」

 玄関口では、五郎が分厚い目録を手に運び込まれる道具を一つひとつ検め、品物に間違いがないか、決まった順番の通りであるかを確かめている。

 こうした麗々しい行列は、すべての娼妓が行うわけではない。むしろ、滅多には行われない。部屋が狭ければ道具も多くは入れられないからみすぼらしい行列になるし、輿入れの時から立派な部屋を得るには相応の保証金が要る。その上必要な道具を全て買い揃え、運び入れる人数の手配をしてくれる者たちへの顔つなぎ、それぞれへの十分な心付けなど、大から小までさまざまな出費は莫大になる。その一切は妓楼には頼らず、娼妓が己れで賄わねばならない決まりだ。

 采配する五郎も、輿入れ行列を仕切るのは初めてだった。差配は輿入れの全責任を負っている。大役は誉れだが予定通りに全てを運び込み、部屋の主を迎え入れることができなければ恥をかく。やはり多少緊張しているのか、いつもよりきりりとした表情の端々にぎこちなさが見えた。


 朝から続いた行列がついに最後の一人となった。鮮やかな花を活けた大ぶりの花瓶が水の一滴花粉の一つも落とすまいと慎重に運び込まれていき、もう一度目録を見直した五郎がほっと息をつく。行列の通り道から少し離れたところで、腕組みをして壁によりかかっていた咬の前までやってきた。

「お見届け、ありがとうございました」

 丁重に頭を下げた五郎に、咬はただ頷きを返す。咬は明紫のもので、明紫の名代としてここで道具が運び込まれるのを見ていたが、永咲館に属してはいない。差配を相手にねぎらいを口にする立場ではない。

「御寮も、ほどなく到着いたします」

 これにも、頷いた。陽の下では蔑まれる生業だからこそ、館へ入るまでは輿入れと言い御寮と呼んで格を上げる。

 ここにはもう用はない。その場を離れ、サロンの一画にある扉から奥へ入る。そこが、応接室を兼ねた楼主の執務室だ。

「ああ、咬」

 デスクで書類を見ていた明紫が顔をあげた。

「終わったみたいやね。がたがたせんようなった」

「ぎりぎりだったな」

「ん? ……ああ、ほんまや」

 小首をかしげた明紫が蹄の音に気づいてうっすら笑う。壁の時計へ目をやった。

「ぴったり、予定通りやね。五郎ようやったなあ」

 道具の列を追い越して本人が先に館に入ったのでは順序を知らぬと笑われることになる。だがあまりにも遅れれば勿体をつけていると嘲られる。だから行列の終わりと当人の到着の間はあまりとらない。行列が滞れば到着の時間を調節するが、そうせずにすんだのは百人を超える人数の動きを綿密に計算し組み立て、打ち合わせを重ねて準備をし、指揮をした五郎の手腕だ。

 蹄の音が止まる。歩みをとめた馬が鼻を鳴らす音が遠くでかすかに聞こえた。

「大嗣」

 少しして、戸をかるく叩く音がして五郎が扉を開けた。

「御寮をお連れいたしました」

「お入り」

 明紫が頷くと五郎は一礼し、背後を振り返って「進まれよ」と先導してきた相手に声をかけた。

「失礼いたします」

 かつん、と靴の踵が床を打つ音と柔らかな声が聞こえた。

 入ってきたのは、なるほど麗人だった。

 肌の色が抜けたように白く、肩の少し上で切り揃えられた髪は漆黒。唇にはくっきりと濃い赤の紅を差している。白のたっぷりしたシャツに身を包んでいたが、細身の、少年めいた飾りけのないサスペンダーと腰の細さを強調する真紅のカマーバンド、そして黒のぴったりしたパンツがむしろその内側にある肢体の細さを誇示していた。

 石でも嵌め込んだかのような、作り物めいた鮮やかな濃い空色の瞳が明紫を見た。一瞬、濡れたような輝きを放って瞳孔が広がったがすぐにその瞳は伏せられた。左胸に手を当てて片足を引き、丁重に腰をかがめる。

「松江でございます。大嗣様にはご機嫌うるわしく」

「様はいらんよ。身内になるんやからな」

「さようでございますか。では、――大嗣。僕をお引き受け頂いたこと、心よりお礼申し上げます。どうぞ末永く、よろしくお願い致します」

「よう来やったね。……お座り」

 応接椅子を示す。松江は軽く膝を折って一礼し、デスクから立ち上がった明紫がやってきて低いテーブルをはさんだ向かいの椅子に腰を下ろすのを待ってから椅子の端に品よく腰かけた。明紫が目線で促し、一礼した五郎が証文を広げて松江の前へ置く。

「目ぇ通して、名前書いて」

「はい」

 松江は頷き、素早く文面を確かめて五郎が差し出したペンをとった。

 それは永咲館が娼妓と交わす契約書だ。花代の金額と配分をはじめとしたこまごました取り決めは、すでに五郎が説明し交渉して合意がとれているから、取り決めのとおりに書面が作られているかを確かめるものでしかないが。

 松江が署名した一枚を引き取って、五郎はもう一枚、同じ内容のものを広げる。松江はそこにも名を書いた。五郎があらためてその二枚を明紫の前へ並べ、確認して頷いた明紫が一枚をたたんで松江に差し出した。

「これで、正式にうちの妓や」

「ありがとうございます。嬉しいな……」

 証文を受け取って、松江はそれを抱きしめるようにうっとりと己れの胸に押し当てる。伏せた長い睫毛の下から青い瞳が強い光を浮かべて明紫を見た。

「必ず、松江を引き取ってよかったと思っていただけるようにいたします」

「楽しみにしとるよ」

「……あの、大嗣。大嗣に僕から話しかけては失礼にあたりますでしょうか」

「構わんよ。それに、そんなに堅苦しゅう喋らんでもええ。身内やゆうたやろ。なんや?」

「ああ……!」

 やんわり笑んで明紫が言うと、途端に松江の様子が変わった。大きく見開かれた瞳が潤み、胸の前で強く手を組み合わせる。

「なんとお優しい……それに、伝え聞いておりましたより何倍いや何十倍何百倍もお美しい。あの、……あの、大嗣。お手を戴いても? ああ、いいえ、僕ごときがあなたほどのお美しい方のお手に触れるなど万死に値する不敬。ですがどうか、そのおみ足の踏んだ床に接吻するお許しをいただけませんでしょうか」

 芝居がかった語調で身を揉み床に滑り下りて明紫の足元に跪いた松江に、五郎は目を剥き口をぽかんと開けて硬直していた。明紫もさすがに呆気に取られた顔で松江を見下ろす。だがそれもひと呼吸ほどのことで、すぐにうっすらと笑った。

「それは許可でけへんな。うちの娼妓は床なぞ舐めたりせんよ。それが芸なんやったらうちにおる間はやらんといて。けど、手やったらええよ。ほら」

「おお……」

 松江の白い頬が薔薇色に上気する。恍惚とした表情で明紫が与えてやった手を両手で包み、押し戴いてうやうやしく指の先端に赤く塗った唇を触れさせる。そして感に耐えないように額を押しつけた。

「お礼申し上げます、大嗣。御身に触れさせていただけるなど、無上の幸福」

「自分にさわったかてなんのご利益もあれへんで」

「聞くところでは、大嗣は長くこちらを取り仕切っておられるとか」

「うん、まあ大嗣は歴代、永咲館の主人て決まってるからな。ねえやんにいやんら、みんなここを仕切っとったよ」

 握られたままの手を松江の手の間からするりと抜き取って、明紫は脚を組む。明紫の足元に跪いたまま、松江はうっとりと弧を描く足先を目で追う。

「そうとも伺っておりますが、わけても今代の大嗣様はその地位に長くお留まりだと聞き及んでおります」

「さあ、どうやったやろ。忘れてしもうたわ」

「お忘れになるほどなのですね。なのにこれほどお若くお美しい。御手みてに触れさせていただいただけでも若返る心地がいたします」

「そんなんで長生きでけたらええやろな。……で、見世へ出るんはいつからにしよ」

「大嗣のお許しをいただけるようでしたら、今夜からでもお願いしたく存じますが、よろしいでしょうか」

 娼妓がはじめて見世に並ぶ時には、楼主からほかの娼妓に引き合わせるのが慣例だ。訊いた明紫に、先ほど部屋へ入ってきた時のような麗人のかおに戻った松江が唇の両端を等分に持ち上げる。明紫は軽く首を傾げた。

「……それでええんやったら構わんけど、なんやせわしいな」

「ああ、ごめんなさい大嗣。はしたなかったでしょうか」

「ええよてゆうてるよ。けど、なんで?」

「だってもう、おつとめを休んで十日以上になるんです。おなかも、ずっとからっぽで」

 青い瞳がうっとりしたような艶を放って、ほっそりした形のいい指が己れの下腹部を撫でるようにやんわりと押さえる。

 それは、女が孕んだ子を慈しむ時のようなしぐさだった。だが男のはらに子は成らない。娼妓のそこに入るのは客の男根とその吐き出す精だ。

「おつとめ、好きなんか」

「はい」

 作りものめいた青い瞳の瞳孔が輝いた。この娼妓は笑う時に瞳を細めるのではなく目を見開くようだった。

「好きでなければこういったお館には参りませんでしょう? それに、もともと独り寝が苦手なんです。人肌に寄り添っていないと寂しくて、あまり眠れなくて」

「おやおや。とんだ甘えん坊や」

「よく、かか……楼主に言われておりました。いつまで抱き枕がないと眠れないのかと」

「かかさま、て呼ぶおうちやったんか」

「お恥ずかしい」

 言い直したのに微笑した明紫に松江もはにかんだように笑って頬を染める。

「育ての親でもありましたので、つい」

「あった、ゆうことは亡くならはったんか」

「いえ、変わらずもとの家で楼主をしておりますが、縁を切りましたのでもう母ではございません。大嗣にご迷惑はかかりませんからどうぞご安心なさって」

「別に縁があっても迷惑にはならんけどな。まあ、ええよ。そんなら今日から降りてきたらええ」

「ありがとう存じます。よろしくお願いいたします」

「松江」

 頃合いをはかっていた五郎が声をかけた。

「そろそろ見世も口開けの準備で忙しくなる。部屋へ案内しておこう」

「……はい。お願いいたします、五郎さん」

 ちらりと振り返って頷き、松江はうやうやしく明紫の膝下から後ずさって立ち上がった。

「……松江」

 明紫が呼ぶと、はい、と松江が首を傾げた。

「なんで、かかさまと縁切ってまでよそへ鞍替えしよう、て考えたんや?」

「かかが老いて醜くなったので」

 青い瞳が強い光を宿してまたたき、赤く染めた唇の両端が持ち上がった。

「僕を抱える楼主には、大嗣のような、若く冴え冴えとした美貌の持ち主であってほしいのです。楼主は娼妓すべての上に立つおかた。それが醜く老いさらばえた老女ではとても心を捧げて仕える気にはなりません。こちらへ移ることをお許しいただいて、僕は本当に果報者です」

 では、と会釈した松江が出ていき、明紫はかるく眉を上げて肩をすくめた。

「おお、こわ」

 奥の柱の影から、北野が出てきた。両腕を抱いて、大げさに震え上がったふりをして見せる。

「見た? あの、五郎を睨んだよ」

「すごい目やったね」

 明紫もくすっと笑って頷いた。

 松江、と五郎が呼んだ瞬間。一瞬だけではあったが、松江の瞳に憎悪に近い怒りが浮かんだ。そこまでは丁重に、それこそ最上級の花を扱うようにうやうやしく接していた五郎に呼び捨てにされて、飼い犬に手を噛まれたような気がしたのだろう。

 正式に証文を交わして松江は永咲館の娼妓になった。それは差配である五郎の下についたということでもある。相手が賓客と娼妓では自ずと接する態度は変わる。変える必要がある。

 分かっていることではあっただろうが、一瞬、切り替えが間に合わずに差配風情が、という思いが出たようだ。

「あの目も芝居なら相当な役者だけど、そこまでじゃなさそうだ」

 北野がこちらへやってきたので、咬は少し位置を動いた。短い視線でちらりと笑って、北野は今まで咬のいたところから明紫の首に腕を回して抱きつく。振り仰いだ明紫が微笑して北野の陽だまり色の髪を柔らかく撫でてやった。

「面白そうだから入れてやりなよ、とは言ったけれど。またずいぶんと真っ黒いのが来ちゃったねえ」

「そうやね」

 苦笑して、明紫も北野の評に頷く。

「早まったかな。迷惑をかけたらごめんね」

「いや、真っ黒なわりにとくに悪意もなさそうや。たいしたことは起こさんやろ」

「そう? 大丈夫かな」

「そう思うよ。……しかし、五郎がようもあれを気持ち悪いて思えたもんや」

「僕もそれは思った」

 明紫の言葉に北野も頷いた。五郎はただの人だ。ああしたものを感じ取る能力はない。

「いちおうは僕と血を分けてるから、そのせいかな。……だと、いいんだけど」

「お姫さん」

 明紫の肩に顔を押しつけた北野の頭を、明紫はぽんぽんと子供をあやすように叩いてやる。

「心配せんでええ。五郎は変わっとらんよ」

「そうかな。……今はよくても、あの妓が、変えてしまわないかな。あの真っ黒いものに触れて……変わってしまったりしないかな」

 消えそうに細くなった声に、明紫は瞳を和ませて北野の頭に自分の頬を寄せた。

「咬がおるよ」

 明紫の言葉に北野は顔をあげた。明紫に抱きつくために身をかがめた体勢のまま、咬を振り仰ぐ。うすい茶の瞳が狂おしい光をたたえて咬を見つめた。

「頼むね」

 訴えた声はひどく頼りなく、不安と悲哀を含んでかすかに震えていた。小さく頷くと、その瞳が泣き笑いのような複雑そうな笑みを浮かべた。すぐにそれはどこかへしまいこまれ、いつもの北野の顔に戻る。

「……あのさ。こういうときくらい、心配するな、俺に任せておけ、とかさ。そういう頼もしそうなことを言ってくれてもいいんじゃないのかな」

 咬は答えずにただその瞳を見返す。

「ちょっと。なんとかお言いよ」

「こらこら、お姫さん」

 笑ったのは明紫だった。

「無理ゆうたらあかん」

「ええー。たまにはいいと思うんだけど」

「あかんあかん。それが聞けるんは、自分だけや」

「あ。のろけたな」

「ふふ」

「もう。僕をあてたってなんにもならないだろう」

 あらためて、北野が明紫の首に抱きつく。明紫の肩に頭を乗せて、小さく息を落とした。

「ごめんね大嗣」

「ん?」

「誰よりもそれを言ってはいけない筆頭が僕なのに――きみたちを羨ましいと思ってしまって」

 明紫は微笑し、何も言わずに肩口の北野の頭を撫でてやった。



 肩が大きく上下する。呼吸が荒い。

 弾んで攻撃を逃れた澱が別の澱と衝突し、融け合って一つになる。

 目が生じた。汚らしい濁った黄色が、だが間違いなくぎろりと咬を睨みつける。

「シッ!」

 気合と共に歯の間から白くきらめく針が飛ぶ。撃ち込まれた力に澱が大きくしなる。

「ッ――!」

 もとの形に戻る反動を利用して、澱から礫のようなものが咬へ向けて放たれた。飛びすさって避ける。そして着地と同時に地を蹴った。高く跳躍する。

 上から飛びかかり膝で地面へ押さえ込む。頭部を左手で地面へ押しつけた。

「はァッ!」

 気合をかける。腕の龍が赫く輝き、まばゆい光を放つ。火花があがり、ばちばちと音をたてて弾ける。

 澱が崩れ、蒸発していく。全てが消えてからしばらく気配をさぐり、間違いなく消したことを確認してゆっくりと立ち上がる。頬へ流れ落ちてきた汗を上着の肩口にこすりつけて拭った。

 周囲に点々と散る小さな澱を拾って握り潰し、あるいは踏み潰して消していく。

 ようやく残った破片の処分が終わった。荒い呼吸に肩を上下させて、咬はしばらくそこに立っていた。

 いや――足が動かなかった。

 呼吸が整わない。喉の奥から濁った唸り声がこぼれた。剥き出した牙の先端からぼたりと唾液が落ちる。

 きつく目を閉じた。眉間に意識を集中し、体内を暴れ回る気を抑え込み、なだめ、鎮めて、整えてゆく。

 徐々に、呼吸が深くなる。大きく息を吸って、目を開けた。手の甲で口元を拭う。

 もう、そこに牙の感触はなかった。

 あらためてあたりを見回して、見落としている澱がないことを確かめる。

 ここは、終わりだ。

 だが、まだだ。

 澱の気配が、ほかからもする。

 夜の間に潰しておかなければならない。澱は日が昇ると影に溶け込んで気配を消してしまう。次の夜にはさらにふくれあがっている。

 もう一度大きく息を吸い込み、咬は気配を感じる方向へ、よろめきながら足を踏み出した。


 ふと、兄が宙へ視線を向けた。うす暗がりの中、体を清めてやっていた五郎は首を傾げて兄の顔を見る。

「どうした」

「……ううん」

 兄が、眠っているといえ客が傍らにいるというのにほかへ気をとられるなどめったにあることではない。低く声をかけると、北野は小さくかぶりを振った。

「なんでもない」

「……兄者?」

 そう言いつつ兄が体重をかけてきて、五郎は戸惑う。

「何かあったのか」

「なんにも」

 目を伏せて北野はまた首を横に振る。

「何もないし、何もできないんだ」

「なんのことだ」

「なんでもないよ」

 また言って、五郎の肩に頭を預ける。

 時折、兄はこうして五郎の手の届かない場所へいってしまう。何を気にかけているのか教えてくれと言っても何も言わない。

 それでもきっと、こういう姿を見せてくれるようになっただけ、ましなのだろうと、思いはするのだが。

 相談相手にはなれずとも気にかかることを明かして気を軽くするだけでもいい。物思いに沈む間にもたれる衝立ではないものになれるのは、いったいいつになるのだろうか。

 どこか沈痛にあらぬかたを見つめる兄の横顔に、五郎は切なく唇を引き結んだ。



 どこかから女たちが賑やかに笑い合う声が聞こえてきていた。

「盛り上がっとるみたいやね」

 五郎の差し出した書面に署名を入れながら明紫がほんのりと笑う。五郎はいくらか恐縮した表情で一礼した。

「お耳障りでしたら静かにさせますが」

「いや、ええよ。松江やろ」

「はい」

 松江が鞍替えしてきて数日。かつて五郎が評したように男でありながら男装した女を思わせる独特の美貌と雰囲気が目を引いて客にも評判がいいが、意外なことにそれ以上に松江を気に入ったのは永咲館の妓女おんなたちだった。やはり松江の男とも女ともつかない外見に、自分たちを買う客とは好みがかち合わないと早々に飲み込み、一方で松江が北野に次ぐ格の部屋を手に入れているにもかかわらず妓女たちをお姉さまあねさまと慕ってなにかと頼り、立てるのですっかり気分をよくしているようだ。

 昼の間、松江の部屋には入れ替わり立ち替わり妓女たちが入り浸って茶菓の振る舞いを受けお喋りに花を咲かせている。聞こえてくるのはその賑わいだ。

 妓楼は家と呼ぶこともあるように抱えられている娼妓たちの間に家族のような連帯感が生まれることはままあるが、それは多く互いに借金に縛られている同じ境遇への同情と共感から生まれる。礼儀としてある程度互いに親しくはしても独り立ちの娼妓ばかりの永咲館でこれほどの親密そうな集団が形成されることはまれだ。

 こういったものは下層の者たちが寄り添い合うか、上の者が腕を広げなくては生まれない。永咲館の娼妓の間に互いへの憐憫や共感はないし、もっとも上に位置する明紫も北野も二階の娼妓たちとの交流を求めないからそうした集団は生まれなかったが、もとより女はそうして群れ合うことを好む性質を持っている。北野に次ぐ位置に入り込んできた松江が古参の娼妓たちをなにかと頼って招き入れるのだから、妓女おんなたちが群れ集うのも当然のことだった。

「上手に立ち回っとるんやし、水さすことない。五郎もそう思うて放っておいとるんやろ」

「ご賢察恐れ入ります。……ところで大嗣」

「うん?」

 仕上げた書面を五郎に差し出して明紫は首を傾げる。次の契約書を差し出して五郎はやや微妙な顔をした。

「たまたま昨日、漏れ聞いたのですが。松江と妓女たちが、美貌を保つためにどのような工夫をしておるかという話をしておりまして」

「……うん」

 手をとめて、明紫は顔をあげた。

 それは妓女おんなたちがよく興じる話題で、さして珍しいことではない。その中に、いちおうは男の松江が一人混じっているというのは、やや珍しいかもしれないが。

 それにしてもとりたてて報告を要する話題には思えない。だからこそ、五郎がそれを言い出したのは妙だった。

「どないした?」

「いえ、その」

 自分から言い出したわりに五郎は歯切れ悪く口ごもる。

「話していた内容は、あの店の白粉は肌荒れを起こしにくいだの、どこそこの按摩に揉まれると若返るのと、他愛のないようなことばかりだったのですが。そのうちに、妓女の一人が、どれほど頑張っても最後はしわくちゃだと笑いまして」

「うん」

「それに松江が、僕は老いて醜くなってしまうくらいなら、その前に死んでしまうほうがいいなあ、と申しました」

 五郎は以前、松江の品定めから戻った時のような表情をしていた。

「その、以前大嗣がそういうことは隠すなと仰せになりましたので申し上げますが。俺はその時、その――」

 そこまで言って、なおも五郎は言い澱んだ。

「言いや」

「……吐くかと思いました」

 明紫にやや声を強めて促されて、五郎はようやくその言葉を吐き出した。

「なぜそのように感じたのか、わからんのです。たまたま部屋の前を通って、衝立の向こうから楽しそうに話す声が聞こえてきただけなのです。なのに、ぞっとして、手足が、冷たくなって。そこでその場を離れ……いえ、それ以上聞いていられなくて、その場から逃げ出しました」

 思い返しただけで悪心が甦ってきたのか、五郎は顔を青くして口元を手で覆う。デスクの上で手を組んだ明紫が背後の咬を見上げた。目線がちらりと背後を示して、咬は頷く。カウンターへいって、並ぶ瓶から強い蒸留酒スピリッツをショットグラスに注いで戻り、それを五郎に差し出した。

「えっ」

「気つけや。あったほうがええ顔しとるで」

「え、いやしかし」

「女郎屋の差配が酒の一杯ひっかけたくらいで酔うたりせんやろ。お飲み」

 むしろ五郎が慌てているのはおそらく大嗣に気を遣わせて大兄に手ずから酒を用意させてしまったことだろうが、明紫はそれには触れずに重ねて促した。

「……では、ありがたく頂戴致します」

 観念したらしい。恐縮した様子で五郎はグラスを捧げるようにして受け取り、咬と明紫それぞれにかるく頭を下げてからひと息に呷った。ぎゅっと目を閉じて酒が内臓へ染みていくのをやり過ごし、長く、深い吐息を吐き出す。

「申し訳ありません、取り乱しました」

「いいや、よう言うてくれたよ。あとでお兄ちゃんに頭撫でてもらうとええ」

「えっ。いえあの」

「気ぃ悪いの、楽になるやろ。五郎は昔から、お兄ちゃんの手がいちばん効くんや。自分からゆうとくよ、ええ子やったから五郎のこと褒めて撫でたって、って」

「い、いえ大嗣、兄はそんなことを大嗣に言われたら絶対にからかうので、できれば兄の耳には入れずに」

 五郎が慌てて手と首を振っていると、戸口から五郎さん、と呼ぶ声がした。

 声をかけた上であってもこの部屋に足を踏み入れることが許されているのは基本的に差配と差配が伴った者、そして表立って許されているわけではないが北野だけだ。ほかの使用人は戸口の外に控えて五郎を呼ぶ。それも、明紫の用についている時に五郎を呼ぶことは滅多にない。ここで最優先されるべきは主人である明紫だからだ。逆にそれでも呼ぶというのはそれほどのことということだ。

 一礼して中座を詫びて、五郎が戸口へ向かった。扉の外の使用人と何か低く言葉を交わし、そして急いだ様子で部屋を出て行った。

「……お使いやな、あれは」

 明紫がぽつりと言った。咬も小さく頷く。

 果たして、さほどたたずに戻ってきた五郎は奉書を手にしていた。

「大嗣、お館よりお文が」

「ん」

 頷いて明紫が手を差し出す。五郎はその手にうやうやしく奉書を乗せた。無造作に開いて一瞥し、明紫は五郎に目を戻す。

「北野呼んできて」

「――はっ」

 予測はついていただろう。緊張の面持ちで、五郎が深く頭を下げた。



 その日の北野の装いは濃い紫紺の柔らかな布地に金糸で繊細な蔓草の模様を縫いとった長衣トーガだった。頭にはやはり黒に近い深い紺の薄衣をかぶり、縫い取りと意匠を合わせた金の飾り環を乗せて押さえている。喉元と、短めの袖からのぞく腕を金を象嵌した幅広の象牙の装身具で飾り、耳飾りもやはり象牙と金だ。明紫はたとえ華やかな縫い取りや刺繍を施したものでも黒を基調にした服ばかりを着るが、北野はその時の気分と客でどんな色も身につける。

 肌の白さを際立たせる装いの中で、紫がかった深いあかに塗られた唇がひどく淫靡だった。

「どうかな、大嗣」

 下りてきた北野は主階段の下で待つ明紫に腕を広げて見せる。

「文句なしの別嬪や」

 明紫は瞳を細めて、北野の引き締まった腰に腕を回した。

「大嗣に褒められるのはどのあるじに褒められるよりうれしいな」

「いつも褒めとるやないか」

「何度だって大嗣に褒められるのは嬉しいんだよ」

 肩を並べ頬を寄せ合って言葉を交わしながら玄関へ向かう。

 車寄せには自動車が待っていた。

「じゃあ。行ってきます」

「うん。よろしゅうな」

「はあい」

 うすものをかるく持ち上げて明紫が北野の頬に接吻する。

 それを合図に、五郎が後部座席のドアを開けた。

 弟にちらりと視線だけで笑いかけて北野が裾をさばいて車に乗り込む。丁寧に、五郎がドアを閉めた。

 それを見届けて、明紫が咬を見た。

「……頼むな」

 短い言葉に小さく頷く。車の反対側へ回り、助手席に乗り込んだ。



 北野と咬を乗せた自動車が永咲館の敷地を出ていった。

 そこまで見送ってきびすを返すと、一歩さがったところに控えていた五郎が明紫に丁重に頭を下げる。

「お見送り、ご苦労さまでございました」

「五郎もご苦労さん。夕方までお兄ちゃんおらんけど、泣いたらあかんよ」

「な、っ……泣いたりなどいたしません!」

「ふふ」

 律儀にからかうたびに顔を赤くするのを笑って、館の中へ戻る。

「大嗣」

 主階段を二階へあがると、声をかけてきた娼妓があった。松江だ。

「北野のあに様はどちらへお出ましで? いつに増して輝かしい御寮姿でいらっしゃいましたが」

「お父はんとこや」

「大父様……? 大父様は、兄様をお召しになられるのですか?」

「うん。たまにやけどな」

「大父様は、こちらへはお渡りにならないとお聞きしましたが、お手元へお召しにはなるのですね。……お声がかかるのは、北野兄様だけなのでしょうか」

「そうやね、おひいさんがお気に入りなんや」

「兄様のお客さまは、ほかの花には見向きもなさらなくなると聞きます。大父さまも、そのお一人なのですね」

「ああうん、そうなるかな」

「でも」

 ちらりと、濃く長いまつげの下から視線が明紫を窺う。

「なぜ五郎さんではなくわざわざ大兄をお供に? 兄様だって、五郎さんをお連れになったほうが気心も知れていてお楽でしょうに」

「松江」

 裏階段をあがってきた五郎が苦い顔で松江を遮った。常時気軽に主階段を登り降りできるのは明紫と咬、そして北野だけだ。使用人は目立たないところに作られている裏階段を使う。娼妓は見世に出る時、客と部屋へあがる時、そして客を送り出す時には主階段を使い、それ以外は基本的にやはり裏階段を使う。とはいえ、そもそも客を送り出したら夜まで下へは下りないことが多いから裏階段を使うのはやはり使用人だけだ。

「詮索が過ぎる」

「あ……これは失礼を」

「ええよ、五郎。松江は来たばかりや」

「そうは参りません、大嗣。新参であればこそ、今のうちにわきまえさせておかねば。……俺が小僧の時分にひどい粗相を働いて、以来あちらのお屋敷には出入りを禁じられておるのだ。それで仕方なく大兄が介添えをしてくださっている」

「……まあ」

 しかめつらのまま言った五郎に松江は目を丸くした。

「大嗣が申されたのでは俺の恥を広めることになる。お困らせするな。聞きたいことがあるなら大嗣ではなく俺に聞け」

 きょとんとした表情がふわりと笑みに溶けた。

「……はい、五郎さん。申し訳ありませんでした、大嗣」

「五郎のことも、あんまり困らせたらあかんよ」

「はい」

 いたずらを見つかった子供のように松江は首をすくめ、明紫も笑った。

「大嗣」

 もういいだろうと思ったか、五郎が声をかけてきた。

「先日お願い致しました、新しい酒の件ですが――荷が届きまして」

「ああ、味見か。そうやった、忘れてたわ。……すまんな、松江。もう行くわ」

「お話をさせていただけて、楽しゅうございました。ありがとうございました、大嗣」

 松江は手を胸に当てて頭を下げ、明紫が一度上がった階段を降りきってしまってもそのままでいた。



 背後の扉の奥から長い間聞こえていた、すすり泣きにも似た甘い声が絶えて、すこし経った。りん、と澄んだ音が聞こえて、咬は組んでいた腕を解く。寄りかかっていた重い扉を引き開けて入ると、寝室から北野が出てきたところだった。咬を呼んだ鈴を帯の中へたくしこんで、咬を見る。

「ご苦労さま。ねえ、うしろ、どこかおかしいんだ。見て」

 紅を引き直した唇を尖らせて、背を向けて見せる。飾り環でおさえたうすものが、腕輪の装飾にひっかかっていくらか攣れていた。

 なおしてやるために手をのばすと、象牙の腕輪の下から、どす黒い痣の端がわずかにのぞいているのが目に入った。

「腕輪つけてきてよかったよ。この間、大嗣もされていたから、場所によったら袖からはみ出すなと思ってつけてきたんだけれど。五郎に見られたら大騒ぎだ」

 一瞬手がとまったのに気づいたらしく、北野が苦笑する。

「骨まで握りつぶされて腕をちぎられてしまうかと思った。痛かったなあ。泣いてしまいそうになったよ。まあ、そんな扱いを受けても感じて啼いてしまうのが僕らのごうなんだから救いようがないけれど。……でも大父も、もう少し気を遣って加減してくれればいいのに。僕らはいちおうは人なんだからさ。そう思わない?」

 首だけをひねって勢いよく振り返るから、今度は耳飾りにうすものがひっかかった。そのまま頭を戻すと耳が傷つくかうすものが破れる。片手で北野の頭をかるくおさえ、もう片手で耳飾りから布を外した。

「……びっくりした。まさか僕の顔をさわるのかと思ったよ」

 目を丸くしていた北野がまだ少しぽかんとした様子で言った。すぐに苦笑めいた笑みを浮かべる。

「ごめんね。またやってしまった。気にかけてくれてありがとう。まだ少し気が立っているのかな、十分に鎮めたつもりだったんだけれど。口数多いよね僕。うるさいだろう。これじゃ五郎を落ち着きがないって笑えない。ちょっと待ってね――やり直すから」

 そう言って、北野は目を閉じ、かるく眉間に力を入れて額に指先をあてる。顔を少しうつむけた。

 咬は返事はしなかった。北野の背後へ回り、背に流れるうすものをあらためてさばき、裾まで形を整えてやる。

「……ありがとう」

 顔をあげて目を開いた北野は、永咲館を出発する際に階段から降りてきた時と同じ顔に戻っていた。ちらりと、薄茶の瞳が咬の目をのぞきこむ。

「僕が泣き言を言ったのは、大嗣には内緒だよ? 僕とおまえの秘密だ」

 それには、小さく頷いた。にこりと笑って、北野は優美に体をひねって向きを変える。

「帰ろう」

 促されて、歩き出した北野のあとに続いた。

 部屋を出、長く曲がりくねった廊下を、屋敷の出口へと向かう。それは、明紫についてここへ来る時も、北野の伴をする時も同じだ。

 違うのは、前を歩くのが主人ではないこと。といっても北野は明紫の身代わりだから、明紫ではなくとも大嗣ではあるとも言える。

 だが、この大嗣は明紫とはちがう言葉を喋る。

「……ねえ」

 短く声をかけて、北野が足をとめる。咬も立ち止まった。

「僕の口づけで効くなら、してあげようか」

 振り返った北野が顔の前にかかるうすものの向こうからじっと咬を見る。

「じゃなければ、寝てあげようか。それでもいいよ? 大嗣には内緒にしておくから」

 その視線に、小さく一度、首を横に振った。少しだけ身を乗り出すようにして、北野は咬の目の奥をのぞきこもうとする。

「それは、僕ではいやだという意味? 効かないという意味かな。……どちらなのか僕にはわからないけれど、だったら、早めにお言いよ?」

 まっすぐに見てくる瞳を、咬は黙って見返す。

 ふう、と北野は小さなため息をついた。

「……大嗣が悲しむよ」

 ため息のついでのようにむしろ自分が悲しげに呟き、また前を向いて歩き出す。

「気持ちはありがたくもらっておく。……それに、うるさくはなかった」

 呟くと、北野が目を見開いて振り返る。そして極上の笑みを浮かべた。



 明紫はほかの娼妓たち同様、常には永咲館からは出ない。大嗣としてなにかの式典に招かれたり、四家のいずれかから請願や招待があれば出向くこともあるが、その程度だ。誰かに会うのも、何かを買うにも、貴人は自分では動かずに相手を呼び寄せるものだ。そのほかには数年に幾度かあるかないかの頻度で外出することもあったが、それは本当に稀なことだった。

 その日、明紫が訪問したのは、そのごく稀なほうの行き先だった。相手は、おそらく今生きている大淵の人間の中では一番の年寄りだ。すでに百を超えてかなりになるはずだが老耄とはまったく縁がない。さすがに足元はややおぼつかなくなり、杖をつき、外出は控えるようになってかなりになるが、矍鑠としたものだ。

 その古い老人から茶会の誘いがあった。暑い折にこそ熱い茶をたしなみ庭など愛でませぬかという文面に明紫は口元を綻ばせて了承の旨を返した。

 明紫とは違う意味で年齢のわからぬ古翁のもてなしを受けて午後のひと時を歓談し、辞去の挨拶をして門を出た。老人の屋敷は昔ながらの造りになっており、自動車は敷地の中へは入れられない。時間を合わせて門の前へやってくることになっていた。

 外へは先に咬が出た。予定通り、車が門の前へ停まる。

 後部のドアを咬があけようとした、その時だった。

「だ、……大嗣でいらっしゃいますか!」

 聞こえた声に明紫が動きを止めた。

 かるく首を傾げて駆け寄ってきて転がるように平伏した相手を見る。

「そうやけど」

 咬は、ドアに手をかけたままでいた。危険を感じれば明紫の前へ出てかばうところだが、その必要は感じなかった。相手が、今にも失神しそうな真っ青な顔でがたがた震える子供だったからだ。

 見た目は十四か五といったところか。服はかなりすり切れて汚れており、足元は裸足。服は袖も裾も短く、剥き出しになった手足は痩せて泥だらけだ。貧民とひと目でわかるが、そのわりに服にあてた継ぎの縫い目が随分と整っている。強張った表情にはどこか気品が感じられた。没落した良家の子息か。

「あ、あの……あの」

 声を喉に詰まらせ、だが少年はごくりと喉を通してすがるように明紫を見上げた。

「あの、ぼ、僕を――どうか、買って、いただけないでしょうか」

 ひと息に言って、そしてまた平伏する。

「このようなところで突然こんなお願いをして、失礼は重々承知してしていますが、お声をかける機会は滅多になく――どうか、お許しを願います」

 やはり、ただの貧民ではないようだった。教育を受けていなければ出ない言い回しだ。

 明紫はゆっくりとまばたきをした。

「……坊ン、自分が何ゆうとるかわかって言っとるんか?」

「そ、その……つもりです」

「それこそこんな往来で自分の足とめさして、失礼致します、お許し願いますですむと思うんか?」

「覚悟は――しています。どうせ、これ以上悪くはなりません」

「大嗣」

 門の中から声がかかった。老人が騒ぎに気づいたらしい。

「じじさま」

「なかなか肝の据わった小僧ではございませぬか。事情ぐらい聞いておやりになっては。待合をお貸しいたしましょう」

「……それやったら、お言葉に甘えさしていただきますわ」

 明紫は頷いた。少年に「おいで」と声をかけて再び門をくぐる。あらためて頭を下げた少年が膝の土を払って立ち上がり、明紫に続いた。運転手に時間を置いて戻ってくるように指示を出して、咬も門内へ戻った。

 門内は叢林になっていた。細い小道がつづら折れに続き、その奥に屋敷が作られている。老人がその名に叢林のと冠して呼ばれる所以だ。

 道のあちらこちらにちょっとした四阿や縁台が用意されている。老人が現役の頃にはこれらの席には接見の順番を待つ者たちがひしめいていた。

 それは、年に何度か足を踏み入れるあの水上御殿に並ぶ、がらんとした小部屋の列を思い出させた。老人は事業を子や腹心たちに分け与えて自ら表舞台を降りたが、大父は時の流れとともに忘れられていった存在だ。街が発展し貿易を主としたさまざまな事業で四家は力を増し、ことさら大父に願い事をする必要がなくなったのだ。

 もちろん今でも大父という存在は四家の上に位置するが、すでにその存在は多くの者には半ば伝説のように思われている。人の前に姿を見せることさえ絶えて数十年を越えるのだからそれも無理からぬ話だ。

「それで?」

 門を入って最初にあった縁台に腰をおろして、明紫はあらためて自分の前にかしこまった少年を見下ろす。老人の小さな背は、杖をついているにしてはずいぶんと早々にすでに屋敷に入ろうとしていた。

「なんでうちに買われたいのか、聞こうか」

「母が――」

 少年はやはり顔をきちんと見てもなかなか聡明そうに見えた。

「重い病を得て、起き上がれなくなってしまいました。このままでは長くはないと感じます。看病する妹も、日に日に疲れきっていって」

「それやったら、うちでなくてもええやろ。買うてくれる家はなんぼでもあると思うけどな」

「……」

 少年は顔を歪める。

「それでは、足りなくて……。市中の娼家では、僕にそれだけの値をつけてはくれませんでした」

「それを、自分にもっと高く買うてほしいと?」

「はい――」

「確かに永咲館うちはよそより金持ちやけど、だからと言うて相場より高く出す義理はないな。それに、うちは基本、人を買って仕込んだりはせんのや」

「お願いいたします。妹を売るわけにはいきません。……あの、ほんとうに、なんでも、どんなことでもします。決して泣き言は申しません。母と妹を助けていただけるのでしたら僕を全て、差し上げます。どうか――」

 何度目になるのか平伏した少年を、明紫は無表情に見下ろす。

「なんでもするし、なんでも差し出す。ほんまやな」

「! ――はいっ!」

「坊ンがそんだけしてやっても、お母ちゃんも妹も助からんかもしれんよ。なんとか今日は乗り切れてもその先はないかもしらん。結局二人して安女郎に堕ちて、汚い男から病気うつされてあそこが腐って死ぬかもな。あの時死んどいたほうがなんぼかよかった、そう恨まれるかもしれんよ?」

「……でも」

 膝の上で強く握った手が震えていた。顔を上げて明紫を見る。

「それでも、今日を乗り越えることができなければ、その先はありません」

 決死の瞳が、明紫に訴えかける。

「……咬」

 ひとつ息をついて、明紫は背後の咬を振り仰ぐ。

「ええようにしたって」

 視線に小さく頷いた。少年が不安げに明紫と咬を見比べる。

「あ、……あの」

「買うたるよ」

「あ――ありがとうございます!」

 少年は息を呑み、そして感激に顔をくしゃくしゃにした。

「あとでどんなに泣いても知らへんよ」

 明紫はぽつりと言って立ち上がる。門へ向かう明紫を慌てて追おうとする少年の行く手をふさいで「ここで待っていろ」と命じ、咬は明紫に続く。

「仕組まれたな」

「うん」

 低く囁くと明紫もぼやいて唇を尖らせた。

「じじさまに貸し作られてもうた。……まあ、助かるんやけど」

 それこそ貧民街に暮らし、明日どころか今日食うもののことしか考えられないような生き方をしていて大嗣の御幸先など探り出せるものか。そういったことは明らかにしていないし、そもそも茶会の誘いが届けられたのはほんの三日ほど前だ。いや、この茶会じたいが、このための舞台装置だった可能性もある。

 生まれも育ちも悪くなく、しかし零落し困窮した家の子供。あの口ぶりではおそらく長子だろう。恩と義理で縛るには最適だ。今は薄汚れているが、造作も悪くはなかった。

 よくもおあつらえ向きのものを見つけてきたものだ。以前から目をつけていたのか、あるいはむしろその境遇に追い込んだか。その程度のことをして痛む良心を持っているはずもない。

 それが老人の手配であると気づかなかった、あるいは気づいたことを理由に少年を拒絶することもできた。

 だが、明紫はそうしなかった。

 つまりは明紫も、自分で言ったとおり、これを僥倖として老人の筋書きに乗ったのだ。

 門を出ると、ちょうど戻ってきた車が咬の姿を見て速度を落とした。



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