2 屋敷

 大陸の北東に位置する大淵は、真夏でも暑気はさほどきつくない。

 人が多く猥雑な街だから避暑に向くわけではないが、南方に本店を置く商会の主が夏の間は大淵の支社で指揮を執るといったようなことは珍しくない。

 その日明紫の迎えていた客も、そうした渡り鳥の一人だった。今年もまたお世話になりますと機嫌伺いにやってきたのだ。

 娼館の主である明紫は大淵の経済に表立った影響力は持たない。だがそれこそ大淵の経済に君臨する四家商会を構成する北東西南の四家はことごとく大父の子飼いであり、その大父の後継者として立てられている大嗣こそが明紫だ。多少なりと目端が利けば夜遊びは伝手をたどって永咲館に登楼あがり、その後もまめに通って、こうして年に何度かの機嫌伺いを受けてもらえる程度には顔を売っておくのが良策だと気づく。

「さようでございましたか」

 まさにこの男も、そうした一人だった。

「知っておりましたら餞別のひとつも届けさせましたものを。綾瀬には情のないことをしてしまいました」

「仕方ないことですわ、距離がありますからな」

 綾瀬は男が昨年まで登楼のたびに揚げていた娼妓だ。先の冬の終わりに廃業して、大淵を去っていった。

 市井には娼妓を借金で縛る娼館も多いが、高級娼館である永咲館はちがう。客は富裕層がほとんどで、酒肴を愛で居並ぶ花々を愛で機知の効いた会話を楽しみ、そして最後に仕上げとして床入りを楽しむために登楼する。金のためにいやいや股を開くような娼妓は永咲館には不要だ。

 むしろ娼妓は永咲館に入るために金を持参する。身の保証と、そしてある程度客がつくようになるまでのもろもろの経費かかりを支払うためだ。

 娼妓が安定して稼げるようになり、減った持参金が当初の額を超えればそれは返却され、以後、娼妓と永咲館は対等な契約関係となる。稼いだ金を情人に貢ぐのも、十分に金を貯めたり商売に倦んだり肉体や容色の衰えを実感したことを理由に去ることも自由だ。まれには客の囲い者として迎えられることもあり、さらにまれには正式な伴侶として迎えられることもあった。

 綾瀬は金を貯めていた。故郷で小料理屋をやるのだ、まだ見目の華やかなうちに店を持てる、永咲館で働けたおかげだと、丁重に明紫に礼を言って去っていった。随分と多くの馴染客から餞別を受け取っていたし、その中には遠方の客からのものもあった。つまり、この男は綾瀬には不要な客だったということだ。

「おらんようになったもいてますけど、新しゅう入った妓もおりますんで、どうぞまた夜の永咲館へお運びやす」

「もちろんですとも、大嗣。数日うちに、必ず」

 男はあまり長居はせずに辞去していった。長々と大嗣に相手をしてもらえるほどの客ではない自覚はあるのだろう。

「石は悪うないけど、……細工が野暮ったいなあ」

 男の携えてきた贈物を解き、紅榴石から彫り出した簪を陽に透かして、明紫は嘆息した。

「これやから綾瀬に愛想尽かされるんや」

「大嗣」

 簪をからりともとの箱へ転がしたところに、戸が叩かれた。扉を開き、五郎が中へ入ったところで膝をついて頭を下げた。

「お客様がお帰りになられたようでしたので参上いたしました。よろしいでしょうか」

「うん、ええよ。おいで」

「失礼いたします」

 明紫が気安く頷くと五郎はさらに深く頭を下げた。小腰をかがめ頭を低くしてやってくると、明紫が身を沈めている応接椅子の傍らに片膝をついてあらためて頭を下げる。

「ただいま、戻りましてございます、大嗣」

「うん、おかえり。ご苦労さん」

「とんでもない。遅くなりました」

「気にせんでええよ。……どうやった?」

「は――」

 正面の椅子を示して座れと言ったところでお客様の席につくわけには参りませんと五郎が固辞することはわかっている。明紫も無駄な言は省いて訊ねた。

「当家に置くに値する花かと存じます」

 五郎も、そこに控えるのが当然という顔で明紫の問いに返答する。

 この男は、館の主人である大嗣の代理として娼妓たちと使用人すべてを束ねる差配――その補佐役をしている。といっても真の差配は五郎が仕事を進んで肩代わりするのをいいことにほとんど表には出てこないから、実質は五郎が差配と言って差し支えない。そう言うと本人はとんでもないと顔色を変えるが。今日も、本来であれば差配があたるべき仕事、別の街の娼館から永咲館へ鞍替えしたいと申し出てきた娼妓を吟味しに、大淵を離れていたのが戻ってきたところだ。

「見た目のよわいは身上書にあるよりは若く。教養はあり、読み書きに不自由のないのは当然ですがなかなかの能筆です。漢籍も読め、歌も詩も作れるようでございます」

 五郎は懐からたたんだ紙を取り出し、捧げ持って明紫へ差し出した。明紫はそれをとって、広げる。

 そこには流麗な手跡で歌と詩が書かれていた。

「きれいな字やし、歌も詩もようでけてるね。紙の趣味もええ」

「はい。なにか大嗣へ差し上げるように申しましたところ、さほどかけずに俺の目の前で書き上げました。ほか、流暢ではないもののいくつか西欧の言語も使えるようです。人当たりは柔らかく、話術も巧みで、座持ちにも問題はございません」

 帳面に書きつけてきたものを読み上げるかのように、五郎は淀みなく言葉を続ける。

「容姿はもちろん問題なく。男にしては体つきは柔らかく、しかし媚びの透けるくねくねした印象はございません。むしろ凛々しいと申しますか、……いや、それも少し違うな。間違いなく男ではあるのですが時折、もしやこれは女が男を装っているのではあるまいかとふと疑ってしまうような、そんな倒錯的な雰囲気と言いますか」

 やや、五郎の口ぶりに迷う響きが混じり込んだ。

「……申し訳ありません。不調法で言葉をうまく選べませず」

「だいじょうぶ。ちゃんと選んどるよ。ほかは?」

「ううん……」

 五郎はさらに迷う様子を見せる。あぐねている様子に、くす、と明紫が笑って水を向けた。

「お兄ちゃんとやったら、どっちが別嬪や?」

「それは兄ですが」

 迷いなくまったくの真顔で即答した五郎に、明紫は爆笑した。背後にいた咬も思わず噴き出しそうになって、笑いを噛み殺す。

「あの……大嗣?」

 五郎が途方に暮れた顔になる。

 明紫がそもそも声をあげて笑うことじたい、めったにあることではない。すくなくとも五郎の目の前では初めてのことだろう。

 五郎は北野の弟だ。兄弟揃って郭に売られたが弟はどうやっても仕事をこなせず、始末されそうになったところを兄がかばって、弟と二人ぶんの借金を引き受けることで落着した。だが場末の郭であったため花代は安く、兄はこれでは埒が明かぬと明紫に借金の肩代わりを願い出た。

 自分は場末の淫売宿で小銭で買われるようなたまではない、もっと自分に金をかけて美しく飾り、最高の値で売る館に置かれるべきだと堂々と主張したのを面白がった明紫がその願いを聞き入れて弟ごと買い取り、永咲館に迎えた。つまり、北野は永咲館には珍しい、いや、唯一の、借金持ちであり年季を務める娼妓なのである。

 ――と、いうことに、表向きはなっている。事実は異なるが、それを知っている者はごくわずかで、弟はそのわずかな中には含まれていない。兄がそう希望し、弟は今もって、自分がどうやっても客を取れなかったため兄に身の代を引き受けてもらったと信じている。

 その恩義を感じているのもあるのかもしれないが、弟は万事において兄第一で、自由の身となっても兄の傍らを離れようとしない。兄の付き人をつとめ、甲斐甲斐しく世話を焼き、そのうち兄だけでなくほかの娼妓の使い走りなどの雑用もするようになった。

 骨身を惜しまず働き、無骨に見えて気働きもいい。口数は多くなく、口は堅く、そのくせ独特の愛嬌がある。多くの娼妓にかわいがられるようになり、それを見た明紫が差配に取り立てた。爾来永咲館の使用人たちの頭をしている。

 差配は楼主の手下てかで、使用人や娼妓をまとめ監督する立場だ。ある意味で兄より地位は上になったのだが、変わることなく兄を第一に置いて、兄の身の回りの世話に余念がない。もっとも、ほかの娼妓たちにも相変わらず丁稚か小僧のごとく用を言いつかっては菓子や酒や瓜を買いに走ったりしているから他人に尽くすのが生来のさがなのだろう。

「ああ、おかしい」

 ひとしきり笑ったあと、明紫はまだ喉を鳴らしながら椅子の上で膝を抱える。

「ほんま、五郎はお兄ちゃんが好きやね」

「……恐れ入ります」

 ようやくからかわれたと気づいたらしく、五郎は顔を赤くした。笑みを深めて、明紫は抱いた膝に頬を寄せる。

「けど、比べるべくもない、とは、ゆわんのやな。その程度には美人なんね」

「たしかに、そうかもしれません。趣はだいぶん違いますが」

「どう違う?」

「ん……そうですね。例えるなら……。……そう、兄を佳人と言うなら、あちらは麗人、でしょうか」

 ふうん、と明紫は頷く。

「麗人、か。体はどうやった」

「きれいなものでございました。傷やあばたのたぐいはもちろん、しみや痣、黒子などもございません。本人はそれをかなり自慢に思っているらしく、手入れは万全だと誇らしげに言っておりました。自分で言うだけのことはあり、たとえば爪の形なども非常に美しく、染めておらずとも輝くように磨き上げてございました」

「抱き心地は」

「評判は非常によく」

 微妙に五郎が合わせているわけでもない視線をずらし、明紫は呆れて眉を上げる。

「なんや。まっ裸に剥いて、抱きもせんで帰って来たんか」

「いや、その。商いものに手をつけぬのは仁義というものでございまして」

「なにお題目ゆうとるんや。役得やろ。そもそも、まだうちの商いもんとちがうし。それとも、そんな色気のない妓やったんか?」

「そんなことは」

「なあ五郎。ほんま、たまに心配になるんやけど。魔羅大きゅうなることあるんか」

「なっ……! ご、ございます!」

「あんま溜めるとようないで」

「溜めてはおりません! い、いや、あの大嗣、そういうお話で伺っておるわけではございませんで……」

 思わず反論してから我に帰ったらしく五郎は真っ赤になって話題を修正した。幼いころから妓楼にあり、それこそ兄が客に抱かれる同じ部屋に控えていることも多いというのに、いくつになってもこの弟はうぶだ。

「とにかく、俺は節度を守っておるだけです。とくに悪い評判はございませんでした!」

 やや語尾が怒ったように強いのはまだ動揺しているからだろう。明紫は微笑ましげに微笑し、そしてふっとその笑みを引っ込めて真顔になった。

「五郎はどう思うた?」

「俺の所感は、ただいま申し上げましたとおりですが」

「そういう話とちがう。その妓、うちに置きたいと思うか?」

「……」

 五郎は視線をそらした。短い間逡巡して、それがすでに答えになっていることに気づいたらしくあらためて顔をあげる。

「俺としましては、……反対です」

「なんで?」

「……どうも、うまく言葉にできませんのですが」

 再び、今度は言葉をさがして、五郎は目をそらした。考え考え、言葉を紡ぐ。

「顔を合わせた瞬間、なんだか背中のあたりがぞっといたしました。話をしている間も、どうにも落ち着かない気分がしてならず――別れて置屋を出て、やっと息ができるようになったような、そんな気がいたしました」

 無意識にだろう、五郎はシャツの喉元を握ってゆるめようとするようなしぐさをする。

「どこに落ち度も見えぬのです。美しく、うるわしく、あたりは柔らかく、そつもない。澄ましておるばかりでもなく、ほどよく可愛げもある。表情にも笑みにも声にも偽りは感じない。なのに、落ち着かない。どこか、腹の奥底のほうに極細の氷の針をさされているような、そんな心持ちになるのです」

「ふむ……」

「申し訳ありません、こんな、あやふやなことを申しまして」

「ええよ」

 恐縮する五郎に、明紫は首を振る。

「むしろそういうのは黙っとったらあかん。けど……どないしよかな、それ」

 両腕を回して膝を抱え直し、明紫は小さく呟いて首を傾げる。

「入れてやればいいんじゃないかな」

「……おひいさん」

「兄者!」

 戸口から割り込んできた声があって、明紫がかるく目を見開いた。五郎が慌てたように腰を浮かせて振り返る。

「何をしておるのだ。だめではないか、お許しもなく大嗣のお話に割り込んで」

「ごちゃごちゃうるさいな、おまえは」

「あいた」

 戸口に寄りかかっていた北野が部屋に入ってきて、中腰でかたまっている五郎の鼻先を指ではじく。明紫の向かいにある応接椅子にすとんと腰をおろした。

「ね、大嗣。うちへ入れようよ、その妓」

「なんで?」

「おもしろそうだからさ」

 切れ長の瞳を、北野はさらに細める。

「五郎の金玉を踏んづけるなんて、なかなか度胸があるじゃないか」

「きん……ッ! 兄者、なんということを! それに、ふ、っ、踏まれてはおらん!」

「顔を見てみたいし、手管も拝見したいな。それに、ずいぶん熱心にうちに来たがってるんだろう?」

 抗議する五郎を無視して北野は腕を組む。うん、と明紫は頷いた。

「どうしても大淵に名高い永咲館の花に加えていただきとうございます、ゆうてな。なんなら一度ご挨拶に伺いますゆえそこでお見定めください、て。――買うてもおらんもん、うちに入れるわけいかんし、とりあえず五郎に見にいかせたんやけど」

「どこの宿にいたって、やることはいっしょなのにね」

 北野は指を一本立てて自分の唇に触れる。

「そんなに熱心じゃ断ったところできっとなにか、別の算段を立てて大淵までやってくるよ。見えないところでへんなことをされるより、見えるところに置いておくほうがいいと思わない?」

「まあ、そうやね」

「なにか腹があるんだとしたら狙いは……ねえ五郎、おまえまさか、どこかの古い王朝の末裔とかを間違って買ってきてたりしないだろうね? その血筋を絶やそうとしてる刺客だったりしたら面倒だよ?」

「は? いや、俺はそんなものを買って来たりはせん!」

「どうだか。おまえはかんじんなところでぼんやりだからな。けれど、だったら話は簡単だよね、大嗣」

 不能の次は金玉を踏まれたことにされた上に唐突な疑いをかけられて口をぱくぱくさせる弟から明紫へ視線を戻して、北野はにこっと唇の両端をあげる。

「狙いがあるのなら大嗣か僕だ。大嗣には狗がいるし、僕、は……」

 うすい茶の瞳が床からきょとんと見上げる弟をちらりと見た。

「……まあ、五郎はなんの役にも立たないけれど、僕だって自分の身ぐらいは守れるし。何かあって困るようなことはないよね?」

「お、おい、兄者。なんだそれは。どうして俺を頭数から外す」

 にっこりして、北野は手をのばして弟の頭を撫でる。

「よその芸妓げいこに金玉を踏まれるような弟だからだよ。――どうかな、大嗣」

「……うん」

 明紫もうすく笑って、頷いた。

「そうやな。……五郎。その妓、うちへ入れるよう段取りつけて」

「は」

 五郎は反対だとは言ったが、それを聞き取った上で明紫が受け入れると決めるのであれば異は唱えない。兄の言い草ではないが自分には理解の及ばない理由で判断がなされることがあると、五郎は知っている。

「それでは、明日にでも再びあちらへ」

「何言ってるんだよ。だめだろう、明日は」

「えっ」

 すかさずぺしと頭をはたいた兄に遮られて、五郎は慌てて兄と明紫とを見比べる。

「あ、兄者?」

「明日は大嗣がいないんだよ? それなのにおまえまで見世をあけてどうするの」

「あっ……」

 言われてやっと思い当たったらしい。しまった、という顔になった弟に北野はわざとらしく嘆息する。

「頭数に勘定してもらいたいならもうすこし賢くおなり。……ごめんね、大嗣。できの悪い弟でさ」

「そこが五郎のかわええとこや」

「……否定してはくださらんのですな、大嗣」

 がっくりと首を落として五郎が嘆息した。



 鏡をのぞきこんだ明紫が、何度も神経質に髪を撫でつけ、しっとりした乳白色の真珠と細い銀線で小枝を模した髪留めをつける。首を少し反らして服の喉元にかるく指を入れた。あまり着ない、喉元をきっちり覆う服の圧迫感が気になるのだろう。だがそれを着ると決めたのも明紫だ。

 やはり別の服にしようか考えているのか喉元に指を入れたまましばらく鏡を見ていた明紫はやがて諦めたように息をついた。四連にした長く細い鎖の首飾りを首にかける。立ち上がった。

 喉元は詰まっているが袖のない服だ。ごく薄い、透けるような縦絽の上着をとって広げてやった。腕を剥き出しにして外を歩くのは下民のすることだ。明紫も小さく頷いて咬に背を向け、腕を広げた。その肩に、袖がとおるように上着を着せかけてやる。

「……行こか」

 小さな吐息とともに言った明紫に頷きを返した。

 部屋を出、階下へ向かおうとしたところで北野に行き合った。いや、明紫が部屋を出たのを見計らって出てきたのだろう。北野は永咲館の最上階、明紫とは逆側の西翼に部屋を持っている。三階で暮らすのは明紫と北野だけだ。袖の短いゆったりした部屋着姿で、ほっそりした白い腕がほとんど見えてしまっていた。

「おはよう、大嗣」

「おはようさん。今日は早いんやね」

あるじが長っ尻でさ。遅くまでしてたのに朝も一戦挑まれて、さっきまでいたんだ。これからお湯なんだよ」

「おやおや。そらご苦労さまやったね」

 ぼやいてちいさくあくびをした北野に明紫はくすっと笑う。

「兄者、そんなはしたない格好で部屋を出ては……あ、大嗣」

 北野を探す声がして、やってきた五郎が明紫に気づいて急いで膝をつく。

「ご苦労様でございます」

「ん。今日は頼んだで」

「かしこまりまして」

「あ、待って大嗣」

 深く頭を下げた五郎に頷いて明紫が階下へ向かおうとした時、北野が声をあげて引き止めた。明紫は小さく首を傾げて振り返る。北野が自分の耳元へ手をやった。

 北野が自分のつけていた真珠の耳飾りを片方、明紫の髪飾りをつけた側の耳につける間、明紫は微笑してされるままになっていた。

「うん。似合う」

「おおきに」

 一歩下がって北野は自分の仕事に満足したようににっこりして、そして明紫の背後に控える咬へ視線を向けた。

「頼むね」

 短い言葉に、小さく頷きを返す。階段をおりていく明紫のあとに続いた。

「兄者……大兄ダイケイは兄者には返事をなさるのか」

 兄弟の会話が背後から聞こえてきた。大兄とは咬を指す呼び名だ。恐れげもなく面と向かって咬を狗呼ばわりできる者は少ない。大嗣の従者を名で呼ぶのは当然論外で、困った挙句に誰かが大父、大嗣になぞらえて呼びはじめた大兄に落ち着いた。

「ふふ。すごいだろう」

「うむ! すごいな! 俺は大嗣を別として大兄が誰かに話しかけられて返事をなさるのをはじめて見たぞ」

「でも、おまえはもっとすごいよね。あの狗を笑わせたんだもの」

「あれは笑わせたのではなく笑われたのだ。というか兄者、昨日はいつから見ておったのだ! 人が悪いではないか!」

 さあね、と楽しげに笑った声はだいぶ遠く、聞こえたのはそこまでだった。

 明紫にも聞こえていたらしい。笑い含みにからかう視線を肩越しに投げてくる。

「咬が返事せんのは必要ない時まで余計なことゆわんだけやのにな」

 咬は答えなかった。からかうようにもう一度こちらを見た眼鏡越しの瞳がうすく笑った。



 屋敷は沼沢の奥にあった。

 睡蓮や葦、片白草、オモダカなどの水草が水面に広がり、昼になるやならずのまだ高い陽を受けて緑を濃く青々と茂らせている。

 その水面みなもを縫って浮き廊下が蛇行し交差しながらゆるゆると長く続いていた。

 勿体をつけるにはちょうどよくはあるが、無駄なことこの上ない。

 先導していくのは粘土のようなくすんだ顔色の陰鬱な男だ。無言で廊下を渡ってゆく。世間話をするつもりはないから使用人がどんな愛想をしていようが関係はない。むしろ案内も不要だが必ず案内はつく。あくまでも明紫は客であり、主人を世話しているのは自分らだという四家の無言の主張だ。

 やがてどっしりした平屋造りの屋敷が見えてくる。そのさらに奥には絡み合った大木の枝葉ばかりが見える。沼沢の最奥、切り立った山肌を背に、屋敷は据えられている。

 ここが、大淵を裏側から支配する大父の御座所だった。

 屋敷はおおむね正方形に近い形をしている。 それを横に手前奥と二つに仕切り、奥側が屋敷の主人の住居だ。手前は何度も折れ曲がる廊下に面したいくつもの小部屋に仕切られている。主人への拝謁の順を待つ者たちの控える部屋だが、今ではそのほとんどは使われていない。少なくとも咬は一度としてこれらの部屋に客がいるところを見たことがない。入るのは掃除にくる使用人だけだ。訪れることのない客のために何十もの部屋が毎日磨き上げられている。

 人の気配はなかった。屋敷に住まうのは主人だけだ。輪番で一人だけが入り口すぐの、横にもなれぬ箱のような小部屋に詰めて主人の用にそなえる以外、平素ここに人はいない。

 使用人は門のすぐ内側、塀にへばりつくようにして作られた飾り気のない建物に詰めて日々浮き廊下を粛々と渡って屋敷へ赴き、床や柱や窓や家具を磨き、寝台を整えて暮らす。日に二度、決められた時間に主人の居室へ贅を尽くした料理と酒肴を運び、時間をおいて食い散らかされた皿を下げて、余り物をこっそり分け合って自分たちの腹に入れる。数日ごとに各部屋の備品や調度品の読み合わせがあるから使われていない水晶の杯を懐へそっとしまいこむ者もいない。主人の食い残しをあさるのがせいぜいの悪事だ。

 何十かの部屋の扉の前を通り過ぎ、最後に長い廊下が現れる。

 行き止まりが屋敷の主人の住居の入り口であった。

 廊下の半ばで案内の男が横へ退き、拱手して深く頭を下げる。そのまま壁まで後ずさり、さらに後ろ向きに廊下を戻ってゆく。

 男が廊下の曲がり角までそのまま後ろ向きにさがっていき、すり足の音が完全に聞こえなくなるまで明紫は動かずにいた。気配が完全に消えてから、ちいさく息をつく。すたすたと扉の前まで進み、ちらりと咬を振り返って目線だけで頷いた。咬もそれに頷きを返す。

 前へ出、扉の把手に手をかけてゆっくりと引く。かなり長身の咬よりさらに扉は高い。常には二人がかりで開く扉だ。表面に施された精緻な彫刻と金銀玉の象嵌は見事だが目にする者が今や使用人ばかりでは彫った職人も浮かばれまい。

 開いた扉を押さえて明紫を見る。頷いて、明紫は部屋の中へ入っていった。

 ゆっくりと扉を戻し、閉じた扉に背を預けて寄りかかる。腕を組んで、見るともなく磨かれた廊下へ視線を向けた。

 どれほど時間が過ぎただろうか。扉の向こうからかすかな声が漏れ聞こえてきた。

 切なく、甘く、秘めやかな、一方でほのかに羞じらいのにじむ、蠱惑的に雄の本能を揺さぶる声音。組み敷き、深々と穿ち、突きたてて蹂躙し征服せずにはおられぬと奮い立たされる響き。

 わずかに、眉が寄る。目尻の皮膚がかすかに引き攣れた。

 それに触れるな、それは俺のものだ、とは。

 決して口にはのぼせない。それは狗の分際を越える。咬が狗である限り言えぬ言葉だ。

 咬の役目は――咬にできることは。

 万一にも押し入って来ぬとも限らぬ敵を警戒し、そして、主人が余人には聞かれたがらぬ、強いられた嬌声を密かに盗み聞こうとする者の好奇心から主人を守ることだ。

「……」

 前髪の下、咬は眼光を鋭くする。

 視線をあげた先。廊下の向こうからやってくる人影があった。

 踏み出し、廊下の半ばでその行手をふさぐ。

「遮るな。無礼だぞ」

「立ち入りは禁じられている」

「なに、気にするな」

 にやけた優男だった。たしか南の、三男の倅だ。

「大嗣がおいでと伺ったゆえご挨拶に参じた」

「大嗣に用があるなら家長を通して願い出るのが決まりだ」

「だから。さほどの用件ではないのだ。お顔を拝してひとことご挨拶を申し上……うああっ!」

 腕をつかまれて男は上ずった悲鳴をあげた。

「さ、っ、触るな! 穢らわしい、は、放せ……っ!」

「さほどでもない用件ならばなおさら、大嗣をわずらわせる価値はない」

 男がもがくのを構わず引き立て、引きずっていく。

 長い廊下をすべて戻るような手間はかけなかった。最初の扉をあけて小部屋の一つに入り、横切って、窓に手をかける。

「お、おい、何をする気だ、おい、よせ、やめろ、やめないか、狗の分際で……うわああああっ!」

 聞く耳はない。窓を開け放ち、男を開いた空間に押し込む。窓枠に手を突っ張って抗おうとするのを手首をひねりあげて外させ、痛みに怯んだところを突き飛ばし脛を蹴り上げて身体が完全に浮いたのをくるりと突き落とす。

 聞き苦しい喚き声と派手な水音が上がった。

 浮き廊下が縦横に張り巡らされているから、そうたたずに水からは上がれるだろう。泳げないとしてもそう深い沼ではない。浮き沈みしている間に使用人の誰かしらに発見されて引き上げられるはずだ。本来、大嗣の訪問中に大父の屋敷に余人が立ち入ることは許されていない。それが入ってきたからには子飼いの手下を使用人にまぎれさせているのだろうし、それが近くに控えているはずだ。

 だが、這い上がるにせよ引き上げられるにせよ、ずぶ濡れで水草まみれだ。それではとうてい大嗣の前へは出られまい。

 元通り窓を閉め、部屋を出てその扉も閉めて、再び石造りの扉の前へ戻る。

 もう、声は聞こえなくなっていた。元通り腕組みをして扉に背を預ける。

 十分に引き上げられる時間も、ずぶ濡れの服を脱ぎ体や髪を乾かし整えて着替える時間もあっただろうが、男は戻っては来なかった。明紫が咬からさいぜんの一件を聞かされていれば冷笑されるのがおちだ。そんな恥辱に耐えられる人種ではないだろうと計算して恥をかかせたのはあたっていたようだった。

 ちりん、と、壁の向こうからごく小さな音が聞こえた。咬でなければ聞き取れない、そして咬は決して聞き落とさない音だ。

 腕を解き、扉の把手を引く。大きく開く必要はない。自分が通れるだけ開けて、部屋に足を踏み入れた。

 扉の内側にはやはり石造りの、背の高い衝立があった。衝立の前にはひと抱えはありそうな花瓶が置かれ、その花瓶をみっしり埋めた花が濃く、さまざまに混じり合った花粉の香りを漂わせていた。

 衝立の向こう側は沼地へ張り出した露台に向けて開けた部屋になっていた。円形の卓が置かれ、卓上には肉や魚を盛りつけてあったのだろう大皿がいくつも並べられてあった。多くはからにされ、まだ料理の残った皿も汚く食い散らかされている。

 ちらりと一瞥しただけで背を向け、次の間へ入る。

 そこには、巨大な寝台があった。幅も奥行きも、ちょっとした小部屋よりよほど広い。屋敷の入口側にある控室なら二部屋ぐらいは作れるだろう。

 ぐしゃぐしゃに乱れた敷布や掛けものを押しやった寝台の端に、明紫が腰かけていた。手の中には咬を呼んだ石の打ち具が握るというには頼りなく乗せられており、焦点を定めずに足元へ向けられた視線はどこか遠くをぼんやりと見ている。

 その様子は放心しているようにも、物思いに沈んでいるようにも、あるいは迷子になった頑是ない子供が途方に暮れているようにも見えた。

 服は着けていたがうすものは床に投げ出されている。剥き出しの右腕の上腕部に、何かにきつく握られたような、おぞましいほどにどす黒いあざがくっきりと刻まれていた。

「……ああ、咬」

 うすものを拾い上げると気づいて明紫が顔をあげる。寝台に近づいて上着を肩にかけてやると頷いて、左手でかるく胸元を掻き合わせた。立ち上がろうとして、ふらりと体が揺れる。引き締まった腰に手を回して支えた。

「おおきに」

 咬の肩に額を押しつけるようにして明紫が低く呟く。

 顔があがって、いつもよりも翳って見える瞳の翠が咬を見上げる。実際の背丈の差はさほどはないが、今は明紫が咬に支えられてもたれかかっている分、いつもより頭の位置が低い。すこし背をかがめて、その唇を自分の唇で覆った。

 触れ合わせ、かるく吸い、いつもよりも張りのないうすい唇にごく浅く歯を食い込ませる。咬の顔が近づいて瞳を閉じた明紫の、少しだけ寄っていた眉根が緩む。

 そう長い時間ではなかった。腕にかかっていた重みがすこし減る。

 明紫の手があがって咬の頬をかるく撫で、包むようにして自分から唇を押しつけてきた。小さく、口づけの音をたてる。

「……ありがとうな、咬」

 唇を自分から離し、だがまだ間近から咬に嫣然と笑いかけた明紫は、いつもの明紫の表情をしていた。うすものを肩から滑らせて差し出してきたのを受け取って、今度はきちんと着せかけてやる。

「おひいさんがお守りくれとって助かったわ」

 そう言って耳から外し、ほらと手のひらに転がして見せた耳飾りの真珠は汚泥の色に黒ずんでくすみ、亀裂が入っていた。明紫が指先でつまむとかわいた音をたてて粉になる。

「なんぞ、かわり買うてやらんとな。五郎に言うといて」

 歩き出して、肩越しに振り返る。小さく頷いてわかったと伝えた。

「……なあ、咬」

 廊下へ出、出口へ向かう途上。前を向いたまま、ぽつりと明紫が言った。

「お父はん、そろそろ……かもしらん」

 わずかに眉が寄った。

「早いな」

「うん」

 頷きとともに、明紫は小さなため息をこぼす。

「手間やなあ……。ま、お父はんあっての自分らやから、文句はゆわれへんけど」

 戸口が見えてきて、明紫は口をつぐむ。先に立って、咬が扉をあけた。

 浮き廊下の端に、行きと同じように粘土で作ったような使用人が平伏して明紫を待っていた。


「大嗣!」

 永咲館へ戻り、車を降りるなり五郎が転がるように駆け寄ってきた。

「お願いでございます、大嗣!」

 走り寄ってくるなり足元に平伏した五郎に明紫はきょとんと首を傾ける。

「……なんのお願いか知らんけど、差配が玄関先で大騒ぎは、ちと、みっともないのと違うかな、五郎」

「あ――も、申し訳」

「放っておいていいよ、大嗣」

 五郎ははっと顔をこわばらせてかしこまり、そのすきをつくように戸口にしなだれかかった北野がやんわりと笑んだ。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 両腕を広げた北野を抱擁して、明紫は北野の頬にかるく接吻する。

「兄弟げんかでもしたん?」

「そんなところ。ちょっと具合が悪いから寝るって言ったら医者を呼ぶってうるさいんだよ。だから、勝手に呼んだら縁を切るし、どうしても呼びたいなら大嗣の許可をもらえって言ったんだ」

「そら五郎も災難やな。もうええの」

「だいじょうぶ。五郎を追い出してすこし眠ったからね」

 明紫に腰を抱かれて、北野は甘えるように明紫に身を寄せる。

 互いの腰に手を回して睦まじげに語り合いながら階段をのぼっていく二人をまだやきもきした様子で目で追う五郎を、咬は見下ろした。

「五郎」

「は、はっ!」

 声をかけると慌てて五郎が咬に向き直る。あらためて膝をついて頭を下げた。

「ご用でございましょうか」

「明日、細工師を呼べ」

「はっ。かしこまりまして」

 表情を切り替えて、五郎は頭を下げる。

「近頃名をあげてきた腕のよい工房がございます。よりすぐりの自信作を持ってこさせましょう。いつごろ、伺わせるのがよろしいでしょうか」

「下へ下りた時でいい。兄貴の喜びそうなものをいくつか選んで並べさせろ」

「は?」

 ぽかんと五郎の目が丸くなった。半歩、膝を前へ進めて、声を低くする。

「失礼ながら、大兄。それは大嗣から、兄に何かお授けいただける、というお話でございましょうか」

 気まぐれでたまたまその時手元にあったものをやることはあっても、明紫が、北野と言えど娼妓の一人に何かをわざわざ買い与えるなど、滅多にあることではない。

 実際は娼館の主人が娼妓に与えるのではないが、それは五郎にはわからないことだ。おそらくは弟を激しく狼狽させるほどの様子だったのだろう兄の不調が、咬が生気を分けてやるまで自分の足で立つこともできないほど疲弊していた明紫が受けた障りの一部を肩代わりしたゆえだということも、弟の知らないことだ。

 それは、弟に責のあることではない。気づかぬのは兄が、弟の目から徹底して隠しているせいだ。

 明紫が兄の側にある以上、咬も、弟に何かを悟らせるようなことはしない。

「兄貴には気づかれないようにしておけ」

「は――ッ」

 真剣な面持ちで、だが感激に顔を輝かせて、五郎は深々と頭を下げる。兄に対してはとことん情けない男だが、仮にも永咲館の差配を任されている。まして兄の栄誉とあれば隠し通すだろう。兄のほうは、耳飾りが戻ってこなければ明紫が何か埋め合わせをすると予想するかもしれないが、永咲館の最も高価な花のひとつだ。弟がへまをしなければ突然の贈り物に息を忘れるほど驚き、感激してはしゃぐ姿を完璧に演じるだろう。

 五郎をそこへ残して館へ入る。

 階上へあがろうと階段に足をかけて、ふと、動きが止まった。

 ごく一瞬の、わずかばかりの目眩。

 咬が動きを止めていたのはほんの一瞬のことだった 。そのまま階段をのぼっていく。

 不自然に思った者はいなかっただろう。まだ五郎が見ていたとしても気づきはしなかったはずだ。明紫なら気づいたかもしれないが、幸いにも先に上へあがっていっている。

 咬もある意味で、それが訪れるのに慣れている。

 数年から年に一度、あるいは数度。間隔はまちまちだが必ず起こることで、幾度となく越えてきた。

 だが、今は二重の意味で時期が悪い。

 可能な限り後延べにしたいところだが――どこまでそれが許されるか。

 二階にさしかかったところで行き合った使用人が咬を見てぎょっとしたように立ち尽くした。咬を見慣れていない新参か、あるいは慣れている者をも竦ませるような顔を咬がしていたか。

 どちらだろうが、どうでもいいことだ。



 深更。

 寝静まった街の片隅に蠢くものがあった。

 それに確たる形はない、もやもやとした、黒ずんだこごりとでもいうべきもの。子供の鞠ほどの大きさのそれがふっと広がり、ゆるりと収縮して、まるで息づいてでもいるようにゆらめいている。

 ひゅっ、とごくかすかな、鋭い音がわずかだけ空気を震わせて、黒いもやが凍りついたかのように動かなくなる。いや、よくよく見たものがいれば、それは極細の針金のような何かに刺し貫かれて地面に縫い止められ、硬直したのだと理解したかもしれない。そもそも、常の人にはその凝りも線も見えはしないのだが。

 つかつかと歩み寄った咬は無造作に手を伸ばしてそれをつかんだ。楔ごと地面から剥ぎ取り、握り潰す。それはしゅう、とごくごくかすかな、ため息のような音をたてて霧散した。ひとつ二つ、針先ほどの飛沫がこぼれて地面に落ちたが、闇に染み込んでいくより先に咬の靴底が踏み潰した。

 ゆっくりと、視線を周囲へ向ける。人には見えぬ澱みであっても、咬の目をのがれることはできない。

 暗がりの最も奥まった片隅に、ちらちらと明滅する、まだもやにもなっていないごく微細な影があった。かがみこみ、埃をなぞるように指先ですくい取り、拇指との間で磨り潰す。

 これらはオリと呼ばれる。人の負の感情や思念が吹き集まり凝ったものだ。

 大淵はかつて神域だったとされ、こうしたものが凝りやすい。放っておけば少しずつ育ち、寄り集まって、影に取り憑いて人の気を吸ったり、もっと直接的には人を襲い、食らうこともある。さらに育てば実体を持ち、魔物となる。

 平素は守護がある。おおかたは影を為す前に霧散させられてよほどの悪意が急激に生まれてそこへ吸い寄せられたり、意図的な攻撃によって操作されなければ形を得ることはないが、今はその守護がゆるんでいる。

 放っておけばあちこちに澱が生まれ、寄り集まっていずれ影となって人を襲うようになる。

 その時期にこうして、澱が育つ前に見つけ出して潰しておくのは、咬の担う役割の一つだった。

 もう一度ぐるりと見回してほかに残っていないことを確かめ、背を向ける。

 ずきん、とこめかみで重い痛みが脈を打つ。眉が寄り、片方の瞼がわずかにひくついた。

 ひとつ頭を振り、ポケットに手をつっこんで、咬は大股にその場をあとにした。



 明紫がため息をついた。

「やっぱり、あかんなあ」

「うまくいかないねえ」

 北野もため息をついた。こういう時にむなしい慰めごとでごまかそうとしないのは北野らしい。

「今日はこのくらいにしておこう。というか、少し時間をあけよう。時期が悪い。それに、まだ調子も戻っていないよね」

 手をのばして、明紫のこめかみにひと筋落ちかかってきた髪に指をからめる。明紫はほのかに苦笑した。

「……わかってたんや」

「そのくらいはね。だめだよ、無理をしたら」

 微笑を返して、北野は明紫の頬にかるく接吻した。

 明紫と北野は、神力を持っている。北野はそれを使って魔を退けたり己の身を護る障壁を張ったり、場に結界を張るといったことができる。

 だが明紫は、己の持つ神力を自在に使うことができない。

 北野によれば力の質も量も、圧倒的に明紫が上だというのだが。

 北野が永咲館に置かれてから、明紫は幾度となく北野に力の使い方を教わろうとしてきた。だが、何度教わっても幾度試しても、自分の力を操ることができない。最も初歩だという、術以前のこともままならずにいる。

 なにも初歩を通らずとも力を使えるようになればいいのだからと、北野も自分の知る限り、さまざまな術や力の使い方を明紫に教えようと試みる。だがどれもやはり、はかばかしい成果は出ない。

 もう一つため息をついて、明紫は自分の手を見下ろす。

「せめて、結界張るくらいはお姫さんの手ぇわずらわせんとでけるようになりたいんやけどなあ」

 永咲館の三階には結界が張られていて、邪気を寄せ付けない。北野の張ったものだ。

「でも、僕がくるまで結界は張ってなかったし、それで困ったことなんか、なかったでしょう?」

 北野はやんわり笑って、明紫のその手を自分の手で包む。

「結界がおびやかされるようなことも、今まで一度だってないんだ。本当はいらないものなんだよ。僕は、ずっと結界を張ったところにいたし、ないとなんとなく落ち着かないから張っていて、ついでだから大嗣の部屋にも張ってるけど、それだけなんだよ。ただの気休めだし、手をわずらわされたりしていない」

「……うん」

「大嗣は、狗とはちゃんとつながってるんだろう?」

「うん」

「狗とは力のやりとりができるし、互いの危険は感じとれるよね」

「うん」

「いちばん大事なことだよ、大嗣」

「……うん」

 頷いて、もうひとつ明紫は息をついた。顔をあげて、北野に淡く笑いかける。

「おおきにな、お姫さん」

「どういたしまして。そのうちまた挑戦してみよう。調子が戻ったらね。いつでも言って」

 明紫の背に腕を回してかるく力をこめて抱擁し、にっこりと笑いかけて北野は立ち上がる。またねと言い残して自分の部屋へ戻っていった。

 一人残されて、明紫はまた小さなため息をついた。北野と向かい合って座っていた床から、首をめぐらせて咬を見る。視線に呼ばれて傍らへ行き、膝をついた。

「また、わがままゆうてもうた」

 ぽつりと呟いて、明紫は咬の腰を抱き寄せる。

「お姫さんにはいつもいつも、甘えてばっかりや」

「向こうも、そう思っている」

「そうかな」

「あんたたちを一番見てるのは俺だ」

 ふっと、明紫は笑みを浮かべた。

「……そうやったね」

 頷いて、明紫は咬の胸板に頭をもたげた。

「少し休むか」

「……ん」

 聞くと明紫は少し唇を尖らせる。

「そのほうがええかな」

 呟いて目を閉じた。

「気ぃ悪い」

 黙って、咬は明紫を抱き上げた。明紫はされるままになっている。隣室へ抱いていき、寝台に下ろした。明紫の手が腕にかかる。

「添い寝して」

 小さな声に、寝台に膝を乗せた。寝台へあがって腰を下ろし、明紫を近くへ引き寄せる。

 自分からも咬に体をすり寄せて、明紫が長く息をついた。

「これは、意識せんでもでけるのになあ」

 吐息に紛れ込ませるように呟く。

「お姫さんは時が悪い、言うけども。外へ流れてるてことは開いてる、いうことやし、今やからこそなんかでけるんやないかって思ったんやけど」

 少し前から、大淵を守護している大父の力は弱められている。大父が、手を緩めているのだ。

 大父が町の守護を緩めると、明紫の力が代わって街を覆い、守護を与える。

 明紫が意識してすることではなく、潮が引くと砂浜が広がるように、街を覆う大父の力の弱まりに応じて明紫の意思とは関係なく引き出されていくらしい。再び大父が守護を強固にするまでそれは続く。

 使われる力は、北野によれば相当なものらしい。だが明紫自身の感覚ではそれほど大きなものではないらしく、常であればさしたる負担にはならない。

 だが。

 少し前に明紫は大父の枕席に侍った。これも年に数度あることだが、このところ大父はその時に明紫から神力を奪う。とくに前回はそれがひどかった。

 これも、常であればさほどかからずに復調するのだが、どうやら回復するものと使われるものがほぼ拮抗していて、明紫自身の回復がはかばかしくない。咬は明紫と力のやりとりができるが、これは神力とは少し違うものらしく、一時的に明紫の力を補うことはできても復調に導くことはできなかった。

 背に手を当ててやっていると、少しずつ明紫の呼吸は深くなっていって、やがて寝息を立てはじめた。ないよりは、少しはましなようだ。

 あいているほうの手を目の前へあげる。革の手袋に覆われた手は、見ているとふと輪郭がぶれた。じわりと、もやのような黒ずんだものが染み出してくる。

 手を握るとそれは散って消えた。

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