胡蝶の庭

クニミユウキ

1章 永咲館の花

1 狗

1 いぬ


 ちらちらと、梢から白いものが舞う。

 ほとんど白に近い淡紅色の花を、館を背後から抱き込むように大きく広げたすべての枝にたっぷりとつけた翁桜おきなざくらの巨木はわずかな風のそよぎ、空気の震えにもさやさやと花を散らす。

 そろそろ夏の暑気を実感しようかという時節。この土地、大淵ダイエンが開花のやや遅くそして花の長く続く北東の地にあると言え、すでに花の季節は過ぎている。永咲館えいしょうかんの桜も、花をつけているのは翁桜のみだ。

 永咲館の背後に聳える巨木、いつからか翁桜と呼ばれるようになったこの古木は季節を知らぬ狂い咲きの桜。花は咲いては散り、散ってはまた咲いて、一年を通してひらひらと花びらを散らせ続ける。

 花が絶えぬのは翁桜がその根方に無数に埋められた屍体から養分を吸い上げているゆえである、とまことしやかに語る者もいる。巨木の根元には確かに多くの屍が埋まってはいるが、真実を知るものは決して口にはのぼせず、噂を広める者に己の目で見たと語る者はいない。邪推による噂と事実とがたまさか重なっただけの偶然だ。

 音もなく宙をすべったひとひらが頬をかすめて肩先へ軟着陸した。コウはちらりとそれへ視線をやる。

「おやおや。いたずらっこがおる」

 払い落とすより先に笑い含みの声がして、すいと伸びてきたほっそりした指先がその花びらをつまんだ。

「おいたはあかんよ、は自分のや」

 彩度を抑えた、艶めかしい色の紅を塗った唇が花びらをふっと吹いて飛ばし、咬はうすく苦笑する。

「花びらに妬くな」

「妬いてもええやろ、べつに」

 細い銀縁の眼鏡の奥で鮮やかなみどりの瞳がうすく笑う。取り除いた花びらの代わりに、明紫メイシは自分の指を咬の肩にかけて頬を寄せた。

「気安く咬にさわってええのは自分だけや」

「出かけるのか」

 甘える仕草には取り合わずに訊ねる。車庫は屋敷の反対側だから見えないが、さいぜんからエンジンの回る音と振動が感じられる。そろそろ暖気が終わる頃合いだろう。

 大陸随一の都市であっても、自動車はまだごく一部の富裕層だけの持つものだ。車を出すなら、それに乗るのは明紫しかいない。着替えて、紅も差している。そろそろ出るからついてこいと声をかけにきたのだろう。

「西。伯父はんが誰ぞに会うてほしいんやて」

 咬が見通していたことに明紫もとくに驚きはせず、頷いて行き先と目的を答える。

「行こか」

 ついと咬の頬を指先で撫でて、明紫は露台を出て行く。無言でそのあとに続き、途中で先に立って廊下へ出る扉を開けた。



「これは……。いや、美しい」

 明紫の姿を目にした瞬間、男の瞳にぎらりと好色なぬめりが宿った。

「大淵には名花数多あまた咲き乱れと聞いてはおったが、聞きしに勝る。まことそなたおなごではないのか。陰間も極めればかくも美しくなるものなのだな」

 明紫はすこしだけ首を斜めに傾け、相手にはわからない程度に片眉を上げた。

「さ――こちらへ参れ。いま茶菓など運ばせるゆえな。それとも酒肴が……ぎゃっ?」

 涎でも垂らしそうなやにさがった声は途中で聞き苦しい悲鳴へと裏返った。

 図々しく明紫の手を取ろうと伸ばした半ばで咬に抑えられた手首からしゅうしゅうと濁った紫の煙があがる。

「な、な……っ! ぎゃああっ!」

 つかむ手の力を強くするとじゅうっと肉の溶ける音とおぞましい匂いがはじけた。

「すんまへんなあ、お客はん」

 うすく、明紫は唇の端を持ち上げた。

「うちのいぬ、自分が侮られるんは絶対に許さへんのですわ」

「あ、侮る、だと……誰にものを言って……ぎゃっ」

 握った手首をひねって、後ろ手へねじりあげる。足を払い、膝をつかせて踏みつけた。生地も仕立ても上質の背広の背にくっきりと靴跡がつく。

「き、ッ……貴様、この儂を誰だと……ぁぎゃあっ!」

「そのへんにしとかんと、手首から先、のうなりまっせ」

 くすくすと明紫はかるく口元を手で隠して笑う。

「なんぞ勘違いしてはるようやけど」

 すう、と眼鏡の奥、鮮やかな翠の瞳が細められる。

「永咲館の花を、あんたさんの田舎におるような淫売酌婦のたぐいと同じや思うたら大間違いでっせ? まして――」

 びく、と男の肩が跳ねた。

 がたがたと震え始めた男の背後から、咬は男と同じものを見る。

 ほっそりと優美な明紫の立ち姿。その輪郭からにじみ出し広がっていく暗黒。それはじわじわと、見る者の腹の底を冷やしてゆく。そして、明紫の背後からぎろりと睨む、巨大で禍々しい、人のものではない瞳――。

「自分は、大嗣やで」

「ひ、ッ……――」

 氷の鞭で打つがごとき声に、がく、と男の体から力が抜ける。部屋に入った時に撒いた微量の薬と咬の掌から出る酸に含まれる毒が合わさって見せる幻覚だが、からくりを知らない相手への威力は大きい。虚脱してべたりと床に落とした尻の下に異臭を放つ水たまりが生まれ、広がっていった。

 ふ、と明紫は鼻で笑った。毒々しい侮蔑をあらわに男を見下げる。

「もうええよ、咬」

 一転にこりとして咬を呼ぶ。

「おいで」

 手が伸べられ、咬は男の手首を放し、そこへ残して明紫のもとへ戻る。もとのように明紫の斜め後ろへ控えた。

「ええ子」

 肩ごしに、明紫は咬の頬から首筋を指先で撫でる。そして男へ視線を戻した。

「どこの田舎のお大尽か知りまへんけど、大淵へ出てきはるには百年ぐらい早いですなあ。もう少しお行儀学んでから出直しておいでやす」

 言い捨てて背を向ける。男を待たせていた部屋を出ると、廊下で皺がれた老人が拱手していた。そのまま最敬礼する。

「お見事でございました、大嗣。深く御礼申し上げまする」

「あんまり、こうゆうことに使い立てされたくないんですけどなあ、伯父はん」

 八割がた毛のない頭部を見下ろして、明紫は聞こえよがしのため息をつく。

「ああゆうのんは、ちゃんと四家商会そちらでのけといてもらわんと」

「まったく、仰せのとおりでございます」

 さらに深く、老人は体を折り曲げる。

「すべて我が不徳の致すところ。不遜の輩を抑えきることあたわず、大嗣のお手をわずらわせる次第となりましたこと、まったく面目次第もございませぬ」

 口を動かすだけなら金はかからないと思っているのだろう。大仰な言い回しで嘆いてみせ、老人は掲げた腕とやはりほとんど残っていない眉の間からちらりと上目遣いに明紫を見た。

「お詫びとお礼にはあまりにもささやかではございますが、風香麗しき露台に召し上がりものなどご用意をさせていただいてございます。どうぞ、ひととき、お寛ぎを」

「それは、おおきに。そんならご馳走になりましょか」

「ありがたき幸せ」

 再び、老人は組み合わせた腕に表情を隠す。

「それでは、どうぞこちらへ」

 腰を曲げたまま先に立つ老人に、明紫が続く。咬も、そのあとに続いた。



 露台には小ぶりのテーブルが出されていた。そこにアフタヌーン・ティーが運ばれてくる。

 まだ夕刻にもやや早い時間だからかの選択だろうか。あるいは最近輸入をはじめた専用の銀器を自慢したいのか。おそらくは後者だろう。西の老人は己は古いくせに新しもの好きだ。

 白磁のカップへうやうやしく紅茶を注ぎ、ポットに覆いをかけて、召使いがしずしずと退出する。饗応に合わせたのかあるいはこれも自慢か、西欧の召使いの装いをさせていた。

「わたくしめはこれにて退がらせていただきまする。どうぞ、ごゆるりとお過ごしくださいませ」

 老人は召使いの衣服のことも皿を三段に積んだ銀器も話題には出さなかった。あらためて最敬礼し、後ずさって退出する。露台へ通じる硝子戸が静かに閉じた。

 老人の口上の間、椅子の肘掛けに頬杖をつき、前髪をつまんでいじっていた明紫が脚を組み替えた。手をのばして小さく切られたサンドイッチをとる。ひと口、半ばほどかじり、露台から見える景色へ視線をやりながら咀嚼する。こくりと飲み込んだ。

「咬」

 振り仰いで咬を見た視線が動いて自分の傍らを示す。従って、視線の指した場所へ膝をついた。かじったサンドイッチの残りが差し出されてくる。やや瞳を伏せ、口をあけて、それが押し込まれてくるのを受け入れる。口を閉じると抜き取られていく指先が唇を内側から外へと撫でていった。

 咀嚼して、飲み込む。ひと呼吸あけてクリームとジャムを乗せたスコーンを明紫が差し出した。

 さやりと、露台に風が渡る。露台の間近まで張り出した黒樫の濃い緑が心地よく香る。

 西の老人も西家も不快だが、ここからの眺めは悪くはない。同じことを思ったのか明紫も瞳を細めて枝を見上げた。うすく微笑んで咬の頭を撫でる。

 焼き菓子。冷菜。生菓子。水菓子。つまみ、割り、あるいは切り分けてかじった余りを、一つずつ順に明紫は咬の口にも入れていく。指先に招かれてすこし伸び上がると紅茶を含んだ唇がかぶさってきて、芳醇に香る飲み物が喉を滑っていった。

 桃を咬の唇に押し込み、飲み下すのを見守ってから明紫は果汁に濡れた指を示す。舌を伸ばして、その指をねぶり、果汁を吸った。

「……ふふ、こそばい」

 明紫はくすりと笑う。指がすっかり清められるとかるく咬のあごの下を撫でて、身を起こした。

「そろそろ帰ろか」

 もちろん、否やはない。咬はいぬだ。主人に従う以外の選択肢は持っていない。頷いて立ち上がった。

 咬を従えて明紫が露台を出る。監視のつもりかと明紫の不興を買うことを知っているから、老人は周囲に使用人を残していなかった。

 間取りはわかっている。玄関ホールへ降りていくと、そこで使用人を従えた老人が拱手して彼らを迎えた。もちろんずっとそこにいたはずもない。やはりどこかに監視はあり、大嗣が露台をあとにしたことを知ってここへ出てきたのだ。

「ご馳走さん」

 明紫が声をかけると老人はいっそう深く頭を下げる。

「いくらかのお慰めになりましたなら幸いに存じます。どうぞまたお立ち寄りください」

「そうさしてもらいますわ。気が向くことがありましたら、な。……ほな」

 老人に頷きかけて明紫が戸口へ向かう。両開きの重い扉を頭を下げた使用人が押し開いた。

 車寄せには車が待っていた。

 数歩先へ出て後部座席の扉を開ける。明紫を乗せて扉を閉め、自分は助手席に座った。

 老人と使用人が扉の外まで出て並び、動き出した車を再び最敬礼で見送った。



 永咲館に戻ったころには、かなり陽は傾いていた。

 客以外の出入りにいちいち出迎え見送りは不要と言いつけてあるから出迎えはなかったが、扉を拭き上げていた使用人が車を見て立ち上がって待っていた。明紫が近づくと扉を開けて深く頭を下げる。

 扉の中は長方形の部屋になっており、正面にもうひとつ扉がある。見世が開いていればここには扉番がいるが、今はまだその時刻ではない。咬が扉をあけた。

「あ、大嗣」

「おかえりなさいませ、大嗣」

「お戻りなさいませ」

 サロンに入ると、そこここであるいは窓を拭きあるいはテーブルの位置を整え、ランプに油をさし、花瓶に花を活けしていた使用人たちが口々に声をあげて頭を下げる。

「ご苦労さん」

 使用人たちに頷きかけ、かるく声をかけて明紫は主階段をあがってゆく。

 永咲館は三階建て、三階の東翼が明紫の住居だ。一階は天井が高く、二階へ上がるだけでもかなり静かにはなるが、ここまであがると階下の物音はほとんど届かない。

 階段をあがりながら帯を解いていた上着を居間に入るなり脱ぎ落として床へ放り、明紫は肘掛け椅子に身を沈める。

「咬」

 指先で呼ばれて傍らへ寄った。

「手。見せて」

 手のひらを差し出されて、右手を、掌を上にして乗せた。拇指の付根あたりまでを覆う黒革の手袋を明紫がくるりと剥ぎ落とす。

「ああ、ぼろぼろや」

 酸を出した手のひらは皮膚が溶け爛れ、やはり溶けかけた肉が赤黒く剥き出しになっている。

「痛そうや」

「そうでもない」

 首を振った。

 指一本動かすこともできず、己の無力への怒りに食いしばった歯が欠け眼球から血が溢れた。喉から肺そして心臓を灼いた憤怒。あの苦痛を覚えている限り、この程度は痛みに入らない。

「なんも感じないわけやないやろ」

 明紫は傍らの小卓に置かれた螺鈿の物入れの引き出しをあけ、薄く七色にきらめく雲母のような切片を取り出す。くしゃりと指の間で擦りつぶした破片を咬の手のひらに散らした。

「っ……」

 刺激に、ぴく、と指先が震えた。その指に明紫が自分の指をからめて握る。指を握り込まないように逆向きにかるくおさえられた。

 明紫がそこへ顔を伏せる。唇が爛れた肉に触れ、舌先が散らした粉を溶かし塗り込んでゆく。酸が中和され、ずっと続いていたかすかな疼痛が薄らいでいった。

 舌に触れる感触が変わってきたのだろう。明紫がうっすらと笑んだ。

「堪忍な。すぐ治してやれんで」

 かぶりを振った。急を要する傷ではない。放置しても数日あればもとに戻る。

 四家はどこも、表向きは明紫に崇敬を払っているが抜け目のない狸の巣穴だ。どこに目があり、何をさぐられどう悪用されるかわからない。だからこそ、明紫も何事もないという顔で饗応を受けた。

「治った」

「もうちょっと」

 皮膚の溶けた手のひらには一面に薄皮が張った。もう痛みもない。わかっているだろうに明紫は猫が毛づくろいをするかのように咬の手を舐め続け、最後に指まで丁寧に舐め上げて人差し指の先端を真珠色の歯でやや強く噛んだ。いたずらっぽく上目遣いに咬を見てくすっと笑う。目を伏せて視線を外し、明紫の手から自分の手を抜き取って、もとどおり手袋を嵌めた。

 壁際へ行き、バーカウンターの棚から壜を一本選び取り、ショットグラスに注ぐ。小刀で小粒の青柚を半分に切って絞った。

「ん……?」

 ショットグラスを手に戻ると眼鏡の奥で翠の瞳がいくらか気だるげに咬を見る。咬を治すのに力を使ったし、中和剤があるとはいえ多少毒を含んだから少しだるいのだろう。グラスを差し出すとその瞳がふっと和んだ。

「ええ匂いや。おおきに」

 指先でグラスの縁をつまむようにして受け取り、くいと傾ける。青柚を絞って口当たりをよくしてはあるが、酒に弱ければひと舐めで昏倒する酒をひと息に半分も喉へ流して、満足げな吐息をもらした。

「四家はほんま、いつどこへ行っても空気悪うて好かん」

 つんと唇を尖らせて見せ、腕を伸ばして咬の腰に回す。引き寄せられるまま、椅子の肘掛けにかるく腰を乗せた。ことんと咬の胸板に頭を寄せ、明紫はあいているほうの手で肘掛けに乗せた咬の腿を撫ではじめた。

「大嗣。いいかな」

 前ぶれなく、誰かが扉をあけた。

 いや、こんなふうに無遠慮に明紫の部屋に入りこんでくる――それを許されているのは一人だけだ。

「……あれ」

 咬を抱き寄せ、腿のあたりをまさぐっている明紫の姿に、その当人、北野はきょとんと首を傾げる。

「お楽しみ中だったかな。邪魔をした?」

 猫がするように咬の胸板に頭をこすりつけて、明紫はくすっと笑う。

「お楽しみ中やけど邪魔やないよ」

「そう。だったらよかった」

 にこりとして北野は戸を閉める。

「どないした?」

 北野に「お楽しみ」のところを見られても明紫は動じない。咬を放すこともしないし、咬の腿を撫でる手もとめない。誰かが入ってきたからといって膝に抱いていた猫をわざわざ放さないのと同じだ。猫は逃げるかもしれないが咬は主人の傍らを離れない。

「僕はどうもしないんだけれどね」

 北野もそのことはよく知っている。明紫が邪魔ではないと言ったのだから恐縮も遠慮もせず、すたすたと明紫の前までやってくる。背で手を組んで、座っているぶんやや低い位置にある明紫の顔をのぞきこむようにした。

「もしかして、僕の出番かな、って思って」

 切れ長の瞳はいくらか色のうすい茶。だが視線は決して弱くはない。

 うすく、明紫は唇の両端をあげて笑んだ。

「さすがやね」

「まあ、僕もいちおうはね、少しは使えるから」

 少したどたどしく聞こえる独特の口ぶりで、北野もにこりと瞳を細める。

「それにしても、ちょっと度を越しているなあ、これは。こんなものを引きずって帰ってくるなんて、すこし趣味が悪いんじゃない?」

「気づかんまま帰ってきてもうたのかもしれんよ?」

「大嗣が?」

 からかう明紫の流し目に、北野は今度は瞳を大きく見開く。

「あのね、大嗣」

 顔の前で指を一本立て、その先端を明紫に向ける。大嗣を指でさすようなまねも、北野であればこそ許されることだ。

「それは、翁桜が花をつけなくなるより、ありえないことだよ?」

「……おやまあ」

 く、と明紫は喉を鳴らす。

「そんなにありえへんかな」

「ないね。……やっちゃおうか」

 にっこりと瞳を細めて頷き、そしてすいと北野は表情を変えた。

「いつまでもそんなものを依り憑かせておくと、具合が悪くなるよ」

「そやね」

 明紫も小さく頷く。また、咬の胸板に頭をこすりつけた。

「ほんまゆうと、さっきから頭痛うてかなわんのや」

「……もう」

 ぷくん、と北野は頬をふくらませた。

「早く言いなよ、そういうことは。というか、待っていないで僕を呼べばいいのに。ええとじゃあ、清水か御神酒……ああ、これでいいや。もらうね」

 先ほど咬が注いできた酒の残りが卓にあったのを見つけて引き寄せ、指先を浸した。

 酒で濡らした指先が、繊細に宙をひらめく。指のたどったあとが白銀に光って虚空に文字と複雑な模様を浮き上がらせた。それを、描いた手がさっと掃いて手のひらへ握り込む。

 明紫が咬の腿であそばせていた手を、手のひらを上にして北野へ伸べる。そこに北野が手に握っていたものを注ぐように指先で触れた。

 薄茶の瞳がすうと開いて、瞳の奥から何かがほとばしった。

「はッ!」

 北野が短く、鋭い気合をかける。北野の指先と明紫の掌の触れ合った場所から白銀の閃光が弾け、そして一瞬ののち、なんの痕跡も残さずにかき消えた。

「おおきに」

「どういたしまして」

 うすく笑った明紫に、北野はもとのように背で手を組んでにっこりする。

「なあ、おひいさん」

「うん? なあに?」

「また、あれ教えてくれへんかな」

「もちろん」

 にっこりして、北野は頷く。

「だけど、今日はやめておこう。疲れてるだろう? 休んだほうがいいよ」

「……ん。なら、あした」

「いいよ」

 頷いて、北野はあらためて明紫の顔をのぞきこんだ。

「今日は、お出ましは?」

「ん……遅めかな」

「わかった。それじゃあ、あとで」

「よろしゅうな」

「はあい」

 踵を返して戸口へ向かう北野に明紫が声をかけると、北野は肩越しにひらりと手を振って部屋を出ていった。

 ぱたんと扉が閉まる。北野の持ち込んだ軽やかな気配がすうっと引いていって、部屋の空気が落ち着いていく。いなくなったあとで、北野が好んで使う、淡く品のいい香が鼻孔をくすぐった。

「咬」

 また、明紫がことりと寄りかかってくる。視線を向けるとあがってきた腕に首を抱き寄せられた。

「眠い」

 低い呟きに頷いて、明紫の背を支え膝裏に片腕を入れて抱き上げた。

 寝室は居間の奥だ。扉はなく、壁が衝立のかわりになっている。

 寝台におろすと明紫はそのまま手足を縮めて丸くなる。眼鏡をとってサイドテーブルへ置き、衣桁から上着をとってかけてやる。あけてあったカーテンを引いて、光を遮った。

 居間へ戻ってショットグラスに青柚の残りを放り込み、廊下へ出した。目立たない場所にキャビネットがあり、そこに使ったものを出しておけば使用人が下げていく。使ったグラスや酒、酒に添えたりつまみにする果物や乾果、堅果ナッツなどは日に一度、明紫が部屋をあけている間に掃除に入る使用人が入れ替える。

 寝室へ戻ると明紫は咬が部屋を出た時と同じ姿勢でいた。もう眠ったのか。

 顔をのぞきこむ。

 少し、眉が寄っていた。顔色が悪いように見えるのは部屋が薄暗いせいか、西でなすりつけられてきた呪いのせいか。咬の治療に余計な力を使わせてしまったせいもあるだろう。頬にかかる髪先もどこか乱れ髪を思わせて、やつれた印象を助長している。指先でかるく髪を整えてやった。

 寝台を背もたれに床に座る。と、背後から明紫の腕が首に巻きついてきた。眠ってはいなかったらしい。

 姿勢を少し変えて座り直す。少しだけ位置の高くなった肩に明紫が頭を乗せて、吐息だけで笑った。



 陽が沈み、街に夜の帷が落ちた。

 華やかな、あるいは艶めかしい照明に身を飾って扉を開くいくつもの店々と同じように、永咲館にも灯りが入る。その名の由来となった翁桜の巨木を照明が幻想的に浮かび上がらせ、その巨木に寄り添う館もまた、この世のものではないかのように現実味を失って見える。

 いや、ある意味でそれは正しい表現だ。

 永咲館は現世うつしよを離れた幻想の館。浮世のしがらみから解き放たれ、極上の夢に遊ぶための場所だ。

 光と影の合間を縫うようにして館の車寄せに一台、また一台と、馬車が、あるいは自動車が乗りつけ、その主人をおろしては馬車溜まりへ誘導されていく。この部屋までは人の声などは聞こえないが、エンジンの音や振動、馬車を引く馬の嘶きなどは時折聞こえてくる。

 それは、夜のはじまりの音だ。

 とくに起こすようにとは言われていなかったから肩を枕に貸したままにしていると、そのうちに明紫が身動きした。

「夜やな……」

「ああ」

 少しだけぼやけた、寝起きの声に頷く。首を抱いていた腕に一度だけ力がこもり、そして離れていった。

「かるくお湯浴びてくるわ」

 そう言って明紫は寝台を降り、湯殿へ向かう。咬も立ち上がり、自室へ戻って自分も服を替えた。自室と言っても、常に明紫の傍らに控える咬はここで時間を過ごすことはない。日に何度か、着替えのために戻るだけの場所だ。

 濃い色のシャツに細身の革のタイを襟元をあけて締め、深い燕脂の上着に腕を通して袖を肘の下まで折り返す。左腕に巻き付く龍の刺青があらわになった。知らずに咬を見た者はだいたい咬の真紅の瞳にぎょっとして目をそらし、そしてそらした先に左腕の龍を見てさらに青ざめるのが常だ。

 咬自身にとっては、どうでもいいことだが。

 戻ると明紫はすでに湯殿から戻って、胴着の上から上着を羽織ったところだった。明紫が服を脱いでいる時には離れているようにしている。禁じられているわけではないが貴人の肌は咬の身分で目にしてよいものではない。

「咬、帯頼むわ」

 姿見の前に立ってそう言った明紫が差し出した帯を受け取り、上衣の前を合わせて帯を巻き、結んで形を整える。傍らへさがると明紫は姿見に映った己を点検して満足げに頷いた。鏡台の前に腰をおろして前髪をかるく整え、こめかみの髪を丁寧に撫でつけて、髪留めで抑える。そして紅皿へ手をのばした。

 小指の先に少しだけ紅をとり、手早く、丁寧に唇を染めていく。

 鏡ごしに、血の色の薄い明紫の唇が艶めかしいくれないに染まっていくのを咬は見守る。眉の形は多少整えているが明紫の化粧は紅だけだ。肌理の細かい、手入れの行き届いた肌はそれだけで十分、入念な化粧を施したように見える。

 指に残った紅を懐紙で拭って、明紫が振り返った。視線が今度は咬の姿を上から下へ、そしてまた上へと眺めていく。手が伸びてきて襟元の形を少しだけ直し、上着を撫でつける。そして左腕の龍を指先でかるくなぞった。

「男前や」

 眼鏡の奥で新緑の瞳が満足げに笑った。


 サロンには落ち着きのある、だが華やいださざめきがたゆたっていた。席は八割がた埋まっている。

 楽団バンドが歓談の邪魔にならない音量とテンポで音楽ジャズを奏で、何人かの客がそのゆったりしたリズムに合わせて、今夜の相手に選んだ娼妓と密着させた体を揺らしている。

 あちこちに置かれた長椅子ソファやその足元には花を飾るように着飾った娼妓たちが並び、張り見世をしている。まだ相手を決めていない客は酒を楽しみながらそれらを眺めて、目にかなった女や男を席へ呼び、あるいは直接声をかけて誘い、時には並べて比べて、一人あるいは複数の、今夜の相手を決める。

 永咲館は娼館だが紳士たちの社交場でもある。客は相手を決めたからといってそそくさと寝室へあがりこむようなさもしいことはしない。今日の敵娼あいかたを侍らせて酒を楽しみ、あるいは一曲歌わせたり、踊らせたりしてその技芸を愛でる。知人がいれば挨拶をし時には席を合わせて歓談し、あるいは遊戯ゲームの卓を囲む。

 そうして夜の前半を紳士的に楽しんだあとで寝室へ引き取り、今度は選んだ娼妓と夜の後半を愉しむのだ。

 サロンの正面、階上へ続く主階段の上へ明紫が姿を見せると気づいた娼妓たちがまず口をつぐんで目を伏せ、客も娼妓が伏せた視線に来臨を悟って口を閉ざし、主階段を仰ぐ。音楽が途切れた。

 客たちすべての視線を受けて、明紫はうっすらと笑った。

「大嗣」

 笑顔になって北野が立ち上がり、軽やかな足取りで階段をあがってくる。今日はぴったりしたパンツに膝までのブーツ、やはりぴったりとした短めの上着という装いだ。たっぷりとひだをとったサッシュベルトを腰に結んでいるのがふわふわと揺れる。咬を従えて下りていく明紫を半ばで迎えて、両手で明紫の片方の手を取った。

「こんばんは大嗣」

 明紫の顔を一段下からすこし背伸びをするようにして見上げて、相変わらず物怖じせずににっこり笑う。

「今日もきれいだね」

「おおきに」

 瞼にうすく銀粉を塗り、くっきりラインを引いて強調した切れ長の瞳を見下ろして、明紫も微笑んだ。

「あんたもな、おひいさん。別嬪や」

 身をかがめて、北野の唇に自分の唇を触れさせる。北野は微笑を浮かべうっとりと瞳を閉じて口づけを受けた。その妖しく艶めかしい光景にホールのあちこちから感嘆の声やため息があがった。

 北野はとくに小柄というわけではない。背丈は明紫とほぼ変わらないかむしろ北野のほうがわずかに高く、肩幅も広い。だが、一段低い位置からさらに腰を引いて頭の位置を下げ、大きく見上げるようにすると明紫よりずっと小柄に、あどけない少女めいて見える。対等に口を利き気儘にふるまっているようでいて立場の上下は決して踏み越えない。それができるからこそ、永咲館でたった二人、明紫とともに太夫の位を名乗る立場にいるのだ。

「ねえ大嗣、僕のテーブルへおいでよ。一緒に骨牌かるたをしよう。五郎ときたらてんでへたくそでさ。負けてばかりいるからちっともおもしろくないんだ」

「はいはい」

 手を引いて階段を先に下りていく北野に微笑して、あとに続く。通りしな、左右の客たちに笑みと会釈、そして「こんばんは」「ようこそおいでやす」と愛想のいい言葉を振る舞うことも忘れない。

「ようこそおこしやす。……お邪魔してもよろしいですやろか」

「もちろんですとも」

 立ち上がって北野が明紫を連れてくるのを待っていた席の主は一歩前へ出て明紫に手を差し出す。明紫がその手に自分の手を預けると恭しく押し頂いてかるく手の甲に接吻した。

「光栄です、大嗣。さあ、どうぞ」

 とった手でエスコートして席を勧める。北野にさんざんな酷評をされた五郎はすでに席を立って退いていた。咬が引いた椅子に明紫が腰を下ろし、それをにこにこ見守っていた北野も客に促されて五郎の引いた椅子につく。やはり起立して明紫を迎えた、もう一人卓を囲んでいた客も背後に控えていた敵娼とともに席についた。はじめて見る顔だ。北野の客が伴ったのだろう。

 それを契機に、主人の登場であらたまっていたホールの空気は再び流れはじめた。途切れていた音楽もまた低く流れはじめる。

「こちら南方で手広く事業をされているのですが、近く大淵へ支社を出される計画を立てておられます。わたしがそのお手伝いをさせていただくことになりまして、お近づきのしるしにお誘いしたのです。こちらが、大嗣であらせられます」

「お初にお目にかかります。どうぞお見知り置きくださいますよう」

 北野の客が同行の客を明紫に引き合わせ、新参の客も着席したままではあったが丁重に頭を下げた。ことさらに明紫と引き合わされるところを周囲に誇りたいのでなければ、着座のまま挨拶を交わすのが通例だ。そしてあえて己の名を口にしないのも、ここでの不文律だ。さすが北野のなじみになる客だけあって、同伴者への教育も行き届いている。

「それはご成功でいらっしゃいますな」

 明紫も座ったままにこりと頷く。

「おかみでございます。永咲館へようお越しやした。どうぞ、今後ともご贔屓に」

 卓ごしに手を伸ばす。新参の客は両手でその手を押し頂いて頭を下げた。

 給仕が明紫に酒を運んでくる。明紫がそのグラスをとると、客と北野、そして連れとその敵娼もそれぞれの酒をとった。互いにかるく杯を掲げ、明紫が口をつけるのを待ってからほかのものたちも口をつける。

「お強いのですな」

「どうですやろ」

 小ぶりのグラスに注がれた透明な酒精スピリッツをくいと一息に半ばほどあけた明紫に客が微笑し、明紫もにこりと笑みを返す。

「醜態を見せん程度ですかな。妓楼みせのおかみが下戸やったら格好がつきまへんから」

「大嗣はもうすこし弱くてもいいと思うよ」

 自分も氷を入れただけの火酒ウィスキーを茶を飲むかのように気楽に傾けて、北野が揶揄する。

「大嗣が乱れたところなんか、見たことがない」

「そうやったかな」

「そうだよ。僕なんかすぐ酔っ払ってあるじに介抱されているのにさ」

「あんまり主はんにご迷惑かけたらあかんよ」

「だいじょうぶだよ。主はそんなことで僕を嫌いになったりしない」

 ね、と笑いかけられて客が苦笑する。

「そうだ、と言うしかないな、ここは」

「あ、そういうことを言うの? ひどいなあ。……もしかして本当は僕にうんざりしている?」

 一転、不安げに眉を下げ、下から客の顔を見上げる。

「もしそうなら、無理に僕を揚げなくていいからね? ここには僕のほかにもいいはたくさんいるんだから。捨てられたら、まあ、十日ぐらいは泣くと思うけれど、僕をほしいというお客はたくさんいるし。あなたのことはすぐに忘れるからだいじょうぶだよ」

「そんなことは言っていないだろう。忘れないでくれよ」

 客はさらに苦笑して首を振った。

「おまえが一番だよ、北野」

「よかった。僕も大好きだよ、主」

 極上の笑顔になって、北野は客の手に自分の手を重ねてかるく握った。

 こんな高慢な手管が使えるのも、北野なればこそだ。永咲館には、一度登楼したら同じ娼妓を揚げなければならないという決まりはない。常に決まった娼妓を揚げる客も、その時どきの気分で相手を決める客もいる。指名しようとした娼妓に先約があれば別の娼妓を揚げることもある。

 だが北野ほどになるとほかの娼妓に浮気をする客はまずいない。北野には客を選ぶ権利が与えられているから機嫌を損ねれば揚げもらえなくなるし、自分で言ったとおり、北野は自分と切れた客のことはきれいに忘れてしまうのだ。演技ではなく、本当に忘れて、客の前だけでなくほかの娼妓などにその客の話題を出されてもきょとんとしている。自分にとって価値のないものは記憶しないし、記憶から消し去ってしまうのだ。それでいて、その客がならばとあらためて北野の客になろうとうすると、その気になれないと拒む。

 忘れられないために客は熱心に北野のもとへ通う。いついつ行くと事前に連絡を入れ、贈り物を携えて登楼する。先約があれば別の日にあらためる。客同士が連絡をとりあって日程を譲り合い、調整することさえある。

「さ、やろう」

 とろけるような笑みを客に向けたのは一瞬で、北野はすぐに握った手を放して、卓の中央の札をかき混ぜはじめた。

「すんまへんな、我儘に育ててしもうて」

 同じように札を混ぜて積み、並べながら明紫は客に苦笑まじりの視線を向ける。客は自分も卓に手を伸ばしながら笑って首を振った。

「これが、北野のよいところですから」

「まあ、お熱いこと」

「ふふ」

 明紫は目を見張ってみせ、北野は得意げに笑って、身を乗り出して客の肩に頬を寄せた。

「いい主だろう。僕のだからね。たとえ相手が大嗣だって、あげないよ」

 北野は、自分のものではなくなった客には冷淡だが、自分を捨てない客に見せる情愛は逆に徹底して濃く深い。客の好む色合いや意匠の装身具や衣装を選び客の気に入るように爪を染め、化粧を変えるのはもちろん、場合によっては部屋の調度まで変えることもある。わがままで気まぐれな態度も、情を通じた相手との、互いに織り込み済みの駆け引きの範疇におさめ、本当に客の機嫌を損ねるようなことは決してしない。だからこそ、北野は客たちに愛される。

「おやおや。牽制されてしもうた。仕方ない、諦めましょ」

 明紫も笑って、牌を切った。


 何局か遊戯ゲームにつき合って、明紫はごゆっくり、と声をかけて席を立つ。北野の客も、大嗣がわざわざ同じ卓について遊戯につき合うほどの人物であることを連れに示せて大いに面目を施したことだろう。

 そもそも北野も、そのために明紫を誘ったのだ。客に頼まれたか、客から同伴する相手のことを聞いて気を回したのかはわからないが。夕方、今日はいつごろ顔を見せるつもりかと聞いてきたのも、その時に客と連れがすでに席に落ち着いているように計らうためだろう。

 再び、礼儀正しく目礼する客たちに声をかけあるいは笑みで挨拶をしながら、明紫はサロンを一周する。大嗣を気軽に自分の席へ誘えるのは、生来の性格と、永咲館の実質ナンバーワンという立場の双方が揃っていて対等に声をかけられる北野ぐらいのもので、格下の娼妓たちは目を合わせるどころか礼儀正しく目を伏せる。そして客たちもせいぜいが挨拶の声をかける程度で足をとめさせるようなふるまいはしない。

 明紫は永咲館の主人であるとともに最も位の高い娼妓だが、大嗣――この大淵の街の最高権力者である大父ダイフの後継者でもある。

 大父の持ち物である永咲館は大淵にいくつかある高級娼館の中でも最も格が高く、従って登楼する客もそれだけの地位と金を持つ人物たちだ。そんな客たちが大嗣であり、そして歴代その美貌から大父の愛人でもあると噂され、数十年にわたってまったく衰えぬ美貌でこの館に君臨する明紫に妻問いなど、するはずもない。

 形の上では娼妓であっても、明紫が客をとることはないのだ。

 サロンの一画には明紫の席がある。ほかの娼妓たちが並ぶ、陳列用の場ではなく、大嗣に面識を得たい者の挨拶、あるいは面談を求め相談を持ちかけたい客を迎えるための、いうなれば玉座だ。

「大嗣」

 待ち構えていた、とは思わせないほどには間をおいて、一人の客が席を立ってやってきた。だいぶ背の曲がった老人だ。敵娼は席に控えている。

「先生。こんばんは」

「うん、久しぶりだ、大嗣」

「そうですな。お元気そうで何よりですわ」

「おかげさまでな。まだまだ遊べる元気はあるようだよ」

 にこにこ笑ったまま老人は何度も頷き、細い目をいっそう細めた。

「どうかな、大嗣。一献、差し上げても?」

 すう、と明紫も瞳を細めた。

「もちろんですわ。喜んで頂戴いたしましょ」

 明紫が手で示して席を勧め、老人は失礼、と卓をはさんだ隣の席へ小さな体をおさめる。明紫が合図をすると、ほどなくして杯と酒注さけつぎが運ばれてきた。

「さ、先生」

「おお、これはかたじけない」

 酒注をとった明紫に促されて老人が杯をとる。うまそうに飲み干すと明紫に杯を差し出した。一礼して受け取り、今度は明紫が老人の酌で杯を干した。

「大父は近頃、いかがお過ごしかな」

 明紫があらたについでやった酒を今度はゆっくりとすすりながら、老人は明紫にも酒を勧める。自分の杯をとって酌を受けながら、明紫はほんのりと笑った。

「お陰さんで、大過のうお過ごしですわ」

「そうかそうか。それは重畳」

 何度か頷いて、老人はさらに瞳を細める。

「ところで――このごろ、いささか市井が騒がしい」

 細い瞳の奥に鋭いものがよぎった。

「もちろん大嗣も知っていることとは思うが、耳打ちをしておこうと思ってね」

「それは、おおきに」

 にこりとして、明紫は老人にかるく頭を下げる。

「お父はんのお耳にはもう入ってますよって、そうかからんうちに静かになるやろと思いますわ」

「おお、そうかそうか。さようでござったか」

 たとえそれが昼間咬に手首を溶かし落とされそうになって失禁した男のことでなくとも、それを口実に呼びつけられて西家でなすりつけられた呪詛のことでなくとも、明紫は同じように応えたし老人も同じように頷いただろう。

 重要なのは老人が注進をしたという事実だ。

「爺の取り越し苦労で失礼をした」

「とんでもないことですわ。気ぃ遣うていただいて」

「そうかな。ならよいが」

「先生のとこも、何ぞお困りで?」

「いや、儂はとくにはな。もう先も短いゆえ何があってもどうということはないが――孫に子ができてな」

「おや。それは、おめでとう存じます」

「うん、うん。ありがとう。……まあ、ひ孫も四人めとなると一人めほどの感激もないものだが、だがせめて生まれるまでは平穏であってほしいと、そのくらいだな」

 老人は盃を干して明紫に差し出す。明紫はそこに酒を注いだ。

「どうぞ、ご心配なく」

 酒とともに流れたひそやかな声に老人は視線を動かして明紫の背後に控える咬をちらりと見る。咬はそれを無視する。視線も表情も動かさない。

「……うん」

 深く、老人は頷いた。

「期待しておりますよ――大嗣」

 明紫は丁重に会釈をすることで老人の言外の言葉へ応えた。



 深夜。

 咬は露台へ続く、両開きの硝子戸を片方押し開ける。

 サロンに集まった客たちも、全員、それぞれの選んだ娼妓と部屋へ引き上げた。すでにことをすませて寝入ったものも、まだじっくりと愉しんでいる最中のものもいるだろう。使用人たちも、片付けをすませて、地下にある部屋へと引き上げている。

 この時刻は少しだけ、翁桜の散らす花の香りが濃く感じられる。

 露台へ出て、静かに戸を閉める。ちらりと、室内を振り返った。

 灯りを消した暗い部屋の中。明紫は長椅子に体を伸ばして咬を見ていた。目が合うとほのかに唇の端をあげ、小さく頷く。咬もごくわずか頷いて主人に背を向ける。露台の手すりを越えて、跳んだ。

 永咲館は三階建てだが、一階は天井が高い。露台はほぼ四階ほどの高さがある。途中で翁桜の太い枝に手をかけて勢いを殺し、一回転して飛び降りた。

 夜通し庭を照らす照明は逆にあちこちに濃い影を作っている。影から影をたどって横切り、敷地を囲う高い鉄柵を乗り越える。

 街路に人の姿はなかった。そも、まっとうな人種であれば魔の跋扈するこんな時分に外出などしない。まれに酔漢や、このおぞましくあやしげな静けさを愛して徘徊する奇人もいないではないが、相手が咬に気づくよりはるか先に、咬が気づいて進路を変える。

 夜の街は館の敷地よりもはるかに暗い。夜陰の黒髪に褐色の肌、そして黒がほとんどのいでたちの咬は、暗がりを選んでいる限り闇に溶けて人と見分けられることはない。偶然に何かに反射した真紅の瞳を見られたとしても、人ではなく野犬か、あるいは魔性のものと思われて悲鳴をあげられるぐらいのことだろう。

 影から影へ、音を立てず街を駆け、そして。

 ふ、と。咬は足をとめる。物陰の、さらに奥深い暗がりへ身をすべりこませた。

 鼻腔を一瞬かすめた、ごく淡く、品のいい、ほのかな香り。

 北野の香だ。

 北野が打ち返した呪詛を受けたものが、近くにいる。

 呼吸を整え、ゆっくりと、周囲へ意識を広げていく。

 いた。

 感じた瞬間、咬の体はもう動いている。低く地を這うように暗がりを駆け抜け、そして、中空へ高く跳ぶ。

 見えた。

 通常の瞳にはうつらない繊細な光の銀糸。それはひどく細く、かすかで、咬であっても、そこにあると知らなければ見過ごしてしまうかもしれないようなものだ。

 だが在ると気づけば決して見失うことはない。光を追い、行き着いた先に見えたのは眩しく輝く退魔陣。そしてそれに刺し貫かれたものに、飛びかかる。

「ガァ……ッ!」

 濁った音が迸った。

「せェッ!」

 それの首とおぼしき位置に突き立てた指を横へ大きく薙ぐ。ぶしゃっ、と濡れた音とともに悪臭のする液体が迸った。

「っ……!」

 身を絞って暴れるそれに胸を蹴られた。呼吸が詰まった刹那、それは咬の爪から身を振りほどいて地面に落ちる。そのまま跳ねて、飛びかかってきた。

「ギェエ……ッ!」

「く、っ」

 組み合って、地面を転がる。咬の裂いた傷口から飛び散る液体の飛沫が目をかすめた。反射的に目を眇めた一瞬、喉を狙って牙が食いついてこようとする。左腕をあげて防ぐ。龍の彫り物にそれの牙が食い込んだ。

 左腕に巻き付いた龍の彫り物があかく輝く。そこに熱が集まり、浮き上がった。

「……ハァッ!」

 気合を放つと龍の体から赫い輝きが迸る。弾き飛ばされてそれがぎゃんと悲鳴を上げた。追って飛びかかり、胴体に乗り上げ、肩と頭部を手で押さえ込む。首筋に食いついた。

 その瞬間、咬の犬歯は鋭く伸び、牙と化す。

 顎に力を込めるとばきりとそれの首の骨が砕けた感触がする。首を振って、痙攣する筋肉の束ごと、噛み折った。

 もう、それは音を出しはしなかった。びく、びくん、と幾度かひきつけたように跳ね、そしてがくりと脱力する。首を振って頸骨を完全に割り、残った肉も食いちぎった。

 ぷっ、と口中にたまった体液を唾液とともに吐き出す。口元を手の甲で拭う。息が切れていた。

 立ち上がって頭部を地面に叩きつけ、踏み潰す。ブーツから短刀を抜いて胸を貫き、腹を十字に裂いて内蔵を引き出した。

 完全に死んだことを確かめてからあらためて検分すると、それは形状としては狒々に似た動物だった。胆嚢と思しき臓器に不自然なしこりがあり、そこを切り裂くと指先ほどの金属の粒が埋め込まれていた。

 それは上着のポケットへつっこみ、臓物の残りは屍骸の腹へ詰め込み、ついでに頭部もつっこんで四肢をまとめてつかむ。

 荷物が増えたぶん、帰りは行き道よりもやや時間がかかった。荷物を先に投げ入れてしまえれば楽だったが、それで散らばる臓物と頭を拾い集めるのは面倒だ。片手で柵を握って体を引き上げ、乗り越えて永咲館の敷地へ飛び降りた。

 翁桜の根元を掘り、屍骸を投げ入れて土をかぶせ、踏み固める。そのまま節くれた巨木の幹をのぼる。大の男が五人ほどでも抱えきれぬ幹は地面と変わらない。やすやすと永咲館の屋根と変わらぬ高さまでのぼり、露台へと飛び降りた。はらはらと白い花が散る。

「ご苦労さん」

 露台と居間を仕切る硝子戸は開いていて、明紫がそこに寄りかかって待っていた。

 微笑に、咬はただ小さく頷く。指先に呼ばれて、その手の元へ膝をついた。

 額に、両耳に、そして両肩の先に、明紫の指先が触れる。指先が濡れているのは清めの酒だ。しゅう、とかすかな音をたてて服や肌についた体液から呪詛が蒸発し拭い落とされていく。

「……ん」

 指先で咬の唇に触れて明紫はかるく眉を上げた。咬の顎の下へ指を入れて、顔をあげさせた。

「牙、使うたね。口開けや」

 命じられるままに、口をあける。もう、そこに牙はない。指先が口の中へ入り込んで、歯の裏をなぞり、舌のくぼみをかるくつつく。

 指が抜き取られ、頬を撫でて、手のひらがそこを包むように撫でる。もう片手に持っていた杯からひと口含み、腰を折った明紫の顔が近づけてくる。唇が触れ、酒が口腔へ流れ込んできた。

「気色悪かったやろ」

「いや」

 首を振った。そうしたことは、咬はとくには考えない。口に入ったものは吐き出せばそれでいいだけのことだ。

「相変わらず無頓着やな。お湯使っといで」

 明紫も多くは言わずに湯殿を指した。明紫と、そして北野はいつであろうと自由に湯を使うことができる。

 体を洗うのに湯は必要なわけではなかったが、この時間にほかに水が使える場所は多くはない。頷いて、ポケットから先ほどの金属粒を出して明紫に渡す。湯殿へ向かった。

 ちゃんとお湯で洗うんやで、と背中にからかいを含んだ声がかかった。水でいいだろうと思っていたのを見透かされて、苦笑して肩越しに手を上げた。


 汗と埃、そしてただの動物の体液に戻った汚れを洗い落として衣服を替え、居間へ戻る。明紫は咬の渡した金属粒を卓に転がして、つまらなそうにつついていた。

 それは、呪術師が動物を操る時の典型的な手法だ。金属や石、骨のかけらなどに呪いを籠め、動物の内臓に埋めることで所有し、使役する。術士が直接呪うより効力は低いが、呪いを放つのは呪具だから呪詛返しをされても術士に危険は及ばない。

 捨ててええよ、と投げてくる。受け取って、頷いた。調べれば術士を割り出すこともできるだろうが、そこまでしてやる義理はない。

「ま、伯父はんも依頼主はわかってはるやろ。あんまりあこぎなことせんように、釘さしとかんと」

 そう言って、めんどくさ、と嘆息する。

「さ、もう寝よ」

 立ち上がった明紫が寝室へ向かいかけ、ふと振り返った。背後に続いていた咬の頬を両手で包む。

 顔を引き寄せられ、額に明紫の額がこつんと触れた。

「おおきにな、咬」

 甘い声が耳元を撫でる。

「俺は、あんたのものだ」

 咬は狗だ。主人のためにある。その傍らにあること、主人に危害を加えようとするものを除くこと。それを許されること。それだけが望みであり願いだ。

「……うん」

 明紫の声に笑みが乗った。

「わかっとる」

 まるで睦言のように声を落として囁く。

 それが、咬を最も満たす言葉だと、明紫は知っている。

「明日もよろしゅうな」

 小さく咬の頬に口づけて、顔を離した明紫が微笑する。

 頷いて、咬も、余の相手にはまず見せぬうすい微笑を、主人に返した。

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