演奏者の独白ーピアノ演奏に関連する解剖学的知識と体性感覚並びに想起される感情について
葛西 秋
第1話
人によって演奏前の準備の動作は様々だろう。
私はグランドピアノの脇に立ってゆっくりと肩を回す。
鎖骨、肩甲骨、上腕骨、橈骨、尺骨、手根骨、中手骨、基節骨、中節骨、末節骨。
全ての骨の配置をイメージして、それぞれが痛みも引っ掛かりもなく動くことを確認する。骨同士はぶつかってはならない。全ての骨は滑らかな骨膜で包まれて、私の動きを支えるものでなくてはならない。
ピアノを始めたのは3歳のとき。普通だ。
近所のピアノ教室に親に連れていかれてレッスンが始まった。これも普通だ。
初めてのレッスン。私はうちに帰るのを嫌がった。
なにが3歳の私の興味を引いたのだろう。黒く艶やかなその体躯。そのピアノ教師のグランドピアノは今では珍しい象牙の白鍵だった。軽く温かな白い骨の感触。黒鍵は、今思えばあれも珍しい素材だったと思う。紫檀と聞いた覚えがあるが、それは重過ぎる気がする。だが間違ってもプラスチックや人工樹脂ではなかった。
それも今だからこそ言えること。3歳の私が初めて出会ったのは単純な白と黒の世界、それだけの話だ。
指で触れると音が出る。決まった場所から決まった音。けれど音を繋げると何かが流れる感触があった。もう一度。ドレ、ドミ。ラド、ラシ。
たった2つの音の間にも何かが零れて溢れ出す感触。それは鍵盤の合間からか、それともここではない何処かから。
その何かが3歳の私を誘惑し、今も私を魅了する。
よく人は云う。"自分の感情をピアノで表現できるって素敵ね"
私は自分の感情をピアノの演奏で表現したことは一度もない。演奏は神にささげる供物だ。そこにどうして自分の感情を混在させる必要があるのか。
自分の感情を表現したいならカラオケで流行りの歌でも歌えばいい。精錬も精製もされていない自分の生身の感情をピアノにそのままぶつけ、神の耳に届けようなど、烏滸がましい振舞いにもほどがある。ピアノをただの道具にしか見ていないからそのような言葉が出るのだろう。
安っぽいドラマで時たま、登場人物が激情に駆られるままピアノの鍵盤をこぶしで叩く場面がある。ピアノを真に演奏する者なら絶対にありえない行動、ただの破壊行動だ。ピアノを破壊するものを演奏者は強く憎む。しかも己の感情の発露という真のピアノの演奏の目的から逸脱した最も愚かしい呆れた理由で。侮蔑、怒り。この感情。感情のパターン化。
私が感情を持たない、というわけではない。人並に感情は持つ。
だが、私の脳は私のもので、他人とその回路を共有しているわけではない。だから人並、という言葉が適切な表現かどうか私にはわからない。
"人並に"、嬉しい、楽しい、悲しい、腹立たしい。基本的な感情は揃っている。それらの感情は自覚された瞬間に演奏のパターンに置き換えられる。
翻訳、と言ったらいいのだろうか。感情の振れ幅。神経細胞に記録される活動電位のパターンを記銘して、その振れ幅を筋肉の運動に、指の動きに、音色の表現に、翻訳する。
中学の時の同級生。私とは違うピアノ教室に通っていた子。
「好きな人に彼女がいたの。告白する前にふられちゃった」
透明な涙がその頬を伝った。
「でもいい経験になったと思う。今度の発表会の曲に活かせるといいな」
涙をこれ以上こぼさないように、眉をぎゅっと真ん中に寄せながらその子は云った。
「そう」
そういって私はその子の肩を軽く抱いた。
sentito, 冷たく聞こえないように、冷たく見られないように。
あなたのその感情、そうやって心が動くのね。失恋、涙、立ち直る希望。感情パターンの記銘。
使ってみよう、今、私が練習している
人の感情や行動は全て活動電位のパターンに還元される。
表現者は様々な経験をしろ、と言われる。読書、観劇、その他芸術に触れること。そして恋愛。そこで得られた感情をそのまま演奏にぶつけろ、ということではない。感情のパターンのバリエーションを揃える為だ。
だからピアノを弾くのは人間である必要がある。
様々な人間、それぞれが寄せ集めた感情のパターンは一様ではない。何をどう集め、どう組み合わせて演奏に用いるか。それが演奏者の個性となる。
肩を大きく回しながら肩甲骨に付随する筋肉を1つ1つ確認する。肩甲下筋、棘上筋、三角筋。上腕を支える主要な筋肉たち。
肘を軽く曲げて、肩甲骨からゆっくり回す。
上腕二頭筋は腕の高さを保持する。
肘を伸ばして、尺骨と橈骨を地面に平行になるように。手首までをまっすぐに伸ばす。力は入れない。
親指を制御する長母指屈筋とその他の四指を制御する深指屈筋。親指を制御する筋肉は他の指とは別物である。この二つの筋肉が同調しているか、手の平を広げ、握り、確認する。指の動き、皮膚の下に蠢く長母指屈筋と深指屈筋の存在。
続いて上腕二頭筋から下腕を内側に90°回転させ、手首から先、指を一本一本確認する。
親指。短母指外転筋、短母指指屈筋、母指対立筋、母指内転筋。
人差し指、中指、薬指、小指の根元には虫様筋。薬指は他の指に比べて他指との連携が弱い。薬指の運指に戸惑うのはこの構造が理由だ。支持の弱さが打鍵の弱さにつながる。
私の第3、第4虫様筋は他の指の物より大きい。知らないうちにこうなっていたが、この厚い筋肉のお蔭で他の指と遜色なく音が出せるのだろう。
浸透する体液は筋肉を包む膜を帯電させる。
ピアノの演奏の練習は反復作業だ。
感情を介さない反射運動の積み重ねをただひたすらに記銘していく作業。指に、筋肉に、骨に。そして神経に。
親指、人差し指、中指、そして薬指の内側を走る固有掌側指神経、薬指の外側と小指を走る尺骨神経。そう、ここでも薬指は他の指と異なる制御系によって支配されている。
正中神経、筋皮神経、内側前腕皮神経。肩関節がこれらの神経の走行を圧迫してはならない。
第5頚神経、第6頚神経、第7頚神経、第8頚神経、そして第1胸神経。肩甲骨からゆっくりと肩を回す。すべての神経は滞りなく、必要なすべての筋肉へ信号を届ける。
ピアノの演奏はパターンの記銘である。すべての運指の情報を演奏ごとに確認する作業は現実的ではない。この指、この速さ、この配置なら、どの音を抑えるのか、すでに私たちの指は覚えている。
だから演奏中に中枢神経が指令するのは全てのパターンが正しく統合されているか、あるいはシチュエーションにあったパターンの随時調整だけだ。ピアノの個体の癖、演奏会場の雰囲気。すべて勘案して至上の音楽を目指す。
全ての記銘されたパターンは海馬に保存される。扁桃体からの刺激で呼び出されるパターンを前頭前野で処理して適切な情報を選び出して、決まった配列で脊髄小脳、橋小脳へ情報が入力される。
ここまでは日々の練習で行うことで、本番の演奏では行わない作業だ。毎日毎日、繰り返して行う作業。私たちは小脳に送り出す演奏パターンを作り出すことに日々を費やす。経験、記憶、パターン形成、情報処理、配列の記銘。繰り返し、繰り返し、行われる私たちの生業。
日常は息抜き、友人と語らい、家族と親しい時を過ごし、恋人には温もりを。ひと時を楽しんで、そしてまた、孤独な作業へと舞い戻る。記憶、パターン化、記銘、記憶、パターン化、記銘。
ピアノは代弁者だ。
ピアノを弾く者はその代弁者の言葉引き出すための下僕に過ぎない。では、ピアノは誰の代弁者か。それはきっとピアノを弾く者に"ギフト"を与えたその存在。
「ピアノを上手く演奏できない!神よ、私を助けてください!見放さないで!」
見当違いも甚だしい。そもそもあなたには"ギフト"が備わっているの?"ギフト"を持たずに生まれてきたなら、ピアノは一生あなたに語りかけることは無い。ただ演奏者の独り言は聞いてくれるから、それで我慢するしかないのに。なぜそこで神に救いを求めるのだろう。神はあなたに"ギフト"を与えていないのに。
そう、神は救いをもたらさない。ただ人が生れ落ちるときに"ギフト"を与えるだけだ。己の中の"ギフト"に気づいた者は、その瞬間から送り主への生涯かけた忠誠を誓う。
"ギフト"を自覚した者がやることは、ただその"ギフト"を磨くだけ。木片の中から主の像を掘りだすように。それはもうそこにあるものなのだから。気の遠くなるその作業をひたすらに続けられる者だけが、木片の中から光り輝く像を掘りだすことができる。そしてそれはそのように生まれついた者の義務であり、時に贖罪でもある。
道具を持たない者に石からそれを彫り出せと言う魂に染み付いた命令は、神の意向を適えることのできない卑屈な自分を露わにする。罪の意識に苛まされながら、それでも爪が割れ肉が削げ骨が覗くその指で、鍵盤を叩くことを止めることができない。
贖い切れない罪は演奏によって購われ、けれど意向に届かない演奏は罪となってその身に重なる。
ふと思う時がある。神はなぜ、限られたものにだけ"ギフト"を与えるのだろう?その疑問も愚かなこと。神に意志は存在しない。ただそこにあるだけ。私たちは与えられ、彫り出し、磨き上げて天上の存在に演奏を届ける。
人間は己の力でここまでを可能にするのだと。
天上に届く音楽をこの一生に一度だけでも演奏することができたのなら、それは何という至福だろう。生れ落ちた時に授かった"ギフト"をかたちにして返すことができる究極の悦び。
その先は。
白い、白い、白い、
光。
演奏者の独白ーピアノ演奏に関連する解剖学的知識と体性感覚並びに想起される感情について 葛西 秋 @gonnozui0123
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