不実の花
有澤いつき
不実の花
世界は終わった。鳥籠だったはずの檻は取り払われ、間もなく外から恐ろしい獣がやってくる。理性的な権力が成れの果てを喰らいにやってくるのだ。
自分達を永遠の牢獄に繋いでいた檻がなくなった今、
トウキョウには獣がいる。理性的な獣ではない。進化の対価に理性を差し出した、快楽と愉悦に身を浸す欲望の化身だ。
とある実験の失敗から生まれてしまったというその人為的な化物は、トウキョウという都市そのものを檻にすることで封じ込めを図っていた。封じ込めなんて体のいい言葉で、実際は彼女たち――そう、恐ろしいことに化物は人間の女の姿をしているのだった――にトウキョウを奪われたのだ。彼女たちにとって、ここは理想の楽園だったのだろう。
那智はその檻に放り込まれた。彼女たち――人間を喰らう化物の、贄として。
トウキョウでの日々は地獄だった。人の手が入らない都市は廃墟化が進み、人間は僅かばかりの食糧で生き永らえている。必然、食べ物を探し、今日の寝床を探し、身にまとえる衣服を探してトウキョウをさまよった。
けれどそれにはかなり神経をすり減らさなくてはならなかった。なにせ那智は化物の餌だから、彼女たちに見つかったらすぐに喰われてしまう。
彼女たちの捕食の瞬間を、実は一度だけ見たことがある。命からがら逃げ出した後、物陰に隠れてこっそりと彼女たちの様子を伺うと、逃げ遅れた女性が一人、無惨に食い散らかされていた。詳細は見られていない。
化物の鋭い犬歯が女性の首筋を食んで――それは伝奇小説に出てくる吸血鬼のようだった――赤いものがつうと溢れる。それから女性は激しく抵抗し、じたばたと手足をばたつかせ、それに気を悪くした化物が女性の腕をへし折った。ごきゃ、と取り返しのつかない何かが潰される音がして、そこから那智は脚をもつれさせて逃げたのだ。
見捨てたとか腰抜けとか、そんな非難は甘んじて受けるつもりだった。自分は彼女たちの餌でしかなく、綺麗な死体すら残らない土地に放られたのだということを、那智は現実として確かに受け止めた。それがあの日だった。
那智は普通の人間で、喰われた女性を連れて逃げ出せるほどの実力も勇気もなかった。ただ、走っているうちに涙が溢れてきた。呼吸が苦しく、肺がずきずきと痛んだ。
那智には誰かを助けることなんてできない。化物に歯向かって生きようとも思えない。狩り場に放りこまれた非力な雛は、羽ばたきもままならぬままに獰猛な獣に喰い殺される。じんわりとした絶望が那智を襲っていた。
彼女に出会ったのはちょうどそんな、那智がやさぐれていた時分だ。
その日、那智はできるだけ人目につかない路地裏を選んで移動していた。汚れたポリバケツの中身を漁ることに慣れたのが虚しかった。そこから人間が口にできるような代物を探すという事実も。生きるため、那智は袖の破れたカットソーを腕までまくり、ポリバケツの蓋を開けて中身と格闘していた。
ざり、というわずかばかりの砂利を踏む音さえ、那智には炸裂音みたいに衝撃的だった。音に那智は人一倍敏感だった。彼女たちから逃れるため、逃走本能が鋭敏にした感覚だ。化物ほどではないがすぐに危険を察知して身を隠すくらいはできるようになった。
だから、その音が思いの外近いことで那智の身体は瞬時に凍りついた。
――逃げられない。
その音は近すぎたのだ。恐らく振り向けばそこに彼女はいる。足音はひとつだけ。化物は基本的に単独行動を好む。互いに互いの餌を喰らうから敵対関係にあると言ってもいい。
だが、そんな理屈より今は目の前の危機だ。那智は身体中からどっと汗を噴き出しながら、次の行動を高速でシミュレートしていた。たぶん数メートル、それくらいしか離れていない距離に彼女はいる。人間の女の姿をした恐ろしい化物が。彼女たちは人間よりも身体能力が優れてはいるが、かなりの個体差がある。あまり俊敏でない奴か頭の弱い奴なら、隙をついて逃げられるかもしれない。
「あの、すみません」
だから、向こうから声を掛けられたときは激しく動揺してしまった。穏やかな、美しく澄んだ声色をしていた。はきだめには似合わない清廉とした声に不思議な引力を感じ、危険信号も無視して那智はゆっくりと振り返った。
清楚な女性がいた。緩くまとめた髪を流した、とろんとした黒檀の瞳の女性。派手な美しさはどこにもない。オフホワイトのブラウスとネイビーのタイトスカートを合わせた、シンプルだけどトウキョウでは異質な装いだった。
身綺麗なことは異形の証拠だ。女性の清潔さを確認すると同時に、那智の肌が恐怖に粟立つ。
「……ばけもの……っ!」
ポリバケツから今日の食糧を漁る生活をするのが人間で、健康で文化的な衣食住を成立できているのが化物だ。単純な力の序列で、化物は化物同士のネットワークで流通を制圧しているから、檻の外の人間みたいなライフラインの恩恵を受けることができる。目の前の人畜無害そうな女性もそちら側の存在だ。
恐怖に我を忘れて飛び退くと、清楚な女性は慌てたように声をあげる。
「ああ、待って! 私、あなたに道を聞きたくて……」
それなら他を当たってほしい。化物は人間の女の皮を被って最後にはその身体を喰らうのだ。血の一滴まで啜り尽くされ、干からびて死んでいくのはごめんだった。那智は必死で脚を動かす。敵意がないなら今のうちに逃げ出さなくては。
「いけない! そちらは!」
突然、清楚な女性の警告が飛ぶ。なりふり構わず走り出していた那智の目の前に黒い影が落ちてきたのは、それとほぼ同時だった。
血に飢えた獣。継ぎ接ぎだらけのボロを身に纏っているけれど、人間のように二足歩行をしているけれど、その口は大きく裂けて凶悪な牙が覗いている。眼は血走って理性を失っていた。
「……ひ……ッ!!」
挟まれた。しかもこっちは正気を失ったタイプだ。この類の化物は目の前の人間を襲うことしか考えていない。那智の脳裏に「死」の一文字が過った。
だが、那智がその牙にかかることはなかった。ひゅっと風を切る音が鼓膜を揺らす。顔の左側すれすれを飛んでいったそれは凶暴化した獣の額に突き刺さった。細い棒状のもの……矢、だろうか。
「こっちへ! 早く!」
目の前の獣は犬歯を剥き出しにして苦悶に喘ぐ。伸びきった爪で額をかきむしるものだからたちまち派手に出血した。
茫然として脚を止める那智を時間は待ってくれない。那智にこちらへ来るようにと声をかけたのは先程の清楚な女性だ。化物に襲われそうになったのを助けてくれた、ということでいいのだろうか。もしかすると彼女は化物ではなく独自の流通ルートを持った身綺麗な人間なんだろうか。那智のなかにぐるぐると疑問の渦が巻いていく。
半信半疑で突っ立っていると、女性は業を煮やしたのかこちらへ駆け寄り、那智の手を取った。ぞっとするほど冷たかった。
「!」
「手荒なことをしてごめんなさい。だけど今は説明する時間がないの。足止めはあまり持たない、お願いだから私についてきて」
生きたいのならば。
女性は最後にそう付け足した。そう言われては那智にも抵抗する理由がない。焦りを滲ませた女性の手を、那智は震えるまま握り返した。
細い路地を巧妙に何度も何度も曲がっていると、帰り道はすっかりわからなくなっていた。あの化物がいた場所に戻りたいわけではないけれど、清楚な女性を完全に信じるわけにもいかない。そう思って来た道は覚えようと思っていたのだけれど、ここまで複雑だと那智の脳味噌が限界を訴えた。もうどこにも逃げられない。彼女が那智を喰わないことを祈るしかない。この土地で人間とはかくも非力な存在だ。
「お名前を」
「え」
「お名前を聞いてもいいかしら?」
清楚な女性は路地を進むまま、ちらりとこちらを振り返ってそう尋ねた。化物とは思えない礼儀正しさだ。物腰は穏やかでどちらかといえば動きは鈍そうに見える。ふんわりとした衣服の下には実は逞しい上腕二頭筋が隠れているとか、そんな隠し玉を持っているようには到底思えなかった。
名前を聞かれて名乗らない選択肢もあったが、別に名乗ったところで支障があるわけでもなかった。ここでは名前なんて餌についたラベルでしかない。情報犯罪とか個人情報保護なんてことが叫ばれる外側の世界なら、幾分か価値があるのかもしれないけれど。
「……
「新浜那智さん……那智さんね。そうお呼びしてもいい?」
「まあ、ご自由に」
名乗ったものを好きに呼称されたところで那智には何の感慨もなかった。しかし清楚な女性は華やいだ微笑を浮かべる。その笑顔があまりにも嬉しそうだったから、那智は目を丸くした。たかだか名前ひとつを教えただけなのに。
「私は
自由の「由」に麻薬の「麻」よ、とご丁寧に漢字まで教えられて、思わず那智は噴き出した。由麻と名乗った女性がきょとんと首を傾げる。
「そんなにおかしい名前だった?」
「いや。麻薬の麻って……もっとマシな例えをあげればいいのに」
「たとえば?」
「麻織物の麻、とか」
「
「自己紹介にずるいも何もないと思うけど」
そう言ったら由麻とぱちりと目が合って、どちらからともなく笑いあった。変なひと。那智はすっかり由麻への警戒心を解いていた。このときから清楚な女性は不思議ちゃんなお姉さんになったのだ。
***
元々世界はおかしくなってしまったのだから、ここでの出会いが多少おかしくてもそれは些細なことに思えた。そう思うことにした。
至極単純にいえば那智はすっかり由麻と打ち解けた。彼女は間違いなく那智を喰らうことのできる化物だったけれど、彼女が食人衝動を那智に向けることはなかった。代わりに少量の血を求められた。化物の主食は人間の血肉だから、欠かすことはできないのだろう。それでも今すぐ死ぬわけでもないし、由麻になら構わないと思い、那智は同意の上で由麻に血を供給していた。
「ごめんなさい。あなたを助けた対価を支払わせるみたいで」
「私を助けたのも血が目的だった?」
「それはない……とは言えないけれど」
「言えないんだ」
那智は失笑した。正直すぎるところは由麻の美徳でもあり短所でもある。
「でも、あのとき食べるつもりはなかったの、本当よ。私は省エネ型で、少量の血で生きていけるようにつくられているから。それが私の化物としての特徴、と言ったところかしら」
自らを化物と呼称する由麻が那智は嫌いだった。もちろん彼女は人間ではないし、人間を食べることで生きる恐ろしい種族だ。彼女以外の「同類」を、やはり那智は化物と呼んでしまうだろう。
それでも那智は知ってしまった。由麻が那智を助け、陽だまりのようにあたたかな微笑みを浮かべる女性と知ってしまったから、化物という異形の言葉を使ってほしくはなかったのだ。
那智が顔をしかめていると、その意図をわかっているように由麻が寂しげな笑みを浮かべた。
「どうして私を助けたの」
「え」
「あのとき。私を見殺しにすることも、食べることもできたのに」
道案内をすると言っていたが、結局導かれたのは那智の方だった。彼女が化物だと言うのなら、トウキョウについては那智よりも詳しいはずだ。
由麻は思案顔のまま小首を傾げる。妙にあざといその仕草も、由麻がすると嫌味のないものに映った。
「そうね……あえて言うなら、仲良くなりたかったから、かしら」
「仲良く?」
「そうよ」
由麻は外国産のチョコレートバーを一本取り出した。高カロリーで甘ったるい。まだ那智が檻の外にいたときにテレビCMをよくやっていたのを見た記憶がある。
「たとえば、このチョコバーを一人で食べればそれなりにおなかが満たされるのかもしれないけど、それじゃあ心は満たされないの」
「心を満たしたかった?」
「寂しかったのね、きっと。私は分かち合えるひとがほしかった。私のために泣いてくれるひとを求めていたの」
由麻の横顔は哀愁に彩られていた。那智は思わず手を伸ばす。自分よりもずっとひんやりとした陶磁器の肌は、人間にしてはあまりに冷たすぎた。まるで氷を撫でているような。
躊躇われた指先を由麻の左手が包み込む。やはりその手も冷えきっていた。
「私は由麻の傍にいるよ」
「……本当?」
「嘘なんかつかない。私は由麻のこと、結構気に入っているから」
「そこは好きって言ってくれないのね。意地悪なひと」
由麻が不満そうに唇を尖らせるのを見て那智は苦笑いした。嘘も欺瞞も存在しない由麻という存在は、きっとプライドや羞恥心というものとあまり関わりなく生きてきたのかもしれない。それはとても真っ直ぐで、那智には眩しいことだ。
「正直に言葉を伝えられるほど私は素直じゃないんだ」
「大丈夫よ、わかるから」
「……ああそう」
素っ気ない態度をとってしまうのも照れ隠しだと、由麻は察してくれているのだろう。やっぱり柔らかな微笑みを浮かべたまま彼女は隣にいる。会話のできる相手がいると、まるで普通の日常が戻ってきたみたいで安心する。由麻が求めていたのもまた、そういった平穏だったのかもしれない。
「きっと由麻は優しいんだよ」
何の前置きもなしに、気づけばそんな言葉が那智の唇からするりと零れていた。
「優しいのかしら、私」
「そうだよ。手が冷たいひとは心があったかいって言うから」
「私が人間じゃなくても?」
「ひとだよ」
那智は愛おしい思いでひんやりとした素肌をなぞった。
「こうして私と一緒にいる。同じ時を生きているから」
「ありがとう。ちょっぴり素直になった那智さんにはご褒美をあげるわ」
「ご褒美?」
ええそうよ、と頷いて由麻はチョコレートバーを銀紙の上から半分に折った。ぱきりと小さな破砕音が那智の耳へと飛び込む。銀紙を破く音も、それをめくってこちらに差し出す衣擦れの音も、すべて由麻が那智のためにしてくれた証左だった。
「これ、めちゃくちゃ甘いやつ」
「だから半分でちょうどいいでしょう?」
由麻が悪戯めいたウインクをして言った。
那智はまだ言い返そうとしたけれど、それ以上は何も言うまいと決めた。甘いものがそんなに好きじゃないことに由麻は感付いているはずだ。そして由麻が甘党であることを那智は知っている。彼女がこのチョコレートバーを溺愛していることも。
那智は意を決して由麻からチョコレートバーを受け取り、ごくりと唾を飲み込んでから思い切りかぶりつく。ジャンクフードを煮詰めたような背徳的な味が、口一杯に広がった。
「……あっま」
「それがいいのよ」
由麻は満足げにチョコレートバーを平らげた。
***
とある実験の結果産み落とされた一人の化物が、人間に牙を剥いてこの都市を掌握した。歪な世界の仕組みはそこから始まったという。
元々ごく普通の人間の女だったという原初の化物は、人間らしい理性と本能的な衝動を複合した「人間から進化した化物」として、人間を掌で弄び、結果、トウキョウを人質にとった。国土を脅かさない代わりに国の中枢たる二十三区を明け渡すという、一個体と一国家の取引にしてはあまりにアンバランスで非日常的な事実の末に今がある。人間の血肉を喰らう彼女たちのために、国家は時折檻の隙間から
隔絶絶命都市――誰が呼んだのか、トウキョウはそんな御大層なあだ名がついた。
その檻が崩壊したのは、他でもない原初の化物が倒されたからだ。国家を弄んだ化物が滅び、国はあるべき姿を取り戻そうと動くだろう。開いた鉄格子の扉から送り込まれるのは大量の殺戮兵器か、それとも民主的な手段か。
無法地帯に風穴が開いたからといって、すぐに混沌とした秩序が崩れるわけでもないのがトウキョウの面白いところだ。倒れた化物の後釜には新しい化物が就いたと聞く。流通ルートが確保できているのも、地下鉄がロボットによって動かされているのも、トウキョウが辛うじて都市の形を維持しているのも、後釜の化物がそれらを動かしているからだという。那智は底辺にしがみついている人間だから、仔細なことはわからない。肝心なのは、那智が開いた穴を見てどうするかだ。
「那智さんは外に出たい?」
由麻がそう尋ねてきたのは、寝食を共にするようになってから何度目の朝か。缶詰にありつき今日も生きていることを実感しながら、由麻が手に入れてくれたスキニージーンズを履いたくらいの頃合いだった。
はじめ那智には質問をうまく理解できなかった。天気の話をするように、何の前触れもなく由麻が話し出したものだから。
「外、って」
「トウキョウの外。那智さんは人間だし、安全なところへ行きたいとは思わない?」
那智はどう答えたものか言葉に詰まった。由麻に出会う前から漠然と悩んでいたことだ。開いた檻からは容易く脱出できる。那智の目の前にはたくさんの選択肢が並べられているはずなのだ。那智は捕食されるものではなく、自由意思をもって生きるものになれる。そう、道が示されたはずなのに。
「……迷ってるんだ」
那智は素直な気持ちを吐き出すことにした。
「由麻に出会う前から、ずっと。ここにいても食べられるだけで安全なんてどこにも保証されてない。さっさと外に逃げ出せばいいのに」
どうしてかその一歩が踏み出せなかった。やり残したことがここにあるわけでもないのに。外に待っているのはまるで広大な砂漠のように思えて、コンパスひとつ持たずふらりと旅立ってしまっては途方に暮れる未来を予想していたからかもしれない。
「何も思い付かないんだ。外に出たら何ができるか、何をしたいか。外にあるのが今までの日常なら、家族に会いに行って、アルバイトをして、税金を払うような生活に戻れるのかな。でもそれって、外に出てまで私がやりたいことなのかな」
「生きているだけで幸せなこともあるわ。少なくとも命を狙われる日々からは抜け出せる」
「そうだけど」
那智は言い淀んだ。
「……私のこと?」
「ここもいずれ、政府が奪いに来るんだろ」
「取り戻すのよ。あるべき姿を」
「そこに由麻はいる?」
今すぐやりたいことは思い付かないし、掲げたい理想もない。だけど懸念というならば、那智は由麻が気掛かりだった。化物はトウキョウの外に出られない。トウキョウに残ってもいずれ政府に駆逐される。倫理から外れた存在である彼女たちを、きっと世界は許しはしない。
由麻は返事をする代わりに提案をした。
「行ってみる?」
「え」
「檻の出口まで。もう檻はないから、国境線みたいな感覚なのかしら」
一緒に出ようとは言わなかった。迷っている那智への配慮だったのか、由麻の真意はわからない。けれど那智はその提案に乗った。頭ではなく身体を動かしたかったのかもしれない。
その選択を、那智は後悔した。
由麻に連れて来られたのは廃墟の果てだった。かつてはビル群が立ち並んだり、電車が走っていたのかもしれないが、地下鉄を生かし他を捨てた化物の文化において、地上を走る電車は滅び去った。錆びついた線路の前には役目を終えた遮断機がぶら下がっている。
線路の向こう側が非常に栄えているということもなかった。荒廃の延長線。その先が本当に違う世界なのか、見るだけでは到底信じられなかった。
「ここを越えたら、本当にトウキョウの外なの?」
「そう線引きされているわ。わかりやすい看板はないけれど」
目印があるのよ、と由麻は朽ちた遮断機をそっと撫でた。どうやらそこに目印とやらがあるらしい。しかし那智にはどうしても実感がわかない。
「向こう側も、こっちとあまり変わりないように見えるけど」
「トウキョウとの国境だもの。人はほとんど寄りつかないから最低限の管理しかされていないの」
実態は政府が設けた空白地帯の方が意味が近いような気がした。
「越えてみる?」
軽い調子で由麻がそう言ったのを、那智は聞き咎めた。彼女の表情はやはり穏やかだ。天使のような微笑みで那智に重大な決断を促してくる。感覚が麻痺していくみたいだった。惑わされまいと那智はきつく唇を噛む。
「……由麻は来ないんだろ」
「ええ。私はひとじゃないから」
「行くなら由麻と一緒がいい」
「那智さん」
由麻の声に咎める色が滲んだ。
「由麻はひとじゃないか。人間らしい見た目をして、チョコバーが好きで、私に優しくしてくれる。外に出たって誰もわからないよ、由麻は誰よりも人間らしい」
「いいえ。那智さん、私は化物なのよ」
「なんでそんなこと言うんだよっ!」
那智は叫んだ。この声は檻の外にも届いているだろうか。
「化物だなんて……そんなこと、言わないで」
「ありがとう。那智さんはとっても優しいのね」
「優しくなんて」
「那智さんは私を優しいと言ってくれるけれど、それはあなたにかけるべき言葉よ。私は私の獣性を、人間の皮で隠しているだけ」
「なん……」
那智の口は続きを紡げなかった。由麻が唇を重ねてきたから。鳥が啄むような優しいものではない。蛇のように舌が這い、息を継ぐ合間もなく蹂躙される。
「ん、う……!」
苦しかった。目に涙の膜が滲んだ。睦まじいやり取りではなかった。生理的嫌悪が生まれた。滲んだ視界のせいで由麻の表情はよく見えない。だけど一切の迷いなく歯列をなぞられ、首筋に冷たい指先が触れた。ぞわりと背筋を駆け抜けたのは快感などではない――恐怖だ。
ようやく解放されたとき、那智は無様にその場に座り込んだ。身体がガタガタと震える。垂れる銀糸に吐き気を催した。見上げた由麻の顔は、どんな色をしているのかさえ読み取れない。
「ゆ、ま……」
「怖かったわよね。ごめんなさい。ごめんなさい、那智さん。これが私なの」
由麻の声は優しいはずなのに、那智には恐ろしいものに聞こえてたまらない。
「あなたは私を気に入っていると言ってくれた、それはとても嬉しかったわ。一緒に行こうと言ってくれたことも。だけど、たぶん私とあなたの好きは違う」
食べたいのよ、と耳元で穏やかに囁かれたとき、那智の身体は完全に凍りついた。
「あなた、とっても美味しそうな匂いがして……血だけじゃ足りない。全部欲しいの。身体も心も全部暴いて、あなたを私だけのものにしたい。だけど、那智さんは私とそういうこと、したくないでしょう?」
「ひ、ッ」
身体をつうをなぞられ、下腹をつつかれたときに那智は後ろへ飛び退いた。由麻を拒絶してしまったと気付いたときにはもう遅い。由麻は寂しそうに笑うだけだった。
「由麻……わ、私……」
「騙していた訳ではないの。でも、ごめんなさいね」
「…………っ」
那智は逃げ出した。由麻の隣にいると決めたのに、一緒にいると言ったのに。その場から離れたかった。由麻の顔を見られなかった。
踏切を越えることは、それでもまだできなかった。真反対の方向へ駆け出す。由麻が背後で何か言った気もしたが、振り返ることはできなかった。
ああ、これではまるではじめと同じではないか。由麻が声を掛けて、那智は逃げ出して。真正面から由麻をわかろうとせず、化物だという彼女を化物ではないと言い聞かせていた。種族の話ではない。彼女は人間と同じように心があり愛することができるのだから、それは化物とか人間とか関係ないと思ったのだ。だけどそれを口にすることができない。
『私が人間じゃなくても?』
幾度となく発せられた警告。それは由麻なりの優しさだったのかもしれない。やっぱり彼女は優しすぎる。那智に最後の一線を踏みとどまらせてくれる。越えられない迷いを抱えた那智を見透かしているみたいに。
「はっ、はっ、はっ……」
息があがる。胸が苦しい。空気を求めて不恰好に吸うたびに肺が軋むみたいだ。肩が揺れる。足がもつれる。握りしめた拳は何一つ掴めていなかった。
自分の由麻への気持ちは何だったのか? 好意なのは間違いないと思っていた。ゴミを漁り日々を生きるしかない世界で、唯一とも言える味方を得たことは行幸だと思った。けれどそれは己の自己満足なのではないか。由麻が那智の身体を求めたように、那智もまた、由麻という安息地を求めていただけなのかもしれない。それを「好き」だと勘違いしていた?
由麻は那智を食べたいと言った。那智は身体に触れられることを拒絶した。それは相容れないことなのか。身体を許せなければ相手への好意とは呼べないのか。拒絶したからといって那智は由麻を好いていないと言えるのか。この気持ちは愛なのか、それとも。
「あら。こんなところに可愛いひとが。迷子かしら」
鈴の鳴るような愛らしい声を聴いたのはその時だ。
那智は立ち止まり周囲を見回す。駆けていても飛び込んできた音は聞き逃さなかった、それが那智の生きるために得た術だから。はっきりと聞き取れたから距離は近い。細くてきゃらきゃらとして、愉快そうな可憐な声だった。
そして、その声の持ち主もイメージから相違なく。
自分よりもずっと幼く見える。少なくとも外見は十代半ばくらい。コバルトブルーのカーディガンを羽織り、純白のワンピースを着ている。荒廃した無彩色の世界において、すぐに汚れてしまう服なんてものに白を選び、機能性を捨てたワンピースで着飾っている時点でわかる。――彼女は化物だ。
那智はじりりと後ずさる。逃げ出すために呼吸を整える必要があった。彼女は由麻じゃない、だからきっと那智を躊躇いなく喰らう。
「どうしたの、お姉さん。なんだかとっても怖い顔をしているわ」
警戒を解いてはならない。目の前でくすくすと笑う少女がいかに人畜無害そうであっても。呼吸を戻さなくてはならない。振り切るまで走らなくては生きられないから。化物は人間の皮を被った人喰らいだというが、いつ獰猛な牙を露にするかわからない。由麻みたいに。
――つきん、と那智の胸が痛んだ。
「もしかして、トウキョウの外へ行こうとしていたの?」
返事なんてできなかった。息を吸って吐き出して、それしか。だって目の前の少女はどう見たって非力で可憐にしか見えないのに、隙だらけであるはずなのに、言いようのない威圧感が那智を襲うのだ。脚がガクガクと震えそうになるのは疲労のためだけではない。由麻とはじめて会った時の獣じみた奴とは格が違う。人を制圧するようなオーラを放つ、彼女は。
「だめよ、それはいけないわ。だってあなたは私の国の大切な
彼女は、この国の統治者だ。
「っ、あ、あああああああ……!」
那智は裏返った声のままに駆け出した。由麻の方へは戻れない。少女の先にも進めない。視界の開けた場所では簡単に捕捉される。とにかくどこか、身を隠せる場所へ。那智はがむしゃらに脚を動かした。
「ふふっ、追いかけっこがしたいのね? いいわ、食前の運動は大事だもの。帽子屋」
後ろは振り返らなかったけれど、何かよからぬ方向へと動いているのはわかった。ヴォン、と唸りをあげる機械音が耳をつんざく。振り返りたくはない、そんな余裕もないが……那智は一瞬だけ後ろを見た。
少女の微笑が目の前にあった。
「っ、あ、あ、あ、あ」
「そんなに怯えないで。私の糧になれるのだから、幸せなことだと思わない?」
少女の手にはチェーンソーがあった。その意味を那智は即座に理解した。自分は彼女に殺されるのだと。四肢を刻まれ血肉を喰らわれ、後には干からびた死体だけが残されるのだと。
「那智さん!」
――果たして、それは幸運だったと言えるのか。
那智の身体が大きく揺らいだ。どんっ、と左側から強い衝撃が与えられて、そうそれはまさしく突き飛ばされた感覚で、那智は地面に転がされていた。砂利が口の中に入って気持ち悪い。唾を吐いて状況を確認しようとしたら、すぐ横の地面にばたばたと赤い雨が降った。
「……え……」
由麻だった。少女のチェーンソーが由麻の身体を貫いていた。腹部に突き刺さったそれが抜かれ、由麻の身体から赤いものが一気に噴き出す。雨は滝に変わり、那智に降り注いだ。支えを失った由麻はその場にどさりと崩れ落ちる。
「由麻……?」
茫然としたままその名を呼ぶ。清楚なオフホワイトのブラウスが血染めになっていく。唇の端から血が流れていく。彼女の手足はあんなに冷え切っていたのに、そのなかに秘めていたものは、彼女の中に流れていた血潮は、こんなにもあたたかい。
「由麻ッ!」
恐怖で腰が抜けた身体を呪いたくなった。地べたを這いつくばるように、腕の力で彼女の元へと進む。もう少女のことは見えていなかった。ただ、目の前で起こったことが信じられなくて。那智は由麻の隣にいなければと、その思いだけが心を占めていた。
「由麻、由麻! しっかりして」
「ぁ……那智、さん」
由麻を抱き上げる。由麻の出血は止まらない。手で押さえてもどんどん血は溢れてくる。那智の瞳に涙が滲んだ。
「嘘だ、嘘……こんなの……あ、ああ、血を! 由麻、私の血を」
「いいの」
「よくない! だってこのままじゃ由麻が」
「ああ、なるほど。あなた、もどきなのね」
少女の冷ややかな、侮蔑のこもった声が降ってきた。
「チェーンソーの一撃程度で瀕死になるなんて、純血の私たちじゃあり得ないもの。でもあなたからは人ならざる匂いがする。……食べたのね、私たちを」
「!」
それが文字通りの意味を示すのだと、少女の言葉から那智は悟った。由麻の身体から零れていく命は戻ってくれそうになかった。それどころか、由麻は更に口から血を吐き出す。何故。何故。那智の脳内にエラーコードが示される。
「人間の身でありながら枯れない花に手を伸ばした愚か者。あなたには幸せな最期なんてあげない。私に蹂躙され、刻まれ、傲慢な振る舞いを恥じ入りながら死になさい」
「っ、由麻……!」
那智は由麻の身体を庇うように、少女と由麻の間に座り込んだ。もう脚は恐怖で使い物にならない。一緒に死にたいわけでもない。だけど今ここで由麻を見捨てて逃げることだけは、それだけはできないと那智の心が叫んでいた。
「……そこをどいて、お姉さん」
「いやだ」
那智の声は震えていた。両手を目一杯広げたところで何の効果もないことは自分が一番知っている。
「何のつもり? 人間ひとり、私に敵うはずがないってわかっているはずなのに」
「いやだ」
「子供みたいな駄々をこねないで。それともあなたから先に殺してあげる?」
「いや、だ!」
那智は泣き叫んだ。怖い。怖い。叫ぶことしかできない自分が惨めで、非力で。傍にいると言ったひとから逃げ出して。結局那智は迷っている。走って、走って、目的地のない逃避を続けている。そんな自分に差し出せるものは何もなかった。差し出したいものもなかった。
それでも、貫きたいワガママがある。だってここは混沌とした秩序の敷かれた世界。倫理から外れたここならば、ひとりの意地くらい通せなくて何になる。
「私は……由麻の傍にいるって決めた。だから、ずっと、離れない」
それは世界で一番脆い命乞いだった。土下座よりもみっともない。己のエゴだけを押し付け、何も差し出さず、その場を凌ごうとする浅慮がすぎる嘆願。くだらないと一蹴されそうな那智の振る舞いを、ただ少女は不快そうな瞳で見下ろしていた。
「王女様」
「何、帽子屋。要件なら後に」
帽子屋と呼ばれた男性は帽子など被っていない、筋骨隆々としたスポーツマン体格の大男だったが、ぱつぱつのスーツを着た身体を更に縮こませて少女に耳打ちする。少女の表情がみるみる険しいものに変わっていった。それから那智を一瞥すると、困ったように溜め息をひとつつく。
「見逃すのって嫌いなのよね。それで足元を掬われた女を知っているし」
でも、と少女は踵を返す。
「その女を看取ったらこの街を出なさい。次に私と会った時は、迷いなくあなたを食べてあげる」
それが統治者なりの最大の譲歩であることを、那智は短い時間で理解した。少女がこちらを振り返ることは二度とない。従者の男性が静かに一礼して、そのまま立ち去っていく。
那智は脱力した。最も無様な勝利だ。けれど那智は勝ち取った。檻の破られたトウキョウで一番強いものから、那智が守りたかったものを。
「由麻……」
「那智さん。……ふふ」
由麻はもう救えない。それは少女の口ぶりと那智の非力さが物語っていた。それでも血反吐を吐きながら、由麻は楽しそうに微笑むのだ。
「なんで笑ってるんだよ」
「那智さんがとってもかっこよかったから」
「かっこ悪かっただろ」
「いいえ。ヒーローみたいだった」
もう由麻は永くない。話すなと言うことは容易いが、那智に止めることはできない。それを由麻が望むなら、那智の素直じゃない言葉を伝えるべきだし、由麻の好きなようにさせてやりたかった。本能に身を委ねるとはきっとそういうことだ。
「こんな私の隣にいてくれたのが、あなたで良かった」
「当たり前だろ……っ」
涙声になるのを堪えきれない。由麻は泣くことなく微笑んでいるのに。どんどん血を失っていく彼女に那智の姿は見えているのだろうか。あとどれくらい意識を保っていられるのか。猶予は残されていない。
「ごめん、由麻。私は由麻から逃げ出した。怖かったんだ……由麻が、怖かった」
「わかるわ」
「だけどそれは、由麻がイヤってことじゃない。私は由麻が好きだし、一緒にいたい気持ちに変わりはない」
「……とっても、幸せね。私」
由麻が力なく微笑んだ。口元の赤が目に沁みる。
「私も、大好きよ。那智さん」
だから、と由麻は小さく囁いた。願いのような儚さがあった。
「どうか自由に、はばたいて」
そう言い残して、由麻は静かに目蓋を閉じた。もう二度と開かれることはなかった。
溢れてきたものが慟哭か嗚咽かはよくわからない。音という音をしゃくりあげ、血塗れの由麻をきつく抱き締め、那智はひたすら涙を流した。由麻との別れを悲しみ、悼み、ただ泣いた。
後悔と反省と無力感と、あらゆる嘆きの感情が渦巻いていく。そこに由麻を殺した少女への怒りがないかと言えば嘘になる。だけど復讐を果たすという選択肢は盤上になかった。そのカードは由麻に誓って捨てた。由麻は復讐を望まない。
「……由麻……」
由麻はかつて、化物の肉を喰らったという。あの少女の話を信じるならば、その肉を喰らったばかりに化物に堕ちたのだと。何故由麻は化物を食べようと思ったのだろう。心も身体もほしいと思ったひとがいたんだろうか。化物になりたかったんだろうか。その答えはもう聞けない。
チェーンソーで抉られた腹部からは生々しい血の他に、由麻を構成していた身体の中身が見えている。それらもいずれ死んでいくだろう。彼女の身体は土に還るのだろうか。魂はどこへ導かれるのか。
「……私は、由麻と一緒に生きるよ。いつまでも由麻の隣にいる」
那智は震える口を大きく開き、開かれた穴へと喰らいついた。
***
選んだのは大きめサイズのパーカー。ポケットにはチョコレートバー。那智の新たな門出に必要な荷物はそれだけでいい。
背負うものは何もない。朽ちかけた踏切を前にしてセンチメンタルな気分になることもなかった。空は続いている。踏切の手前も向こうも、広がっているのは荒廃した大地だけ。だけど踏み越えたらもう二度とは戻らないし、戻りたいとも願わないだろう。もう未練も迷いも残っていない。
那智はチョコレートバーの銀紙を剥いて、そのまま一口かぶりついた。口いっぱいに広がる甘ったるさは一際強烈だ。
「……一人で食べるには甘すぎるな」
那智はしかめっ面で呟いた。
履き潰したスニーカーで踏み出せば、そこは確かに檻の外になる。やりたいことは漠然としている。未来のビジョンが固まっているわけでもなく、定まった道を選んだわけでもない。ただこの世界に生きる一人の人間として、那智は生きていくことを選んだ。トウキョウを出るのはその小さな選択のひとつめに過ぎない。
「由麻。私は好きなところへ飛んでいくよ。君と一緒に、君に見せたい場所まで」
最初はチョコレートバーの製造工場なんてどうだろう、と嘯いて、那智はからからと笑った。
不実の花 有澤いつき @kz_ordeal
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