長き蜘蛛糸のラフターラ

 草花の支配する瓦礫の街並みは、快晴に緑が映えます。かつてこの地を駈けた英雄の像も、名もなき草に脚を砕かれ土を舐めておりました。彼は誰よりもこの地を愛した者、老いても戦場を駆けた黄昏色の獅子でした。像となった今でも、愛した地の花々に囲まれ幸せなことでしょう。パステルカラーの平安を愛し、皆がなだらかな幸福に身を投じることができるように戦った彼です。今のこの街のすべてが彼の愛からできています。かつての自らの愛に包まれ幸せでないことがありましょうか。

 ですが、それも黒い梟がもたらした祝福です。ほとんどの子孫が荒廃の街に先祖の像があることを知りません。すべて草木に覆われた秘密です。だからこそ戦場では決して腰を折ることのなかった獅子も、草の根を除ける者はなく、砕かれ顔を地に伏せ真の安らかな眠りにつきました。多くの者が賑わいに向かって歩き出し、街に訪れた荒廃と平穏は、像や草木など一部の住民のささやかな救いでした。

 英雄が花に埋もれるそこは、街でも随一の瓦礫の地です。鳥や毛皮をまとう者たちはあまりおりません。脚が多めの者たちばかりです。形を保つ建物は一軒のみ。ですがそこは、ここらでもっとも客の多い店です。

 石造りの外壁は白い繊維で覆われていました。朝露をまとって煌びやかに光を散らし、まるで宝石の花畑です。それだけではありません。繊維は草木の種を絡め取り、石と石をしかと繋ぎ、店を不変のものとしていました。

 そんな繊維の外壁には「OxyPetalum」と看板がかかっています。扉の金の取っ手には「OpeN」の文字があり、中からは男女の話し声が聞こえます。窓はくすんで中が見えません。覗き見る者も疎らな場所で、怪しいばかりのその店は、妖しき女店主が煙草をふかす服屋でした。

「薬屋の烏さんから注文をいただきました」

 店内に声が響きます。カウンターに寄りかかった男は、フロックコートを羽織った中年です。白の混ざるカール髭を撫でつつ、店主に煙草の箱を渡します。

「あら珍しい、物持ちがイイ子なのにね」

 女は箱を受け取ります。その手はキチンに覆われ艶があり、指は五本ですが鉤爪のようで腕は六本ありました。黒地のブラウスは、襟に蜘蛛の巣のような白いレース飾り、袖は肩まわりを膨らませた特製です。腰に黒布のエプロンを巻き、長いスカートは上質な艶のある生地で作られています。

「インクを全身に浴びてダメにしたそうです」

「薬屋さんとインクのかけ合いでもしたのかしら」

「相変わらず仲が良いですからね、それで、注文内容はいつも通りです」

「了解よ」

 箱からさっそく葉を取り紙で巻いて、口にくわえます。そこへ紳士が懐からマッチを出し火をつけました。

「ん、ありがとう」

「いえいえ」

「ところで、二人は元気だった?」

「烏さんは疲れてましたよ、服を汚したのを叱られたみたいです」

「一晩中かしら」

「おそらく。私が行った時も『心配させないでよね』『ああ、ありがとう』って、くっついてましたから」

「仲がいいわね」

「若さを感じますよ」

「本当、誰かの若い頃にそっくり」

 目を細め店主が大きく息を吐き出すと、紫煙が渦を巻き、紳士の頬をなでると解けるように消えました。

「ええ、そうですね」

 紳士は微笑みに悲しみの影を差し言いました。

「『何度わかれても血はよく物語る』よ」

「そうですね、だからきっとあの子たちには幸せになって欲しいです」

「『運命には運命しか抗えない』ものね」

「はい、烏たちを救えるのは、蜘蛛ではありませんから」

 そう言うと懐からカラコロ音のする缶を取り出しました。中から一粒、黒い甘草の飴をつまみ口に放り込むと、髭を整えて伸びをします。店主も同じく背を伸ばしました。

「さあて、そろそろ作業しようかしら」

 店主はくわえ煙草でカウンターを離れます。

「ここはお願いするわ、兄さん」

 戸口で手を振り振りそう言うと、店主は裏に消えました。

「では私も仕事しましょうか」

 カウンターに着き椅子に座ると、インク瓶とペン、紙を用意しました。そこへ描くのは街の中心に住むある女性のための服です。

 その女性は悲哀の烏揚羽蝶の子孫で葬儀屋をしております。彼女は今回、安価で比較的簡素で動きやすいパンツスタイル一式を注文しました。中心部では男性の一般的な服装です。女性でも好んで着る者はおりますが、サイズもデザインも男物しかありません。だから一部の女性は、機織りの蜘蛛の血を継ぐ二人の店に注文します。烏揚羽蝶もそんな客の一人でした。

 ペン先を紙に滑らせます。すると帽子から肩、袖、裾とみるみるうちに浮かび上がります。それも慣れているからです。薬屋と烏や本屋、中心部の人々と、注文の多くはズボンと上着ばかりでした。女性がそれを身に着けるようになったのは数十年前くらいからですが、もっと前から紳士は男物としてそれらをデザインしてきました。ですが内心スカートの一式もデザインしたいと思っていました。

 紙面に出来上がった簡素な一着に、蝶を思わせるデザインを組み込んでいきます。黒レースのタイ、細工ボタン、翅に似せた襟、袖や裾口とみるみる葬儀屋のための服ができあがっていきます。

 完成一歩手前というところ、紳士は手を止め、一つ息をつきました。

「『蜘蛛の手では届かない』ですか」

 カウンターの下から、端が黄ばみクシャクシャになった紙を手に取り眺めます。そこに描かれていたのは女性のための一着でした。

 黒のロングスカートにはスリッドがあって、白のリボンで結ばれています。ブラウスは店主のものに似ていますが、白で袖は二本、肘の少し下から袖口が広がり鳥の翼のようです。また首元の襟飾りも鳥の羽根の模様がある黒のものでした。

 それはかつて紳士がある者のために描いたものです。

 まだ髭を伸ばしてしなかった頃の話です。紳士と聡慧の烏の血を引く乙女は愛しあっていました。店も三人で営んでいて、烏の仕事は女物のデザインと店番でした。その時、紳士は外回りの取引と男物のデザインをしていたのですが、烏と店主の服だけはいつも彼が考えたものでした。

 特に烏は紳士のアイデアが大好きで、デザイン画をもらっては店主と一緒に作って着ていました。紳士も彼女のため、一生着つくせないほどの画をプレゼントしました。その中でも二人が、いいえ三人とも一番気に入っていたのが、店主とおそろいのブラウスとスカートです。

 烏は二日に一回必ずその一着を身につけていました。破れ擦り切れても三人で工夫して直し、大切にしていました。でも今はどこにもありません。服も、烏の濡羽色が甘く薫る乙女も。紳士の手中、たった一枚の面影だけです。

「本当に『血はよく物語る』ものですね」

 彼女はある日、姿を消しました。その最期を見たある鷹の子孫によれば、火山に身を投じたと言います。黒のスカートをなびかせて、白い袖を翼と羽ばたかせたと。前日の夕方、別れる時も烏は笑顔で「じゃあね、よく寝て風邪ひかないように」と言いました。紳士も店主も「明日また会える」とすら思わないほどいて当然の存在でした。それが心の陰りを見せぬままに、自ら死へ飛び込んだのです。

 それは先祖から継ぐ烏の物語、ある日突然自ら死を選び、亡骸すら残さないことを知っていても、服屋の兄妹の心に大きな傷を作りました。特に紳士の傷からは未だ山の清流のようにしとりしとりと鮮血が滴ります。

――どうして死んだのか。彼女がこうなってしまったのは私たちのせいなのではないか。それに、残された私たちはどう生きて行けばいいのか。どう生きるのを彼女が望むのか。

 紳士は彼女のために描いた画と家に残されていた服を、かの火山に放り込みほとんど焼きました。それでもお気に入りの一枚だけは手放せませんでした。だから髭を伸ばした今でも、仕事の休憩中に画を眺め、彼女について自分に問いかけるのです。

 でも二人はわかっていました。それも自らの血が物語る運命だからです。

 子孫に語り継がれる機織りの蜘蛛の記憶は、悲恋と嫌悪の物語でした。

 蜘蛛は自らの巣に掛かった紋白蝶に恋をしました。想いは蝶も同じで「美しいあなたに食べられるのなら僕は構わない、君と一つになりたい」と言います。ですが純粋なその翅と複眼に、蜘蛛は彼を食べられず巣から解放しました。そこで彼女は言います。

「今日はいっぱい食べたし、まだたくさんあるから、あなたはどこへでも飛んで行くといいわ」

「わかったよ、行きたいところに行かせてもらう」

 それでも蝶は次の日、同じ場所で翅を糸に絡めていました。

「また同じ蜘蛛に捕まるなんて愚かね」

「ここが僕の行きたいところさ。身を砕こうとも美しいものには近づくよ、それが蝶というものさ」

 蜘蛛は蝶の翅から鱗粉が取れないよう、糸から丁寧に外しました。

「頭も何も中身が空っぽでマズそうだわ、それに最近仕事が忙しいの」

「わかった、あなたが仕事も忘れるくらいになって戻るよ」

 戻ってこないでと言えぬまま、蝶は空の彼方に消えてしまいました。蜘蛛はため息一つ巣の真ん中にある織機に向かいます。織る布はいつも白銀でしたが、その日のものはより輝いて、太陽から流れる川のようでした。それでも乙女の顔は暗く、一息入れる度に蝶の飛んで行った空を拝みます。

「食べられるわけないじゃない」

 蜘蛛は蝶の幸福を願い、蝶は蜘蛛による黒い死を幸福と思っていました。それでも二人同じ愛を信じます。だからその次の日も蝶が現れた時、蜘蛛は密かに喜びや安心を感じていたのでした。

「いっぱい蜜や樹液を吸って来たよ、きっと今の僕なら甘くておいしい」

「蜜や樹液が好きなのはあなたでしょう」

「そうだけど、僕ができる最高のおいしいを詰めてみたんだ」

「どんな汁を吸って来たのかしら」

「シオンとオニグルミさ」

「ならそれを持ってくればいいじゃない」

「あっ、そうか、なるほど」

「次の陽が昇ったら、また来なさい」

「もちろんさ、次こそは君に気に入ってもらうよ」

 蝶は糸を外してもらうと、天高く舞い上がり光に解けました。

 次の日、シオンと木の葉に集めたオニグルミの樹液を持って、再び巣を揺らす者が現れます。ですが蜘蛛は「萎れた花なんていらないわ」と逃がしました。その後、残した花の蜜と樹液を舐めてみましたが、虫食らいの口には合いません。それでも彼女はさらに翌日「もっとおいしい蜜と樹液を持ってきてちょうだい」と逃がし、翌々日は「私はこの味、好きじゃないわ」と帰し、いつしか純白の翅が糸に絡まるのが楽しみになっていました。

 そんなある日のことです。蝶はいつも通り巣に掛かりました。でも彼の手に花や樹液はありません。蜘蛛が伝ってその元にいくと、悲しそうに俯いていました。

「あなた、夜に魅入られたの?」

「うん、どうやらそうみたいなんだ。だから、今日こそ君と一緒になりたいと思ってさ。同じ闇なら君の中がいい」

 それはそよ風にもかき消されてしまいそうな声でした。蜘蛛は力無き身を抱き寄せるようにして、糸を一本一本取り除いていきます。翅にはもうはじめて会った頃の輝きはありませんでした。幾度となく糸にからんだせいで、ところどころ鱗粉が剥がれ、端はボロボロに欠けていました。

「ごめんよ、僕、これじゃあ、おいしそうじゃない」

「そうね、もっと早く食べていればよかったわ」

「食べてくれる気持ちはあったんだ」

 蝶ははじめて自分に向けられた、彼女のありのままの気持ちに微笑みました。

「蜘蛛だもの、味なんて気にしないわ」

「じゃあ、どうして食べてくれなかったんだい?」

「食べられなかったのよ、あなたが死んでしまうのが嫌で、あなたの笑顔を日が昇る度に見たかった」

「僕だってそうさ、だから君の体として生きて一緒に笑いたい。もしかして、君は僕のこと好きなのかい?」

「そうね」

「両想いだったんだ」

「そうね」

「でもあまりにも違う」

「ええ」

「ああ、本当に楽しい一生だったよ」

「私も楽しかった」

「でも、美しい君と共になりたかったな」

 満面の笑みで、蝶は彼女の腕に抱かれたまま、動かなくなりました。それに蜘蛛は「大好きよ、いつまでも」と、その亡骸に頭から牙を刺し、彼の願ったようにしました。愛する蝶はほのかにシオンとオニグルミの味がしました。

 その数日後、蜘蛛は子を身に宿しました。身に覚えはありません。それでも先日の紋白蝶を思い、彼の子と思って産み育てることにしました。産み落とした卵から還った子たちは、頭や胴、脚など一部が蜘蛛の芋虫でした。大人になると背には純白の翅が生え、間違いなく蝶と蜘蛛の子どもたちです。

 蜘蛛は母として、死ぬまで子供たちに機織りを教え、蝶や他の者たちの物語をして、かつて愛した者の分まで愛を注ぎました。でも他の者たちは皆、子供たちに恐れを抱き、醜悪な者と軽蔑しました。他者を食う蜘蛛の子で、しかも蝶と蜘蛛の体をばらしてつないだようだったからです。その蜘蛛の体は血の薄くなった今でも、女系の娘に現れることがあります。それが店主の六本あるキチン質の腕です。

 ですが紋白蝶のように、子供たちの美に魅入られた者は少なくともありました。でもその恋愛はすべて悲劇的でした。いくら素直に愛しても、蜘蛛の血だけが最後に残るのです。二人の悲恋の運命は血とともに、すべての子孫に色濃く受け継がれたのでした。

 紳士はそんな血が物語る運命を思いつつ、それでもかつて愛した烏の姿を想います。

「まったく、私も変われませんね」

 近頃、緩くなった涙腺に懐からのハンカチを目元にあてがいます。そんな彼の背後から、全部の手を組んで伸びをしつつ、紙巻をくわえた店主がやって来ます。

「兄さん、また泣いてたの?」

「ええ、白薔薇の季節ですから、すき間風が芳しくも目に染みるんですよ」

「そうね、私も最近辛いわ」

 カウンターに腰かけて、紳士の上着からマッチの箱を抜き取り、煙草に火を点け戻します。紫煙に曇る顔は画を覗き込みます。

「ねえ、さっきの注文だけれど、受け渡しはいつかしら」

「五日後にここで」

「そう、じゃあ滅多に来ない子だもの、何かプレゼントしようかしら」

 紳士の手元の古びたデザイン画を、紙に穴が開くほど見つめ、店主は言いました。

「なるほど、では、この服はいかがですか、きっと似合いますよ。なんせ同じ烏の血が流れていますしね。それに薬屋さんが喜びそうです」

「ええ、薬屋さんは大喜びだわ」

「でも烏さんは髪が短いし一回り小さいですから、少し調整が必要ですね」

「作りながら調整しましょう」

 紳士の肩に手を置きます。

「それは私に作業場に立てということですか、ですがカウンターはどうしましょう?」

「客なら私たちを呼ぶわ。久しぶりに巧緻のクウェルヌスの腕を見せてちょうだい」

「風指のヒュアキンソスには敵いませんよ、しばらく生地に触れてませんし」

「そうね」

「でもたまには悪くないかもしれません、血が騒いできますよ」

「久しぶりに一緒に仕事ができそうね」

「ええ、では行きますか」

 紳士は立ち上がると、甘草飴を一粒口に入れて、店の裏に向かいます。くわえ煙草の店主も後に続きます。

 兄妹は作業部屋に入ると、贈り物の前に注文の一着に取り掛かります。すでに妹はワイシャツをほとんど完成させていました。あとは半ズボンやスカーフ、ベルトです。店主が指揮棒を振るように腕を動かせば、細い指は風のように布を撫で、舞い落ちた時には見事に縫い上がっています。こうしてできた服が紳士に手渡されると、我が子を愛でる母のような手つきで、星屑ほどの愛も指先から逃げないよう無駄なく、細工ボタンやポケットと飾りを縫い付けていきます。

 血を分かつ兄妹です。おとぎに伝わる、まとえば夜に身が溶ける星空の布を織った蜘蛛の腕は、その身に継がれ振るわれます。そして日が落ちる前には、質素ながらも細かな業が光る一着が出来上がっていました。西窓から差す日で、兄妹は出来を確認します。

「いい出来だわ」

「いい仕事でした」

「じゃあ指が冷える前に、プレゼントに取り掛かりましょう?」

「ではブラウスから作りましょうか」

 こうして、二人は日が暮れるまで布を選び、若き烏に似合う一着のため試行錯誤するのでした。次の朝も紫煙の漂う作業場に布の擦れる音が響きます。紳士の編む襟飾りのレースは、幾枚も重なる烏の羽根のようです。中心部で流行るミシンよりも正確で速い三十本の指は、滑るように布を断ち、つなぎ合わせ服に変えていきます。そんな二人はときに機織りの蜘蛛が子供に聞かせた子守歌を歌い、日が暮れ、朝が来て、また暮れます。そして約束の日の前日には、若き烏のためのもう一着が完成しました。


 太陽は穴一つない屋根を真上から照らします。壁を覆う糸の一本一本が陽光を受け、光を流し虹の川となります。それもかつて半身が蜘蛛だった者が、血の途絶えぬことを願い自らの糸を巻き付けた家です。子孫たちはその中で一仕事終え、烏の一着を眺めつつ次の仕事の話をしています。

「鳥たちとその弟子はどうして死に関わるのでしょうか」

 ささやかな疑問です。自ら命を絶った聡慧の烏の弟子は、葬儀屋となった烏揚羽蝶や医者の青狼、処刑者となった黒兎など多くが死やその隣の生を見つめる者となりました。それは烏の弟子だけではありません。雀や禿鷹、白鷺、鶺鴒とその下で学んだ者たちもでした。

「血よ」

 紳士は静かに頷きます。

 それは何度も交わした話でした。先祖の更に先祖の物話は、ほとんど残っておりません。それでも鳥ならば同じく翼を持つ者です。ある一者が根にいます。すると先祖たちも、今を生きる者たちのように、先祖の物語と血で心臓の拍動を感じていたのかもしれません。そして、自らの運命に笑い悲しみ愛し合ったことでしょう。

「私たちは物語を新たにすることはできませんね」

「若くないもの」

「若さと力があれば、蜘蛛や烏も死や悲しみから逃れられたのでしょうか」

「無理ね」

「ええ、わかっています」

「『崇高な美からは逃れられない』もの」「『崇高な美からは逃れられない』ですからね」

 互いに顔を合わせ小さく笑います。二人は蝶の血を継ぐものでもあります。畏怖するべき死や悲しみなどに心を燃やし、いくら折られても憧憬だけは絶やしません。だからロマンを胸に蜘蛛の手で紡ぎ、他の者たちの幸福を祈るのです。

 約束の昼、兄妹はカウンターで休息の時を謳歌していました。紳士は先日久しぶりに作業場で過ごし、職人の魂が燃え上がってしまったようで、先ほどまで烏揚羽蝶の服の小物を作っていました。店主も一人寂しい作業場が賑わい、少し嬉しく思っています。

 そのときノックの音が響きました。間もなく扉が開きます。

「こんにちは!」

 元気な挨拶で入ってきたのは薬屋の店主、孤高の青狼の血を引く乙女です。もちろん烏も一緒です。軽くお辞儀して、肩ほどに切りそろえた黒髪を揺らし、黒曜石の虹彩を薄明りに透かします。二人は今日もお揃いで、ワイシャツに半ズボンをサスペンダーで留め、薬屋は赤の烏は黒のスカーフを巻いています。

「あら、いらっしゃい」

「いらっしゃいませ、ご注文の品は会心の出来ですよ」

「ホントですか、いやあ、ありがとうございます」

「こちらこそ、毎度ご利用いただきありがとうございます」

「そりゃあ中心街の店より丈夫で質もいいですから、それに祖母の代からお世話になってますし」

「ええ。そう言えば、薬屋さんは小さい頃おばあちゃん子でしたね」

「そりゃあ、まあそうと言えばそうかもしれません。一緒に薬草を摘んで、草花遊びも教えて貰いましたから」

 紳士と薬屋がこんな話をしているうちに、店主が店の奥に消えます。そして笑い合う話好きたちのもとに、二着を抱えて戻って来ました。プレゼントは一旦カウンターの下へ。注文の品を上に置き、席へ戻って休憩の続きに戻ります。

「さてと、こちらをどうぞご確認ください」

「ありがとうございます」

 受け取った薬屋は後ろの烏に手渡します。

「一応サイズは予定通り作ったわ。でも、烏さんはまだまだ成長してそうだから、試着してみてもらえるかしら?」

 烏は「わかりました」と頷きます。

「裏の作業場を使ってちょうだい」

 店主が指で示すと、彼女はそれに従って作業場に入っていきました。

「それにしても、ふと見れば二人とも大きくなりましたね」

「でも身体ばかりでっかくなっちゃって困りますよ。アタシも先生も中身はまだまだチビッ子です」

「それは私たちも変わらないわ、ねえ、兄さん」

「はい、私はもう縮んでいくだけですが、それでも夢を追っています。イタズラに蝶を追う幼子のようなものです。実際は手を伸ばさず手元でレースを編むばかりですけどね」

 目を細めて笑い髭を撫でます。薬屋も一緒になって目を細め、口角を緩く結びました。二人を眺めた店主は言います。

「私たちは今も昔もこうして、ささやかな美と幸福を追い続けてるわ。でも、それは他の人もしてることじゃないかしら」

「なるほど、じゃあ、アタシも青狼の手で追えるものを追っていきましょうかね」

 気持ちを新たにし店の奥を見ます。彼女の追うモノの一つが、その向こうにいるからです。

 この街の者の多くは、いつも何かを追いかける童です。それを自覚することが大人なのでしょうか。それとも赤の他人や親しい者のために追いかけることでしょうか。あるいは自分の幸福や美の快楽を求めることかもしれません。どれが「大人」という言葉の意味なのか、それを知る者はこの街に一人としておりません。

 だから日々皆は世や自分を問い、できることをして生きていました。

 三人の雑談で賑わう服屋の床板が、烏の足に軋みます。窓からの淡い日光に照らされると、パリッと真新しい生地ながら、デザインも同じで先ほどから着ていたかのように馴染んでいます。

「いやぁ、先生ぴったしじゃないの」

「ああ何の違和感もなく心地いい。だが生地が新しいと気も引き締まる」

「気に入っていただけて嬉しゅうございます」

「ええ、よかったわ、それと烏さんにオマケがあるわ」

 カウンターの下の一着を烏に渡します。受け取った彼女はそれを広げて自分の体に重ねて確かめました。

「感謝します」

「先生にこんな……ありがとうございます、今度ウチに来た時サービスしますね」

「そんな、ちょっとしたものですから」

「アタシもちょっとしたオマケをつけるだけです、季節のジャムかハーブティーをつけますよお」

「それは嬉しいですね、色々試してもあの風味や香りは再現できませんから。そのうちレシピを教えていただけませんか?」

「ひ・み・つです。青狼秘伝のレシピなんですよ」

「残念です、では今まで通りお店で買わせていただきますね。ところで烏さん、そちらのオマケ試着されますか?」

 烏は動きを止めてジッと服を見つめ、考え事をはじめます。

「先生、アタシその服着てる先生が見たいなあ」

「着るのは構わない。だが、この服どこかで見た記憶があるのだ」

「それはあなたと同じ木の下にいた子の服を元に作ったの。その子と烏さんは同じ梢の果実なのかもしれないわね」

 若き烏は過去をたどります。烏の物語は遥か昔のことです。その子孫も今では数えきれないほどになっておりますので、同じ物語を魂に刻んでいることの他、互いに見ず知らずの者も少なくありません。

 ですが彼女の記憶には確実に、紳士の愛した一羽の姿がありました。

 それは色のない薄汚れたインクの記憶。古びた黒革の本に描かれた、黒羽根の運命を変えようとした優しき乙女でした。

「アルピナム……」

 その音を聞いた瞬間、紳士の顔がパッと喜びと驚きに輝きます。

「そうですアルピナムさんです。よく似ていらっしゃると思っていたのですが、ご存じでしたか」

「直接会ったことはありません、肖像です」

「……なるほど、トルンカタさんですか」

「はい」

 かつて烏の血を受けた者にトルンカタという肖像画家がおりました。その仕事も烏のものです。命の儚さを嘆き、せめて姿だけでも残して生きる者たちが想いを馳せることのできるよう、日々筆や木炭を握っていました。それはかつて万物を記録した博物の賢者、聡慧の烏が万物をスケッチしたようにです。

 彼が特に力を入れていたのは自らの血の記録です。お天道様が見ている間は、生計のために他の者たちの肖像を描いていましたが、月が微笑む頃は寝る間を惜しんで自分の家族や先祖たちの姿を書いていました。その画の中で彼がもっとも気に入っていたのは、年の離れた双子の妹たちのものです。

 妹の一人は難しいことが嫌いでも明るく皆を勇気づけるアルピナム。もう一人は希も絶も望まずあらゆるものを観察するオフィキナリス。

「トルンカタは伯父でアルピナムは叔母にあたります」

「すると烏さんの母はオフィキナリスさんですか」

「はい」

「よく伺っておりました。ジッと草花ばかり見ている双子の妹がいて、一生植物たちと暮らすかと思っていたら結婚した、と。いや、まさかあなたが噂の方の娘とは思いませんでした」

「よく考えれば気がつくことだわ、双子の姉妹の子なら似てもおかしくない、それにこの街のことよ」

「街に烏はたくさんいましたから。それに似てるから血が繋がっているというのは安易な話です。白蟻の女王の『我らには白い血が、隣国には黒の血が流れている。この姿と名は同じ血をわけたからではない。蟻を生んだのは土である』というではありませんか」

「でも同じ血が流れていて、そっくりなら、縁があると思うのが自然だわ」

「たしかにそうですね、どうも最近頭が鈍ってしまったようです」

 くしゃっと笑ってそう言います。

「あの子のことばかり考えてるからよ」

 その言葉を聞いて薬屋は、表情をぱっと明るくします。

「えっ、恋の病ですかぁ」

「いえこの歳で恋なんて」

「いいじゃないですか、歳をとっても冷めない恋心って、純粋で素敵です!」

「純粋ではありません。ただ未練がましいだけです。切り替えもできず依存して、忘れようと思っても仕事の度に思い出し、夢にも見る。大人として恥ずかしい限りです」

「相手が過去の幻影でも恋は恋ですよ。アタシはそう信じたいんです」

 薬屋は紳士と同じような笑顔で言いました。それに紳士は烏の血を想い、乙女の抱くほのかな憂鬱を知りました。だから共に表面だけは飾っておこうと言葉をひねります。

「ええ、きっと恋ですね。美しい幻影は忘れらません、届かないとわかっても手を伸ばし続けてしまって、まるでおとぎ話ですね」

「素敵ですねぇ」

 こんなとりとめのない話をしておりますと、店の外から風に紛れて詩が聞こえてきました。

「紋白蝶の脈あせど、腕を介し伝う美は、心身にきざまれ注がれる。満ちる器は乙女のはらか。美求む狂気は今日にも継がれ、血に語られずも皆が知る。蝶の狂気は今日にも継がれ、血もたぬ者も手を伸ばす。愚直な神に心を抜かす」

 枯れた声でもしかと響くその詩は、紋白蝶のおとぎ話でした。

「まるで、ではなくおとぎ話でしたね。それにしても……」

「珍しいわね」

「ええ、たしかに久しぶりに声を聞きました」

「そういえばあのおじいちゃんって、何歳なのかねえ」

「噂では自警団長の五代前の山猫の時代からいたという、おそらく僕たち四人を足しても届かないくらいだ」

 声の主は襤褸をまとう老人です。杖を手に、苔むす石畳を突いて音を響かせ、それを拍子に詩を紡ぎます。彼は街に残った数少ない詩人のひとり盲の亀でした。神出鬼没で街のどこにでも現れ、すぐに消える夢のような存在です。

 だからこそ人々は彼を神格化しておりました。異常なほどの長寿の噂はその一要素だとも、真実だとも言われているのです。

「そういえば、あの人と会って話したら、血の運命を変えられるって噂、なかったかしら?」

「ありましたね。小さい頃、よく母さんが言ってましたけど、薬屋さんよ烏さんは聞いたことありますかね?」

「いいえ、それって本当ですか」

「どうかしら、でも経験豊富そうだし、なんだかんだおもしろい話が聞けそうね。せっかくだから行ってみたら?」

「はい、では、ありがとうございました。ホントに、こんなに素敵なオマケまでいただいちゃって。また来ますしウチの店に来たときはサービスしますので、今後ともよろしくお願いします」

「こちらこそ、今回はご注文ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」

 烏の手を引き青狼は出ていきます。烏は振り向き店主と紳士の顔を見て、微笑み軽くお辞儀しました。二人のよく知る烏と性格は似ても似つきません。ですがその姿に最後に見たかの烏を思い出しました。店を閉め帰る間際の「じゃあね、よく寝て風邪ひかないように」と言う姿です。だからあの時と同じように、いいえ、いつも客を見送るように兄妹は手を振りました。


 二人ぼっちの仕立て屋に、冷たくもなだらかな時間が戻ってきました。

「さて、では夕食まで、もうひと頑張りしましょうか」

「そうね」

「晩は何が食べたいですか?」

「いつも通りでいいわ」

「たまにはワガママ言ってもいいんですよ?」

「子供扱いしないで」

「私はいつまでもヒュアキンソスちゃんのお兄ちゃんですから」

「この歳でそういうのってキツイわ」

「そうやって微塵もかわい気がないから、未だに独り者なんです」

「お兄ちゃんだって、女々しくウジウジしてるから独り者なんだよ! いとこのオスマンだって最近七人目の恋人ができたとか言ってたっていうのにね」

 紳士は笑っていなします。それに妹は「もう」とタバコをふかしつつ、作業場に消えていきました。兄は真っ黒な飴を口に放り込んで、そのあとを追いました。

 蜘蛛の兄妹はこれからも、多くの者の美しい物語を守るべく、衣服を仕立て続けることでしょう。その美に酔う姿は紋白蝶で、親のように見守る愛はまごうことなき蜘蛛のものです。運命は変えられない。それも悲しき蝶と蜘蛛の物語です。

 ですが、悲しみさえも美しい。多くの者がそう思うのが、この街、かつて「Fantasia」と言われた地です。

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表象の街 狐藤夏雪 @kassethu-Goto

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