愚かなる鳥獣のアルゴス
人間が造ったものと神の創った者が絡み合うこの街は、変わり者ばかりが住んでおります。多くの者が短絡的な快楽や理性的な幸福を求め、黒い梟が治める賑わいの中心部へ行きました。なのにそれぞれの想いがあって残った人々です。
薬屋の店主もその一人でした。
彼女が生まれた時、街はすでに緑色でした。草木が主なき家の壁を宿とし、宿なき詩人すら賢明なる梟に煽られ、石畳から影を消しました。詩も響かぬ広場は虫や鳥の、静かな戦場でした。深草の割れ石畳では、食って生きようとする者と草葉の陰で死におびえる者がいたのです。ですがこの場所に訪れるのはその者たちだけではありません。草木を愛す者も若葉を摘みに現れます。そのうちの一人、タンポポの葉を摘む乙女の背に負われる赤子が、後の店主です。
彼女が物心ついたとき、すでに父はいませんでした。父は詩人で、かの新都の主と戦い人々の心に物語取り戻すまでと、再会を誓い出て行ったのです。母子は草木と触れ合い家業の薬屋で彼を待ちました。しかしその顔を見ることなく、三年前のこと、体調を崩して母は帰らぬ人となりました。こうして一人になっても、店主は母と自分の願いを忘れません。魂を愛し闘った英雄の帰還です。子供とは言えない体になっても、彼女は未だにそのときを待ち、草花を摘んで薬を調合します。
そんな薬屋は街で数少ない客の来る店です。といっても、そのうち一人は商売人から見れば迷惑な冷やかしでした。
仲良しの「先生」です。店主もはなから薬屋をやるつもりはありませんから、来るのも当然のことでしょう。仕事は時間潰しの一環です。あっても時々くる商人と取引する程度です。だからよく薬屋のカウンターで調合をしながら、仲良しの「先生」と談笑しています。二人はおそろいのワイシャツにスカーフをしめ、半ズボンですので、それが薬屋の名物となっていました。
店の目印はオーク材に金のペンキで「Artemisia」とある看板です。「Open」の札を確認し、扉を開ければ独特の甘いにおいが漂ってきます。壁じゅうに草の葉や根が干してあって、日用の家具は客のための質素な木の椅子が一つあるだけです。カウンターでは店主が不機嫌そうに薬草を刻んでいました。
彼女は時折、窓の外を見ては深くため息をつきます。
「……遅い」
待ち合わせをしているわけではありません。いつも来るから今日も来るだろうと思っていました。ですがそろそろ花たちが真上を向く頃です。朝早くから暗くなる寸前まで一緒にいる「先生」は、影ひとつ見えないのでした。
乙女の寂しさと、乾いた草木の甘い香りだけが部屋に広がります。扉が開けば、さわやかな新緑の空気が流れ込み、すべてを吹き飛ばしてくれるでしょう。
「今日は来ないのかぁ」
いつもは心地よい薬草のにおいも、不快に甘くて酔いはじめ、乙女の心は狂いだしました。薬研車を押す手が止まります。
「元気かな」
そして頭にいくつもの残酷な妄想をします。物漁りに首を掻っ切られ、草を赤く染めつつ持ち物を漁られる。あるいは狼の群れに襲われ、叫びも空しく内臓を食われる。それか街の憂いに呑まれ、橋の上で自らの喉を刃で突くかもしれない。もしかすればあんなに綺麗なものだから、血の気の多い者にひどいことをされていることだってあり得る。胸にあふれた妄想で乙女は息を詰まらせ頭を抱えます。
「アタシ何か悪いことしたかぁ」
悪い未来を押しのけようとします。秩序や理性から離れたこの街でも、そこまで極端に危険に満ちているわけではありません。
狼の群れの多くは、人間を襲わないと決めています。先祖から語り継ぐ話で、人間を襲って群れが滅ぼされたというものがあるからです。それに物漁りも他人を襲うことは稀です。この街の人は外に出る時、誰でも武器を持っています。たとえばある老紳士の杖は、一見普通でも中にはレイピアが仕込んであったりします。下手に襲えば返り討ちにあうかもしれません。だから家主の消えた家々をめぐり、食料や金品を漁るだけです。
店主はすっかり自分の「言葉」にも酔っていました。
いくら幻想の混じるこの街でも、理性は必要です。とりとめもなく、ダラダラと考えていては病気になってしまいます。だから「先生」が来ないのは自分のせいにして冷静になろうとしました。でも心当たりがありません。昨日も二人で語り合い、昼ごろには外に出て草を摘み、どこかから聞こえてきた不思議な歌に合わせて踊りました。別れの時も「また明日」と抱き合いました。何一ついつもと変わらず、何一つそれを変える闇は見えませんでした。
仕事も手に付かず、頬杖をついて外を眺めます。すると番の蝶が舞っていました。離れて宙で交差して、また離れたと思えば螺旋を描くように二匹で上に飛んで行きます。そして視界から消えてしまいました。
「この気持ちも一緒に持ってってくれよ」
ため息交じりに呟きます。
ちょうどそのとき、街を風のように走る人がありました。その身は陽光で紅く輝き、通り道をその色で染めていきます。蝶はそれを見て鮮やかさに心奪われました。草木はそれを火だと思い、身を縮めて見送りました。虫をついばむ烏はその人を見て嘲笑します。
ついに走る紅玉は、薬屋の窓を通り、扉が壊れるほど強く開きました。
何事かと立ち上がった店主は、戸の前に立つ人に驚きます。
「先生、そりゃどうしたんだい!」
店主が叫んだ瞬間、「先生」は崩れ落ちるように戸口で倒れました。
荒い息に血まみれのシャツ、スカーフはほどけ、黒の半ズボンも所々切れており、サスペンダーは片方外れています。そんな彼女は倒れた後も、お腹を押さえて身を丸め、苦しそうに唸ります。店主が駆け寄ると血のにおいはしませんでした。かわりに独特な香りが、店の空気を塗りつぶしていきます。
そこから店主は悟りました。これは一大事ではない、と。
「うわぁ、こりゃ大変だぁ、早くなんとかしないとぉ!」
わざと抑揚を殺してそう言い、先生の口に甘草の根をくわえさせます。壁に吊るしてあったものです。
「甘い」
苦しんでいたのも嘘のようです。冷静な顔でボソッと言いました。店主も冷たい視線を向けて近くの椅子に座り、甘草の根をくわえます。
「あんた一体どこからそれ手に入れたのさ」
「ヒミツ」
「だろうね」
先生はスタッと立ち上がり、近くの壁によしかかります。彼女の服を染めていたのは龍血樹の樹脂のインクでした。樹脂は薬ともなります。貴重品ですが取り扱ったことはありました。店主は独特の匂いからそれに気づいたのです。
「そんで、今日はやけに遅かったね」
「寝坊した」
「珍しいじゃないの、昨晩、何か眠れない理由でもあった?」
「別に」
「ふうん、そうかい」
生返事で椅子から離れ、カウンターに戻ります。それで空いた席に今度は先生が座ります。
先生と呼ばれた彼女は、博物学のようなことをしていました。植物や昆虫、獣、鉱物や星と色々な物を見ては、記録したり、標本として保存しています。薬屋と仲が良いのもその知識ゆえです。また服の趣味も似ていて、二人はよく薬草や食用の植物を探しに出かけるのでした。
「やっぱ聞いて」
「聞く聞く」
店主は手を組んで両肘をつき、編んだ指に顎をのせます。そして甘草の根を舌先で回し耳を傾けました。
「僕は知識でできている。だが、ほとんどに使い道はない。植物のことくらいだ。よって役立たずの人間に思えて仕方がない、僕のほとんどが無意味に思えて不安になる」
「ここのノスタルジーにやられたのかい?」
「ノイローゼとも言う」
「まあ先生は真面目だからね、不真面目でもあるけど」
「どこが不真面目なのだ?」
「アタシと毎日遊んでること」
「ああ、僕は役立たずなうえ、遊んでばかりのクズではないか」
そう言って先生は頭を抱えます。
「冗談でもそこまで言わなくていいじゃない」
「自分に厳しくだ」
抱えた指のすき間から目を輝かせて言いました。
「自分を虐めすぎたら、他人に優しくする余裕もなくなっちまうよ」
「僕は優しい」
「アタシには厳しい」
「何かした?」
「さっきアタシを不真面目の化身扱いしたねえ」
「ああ、僕はたった一人の隣人さえ大切にできないのか」
床に着くほど頭を垂れて、後頭部を押さえます。
「愛されるより愛する方が難しいって言うじゃない、それよそれ」
「一方的な愛は己を愛すこととも言うではないか」
「ああ、アタシはナルシストで自分勝手で、心から先生を愛していないのかね」
店主も頭を垂れて、手で顔を隠します。
「僕は大好きだ」
でも頭はすぐ持ち上がりました。
「うわぉ、アタシもさ」
「それは自己愛?」
「相思相愛です」
「僕たち、愛するのは下手でも、愛されているのだな」
「そうよそうよ」
「だが役立たずには変わりない」
「……もしかして梟に魂を奪われたのかい?」
「いや、僕はここに生まれここで死んでいく。魂は物語にある」
「だったら先生は立派に生きてるよ」
「互いに愛されていることからか?」
「さすが聡慧の烏の子孫」
「先祖など関係ない。僕は駿足のソルブスだ」
「確かに、ケガ人の癖に風みたいに走ってたもんね」
「演技は下手なのだ」
二人で揃って笑います。店主は窓ガラスが震えるほど高らかに、先生はそよ風のような息を漏らすだけで、場は少しずつ温もりに満ちていきます。
「まあ、目に見えるものが全てってわけじゃないよ。生きるためには、そら大切だけどさ、先生の大好きな愛とか命に関わらないような知識とかも必要じゃないの。バランスよバランス」
「バランスか、偏食家だからな」
「アタシが管理したげるよ」
「通い妻か」
「通ってくるのはそっちじゃない」
「なら通われ妻」
「どっちでもいいけどさ、最近クランベリー以外のもの食べた?」
「黒パン」
「ジャムはクランベリーでしょ」
先生は極端な偏食家で、クランベリーばかり食べています。そこら辺から採れる時はそのままか砂糖をまぶして、とれない時期は大量に作ったジャムや塩漬けを食べています。黒パンや食用の植物など、他の物を食べることもありますが、クランベリージャムやソースをかけてしまいます。見事なクランベリージャンキーです。
「クランベリーは悪くない」
「善でもない」
「それでも善かのようにふるまう」
「『烏が黒とは限らない、だが黒といえば烏だし、烏ならば黒と言う』ってやつ?」
「悔しいが、そうだ」
「先生のご先祖様だよ、感謝しなきゃ」
「この命には感謝する」
「魂には?」
「半分感謝、それのせいで悩み事が尽きない」
小さな微笑みに影が落ちます。そして先生は腕を組み、二人の沈黙に憂いを描きました。
その憂いも仕方のないことです。先生は見えないものも見えるものも、バランスよく大切にすることがもっともよいと思っていました。それは彼女が慕い嫌う先祖「聡慧の烏」も同様でした。それが彼女の偏った魂を支える柱の一つとなっていたのです。
しかし、これを都合よく解釈した者もありました。
黒い梟が語るのは見えるものに幸福を求めることです。その物語を紡ぐうえで、梟は多くの先祖や先人の遺したものを学び取り入れました。特に万物を観察し記録した烏の物語は、見えるものをより定かにするのに都合の良いものでした。
例えば「烏が黒とは限らない」の言葉は、烏はとりあえず黒とするが、違っても烏は烏だろうという、記録することの曖昧さを示すものでした。言葉にするけど、それが全てではないということです。それを黒い梟は、烏には黒以外もいるが、黒が基本であるというようにしたのです。黒以外への寛容を狭めたのです。
先生も先祖の物語が魂に刻まれておりますから、本当の意味を忘れることはありません。ですがそれゆえ梟に呑み込まれそうになります。見えるものを言葉でより明確にすることも、烏の物語だからです。形あるものに偏った時代、反対を目指しつつ、このようにどっちつかずでさまよい続けることが、白いシャツの奥の奥にたくさん悩みを生み、頭痛や気怠さの種となるのでした。
「烏にならないでよ」
「毟る羽はない」
「羽がなくても同じ魂と命があるじゃん、たまに不安になるんだよ、突然先生が消えちゃいそうでさ」
烏の最後の物語は、最後の弟子だった孤高の青狼により紡がれたものです。
聡慧の烏はある時、日を数えるように一本ずつ自らの羽を抜き始めました。七色に輝く漆黒は、日に日に色を失って、ついに何者なのかもわからなくなってしまいます。それを見て、まわりの者は汚らしい鳥と嘲りました。それでも烏は気にしません。むしろそのような声などみじんも聞こえていないように、語りも狂わず、観察と記録を続けていました。
雲一つない快晴の日のことです。師弟は湖に来ていました。青狼が岸の草を眺めて歩いていると、烏が水面をジッと覗き込んで身動き一つしないことに気づきました。近づき「先生、どうしたんだい?」と尋ねます。すると「この水鏡に映るのは何者か」と言いました。続いて「我はこの者のようになりたい」と羽なき翼を広げ、湖の中心へと飛んでいったかと思うと、嘴から刺さるように落ちて沈んだのです。狼も助けようと飛び込みましたが、溶けてしまったようにどこにも見当たりませんでした。その後、烏が浮かび上がってくることすらありませんでした。これについて青狼は最後に「烏は水になった」と語りました。
そして不思議なことに、烏の子孫も「何者かになりたい」のようなことを言って、自ら姿を消すのです。
この呪われた血の言葉を想い、先生は言います。
「『消えぬ種はなく、枯れぬ花もない』、それは運命だ」
「『水をすくいなさい、飲めば渇きを癒せる』、そいつがアタシの運命だよ?」
店主は歯を見せ、幼い笑顔で言いました。
薬屋の先祖である青狼は、師が水となった後に医者となりました。烏の遺した知識を元に、薬を使って人々を癒すことにしたのです。それはいつか狂気をも癒したいという願いからのことでした。青狼は師の死を美と感じていましたが、同時に早くから何かしていれば、今も隣で草を炭で写していただろうと後悔もしていました。
何より大切な親です。青みがかった白銀の毛のせいで、異質なものと狼は群れから捨てられました。そんな狼を拾い育てたのが烏だったのです。いつか終わりが来るのはわかっていました。でもあまりにも、急な別れでした。
他の者にはこの負の気持ちを味わわせたくない。そう思った狼は、心の治療のために、まずは身体の病からと、医者として薬で人々を癒したのでした。
でも狂気を治すことはできませんでした。そこで気づいたのが愛です。治療を受けた人々の笑顔を幾千と見て、薬に加え心を以って向かい合うことで、体と同時に少しずつですが魂も回復していたことを知ったのでした。
ある日、老いた狼はかの湖の水をすくい、そこに太陽を映して弟子の烏揚羽蝶に言いました。
「水をすくいなさい、飲めば渇きを癒せる」
それは水となった師を想いつつ、心と技を以って他人を癒すことで自分の魂まで潤うことを示したのです。こうして青狼は他人の治療にすべてを捧げ安らかに灯を消しました。その身は今も師と同じ湖の水として、子孫を見守っていると言います。
「水をすくう」それは先祖から続く願いでした。遥かなる時を超え、また出会った師弟の血は、旧約の運命から新たな物語を紡ごうとしているのでした。
「ところで、申し訳ないが一つよろしいか」
「なになに」
「インクがベタついて気持ちわるい」
「そりゃそうだよ、で、どうしてインクを浴びてきたの?」
「そこにあったから」
「なるほどね、じゃあ着替えに行こ?」
先生が頷くと、店主は彼女の手を取って、店の裏へと連れて行きます。客が他に来ることはありません。しかも二人は体つきがほとんど同じですから、互いの服を交換してもピッタリです。こうして二人の着せ替え遊びがはじまるのでした。
店主は陽気な歌を口ずさみます。歌と言っても詞はありません。喉を笛として奏でる先祖代々の調べです。かつて青狼は、それで眼病を治し、老いた者も命尽きるまで壮健にし、時に狂者も元の自分を取り戻しました。でも今はそんな力もなく、二人のためのささやかな調べです。
歌を耳に店主は作業を進めます。店主に差し出す腕は、赤く染まっているけれど、白との二色に分かれておりました。濡れた布で磨いていけば、静脈の青が映える純白と肌色が戻ってまいります。袖をまくったり半袖だったりするので、二の腕から先は軽く日に焼けておりました。
腕を拭く店主に対して、先生は差し出していない手で胸やお腹を拭きます。烏の子孫の彼女も、幾度となく聞いたおかげで、青狼の歌を覚えてしまいました。
しかし先生の先祖はうたわぬ烏と言われた散文の記録者です。青狼が記したうたについての記録によれば、烏はとても下手だったといわれています。二者が砂漠を訪れた際にワインを常飲していました。当時は清い水が貴重だったからです。水がわりの度の低い酒ですが、喉の渇きから飲まずにはいられず、気が付けば二人ともすっかり酔いがまわってしまいます。そこで烏は神をうたう詩人の真似をしはじめたのです。その声は砂漠の厳しい環境に住む、強かな者たちをも震え上がらせ、狼も酔いが醒めてやめてほしいと懇願するほどのものでした。
ただ先生は美しく歌えます。音痴は血に語られない、それぞれの者の個性のようです。なので一緒に微笑み歌います。
歌が七度目の始まりを迎える頃、全身純白の絹肌となり龍血の痕は消えました。先生は胸に木綿の布を巻き、次に白いシャツを着ます。そこからが着せ替えのはじまりです。店主はスカーフやズボンをあれやこれやと探しては精査します。違うと思えば後の片づけも考えず、そこらの家具に投げて掛けます。ピンとくれば結び着せ、いまひとつだから剥いでを繰り返します。
はじめは燃えるような赤のスカーフで、下は店主の母のロングスカートです。店主は初めて見るスカート姿に大喜びですが、本人の反応はイマイチでした。
「動きにくい」
店主も普段はズボンですから、それには同意です。スカートは腰からストンと床に落ち、大切そうに折り畳まれてチェストに戻りました。きっとまた日を浴びるときは店主が着る事でしょう。
その次は黒レースのスカーフに、先生の好む黒の半ズボンです。いつも通りの格好に先生は「これでいい」と言いました。でも店主は「これじゃあ、つまんないよ」とすぐに脱がせます。すると今度は自分のお気に入りを探して、着せてみようとするのでした。
服漁りも落ち着いて、はしゃいでいた乙女もチェストに腰かけます。先生は若草色のスカーフを巻いていました。ズボンは黒で長裾を折り、キュロットのようです。
「下は好みだが、このスカーフは少々若すぎる」
「先生若いじゃないの」
「比喩だ、鮮やかならば若い、落ち着いているならば年寄り」
「この街は?」
「中年だ」
「あぁ、なるほど」
「ときに若く活発的ながら、迫る死と老いに憂鬱を抱える」
「じゃあせめてアタシたちが、街の若さでいようじゃないの」
そう言うと店主は自分のスカーフを解きました。そして先生がもともと着ていたシャツを手に取ります。深紅に染まり、硬くなった表面を撫でました。
「これ貰ってもいいかい」
「構わない、赤は趣味ではないからチェストの肥しになるだけだ」
「ありがとね」
シャツを持ったまま店先へと消えました。残された先生はチェストに腰かけ、スカーフのたれを引っ張り形を整えます。そのあと脚や腕を伸ばしてみたりして、服装をよく観察します。その時の目はまさしく烏の目でした。自分自身を客観的に見ようとするも、それは自分の目に違いなく、最後には曖昧なことしかわかりません。
だからこの街に住む一人として、彼女は今の姿に心から言葉を溢します。
「たまには悪くないか」
青狼の調べを鼻歌で奏でて、店主の帰りを待ちます。足もばたつかせ上機嫌です。あまりに遅いので、頭まで揺らしつつ口に出して歌います。フワリフワリと舞う髪より、ほのかに香る甘く爽やかなベリーで、鳥たちは窓越しに様子を見にやってきました。
「あの子、クランベリーを隠し持ってるのかな」
「なんか楽しそう」
「あれっ薬屋は一緒じゃないんだね」
「お前たち、烏は欲張りだ。僕たちにベリーを分けてなんてくれないさ、油売ってないで行こうよ」
そんな会話をして、鳥たちは去って行きました。噂されたことはつゆ知らず、調べは乙女の口元で、紡がれては儚く散ります。
体も揺れる楽しさで、ベリーに混ざって別の甘い香りも漂います。店長が大好きなシナモンです。服に香りをつけるため、彼女はチェストに数本のシナモンを入れていました。香辛料に引き立つ若き果実たちは、まるでクランベリージャムです。
それにはお腹の虫も合いの手を入れます。
「朝は食べて来なかったな」
袖に鼻先を埋めます。するとそこへ店長が帰って来ました。
「アタシの服におうかい?」
「いや、いいにおいだ」
「なんかいやらしいね」
「実に想像力が豊かだ」
「ありがと」
「どういたしまして」
「でさ、どう、似合うかな?」
店長の首元には紅色のスカーフが巻いてありました。
「おいしそう」
その紅色もクランベリージャムにそっくりです。
「それもいやらしいね」
おいしそうと言われて、猛獣の子孫は守るよう自らの体を抱きます。
「想像力」
「先生もね。じゃあ、そろそろ遅めの昼食でもどうだい、どうせ朝から何も食べてないんでしょ?」
「ああ、いただく」
この後二人は店先で、昼食をとりました。メニューはシナモンが効いたクランベリージャムと黒パン、ソーセージにワインでした。もちろん笑顔は絶えません。
「一着ダメになって、不便じゃないのかい?」
「問題ない」
「でも服が乾かないって、いっつも言ってたでしょ」
「最悪着て乾かす」
「豪快だねぇ、でも明日はおじさんの店にいこうか」
「……ああ、うん、わかった」
「相変わらず苦手なんだね、蜘蛛のお姉さんのこと」
「理由はないが本能がな」
「本能は仕方ないけど、いっつもお世話になってるのにねぇ」
二人の語るおじさんのお店とは、この街唯一の仕立て屋のことです。そこは機織りの蜘蛛の血を引く兄妹がやっています。
「服には感謝するし、あんなに美人なのだがなぁ」
「美人? 他の女をほめないでよ! 」
「大人の女性には憧れるものだ」
「わかるわ、その気持ち」
こんな二人の幸せな日々は、末永く続くことでしょう。時折、心に影の差すことはあるかもしれません。でもそれは生きていれば誰だってそうです。そんなときはこういうこともあるさと笑えば、気持ちも少しは明るくなることがあります。
店主と先生は、烏と青狼の分まで、笑い支え合い暮らしていくのでした。
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