表象の街

狐藤夏雪

若き蛇のためのファンタシア

 快晴の空、遠くからは人々の喧騒が響けど、そこは薄暗く静かでした。石畳を襤褸をまとう詩人が、杖つき歩けばコツンコツンとこだまします。その足音も遠ざかれば、もう静寂だけが歩行者です。

 並んだ家々ももぬけの殻ばかり、窓の奥では家主を待つ蜘蛛たちが、子どもにおとぎ話を語っています。それはこのような内容でした。この家には昔巨人が住んでいて、私たちと同じように話して、わずかばかりの食べ物を分け合い、幸せに暮らしていた、と。物語を心に響かせ、母蜘蛛は自らの終わりを想って悲しみ、子に目一杯の笑顔を与えます。すると子供たちも童心に、幸せの終わりを悟るのでした。

 そんな街の寂れた一角に、その本屋はありました。石壁に黒瓦屋根で、正面には大きな看板が掛かっています。そのウォールナットの板には「FantasiA」と白ペンキで書かれております。すぐ下の十字格子の窓を覗けば、店主が本の森で、黄ばんだ古本のページをめくっています。丸眼鏡の紳士で、清潔な白シャツに黒スカーフを巻き、灰色のベスト、顔は苦も楽もない無表情でした。

 このような場所です。客が来ることもありません。五〇年前はここも人であふれ、誰もがおとぎの憂いと美に酔い、彼も笑顔で皆と語らいました。ですがあるとき街に黒い梟がやって来ました。梟は人々に学問と快楽を教え、住人は一人二人と賢鳥の地、今や大都市の中心部へ去って行ったのです。

 すると家々の鮮やかな花は枯れ、夜は日に日に闇に呑まれ、苔むした石壁には、どこからやって来たのか蔦や木が根を張ります。ある場所は草木の葉に遮られ、太陽さえも石畳を照らせません。この状況を見てか、ついには梟を嫌った詩人たちも、生きて梟と闘うために出て行きました。

 街を心から愛した人々も歌や言葉が遠のくことを恐れ、その後に続きました。詩人たちは「街に生命の息吹を」と言っていましたが、彼らのポエジーは取り残された人と街からすっかり色を奪い取りました。


 その日もなだらかな煉獄のような時が流れています。店主はあの頃の幻想や喧騒が忘れられず、店の本を開いて時間を浪費します。羊皮紙上の言葉に輝きはありません。心は文字がカラコロ反響するばかり、グレーで殺風景です。

 文字を追う毎日。閑古鳥の鳴く本の森。真っ白になった総髪を撫でて、黒のリボンを整え、また瞳が文字を吸い込みます。

 その時、街に石畳を蹴る、軽やかな音が響きました。店主もそれを聞き、目を窓へと向けます。見えるのは緑の混じる薄暗い街並みだけです。ため息一つ、狐が鼠を追っていたか小鳥のイタズラかと思えば、窓の前を何かが通り過ぎました。まもなくコンコンコンと小さなノックが聞こえます。

「ごめんください、すいません、誰かいらっしゃいますか?」

 どうやら若い女のようです。年老いた身と店に訪れた若き輝きに、乾いたのども潤います。久しぶりの客に、心の残り火が朱に輝くのを感じつつ、スッと立ち上がりまっすぐ扉へと向かいました。

 蝶番が金切り声をあげ、本たちが薄い日を浴びます。立っていたのは黒ワンピースの少女でした。服と同じ色のハットを手に、つぶらな瞳で店主を見上げます。そのタレ目と両目の元の泣きぼくろは、街に似た美しい憂いを秘めていました。

 思わず店主の心に少女の物語が、おぼろげながら描かれます。それは妄想にすぎません。悲しくも空しく美しい幻想です。ですが、かつて知っていた物語の喜びが、すりガラスの向こうにある気がしました。

「いらっしゃい」

 店主はボソッとそう呟くと机へ戻ります。メガネをつまんで掛け直し、また時間を文字に消費し始めます。

 見えかけた喜びも、理性が一瞬で虚構と決めつけ、長い空白に沈んでいきます。

 そんな中、小さな足は黒ずんだ床板を踏むのをためらっていました。あまりにも商売っ気がないので、ここが本好きの誰かの家に迷い込んだように思えたからです。それでも看板は掛かっていました。しかもドアに「OPEN」の文字があったのも見ています。だから勇気を持って進み、手前の本棚の前で止まりました。

 直立でジッと背表紙を眺めます。そこは古代の哲学者たちのコーナーです。大人でも難しい本ばかりですから、店主も気になってチラリと少女を見てしまいます。

 すると二人、目が合いました。

「何かお探しの本でも?」

「いえ、特に……」

 妙な間のあと、沈黙が場を支配します。二人は目線をもとの場所へと戻し、互いの気配を感じつつ、自分の世界にひたるのでした。

 少女が一冊の本を手に取ります。それは『Atramentarius』という銀の蛇が語った寓話を、弟子たちが書き留めたものです。店主も蛇革の表紙なので、それだとすぐにわかりました。

 蛇の話はどれも幻想的で優しく、子供でも読め、大人が見ても深みがあります。でももっとも古い原点とされる本は、少し古い言葉遣いがされていました。なので多くの人々が絵本や童話にして語ってきました。実は店にはそのすべてが揃っています。だから店主は少女が最も楽しめる物語に想いを巡らせつつ、手元の本のページをめくりました。

 店主がページで時を刻み、少女は困り眉で首をかしげます。少女の様子を見た老紳士は眉間にシワをつくりました。時を刻む手もみるみる鈍ります。こんな二人の考え事の邪魔をする者はいません。他に来る客は冷やかしの小鳥や本を盗み見る羽虫だけです。

「あの、すいません」

「はい、なんでしょうか」

「おとぎ話を探しているんですけれど、老人が木を助けて、そのあと木に助けられるみたいな内容なんですが、ご存じありませんか?」

「それは『幻想の森』ではないかい」

「ううんと、題名まではわからなくって」

「待ってなさい」

 ホコリまみれの椅子を軽く手で拭い、座面に自分のジャケットを広げ、少女に座るよう勧めます。他人の服にお尻をのせるなんて、少女にはできっこありません。しかもシワ一つない上物です。なので帽子を抱えて横に立っていました。でも店主の「時間がかかるから、上着など気にせず、座って待っていてくれ」と言われ、断るのも失礼かと思い腰かけます。

 少女が座ったのを見て、店主は早速仕事に取り掛かります。細い背表紙を指でなぞり、一冊一冊確認していきます。どれもほんのりかび臭く甘いにおいがしました。しかも色あせたり茶色がかってほこりをかぶっています。近所を蔓が覆ってから童話を読んでいなかったのです。かの美しき日々を忘れるように、手入れを怠っていたのです。だけど人と物語のつなぎ手として、腕と記憶は確かでした。

 賑わいと幻想の日々が思い出されます。急に目元が熱くなり、懐かしさに一冊手に取ると、忘れかけていたものが、水の湧くように溢れ出してきました。数枚めくってみます。そしてタイトルを心に響かせるたびに、鮮やかな物語が花咲くのです。

 街が賑やかだったころ、童話は特に人気でした。彼も自分の店に世界中の童話を並べ、時間の許す限り商品を読んでいました。太陽の女王と月の王の憂鬱、宝石に変わりゆく身を砕き人々に配る商人、鳥に憧れて星になった子どもたち。どの物語も心で輝いていました。純粋な少女の瞳を見たせいなのか、不思議なことにあの頃の色が戻って来たのです。

「あった、お嬢さん、とりあえずこれを確認してみてくれ」

 それは赤い表紙に『Fantasia』と書かれていました。

「ありがとうございます」

「他にもあるから、読んで待っていなさい」

 店主は『幻想の森』をもとに書かれた童話や絵本を、手早く五冊棚から出して少女に渡しました。

「まず君に勧められるのはそれだけだ」

「手間をかけさせてしまって申し訳ありません、ありがとうございます」

「かまわん、もっと難しいのや語り手が大きく改変した本もあるから、読みたければ言ってくれ」

 渡された本を少女はパラパラページをめくり中身を確認していきます。それを横目に店主は、店の奥にある茶沸し器から紅茶をいれて机に置きました。

「お嬢さんも、紅茶はいかがかね」

「そんなご迷惑をおかけするわけには」

「久しぶりの客だ、苦手なら無理にとは言わないが」

「じゃあいただきます」

 慣れた手つきで紅茶をいれて、砂糖とミルクの加減を聞きます。ミルクはたっぷりお砂糖は六杯です。少女の好みに店主は砂糖好きの貴族の青年を思い出しました。今、彼は何をしているのでしょうか。砂糖のとりすぎで全身から甘い汁を垂れ流してなければいいのですが。老紳士はまた物語を胸に描き、少女の近くにカップを置くと粗末な椅子に腰かけます。

 一つの机でブラックティーとミルクティーが湯気をくねらせます。お茶会の始まりです。少女のページをめくる音はまばらに、店主は窓の外を見て小鳥を数えます。これもかつてこの店の名物です。それぞれが好き勝手なことをしつつも、同じ机で紅茶を楽しむのです。でもずっと心をちぐはぐなままにはしておきません。

「お望みの物語は見つかったかい」

「はい、この絵本とこの本が欲しかったやつでした」

 少女が示すのは赤表紙の『Fantasia』と、木の下で老人が鳥とたわむれる表紙絵の『もりの神さま』でした。

「それはよかった。それにしてもどうしてこの店に来てくれた?」

「どこを探しても本屋さんどころか、店もなくて、それで唯一見つけたお店がここだったんです」

「偶然目的の店を見つけたんだな」

「本当にうれしかったです、ありがとうございます」

 長いまつ毛の根元には、薄く涙が浮かんでいました。店主は白いシルクのハンカチを、胸ポケットから引き出して、少女の手に握らせます。

「泣きたいだけ泣きなさい、随分と苦労してきたようだ」

 若く華奢な体を震わし、涙を紅茶に落とします。ハンカチに刺しゅうされた銀の蛇が涙に共鳴するように輝きます。

 この街に残っているのは物好きな独り者ばかりです。店主が知る限り家族がいる者は皆、全員の幸せを望んで梟の近くへ行ってしまいました。この街に子供はいないはずです。だけど目の前には、恥ずかしいからか声を抑えて、澄んだ涙を流す少女がいます。

 暮らすには必要な物が手に入りにくい場所です。しかも、外には獣や武器を持った物漁りが現れることもあります。子供が一人で店に来るということは、何かしらの事情があるに違いありません。

 涙が引くのを紅茶を口にして待ちます。ちょうど窓からは、近所に住む薬屋と博物を嗜む娘が、食べられる野草を探してうろついているのが見えます。二人は仲良しで、よく野草探しをしています。この間はシロツメクサの冠を被り踊っていました。薬は植物から作るために、お互いの知識の共通性から仲良くなれるのでしょう。店主はそんな彼女たちのことを「二輪の白百合」と呼んでいます。

 陽気な二人をながめ、心が温かくなったところで少女を見ると、むせびつつも本を眺めて小さく微笑んでいました。

「その物語に思い出でもあるのかい」

「ええ、母がよく語ってくれたんです。寝る前に、私と弟が並んで寝てて、その横にお母さんが座って、私たちが寝るまでおとぎ話をしたり子守歌を歌ってくれたんです。すごいんですよ、本もないのにいつでもいつまでも聞かせてくれるんです」

「そうか、いい母親に違いない」

「いい母親でした」

「ああ」

 少女の顔が悲しみに沈み始めます。それを察した店主は、少女から絵本を借りて開きます。そして絵を指さしながら語り始めました。

「このお話は実話だと知っているかね」

「え、いえ、知りません」

「老人が木を助けて、その恩返しに木は実を与え養い、身を捧げ家となった。残った森の木々も、老人の子孫に多くを与え、家が建ち人々は増え街になった。そして石の時代がやってくる。だが、いつか我々は受けすぎた恩を木々に返す時が来る。それは年老いた銀の蛇が語ったことだ。君の選んだ物語は、それに一番忠実なものだ。しかも噂には弟子たちの記した『幻想の森』より真実に近いとも聞く。蛇は老人の子孫と愛し合ったらしい。それで子孫たちに話も代々継がれていった。しかも本来の形を色濃く残してだ。この絵本と童話は、子孫が口伝えの物語をもとに書いたものだ」

「……もしかして私は老人と蛇の子孫なんでしょうか?」

 少女は昔からそのような気がしていました。両親は一度も遠い先祖の話はしませんでした。母は先祖と結びつけず、内に秘めた物語を語り、父は文筆家でその友達からもらった詩や歌を聞かせるだけでした。ですが母の物語の多くは、かの蛇がよく登場しました。そこで「もしかして」とは思いました。彼女は、それを少年少女特有の、自分に特別を見つけたい気持ちから生じた妄想としていました。でも店主の話を聞いて妄想でない気がしたのです。

「もしかすると、そうかもしれない」

「母は本もないのに最後まで語っていましたけど、それって本当に忘れたりして、話が変わっちゃったりしないんですか?」

「普通ならば変わるだろう。そうだ、少し待っていてくれ」

 店主は紅茶を飲み干して、カップを茶沸し器の近くに置くと、詩のコーナーに向かいます。詩は多くが単品で背表紙がありませんが、栞で内容がわかるように整理されています。彼はそこから一枚の羊皮紙を抜き出しました。そして紅茶のおかわりをいれ席に戻ります。

「男の低い声だが我慢して聞いてくれ」

 咳払い一つ詩を口ずさみはじめます。

「故郷もなき旅人の、歌は月夜に澄み渡り、木の葉が震え風が吹く、ないだ青草つつみこみ、月の光もほどけゆく、おやすみなさい我が友よ、木漏れ日のさす明日まで」

 それは詩の一連目でした。この歌を聞いた少女は驚いた顔をしていましたが、震える紅い唇が、何とか言葉を紡ぎます。

「星に願った言の葉は、おしみ別れた愛の歌、薔薇の唇いとおしく、泣いた横顔抱えこみ、じきに指先ほどけゆく、おやすみなさい我が愛よ、木漏れ日のさす明日にも」

 続いて響いたのは二連目でした。少女は続いて三連目も歌い始めます。それは羊皮紙の詩と一言一句違いません。そんな山の湧き水のような澄んだ冷たく心地よい調べが、部屋を幻想の輝きで満たします。

 窓からの陽光は女神の祝福です。ほこりすら星屑のようにキラキラと歌に合わせて瞬きます。星にこたえるのは一筋の涙です。涸れたはずのかすんだ眼から、頬を伝いするりと流れ、顎から落ちて紅茶に波紋の輪を描きました。ほんのり塩辛い紅茶を口にします。すると店主の色褪せた心も、いよいよかつての極彩色を取り戻し、少し歪に口角を上げて体を揺らします。

 それだけではありません。歌はガラスや石壁をこえて、寂れた街へとしみわたります。白百合たちが手を取り優雅に踊ります。襤褸をまとい足を引きずる男は、遠く響く音に空を仰ぎました。小鳥たちも合唱し、草木や苔さえ照り映えて、そこはかつてより鮮やかでした。

 ですが夢ははかないものです。最後の一行「おやすみなさい木の友よ」と紡がれて、幻想は波が引くように少女の内へ消えていきました。

「美しい歌だった」

 店主は思わず拍手します。ただ母の子守歌を歌っただけの少女は、頬を染めて目線をミルクティーに落としました。

「ありがとうございます」

「蛇の血を継ぐ女性は皆、魂に言葉が刻まれている。母から娘へ、さらにその娘へと物語や歌が血や口伝えで繋がっていく。歌で確信した。お嬢さんはおとぎ話の子孫だ」

 店主は詩の羊皮紙を少女に渡します。

「それって、なんだかすごいですね。弟もきっと喜びます」

「弟がいるのかね」

「はい、今日ここに来たのも、弟が文字を勉強したいと言って、このお話を読みたがってたからなんです」

「そうかそうか、なら二冊とこの詩はお嬢さんと弟さんにあげよう」

「そんなわけにはいきません」

「気にするな、美しい歌を聞かせてくれたお礼だ」

「そんな、形のないものですから、大切な商品をそんなにいただくなんて申し訳ないです」

「ならば私とお嬢さんの家族で一緒に夕食をとろうではないか」

「いえ、ここまでしていただいた上に食事もなんて」

「どうか本代と思って、この寂しがり屋の老人のために、同じテーブルを囲んではもらえないかね」

 憂鬱の混じる微笑みを浮かべ、紅茶を手に言いました。その言葉に少女は口をすぼめ目を細くして考えます。

「夜は危ないですから」

「迎えに行こう」

「弟も私も食べ盛りですし」

「最近食が細くなってな、食べ物があり余っている。食べたいだけ食べていきなさい」

「でしたら体で返します、これ以上ご迷惑はおかけしませんので」

「ならばいい仕事を紹介しよう。栄養たっぷりの特製シチューを食べることだ。それで明日以降もお嬢さんたちが、元気に生きてくれるだけでいい。だが嫌なら無理にとは言わない」

 しつこく粘ったせいで、紳士自身もまるで自分が、子供を食おうとするおとぎの悪者のように思えてきました。それでも恥は噛み潰します。血の招いた奇跡か運命か、この出会いを大切にしたいと思ったのです。

「ううんと、わかりました、おじゃまします」

「ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 少女は満面の笑みで、店主は不器用に笑って、軽くお辞儀します。そのあとも二人は、ゆったりまったりお茶の時間を楽しむのでした。


 そうこうしているうちに部屋の闇は深くなり、窓ガラスは夕暮れの赤に染まっていました。隣人たちも住まいに戻り、鳥たちも巣へと飛んで行きます。

「すまない、弟くんたちが心配だな。そろそろ行こう」

「ええ案内します」

 店主は上着を椅子から取って羽織り、杖を片手に店を出ました。少女は本を抱えて彼を導きます。白髪を夕暮れ空に染めるのは、六年ぶりです。それも前回は小鳥のイタズラで、客かと思い一瞬飛び出しただけです。今回は少女とその家族の出会いに胸を躍らせ、芯まで染み入る暮の温もりを味わいます。

 あたりの草の間から虫の鳴き声が聞こえてきました。歩いても歩いてもその声が途切れることはありません。まるでこの街は虫のためにつくられたかのようです。

 実際、今ここは虫のための場所でした。人のいない家々が、蔦や木に呑まれて崩れ、そのすき間に声の主たちは住んでいます。人間のかわりに子供と語らい、草を食み、草葉の陰で眠るのです。

 夜は虫の時間です。虫たちはこうして夜の訪れに喜び、歌って互いに挨拶するのです。そこへ少女の調べが混ざります。

「ところでお店の名前ってこの本からつけたんですか?」

 赤表紙の本を店主に見せます。

「本からと言われればそうだろう。この街は昔『Fantasia』と呼ばれていた。街の始まりのおとぎ話が、そう呼ばれるのもこのためだ。私は街の物語を継ぐために、あの本屋をはじめた。実際の街から失われた物事も含み、街のすべてが詰まっている場所だから『Fantasia』だ」

「街が詰まってるって、私とおんなじですね」

 少女は半ば冗談のつもりで、大きくそう言いました。ですが、紳士の顔にすぐ笑いが灯りませんでした。少し悲しそうでも温かな表情です。

「そうかもしれない、私とお嬢さんは同じ木のもとに生まれたからな」

 紳士は自分に聞かせるように、そう呟きました。もちろん少女にもそれが聞こえています。ですが、よく理解できませんでした。

 だから冗談っぽく「林檎じゃないんですから」と返しました。

「いや、同じ木の枝に下がる実だよ」

 ここから冗談合戦が始まって、笑い声を響かせ歩きました。すると百歩も千歩もあっという間です。

 少女の家に着くと、そこは屋根が崩れてしまって、雨も日光も浴び放題です。「少々お待ちください」と少女は形ばかりの鍵を開け中に入っていきます。連れてきたのは麦わら帽子の弟のみでした。

 少女と弟には親がいませんでした。父親は何者かに殺され、母親も最近病で死にました。彼女が弟を育てなくてはなりません。助けてくれる人もなく、家のまわりから手に入る木の実やキノコを食べ、両親の残したわずかなお金で稀にくる商人からパンを買い、どうにか暮らしていたのです。

 店主もおおまかにそれを理解しました。

「ほら、店主さんに『ありがとうございます』って言って」

「ありがとうございます」

「いい子だ、今日はお腹いっぱい食べていきなさい」

 不慣れな笑顔で少年の頭を撫でます。

「ホントに?」

「ああ、口に合えばいいがな」

 少年は無邪気な笑顔で喜んで、顔を隠すように少女の裾を掴みます。

「すいません、ありがとうございます」

「かまわない、二人の笑顔を見るだけで幸せだ」

 こうして三人は、沈む太陽を眺めつつ歌を口ずさみ、店まで戻ってきました。そしてそこで黒パンや特製スープを食べながら、色々な物語のことを話したのでした。


 それ以来、店主と姉弟はよく会うようになりました。店や家で一緒に食事し、少女が口にする物語や歌を店主が書き起こし、店主が二人の知らないような物語を読み聞かせます。それで客が増えたわけではありません。姉弟の暮らしが末永く続きもしません。ですが、三人での一時は色鮮やかなものでした。

 そんなある晴れの昼のこと、「たまには私が作ります」と少女が料理場に立ったので、店主は少年に絵本を読んであげていました。蛇の弟子の烏が語った寓話です。その話は師である蛇が、人々に物語を聞かせて、ある時は叱り、またある時は励ますものでした。読み終えて本を閉じたとき、幼い唇が動きます。

「僕、おじさんみたいに本屋さんになりたい」

 店主は目を丸くしてキョトンとしていましたが、すぐに顔を緩め、自然な笑顔で答えます。

「楽しい仕事ではないがいいのか?」

「楽しいよ、だっていっぱい本が読めるもん、それに他の人にもいっぱい本を読んで楽しくなってほしいから」

「ふっ、大人だな」

 髪に櫛でとくように少年の頭を撫でます。そのとき店主はボソッと「遠くても、血はよく物語るものだ」と呟きました。

「二人とも、昼食ができましたよ!」

「ありがとう。じゃあ、次のお話は昼食の後にお姉ちゃんと一緒にしてあげよう」

「わかった!」

 三人のこんな日常は末永く続くことでしょう。この街の名は「Fantasia」。永遠に続く幻想と現実の混ざり合う街ですから。

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