海に還る

中村ハル

第1話

 冬の海など、寂しくて嫌いだった。

 そう言えば格好よく聞こえるかもしれないが、実のところ、冬の海になど、行ったことがない。そもそも、泳げないのだ。だから海になど用はなかった。冬ならば尚更だ。

 眺めるのが好きな人もいるじゃないか。そう反論したくなる人だっているだろう。だが、海は嫌いだ。

 海は、死骸の臭いがする。

 砂浜を歩けばヤドカリや小さな虫が這っているし、海から打ち上げられた海藻や魚の死骸、はたまたどこから運ばれた来たのか、鳥の亡骸さえ落ちていることもある。

 それならば何故、胸の内で文句を垂れながら、今この灰色の海を眺めているのかといえば。

 偏に、失恋したからだ。

 ばかばかしい。

 まったく、馬鹿みたいだ。いや、言い直そう。

 馬鹿だ、私は。

 切ない恋だった。まあ、切なくなければそれは恋ではなかったのかもしれない。いずれにせよ、期待するだけして、それから期待しなくなって、やがて見向きもしなくなった。

 それなのに。

 いざ離れてみれば、思い出はいつも綺麗なモノで。なくしてしまった恋が偲ばれて、夜も眠れない。

 馬鹿だ、本当に。

 だから、海にやってきた。

 灰色に塞ぐ空と、それよりもさらに重い鈍色にぬるりと光る海面と、それを乱す白い波。

 浜辺に立って、私はすぐに後悔した。気が塞ぐ。

 それでもすぐに帰らなかったのは、この、握りしめた掌の中の塊を、浜辺に打ち捨ててしまいたかったからだ。

 さようなら、私の恋。

 そう呟いて投げ捨てれば、いつしか風と波に翻弄されて、砂浜に埋もれる数多の遺骸と混じり、運ばれ、海に還るのではないかと、期待したのだ。

 ああ、私は、思いの外、この恋を大切に抱き締めていたのだ。

 冷たく潮臭い風が、私の頬を殴り、髪を攫っていく。湿り気を帯びた砂が靴の先を汚し、私は顔を顰めた。そうしなければ、泣いてしまいそうだったから。

 柄にもなく身を屈めて、爪先で壊しかけていた桜貝を指先で拾い上げた。私の頭と胸の内も含めたすべての色がぼんやりと滲んで暗い風景の中で、淡い花の色をした貝殻の艶やかな触感だけが、眩くて、泣けてくる。

 やっぱり、このまま、持って帰ろうか。

 握りこんだ掌の中の光を思って、私は逡巡する。希望のような桜貝と一緒に、この手の中に閉じ込めれば、終わってしまったはずの恋が、また命を吹き返すかもしれない。

 そんな幻想を嘲笑うかのように、カン、という間の抜けた音が、爪先にぶつかった。

 無表情で見下ろせば、そこにあるのは、半分砂に埋まりかけたキャンベルスープの缶である。

 白と赤の陽気なラベルが、馬鹿みたいに清々しく灰色の風景に映えた。

 センチメンタルな気分に浸りたい私の気持ちを瞬時に破壊した、幸福の象徴のようなキャンベルの缶に舌打ちをして、それを靴の裏で踏みつけた。

 と、中に何か入っているような、微かな抵抗があった。

 中身が入っているとは思えないから、十中八九、砂だろう。だけれど、爪先で揺さぶると、わずかに水の気配もする。

 満潮時に砂浜に打ち上げられたのだとすれば、潮に乗り損ねた魚か何かが、中に取り残されているのかもしれない。

 海側に向けて45度に傾いていた缶を、足先で真っ直ぐに戻す。

 ぽっかりと開いた缶の口は砂に塗れていたが、中にはやはり、水が溜まっている。その水面が、ぱしゃりと小さく跳ね上がって、驚いた私は屈みかけていた身体のバランスを崩して砂に手を突いた。くしゃり、と、桜貝が潰れた音が指の隙間で消えていく。

 あ。と思ったのは、ほんの一瞬だった。

 それよりも、キャンベルの缶の中で動いた影に気を取られ、砂まみれになった片手を伸ばして、缶に身体を寄せた。

 中には、思ったよりもきっちりと、缶の形になじんだ黒っぽいモノが詰まっている。ぬるりとした質感の丸い塊が水の中でぐるん、と動くと、一対の目玉が私を見上げた。

 まん丸で、白眼の部分は銀色にも見える。蠢く体表が、僅かに色を変える。たぶん、角度が変わって光の当たり方が変わったからなのだろう。

 そんな風に身体の色を変える生き物は。

「蛸じゃないから」

 缶の中から発せられた音に、びっくりして、反射的に蹴飛ばしてしまった。中身はやはり驚いたように、ぐるん、と一回転して、まん丸な目が避難がましく私を見た。とはいえ、表情は判らないので、こちらの思い込みかもしれない。

「蛸だと思っただろう。蛸じゃない」

 そんなに大事かというほど、キャンベルスープに収まった何かが言い募る。喋る蛸などいるはずもないのだから、言われなくても蛸じゃないことくらい、判っている。

 では、何かと問われれば、さっぱりわからない。

「じゃあ、何なの」

 思わず唇を突いて心の叫びが漏れてしまった。

「何かと問われれば、わからない」

 私の心を読んだのかと思ったが、違うのだろう。本人でさえわからないのならば、私にだってわかるものか。

「捨てに来たのか」

 問う声に、ゆるゆると握ったままの左の拳を見下ろした。暗い掌の空洞には、あの恋の光が隠れている。

「捨てるのならば、寄越せ」

「ええと、まだ、迷ってて」

「迷う、何を迷うのだ。こんな冬の日に海に来たのは、捨てたいからだろう」

「そうなんだけど、でも」

「未練があるなら、それも含めて置いていけ。海は懐が深い。迷いも痛みも、波が洗い流すだろう」

 私は視線を海に投げた。

 砂浜を舐めるように這い上がっては戻っていく白い波は、レースで縁取られたドレスの裾のようだ。右手の指の先から、潰してしまった桜貝の破片が、はらりと剥がれて砂に落ちる。まるで私の爪が失われたようで、慌てて指を確認するが、当然爪は白く冷えて張り付いたままそこにあった。あの日の、あの人の眼差しのように、冷めきった色をして。

 ああ、そうだ。やっぱり私は、馬鹿で愚かだ。

 失った恋も、温め直せばまたこの胸にしまえると思っていたが、恋とは相手があって初めて成り立つものだ。

 己ひとりでどれほど焦がれようとも、焦がれる対象を見失ったままでは、それはもう、恋ではなく妄執だ。現に、掌の中の恋の光は、もう、冷たくなってぴくりとも動かない。あれほどあたたかく、柔らかで、私を笑顔にさせてくれたはずの光は、今は色を失って、ただの冷たい石の塊だ。

 砕けた桜貝と同じで、無感動に砂浜に、埋めてしまえばよいのだ。

 ゆるり、と私の拳が、少しずつ開かれる。

「辛くなどないよ。海はたくさんの生き物の遺骸でできているからね。誰しもが、海に還るのさ」

 ざあああん。

 波が砂浜に乗り上げ、さざめきと共に砂粒を攫っていく。繰り返し、繰り返して、乾いた白い砂が水を含み、灰色に塗りつぶされる。

「簡単なことだ。ほら」

 しゃらしゃらと、波間で鳴るのは、水の泡か砂の叫びか。

「空に抱かれて砂に変わり果てるのも、素敵じゃないか」

 地平線は重苦しい灰色で、空と海が混ざり合っていた。あの中に、溶かしてしまえるのならば、それも悪くはないだろう。潮風を胸いっぱいに吸い込む。明るかった恋の光は海風に煽られて、まぜこぜになった胸の底から、灰色の靄が立ち昇る。裏切り、失望、怒り、嘆き、悲しみ。パンドラの箱の底には希望がひとつ残されていたが、それならば、私の胸の底に横たわったこれが、希望か。真っ黒で、とげとげしい、これが。

 掌が、ちくりと痛んだ。

 その哀しさに、私は思わず指を開く。大切に抱えていたはずの、恋の名残を包んだ黒い闇が、解かれていく。

 握っていた指の間から、希望の光が、零れていった。

 するりと逃げたそれは、ぽちゃん、という小さな水音を上げて、キャンベルスープの缶の中に落ちていった。

「あ」

 伸ばした指先が、追いきれずに空で躊躇う。

 缶の底の闇から、銀の目が、私を見て嗤った。


 気が付くと、私は暗くて狭い場所にいた。

 見上げた空は灰色で、水に揺れて滲んでいる。身体はみっちりと押し込められて、動こうにも、ぐるんとその場で回転するだけだ。

 哀しいような気もするが、それでいて、ひどく安心するようでもある。まるで、母の胎の中に戻ったみたいに。

 ぐるん、ぐるん。私は回る。

 灰色の空と、海の音が、交互に遠ざかり近づいてくる。もう、何も恐れずともよいのだ。

 失くした恋を嘆くこともなく、失くした身体を嘆くこともない。私の遺骸は海に運ばれ、やがて水に還るのだ。

「海は命のスープだからね」

 どこかで聞いた声が、私の詰まったキャンベルスープの缶を取り上げ、波に乗せる。

 しゃらん、と白い波が私の表を洗い、缶に満ちていく。冷たく、暗い水が、私を満たす。

 ああ、私は哀しかっただけなのだ。私をあたたかく包んでいた、あの恋を失って。

 波間に沈んでいく私を、砂浜から、私の身体が見送っている。その指には、手放したはずの指輪が、灰色の光を撥ねて、眩しく光っていた。

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