人魚の夢

篠岡遼佳

人魚の夢


 青い青い、海の底。

 光差すその場所に、石造りの家がぽつんと建っている。


 目の前をカラフルな魚の群れがよぎった。

 そこになぜか、傘を二本携えた人魚がいる。


 彼女は軽々と水底まで泳ぐと、波打つ金の髪を整えてから、緊張した面持ちで、その家のドアをノックした。

  

「どちら様かな、お姫様」

「わかっているなら、ドアを開けて?」

「仰せの通りに」

 返答した男は、ドアを開けると気取った仕草で一礼した。

 茶色の髪が揺れ、優しげな瞳が彼女を迎える。

「今日もよく来たね」

「みんなの目を盗むのが大変。ここは一応、危ないから」

「"夢と現"、その境だね。君たち幻想種が来られるのは、ここまでだ」

「勉強してるんだ、記憶はないのに」

「まあね、記憶がないから、思い出す代わりに、思い出を作っているのさ」


 軽くウインクして、彼は椅子を勧めた。


「……それでね、あのね」

「うん、わかってる。もう荷物は整えてあるし、後は、君の一言だけだ」

 細く息を吐き、彼女は少し哀しそうな笑顔を浮かべた。

「大丈夫かな。私で、できるかな」

 彼女はきゅっと傘を抱きしめた。

 水底よりも青い瞳が、潤んでいる。

「"人魚は願いの代償に、なにかをひとつ失う"」

「それが、幻想種の幻想たる所以ゆえんだね。現実では起こらないことも、君たちは起こしてしまえる」

「そう、だからあなたもここに居る」

「"地上に行けないこと"、"記憶がないこと"、"魔力がないこと"。

 三つの願いで、俺はここに縛り付けられている」

「うん、きっとね、きっと、あなたは……」

「ああ、罪を犯したんだろう。とても大きな」

 真剣な顔で彼は言うと、すっと手を彼女に差し伸べた。

「それでも、君は、俺を選ぶんだね」

「そうだよ。選ぶよ」

 彼女は微笑んだ。


「だって、あなたを想うと、胸が痛いの」



 二人は外へと場所を移した。

 持っていた傘を、一本彼に渡す。

 音を立てて傘を開くと、傘の下に水が入ってこない。

 息が吸える。それは、彼女の願いに最も必要なもの。


「"私と一緒に人間になって"」

「――ああ、君の魔法を、受け入れるよ」



 彼女の内側で、海の魔女の言葉がこだまする。

『傘を使うんだね。けれど覚えておいで、地上へ行くのなら、お前は罪人となるよ』

 そんなこと、なんだというのか。


 大昔の先祖のように、恋をしたなら海の泡になれればよかった。

 けれど、そうではない。


 生きるものは、みな魔力を持ち、幻想種は超越した魔法を使える。

 超越した魔法には代償が必要だった。

 自分なんて、一瞬のために消え去っていい。


 一瞬でいい。

 幸せになりたい。



 

 ――二人はそうして、地上にいた。

 

「記憶の封印、魔力の除去、水底への幽閉」

 彼は、深紅の瞳で彼女を見つめた。

「ああ、やっぱり……」


 苦しくなっていく息の下、彼女は胸を押さえながらうっとりと微笑んだ。


「あなたは覇者、世界を統べるもの。

 人にあだなす、封印されるべき存在……」


「"魔王"」


 彼女は膝からくずおれた。

 彼はその上体を支え、彼女の声を聞こうとする。


「だけど、いいえ、だから、あなたが好きよ。私はあなたに、恋をしてしまった」

 人魚は恋から逃げられない。

 それがどんなものだとしても。

「あなたは生きて、生きて、生きて……」

 彼女はうっとりと微笑んだ。

「――私を忘れない」


 彼女は唇に歯を立て、プツンと血を流した。

 そして、最後の力を振り絞り、ぶつけるように彼に口づけ、その血を流し込んだ。


「さよなら、愛するあなた。

 人魚の血は、不老不死の力。あなたは最上の魔王になる。

 そして、この世界を、空も、地上も、海も、何もかもあなたが……」


 彼女の腕が、力を失って滑り落ちた。

 彼は、彼女のまぶたを閉じ、もう一度口づけをした。

 柔らかく、甘い血の味を覚えるように、長く。

 心臓が揺らぐ。針で刺されているようだ。


「胸が、痛い」 



 ――――そうして、人魚の胸の痛みは、魔王の胸に、消えずに残った。





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人魚の夢 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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