月夜にあなたがくれたもの

ナツキふみ

月夜にあなたがくれたもの

 その家に引っ越してから、アキの新しい生活が始まった。


 街の、ちいさな丘の上にあるアパート。


 丘の周りをぐるっと囲むように整備された坂道を登ると、その建物にたどり着く。


 ちょっと古いけれど、洋館のようなおしゃれな外観をしていて、ひと目見たときに「ここで暮らしたい!」とアキは思った。


 駅から距離があるからなのか、家賃が安い点も魅力的だったけれど、それ以上に、その部屋には、アキが好きだと思えるところがたくさんあった。


 玄関の扉が、スモーキーなグリーンだということも。


 小ぶりなキッチンの壁にはシンプルなタイルが貼られていて、目線の高さには何枚か、花模様のタイルが使われていることも。


 ベランダから一望できる、街の眺めも。


 どれもが、アキの好みにぴったりだった。


 引っ越しの日。

「さあこれからひとりで暮らすんだ」と思いながら窓をあけてベランダに出ると、さあっと夜風が吹き抜けた。


 ぽつぽつと灯る、街の灯りがずっと遠くまで見える。

 そのひとつひとつが、これからの日々を照らす希望のようで、アキはほんとうに、嬉しかった。


 新しい街での生活。はじめて見るお店。

 これまでと違う日々。

 アキにはそれが嬉しくて……だけどときどき、どうしても、胸が痛んだ。

 この街に来る前の生活を、ふと思い出して、急に呼吸が出来なくなるような気持ちに襲われる。

 心がざわざわと、音を立てる。


 しかたないこと。少しずつ、少しずつ、慣れていくしか、ない。

 自分にそう言い聞かせる。


 だけど、どうしても、胸のさざめきがおさまらない。

 そんな気持ちになる夜は、眠ろうとしても、眠気が遠ざかっていくばかりで、苦しくなった。

 気持ちを紛らわせたくて、ベランダに出て夜の街並みを眺めていると、とても綺麗で……ずっと眺めていたいとさえ、思う。

 なのにどうしてか、涙がにじんで、しまうのだった。



 そんな日々を過ごしていた、ある日。

 仕事を終えてから帰宅すると、部屋に異変が起きていた。


 アキがそれに気づいたのは、ふうっと息をついて疲れた身体をベッドの上に投げ出して、しばらく経ってからだった。


(人の声……?)


 はじめはどこか、他の家の話し声が聞こえてきているのかと思った。


 でもその声は、カーテンの向こう、アキの部屋のベランダから聞こえてるような気がして……。

 ぞわり、と背筋に悪寒が走る。


 え、泥棒? 強盗だったらどうしよう……?


 どくん、どくん、と心臓が早鐘を打つ。


 警察に電話したほうがいいんだろうか……震えながらカーテンのそばへ移動し、耳をそばだてる。


(……?歌って、る?)


 ちいさな、声で、ベランダにいる人物は確かに歌を歌っていた。


 女性の声だった。やわらかで、やさしい声。


 言葉はよく聴きとれなかったけれど、はじめて耳にするその歌の旋律は、なんだかとても、心地よかった。


(どんな人が、歌ってるんだろう……?)


 むくむくと胸に湧き上がる好奇心を抑えられなくて、アキはそっとカーテンの隙間から窓の外をのぞく。


 その刹那、息が、とまるかと思うくらい驚いた。


 今宵は月夜。


 ぷっかりと空に浮かぶ丸い月を背景に、ひとりの女性が歌っていた。


 箒にまたがり、 



◇ ◇ ◇



「あらあら。ごめんなさい、うるさかったかしら」


 その女性はアキに気づいて、そう言った。


 長い髪が、風にふわっとゆれる。


 黒かと思ったその髪は、月光に照らされると淡くきらめき、青のような、緑のような、不思議な色味を滲ませる。

 きらりと浮かぶその色彩は、まるで孔雀の羽根のよう。


 上品なグレイの、ちょうど、絵本に出てくる魔女がかぶるような三角帽子とマントを身に着けて、アキの部屋のべランダの前で、彼女は空に浮いていた。


「え、あの、その……」


 アキはびっくりして、言葉を継ぐことができなかった。


「ここね、すっごく眺めが良くて。今晩は月も綺麗だし、つい気分がよくなって歌っちゃった」


 ぺろっと舌を出して彼女は言った。


「じゃあね――」


「あ、あのっ、ま、待って!」


 ガラッと窓を開けて、アキは彼女を引き止めた。


 おどろいたようにこちらを見返す瞳は、金色こんじき


 まるで月の光のような、やわらかでやさしい色だった。


「あの、あなたは……魔女、なの?」


 問われた女性は、一瞬、戸惑うようなそぶりを見せた。


 けれどすぐに、ふわりと笑ってアキを見る。


「そう。魔女のクレアよ。こんばんは、おじょうさん」 


◇ ◇ ◇


 クレアと名乗ったその女性は、ベランダに降り立って、アキとすこし話をしてくれた。


 彼女の話によれば、ここからずっと遠い場所に、魔女や魔法使いが暮らす世界が、あるのだという。


 満月の夜、彼女たちの世界とこちらの世界をつなぐ"道"がひらく。


 その道をたどって、時おり魔女や魔法使いたちは、こちら側へとやってくる。


「まぁ、観光みたいなものかしらね」


 ふふっと可愛らしく笑って、クレアが言った。


 小柄なアキよりも彼女は頭ひとつぶん、背が高く、手足もすらりと長かった。


「わたしたちの暮らす世界と、ここは何もかもが違ってて、おもしろいわ。ときどき、こちら側で、人の暮らす街を見るのが、わたしは好きなの」


「この街にくるのは、はじめて、なの?」


 アキはどきどきしながら尋ねた。


 彼女が魔女だということもまるで夢みたいでそわそわしたし、月の光に照らされたクレアは、とてもきれいで、なんだか見とれてしまいそうだった。


「そうよ。次の満月の夜まで、この街のいろんなところを見てみようと思ってるの」


 次の満月の、夜まで。


 クレアのその言葉に、アキは思わず、尋ねていた。


「あの、また、私と会ってくれる……?」


 クレアの瞳がアキを見返す。


 髪と同じ色の睫毛に縁取られた目の色は、やっぱり月光のようでとてもきれいだった。


「ええ、いいわよ」


 クレアがふわっと笑う。


 もしも月がほほえむのなら、こんなふうにやさしく笑うんじゃないかと、アキは思った。


◇ ◇ ◇


 それからアキの部屋のベランダに、クレアはときたま、訪れた。

 アキは、ベランダでクレアと並んで街の明かりを眺めながら、いろんな話をする。


 彼女が住む世界の話も、教えてもらった。


 ルビーの丘や、ラピスラズリが果実のように実る森。

 せせらぎが、まるでピアノの奏でる音に似ている川。


 3つの太陽が、空に順番に昇ること。

 1番目の太陽は、群青に。

 2番目は、黄金こがね

 3番目なら桃色に、天空を染め上げるのだという。


「ふしぎ……でも、そんなに色々、私に話してくれても、大丈夫なの?」


 あんまりにクレアが、魔法の世界の話をするすると語ってくれるので、アキは一度、心配になってクレアにたずねてみた。


「問題ないわ。だってたとえばあなたがこの話を他の人にしたって、だあれも信じないし、夢物語だと思うでしょ」


 それに、もしかしたら私も嘘ついてるかもしれないわよ?と、クレアはいたずらっぽく笑う。


 そう、たとえそれが嘘だとしても、アキには確かめる術がない。


 だから。いまはただ、クレアの話を楽しみたいと思った。


「魔法が使えるってどんな感じなの?」


「うーん、そうねぇ……。それは『呼吸ってどんな感じ?』って訊かれるくらい、難しい質問ね」


 生まれながらに。息をするように。


 彼女の世界には、魔法があって。


 アキにはそれが、羨ましかった。


 やわらかな、夜の風がふく。


 クレアのとなりで見る街の灯りは、いつもとてもやさしくて。

 夜の風も、ずっと遠くまで続く家々のあかりも、クレアの可愛らしい笑い声も。

 アキはその時間の、ぜんぶが大好きだと、心から思った。


◇ ◇ ◇


 だけど、楽しい時間は、本当にあっという間に過ぎてしまう。


「次の満月の夜」は、すぐにやってきた。


 今夜が、クレアと話せる最後の日だ。

 空には、きれいな丸い月がかかっていた。


「ねえ、クレア」


 いつもみたいなおしゃべりをして、ふと会話が途切れたとき。

 アキはすっと息を吸って、切り出した。


「歌を、歌ってくれないかな?」


「……歌?」


 クレアの、金色こんじきの瞳がアキを見る。


「うん。はじめて会ったときに、歌ってた、歌。」


 あのとき、窓越しにかすかにきいた歌声は、なんだかとても綺麗で。

 どこか心地よさを覚えた旋律と一緒に、アキの心にずっと残っていた。


「えー……あんまり、上手じゃないから、恥ずかしい、けど」


 クレアは目をそらして俯いた。ちょっと頬が赤いような気がしたけれど、すぐに肩にかかっていた髪がさらりと落ち、クレアの表情を隠してしまう。

 数分、クレアはそのまま沈黙し、さっと顔をあげた。


「――うん。でも、いいわ。アキにだけ、特別に、ね」


 すうっと息を吸った彼女の唇から、歌が、こぼれはじめる。


 透明で、やさしくて、のびやかな声がひびく。

 紡がれるその旋律は、空のむかってふわりと広がってゆく。

 やわらかな月明かりが、広がる音を、やさしく照らして。

 音の粒、ひとつひとつに、淡いひかりが灯るようだと、アキは思った。


(……きれいな、声。)


 アキは目を閉じる。


 その歌の言葉は、きいたことのない言語の響きで、アキには意味を理解することができなかった。

 それでも。

 クレアの声は、ほんとうに綺麗で。

 彼女の歌う音楽の旋律は、やっぱりとても心地が良くて――どこか懐かしいような、不思議な気持ちになった。


 なぜだろう。閉じた目の端に、涙がにじんで、きてしまう。


 やがて、最後の音まで丁寧に、やさしく夜空に放って。

 歌い終えたクレアが、ほう、と息をついた。


 アキは、ぱちぱちぱちと、手が痛くなるほどに拍手した。

「クレア!すごい!すごい!とっても素敵!」

 まるで子供の感想みたいだと自分でも思ったけれど、本当に素直に、思ったことを伝えたかった。


「やだ、アキ、そんな……大げさよ……」


 そういってクレアは頬を赤らめる。肩をすぼめてもじもじと照れくさそうにしていたけれど、やがてふふっと笑って「……でも、嬉しい。ありがとう」と言ってくれた。


 笑い合って、お互いを見て。

 ふたりとも、なんとなく街の明かりに視線をすべらせて。

 ふと、沈黙が、舞い降りた。


 街の明かりが、ずっとずっと遠くまで、続いている。


「あの、ね……」


 ぽつんと、アキの口から言葉がこぼれた。


「わたし、この街にくる前に、一緒に暮らしてた人が、いたの」


 ずっと、誰にも話せなかったこと。

 でも、クレアに、きいてもらいたいと思った。


 クレアは「うん」と相づちを打っただけで、他には何も言わなったけど、アキの話に気持ちを向けてくれているのが、気配で伝わった。


「その人のこと、大好きだった。仕事が早くおわった日は、ふたりで一緒にごはんをつくったりして。ゲラゲラ笑って話しながら、これおいしいねーまたつくろーなんて話をしながらご飯を食べて。休みの日も、どこかにでかけなくたって、ただ一緒に家にいるだけで、嬉しく、て」


 だらだらと部屋で過ごしながら、好きな映画のDVDを、何度も一緒に見たり。

 ふたりとも好きな漫画の新刊を、それぞれに仕事帰りに本屋で見つけて、買って帰ってから「やだ、2冊になっちゃった」なんて言って笑ったり。

 今日のこと、明日のこと、週末にしたいこと……いろんな話をしながら、手をつないで、眠ったり。


 いろんな瞬間の記憶が、胸の奥からよみがえっては、アキの呼吸を苦しくさせた。


「なんでだろうね、お互いに、大好きだって思ってるはずなのに。何年も一緒にいるうちに、いろんなことが噛み合わなくなってきちゃって。……好きなのに、これからも、一緒にいたいと思うのに、そう願うのがだんだん、苦しく、なってきちゃって」


 もう一緒に暮らせない、と。

 それが、何度もふたりで話し合って出した、結論だった。


「はじめはね、たとえ誰に反対されたって、認められなくったって。一緒にいられたら、それでいいって思えてた、はず、だったんだけどな……」


 ぽろぽろっと涙がこぼれてしまう。


 ずずっと鼻をすすって、アキは続ける。


「いや、でもね、未練があるとか、そういうんじゃ、もうなくて。もう、どうしようもないのはわかってたし。ただ……」


 ただ、ときどき、どうしようもなく、苦しくて。


「いろんなことを思い出してしまうと、夜、眠るのが、怖くって」


 声が、ふるえてしまいそうになる。


 同じ街に住み続けるには、あまりにも思い出が多くて。

 だったら、全然知らない街に行こうと思った。

 ここでなら、新しく日々を始められると思った。


 好きな人といるはずなのに、苦しさを感じてしまっていた日々は、とても、とても辛かった。

 だから。そこから逃れられることは、悲しかったけれど、嬉しくて。

「ひとりで暮らす」ことに、わくわくしている、自分も確かにいた。


 なのに。


 一緒に暮らしてたときの楽しい時間。

 笑顔や、声や、ふれたぬくもり。

 そういうものが、まるでそのまま目の前にあるみたいな。

 そんな夢を見てしまったあとに目覚める朝は、切なくて切なくて、心が引きちぎれてしまいそうだった。

 ぽっかりと胸に穴があいたみたいで。

 眠るのが、怖いと思う夜さえ、ある。

 あんなふうに胸が痛む朝を迎えたくないと、思ってしまう。


「眠るのが、怖い……か」


 クレアがぽつりとつぶやいて、月を見上げた。


「うん……」とアキはそれに応える。


 クレアと出会って。

 一緒におしゃべりをしたり、笑ったり。

 その時間が本当に楽しくて、ふっと気持ちが軽くなったりもしたけれど。

 明日からは、彼女とも、もう会えない。

 それを思うと、アキは、心臓がぎゅっと音をたてて痛むような、気さえした。


「そうか、そうね……」


 クレアがうんうんと頷きながら、つぶやいた。


「ずっと、つらかった、ね。アキ」


 ぽたん、と。クレアのその言葉は、アキの心に落ちて、やさしい波紋をひろげていく。


 そしてクレアはふと、空にかかる月を振り仰いだ。

 まんまるの、淡いひかりを放つ、月。


「じゃあねー……歌を褒めてくれたお礼に、わたしがアキにひとつ、いいものをあげちゃいます!」


 急におどけた口調で、ふふっと笑ってクレアは言った。


「え?」とアキが涙声で呟くと、「いいからいいから、コップに水を注いできて」とクレアに言われた。

 透明なグラスがいいわ、と言うクレアの言葉に従って、アキは、キッチンの蛇口から水道水を注いで、ベランダに持っていく。


「じゃあね、そのグラスを空にむかってかかげてみて。月がそのグラスごしに見えるように」


 言われるままにアキは、透明なグラスを、空にかかげる。


 グラスごしに、夜空に光る月をみると、まるで水のなかに月が揺れているよう。

 とても綺麗だった。


「よく見ていて。目を、はなさないで」


 耳元で、クレアの声がした。やさしく、ひそやかな声。


 じっと、グラスを見ていると、淡い光をたたえる月の輪郭がじわりとにじみ、シュワ……シュワ……とかすかに泡が生まれ始めた。


「え……?」


思わず声がもれる。


 グラスの中で、だんだんと水中に生まれる泡は数を増やし、シュワシュワワワと音を激しく奏で始める。


 ブク、ブク、と大きな泡も生まれはじめ、月のすがたは泡に包まれ見えなくなっていく。


 ブクブクブク……!


 そして唐突に、とぷんっ!と大きな音をたて、泡とともに月が溶けた。


 グラス越しに見えていたはずの月が、ない。


 手のなかにあるのは、透明な水の入ったグラスだけ。


 あたりには、静寂が満ちていた。


「……!月が!」


 大きく息を吐きながら、アキは声を上げる。息も、声も、震えているのが、自分でもわかった。


「だいじょうぶよ、ほら」


 クレアの優しい声がする。


 彼女は伸ばした手を、グラスをかかげたアキの手に添えて、すっとその位置を下げさせた。


 月は変わらず、天上で淡くやわらかな光を放っていた。


「え、なんで、どうして……」


 アキが戸惑っていると、クレアがふふっと笑う。


「いま、グラスにとけたのは、月の影。月にひかりをほんの少し、わけてもらったの。だから、だいじょうぶ。空から月がなくなったりは、しないわ」


 アキはグラスを胸の位置まで下ろし、そっと中をのぞく。


(月のひかりが、とけている……?ここに……?)


 何の変哲もない、ただの水に見える。


「よく、見て」


 頭上から降るように、クレアのやさしい声がした。


 アキは目をこらす。


 そして、気づいた。


 たっぷりと夜の闇を溶かして揺らめく透明な水のなかで、細かな、本当に小さな光の粒がいくつもいくつも、ふわり、ふわりと揺れていること。


 それは、淡くて、いまにも消えてしまいそうな光だけれど。


 とてもやさしい、まろやかな光のカケラだった。


 なんだか、いつまででも眺めていたいような気がして、アキは、ほう……とちいさな息をもらした。


「さあ、飲み干して」


 クレアの声。


 背中に、彼女の手が添えられてる。なんて、あたたかい手なんだろう。


 アキは促されるままに、グラスに口をつけた。


 すーっと、流動体が、アキの口からのどの奥へと流れてく。


 ほんのりと、爽やかな風味が鼻孔をくすぐり、かすかな甘みが舌をやさしく撫でていった。


(不思議……さっきまで、ただの水だったのに)


 目の前でこんなにも信じがたいことが起きているのに、恐れや、不安は、どうしてか感じなかった。


 ただ、とびきり澄んだ、きれいなものが、のどをすべり落ち、アキの身体に入ってきたことだけはわかる。


 ふわりと、体内に、ちいさな光が生まれたような不思議な心地がしていた。


 なんだか、急に、ぼんやりとしてきた。


 ふわりとした綿菓子が、口のなかでするっと溶けてなくなってしまうような、不思議な気分。とても、心地が良い。


「……だいじょうぶよ、アキ。ゆっくり、おやすみなさい」


――クレアの声が、どこか遠くで響いた気がした。



 翌朝、目が覚めると、アキは自分のベッドで寝ていた。


 クレアと一緒に、ベランダにいたはずなのに。


 ものすごく、気分が良かった。こんなにたっぷりと眠ることができたのは、本当に久しぶりだった。

 ふわふわと、やわらかな繭にくるまれているような、安心感が胸を満たす。


 カーテンの隙間から、朝のひかりが差し込んでいた。


 そっと、窓辺に歩み寄る。

 カラカラと窓を開けると、やさしい風がふきこんできてアキの頬をなで、ふわりとカーテンを揺らした。


 まだ、太陽がのぼりはじめて、まもないころ。


 遠くの方に見える家は、朝もやに包まれ霞んで見えた。

たくさんの家や建物が、ずっと向こうまで並んでいて、家々の屋根が朝のひかりをやわらかに受け止めていた。


 ブロロ……と音がして、ベランダからのぞいてみると、丘の下の道を新聞配達のスクーターが走っていく姿が見えた。

 犬と一緒に散歩をする人や、ジョギングする人の姿も、ちらほらと見える。


 こんなふうに、この街では朝がはじまっていくんだと、アキは思った。


 そして、くるりと向きを変え、部屋のなかをのぞきこんだ。


「……さて」


 今日はとても、気分がよかった。

 だから、美味しい朝ご飯をつくって、食べたいな。


 卵と牛乳たっぷりのフレンチトーストを、焼こうかな。

 野菜サラダと、あったかいスープもつけて。


――ひとりでも、自分が「嬉しい」と思えるご飯を、つくりたいと思った。


 そして、アキはもう一度、ふりかえる。


 昨夜いっしょにいてくれた、クレアの姿はどこになかった。

 ただ、静かに目覚め始めた街と、あかるくてきれいな空が、どこまでも広がっていた。



◇ ◇ ◇



 あの日を最後に、アキがクレアの姿を見ることはなくなった。


 窓をあけて、何度も名前を読んでみたけど、だめだった。


 次の満月の晩に帰る、と言っていたとおり、やっぱりあの日、彼女は自分のいるべきところへ帰ってしまったのだろう。

 だけど、彼女は、最後にとびきり素敵な魔法を、アキにプレゼントしてくれた。


 魔法……そう、アキはあの日に起きたことを魔法だと、確信していた。


 あれから、ぐっすりと眠れる日が増えた。

 目覚めると胸が苦しくなるような、切ない夢もだんだんとみなくなって、痛みとともに思い出していた出来事も、時間をかけて、おだやかでやさしい記憶へと姿を変えた。


 降り積もる時間が解決してくれた部分も、きっとある。

 でもアキは、クレアのおかげだと、今でも強く、思ってる。

 いつか、また彼女と会って、あの日のお礼が言えたらいいのにと、思う。


 あのころのように、どうしようもない痛みに胸が疼くわけではないけれど。

 なんとなく目が冴えてしまって、上手に眠れない夜というのはときどき、ある。

 そういうとき、アキは窓辺で本を読むようになっていた。


 目で文字を追いかけながらふと、窓の外へと意識を向ける。

 いつかのように、クレアの歌がきこえてきたら、いいのに。

 それから本を置いて、そっとカーテンを開けて、クレアがいないか探してみるのだ。


 もうあれから、何年も経ったのに。

 やっぱり窓の外には誰もいなくて、ふっとアキはほほえんだ。


 窓の外には、満月が浮かんでる。


 はじめてクレアと会った夜と、同じように。

 あわく、やわらかなまるい光が、夜空を照らす。


 アキは、カラカラと窓を開けた。


 手に持っていたグラスには水が入っている。

 空にかざして、グラス越しに月を見る。


 あれから、何度も、こうやってあの夜と同じことをしようとしたけれど。


 月のひかりが水に溶けたりなんてことは、二度と起こらなかった。


 それでも。


 眠れない夜に本を読んだ後、月が出ている日には、こうやって月光にかざした水を飲む。

 月のひかりをほんのちょっぴりわけてくださいと、心のなかで呟いて。


 本当になんとなくだけど、こうすると、よく眠れる気がしていた。


 こくん、とグラスの水を飲み干して、月をみあげた。


 月は、変わらずそこで光っていて。


 どこかで同じ月を見ているクレアが、ふふっと笑ったような。


 そんな気が、した。










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